神功紀分析
―古墳中期の王政について―
1.はじめに
拙論「継体欽明朝の秘密」において、私は隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文をもとに、仮説「日本書紀、再編纂説」をまとめました。さらにそれに基づき雄略紀の分析と、倭の五王によって、宋書に記録された倭の五王を比定しました。この仮説は日本書紀紀年論に一つの視点を開くものと思います。すなはち古代日本の天皇制について、祭祀を司る夜の王と実務を行う昼の王があり、多くの場合昼の王についたのち、最高位の夜の王につく様式があったとしました。この夜の王が後の天皇位につながるものです。そして日本書紀原史料となった、各氏族の伝承において、昼の王に即位してのちの記録を天皇位に就いて後のことのように伝え、このことが紀年の混乱になっていると考えました。 ただ昼の王夜の王二重制の仮説的は、倭の五王までで見た限りでは、概ね允恭紀以降には妥当であると思われるものの、それ以前に関してはいまだ検証が不十分であると考えます。 そこで本稿では、中期古墳時代の王政に関してこの仮説を検証するために、ここまで見てきた応神仁徳から允恭までの考察に、神功紀を加えてみました。 神功紀については、多くが四十六年条の斯摩宿禰を卓淳に派遣する話以降の、倭国の朝鮮半島進出に関して論じて来ました。 しかし本論ではむしろそれ以前の、古事記仲哀記に見える新羅進攻とその後の、皇太子成人に対応する部分に焦点を当てています。 結果として古事記の神功紀に関して、歴史的事実の核があった可能性が浮上しました。 一方で神功応神仁徳には、複数の人物の伝承が入り込み、仲哀以前に関してはここまで行ってきた、干支を用いた分析が通用しないことも分かってきました。
2.神功紀について
神功紀は概ね二つの部分に分解できるようです。
前半.摂政前紀から摂政十三年
後半.摂政三十九年以降
前後半の間には二十六年の空白がある上に、三十九年、四十年、四十三年は三国志の引用で実質的な後半の始まりは、四十六年の斯摩宿祢を卓淳国に遣わした話になります。 以降は百済記をもとに立たと思われる、百済との交流の話があり、基本的に百済記の干支を二運、山尾幸久氏によれば一部三運引き上げてはありますが、暦年を追うことが可能です。 七枝刀の話など、倭国の半島進出の歴史的端緒を記したものとして、歴史的議論の的になる部分となっています。 途中新羅や任那が話題になることはありますが、百済との交流が主線となっています。
一方の前半部分はほぼ古事記の仲哀記の記述に重なり、神功伝説のコアの部分であるといえます。 半島との関わりという意味では、新羅を攻撃する三韓征伐をメーントピックの一つとしたもので、後半部分との間に大きな落差があります。 つまり神功紀は半島との関わりの始まりとして、新羅との関りを述べた伝説的な前半部分と、百済記を史料として何らかの歴史的事件を語ったと思われる後半部分の、関連性の薄い二つの部分に分けられる事になります。
前半部分はおおむね古事記の説話に、羽白熊鷲の話題など日本書紀固有の話題が追加されています。 この追加された情報の中には、古事記の神話的な新羅遠征に追加された情報もあり、そこには幾人かの新羅の人名が含まれています。 本文および別伝に下記のような人物があげられているので、三国史記の登場人物と比較してみましょう。
日本書紀 | 三国史記 |
---|---|
波沙寐錦 | 婆娑尼師今 |
微叱己知波珍干岐/微叱許智伐旱 | 未斯欣 |
汙禮斯伐 | 于老? |
毛麻利叱智 | 堤上 |
宇流助富利智干(別伝) | 于老 |
また別伝では、倭軍が新羅の王を殺したところ、その妻が倭国の役人を殺して復習した話が出てきますが、三国史記に于老にまつわる話として、同様の話が出てきます。 この中では、三国史記に堤上が倭国の人質であった未斯欣を救い出す話があり、日本書紀にも毛麻利叱智が微叱許智伐旱を救い出す話が有って、食い違う部分もありますが、何らかの背景になる事件があったことをうかがわせます。 微叱許智伐旱と同一人物と思われる微叱己知波珍干岐は、前半部分の神功の新羅攻撃の際に、波沙寐錦が人質に出した人物です。
三国史記の年表では、婆娑尼師今は一世紀末から二世紀初、未斯欣は四世紀後半から五世紀初に在位した奈勿尼師今の子、于老は二世紀末から三世紀初に在位した奈解尼師今の子、堤上は五世紀初に活躍した人物で、時代的にバラバラになっています。 しかし注意すべきは、一番古い婆娑尼師今は朴氏、二番目に古い奈解尼師今と于老は昔氏、一番新しい未斯欣と堤上は金氏なのです。 この三氏は本来は同時平行で存在したとの説があり、もしかしたら年代的な矛盾はないかもしれません。 三国史記には多くの研究があり、高寛敏氏の「三国史記新羅関係記事の検討」によれば、奈勿尼師今より前に関しては、後世の同様の事件の反映であり、史実性は薄いとされます。 同論文ではその奈勿尼師今の時代についてすら、好太王碑碑文の内容に該当する出来事に、触れられていないと指摘されています。
そこで三国史記と伝承的に一致度の高い、微叱許智伐旱の倭国からの逃亡に注目すると、対応する三国史記における未斯欣の時代は、五世紀初めの実聖尼師今の時代となり、史実性を認めることができると思われます。 未斯欣の倭国への帰国は、三国史記では戊午の年となっています。 微叱許智伐旱の帰国に関して葛城襲津彦が新羅を攻撃し、四邑漢人を連れ帰った伝承があり、この人々の子孫が残した干支を含む史料が、日本書紀に取り入れられたとすれば、その記事は戊午の年に配当されることになると思われます。
ここで三国史記新羅本紀の紀年について注意すべきことがあります。 好太王碑の紀年における干支と、三国史記の同じ出来事を記録した干支が、一年ずれていることは良く知られています。 すなはち好太王の即位年は、碑文では辛卯年ですが、三国史記ではその次の壬辰となっているのです。
干支というのは、本来は天空上の木星の位置に基づくもので、木星の周期は十二年弱ですから、次第にずれてきます。 そのため一定の期間で干支はひとつずつずらしていく必要があります。 しかし前漢の太始二年に、現在の干支にずらして以降は、そのような調整は行われなくなり、機械的に十干十二支が回され現在に至っています。 そのため古い暦をそのまま使っている場合には、干支がずれる現象が発生するのです。
好太王碑の紀年はそのような古い暦をそのまま使用しているため、一年のずれがあることを、友田吉之助氏が見出しました。 友田氏によれば実はずれがあるのは好太王碑だけではなく、一部の日本の文献にもみられるということですが、他にも武寧王陵の墓碑の没年とその年齢から知られる誕生年も、三国史記記載の年次や日本書紀雄略紀に引く百済新選の誕生年と、一年のずれが見つかります。
三国史記については、中国史書との突合せを行ったのか、干支の記録は概ね現在のものとあっています。 また新羅本紀と百済本紀の出来事の干支も符合しているようですが、これも百済本紀と新羅本紀で内容の突合せを行ったことが記述の状況から分かります。 例えば新羅本紀脫觧尼師今の七年を見ると下記のような記事が見えます。
冬十月、百済王拓地,至娘子谷城,遣使請会,王不行。
一方百済本紀多婁王の三十六年には下記の記事があります。
冬十月,王拓地至娘子谷城。仍遣使新羅請会,不従。
両者は西暦63年の癸亥年で一致していますが、記事の内容は片方の言葉をきれいに裏返した形になっています。 ほぼすべてこのような対照的な形で一致しており、しかもこの現象は実際的な両国の建国としては、早すぎる西暦63年に遡るのです。
また中国史書との関係でみると、三国史記の百済本紀には、腆支王十二年に東晉安帝遣使とあり、これは三国史記年表によると丙辰の年であり、晋書に見える義熙十二年丙辰の朝貢記事にあっています。 日本書紀に見える、百済記、百済新選、百済本記などの干支も、概ねあっているようです。 しかし原史料の一年ずれの干支が、訂正されずに残ってしまっていることも、あり得ることなのです。
特に注意すべきは、四~五世紀の新羅本紀の干支です。 例えば新羅本紀、奈勿尼師今二十六年の辛巳の年に、前秦の苻堅に朝貢した話が書かれていますが、これは太平御覧に見える秦書には、辛巳の次の壬午年のこととなっています。 また新羅本紀慈悲麻立干十七年、三国史記年表で甲寅年に百済漢城落城の記事がありますが、高句麗本紀では長寿王六十三年、百済本紀では蓋鹵王二十一年、三国史記年表ではいずれも甲寅年の次の乙卯年となり、日本書紀に引く百済記でも同じく乙卯年です。
このように、四~五世紀の新羅本紀の紀年は注意することが必要で、この時期の新羅本紀紀年については、干支を一つ後ろにずらした場合も考えないといけないようです。 特に三国史記成立段階で、倭国については日本書紀しか突合せできなかったと思われますが、日本書紀紀年は年次操作が著しく、新羅と倭の紀年の突合せは出来ずに、そのままになっている可能性があります。 そのため418年戊午の実年は、419年己未の歳と見なすのが良いと思います。
3.神功紀の成り立ち
ここで前半部分の最後の年である摂政十三年をみると、この宴の記録は仲哀記の最後に見える、皇太子応神の成人の宴と内容的に共通するものであることがわかります。 そして前節でみたように、摂政五年の微叱許智伐旱の帰国が、新羅本紀の未斯欣の帰国に対応するとすると、摂政十三年は丁卯の年となります。 古事記崩年干支では仁徳崩年が丁卯です。 倭の五王では、履中と反正の崩年干支はある程度信頼できるのではないかという見通しを述べましたが、仁徳の崩年は何らかの権力移譲の伝承であった可能性があり、履中の何らかの地位への即位に関連するものであった可能性があるのです。 実際履中の古事記崩年干支に従って、日本書紀履中紀の在位年六年を遡ると、その即位年の干支は丁卯となり、三者が一致することになります。 つまり氏族史料にあったこの摂政十三年の成人の宴は、応神のものでなく履中のものものであったと思われます。 実際神功紀摂政三年の応神立太子記事の磐余宮に若櫻の宮とする註があり、神功紀摂政六十九年の崩御記事には本文に若櫻の宮とあります。 履中の宮は記に伊波礼若桜宮、紀に磐余稚櫻宮となっており、記紀に数多くの宮が表れても、宮伝承についてついてこれほどに一致する例はほかに見えません。
日本書紀神功紀元年から十三年に記録された、氏族の伝えた四世紀末から五世紀初めの新羅攻撃の伝承は、時代的に好太王碑に見える、辛卯の年以来倭が海を渡って攻めてきたという記述にも合致するので、何らかの歴史的背景があるものと思われます。 一方古事記の神功と皇太子の話は、おそらく日本書紀編纂時には確立しており、れとは別に日本書紀編纂者のもとには、すくなくともそれと似通った本来若い履中を支えた、別の女王的存在に関連する伝えがあったと思われます。 この伝承の皇子が伝承されるうちに、名前が入れ替わってしまったのではないでしょうか。 実際に日本書紀と古事記を比べると、応神の伝承とよく似た仁徳の伝承があり、伝承の人物が入れ替わることがあることがわかります。 あるいはその別伝を祖先の一族の奉仕の記録として伝えた氏族にとって、自分たちの関わった人物が、八世紀において名もない人物であるよりも、神功であるほうが都合がよかったため、あえて応神として伝えた可能性もあるかもしれません。 このようにして神功紀には、複数の人物に関する伝承が流れ込んでいるのです。
倭の五王で見たように、応神の崩年が阿知使主の呉からの帰国の即位四十一年(430年)庚午の年であり、仁徳紀即位五十八年庚午の年の呉の使者の話が同じ出来事を伝えているとすると、この時期応神仁徳が並列していた事になります。 前節の最後に見たように、神功紀の摂政五年が三国史記紀年により419年とすると、この時さらに別に女王的存在がいたことになります。 実際のところ前節で説明した微叱許智伐旱の新羅帰国に際して、葛城襲津彦の連れ帰った四邑漢人は、新撰姓氏録では仁徳朝の来朝となっているのです。
古代の天皇制の形態はかなり複雑なものであり、記紀の王統譜に当てはまらない存在が多数あったことを思わせます。 そしてそれは、この古墳中期に天皇の数を超える大古墳があることとも合致するのです。 伝承を伝えた氏族の立場に立てば、自分たちの祖先の伝承は、八世紀段階で出来るだけ著名な存在の伝承として伝えたほうが、朝廷内で有利な立場を得ることができるでしょう。 山尾幸久氏によれば、神功紀には那珂通世以来通説となっている、干支の二運百二十年引き上げられた記事だけでなく、三運百八十年引き上げられた記事が存在するとします。 すなはち氏族が祖先の奉仕の記録として伝えた、複数の女王的存在の記録が神功紀に流れ込んでいると思われます。
ここで振り返ってみるに、仁徳五十八年と応神四十一年の呉からの遣使は同じ庚午の年ですが、本来同じ記録がこのようになるためには、両者の間隔が一運六十年離れることが必要です。 仁徳の五十八年までには、空位年二年を含めて六十年になるように調整されているはずですが、事績空白期間などの明白な引き延ばしの痕跡は今のところ見えず、神功紀同様に何らかの別の王的存在の伝承が、流れ込んでいると思われます。 神功紀は古代の日本の王政に、多頭的性格があった事を暗示すると思に、日本書紀の天皇紀に、どのように複数の王的存在の記録が流れ込んだかの、一例を示しているのではないでしょうか。
関連する年表をまとめたものを下記に示します。 神功紀の紀年は二運百二十年引き下げてあり、二運下げた応神紀と、一運下げた仁徳紀を並行させてあります。 神功/仲哀の列には、赤字で書いた部分と青字で書いた部分があります。 青字の部分は山尾幸久氏が三運引き上げられているとする記事で、この年表ではさらに一運引き下げたところにも同じ内容を書いてあります。 これが本来の位置ということです。 また神功紀摂政即位元年から十三年までは事績を赤字で表記してあり、新羅本紀の未斯欣の記事から求められた本来の位置にも、記事を重複して書いてあります。
当然ここで問題になるのはこの即位十三年までの記事が、なぜ新羅本紀の伝える干支とずれたところにあるかということです。 もしも微叱許智伐旱の倭国からの逃亡事件について、四邑漢人の記録によってその出来事の起こった干支を、日本書紀編纂者が知っているのなら、神功紀五年は己未年配当されるはずですが、実際には乙酉年に配当されているのです。 この事件が新羅に関する出来事であることから、己未年ではなく一年ずれた新羅紀年の戊午年であったとしても、やっぱりずれています。 これについては別の理由があることを次節で説明します。
4.仲哀即位年について
前節で述べたように神功紀摂政即位年元年以下十三年までは、本来五世紀初頭に下る何らかの氏族の伝えた、履中を庇護した女王的人物に対する奉仕の記録を、八世紀において応神の庇護者として著名であった、神功の記録に重ねたものであると思われます。 問題は何故この記録が現在の紀年に配当されたかです。 前頁の表では新羅本紀の紀年を一年修正して、赤字の神功紀五年を己未年に配当したため、神功紀十三年は丁卯年となりました。 もしも日本書紀編纂時に微叱許智伐旱の記事が、もとの新羅の古い暦に基づいていたとすると、神功紀五年条は戊午年となり、神功紀十三年は丙寅年となります。 これは斯摩宿禰が卓淳に行った年と同じ干支で、日本書紀がこの神功紀十三年までを干支の三運引き上げて配置したとすると、神功紀十三年二月条と四十六年三月条が、繋がっていたことになります。 つまりこの神功紀の即位十三年までは、当初三運百八十年引き上げられて配当された可能性があります。 前節表では神功紀は二運百二十年引き下げてありますので、この部分だけ一運六十年と新羅本紀のずれの一年分を考慮し、本当の年次から六十一年引き上げて戊午年に配当した場合を、前節の表中で[仲哀没年調整前]をクリックして確認出来ます。
しかし現日本書紀では辛巳年に配当されており、本来の位置とは三十三年ずれていることになります。 即位十三年から三国志関連記事を除けば、三十二年も実質事績のない期間があり、斯摩宿禰の三月条を残して、神功紀十三年二月条以前を三十三年引き上げたと推定できます。 神功摂政即位十三年までの記事は、原史料の干支ではない何か別の理由で、再配置されたことが推定されます。
実は日本書紀神功紀以前の、天皇崩御年と在位年には、明らかな作為の形跡があります。 もちろんこれまで見てきたように雄略以後のα群も、神功紀までのβ群にも操作はされています。 両者とも氏族伝承に現れた記録から、天皇の並列在位の問題を解消するために、α群は百済系史料の干支のみを利用して、国内史料の干支を無視して記事を組み換え、β群では干支を一周六十年の単位でずらして対応していました。 しかし神功紀より前になると、下記の表のように実際の記録に基づいたとは思えない、不自然に揃ったものになります。
天皇名 | 即位年干支 | 没年干支 | 在位年 |
---|---|---|---|
神武 | 辛酉 | 丙子 | 76 |
空位 | 丁丑 | 己卯 | 3 |
綏靖 | 庚辰 | 壬子 | 33 |
安寧 | 癸丑 | 庚寅 | 38 |
懿徳 | 辛卯 | 甲子 | 34 |
空位 | 乙丑 | 乙丑 | 1 |
孝昭 | 丙寅 | 戊子 | 83 |
孝安 | 己丑 | 庚午 | 102 |
孝霊 | 辛未 | 丙戌 | 76 |
孝元 | 丁亥 | 癸未 | 57 |
開化 | 甲申 | 癸未 | 60 |
崇神 | 甲申 | 辛卯 | 68 |
垂仁 | 壬辰 | 庚午 | 99 |
景行 | 辛未 | 庚午 | 60 |
成務 | 辛未 | 庚午 | 60 |
空位 | 辛未 | 辛未 | 1 |
仲哀 | 壬申 | 庚辰 | 9 |
神功 | 辛巳 | 己丑 | 69 |
応神 | 庚寅 | 庚午 | 41 |
空位 | 辛未 | 壬申 | 2 |
仁徳 | 癸酉 | 己亥 | 87 |
履中 | 庚子 | 乙巳 | 6 |
反正 | 丙午 | 庚戌 | 5 |
空位 | 辛亥 | 辛亥 | 1 |
允恭 | 壬子 | 癸巳 | 42 |
安康 | 甲午 | 丙申 | 3 |
垂仁から応神までの六代の内、四人の没年の干支が庚午であり、開化から成務までの五代の内三人の在位年が、干支の一運にあたる六十年になっています。 仲哀の即位前に一年の空位がありますが、これは仲哀の崩御の年の年齢と合わないとされており、一年の空位がないとするとあってくることが分かっています。 おそらく仲哀の即位年も一旦は辛未年に調整され、その後干支を壬申に変更したと思われます。 この変更は仲哀末年に起こった政変を、壬申の乱にかけたものではないでしょうか。
つまり仲哀以前の紀年は、一旦六十年を単位に組み立てられ、その後個別に修正を受けたのではないかと思われるのです。 おそらくある程度紀年の材料になる、干支のある史料のあった応神を起点に、それ以前の開化までの天皇について、まず一代六十年で年代の大まかな割り振りを行ったのでしょう。 神功は天皇ではないので、応神と仲哀で百二十年が割り当てられ、その中から干支史料のある神功と応神の、在位を引いたものを仲哀の在位年とし、神功の摂政即位年を仲哀の没年に続けるため、神功紀の元年から十三年を、三十四年引き上げたのでしょう。
最初の紀年割り振りが六十年単位の整然としたものになって、さすがに不自然となり、後から調整のため無理やり空位年を作って、仲哀即位年を壬申にしたと思われます。 結局神功紀の元年は都合三十三年引き上げられた形になりました。
それでも尚紀年は不自然に揃っていたため、崇神の没年をずらしたと思われます。 崇神と成務には古事記崩年干支が伝わっており、成務の干支は神功紀に被っていたため、崇神の没年を庚午年から戊寅年に伸ばし、在位年を六十八年に延ばしたと思われます。 崇神紀後半には即位十七年と四十八年、即位四十八年と六十年の間に八年以上の無事績期間があり、いずれかが八年延ばされたと思われます。
垂仁紀はそのため一旦八年短縮されました。 これは現日本書紀で即位二十三年九月条の誉津別王と白鳥の物語が八年引き上げられたものと思います。 二十三年九月条では誉津別は年齢が三十になるにもかかわらず、言葉が話せないとありますが、母の狹穗姫との婚姻が即位二年二月条で、話が合わないのです。 即位二年末に誕生したとすると、即位三十一年九月に数えで三十となり、この二十三年条が最初は三十一年条であり、八年繰り上げられたことが分かります。 仲哀の没年の年齢の問題同様に、本文との矛盾が生じているのは、この修正が後から行われたことを物語ります。
このあと垂仁紀にはさらに修正が加わります。 垂仁紀二十五年の一書の伝承によれば崇神は短命とするものがあり、崇神より垂仁の在位が短いのが気になったのでしょう。 垂仁の在位を延ばそうとします。 しかし根拠になるものがなかったため、八年短縮した五十二年から九十九年に延ばします。 垂仁紀には田道間守に非時香菓を捜させる話がありますが、田道間守が帰る前年に垂仁が亡くなります。 九十九はこのことにかけて、百年に一年足りないとしたのでしょう。
このため垂仁紀は四十七年引き延ばされました。 この時引き延ばされたのが、現垂仁紀三十九年条の、五十瓊敷命が剣一千口を石上神宮に収めた話と、八十七年条の同じく五十瓊敷命が大中姫に管理を依頼する話の間の、無事績の四十七年です。 おそらく最初に垂仁紀にこの記事を載せる際に、一連の話であったため、連年に配当したのでしょう。 しかし内容的には五十瓊敷命が老いたと言っているので、ここに長い期間を置くのが自然と考えたのでしょう。 結果として崇神の崩年干支はずれてしまいますが、もともと紀年への加飾が目的であったので、問題にならなかったと思われます。
開化以前のいわゆる欠史八代については、直木孝次郎氏が臣系氏族が天皇家に系図を繋げるための仕組みとしましたが、概ねそれが正しいと思います。 五世紀頃稲荷山鉄剣銘文に見える系図のようないわゆるタテ系図が、多くの首長によって作成されたと思われます。 その一つは開化以下の息長系図と呼ばれるもので、原型では稲荷山鉄剣銘文系図がオホヒコを祖としたように、オホヒヒを祖としたものだったのでしょう。 欠史八代の天皇は多くの氏族系図の源となるものを集めたもので、七世紀に成立後、多くの氏族に共有され、現日本書紀に見えるように、多くの皇后や妃の異伝を生んだと思われます。 そしてそれら氏族伝承の中に、五世紀頃の首長の即位年ないし没年等の、何らかの干支を伝えるものがあり、日本書紀編纂者はそれを利用したため、開化以前にばらつきが発生しているのであろうと思います。
仲哀紀以前の紀年のあり方の変化は、ここまで大いに頼りにしてきたと思われる、百済系史料がこれより古いところで使用できなくなったことが主な原因と思われます。 百済系史料はおそらく七世紀後半以降に、亡命してきた百済人貴族たちが、日本書紀編纂期までの内に作成したものでしょうが、日本に関する記述は当然、百済と倭の関係が成立して以降に限られたはずです。 百済との交流開始は、神功紀四十六年が端緒なわけですから、それ以前はないのです。 また日本書紀にはこれ以降阿直岐、阿知使主、王仁などの、百済系の漢人の渡来の話が多く出てきて、それらの人々が王朝の記録を残していたと思われますが、それも百済との交流が生まれて以降の話となります。 その他やはり時期的に、弓月君のように百済系以外という人々の伝承もありますし、それ以前の崇神紀垂仁紀にも、意富加羅国王子の都怒我阿羅斯等(于斯岐阿利叱智干岐)や、任那使者の蘇那曷叱知、新羅王子の天日槍の来日の話はありますが、その子孫が文書作成などの行政にかかわったという伝承はありません。 つまり文字で歴史を伝える人々が、日本書紀の記録上現れたのは、神功応神以降と言うことなのです。
ではそれ以前に日本列島には、文字記録を残す人々がいなかったのかというと、魏志倭人伝には卑弥呼が上表文を作成したという記事があり、近年の各地での弥生期に遡る硯の発見などを考慮すると、いたことは間違いないであろうと思います。 特に伊都国の故地と思われる福岡県前原には、楽浪郡の出先機関のようなものがあった可能性があり、卑弥呼の上表文のような高度な漢籍に対する知識の必要なものは、ここの人々が請け負ったのではないかと思います。
では何故三世紀には重要な役割を果たしていた、前原の漢人は記録を残さなかったかですが、魏志倭人伝の一大卒記事にも見えるように、倭王はこの人々を警戒し監視下に置いていたと思われます。 そして対外的な倭国の窓口は四世紀には穴門に移動していると思われます。 これは考古学的にみた博多湾岸の衰退の状況や、文献的には仲哀紀に穴門が拠点として現れること、垂仁紀に都怒我阿羅斯等が最初に穴門に現れることなどから推定されます。 都怒我阿羅斯等の伝承に見える、倭王を騙った伊都都比古などは、語義的には伊都の男ですから、もともとは伊都に対する倭王権の猜疑心の伝承でしょう。 仲哀紀に見える伊覩縣主祖五十迹手の降伏伝承のように、彼らは日本書紀編纂時期に、文字記録を提供する立場になかったと思われます。 実際のところ日本列島内で発見された文字記録で、文章をなすものは五世紀以降となり、それ以前の文字の利用は記号的な用法のもの以外に見つかっておらず、文字で文章を記録することは、ほとんど定着していなかったと思われます。
朝鮮半島に目を転ずると、百済と高句麗は楽浪帯方郡の漢人集団を受け継ぎ、四世紀の初めごろには歴史時代に突入します。 一方新羅については梁書に次のような記載があります。
無文字,刻木為信。語言待百済而後通焉。
文字がなく木に刻み、言葉は百済通訳によるというのですが、時代的にさすがにおかしいとは思います。 ただ新羅は百済や高句麗よりも文字記録が遅れたことは間違いなかろうと思われます。 倭はそのさらに後塵を拝したことは確実でしょう。
神功より古い干支の記録として、古事記の崩年干支がありますが、これについては倭の五王でも触れたように、体系的なものではないようです。 その正体は不明ですが、前節の表で見るように、仁徳紀に並行する応神の没年や、履中の没年のあたりに、陵に関する話題が出てくることが気になります。 雄略紀分析でも、自説でおそらく安康の没年とする年に、田辺史伯孫が馬と埴輪を交換した話題が出てくるのです。 つまり何らかの葬送祭祀の行われた年に、陵に関する説話が載せられています。
このことから、土師氏のような葬送儀礼に関する一族が、干支を含んだ記録を残していて、それが古事記に註されたのではないかと思います。 一般に土師氏が絡んだと思われる記録は、日葉酢媛の葬送に関する埴輪の話題のように説話的であり、ほぼ口承によるものであったと思われます。 干支自体は十と十二の組み合わせなので比較的簡単で、土師氏のように出雲に起源をもつ氏族には、何らかの記録方法を持っていたのかもしれませんが、それに結びつく出来事には、口承でかなり抽象的な伝わり方になっていたのではないでしょうか。 そのため記録を残す対象の出来事もあいまいとなっていたのではないかと考えます。 例えば反正天皇の崩年に関しては、古事記註は七月となっていて、日本書紀の伝えと異なりますが、日本書紀允恭五年の七月に喪の話が有り、葬送にかかわった人びとが、何らかの儀礼に関して伝えたものが残っているのではないかと推察できます。 継体欽明朝の秘密で触れたように、しばしば有力な王の退位や譲位、皇后の没年や王の退位年などを伝えている場合もあるのではないかと思います。 つまり葬送儀礼というよりは、王の交代ないし王位継承の儀礼に関するものかもしれません。 とはいえ古事記崩年はそれなりの、王位に関する何かの出来事を伝えるものとして期待できそうに思います。
5.神功伝承の起源
ここでもう一度神功伝承の成立に関して考えてみます。 記紀に対しては多くの史料批判があり、神功は後の斉明天皇や持統天皇の記録から創作されたという直木孝次郎氏説もあります。 しかし関係のない氏族の伝承が、神功の記録に帰着されている状況からすると、日本書紀編纂時期において、すでに神功の伝承は成立していたものと思われます。 氏族伝承が付加される前の伝承の状況は、概ね古事記が伝えるものと類似したものであると思われます。 仲哀記の前半部分は、熊曾征伐に来た天皇に付き従う皇后が、海の向こうの新羅を攻めることを命ずる神託を受けますが、天皇はそれを信ぜず神罰により亡くなってしまいます。 そしてこの国は皇后の腹の中の子供の治める国であるとして、懐妊した状態で新羅へ渡り、新羅王を馬飼いに百済を半島の出先にするという話です。
この話は古事記における朝鮮半島とのかかわりの起源をなすもので、他には応神記に昔の話として、新羅王子の天之日矛があるだけです。 日本書紀において百済記などの干支を含む史料で追跡できるもっとも古いものは、神功四十六年条の卓淳国で斯摩宿祢が、百済人久氐・彌州流・莫古が倭国に朝貢を希望しているという話をを聞き、肖古王へ使者を送るという記事です。 倭王権の半島進出への直接的関与は、それ以前に始まっていたのでしょう。
ここで3節の年表をみると、百済人久氐らの話の年代は紀年を二運引き下げた、366年丙寅の年となります。 三国史記新羅本紀のその二年前の甲子年の四月に下記の記述があります。
(奈勿尼師今)九年、夏四月、倭兵大至。王聞之、恐不可敵、造草偶人數千、衣衣持兵、列立吐含山下、伏勇士一千於斧峴東原。倭人恃衆直進、伏發擊其不意、倭人大敗走、追擊殺之幾盡。
注目すべきは前半の、倭の兵が大いに至り、王がこれを聞いて恐れて敵さずの部分です。 後半部分では謀略で倭兵を撃退したことになっていますが、新羅側の記録であることを考えると、倭兵の大規模な侵攻があったと考えられます。 卓淳王の末錦旱岐は斯摩宿祢に、久氐らがやってきたのは甲子年の七月としていますから、まさにその三か月後ということになります。 新羅本紀の紀年が一年ずれていることを考慮すると、斯摩宿祢がこの話を聞く前年になります。 末錦旱岐はおそらく新羅本紀と同様の、古い暦をもとに話しているのでしょう。 仲哀の古事記崩年はその四年前の壬戌年で、神功記の役者がそろってきます。 つまり神功の新羅征伐の伝承にも、歴史的事実の核があった可能性が出てくるのです。
西暦 | 干支 | 新羅本紀 | 古事記崩年 | 出来事 |
---|---|---|---|---|
362 | 壬戌 | 六月、仲哀 | 仲哀の死? | |
363 | 癸亥 | |||
364 | 甲子 | 四月、倭兵大至 王聞之恐不可敵 | 古事記新羅征伐? 応神の誕生? 七月、久氐らが卓淳に来る | |
365 | 乙丑 | 四月、倭兵大至 王聞之恐不可敵 | 古事記新羅征伐? 応神の誕生? 七月、久氐らが卓淳に来る | |
366 | 丙寅 | 三月、斯摩宿禰が卓淳で 甲子の年の七月に 百済の久氐らが来て 倭国朝貢希望と聞く 肖古王へ使者を送る |
ここで興味深いのが、仲哀古事記崩御年干支の示す年次が、上記の年表では三国史記の倭人侵攻年の三年前、新羅本紀紀年のずれを考慮すると四年前になっていることです。 品陀和気命誕生が新羅侵攻の後であるとすると、帯中日子と呼ばれる王の死後四年ほど後になり、先王との血縁は無かったことになります。 胎中天皇の伝説は血統の継続を主張している意味で、いかにも怪しいものではありますが、このようにみていくと実際に品陀和気は帯中日子の子ではなかったことが見えてきます。
倭人の朝鮮半島とのかかわりは古く、三国史記を見る限り新羅への略奪行為も、常態化していた可能性はあります。 しかし高寛敏氏によれば、新羅本紀の奈勿尼師今以前については、多くが後世の出来事の遡上上書きであるとします。 奈勿尼師今以前の新羅本紀は、編年された歴史書とは言えないのです。 神功紀に登場する新羅人も、新羅本紀の紀年的に大きな差のある朴昔金氏が、2節で見たようにに混ざって出てくるのもそのためと考えられます。
この甲子年ないし乙丑年の倭兵の侵攻は、そういう意味で新羅本紀に残る、ある程度信頼できる最古の大規模な倭兵侵攻記録なのです。 神功の新羅侵攻には、津波のような自然現象が絡んでいるとの俗説もありますが、高寛敏氏によれば倭兵の侵攻路は、大鐘川を遡ったもので、この川は満潮時には上流まで水が上がり、船で登れるそうです。 実際に津波であったか潮であったかはともかく、この時の新羅侵攻が大規模なもので、大和の政権が初めて直接関与し、かつ印象深いものであったことが、このような伝説を残したのであろうと思います。
この後すぐに百済人久氐らの朝貢希望の話になるのですが、百済や新羅は晋書の記録から、三世紀の前半頃は高句麗の支配下にあったと考えられます。 その百済の国家形成は三世紀中ごろから始まり、百済が倭の新羅への大規模な攻撃の後、即座に交流を求めてきたのは当然のことだったでしょう。
この新羅侵攻の伝説に何らかの史実の核があったとしても、胎中天皇の話もそうですが、記紀に見える仲哀死後の政変についての話との関連は、前後関係を含めて明瞭にするのは文献では難しいと思います。 ナイーブに考えれば、半島政策をめぐって王権を支える豪族グループの間に対立があり、倭王権の半島進出に積極的なグループによる政変であったと見ることは出来るかもしれません。 今後何らかの考古学的な裏付けが取れるのを期待しています。
しかし神功伝説はもう一つ重要な事実を示唆していると考えます。 それは倭国の最高位である祭祀王と、女王的性格の皇后や妃の王権における役割です。 記紀の記述には女性の役割が非常に大きく現れていると考えます。 日本書紀には倭迹迹日百襲姫や、豊鍬入姫、狭穂姫、日葉酢媛などの多くの女性が登場してきますが、特に古墳中期相当期には、磐之媛命や忍坂大中姫のように、時に天皇にすら逆らう皇后の嫉妬の話が目立ってきます。 忍坂大中姫等などは、允恭の即位にもかかわってきますし、磐之媛の筒城宮は継体紀にも登場し、忍坂大中姫は雄略紀に太后として登場するほか、隅田八幡人物画像鏡にも意柴沙加宮が登場します。 神功紀に代表されるように、この時期の皇后などは王に逆らうこともある、重要な存在となっています。 これら皇后の嫉妬の物語が書かれている、允恭や仁徳は自説の区分では外交や戦争に関する話題が相対的に少なく、祭祀王と考えています。
皇后の嫉妬の話は、実は後宮内での支持豪族の政争を反映しているのではないかと思います。 特に注目されるのが允恭紀七年十二月条の、新室の祝いで衣通郎姫を妃にする話です。 倭の五王の議論を受けて、本稿では3節の年表に見るように、倭王珍の没年を439年の己卯の年であるとし、允恭没年を古事記崩年干支の甲午を454年としますが、この時允恭七年は439年の己卯年となり、この新室の祝いは祭祀王即位をあらわしていると考えます。 すると祭祀王即位にあたり、あらたに妃を取った事になるのですが、祭祀王にとって重要なのは政治よりも、神聖性と血統の維持であるとすれば、これは理にかなったことです。
そこであらためて注目されるのが、3節の表で応神の崩年干支が394年となっていて、これに対応する仁徳紀二十二年条に、八田皇女を妃にする話が出てくることです。 忍坂大中姫の衣通郎姫に対する嫉妬の話は、允恭紀の多くの部分を占める主題の一つですが、仁徳紀における磐之媛の八田皇女に対する嫉妬も、仁徳紀の主な話題の一つとなります。 つまり恐らくですが、古事記の応神崩年干支は何らかの王的存在の死と、仁徳の祭祀王継承に関わるものであると考えられます。 本稿では応神紀をほぼ讃に対応すると考えていますが、応神の崩御地伝承には輕の明の宮と大隅の宮の二つがあり、記紀全体としての応神伝承には、二人の王的存在の伝承が重なっていると考えられます。
これら多くの女王的性格の皇后に、あまり外交などの話題は出てこないのは、特に古事記のような口承の伝承が、おそらく祭祀王の後宮的な場所で伝えられてきたことによるものでしょう。 神功の伝説には、例外的に対外戦争の話が出てきますが、後宮内の勢力争いの伝承の性格を持っている一方で、王自らが皇后を連れて遠征に行き、皇后が政変に巻き込まれたためなのでしょう。 結果八世紀時点では、対外戦争や外交などの伝承を負った女性の伝承が、神功のものに限られ、これが女王的人物がからんだ対外交渉や戦争などの伝承が、神功紀に集まってきた原因でもあると思われます。
6.倭讃について
倭の五王の一人とされる倭讃は、宋書帝紀には現れておらず、宋書夷蛮伝のみに現れます。
讃:倭讃(夷蛮伝)
珍:倭国王珍為安東将軍(帝紀)
珍:安東将軍倭国王(夷蛮伝)
隋:倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔国将軍号(夷蛮伝)
済:安東将軍倭国王(夷蛮伝)
済:安東将軍倭王倭済進号安東大将軍(帝紀)
興:倭国王世子興為安東将軍(帝紀)
興:倭王世子興(夷蛮伝)
興:安東将軍倭国王(夷蛮伝)
武:倭国王武遣使獻方物以武為安東大将軍(帝紀)
武:安東大将軍倭王(夷蛮伝)
倭王と呼ばれるのは、大将軍に進号することができた済と武だけで、将軍にとどまった珍と興は倭国王です。 宋書の記録は完全ではないと思われますが、称号に関しては結構厳密に見えます。 ここで倭讃という呼び方は、安東将軍より一枚低い倭隋と同じです。 済の倭王倭済と比べるとはっきり違います。 このため倭讃は王ではなかったのではないかという説がありました。
ここで倭王という地位に関して考えてみたいと思います。 継体欽明朝の秘密や雄略紀の分析で述べたように、古代天皇制は夜間に神意を聞く神聖王と、昼の実務をこなす俗権の王の二重体制であったようです。 そこでは一応は昼の王から夜の王という王位継承のルールがありました。 本稿で見えてきた多頭制は、実態は良くわかりませんが多くの王的な存在があったことを示していると思われます。 そのような状況は、この時期の劉宋朝貢の記録に見える、倭国王珍の朝貢にその一部が見て取れます。 そこでは珍の安東将軍倭国王だけでなく、倭隋ら十三人に平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号を求め許されています。 多く論じられているところによれば、珍の安東将軍と、倭隋の平西将軍には、劉宋からの地位としての大きな差はなく、倭国内に多くの有力者がいたことを示しています。
倭隋はその当時の倭国の情勢を考えて、おそらく畿内に次ぐ勢力として、規模で第四位の造山古墳のある吉備勢力が有力と思います。 中期古墳時代は、日向、吉備、河内、葛城、毛野に大古墳ができる時代であり、その重心は大和を離れ、瀬戸内にあると考えています。 瀬戸内政権の時代であるがゆえに、畿内の勢力も河内に王墓を作り、難波の宮や大隅の宮のように、大阪湾岸に宮が出来たのでしょう。 瀬戸内政権の象徴が、大阪湾に威容を誇る、百舌鳥古墳群の大古墳であると思われます。
吉備と大和の関係は、宋書が倭隋として同姓としているところからも、そもそも同じ王族でありながら、異なる地域首長グループの支持を受けた人々であったと思います。 吉備の王族の伝承は、允恭と葛城玉田宿祢の娘の子であるとする磐城皇子の記録が、唯一残されていますが、おそらく日本書紀に見るよりも大きな存在で、一度は最高位の祭祀王にもなっていると思います。
この吉備の首長の、吉備上道臣田狹が任那へ赴任させられ、そこから新羅を頼った話から、吉備は朝鮮半島南部や新羅とつながりがあったと考えられます。 近年の史料発見により、479年の南済朝貢は、加羅王の南朝朝貢を嚮導した可能性が出てきたのですが、この朝貢は倭王権の中でも吉備グループが担ったものではないかと考えます。 この479年の朝貢も、允恭朝になると思われる、倭王倭済の朝貢も記録がありません。 もしかしたら、宋書に見える使者の司馬曹達も、本来瀬戸内政権に属する大隅の宮の応神=讃のもとで、このグループに属していたのではないでしょうか。 結局、大和と吉備は協調したり主導権を争ったりしていて、雄略朝にいたって吉備王統が叩き潰されたとき、司馬曹達以後の朝貢担当のグループもその巻き添えを食ったのかもしれません。
神功紀の分析と宋書の珍の朝貢記録から見えることは、雄略紀以降とは少々ことなり、各地域の有力首長の支持を得た、複数の王的存在があったと言えそうなことでしょうか。 推測ですがその中で、全体の調停を行うのが聖王としての夜の王で、俗権に携わらず神意を聞く存在であるのは、多頭制の中での超越性と公平性を演出する意味があったのではないかと思われます。 応神紀即位二十五年には、新羅攻撃を命じられた葛城襲津彦が、新羅でなく加羅を責めた話があり、上述の田狭の子の弟君も本来新羅討伐を命じられながら、新羅を討たずに帰ってきます。 どうも倭国は一枚岩ではなく、各地の首長は対外的にも独自の動きを行う状況で、倭王はそのような王たちを統率するためにも、神聖な存在であるべきだったのではないかと思うのです。
自説では讃は応神のモデルの一部となった人物で、応神は仁徳と比べて伝承的に、外交実務を担っていたのではないかというところから、私見での昼の王と考えています。 つまり倭の五王の内、讃だけは最高位の祭祀王ではなかった可能性があり、このことが宋書の呼び名に反映されているのではないかと思うのです。 そう考えると、百済や高句麗の使者が、府官の最高位の長史を使者に立てているのに、倭だけが軍事官の司馬を使者に立てている理由もわかります。 つまり讃は軍事外交の最高位ではあっても、倭の最高位ではなかったということです。 そうすると宋書帝紀になぜ讃の朝貢が記録されなかったのかの理由も見えてきます。 讃の使者は倭国の朝貢使ではなく、倭国の軍事最高官の使者と考えられたのではないかということです。
7.426年の政変と二人の仁徳
3節の年表をみると、426年に難波の宮が焼かれ、翌年427年には履中が即位し、同年に仁徳の古事記崩年が来ています。 そして倭の五王で述べたように、この年に宋書帝紀の430年の倭国王の朝貢に対応する、阿知使主等の使者が出発しています。 阿知使主は履中の側近であり、おそらくこの朝貢の実務は履中が指揮したものでしょう。 これは何らかの政変を意味するもので、倭国の政治体制に大きな変動があり、讃が最高位の祭祀王につき、履中が俗権の王となったのではないかと考えるのです。 宋書430年の朝貢は、宋書帝紀に現れる最初の朝貢で、王名は現れていないものの、前稿の倭の五王では讃の朝貢とし、讃を応神のモデルとしました。 これは政変により讃が倭国の最高位につき、その時初めて倭国王と呼ばれ、帝紀に記載されたということであると考えます。
倭の五王では、古事記の仁徳崩年干支については、王の即位順に考慮した調整が入っている可能性があるとしましたが、これは実際に仁徳のモデルになった人物が亡くなっている可能性があります。 すでに何度か指摘してきたところですが、仁徳紀には複数の王の伝承が流れ込んでいることは確実と思われます。 つまり仁徳紀にはこの時に亡くなった王の伝承と、珍の伝承が重なっているのでしょう。 この時に亡くなった王を、仮に先の仁徳と呼ぶことにします。 先の仁徳の死後に履中即位前紀の反乱が起こり、落ち着きを取り戻した一年半後に、葬送ないし何らかの継承儀礼が行われたため、その干支が仁徳崩年として伝わったのではないかと思うのです。
ただこのような仮説を立てると、倭の五王で述べた陵墓地の推定には、さらに考慮が必要になります。 前稿では仁徳紀に伝わる陵墓地選定伝承は珍のもので、先に子供の履中が亡くなったため、寿陵として構築された陵墓を転用したとしました。 3節の年表に基づいて先の仁徳が亡くなったのが426年で、その後に讃が祭祀王に即位し、讃の死後弟の珍が祭祀王に立ったのが430年とすると、現履中陵となっている上石津ミサンザイ古墳の築稜開始が、応神陵と逆転してしまいます。 古墳の年代としては、絶対年代については諸説あり、かなりの幅を持って捉えざるを得ませんが、築稜順についてはほぼ一致しています。
上石津ミサンザイ古墳がもっとも古いとすれば、これは珍の寿陵ではなく先の仁徳の寿陵となります。
先の仁徳は自らの寿陵に葬られることはなく、別の墓に埋葬されたことになります。
この際には下記の三点が問題になります。
1.何故先の仁徳は自分の寿陵に葬られなかったのか。
2.その陵墓はどこになるか。
3.先の仁徳と珍、履中、反正との関係はどのようなものか。
最初の疑問に関しては、この政変の規模と経過時間が問題になります。 どの程度信頼できるかは分かりませんが、日本書紀の記述に従えば、政変は仁徳崩御の正月に起こり、葬儀はその年の十月となっています。 この稿の仮説では、先の仁徳と珍の記録はダブっていますから、崩御の月はもどちらのものか分かりません。 反乱の規模については、履中は大和まで逃げ、途中の現在の羽曳野市飛鳥とされる大阪の山口にも敵がいたと言うのですから、河内一帯に及んだのでしょう。 実際に通夜火は消えず、逃げる途中埴生坂(現在の大阪府羽曳野市)から難波の宮の火災が見えたとか、おそらく都が滅んだレベルの大火だったのでしょう。 大和に入ってからも安曇連浜子の差し向けた追っ手が現われ、これを破っても倭直吾子籠の兵が、現在の御所市のあたりで待ち構えていたのですから、履中の側が少なくともこの辺りまでは劣勢にあったと思われ、石上の神域に逃げ込こもうとしていたのでしょう。 書記には反乱首謀者の住吉仲皇子は、履中が逃げたので反撃の準備をしていなかったとあり、事実上決着した状態であったと思われます。 到底仁徳の殯や葬儀などを悠長に行えなかったばかりか、仁徳の遺骸すら手に入れられなかったと思われます。 そもそも仁徳の崩御の月に黒姫を妃に迎えるというのが、なにか急ぎの事情があったように思えます。 すでに反乱の予兆があり、事を急いだのではないでしょうか。
しかし日本書紀に従えば、大和に入ってからの情勢は少し変化して、安曇連浜子の追っ手は撃退され、倭直吾子籠の兵も履中側に投降します。 反乱の継続時間については、日本書紀では全てが即位前紀となっていますが、おそらく反乱軍の住吉仲皇子の近くにいたと思われる反正を味方に付けて、住吉仲皇子の側近に裏切らせて暗殺してようやく終息していることから、簡単には収束しなかったのではないかと思われます。 古事記によれば反正は墨江中津王を殺した側近の隼人を、大阪の山口の宮で殺害したとありますが、ここは履中が逃げる際に伏兵がいた場所です。 同時にここは允恭が都したという伝説のある近つ飛鳥でもあり、持論で允恭が反正の実務を任されていた可能性を考えると、仁徳朝と允恭朝の関りを考えるうえでも重要です。
反正は履中に寝返りますが、履中は当初信用していなかったところを見ると、その時点で河内には履中の勢力が及ばなかったのです。 反正の裏切りによってかろうじて収束したと考えてよいでしょう。 そして追っ手であった安曇連浜子が罰せられるのが、翌年即位元年の四月、黒姫を妃に迎えるのが七月ですから、反乱が完全に平定されるのは、反乱発生から一年余り経ってからのことだったのではないでしょうか。 仁徳の葬儀は反乱がまだ完全に平定されていない段階で、石上等の大和の勢力により河内でなく大和で行われたと思われます。 遺体が手に入り埋葬されたのは平定後ですが、平定前に履中を支持する首長の手によって、その勢力圏に陵墓地が選定されたのではないでしょうか。 前節の表を見ていただくと、古事記の仁徳崩年は反乱平定後の、王の交代の何らかの儀礼に対応していると思われます。
阿知使主等が呉へ向かったのは、まだ反乱平定前のこととなります。 両者は対外交渉においても、激しくつばぜり合いを行っていたのでしょう。 司馬曹達のグループが使者に立てず、急遽阿知使主の一行が使者に選ばれたのではないでしょうか。 高句麗で四年も足止めを食らったのも、高句麗への根回しなどの事前の準備が、不足したからかもしれません。
二番目の問題ですが、有力な候補としては仁徳皇后たちの埋葬されたという奈良坂にある、ウワナベ古墳を上げておきます。 この古墳は同時期の古墳の中では規模の面でやや小さいですが、近年の調査で佐紀古墳群の中では最大の規模であることが分かって来ました。 おそらく寿陵ではなく、死後に建設されたことで、築稜に限界があったのでしょう。 この古墳の倍塚である大和6号墳には、大量の鉄鋌が埋葬されており、国産であるとの見方もあります。 この時代の先進的な技術を持った集団が背景にあるとされますが、河内を本貫とし渡来人を使って、難波を開拓した仁徳には相応しいと思います。 一方古墳で見つかる埴輪は比較的古風な形式のものであり、河内の造墓集団とは異なる人々が携わった可能性があるのではないでしょうか。
仁徳の寿陵は結局空陵のままとなりました。 そして履中が亡くなったとき、この空陵が再利用されたと考えます。 珍は430年以降先の仁徳を継承する様な、政治的性格を帯びていたとは思います。 そうでなければ伝承が融合することはなかったでしょう。 おそらく珍は432年履中が亡くなると、いわば仁徳政権の実務の継承者として、先の仁徳の寿陵に葬ったのでしょう。 そしてその事が、葬送ないし継承儀礼に関わる氏族の祖先によって伝えられ、前節の表に見えるように同じ干支に、白鳥陵の空陵伝承とクロスして伝えられたのであろうと思います。 この時代には政変によって空陵となった陵墓が、少なくなかったのではないでしょうか。
珍は仁徳の継承者として、その寿陵を仁徳の選定した王墓地に造ったのでしょう。 この陵墓地を継承したことが、珍の伝承が仁徳伝承に合流した最大の理由だったのかもしれません。
古墳の年代については諸説あり、順番は一致していても、絶対年代には大きな開きがある場合が多いです。 実際寿陵の場合は、築稜開始と葬送年代に大きな差が出てくることが考えられます。 下記に三説上げておきますが、絶対年代は最低でも20年程度の誤差は見込むべきでしょう。
仁徳の寿陵ですが、仁徳紀六十七年条は地名説話であり、年次についてはあまり期待できないことは倭の五王で説明しました。 ただ仁徳紀四十三年条乙卯年(前節表の415年)に、百済からやってきたという酒君の話題があり、そこに百舌鳥野の地名が出てきます。 これは鷹狩りの説話であり、陵墓とは関わりありませんが、百舌鳥の地名の初出として注目されます。 これは渡来系氏族が噛んでおり、干支による記述であると思われ、仁徳の陵墓地選定の目安はこれ以前としておきます。 この年は3節の表では西暦415年以前となりますが、応神の古事記崩年干支が同じ表で394年にあります。 これが何らかの王的存在の交代を伝えるとすれば、讃が引き継いだのはこの年となり、寿陵構築開始は394年から415年の間となります。
讃の陵墓は、この仁徳に対応する昼の王として、次期祭祀王即位が見込まれていたでしょうから、それ以降の何処かの時期に、陵墓地選定は始まっていたでしょう。 一応仁徳紀における、履中立太子記事が、実は讃の立太子であるとすれば、その年次は403年以降となります。
下表に該当時の巨大古墳と、想定される被葬者をまとめました。 土師二サンザイ古墳の被葬者としては、雄略紀の分析で恐らく天皇位についたと思われた、顕宗紀に見える磐城王を当てました。 顕宗紀によれば磐城王は允恭の子となっていて、これが雄略紀の磐城皇子と同一人物であるとすれば、玉田宿祢の娘毛媛の子であり、葛城氏や吉備との関係が深く、同様の性格を持つ仁徳の選定した、百舌鳥野に葬られる理由もあります。 ただしこの人物は雄略清寧朝の吉備反乱の余波で、実際にはこの古墳に葬られていない可能性がありますので、古墳の年代は純粋に築陵年ということになります。 反正については倭の五王で述べたように、実際の政務は殆ど執らず、実権は允恭が握っていた形式的な存在であったため、墳丘の規模が小さくなったと考えました。 反正は仁徳履中と関わる人物ですから、墳丘の位置や築造の構想などから見て、田出井古墳以外にはありえないと思います。
中期古墳で下表以外の巨大なものとして、他に造山古墳と作山古墳が知られていますが、おそらく吉備にも倭王がいたと思います。 最大級の古墳が河内にあるのは、政権の地理的重心が瀬戸内にあったからでしょうが、吉備はその後大和王権との争いに負けて、王の伝承を残さなかったと思われます。 宋書に見える平征将軍倭隋などはそのような存在であると見なしてよいのではないでしょうか。 また安康については、その宋書における記述が、倭王世子であるところからして、事実上即位に失敗したか取り消されたと考えます。 日本書紀によれば埋葬は死後三年たってからで、しかも穴穂という宮の名以外伝わっておらず、尋常ではありません。 したがって何らかの理由で王としての形式すらとらず、未発見の小墓に葬られていると思われます。 陵墓伝承地が菅原となっているのは、刺殺されたときの状況に、垂仁の狭穂姫の伝承を思い起こさせるものがあり、何らかの関係があるのではないかと思います。 雄略紀には安康が後継者を市辺押磐皇子にしたことを恨んでいたような記述もあり、復権は穴穂部を立てる話題が雄略末年近くにあることから、かなり後のことであると思われます。
古墳名 | 須恵器編年 藤井寺市掲載 | 埴輪編年 十河氏論文 | 本稿推定 | |||
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被葬者 | 築陵開始 | 葬送 | 備考 | |||
津堂城山 | 361-380 | 3期一段階 | 仲哀 | 355年頃? | 362年頃 | |
五神社 | 361-380 | 最初の神功 | 362年以降? | 389年頃? | ||
仲ツ山 | 381-400 | 3期二段階 | 先の応神 | 389年以降? | 394年 | |
上石津ミサンザイ | 381-400 | 3期二段階 | 履中 | 394年から415年頃 | 427年 | 先の仁徳の寿陵を転用 |
誉田御廟山 | 401-420 | 4期一段階 | 応神(讃) | 403年から426年頃 | 430年 | |
ウワナベ | 421-440 | 先の仁徳 | 426年頃 | 427年 | 死後築陵 | |
大仙稜 | 441-460 | 4期二段階 | 仁徳(珍) | 432年 | 439年 | 完成は439年以降? |
田出井古墳 | 4期二段階 | 反正 | 大仙稜完成後 | 大仙稜完成後 | ||
市野山 | 461-480 | 4期三段階 | 允恭(済) | 大仙稜完成後 | 454年 | |
未発見(恐らく小さい) | 安康(興) | 463年 | 463年 | 倭王世子(未即位?) | ||
土師二サンザイ | 441-460 | 4期三段階 | 磐城王 | 460年から476年頃 | 葬送されず? | 顕宗紀詳述(天皇即位?) |
岡ミサンザイ | 481-500 | 5期一段階 | 雄略(武) | 460年頃 | 489年 |
三番目の問題ですが、神功紀についてみたように、応神仁徳の伝承は本来複数の王の伝承の丸めたもので、その系図もこの辺りから信用できなくなってくると思われます。 讃珍は宋書の記録から兄弟であるとわかりますが、応神仁徳履中反正との関係ははっきりしません。 王族の中には吉備の大王墓を残した、倭隋のような人々もいたはずですが、後世の記録には伝えられていないのです。 4節で述べたように、応神仁徳神功といった人々の記録は、日本書紀における歴史的記録の上限と言えるものであるようです。
日本の歴史記録という意味では、426年の政変の持つ意味は非常に大きいと思われます。 神功紀四十六年条の百済との接触は、七世紀以降に来朝した百済人貴族の残した記録によって、その時代の日本に関する歴史記録の始まりともいえるものですが、国内記録については、その後の応神紀等に見える渡来人が、重要な役割を果たしたと思われます。 そして426年の政変では、阿知使主が倭国政権の中枢に入ったことが分かります。 すなはちこの履中の時代こそが、国内記録の始まりを告げる出来事であったのでしょう。 履中紀四年八月条の諸国に国史を置いた記事は、まさにその事実を記録したものでしょう。 もちろんそれはまだ始まったばかりであり、歴史時代の始まりとしては、全く不十分なものであったと言えます。 しかし神功応神仁徳が、複数の王的存在の記録をまとめた、半ば神話伝承の世界の存在であるのに比べて、私は履中以降の天皇については、おぼろげながらその姿が見えてくるような気がするのです。
8.おわりに
神功紀は日本書紀において、複数の王の伝承が纏められる状況を、あらわにしていると思われます。 同時に神功紀は概ね古墳中期の王政の状況を示唆していて、地域首長の支持を得た複数の王族が、多頭的に存在していた状況を示していると思われます。 そして神功紀の状況を通じて、このような異なる豪族グループの支持を受けた、複数の王的存在の間の政争が、仲哀記や神功紀摂政即位前紀に見える戦乱や、倭の五王でみた、426年の政変と考えてよいと思います。
そのような政治闘争は、祭祀王の後宮でも続けられていて、この時代はそのような女王的存在の比重が高まった時代であるということが出来そうです。 推古以降の女性天皇のあり方が、王位継承の問題の発生した時の、いわば緊急避難的な処置であったとする考え方があります。 古くは卑弥呼や壹與が、混乱の収拾のために立ったとみられることも考えると、この時代は実は王の権威やその継承が危機に落ちいった時代であったと考えられるのではないでしょうか。 中期古墳時代は、古墳の規模が最大化した時代であり、しばしば王の権威が飛躍的に伸びたと考えられていますが、実は継承の危機が深刻化したことを示している可能性があります。
実際日本書紀には、神功紀の政変に続き、本稿で426年の政変と呼ぶ履中即位前紀の政変、安康即位前紀の政変、雄略即位前紀の政変、雄略没後の政変と武力を伴う中央政権の政変が立て続けに起こります。 古墳の大きさは、允恭雄略のあたりで一旦小さくなり、百舌鳥古墳群も終焉しますが、古墳後期の継体欽明朝の血統断絶に伴い、再び巨大化します。 これらの事実は、古墳の規模に対する考え方に、多くの示唆を与えるものではないでしょうか。
記紀の五世紀以前については、海外史料との一致がほとんど見られないことから、編年史料としてほとんど信じられてきませんでした。 私見では継体欽明朝の秘密、倭の五王、雄略紀の分析を通して、一見不一致に見えますが実はある程度歴史を再建できるものと考えています。 三国史記や宋書をもとに検討すると、日本書紀の原史料であった特に渡来系氏族の残したであろう干支を含んだ原史料を、日本書紀編纂者が古事記に見られるような、王朝史観で解釈するために、無理やりな編年を行ったことが、不一致の原因であって、むしろそのような事情を加味して考察を加えると、宋書の記録との一致度は非常に高く見えます。 むしろ宋書で解釈が錯綜している連続朝貢なども、倭国側の視点で解けてくることが分かります。
私見では多くの文献批判にもかかわらず、いまだに歴史学は記紀の天皇制に対する既成概念にとらわれていると思います。 戦前の天皇中心史観にたいする批判もあって、天皇系図についてはそれが作為的に改変されたという説が数多く現れてきました。 しかし古代天皇制の制度そのものに対して、記紀に展開された天皇像からの脱却ができていないように感じるのです。 たとえどんなに天皇系図を修正してみても、記紀系図の天皇の順次即位のくびきから逃れられていません。 文献学者も考古学者も、各地の有力首長が独自性を持っていたことを主張するのに、天皇についてはどこかで伝統的な天皇観を引きずっているのです。
日本書紀に見える天皇紀の記録を、並列的に見ることが可能になると、実は怪物的な長寿の臣下も、史料編纂上そう見えるだけということもあり得るのです。 例えば阿知使主のような人物は、記紀において応神紀に来朝し、仁徳紀を飛ばして履中紀に登場するなど、世代を飛び越えた存在として、伝説的な人物に過ぎず実在性は薄いと考えられてきました。 しかし本稿の年表は、応神紀を干支の二運、仁徳紀を干支の一運さげ、履中紀の没年を古事記崩年に合わせただけですが、天皇の並列を許すだけで、阿知使主の動きを時系列的に読み取ることができるのです。 本稿の結論は、阿知使主は応神二十年(409年)九月条で来朝し、履中即位前紀(426年)正月に登場し、応神紀三十七年(426年)二月に呉に使者に立ち、そこからしばらく履中紀の重臣にも名が見えず、応神紀四十一年(430年)是月条で再登場します。 そして履中六年(432年)正月条の、蔵職を建て蔵部を定める記事に関連する古事記の記事に、阿知直を蔵官とすると現れるのです。 阿知使主の在不在に年次的な矛盾がなく、来朝時の年齢を三十才としても、蔵官となったのが五十三才で年齢的な矛盾もありません。 このような阿知使主の挙動は、現日本書紀ではバラバラですから、編纂者が仕組んだものではなく、東漢氏の伝えた干支を含む史料がそうなっていたとしか思えません。 阿知使主自体は後継氏族が、後世史料で象徴的な存在として扱っているとしても、モデルになった人物は実在したと考えてよいと思います。
私の継体欽明朝の秘密に始まる日本書紀に対する考察は、日本書紀が原史料とした氏族史料に、干支や即位年などの情報が含まれていたとして、そこから紀年を再構ししてきました。 5節で述べたように、古事記の神功の伝説にも何らかの史実の核があったと思われるものの、神功紀にはすでに複数の人物の伝承をが流れ込んでいることが明らかになりました。 同様に応神や仁徳も、複数の合わせた伝説的な人物であることが分かりました。 ここまで試してきた干支を用いた歴史の再構も、4節でみたように神功紀でついにその上限に達したようです。 ここから先の日本書紀は、歴史書としてよりも古事記同様の神話伝承の書と扱うべきもののようです。
参考文献
- 「三国史記」新羅関係記事の検討 東アジア研究 2016年 高寛敏
- 好太王碑文と顓頊暦紀年法 島医大紀要 1978年 友田吉之助
- 日本国家の形成 岩波新書 1977年 山尾幸久)
- 倭国の古代学 新泉社 2021年 坂靖
- 百舌鳥御廟山古墳の被葬者像 関西大学博物館紀要 2014年 十河 良和
- 日本書紀 岩波文庫(二)
- 全現代語訳 日本書紀 宇治谷孟 講談社学術文庫
- 古事記 全訳注
- 維基文庫 三国史記
- 漢籍電子文献資料庫
- 日本書紀検索
- 古事記検索
変更履歴
- 2022年4月9日 初版
- 2022年4月21日 初版 本文と表の表現方法と用語用字の修正。2022年5月24日一部の文字と表現訂正。
白石南花の随想