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異本倭人伝

ー伊都國の戸数と太伯伝説ー

伊都國の二つの戸数記録

三国志魏書東遺伝倭人条、所謂魏志倭人伝(以下倭人伝)、には三世紀の倭国の様子が書かれています。 それによれば三世紀倭国には多くのの小国があり、倭の女王はその邪馬臺國に都を置いていたとしています。 倭人伝中で邪馬臺國に次ぐ重要な国の扱いを受けている国が、伊都國です。 伊都國の名は三国志の他、梁書、北史などの正史の他、翰苑や太平御覧などの類書中にも見ることができます。 面白いことにこの国の人口を表す戸数に、異なるニ種類の記録があることが知られています。 三国志や太平御覧に引く三国志、通志などは戸数を千餘とし、翰苑に引く魏略には万餘となっているのです。

このような違いはしばしば誤写や誤刻によって起こり得ます。 しかし伊都國の記述について、関連史料の記述を比較してみると、単純な間違いとも思われないのです。

・翰苑に引く魏略:
  東南五東里、到伊都國。戸万餘置曰爾支、副曰洩渓觚、柄渠觚。其國王皆統屬王女也。
  ・三国志:
  東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
  ・大平御覧に引く三国志:
  東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚有千餘戶、世有王、皆統屬女王。帶方使往來常止住。

これを見ると単純に数字が違っているのではなく、戸数の置かれた位置と記述の方法がそもそも違います。 また副の官名の一番目も違っています。 この記述の違いは単なる書き間違いなどではなく、魏略系の情報と三国志系の情報の差と思われるでしょう。 ところが事態はそれほど単純では無いのです。 それは下記の末廬國の記述を見ればあきらかです。

・翰苑に引く魏略:
  又渡海千餘里、至末廬國、人善捕魚、能浮沒水取之。
  ・三国志:
  又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
  ・大平御覧に引く三国志:
  又渡海千餘里、至未盧國、戶四千、濱山海居、人善捕魚、水無深淺、皆能沉沒取之。

これを見ると大平御覧に引く三国志の記述はむしろ翰苑に引く魏略に似ていることがわかります。 これはかって末末保和氏が指摘し、大きな議論を巻き起こした問題です。 三木太郎氏は現存三国志とは異なる、その元になった魏略により近い、三国志異本の存在を想定されました。 この議論が盛り上がった背景は、その当時提唱されていた榎一雄氏の放射説と呼ばれる、倭人伝の所謂邪馬台国までの里程の解釈論の存在があります。 大平御覧に引く三国志では、里程の全ての行程がで結ばれていて、放射説の様な解釈の余地が無いためです。 主に邪馬台国畿内説の論者が、このようなより原史料に近い異本の存在を主張されました。

それが原史料である魏略により近いものであるかどうかはさておいて、少なくとも現存倭人伝とは異なる系統の記録があったことは、大平御覧や翰苑から確認できます。 そこでまずその異本がどのような記述を行っていたか、残された大平御覧や翰苑から確認してみたいと思います。

里程の国ごとの分析

前節で見たように、倭人伝には異本ないし異伝というべきものが存在したようで、その痕跡が大平御覧や翰苑と言った類書に伝わっています。 その他正史では梁書や晋書、北史にも影響を与え、一時期は寧ろ主流とも言える状況だったようです。 大平御覧はその内容を最もよく伝えているようなのですが、既に伊都國の記述で見たように、一部寧ろ現在の三国志に近い部分もあります。

ここから異本の文面について想定していくわけですが、幾つか注意する点があります。 まず三国志は成立は三世紀西晋の時代ですが、現在伝わっているのは十二世紀南宋代の版本です。 梁書は636年、晋書は648年、北史は659年、大平御覧は(977年〜983年)成立、翰苑本文は七世紀唐代成立と思われますが、その注は太和年間(827~835)以前の成立とされます。 但し現存するのは梁書、晋書、北史、大平御覧は十二世紀の南宋版本、翰苑は九世紀写本とされています。 つまり翰苑を除き現存するのは十二世紀のもので、誤写誤刻などを含んでいることが予想されます。

また各正史は当然三世紀情報についてはそれぞれ要約して記載しています。 大平御覧や翰苑は類書と言って辞書的な書物で、三国志や魏略と言ってもそこに引用されているのは、節略された文にすぎません。 倭人伝の異本の内容も、これら後世の史料から推察していくしかないのです。

三国志と大平御覧に引かれる三国志の大掛かりな対校作業は、東夷伝全体に渡って佐伯有清氏によって行われていてますが、ここでは馴染み深い倭人伝里程の国ごとに、特に戸数の記述に注目して比較してみましょう。

里程に記載された各国の性格

記載順は、国=国名、方=方位、=距離、官=官名、地=地理、=戸数、生=生業、政=王と政治

三国志(紹興本)大平御覧翰苑
国名接続記載順戸数国名接続記載順戸数国名接続記載順戸数
狗邪韓拘耶韓拘耶韓
對馬官地有千餘戸對馬官地生戸千餘對馬官生紹煕本對海、梁書、北史に無
一大官地有三千許家一大官地有三千許家一支官地梁書、北史の国名一支
末盧有四千餘戸末盧戸四千末盧御覧と翰苑に人善捕魚の記事
伊都有千餘戸伊都有千餘戸伊都官政戸万餘翰苑一人目の副官名洩渓觚
有二萬餘戸有二萬餘戸御覧官名先馬觚
不彌有千餘家不彌戸千餘
投馬可五萬餘戸於投馬戸五萬名は梁書、北史では投馬
邪馬壹可七萬餘戸邪馬臺政官戸七萬名は梁書祁馬臺北史邪馬臺
狗奴政官政狗奴政官政狗奴政官政三書の官名が異なる

一見してわかることは三国志では、戸数の記載の形式はで始まるもので始まるもの、で終わるもので終わるものがありばらばらです。 また記載順は官名と地勢の記載のない末盧国を除いて、戸数は官名や地勢の後に記載されています。 榎一雄氏が放射説で主張されているように、距離と国名の順もばらばらで、又で結ばれているのは一大国と末盧国だけです。

一方大平御覧の方は、一大国、伊都国、国の三つの国を除き、戸数は国名の直後でその形式は全てで始まります。 三つの国と距離記載のない對馬国を除いて、全て距離、国名の順です。 そして例外となっている三国に付いては、戸数の記載の形式も記載順も三国志に一致し、對馬国を除いて全てで繋れます。

翰苑は省略が激しく、戸数の記録は伊都国のみですが、国名の直後にあり記載の形式はで始まる形式です。 翰苑と大平御覧には異本の影響があると考られますから、伊都国の記述も異本に置いては、戸数の記録は国名の直後にあり、記載の形式はで始まるものであったと想定されます。

このように戸数表記から見ると、大平御覧は異本の記述を基本として書かれているけれども、何かの理由で一大国、伊都国、国の記述を三国志の記述で差し替えたと考えられるのです。 戸数の書かれていない狗邪韓国についても、大平御覧や翰苑は狗耶韓国になっており、同じく狗奴国についても、官名が三国志の狗古智卑狗に対して、大平御覧の狗石智卑狗、翰苑の狗右智卑狗から見て、大平御覧は異本に基づいていると見て良いでしょう。

このような観察から、本来の異本における里程の記述に関しては全ての国において、書かれている限りに置いては戸数は戸で始まる形式で、記載順は、方位、距離、国名、戸数、その他の順であったと思われます。 さらに一部を除いて記述はで結ばれていたと思われます。

正史である梁書や北史が、異本の影響を受けていると考える理由の一つが、そこに書かれている国々の記述が、で結ばれていることです。 そして梁書、北史に加えて晋書にも影響が伺える、もうひとつの理由が太伯伝説の記述になります。

それに触れる前にまず伊都國の人口にニ種類の記述があることに付いて考察してみましょう。

伊都國の人口は?

前節で見たように翰苑の伊都国の記述は、異本の記述を基にしたものでしょう。 人口の違いは異本と現行三国志の用いた情報の違いなのでしょうか。

そこでまず用いられた文字に注目してみます。 今までの推論では、大平御覧の邪馬臺国や於投馬国は恐らくは異本の記事を元にしていると思われました。 ところがここで人口の記述はそれぞれ、戸五萬戸七萬であって、の字が使われています。 それに対して翰苑の伊都国の記述は戸万餘となっていて、の字が使われているのです。

ちなみに十一世紀までの史書における使用状況は下表のようになります。
十一世紀までの正史に使用された万と萬
史書名成立年代万の使用回数萬の使用回数
史記前91年頃0回1013回
漢書後82年頃0回1993回
三国志3世紀末0回591回
後漢書432年頃0回1596回
宋書488年0回1418回
南斉書六世紀前半10回347回
魏書559年26回1952回
梁書636年0回382回
陳書636年0回153回
周書636年39回336回
北斉書636年12回205回
晋書648年2回2522回
隋書656年(志以外636年)1回1245回
北史656年60回1410回
南史656年0回594回
舊唐書945年2回4086回
新唐書1060年5回3739回

の旧字体で、字が正史に使用されるのは六世紀以後となります。 この使用状況から考えると、異本の成立が六世紀以降でなければ、はおそらくの誤写であろうと思われます。 仮に翰苑注が一般に言われている九世紀に下るとしても、やはり字が使用されることは稀であったと思われ、誤写の可能性は高いものと思います。

しかし実際に前節表の注に記したように、伊都国の副の官名にも違いがあります。 これはどう考えれば良いのでしょうか。

・翰苑に引く魏略:
  副曰洩渓觚、柄渠觚
  ・三国志:
  副曰泄謨觚、柄渠觚
  ・大平御覧に引く三国志:
  副曰泄謨觚、柄渠觚

固有語の漢字化はそのつど音を聞いて行われたと思われ、使用文字が違うということは異なる情報に基くと思われます。

しかし現存翰苑には極めて誤写が多く、誤写の可能性を考える必要があります。 問題の文字の差異を見てゆくと、まず字はと字の概形がにており、邪馬臺邪馬嘉と書くような、翰苑の誤写の傾向からすると疑わしいものです。

もう一字のについては、翰苑の書かれた唐の時代には太宗の諱「世民」を避け、世を曳、民を氏などに改め、旧唐書高宗紀によれば657年12月には、世を含む葉の字まで改めたとする事から、本来はであったと見なして良いと思われます。

このように異本の内容は、情報的には三国志と変わりなく、三世紀伊都国の人口は戸千餘と考えるのが妥当であると思われます。

しかし本来の情報が戸千餘であるとしても、それが誤写されたのは翰苑より前であると考えます。 その理由は翰苑では、情報は極端に省略され、戸数は殆ど書かれていないにもかかわらず、伊都国のみに戸数が書かれているためです。 注を行った雍公叡は何かの理由で、伊都国の戸数のみ、省略せずに書こうと思ったわけです。 彼は三国志からの引用も行っています。 恐らく彼の引用しようとした魏略の中で、伊都国の戸数のみ、三国志と差異があったからではないでしょうか。

前節で述べたように大平御覧の倭人伝は、異本倭人伝を基にしたものでしょう。 しかし一大國、伊都國、奴國の三個所では現存倭人伝に基きます。 この三国に付いては、それぞれ理由があったと思われますが、まず分かることは大平御覧が異本倭人伝を基本としながらも、倭人伝の内容を正としていることです。 即ち大平御覧の倭人伝の基本となった異本倭人伝が、決して正史の写本に対抗できるものであるとは見なされていなかったことの顕れでしょう。

それぞれの国々の修整の理由を考えると、恐らく一大國は梁書、北史、翰苑などの異本系と思われる書物には一支國となっており、この国名の違いが三国志の記事で入れ替えた理由でしょう。 伊都國に付いては、翰苑に人口が一万となっていて、倭人伝と違いがあるため差し替えたのでしょう。 奴國に付いてはその理由は分かりません。 ただ翰苑には他の史書に見えない、後漢中元二年の倭奴国王の使者が、紫綬を受けたという記事があり、異本倭人伝にはこの奴国を倭奴国とみなして、差し替えに値する特別な記述があった可能性があります。

このような推測が正しければ、三国志からの修正を受けていない邪馬壹國に付いては、大平御覧成立時期の三国志の写本には、邪馬臺國とあったと考えられます。 一方で投馬國は、大平御覧では於投馬國であるにもかかわらず修正は受けていませんが、これは同じ異本系と思われる、梁書や北史が投馬國なので、大平御覧写本の衍字と考えてよいのではないでしょうか。 最後に狗奴國の官名を見ると、倭人伝は狗古智卑狗、大平御覧は狗石智卑狗、翰苑には拘右智卑狗となっていて、異本系は異なる様に見えるのですが、差し替えの形跡がないことから、官名に付いての差は差し替えの理由にはなっていないようです。

倭人伝異本の太伯伝説

前節で翰苑注を行った雍公叡の見た魏略の記述には、三国志との間に誤写による記述の差異があったのではないかと考えました。 もちろん魏略と三国志に関しては、単なる誤写以上の差があったと思われます。 その一つが下記の魏略の記述です。

・翰苑に引く魏略:
  其俗男子皆點而文。聞其舊語、自謂太伯之後昔夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之吾。今倭人亦文身、以厭水害也
  ・大平御覧に引く三国志(対応部分):
  其俗男子無大小皆黥面文身。聞其舊語、自謂太伯之後。又云自上古以來、其使詣中國(以下欠)
  ・三国志(対応部分):
  男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾

引用した部分は倭人の黥面文身つまり、顔と体の入れ墨について解説している部分です。

翰苑では赤下線の自ら太伯の子孫であると言ったという記事が続きます。 太伯は春秋時代の呉国の祖先であり、呉の地で髪を切体に入れ墨をしたという伝説があります。 それに続いて緑下線の春秋時代の越国の祖先であるという夏后少康の子が、會稽に封じられた時断髪し体に入れ墨をして、蛟龍すなはち龍の幼生の害を避けたという話が続きます。 さらに続いて今倭人が体に入れ墨して水中の害を避けているとの、倭人の入れ墨に付いての説明が続いているのです。

一方三国志では赤下線の太伯伝説に代えて、青下線の昔から中国に詣るときには自ら大夫と名乗ったと言う話が続きます。 その後翰苑同様に夏后少康の子の話が続きます。

大平御覧では緑下線部は恐らく書写時の脱落により欠文となっていますが、赤下線青下線の両説併記であったと思われます。

実は三国志にない太伯の伝説は、各史書の異本の影響を計る上でも役に立ちます。

・梁書:
  自云太伯之後。俗皆文身。
  ・晋書:
  男子無大小悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。
  ・北史:
  俗皆文身、自云太伯之後

これを見ると梁書、北史は翰苑同様太伯伝説のみ、晋書は大平御覧に近いことが分かります。 北史は後漢時代の奴国の朝貢に関するところで漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。がありますが、後漢書の影響と思われます。

江畑武氏の再び『魏略』と『魏志』の相違について─倭人太伯後裔説に関連して─の中で、魏略に書かれていたという太伯伝説をもとに、三国志著者の陳寿と魏略著者の魚豢の編纂方針の違いを説明しています。 太伯伝説に関しては、異本というよりは魏略の影響であるのかもしれません。

今議論をわかりやすくするため、各記事に仮称をつけましょう。 倭人の男子が大小となく顔と体に入れ墨を入れていたという記事を黥面文身記事、赤下線部分を自謂太伯之後記事青下線部分を自稱大夫記事とします。 緑下線部分については、倭人伝のそれに続く記事は、少康の子の伝説に加えて、儋耳、珠厓郡の社会や風俗との比較が現れており、下記のように漢書地理志粤地の条の記事を下敷きにした記事であることがわかるため、粤地参照記事とします。

・漢書地理志粤地:
  其君禹後、帝少康之庶子云、封於會稽、文身斷髮、以避蛟龍之害。
  ・倭人伝:
  夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。

・漢書地理志粤地:
  武帝元封元年略以為儋耳、珠厓郡。
  ・倭人伝:
  所有無與儋耳、朱崖同。

佐伯有清氏は倭人伝の自稱大夫記事は、その前の黥面文身記事と内容的に繋がらないため、この部分には本来翰苑に見える、自云太伯記事があって粤地参照記事に繋がっていたのだとしています。 そうなっていれば倭人の入れ墨の話から、入れ墨をした太伯の記事、呉の先祖の太伯に対する越の先祖の夏少康の子と話が繋がるからです。

しかし晋書や大平御覧では、自謂太伯之後記事自稱大夫記事又言又伝で区切られ別の伝承であるとされています。 自謂太伯之後記事自稱大夫記事を別伝とするのは、それぞれ魏略と三国志に拠るものであったと考えるのが、やはり妥当であると思われます。

魏略と太伯伝説

倭人伝は黥面文身記事から自稱大夫記事、そして粤地参照記事に繋がります。 金印考(1)ー儋耳朱崖と極南界の倭奴國ーで述べたように、このような文脈的繋がりは、自稱大夫記事が東観漢記の倭奴国朝貢記事を喚起させ、その記事に倭奴国の位置として儋耳朱崖と言う、漢書地理志粤地に属する地名があったことが前提になっています。 つまり自稱大夫記事は鍵になる粤地と言う地理的情報をもとに、引き続く粤地参照記事に繋げる重要な役割をはたしているわけです。

ところが翰苑に引く魏略では、この部分が自謂太伯之後記事に置き換わっています。 確かに呉の祖先太伯に続いてライバル越の祖先少康の子の話は繋がりますが、ここに呉地の話が出てくるのでは、粤地の儋耳、朱崖のような地名の出てくる以下の記事に繋がりが悪いでしょう。 自謂太伯之後記事は浮いているようなのですが、本当にこのような記事が魏略にあったのでしょうか。

魏略に本当に自謂太伯之後記事があったのかどうか、これには幾つかの疑問があります。 まず所によっては本文を上回る量の裴松之註の存在です。 渡邉義浩氏の「魏志倭人伝の謎を解くー三国志から見る邪馬台国ー」の序には、三国志の文字数が紹介してあり、それによると本文は約37万字、裴松之の注は約36万字とされています。 本文に匹敵するほどの量の、徹底的といっていいほどの註でありながら、この一文は註されていないのです。

もうひとつは後漢書です。 三国志東夷伝の書稱に前史之所未備焉、すなはち前史に未だに備わっていないところを為すとの記述があることから、後漢書の主な原史料とされる東観漢記には、東夷伝は無かったと思われます。 後漢書を著した范曄は、わざわざ三国志をもとに他の情報も集めて後漢書東夷伝を書いたのです。 その記述を見ると漢書や三国志呉書などからも情報を集め、東鯷人に付いても倭人の項目に書いています。 そのほかにも三国志裴松之註に引かれた、王沈の魏書に書かれた汗人の伝説を、倭人の伝説に書き換えることすらしています。 東夷伝、特に倭人に対するこの興味の深さからするに、自謂太伯之後記事の様な興味深い話を書き落とすとは思えないのです。

自謂太伯之後記事が魏略にあったことは、ほぼ定説と考えてよいと思いますが、その大きな論拠はこの文が通典に引かれているからであろうと思われます。ところが通典に関して調べてみると、魏略は全部で五ケ所で引用されているのですが、その内自謂太伯之後記事を除くものは下記に見るように、全て三国志裴松之註にかぶるのです。

1:通典職官十六勳官
  又魏略云:護軍之官、總統諸將、主武官選。前後當此官者、不能止貨賂。故蔣済為護軍、時有謠曰:『欲求牙門、當得千匹;五百人督、得五百匹。』司馬宣王與済善、聞此聲以問済、済無以解之。及夏侯玄代済、故不能止絕人事。及晉景帝代玄為中護軍、整頓法分、人莫敢犯者。
  裴松之註:魏書九夏侯尚傳
  魏略曰:玄旣遷、司馬景王代為護軍。護軍總統諸將、任主武官選舉、前後當此官者、不能止貨賂。故蔣済為護軍時、有謠言「欲求牙門、當得千匹;百人督、五百匹」。宣王與済善、聞以問済、済無以解之、因戲曰:「洛中市買、一錢不足則不行。」遂相對歡笑。玄代済、故不能止絕人事。及景王之代玄、整頓法令、人莫犯者。

2:通典邊防一倭
  魏略云:倭人自謂太伯之後。
  裴松之註:対応文なし

3:通典邊防八罽賓
  魏略:大秦國出赤、白、黑、黃、青、綠、縹、紺、紅、紫十種琉璃
  裴松之註:魏書三十東夷伝
  魏略西戎傳曰:(前略)大秦多金、銀、銅、鐵、鈆、錫、神龜、白馬、朱髦、駭雞犀、瑇瑁、玄熊、赤螭、辟毒鼠、大貝、車渠、馬腦、南金、翠爵、羽翮、象牙、符采玉、明月珠、夜光珠、真白珠、虎魄、珊瑚、赤白黑綠黃青紺縹紅紫十種流離、璆琳、琅玕、水精、玫瑰、雄黃、雌黃、碧、五色玉、黃白黑綠紫紅絳紺金黃縹留黃十種氍毹、五色毾㲪、五色九色首下毾㲪、金縷繡、雜色綾、金塗布、緋持布、發陸布、緋持渠布、火浣布、阿羅得布、巴則布、度伐布、溫宿布、五色桃布、絳地金織帳、五色斗帳、一微木、二蘇合、狄提、迷迷、兜納、白附子、薰陸、鬱金、芸膠、薰草木十二種香。(後略)

4:通典邊防九短人
  即魏略云:短人國是也。
  裴松之註:魏書三十東夷伝
  魏略西戎傳曰:(前略)短人國在康居西北、男女皆長三尺、人衆甚多、去奄蔡諸國甚遠。(後略)

5:通典邊防九朱俱波
  魏略西戎傳曰:西夜并屬疏勒
  裴松之註:魏書三十東夷伝
  魏略西戎傳曰:(前略)楨中國、莎車國、竭石國、渠沙國、西夜國、依耐國、蒲犁國、億若國、榆令國、捐毒國、休脩國、琴國皆并屬疏勒。(後略)

これは偶然なのでしょうか。 通典は唐の大歴年間(766年~779年)に編纂が開始され、その草稿は大歴年間には完成していたとされます。 全200巻に及大作を、唐の要職にあった杜佑がわずかな期間で書き上げたとすると、魏略に関して孫引きで済ませた可能性があるのではないでしょうか。 そもそも魏略の消息は、旧唐書経籍志に「魏略38巻」「典略50巻」とあり、新唐書藝文志に「魏略50巻」とあるのが最後で、この原史料は玄宗朝の書物「古今書録」をもとにしているため、玄宗朝までしか確認できないのです。 玄宗朝の後には有名な安禄山の乱があり、首都長安や副都洛陽も反乱軍の手に落ち、唐の中央部が荒らされています。 果たして魏略は生き残ったのでしょうか。 生き残ったとして、乱からそれほど立たない混乱の状況で、杜佑は入手できたのでしょうか。 引用の結果だけから見ると、魏略本文に当たることはできなかったのではないかと思われます。

では唯一裴松之註に見えない倭人自謂太伯之後はどのような史料にあったのでしょうか。

正史にみる太伯伝説

正史に見える太伯伝説の状況を確認してみましょう。

十一世紀までの正史の太伯伝説
史書名成立年代著者倭人記述太伯伝説
史記前91年頃司馬談の意志を継ぎ司馬遷が完成
漢書後82年頃班彪の意志を班固、班昭が継ぎ完成
三国志3世紀末(裴註429年)陳寿
後漢書432年頃范曄
宋書488年宋・斉・梁に仕えた沈約が斉の武帝に命ぜられて編纂した
南斉書六世紀前半蕭子顕
魏書559年魏収
梁書636年陳と隋に仕えた姚察の遺志を継いで、子の姚思廉が完成
陳書636年陳と隋に仕えた姚察の遺志を継いで、子の姚思廉が完成
周書636年令狐徳棻らが太宗の勅命によって撰した
北斉書636年隋の李徳林の北斉史に子の李百薬が、王邵の北斉志の一部を付加
晋書648年唐の太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された
隋書656年(志以外636年)魏徴と長孫無忌らが唐の太宗の勅を奉じて勅撰を行った
北史656年隋の李大師により編纂が開始、子の李延寿によって完成
南史656年隋の李大師により編纂が開始、子の李延寿によって完成
舊唐書945年五代十国の劉昫、張昭遠、王伸
新唐書1060年欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰

これを見ると正史では、636年成立の梁書を最初の例として、太伯伝説が語られ始めています。 七世紀唐代の初めの史書編纂の時期に成立した、倭に関しての記録のあるものでは、隋書と南史を除いて記載があります。 このうち南史はその倭に関する記載中に、出自と場所の詳細は北史に譲るとの記載があります。 隋書は東夷伝を含む部分は、梁書と同じ636年成立となっています。 つまりこの初唐の史書編纂事業の途中で、梁書に太伯伝説が現れ、同時期の正史の倭の記載に反映されたと考えられます。

梁書は姚察によって書き始められたものと思われますが、姚察はすでに陳の時代に史書編纂に携わったと言われます。 その時期であれば編纂に携わったのは梁の史書であったのではないでしょうか。 梁書は初唐に編纂された史書のうちでは、最も早く撰述が始まった可能性があるのです。

梁書諸夷伝と梁職貢図を比較した榎一雄氏は、その「梁職貢図について」の中で、梁書諸夷伝と梁職貢図の用語の共通性から、梁書諸夷伝の原史料として梁職貢図や、そのさらに原史料として方国使図を想定されています。

梁職貢図と方国使図
史書名成立年代著者
方国使図520年頃裴子野
梁職貢図526~541年蕭繹

これらはいずれも梁の時代の史料で、ある意味当然ですが梁書は梁の時代の史料に依っているわけです。 しかし2011年に発見された、愛日吟廬書畫續録巻五に残る職貢図題記を見ると、少なくとも倭にたいする記述に関しては、梁書諸夷伝との掛かわりは薄いと思われます。

愛日吟廬書畫續録巻五職貢図題記 題記

では梁書諸夷伝の倭の記述は何に依ったのでしょうか。 その里程部分に注目してみます。

里程にみる梁書諸夷伝倭の性格

記載順は、国=国名、方=方位、=距離、官=官名、地=地理、=戸数、生=生業、政=王と政治

史書三国志(紹興本)大平御覧梁書(北史)
里程順国名接続記載順戸数国名接続記載順戸数国名接続記載順
1狗邪韓拘耶韓
2對馬官地有千餘戸對馬官地生戸千餘
3一大官地有三千許家一大官地有三千許家一支(方)
4末盧有四千餘戸末盧戸四千末盧
5伊都有千餘戸伊都有千餘戸伊都
6有二萬餘戸有二萬餘戸
7不彌有千餘家不彌戸千餘不彌
8投馬可五萬餘戸於投馬戸五萬投馬
9邪馬壹可七萬餘戸邪馬臺政官戸七萬祁(邪)馬臺政官(官無)
10狗奴政官政狗奴政官政
太伯伝説聞其舊語、自謂太伯之後自云太伯之後

上記の表を見れば、梁書がこの随想で言うところの異本倭人伝に繋るものであることが分かります。 北史の内容はほぼ梁書を引き継いだものでしょう。 すなはち梁の時代に異本倭人伝が登場したと考えられます。

ではこの異本の位置付けはどのように捉えられるでしょうか。 異本系統の記述を見ると、記載の順番や用語、国々の継がり方などが整っていることに気づきます。 記述方法の整った内容から、記述方法がばらばらの文が生まれることは有りえます。 しかしそれは元の文章に新しい情報が加わったり、修正されたりして、その際に異なる記述形式が入り込む場合であると思われます。 しかし倭人伝とその異本には情報的に異なるものは有りません。 伊都国の人口の節で見た通り、人口や官名の違いも誤写や、皇帝の名前の文字を避けた結果であって、実質的には違いがないのです。 この状況からすると異本は、現在みる倭人伝に近い文面から整理されてできたものと見なして良いと思われます。 このような文献として考えられるものは何でしょうか。

大平御覧に引く三国志倭伝の源流

既に成立している正史を、整理省略して記載する可能性のあるものに、後世類書と呼ばれる書物があります。 類書は多様な書物ですが、ある種の辞典として考えれば近いようです。 一般に非常に膨大な書物が多く、大平御覧もその一つです。 大平御覧は李昉、徐鉉ら14人による奉勅撰で977年から983年にかけて著され、合計千冊に及びます。 従ってしばしば先行する書物、特に同じ類書の内容を孫引きすることが多くなります。 森鹿三氏の論文「修文殿御覧について」を見ると、唐代の類書である芸文類聚や、南北朝の北朝北斉時代の修文殿御覧から引かれた部分が多く、特に修文殿御覧の残存部分との比較で、その関係が非常に深いことが分かってきています。

修文殿御覧は572年に祖孝徵によって完成されたものですが、実はこれに先立って華林遍略と言う類書が516年、南朝梁の徐勉によって完成されています。 森氏によれば、修文殿御覧はおそらく華林遍略の影響を受けているであろうとされます。 華林遍略は北朝東魏末に権臣文襄が、一日一夜で書写されたと言う話も伝えられていて、尾崎康氏の「北斉の文林館と修文殿御覧」によれば、北朝での類書編纂が盛んになるきっかけになったとされます。

北斉書祖珽伝
  州客至、請賣華林遍略。文襄多集書人、一日一夜寫畢、退其本

つまり大平御覧の源流となる類書が、梁の時代に成立していたことが分かります。 私は華林遍略が魏略の内容を整理して引いたものが、異本倭人伝の源流ではないかと思います。 華林遍略は旧唐書経籍下や新唐書芸文三に記載があることから、唐代玄宗朝までは存在したはずで、その内容が梁書に引かれたことがきっかけで、初唐の時期に編纂されていた他の史書に影響を与えたのでしょう。 前節で見たようにこの時期には、梁書、陳書、周書、北斉書、晋書、隋書、北史、南史などが相次いで完成します。 このうち、梁書、陳書、周書、北斉書、隋書の東夷列伝は梁書と同じ636年の成立です。 梁書に遅れるのは、北史、南史、晋書ですが、北史と南史は明らかに梁書の影響があります。 晋書は三国志の影響が強いですが、太伯伝説に関しては三国志の記述と又言で結んで併記しています。 この興味深い記述を無視できないと考え、用字から考えて華林遍略から直接引いたと思われます。

華林遍略は宋書芸文には見えず、宋代には確認できませんが、玄宗朝以降の唐の時代も生き延びていたのではないでしょうか。 その魏略引用文が翰苑註や通典に魏略として孫引きされたものと思います。

では梁代に生まれた、倭人が太伯の子孫であるという伝説の元は何だったのでしょうか。 考えうるのは倭の五王の朝貢に伴って倭人自らが語ったと言う事ではないでしょうか。 私の見たところ、范曄は五世紀代の情報をさかんに後漢書に反映させていますから、成立前にそのような興味深い情報が有ったら、太伯伝説は後漢書にも見えるはずだと思います。 従って後漢書成立の後から朝貢した、倭の五王の使者のいずれかがこの話をしたのではないでしょうか。 その意図は分かりませんが、劉宋の都があった建康は春秋呉の故地に近く、訪れた使者が南朝人に、太伯の子孫であると言えば関心を持たれたとは思います。

ここでひとつ問題があります。 それは翰苑註や通典からみて、華林遍略にあったのは魏略からの引用文だと言うことです。 一方現存大平御覧の倭人伝は、三国志からの引用となっているのです。 これが繋がる為には、どこかで魏略の引用文の孫引きを、三国志からの引用とした人物がいたことになるのです。 そのような事は起こり得るのでしょうか。

このような事の起こる環境を考えてみましょう。 内藤湖南氏が卑弥呼考で述べられているように、恐らく三国志の倭人伝は魏略の倭伝をそのまま録り、そこに外交記事などを付け加えたものであると思われます。 その場合あとから作成する類書の書者が、三国志から引用しようとした場合、内容のかなりの部分が先行類書の魏略の整理した引用文にかぶることになります。 あとから作成する類書ができるだけ労力をかけまいとすれば、多くを先行類書によることになるので、この場合先行類書の魏略倭伝引用文を引いて、そこに三国志倭人伝だけにみられる文の、節略文を追加したいと考えて不思議ではありません。 この場合前提として、新たに作成される類書の著者が魏略倭伝と三国志倭人伝の全文を比較して、確かに三国志倭人伝は魏略倭伝に、記事が追加されただけの構造であることを確認できる必要があります。 従ってこのような転換が起こるとしたら、まだ魏略の全文が閲覧可能であった時代でなければならないでしょう。

魏略は宋書芸文には見えず、大平御覧の成立した宋の時代には滅んでいたと思われます。 従って魏略倭伝引用文から三国志倭人伝引用文への転換がおこったのは、北斉時代の修文殿御覧であろうと思います。

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