Blog サイトトップ

7.二つの奴國

―其餘旁國の国々の出自―

二つの奴國

三国志魏書東夷伝の倭人の条(以後倭人伝)には、邪馬臺國に至る行程を含む倭人の国々の記述があります(以後里程)。 そこには全部で三十か国の名がありますが、その中に奴國が二つあり、議論を集めています。 本稿ではこの二つの奴國に焦点を当てます。

この問題に対する一つの回答は、写本の誤写や版本政策時の誤刻、そして脱字や余分な文字が増えてしまう衍字のような、原本テキストからの写し間違いを疑うことです。 長年伝写されてきた史料であるため、その可能性は排除できません。 ここではひとまず実際に重複があったと考えて、考察を進めます。 そのことが逆に写し間違いであるかどうかに対する、回答を与えることになると思うからです。 つまりなんらかの妥当な理由が見つかれば、写し間違いなどの可能性を排除することも可能になるでしょう。

まず最初の奴國については、朝鮮半島から二度海を渡り、その後陸路になるとの行程の記述と、後世地名との一致から、博多湾岸であることが定説になっています。 博多湾岸の古代地名儺縣那津に比定され、一般的に建武中元二年(西暦57年)に後漢に朝貢した倭奴國と考えられています。 福岡県春日市岡本には、その紀元前の王墓と思われる須玖岡本遺跡も見つかっています。 しかし二番目の奴國については、国名以外の情報がなく、比定は事実上無理です。 唯一の手掛かりは、最初の奴國の倭名抄での地名が、那珂郡となっていることですが、倭名抄の那珂郡、那賀郡などのナカ地名は、日本全国に多数あり、特定できないからです。

ここで三国志の倭国記事に見える、倭人の国名の特徴に関して調べてみましょう。

1.對馬國
   2.一支國
   3.末盧國
   4.伊都國
   5.奴國
   6.不彌國
   7.投馬國
   8.邪馬壹國
   9.斯馬國
   10.已百支國
   11.伊邪國
   12.都支國
   13.彌奴國
   14.好古都國
   15.不呼國
   16.姐奴國
   17.對蘇國
   18.蘇奴國
   19.呼邑國
   20.華奴蘇奴國
   21.鬼國
   22.爲吾國
   23.鬼奴國
   24.邪馬國
   25.躬臣國
   26.巴利國
   27.支惟國
   28.烏奴國
   29.奴國
   30.狗奴國

5番目と29番目の同じ奴國が本稿で言う重複です。 注目するのが、倭人伝地名に多数ある、おわりの地名です。 全部で三十の国名の中、七の国名が終わりです。 また二つの単独の奴國も入れると、九の国名が関連しています。 このことから共通の地名用語のの存在が指摘できます。

博多湾岸の奴國が後のナカ地名に関連することから、これら多量の奴を含む地名の多くが、ナカ地名に関連する可能性が疑われます。 問題は七つある終わりの国名が、どのようにナカと結びついているのかです。 言い換えればに冠せられた語は、いったい何をあらわすのかです。 それが分かれば、単独の奴國に関しても、理解することができるでしょう。 問題はを含む九の国名のうち、定見として後世の地名に結びつく地名が、最初の奴國しかないことです。 の前にある語の意味を理解するためには、そのような国の一つを比定する必要が或るのです。

しかしを含む国名の内、最初の奴國と最後の狗奴國を除くと、国名だけしか分かりません。 国名だけから比定するには、ユニ―クな地名である必要があります。 奴國のような短い地名ではユニ―クさを担保することが難しくなります。 比定を狙うのであれば、長くて聞きなれない地名が有力になります。

漢字の音価について

地名を比定することは、その地名を後世の地名と比較することですが、そのためにはその文字でどのような音をあらわしたかをまず評価する必要があります。 漢字の発音は時代とともに変化してきたことが知られており、この時代の読みを調べることから始める必要があります。 古い時代の漢字の発音は、中国の文献史料によることになります。 古代中国では漢字の読みを漢字で表現する方法がありました。 漢字の音は頭子音を聲と言い、それ以降をまとめて韻と言いました。 反切というこの方法は、ある漢字の音をそれと同じ聲をもつ漢字と、同じ韻を持つ漢字の組で表したもので、漢字音の相対的な関係を示します。 反切をもとに六世紀の終わりごろ、その当時の都とその周辺のある時代幅の漢字の発音を分類した、切韻という書物が作られました。 切韻は漢字の発音分類表なのですが、これをもとに現代中国方言や、外国語の音訳資料、周辺国家に伝わった古い漢字音、そして音声学や比較言語学の知識をもとに、発音を推定したのが中古音と言われるものです。 中古音は仮説であり、いくつかの学説はありますが、音価については概ね似たような結果を与えています。 中古音を日本語的に丸めると、日本呉音に似た発音となります。

中国の詩である漢詩では、フレ―ズの特定の部分の発音を合わせることによって、語調を整えます。 これを押韻と言いますが、切韻以降の押韻は切韻ないしそれ以降の派生した韻書と呼ばれる書物をもとに行われることが多くなりました。 ところが詩経という、春秋戦国期の漢詩を集めた書物に収められた詩では、切韻では説明できない押韻が見られることが知られていました。 そこで押韻と中古音、そして周辺の関連する言語との比較言語学的な考察により再構成したのが、上古音という仮説です。

三世紀は上古音の時代より遥かに新しく、中古音よりは古い時代にあたります。 中間的ないくつかの時代に関しても、詩の押韻や漢訳史料をもとにある程度の音価の再構成が行われています。 倭人伝に見られる音訳の内、例えば末盧國が日本書紀の末羅縣であれば、の音価は現代日本語のの音に近く,これは上古音的になります。 また奴國が日本書紀の儺縣に相当するとした場合、音価となりこれは上古音的になります。 卑奴母離ヒナモリと読む場合も同様です。 ところが王力などの有力説では、これらの漢字がラ・ナと読めるのは、前漢の時代であるとされます。 ほかにも倭人伝では、一支を壱岐に充てる場合の、と読む読みも上古音的とされます。 邪馬臺國の官名彌馬獲支においても、獲支の使い方からの末尾子音のkにかかる、いわゆる連合仮名的使い方から、に対しての様な上古音的な音価が想定できます。 いちど固有名詞に漢字が割り当てられると、慣用的に使い続けられる傾向がありますから、魏の時代の史料に古い音価が現れること自体はそれほど問題ではないのですが、有力な説では魏の時代は中古音的音価が優勢であったと考えられますから、里程のほとんどすべてに古い音価が現れることは不自然なことです。

この原因として考えられるのが方言音の存在で、現代中国においては互いに意志疎通できないぐらいに方言音が盛んですが、当然古代においてもそのような状態であったと思われます。 しかしそれでは広大な帝国を治めることは難しいので、標準語の必要性が出てきます。 中国に置ける標準語の存在は、十八世紀に中国を訪れた西洋人が記録しています。 古代においても、中央で認められるべき文学作品や、中央政権に対する報告書は、標準語を意識して書かれました。 切韻も中央とその周辺の音価分類表で、そのため音価を推定できるのは中央の音価になります。 朝鮮半島ではかなり癖のある方言が行われていたらしく、楽浪や帯方の発音を受け継いだと思われる、百済系漢字音が日本の古い金石文や、推古期遺文と呼ばれるものに残されていて、そこには呉音漢音では解釈不可能な、上古音的音価がよく見られます。

倭人伝の音訳文字を評価するにはこの辺りのことを、考慮してゆくことが重要になります。

華奴蘇奴國の比定

最初の節でみたように、比定するには短い地名では無理があるため、まず倭人伝の国名のうち最も長い、華奴蘇奴國を取り上げてみたいと思います。 森博達氏は日本の古代(1)倭人の登場に収録された倭人伝の地名と人名の中で、倭人伝の音訳文字に関して分析し、その性質に上代日本語と共通するものが多いことを示しました。 華奴蘇奴國についてはを中古音的に評価すると、上代日本語のオ列甲類に相当することになり、オ列甲類が連続しないと言う上代日本語の特徴に反することになります。 このためこの二字はより古い上古音的に評価し、それぞれと考えられるでしょう。 これは奴國国と読む方法に従うことにもなります。 森博達氏の研究によると、特に其餘旁國以後の二十一の国々(以下其餘旁國)の国名の漢字には、上古音的音価が強く出ているとされます。

問題となるのがですが、これはと頭子音などの分類が同じになります。 主母音は切韻をもとに唐代に作成された、韻図という日本語の五十音図に相当する図では、二等韻という分類での一等韻とは違いますが、も二等韻ですから、と読むのが自然でしょう。 そうすると華奴蘇奴は、ワナサナと読むことになります。 問題の奴國の前に冠される語は、ワナサと言うことになります。

古代地名大辞典や大日本地名辞書によって調べると、ワナサに関しては下記の候補が挙げらます。

1.播磨国風土記の美嚢郡志深里の由来伝承
   朕於阿波国和那散所食之貝哉

   2.出雲国風土記の意宇郡来待川条
   和奈佐

   3.出雲国風土記の大原郡船岡山条
   阿波枳閉委奈佐比古命。曳來船則化是也。故云船岡

   4. 丹後国風土記
   和奈佐翁、和奈佐

1のワナサは阿波の国の海産物の産地を指しています。 2と3の出雲のワナサは阿波枳閉(阿波きへ)とあるように、本来阿波が起源と思われます。 最後の丹後国風土記のワナサに関しては、折口信夫氏や谷川健一氏によれば、本来は阿波にその起源があるとされます。

徳島県南部に式内社和奈佐意富曽神社があります。 萬葉集註釋に引く阿波国風土記にある奈佐の浦は現在の那佐湾にあたると言い、阿波学会研究紀要によれば、和奈佐意富曽神社も慶長九年以前には那佐湾近くにあったとされます。 和名抄の阿波国那賀郡和射(わさ)郷もおそらくその遺称地であり、阿波国那賀郡南部、後の海部郡一帯でしょう。

ワナサを阿波南部に比定することに関して、三世紀倭国を代表する三十ヶ国のひとつにしては、その地名があまり知られていない事に疑問を抱かれるかもしれません。しかしワナサは現存するものだけでも三つの風土記に登場します。 播磨国風土記も出雲国風土記も海産物や船のように海に関する地名として取り上げていることは、この地名が古代において海に関連してよく知られた地名であったことを物語っているのでしょう。 ワナサが有名でないのは古事記や日本書紀に取り上げられていないからであり、それは二書が中央の歴史書であることに理由を求められるのではないでしょうか。 倭国がまだ数多くの国々の集まりであった時代の構成国の国名リストに載る地名が、中央集権を成し遂げて後の中央の史書に記されておらず、地方に関して記した書に表れるのは考えてみれば不思議なことではないと思います。

ただワナサの和名抄における遺称地を阿波国那賀郡和射郷とした場合、ワナサの想定地は阿波南部の阿南海岸沿いに求められ、このことが別の疑問を引き起こします。 すなはちこの地域はあまり弥生遺跡/前期古墳時代遺跡が豊富ではなく、やはり三十ヶ国のひとつとしては不足なのではないかと考えられるのです。 ここでまさにこの地域が古代の那賀郡の一部であったことを指摘できます。 徳島県南部の古代の那賀郡にあたる那賀川流域には弥生を含む古代遺跡が多くあり、有数の銅鐸出土地域です。 この地域は日本書紀允恭紀に長邑として表れ、平城宮出土木簡にも阿波国長郡坂野里百済部伎弥麻呂と表れるように、字をもって表記された地域です。 上代語に付いては、清濁はしばしば入れ替わるため、これはナカ地名でしょう。 北部九州の奴國に関して考察したように、これはもともと地名だったのではないでしょうか。

つまり華奴蘇奴國とは、ワナサと言う海産物の産地、ないしは海人族のナカの国ではないかという事になります。 おそらく倭名抄のナカ地名は、古代において全て奴國であったと考えられます。 その前に冠した華奴蘇のような語は、それらの国々を区別するためでもあり、中国側に区別してもらうためでもあったのでしょう。 ここからそのような形容の付かない単独の奴國は、他から区別する必要のない存在だったということになります。

博多湾岸の奴國は、弥生後期には日本列島最大の金属工業の中心であり、終末期の比恵・那珂遺跡は同時期の最も都市的な遺跡でもあります。 まさに奴國の中の奴國であり、何らかの説明を付ける必要がなかったのでしょう。 ということはもし写し間違いなどでなければ、二番目の奴國は最初の奴國の重出であるということになります。 なぜ重出が起こったのか、それを考えるためには、倭人伝里程の成立プロセスを考える必要があります。

倭人伝里程の成立プロセス

漢字の音価についての節で触れたように、倭人伝里程の音写文字には、少なくとも一部は方言が使用されていることは間違いないだろうと思われます。 これははもともと里程が地方文献として成立したものであることを意味します。

ここで再び注目するのが、里程に大量に表れる字です。 華奴蘇奴國の比定の節で述べたように、森博達氏によれば其餘旁國には、上古音的な音価が強く出ているとのことです。 すると多くの終わりの国名では、のように読まれることになるでしょう。 同じ終わり形式の、狗奴國でもそうなるでしょうし、後世地名として博多湾岸の那珂郡が想定される最初の奴國でもそうです。 つまり倭人伝では、古代日本語のを表すのに、字が一般的に使われていることになります。

倭人伝里程では、実は一か所だけ例外があります。 邪馬臺國に至る途中の投馬國の官名に彌彌那利がそれです。 これは日本語の音をあらわすとすれば、ミミナリと読むべきでしょう。 するとに対してここだけ字が割り当てられていることになります。 これは中古音で評価でき、すなはち里程の内でここだけ魏の時代の音価が現れていることになります。 全体が方言性を持った文章の中で、ここだけ異なる状況は最終的に正史にまで採録されることを考えると、ここで文献が中央人の手に渡ったことが考えられます。 ただこれだけですと、たった一字のことですので、何らかの写し間違い、偶然などの可能性も否定できません。 そこで里程の表現方法に着目してみましょう。

里程の表現
国名距離の表記人口表記官の表現奴or那
對馬餘里有・餘戸官曰・副曰
一支餘里有・許家官曰・副曰
末盧餘里有・餘戸官曰・副曰
伊都有・餘戸官曰・副曰なし
有・餘戸官曰・副曰
不彌有・餘戸官曰・副曰
投馬行・日可・餘戸官曰・副曰
邪馬臺行・日月可・餘戸官有
其餘旁國なしなしなし
狗奴なしなし官有

一見すると文字の違いと表記方法の違いは連動していないように見えますが、挿入された部分が投馬國だけでなく、邪馬臺國までの距離と戸数を含むものであったとすると、面白い事実が見えてきます。 つまり挿入が行われる前には、邪馬臺國までの距離や戸数が記録されていなかったとすると、そのあとにくる狗奴國の記述と、類似性が現れるのです。 ためしに距離と戸数の記述を抜いて確認してみましょう。

南至邪馬臺國,女王之所都,官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮。

其南有狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。

この二国はそもそも対立する政治集団として対置されているので、このような対になった表現方法をとることは、自然なことです。 しかも官の記述がほかの国と異なり官有で始まっていることは特に注目すべきことです。 これは東夷伝のほかの民族とも共通しているものです。

夫餘:
   皆以六畜名官有、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者。

高句麗:
   其官有相加、對盧、沛者、古雛加、主簿、優台丞、使者、皁衣先人

濊:
   其官有侯邑君、三老、統主下戸。

韓:
   其官有魏率善邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。

つまりざっくりと下記のような成立プロセスが想定されます。

1.帯方などの地方において、不彌國までの里程が地方文献に成立していた。

2.帯方などの地方において、1.の文献とほかの民族の記述を合わせて、東夷伝原史料として成立した。
         そこに距離や戸数を欠く邪馬臺國狗奴國の記述が追加された。

3.洛陽などの中央で、邪馬臺國への距離と、その戸数が追加された。
         その際に中継点として投馬國が挿入された。

魏人が書いたのに距離が里数でないのは、洛陽まで朝貢してきた倭人からの、直接の聞き取りであったとすれば説明できます。 そもそも戸数も可七萬餘戸のように、他の国の記述のに比べて概数になっていて、伝聞性の高い史料であると思われます。

そこで問題になるのが、それに続く其餘旁國の記事です。 其餘旁國の直前には自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳、つまり女王國以北はその戸数と道のりを略載できるという前書きがあり、其餘旁國は遠絕で詳術出来ないにつながっています。 この記述は邪馬臺國までの行程が分かった、3.の段階の後に追加されたことは明らかです。 ここで其餘旁國邪馬臺國の傍らの国と位置指定され、狗奴國はその南となっていますから、狗奴國其餘旁國に含まれないことは明らかです。 狗奴國其餘旁國は、ともにその戸数と道のりを記載されてはいませんが、不可得詳其餘旁國についてのみの記述であることになります。

もしも自女王國以北,其戶數道里可得略載の一文が、すでに其餘旁國の国名が記載された文章に書き足されたのであれば、狗奴國を含む部分にかかるように書かれるはずです。 つまり不可得詳におわる記述は、其餘旁國の挿入の際、国名以外は明らかにできなかったことの釈明であることが分かります。 其餘旁國邪馬臺國までの水行陸行の記事と同時か、それ以後に挿入されたのです。 しかもその記事は古い音価にあふれていますから、魏の時代の中央での倭人からの聞き取りなどではなく、上古音の優勢であった時代に成立した記事か、別の地方文献にあった記事を、中央にいた里程の完成者が挿入したということになります。

重要なことは其餘旁國の国名は、そこまでの里程とは別に一括して成立していたものであるということです。 このことは奴國が重複していることに対する説明を与えます。 華奴蘇奴國の比定で述べたように、中国への説明の中で奴國がふたつ出てくることはあり得ないでしょうから、伝世によるテキストの写し間違いでなければ、同一国の重出に違いありません。 そして独立に成立した記事が、あとから挿入されたのであれば、重出は十分考えうることになります。 奴國の重複が知られている全ての版本や、通志においても起こっていることを考慮すると、重複はテキストの写し間違いではなく、成立プロセスに原因がある重出である蓋然性が高いことが分かります。

其餘旁國の国名記事の出自

其餘旁國の国名は、どのような出自を持つものなのでしょうか。 それを知るには其餘旁國の国名そのものを検証する必要があります。

もしもこの国名一覧が、既存の里程を知っている人物が、そに漏れた国のみを記載したものであるとすると、なぜ奴國が重出するのかを説明できません。 したがって既存の里程とは独立に一括して記述したものだと考えられます。 おそらく倭人の中国との、何らかの外交的接触に伴う、関連した国々の一覧なのでしょう。 するとそこに邪馬臺國が現れないことが重要な意味を持ってきます。

卑弥呼の朝貢以降は、邪馬臺國が中国との外交の主体になったはずですから、それが出てこないということは、それ以前の対中国外交の中で成立した朝貢国名一覧であるということになります。 後漢書には卑弥呼以前の朝貢として、倭奴國の朝貢が記録されていますから、その時代の中国外交の中心が奴國であったと考えられます。 実際に其餘旁國の国名の最後が奴國であって、この国がこの国名一覧の成立にあたって重要な役割を果たしたことが推察されます。 ではこの国名一覧は倭奴國の朝貢の際に成立したものでしょうか。

其餘旁國のもう一つの特徴は、對馬國一支國末盧國伊都國などの、倭国の入り口にあたる国が見えないことです。 邪馬臺國と合わせて、これらの国名がないことが、既存の里程に合わせることに支障がなかった原因であると思われます。 しかし其餘旁國の国名に、これらの古くから大陸側に知られたであろう倭人の国々が含まれないことは、重要な意味があると思われます。 これら倭人を代表するおそらく漢人にとって知名度の高い国々が、朝貢国名一覧に挙げられなかったのは、意図的なものであろうと考えられます。 このように意図的に倭人臭を消した朝貢を行うとすれば、鯷壑の東―東鯷人とは何者か―・東鯷人と東夷王で述べたように、前漢平帝の時代の東夷王の朝貢以外考えられません。 そして上記文で述べたように、この東夷王の朝貢で奴國に嚮導された民族が、漢書地理志の東鯷人なのです。

漢書地理志呉地:
  會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歲時來獻見云。
  (拙訳)會稽の大海の向こうに東鯷人があり、二十餘の国に分かれていて、季節ごとにやって来てまみえ献上を行ったと言う。

鯷壑の東―東鯷人とは何者か―・補足で述べたように、漢書地理志燕地の倭人の単に多数の国を示す慣用句と見られる百餘国と違って、この二十餘國にはなんらかの根拠があったと思われます。 それこそがこの其餘旁國の朝貢国名一覧であると思われます。 班固が漢書に利用したということは、後漢の書庫のような中央にあった文献であり、それは前漢平帝の時代に文字化されたのですから、そこに前漢時代の中央音が反映され、上古音系が強く出ていることも全く自然なことです。 鯷壑の東―東鯷人とは何者か―・東鯷人とは何者かで述べたように、それら東鯷人の国々の有力な候補が、東方の銅鐸祭祀の国々であったことを考えると、華奴蘇奴國の比定地、阿波南部那珂川流域が有数の銅鐸発見地であることとも符合するのです。

史料的な検討

前節でみたように、東夷王の率いてきた班固の言う東鯷人の二十餘国についての文献は、三世紀中には三国志に取り込まれました。 取り込まれた時期は、すくなくとも邪馬臺國と中国との交流が始まった後です。 里程の完成時期の三世紀までは、その史料があったことになります。 その史料を見た人物は、奴國東鯷人の関係を完全に理解できたはずです。 しかし鯷壑の東―東鯷人とは何者か―・鯷壑の東でみたように、唐代の文献を見ると両者の関係に関して明瞭に理解していたようには見えません。 また後漢書にしても、両者を続けて書くなどその関係を疑っていることは間違いないのですが、明言しておらずとても確信しているようには見えません。 どうしてこうなってしまったのでしょう。

東夷王についての詳細が、正史のような多くの人に読まれる書に書かれるとしたら、まずその候補は漢書平帝紀となるでしょう。 本来遠来の民族の朝貢は、王朝にとってその徳を示す誇らしい出来事のはずですが、他の民族については王莽元始五年の記事以外にも記載されているのに、東夷王については全く記述がありません。

元始年中の蠻夷記事
民族王奔伝元始五年その他王奔伝平帝紀その他
王奔の策結果
越裳氏重譯獻白雉始風益州令塞外蠻夷獻白雉元始元年春正月越裳氏重譯獻白雉一黑雉二
黄支南懷黄支自三萬里貢生犀(元始)二年春黃支國獻犀牛(地理志呉地)平帝元始中(中略)令遣使獻生犀牛
東夷王東致海外東夷王度大海奉國珍
匈奴北化匈奴匈奴單于順制作去二名名囊知牙斯今更名知
遣王昭君女須卜居次入侍
(匈奴伝)風單于令遣王昭君女須卜居次云入侍太后
誘塞外羌請受良願等所獻地為西海郡(元始四年夏)置西海郡徙天下犯禁者處之

東夷王については後漢の時代の倭奴國であり、光武帝の時にあらためて漢の南極として呼び寄せた國であったため(金印考(1)―儋耳朱崖と極南界の倭奴國―)、東方の王として詳細を記述することを憚ったのでしょう。 王奔伝元始五年の記事では、王莽の帝位簒奪を準備する行動としての、四方の異民族の話が必須であり、ここでのみ東夷王が記載されることになったのでしょう。 ただ大海を超えて會稽にやってきたかのような虚偽を行ったとしても、結果的に會稽東方大海の向こうにいる、二十餘國をなす民族を呼び寄せ、その存在を示したわけですから、漢代の世界観を表す地理志の分野説による記述に、それを書いておく必要があったと考えられます。 こうして明らかに東鯷人倭人であることは分かっていたのに、燕地の倭人記事に形式を酷似させることで、匂わせるのみとしたのでしょう。 後漢代の間は情報は公然の秘密ではあっても、東観漢記のような史書には記載されることがなく、その結果東観漢記を有力な原史料とした後漢書でも、その関係は明示できなかったと考えられます。

ここで問題となるのは、三国志に其餘旁國の国名を伝えた原史料はどのようなもので、何時頃失われたのかということです。 後漢の書庫にその原史料となるものはあって、後漢末の大乱を逃れて魏晋期に伝わり、南朝劉宋以前に完全に滅んだと思われます。 すくなくとも正史レベルの著名な書物ではなく、これを特定するのは大変難しい課題ですが、西晋左思の魏都賦に東鯷が倭国を指しているように取れる表現があります。

西晋左思の魏都賦:
  於時東鯷即序,西傾順軌。荊南懷憓,朔北思韙。
  (拙訳)時に東鯷の人々は秩序に即し、西傾山の人々は決められた道に従う。荊州の南の人々は従順に懐き、北の辺地の人々も正しいことを考える。

前半の東鯷即序が卑弥呼政権の成立と、魏への朝貢を示すとするわけです。 著作の時点では左思が必ずしも要職にはなかったことを考えると、政府系公文書のような特定の人物しか見ることのできないものではなかったと思われます。 おそらく魏晋期において王莽時代の東夷王について、詳細が記述される書が現れたのでしょう。 左思の見た書物がいったいいつまであったのかですが、東晋の李軌の註が法言に残されており興味深いものがあります。

揚雄法言:
  黃支之南,大夏之西,東鞮、北女,來貢其珍。(中略)〔李軌注〕明此奕世之所致,而莽一旦行詐以取之
  (拙訳)南は黃支、西は大夏、東鞮と、北女がやってきてその宝物を貢いだ。(中略)〔李軌注〕明らかに世の変化はこの結果であり、このようにして王莽は詐してこれを取った。

李軌の註では、この一文が王莽の権力簒奪のための四夷の呼び寄せを指しているとしているのですが、ここに出てくる四民族で王莽伝に一致しているのは黄支しかありません。 なぜ迷いなくこんな断言ができるのでしょうか。 以後宋の呉祕、司馬光、清の玉縉、民国の汪榮寶の註がありますが、この一文を直接結び付けた註はありません。 呉祕、司馬光、玉縉の註ではむしろ全く関係のない註になっています。 李軌のみが何かを知っているように見えます。

李軌は字を弘範と言い江夏の李氏で、一族は東晋時代に李充などの著作家を輩出しています。 李充は字を弘度と言い、西晋滅亡の嘉永の変で南へ逃れた、同じ江夏の李氏の李式と同世代です。 世説新語という南朝劉宋時代の著作に、李弘範と李弘度を混同したような記述があり、李軌は李充や李式と同世代ではないかと思います。 嘉永の変で失われた書物があって、李軌はぎりぎりそれを目にすることがあったのではないかと思うのです。 東夷王の詳細は班固の撰述に漏れたことで正史に残らず、洛陽長安などの中央でのみ目にする事の出来た何らかの文献に残り、嘉永の変で両都が壊滅したため失われて後世不明になってしまったのでしょう。

それではなぜ里程の完成段階で、その著者は其餘旁國邪馬臺國の傍にあるとして挿入したのでしょうか。 王莽時代の原史料には其餘旁國東夷王に率いられて、大海を超えて會稽にやって来たことになっていたのでしょう。 しかし後漢の時代には東夷王奴國王であり、其餘旁國が會稽海外に相当するような、奴國よりかなり南にいたはずの東鯷人であることは、公然の秘密となっていたのでしょう。 里程の完成段階は嘉永の変よりは前ですから、その著者は左思の見たような文献を見ることができ、里程に置いて奴國より遥かに南に存在する邪馬臺國を、東鯷人と同定することは自然なことであったと思われるのです。 左思の魏都賦を見れば、既に東鯷人邪馬臺國と、同一視されていたようにも見えるのです。 そしてその文献には其餘旁國の国名が、東夷王に率いられてきた人々の国名として記録されていたのでしょう。

その結果、位置の詳細がわからない其餘旁國は、邪馬臺國の傍らの国として、その直後に挿入されることになったのです。


6.會稽東冶之東 ー倭国地理観の源流ー  <前へ

変更履歴

白石南花の随想




連絡先