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加羅の名は

ー加耶と弁辰ー

1.加耶と加羅

日本書紀には朝鮮半島南部に、加羅という地名があらわれる。 この地名に関しては、三国史記や三国遺事などの朝鮮系史料では、加耶、伽耶などと書かれることが多いが、加良、駕洛などと書かれることもある。 日本では加羅、加良、駕洛はカラのように読まれ、加耶、伽耶はカヤのように読まれるが、同一の地名であると考えられている。 なぜこのような異表記があるかについては、古くは通音であるとされてきた。 しかし文献史学者の大勢は、カラが古くカヤが新しいとしているようである。 少々長いが下記に高寛敏氏の「『三国史記』新羅関係記事の検討」から引用する(1.1)。

当代史料である412年『広開土王碑』の「任那加羅」、『宋書』夷蛮伝・倭国条・文帝二十八年(451年) 倭王斉除正称号中の「加羅」、『日本書紀』神功 紀と継体・欽明紀の「加羅」・「南加羅」とあっ て、当代史料には「加耶」はない。『史記』楽志・ 加耶琴条引用『羅古記』には、加耶国嘉実王が 省熱県人于勒に命じて十二曲を製したが、その 中には「上加羅都」・「下加羅都」の曲名がみえ る。「加耶国」以外は、みな「加羅」である。「加耶」の確実な例は、7世紀後半に建立されたと 思われる金庾信伝所引『庾信碑』の「南加耶」である。次は庾信玄孫長清作『行録』の節略記 事である金庾信伝の「号曰加耶、後改為金官国」である。法興王十九年条の、「金官国主金仇亥」 以下の「金官国」降伏記事は、この『行録』か らの引用文である。このように、5・6世紀の 信頼するべき史料は、みな「加羅」であって、「加耶」は7世紀後半になって用いられた。楽志の「加耶」は曲名からも分かるように、本来 は「加羅」であって、「加耶琴」も「加羅琴」 であったのである。于勒は6世紀に新羅に亡命 して真興王に仕えた。真興王紀十二年条には、 「加耶国嘉悉王」、「其楽名加耶琴」とあるが、それは『新国史』の時には、「加羅」が「加耶」とされ、琴も「加耶琴」と呼ばれるようになっ たからである。新羅本紀には初期から「加耶」が頻出するが、それはみな『新国史』に基づいたからである。加耶琴は新羅から日本に輸出さ れたので、日本では新羅琴と呼ばれた。6世紀には金海勢力は南加羅と称され、532年に新羅に併合された。その「南加羅」を「金 官国」と称したのは、『行録』である。その契機は文武王紀二十年条に、「加耶郡置金官小京」にある。南加羅は『新国史』の頃に加耶郡、さらに680年に「金官小京」とされた。そこから「金官国」が案出されたと思われるのである。

確かに史料的にはカラが古いと思われるが、この見解には重要な見落としがあると考える。 それは三国志東夷伝にあらわれる狗邪國である。 狗邪の狗字は、倭人条にみえる卑狗がおそらく日本語のヒコを表すと思われることを考えると、コヤに近い音であったと考えられる。 これは母音の逆行同化を考えればカヤに近い上、倭人条では倭国との深い関係がうかがえ、考古学的な倭系遺物の状況を考えると、金海地区にあった国であることは、まず間違いないと思われる。 すなはち、三世紀金海地区にはカヤという国があり、これが文献上のカヤの初出なのである。

ではなぜ日本書紀や広開土王碑の記録は加羅になっているのであろうか。 三国志東夷伝の韓の条にみえる、79ヵ国の国名についてみると、末尾に盧のつくものが九か国ある。 この中には後の新羅とされる斯盧があるため、盧はのような音をあらわしていると思われる。 一方国名の末尾に、邪のつく国名もみられ、その中にはすでにみた加耶につながる狗邪があることから、これらはのような音をあらわしていると思われる。 下記論考で、盧は後の百済や新羅になる、朝鮮半島の西岸と東岸、邪は南岸に分布していると考えた。論稿1:国名でみる三韓の地域性について 8.結論と展望

つまり三世紀にさかのぼると、の違いはある種の言語の地方差、方言差であると考えられる。 日本書紀は百済系史料の影響が強く、広開土王碑は高句麗の史料であるが、この時新羅の側で戦っている。 そのため文献には方言が残されたと考えられるのである。

上記論文で加耶の初出とされる金庾信伝所引『庾信碑』は、新羅に併合された金官伽耶の王族の子孫である金庾信の残したものである。 新羅は金官伽耶を併合したさい、その王族を新羅中枢に迎えた。 金庾信はその子孫なのであり、旧加耶の領域出身者が、新羅中枢に入ったことにより、その方言が記録に残るようになったと考えると説明がつく。 加耶は本来カヤであったと思われる。

参考文献
 1.1『三国史記』新羅関係記事の検討 高寛敏 東アジア研究(大阪経済法科大学アジア研究所) 第65号,2016年,4-5ページ

2.大加耶の本名は?

三国遺事に引く駕洛國記には、加耶の領域について次のような記述がある。

三国遺事に引く駕洛國記より:
 國稱大駕洛。又稱伽耶國。即六伽耶之一也。餘五人各歸為五伽耶主。東以黃山江。西南以濸海。西北以地理山。東北以伽耶山南而為國尾。

 国は大駕洛と称する。また伽耶國とも称する。すなはち六伽耶の一つである。のこりの五人はそれぞれ帰って五伽耶の主となった。東は黃山江、西南は海、西北は地理山、東北は伽耶山の南をもって国の境界とする。

つまり加耶の起源は、金海地区にあった国であるとともに、その概念は複数の国を含むある領域を示すようである。 考古学的な状況からも、三四世紀には金海地区が、この地域の中心的役割を担う存在であったことがうかがえる。 しかし五世紀になると、それまでの墓域における王墓形成が止まり、金海の発展は止まったように見える。 『広開土王碑』によれば、そのころ金海地区は高句麗による侵入を受けたものと思われる。 その後の加耶地域には、新羅や百済のような領域を支配する王権の発展はなく、周辺の影響を受けた小国分立の状況が続いたと思われている。

田中俊明氏の大加耶連盟の興亡と「任那」によると、三国史記においては下記のような国は、単独でカヤないしカラと呼ばれたとされる(2.1)。

金官:伽落、伽耶、加耶
 大加耶:加耶、加羅
 安羅:加羅

これらの国は、加耶における重要な役割を担った国々で、金官は三国遺事に引く駕洛國記には、大駕洛として現れる。

金海に続いて五世紀後半から重要性を増したと考えられているのが大加耶である。 三国遺事の五伽耶条と三国史記地理志には大加耶は高霊にあった国であるとし、この地区の王墓の存在もそれを裏付ける。 この国は上記の単独でカヤないしカラと呼ばれた国とも重なり、加耶地域を代表する存在になったと思われる。 ここから大加耶や大駕洛は、ある種の美称であると考えられる(2.2)。

このうち金海については、前節でみたように三世紀の狗邪であることがわかるが、大加耶についてはその本来の名称は何であったのだろうか。 田中俊明氏は日本書紀にみえる伴跛こそが本来の名前であるとされた(2.3)。 しかし私は伴跛と大加耶は別の地域であり、三国史記にみえる本彼懸と考える。論稿2:伴跛は何故戦ったのか

では大加耶の本名は何であろうか。 大加耶を、加羅、加耶以外の名で呼んだ史料は、景徳王時代の大加耶郡の高霊郡への改名に関するものだけである。 ただ景徳王の改名は中国風の地名に改めたものが多く、もとの地名の音を写したものだけではないのが問題である。

そこで霊のつく地名に関して改名の状況をみると、下記のようになっている。

景徳王の改名(靈を含むもの)
三国史記巻改名後本の地名
巻34孝靈縣本芼兮縣
大加耶國高靈郡
巻35奈靈郡百濟奈已郡
巻36武靈郡百濟武尸伊郡
靈巖郡百濟月奈郡
馬靈縣百濟馬突縣

この中で音的に関連しそうなのは、尸を朝鮮漢字音でみるrととる場合の、武靈郡のみである。 三国史記や日本書紀などからの探求は難しそうである。

参考文献
 2.1 二.加耶とは何か・1.[加耶]とは何か・「三国史記」の加耶 田中俊明 大加耶連盟の興亡と「任那」(吉川弘文館) 29-31ページ
 2.2 二.加耶とは何か・3.ふたつの大加耶・大伽耶国の固有名は 田中俊明 前掲書 41ページ
 2.3 二.加耶とは何か・3.ふたつの大加耶・伴跛と本彼 田中俊明 前掲書 43ページ

3.三国志東夷伝に大加耶を探す

1.節でみたように三国志東夷伝は、別格に古い資料であるだけに、これを利用できると、議論に縦深が生まれ新しい視点が開ける。 残念ながら地名に関しては、ほとんどが国名の列記で、狗邪のように場所に関する他の手掛かりのあるケースは、他にほとんどない。

東夷伝の韓条の79の国名に関しては、その特徴をもとにした解析を行ったことがある。 論稿3:国名でみる三韓の地域性について 7.韓伝国名リスト成立の謎

上述の私の論稿では、これらの国名は八ヵ国づつ、十のグループに分類され、地域的に高霊を含むのは、おそらく弁辰辰韓3分の2区分に当たるであろう。

この区分の中で注目されるのが、半路國である。 半路國の路を誤写とみて、日本書紀にみえる伴跛にあてる説は、現時点で有力な説となっている。 論稿4:三韓概念の成立 2.鮎貝房之進氏の疑問 -瀆盧國の帰属を問う-では、国名の特徴をもとに弁辰と辰韓の分類を見直している。 この分類では、半路國は弁辰に当たるにもかかわらず、辰韓の甘路國や戸路國と特徴が共通するため、路が誤写であることを支持する内容になっている。

半路國が伴跛であり、星州の古名本彼にあたるとすると、弁辰辰韓3分の2区分に、ある程度の地理的まとまりが期待できることから、星州に隣接する高霊は、半路國の前後近くにあると予想される。 半路國の前が冉奚國、あとが樂奴國となる。 論稿4:三韓概念の成立 2.鮎貝房之進氏の疑問 -瀆盧國の帰属を問う-によれば冉奚國は弁辰、樂奴國は辰韓となる。 冉奚については、末松保和氏による、三国史記熱兮縣、現在の慶尚北道義城郡玉山面の比定がある。(3.1) 問題は樂奴の比定なのであるが、これが大変に厄介な地名なのである。

樂という字は日本漢字音でガクラクの読みがあるが、前者は中国隋初の音価では、鼻濁音ngではじまり、後者は同じく流音lではじまる。 ところが、中世以降の朝鮮語では、nglも語頭に立つことのない音なのである。 これは現在までの朝鮮半島の古代語に関する推定でも同じである。 三国志東夷伝の韓の国名では、79ヵ国中l始まりが、臨素半と楽奴の2例、ng始まりが月支と楽奴の2例しかない。 しかも月支は後漢書や翰苑では目支となっていて、おそらくこちらが正しいであろう。 このケースは楽奴のみとなって採用しづらい。 l始まりは2例あるが、79ヵ国の中には小石索や大石索のように、あきらかに漢字の字義に基づく用例があり、これらl始まりの漢字も音写でなかった可能性がある。 その場合これらの地名はどのようになまったかが問題になる。

例えば現代韓国の藍浦という地名は、カタカナで書けばナンポのように発音される。 l音が発音が比較的近いnに置き換えられる。 人名の李はになる。 一般に後続母音がiの場合は子音が落ち、そうでない場合はl->nのような変化になる。

古代においてはどうだったのだろうか。 上記のような変化は自然であるが、文献上は予想外な変化があった可能性が指摘できる。 三国史記地理志には、押梁を押督ともかくとの記述があり、/lung//tok/と呼んでいるようである。

獐山郡,祗味王時,伐取押梁 一作督小國,置郡,景德王改名,今章山郡,領縣三
 獐山郡は祗味王の時押梁(一伝では督に作る)小國を取って郡を置いた。景徳王が改名した。今の章山郡で領懸は三である。

これは同じく三国史記に新羅六部のひとつ沙梁部となっているのが、三国遺事では沙涿部になっていることからもうかがえる。 さらにこの六部の梁は、迎日冷水碑や蔚珍鳳坪碑では口編に菉と書かれ、この字は日本書紀などでは、トクと読まれている。 この口編に菉という字自体も問題で、隋代の辞書にはなく、おそらく朝鮮半島で創出された字であろうが、康煕字典などではlukの音が当てられている。 隋代の辞書では菉を旁とする字は、ほぼl音始まりである。 つまり音韻的には考え難い、非常に珍しいケースではあるが、古代朝鮮では語頭のl音をt音になまることがあったようなのである。

楽にそのケースを当てはめると、読みは/tak/のようになる。 楽奴の第二音節の奴が論稿1:国名でみる三韓の地域性について 8.結論と展望でみたように、路・盧・邪同様の、地名的接尾であるとすると、地名を識別するものは楽/tak/であることになる。 半路=伴跛すなはち星州とすると、そこから遠からずに大邱の古地名達句火が見える。 楽奴は現在の大邱ではないだろうか。 するとこの国名リストは、洛東江流域を下っている可能性がある。

半路、楽奴につづいて、軍彌、彌烏邪馬がつづく。 論稿4:三韓概念の成立 2.鮎貝房之進氏の疑問 -瀆盧國の帰属を問う-では軍彌は弁辰、彌烏邪馬は辰韓になる。 論稿では辰韓は倭に接し、それゆえ倭に風俗がにていると考える。 そのため、国名の特徴についても、辰韓と倭には共通点がある。 例えば倭には奴で終わる国名が多いが、辰韓にも楽奴がある。 辰韓の瀆盧、斯盧に似た、末盧が倭にある。

それゆえ、彌烏邪馬には倭語の影響を考えてよいと思う。 この邪馬國や邪馬臺國の邪馬と同じく、山を意味するのであろう。 彌烏邪馬は彌烏(山)である。

そこで三国史記地理志をみると、大邱からそれほど遠からず、現在の清道郡に烏耶山の地名が見つかる。 これは彌烏邪馬から語頭と語末の音節が落ちて、本来の意味にあった山が追加されたとみることができる。

するとここで地名の地理的パターンが見えてくる。

国名地域辰韓/弁辰
半路洛東江西岸弁辰
楽奴洛東江東岸辰韓
軍彌弁辰
彌烏邪馬洛東江東岸辰韓

前掲の二つの論稿に基づくと、この後洛東江沿いに下記の国の比定が続く。

国名地域辰韓/弁辰
安邪洛東江西岸弁辰
走漕馬洛東江西岸弁辰
狗邪洛東江西岸弁辰
瀆盧洛東江東岸辰韓

これらから、軍彌は洛東江西岸にあり、大邱より南、青道より北となる。 すなはち、三世紀高霊は軍彌であったと考える。

参考文献
 3.1 第三編 新羅建国考 第一章 楽浪・帯方との関係 末松保和 新羅史の諸問題(東洋文庫館) 123ページ

4.加羅の名は

軍彌はどう発音されたのだろうか。 隋代の推定音からすると、/kunmi/のような音になるが、朝鮮系の固有名詞の場合特別な注意が必要である。 それは朝鮮語には中国語にない、rで終わる音節があり、しばしばtで終わる漢字や、nで終わる漢字をあてることがあるためである。 例えば日本書紀には微叱己知波珍干岐という人名が出てくるが、ミシコチハトリカンキと訓じている。 ここでは珍/tin/トリ/tur/と読んでいる。 三国志は中国の史書ではあるが、すでに見てきたように、すでに韓人による国名の文字化は始まっていたと思われ、朝鮮系史料と同様の事情が起きている可能性がある。

従って軍は/kun/のほかに/kur/の可能性がある。 ここで、狗邪/kuya/が三国時代の加耶/kaya/であるとするなら、軍彌國は三国時代には/karmi/のように呼ばれた可能性が出てくる。 すでに奴・路・盧・邪の例でみたように、第二音節を地名的接尾であるとすると、核になる部分は/kar/になる。

三国史記には、大加耶郡の領懸として、加尸兮の地名が見えるが、兮はしばしば谷ないし港の意味を持ち、この地名は加尸の港と理解できる。 尸は三国史記の読みではしばしばr音を表すので、これは/kar/の港である。 推定地は高霊の中枢部に近い、洛東江沿いで高霊の港ともいえる。 高霊/koryo/という景徳王の改名も、/kar/という地名を意識したものではないだろうか。

これを地名に/la/をつける癖のある百済人が呼ぶと、/kala/になると予想できる。 日本書紀が百済系文書の影響を受けていることも考えると、そこにみえる加羅こそが大加耶の本名を反映したものであることになる。

日本書紀にみえる南加羅は、金海地区のことを指すと思われるが、1節でみたように自称は本来は加耶/kaya/であったと思われる。 高句麗が新羅を配下にして、金海地区の加耶を滅ぼしたとき、そこは新羅方言で/kara/と呼ばれたであろう。 この結果古くからの加羅/kar/と同じ国名が、近接して生ずる結果となり、高句麗はこれを区別するために任那加羅と呼び、百済や倭などは南加羅としたのであろう。

南加羅の呼び名は、高句麗が金海地区を破壊してのち、高霊がこの地域の中心になったため加羅と呼び、金海の加羅には区別するための語が頭接したとされてきた。 しかし滅ぼした高句麗が任那加羅と呼んでいるのであるから、これは成立しない。 したがって、神功紀即位四十九年春三月の七か国平定記にみえる南加羅は、高句麗南下後の呼び名であるとして、この記事の示す出来事は五世紀初頭以降に下るという説は、見直しの必要がある。

国名だけの記載しかない、三国志東夷伝韓条の国名については、取り扱いが難しく、近年ではほとんど歴史の議論に用いられることがない。 しかし、参考にあげた私の論稿のように、地名群の特徴による分類を行い、多対多の比較を行うことで、多少なりとも歴史の議論に耐えうるものになると考えている。 そして三世紀の地名史料が利用できることになると、現在行われているおおむね四世紀以降の文字資料に基づく歴史観を、覆すような視点が生まれると考える。

5.三国志の国名の洛東江中下流域への比定

下記に上記論稿に合わせて、三国志東夷伝韓条の国々の内、論稿3:国名でみる三韓の地域性について 6.弁辰辰韓の国名区画を調べるの弁辰辰韓3分の3区分と3分の2区分にあたる、洛東江中下流域の国々についての比定を示す。 順は弁辰辰韓の国の記載順を示す。 すでに述べたように、国名の特徴をもとに弁辰と辰韓の分類を見直している。論稿4:三韓概念の成立 2.鮎貝房之進氏の疑問 -瀆盧國の帰属を問う-

弁辰辰韓3分の2区分
国名三国史記地名現在地出典備考
冉奚(弁辰)熱兮縣(或云泥兮)慶尚北道義城郡(3.1)
10半路(弁辰)本彼懸慶尚北道星州郡継体紀半跛。論稿3により半路を半跛の誤とする。
11樂奴達句火懸慶尚北道大邱市
12軍彌(弁辰)大加耶國慶尚北道高霊郡
13彌烏邪馬烏也山懸慶尚北道清道郡
14如湛(弁辰)奴同覓縣(一云如豆覓)慶尚北道軍威郡(3.1)
15甘路甘文郡慶尚北道金泉市下記論稿4応神紀甘羅
16戸路古尸山郡/召羅縣/所利山懸忠清北道沃川郡または永同郡(3.1)翰苑および明本には尸路。
弁辰辰韓3分の3区分(下記論稿5参照)
国名三国史記地名現在地出典備考
17州鮮
18馬延(弁辰)
19狗邪(弁辰)金官郡(一云伽落國一云伽耶)慶尚南道金海市
20走漕馬(弁辰)慶尚南道金海市北部(3.1)欣明紀卒麻。金海市北部に率利馬
21安邪(弁辰)阿尸良國(一云阿那加耶)慶尚南道咸安郡
22瀆盧居漆山郡慶尚南道釜山市景徳王改名後の地名東萊郡を参照
23斯盧慶尚南道慶州市新羅王都
24優由于尸郡慶尚北道盈徳郡北部(3.1)

論稿5 国名でみる三韓の地域性について 7.韓伝国名リスト成立の謎

北から南に9、10、11、12、13と続いて、秋風洞越えの分岐ラインが14、15、16と続く。 秋風洞越えのルートは、月支國につながっていて、辰王と辰韓をつなぐ内陸ルートであったかもしれない。 分岐点は9の冉奚、ここは現在半島の東西を結ぶ、唐津-盈徳高速道路が通っており、何らかの重要拠点であった可能性がある。 三国志東夷伝韓条には、下記の記録がある。

七年春二月、幽州刺史毌丘儉討高句驪、夏五月、討濊貊、皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。
 七年(246)春二月、幽州刺史毌丘倹は高句驪を討った。夏五月には濊貊を討ちこれを皆な破った。韓の那奚ら数十ヵ国が各々一族の集落を率いて降伏した。

この那奚が冉奚であるとする説がある。(3.1)

19、20、21は洛東江を遡るルートである。 22、23、24はそこからの分岐で、日本海岸を北上するルートであると思われる。 辰韓と弁辰は、洛東江下流では西岸に弁辰、東岸に辰韓と別れているが、上流では辰韓が忠清北道に入っている。 これは後の時代に新羅の勢力が、忠清北道に浸透していく伏線であるのかもしれない。(3.1)



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