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継体欽明朝の秘密

ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文を端緒としてー

概要

日本書紀継体欽明朝に関しては、下記のようなさまざまな問題点が指摘されてきた。

  1. 継体は何故即位後二十年も大和入り出来なかったのか
  2. 継体七年の百済からの己汶・帶沙の割譲願いから、継体九年までの記述と、継体二十三年三月条冒頭の記述が重複しているように見える
  3. 継体崩御は531年で、本文中安閑に譲位してすぐに崩御したとするのに、安閑の即位年は534年で矛盾がある
  4. 仏教伝来は欽明紀では十三年であるが、上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起には戊午年とあって、欽明在位年には戊午年はない。さらに元興寺伽藍縁起ではこの年を欽明七年とする
  5. 欽明在位年数は三十二年であるが、上宮聖徳法王帝説では「志帰島天皇治天下卌一年」(欽明天皇治天下四十一年)となっている
  6. 欽明紀には敏達立太子を欽明十五年とするが、敏達紀では欽明二十九年とする

これらの矛盾を説明するために、様々な説が唱えられてきた。著名なのは平子鐸嶺氏や喜田貞吉氏の二朝並立説である。 これをさらにすすめ、林屋辰三郎氏はいわば辛亥の変説ともいうべき、継体・欽明朝の内乱説を唱えた。(0.1) 一方三品彰英氏はこれらの混乱は、朝鮮系史料の混乱に基づくものとして、二朝並立説自体を批判された。(0.2) また坂本太郎氏は継体紀を史料批判して、継体紀から歴史を考える前に、継体紀自体の研究が必要であるとされた。(0.3)

本稿の立場は、日本書紀は基本的に百済三書の干支を重視して編年されたもので、多少のずれはあるものの、三国史記の編年にあっていると考える。 しかし本稿では、隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文をきっかけとして、日本書紀文面を再検証したところ、これらの矛盾は限られた時間の中で、日本書紀が大規模に再編年されたことによるものと結論した。 ただしそのような混乱が起こった背景には、すでに日本書紀編纂時において過去のものとなっていた、古代天皇制の特殊な政治形態があることを指摘した。 そしてそのような新しい視点で、継体欽明朝をとらえると、基本的には日本書紀に書かれたことだけをもとに、十分なリアリティーのある歴史の再建がなされることを示した。



目次

  1. はじめに
  2. 武烈紀の検証
  3. 顕宗紀の検証
  4. 継体紀の検証
  5. 安閑、宣化紀の検証
  6. 欽明紀の三つの即位年
  7. 改変の理由
  8. 編年方法
  9. 継体二十三年条の謎
  10. 並列する天皇の謎
  11. 夜の王と昼の王
  12. 継体即位前夜
  13. 継体の即位まで
  14. 継体朝の成立と金村の失脚
  15. 残る課題と展望-まとめに代えて-
  16. 補註
  17. 参考文献
 

1.はじめに

隅田八幡神社人物画像鏡銘文は、日本書記に関わる金石文として重要なものである。 数年前石和田秀幸氏は、この銘文とその解釈について重要な論文を発表された。 (1.1)(1.2)(1.3)

私はこの解釈は、日本書紀や日本の古代天皇のあり方を考えるうえで、大変に重要なものであると考えている。 この研究については、一時は歴史雑誌などにも紹介されたが、その後あまり聞かれない。 その理由は石和田氏自身が論文の中でも語っている通り、国語学者からの反論があったためと思われる。 論文では銘文中の「日十大王」を、「曰十大王」(曰はイワク)であるとし、「曰」を(ヲ)と読み、「十」「計」の略字として、「曰十大王」を(ヲケ)(ケは乙類)と読んでいる。 「曰」を「ヲ」と読む例として石和田氏は、「曰佐」(ヲサ)を挙げている。 しかし有力な日本語学者が、「曰」は呉音(ヲチ)漢音 (ヱツ)となっていて、中古音では末尾に子音のtを伴う読みであるため、(ヲ)と読むのは末尾子音省略の略音仮名的な読みとなって、時代的には新しいもので鏡の年代とは合わないとした。 石和田論文は基本的には国語学の論文であるため、このような反論は大きな痛手になった可能性がある。

正直最初にこの論に触れたときには、私も同じような印象を受けた。 しかし、その後魏志韓伝や三国史記の地名や人名表記を見ているうちに、次第に略音仮名は新しいとする見解に疑問を持つようになった。 日本に入ってきた古い漢字音は、朝鮮半島経由であることが知られており、韓語は日本語と違い音節構造が複雑なため、漢字の音で固有名詞を表現するのが難しく、必然的に漢字をあてる際には、多少の無理が生ずる。 略音仮名的表現は、むしろ半島的であり、古形の表現としておかしくないと考えるようになった。 石和田氏は魏志倭人伝の、「一支」を(イチキ)ではなく(イキ)と読む例を挙げているが、魏志倭人伝の表音表記には、私見では古韓音と呼ばれる、古い半島系の漢字音に類似した特徴がある。 例えば魏志倭人伝には、「載斯烏越」のような人名も出てくるが、これを日本語を表したものとすると、末尾の「曰」と同音の「越」は(ヲ)とでも読むしかない。 「一支」は隋書にも表れ、隋時代の標準的な音価では(イキ)とは読めないことから、これも推古朝の外交に百済系の人物が関与した結果とみることもできる。 また古韓音系の読みで読む必要があると思われる稲荷山鉄剣銘文にも、「半弖比」のような人名が登場し、これも(ハンテヒ)ではなく(ハテヒ)と読むべきであろう。 人物画像鏡銘文には「穢人今州利」とあるように、半島系の人物が絡んだことは間違いないのである。

この銘文に関する現在もっとも有力な説は、「男弟王」を継体とし、「斯麻」を百済の武寧王とするものであるが、石和田論文に述べられている通り、「男弟」を(ヲホド)と継体の名にあてるのは、国語学的に無理である。 また「斯麻」を武寧王とするとこの鏡は百済から送られたものとなるが、百済王の贈り物にしては鏡の銘文が反時計回りであったり、模様が省略されたり、文字が一部だけ鏡映反転していたりと、あまりにも粗雑な作りである。 石和田論文に引かれた車崎正彦氏や川西宏幸氏の論文にあるように、これは5世紀後半から6世紀初めの国産の鏡と考えられる。

これらのことから、現在では私は石和田氏によるこの読みは正しいとみている。 「曰(イワク)を(ヲ)と読むと「曰十大王」に相当するのは、「ヲ」で始まる人物になるが、そのような名前をもつ天皇で、(シマ)という兄がいる天皇は弘計天皇しかいない。 このことから「十」「計」の略体ではないかと考えられる。 「十」「計」の略体というのは多くの人が違和感を覚えると思われるが、金石文で「倭」「委」に略したようなケースはよく知られている。 また朝鮮半島で音を表すために用いられた口訣を知れば、ありがちなことであると了解できる。

石和田氏は「男弟」「男」は、「予」の異字体であるとし、また「開中費直」「開」「歸」「旱」「畢」の異字体であるとして下記のように読まれた。

原文:
「癸未年八月曰十大王年予弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣歸中費直穢人今州利二人等取白上同二百畢作此竟」

読み下し:
癸未の年八月、曰十(ヲケ)大王の年、予(わ)が弟王の意柴沙加の宮に在(い)ます時、斯麻長く奉(つか)へんことを念(ねが)ひ、歸中(キ)の費直と穢人今州利を遣はす。二人等の白(まう)す所は、銅二百を上(たてまつ)ること畢(をは)り、此の鏡を取(とりも)てりとまうす。

ここでは「斯麻」とは日本書紀の嶋郎(しまのいらつこ)、つまり弘計天皇=顕宗天皇の兄の仁賢天皇となる。

石和田説がなかなか広まらないもう一つの理由がここにあると思われる。 これは顕宗天皇の治世が「癸未」年、つまり503年まであったことになり、日本書紀のいわゆる紀年とは合わない。 また日本書紀にの内的分析に基づく批判によれば、顕宗や仁賢の実在自体を認めないので、いずれの立場にせよ日本書紀研究の主流からは外れてしまう。 しかし金石文史料は、文献史料とは独自の資料として、本来文献史料の検証に役立てるべきもので、合わないことはそれほど問題であるとは思われない。 そこでこの銘文に対する石和田解釈を正として、日本書紀記述を検討してみたのが本稿である。

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2.武烈紀の検証

日本書紀と石和田解釈との矛盾が最も端的に表れるのが、武烈紀である。 そこには即位四年のこととして、百済新選を引いて百済の末多王に代わって斯麻王、すなはち武寧王が立った記事がある。 これは日本書紀の紀年では顕宗帝末年から十五年後の、即位四年の502年となり、503年が顕宗の在位年となる石和田解釈とは合わない。(補註2.1.三国史記と百済新選における武寧王即位年の違い) ところがこれを注意深く見るとおかしなことに気づく。 この前年即位三年十一月の記事に、大伴室屋大連に詔して水派邑に城を作らせる話が出てくるのである。

森博達氏によれば、日本書紀の中でも巻十四から巻二十一および巻二十三から巻二十七までは、α群と呼ばれ中国系渡来人が記述したとされている。その中でも雄略紀から崇峻紀までの、巻十四から巻二十一までは用語や記述形式も一貫しており、内容を比較しやすい。そこで即位直後の記事で任命された重臣が、誰であったかを各天皇についてみてみると下記のようになる。

雄略紀から崇峻紀の重臣
天皇即位時重臣名
雄略平群眞鳥大臣、大伴室谷大連、物部目大連
清寧平群眞鳥大臣、大伴室屋大連
顯宗記載なし
仁賢記載なし
武烈大伴金村大連
継体大伴金村大連、許勢男人大臣爲大臣、物部麁鹿火大連
安閑大伴金村大連、物部麁鹿火大連
宣化大伴金村大連、物部麁鹿火大連、蘇我稻目宿禰大臣、阿倍大麻呂臣大夫
欽明大伴金村大連、物部尾輿大連、蘇我稻目宿禰大臣
敏達物部弓削守屋大連、蘇我馬子宿禰大臣
用明蘇我馬子宿禰大臣、物部弓削守屋大連
崇峻蘇我馬子宿禰大臣

各氏族が大連や大臣となっているが、きれいに世代交代していることが分かる。 途中平群氏が消えているのは、武烈即位前紀に大伴氏により誅されているからであるし、大伴氏が消えているのは欽明朝での失脚、物部氏が消えているのは用明朝での仏教をめぐる争での失脚によるものである。 これをみると武烈即位時にすでに大伴の大連は、金村になっており、武烈三年条に大伴室屋大連が出てくるのは不自然である。 三年十一月条は本来武烈以前の誰かの記事であったものが、ここに移されていると考えられる。 石和田説によって、武寧王即位年の502年が顕宗治世であるとすると、その前年にあたる大伴室屋大連が出てくる三年十一月条は、四年夏四月是歲条の武寧即位記事とあわせて、もとは顕宗紀の記事だったのではないかという疑問が生じるのである。

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3.顕宗紀の検証

ここで顕宗の末年をみてみると、顕宗三年四月の記事に続く是月条に、実に不思議な記事が見える。 紀生磐宿禰が任那から高麗(高句麗)に通じ、三韓の王になろうとして官府を整え、神と自称したとの記事である。 この記事によれば、さらに任那の左魯と那奇他甲背たちの策を用いて、百済の適莫爾解を爾林で殺し、帶山城を築いたところ、港からの兵糧が絶えて(百済の)軍隊が飢えたとある。 これは尋常な事態ではない。

まず帶山とは現泰任で、百済時代の古沙夫里、現井邑市古阜面の東方に位置する。 古沙夫里は百済南部の要衝で、神功紀摂政四十九年条において、古沙の山に同盟の誓いを立てた場所である。 この築城が倭王権の意志によるものなら、百済との同盟の破棄になる、由々しき事態である。 紀生磐宿禰はまさに倭王権の後ろ盾なしに、百済の敵国である高句麗に通じ、百済勢力圏の要地に侵入して城を作ったのである。

この時殺された適莫爾解は、百済王が怒って派遣した、古爾解や內頭莫古解に名前が類似していて、百済の軍事官僚と思われる。 紀生磐宿禰は百済王権に逆らう人々、言わば反乱軍と通じたと思われる。 しかも百済王が軍を派遣する前に軍が飢えたとあるが、もしも平時であれば駐屯地にはそれなりの蓄えがあるはずで、簡単に飢えるはずがなく、すでに百済は軍隊を動員していたと思われる。 つまり百済国内は軍事的緊張状態にあり、紀生磐宿禰はそれに乗じて百済乗っ取りをたくらんだのだ。(補註3.1.紀生磐宿禰について)

この記事は左魯や那奇他甲背などの人名からして、おそらく百済系史料をもとにしたものであろう。 日本書紀編纂者の勝手な想像ではあるまい。 であれば三国史記にもそれなりの記事があってもよさそうである。 しかし現日本書紀の紀年では、この事件は東城王の八年で、前後を見てもそのような気配がないのである。

そこで石和田説に従って、503年が顕宗の在位年であったとすると、東城王の末年501年に、衛士佐平の苩加が刺客を差し向けて王を暗殺し、王都熊津の至近の地である、加林城に立てこもった記事が見えるのである。 もしも紀生磐宿禰の事件が501年であれば、このような暴走もありえない話ではないのである。 三国史記百済本記では、501年11月に始まった混乱を、502年正月に鎮圧し武寧王の即位となる。(前節の補注2.1を参照) 顕宗三年四月条に続く紀生磐宿禰の記事は、501年の東城王の暗殺後の混乱状態での出来事とみてよいであろう。 そうすると、顕宗三年は501年となり、武烈三年十月条の大伴室屋大連の出てくる記事は、もとは本来顕宗三年四月条に続くものであったとみることができる。

もしもこの想定が正しければ、現日本書紀にはもとになった文面があり、そこでは顕宗紀は四年以上あったことになる。 いま古事記では顕宗は八年在位したことになっていることを信ずるならば、顕宗紀はもとは八年あったものを、一部を武烈紀に移し短縮した可能性が浮かび上がるのである。

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4.継体紀の検証

この改変の事情を調べるために引き続く継体紀を調べてみる。 前節でみたように顕宗三年を501年とし、古事記によって八年継続したとすると、顕宗の崩年は506年となる。 現日本書紀の継体即位年の前年である。つまり改変前の顕宗紀と継体紀はつながっていたことになる。

では仁賢紀や武烈紀はどうなるのか。 そこでひとまず改変前の顕宗紀に続けて仁賢紀を置き、継体紀に並行させてみよう。 すると仁賢の崩年の仁賢十一年は、継体十一年に並行することになるが、現継体紀では翌継体十二年に、弟国に遷都している。 顕宗仁賢の崩御と、継体の即位遷都が連動しているのだ。 さらに続く武烈紀を、仁賢紀に引き続き継体紀に並列させると、武烈崩年の武烈八年は、継体十九年と並行し、その翌年継体は磐余玉穂の宮に遷都しているのである。 武烈の崩御もまた継体の遷都と連動していることになる。

この連動はさらに細かいところまで確認することができる。 仁賢四年に的臣蚊嶋と穗瓮君に罪があり獄死する記事が見え、何らかの政変を思わせるが、翌継体五年に山背の筒城への遷都の記事が見えるのである。 前節で述べたように武烈紀には顕宗紀から三年条と四年条が移されていると思われるが、そのあとの六年秋九月条に小泊瀬舍人を置いた記事があり、おそらくこの後は再び本来の武烈紀の記事であろうと思われる。 武烈紀を継体紀の十二年から十九年に並列させると、そこに見える六年冬十月条の百済國が麻那君を遣した記事と、七年夏四月条の百済王が期我君を遣した記事は、それぞれ武寧王崩五か月後と、聖王明の即位三か月後となるのである。 継体紀に書かれた百済王の交代と、武烈紀に書かれた百済の使者の記録が連動するのである。

このような連動はただ事ではない。 現在の日本書紀に記載された内容とは異なり、もともとは継体紀と仁賢紀、武烈紀が並行していて、何らかの理由があって改変されたのではないかと推理できる。 では何故天皇の在位は並行していたのか。

継体紀と仁賢紀武烈紀の比較
継体紀仁賢武烈紀
継体元年二月、樟葉即位仁賢元年
二年二年
三年三年
四年四年夏五月、的臣蚊嶋と穗瓮君に罪があり獄に下り皆死す
五年冬十月、筒城遷都五年
六年六年
七年七年
八年八年
九年九年
十年十年
十一年十一年秋八月崩御
十二年春三月、弟国遷都武烈元年
十三年二年
十四年三年
十五年四年
十六年五年
十七年夏五月、百済国王武寧薨六年冬十月、百済國が麻那君を遣した
十八年春正月、百済太子明卽位七年夏四月、百済王が期我君を遣した
十九年八年冬十二月崩御
二十年秋九月、玉穂遷都(一本云、七年)

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5.安閑、宣化紀の検証

天皇の在位が並行していた痕跡は、安閑、宣化紀にも残されている。 それは安閑即位一年に、物部尾輿大連の記事が現れ、宣化即位元年に物部麁鹿火大連の死亡記事が現れることである。 先の重臣表をみればわかるように、安閑、宣化の即位後の重臣の任命では、物部麁鹿火が大連になっている。 本来先に来るはずの安閑紀の即位元年閏十二月に、先に物部尾輿大連の記事が現れ、そのあとに来る宣化即位元年七月に物部麁鹿火大連の死亡記事が現れるのはいかにもおかしなことである。 つまり安閑紀と宣化紀が、改変の前には現在のようなつながり方にはなっていなかったと思われる。 継体紀の天皇並立の状況から考えて、両者は少なくとも一部は並列になっていたのではないだろうか。 日本書紀には継体の崩年を辛亥としたのは、百済本記によったとしている。 そこには辛亥年に、天皇と二人の皇子が同じ年に亡くなったと書かれてあったという。 百済本記によっても、継体と安閑、宣化は同時に在位したということが示唆されるのである。 安閑即位に関しては、継体よりの譲位があったとされることから、両者の在位が逆になっていたということは考えにくく、安閑元年と宣化元年は同年であった可能性が高い。

さらに継体との関係について、古事記には継体の崩年を丁未としているが、これは辛亥年531年の四年前の527年であり、この年は安閑への譲位年であったのではないか。 少なくとも記紀の記述においては、天皇の譲位はこれが最初であり、古事記崩年の伝承では譲位と崩御の混乱があったと考えられる。 (補註5.1.宣化在位年について)

続日本紀には継体紀で即位二十三年に亡くなったとされる巨勢男人が、磐余玉穂宮の天皇と勾金椅宮の天皇に仕えたとする記事がある。

「続日本紀天平勝宝三年二月条:磐余玉穂宮。勾金椅宮御宇天皇御世。雀部朝臣男人為大臣供奉。而誤記巨勢男人大臣。」

日本書紀では継体の在位中に亡くなっているとする巨勢男人が、ここではつづく安閑の時代まで生きていたことになっているのである。 百済本記と合わせて考えるに、その後辛亥年にいたるまで、三者の在位は並列していたと思われるのである。

ところがここで安閑即位元年528年とし宣化元年を同年すると、七月に物部麁鹿火大連の死亡記事が現れることが問題になる。 日本書紀の記述によれば、物部麁鹿火大連は継体二十二年528年の冬十一月に、磐井の乱を収束させていることになるので矛盾が生ずるのである。

実は磐井の乱については漢籍による潤色が多く、信ぴょう性に疑問があるだけでなく、総大将の名も大伴氏の誰かから物部麁鹿火への差し替えの痕跡があるのである。(補註5.2.磐井の乱での物部麁鹿火について) 九州遠征軍の総指揮者が最初金村と記録されていて、後に麁鹿火に差し替えられたのなら、継体二十二年の冬十一月に磐井の乱を収束させたのは、麁鹿火ではなかった可能性も出てくる。

そこでまず宣化紀について、継体紀の二十二年から二十五年に並行させてみよう。 すると宣化元年五月条に、各地の屯倉から那津之口に食料を集める話が、磐井の乱二年目に並行する。 篠川氏は(5.1)この文章の冒頭の食料の重要性を訴える部分は、漢籍による潤色を受けており信用できないとする。 一方残りの部分の実際の食料移動に関する記述などは具体性があり、なんらかの原史料の存在を指摘されている。 つまり食料の那津之口への移動と、那津菅家を建てたことのみが、原史料にあった可能性がある。 継体紀を信ずるならば、この年の十一月まで混乱は長期化し収束することがなかったので、食料移動はそのためと考えることができるのである。

また宣化二年は継体二十三年に並行することになるが、この年の冬十月新羅が任那を侵したので、金村に命じて金村の子の磐と狹手彥を任那へ遣わしたとする。 継体二十三年四月には新羅の侵略を受けたという任那王の要請により、前月任那に渡った毛野臣に、新羅と百済を和解させようとするが失敗し、新羅によって金官・背伐・安多・委陀を奪われる事件が起こっている。 途中三か月が経過したという記述もあって、実際に新羅の侵攻が何時なのかは分からないが、続いて秋九月に巨勢男人大臣が亡くなった話があるので、書記文面に従えば九月以前である。 磐と狹手彥の任那派遣はそれを受けて行われた事になる。

次に安閑紀の記事に関して見てみよう。 ここまでの推論では安閑元年は継体二十二年に並行することになる。 安閑紀の記事の内容に着目すると、まず即位二年五月に多くの屯倉を設けたことが記されている。 本稿の仮説によれば、この前年継体二十二年の十一月に磐井の乱が収束し、筑紫君葛子が糟屋屯倉を献じた事になる。 糟屋屯倉が屯倉の始まりであるとする説があるが、ここに多数の屯倉設置の記事があるのは関連することかもしれない。

この前年十二月には、武藏国造をめぐる争いの話がある。 笠原直使主が京にやってきて訴えたのが、元年十二月なのかもしれないが、何年かにわたるものであるのは明らかである。 この時期に多くの屯倉設置の記事があるのは、まさにこの時期に大和政権が中央政権としての性格を強め始め、そのことが北部九州や関東など各地の波乱を呼び、結果屯倉設置を広げていったということかもしれない。

安閑紀がなぜ在位二年なのかが課題として残るが、次の欽明紀にも並行する天皇の痕跡が残る。

 
継体紀・安閑紀・宣化紀比較
西暦干支継体紀安閑紀宣化紀
528戊申二十二年元年五月、百済が下部脩德嫡德孫と上部都德己州己婁遣を遣す元年夏五月、那津之口に食料を運び那津菅家を建てる
冬十一月、磐井の乱収束武蔵国造の乱
十二月、筑紫君葛子が糟屋屯倉を献じる
529己酉二十三年夏四月、任那王己能末多干岐新羅の侵略を訴える
毛野臣が新羅百済に和解を求めるが失敗
新羅が金官・背伐・安多・委陀を取る
二年二年
五月、多数の屯倉設置
秋九月、巨勢男人大臣死亡
冬十月、新羅が任那を侵したので、金村大連に詔して、その子磐と狹手彥を遣し、任那を助ける。
磐は筑紫に留まり執政し、三韓に備える。
狹手彥は任那を鎭め、百済を救った。
十二月、崩御
530庚戌二十四年冬十月、毛野臣死亡三年
531辛亥二十五年春二月、崩御四年春二月、崩御

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6.欽明紀の三つの即位年

欽明紀には三種類の即位年があるようである。 ひとつは現日本書紀の539年即位、540年即位元年である。 もう一つは、上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起の示唆するところの、辛亥年531年の即位、532年即位元年である。 みっつめは、敏達紀にあるもので、欽明紀では敏達の立太子は欽明十五年とあるのに対して、敏達紀には欽明二十九年とあり、これは十四年の差がある。

今仮にみっつめの最も長いものを敏達欽明年、二つ目を元興寺欽明年と呼んで日本書紀欽明年と区別しておこう。 欽明年の元年は540年、元興寺欽明年の元年は532年、敏達欽明年の元年は526年になる。 欽明即位年として日本書紀の539年の他に、上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起の辛亥年の531年があることはしばしば指摘されるところであるが、526年を元年とする525年の即位年はおそらく本稿が初出ではなかろうか。

仏教伝来に関して、上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起には戊午とあるが、現在の紀年では宣化三年の538年になり、欽明朝に仏教伝来の記述に合わない。 とくに元興寺伽藍縁起ではその年が欽明七年としているのである。 また日本書紀紀年によれば、欽明在位年数は三十二年であるが、上宮聖徳法王帝説では「志帰島天皇治天下卌一年」(欽明天皇治天下四十一年)となっている。 (補註6.1.当年称元法と越年称元法)

仏教伝来は日本書紀では欽明十三年壬申の542年と、上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起の戊牛の538年との間に十四年の差がある。 おそらくは欽明紀の記述は敏達欽明年に基づいてなされていたのではないだろうか。 本来の伝承は戊牛の538年であったものが、欽明紀が改変され、干支の戊牛が欽明在位年からはずれ宙に浮いたため、元記事の十三年をそのまま用いたのであろう。

欽明二十三年、大伴狭手彦が高麗と戦い、王宮に侵入して宝物を持ち帰った記事が見える。 しかしこの記事には、やはり異伝として欽明十一年の出来事であるとするものがあったことが記されている。 欽明二十三年は562年にあたるが、すでに十年前の十三年是歲条において、百済は前年に得た漢城と平壌を放棄しており、三国史記によればこの年552年には十郡を高句麗から奪い、554年には百済東北部に新州を置いたとする。 この結果対高句麗同盟を結んでいた百済と新羅の関係は悪化した。 すなはち漢江流域は敵対する新羅領になり、欽明二十三年に狭手彦がその向こう側の高句麗の奥深く進攻することができたはずはない。

欽明十二年条には、百済が高句麗を攻め、漢城を落とし平城に攻め込んだ記事があり、狭手彦が百済王宮から宝物を奪ったのはその時のことと考えられる。 百済からの救援要請を受けて、この時の高句麗戦役の始まったのが、551年欽明十一年のことであり、日本書紀の言う「或本」の記述が正しいことになる。 ではなぜその記述が欽明二十三年になったのだろうか。

欽明十五年には、高句麗遠征を行った百済聖王は、関係の悪化した新羅に進攻して戦死してしまう。 つまり高句麗戦役は終了していたのであり、狭手彦も倭国に帰還していたと思われる。 この欽明十五年が元興寺欽明年では二十三年になるのである。 欽明二十三年の記事は、狭手彦の出征の記事ではなく、本来帰還した記事だということになる。 記事の中身的にも宝物を天皇に献じた話に重点がある。

ではなぜこの記事は、もとの敏達欽明年でもなく、日本書紀にとっては異例の元興寺欽明年なのだろうか。 おそらくはこの出来事は本来、元興寺欽明年を用いる史料にあったのであろうと考える。 もともと狭手彦の出征は550年から553年にわたるものであり、干支が確定できなかったのであろう。 実際、平安期成立の三代実録に引かれた、狭手彦の子孫のと言われる伴大田宿禰の家諜には、狭手彦の帰還を敏達天皇のときとしている。 それでは狭手彦の出征から帰還までは、二十年以上の時間がかかっていることになり、不自然なのである。 編纂者としては、用いた原史料にあった欽明即位二十三年という年次だけををもとに現位置に配したのであろう。

一方で註文で「或本」と呼ぶ史料では、出征の干支のみを記した簡単な記述があったと考えられ、それが欽明紀の十一年の干支と一致したため、「或本」に十一年と記載されていると書いていると思われる。

欽明紀の改変前の敏達欽明年における即位年の525年は、欽明紀の磐余玉穂の宮への遷都の前年にあたり、並行する武烈紀の崩年にあたる。 この敏達欽明年では528年から531年までは、継体、安閑、宣化、欽明の実に四者が並列していたことになる。

 
欽明のみっつの即位年
西暦干支日本書紀欽明年元興寺伽藍縁起欽明年敏達欽明年三国史記関連記事
526丙午継体二十年玉穂遷都元年
527丁未二十一年二年
528戊申二十二年三年
529己酉二十三年四年
530庚戌二十四年五年
531辛亥二十五年六年
532壬子元年七年
533癸丑二年八年
534甲寅安閑元年安閑即位三年九年
535乙卯二年宣化即位四年十年
536丙辰宣化元年五年十一年
537丁巳二年六年十二年
538戊午三年七年仏教伝来十三年改変前の仏教伝来?
539己未四年欽明即位八年十四年
540庚申欽明元年九年十五年
541辛酉二年十年十六年
542壬戌三年十一年十七年
543癸亥四年十二年十八年
544甲子五年十三年十九年
545乙丑六年十四年二十年
546丙寅七年十五年二十一年
547丁卯八年百済が高句麗戦の救援軍を乞う十六年二十二年
548戊辰九年十七年二十三年
549己巳十年十八年二十四年
550庚午十一年(或る本の狭手彦出征)十九年二十五年正月百済攻取高句麗道薩城
三月高句麗兵が金峴城を包囲
両軍の疲弊をみて新羅が二城取る
551辛未十二年百済が高句麗を攻め、漢城を落とし平城に攻め込んだ二十年二十六年
552壬申十三年仏教伝来
百済は前年に得た漢城と平壌を放棄
二十一年二十七年
553癸酉十四年二十二年二十八年秋七月新羅が百済東北鄙を取り新州を置く
554甲戌十五年敏達立太子
百済が新羅高句麗戦の援軍要請
聖明王敗死
二十三年原史料の狭手彦帰還記事?二十九年敏達立太子新羅が急襲して聖明王敗死
555乙亥十六年二十四年三十年
556丙子十七年二十五年三十一年
557丁丑十八年二十六年三十二年
558戊寅十九年二十七年三十三年
559己卯二十年二十八年三十四年
560庚辰二十一年二十九年三十五年
561辛巳二十二年三十年三十六年
562壬午二十三年大伴狭手彦が高麗と戦い、王宮に侵入して宝物を持ち帰った三十一年三十七年
563癸未二十四年三十二年三十八年
564甲申二十五年三十三年三十九年
565乙酉二十六年三十四年四十年
566丙戌二十七年三十五年四十一年
567丁亥二十八年三十六年四十二年
568戊子二十九年三十七年四十三年
569己丑三十年三十八年四十四年
570庚寅三十一年三十九年四十五年
571辛卯三十二年四十年四十六年

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7.改変の理由

並列した天皇は現日本書紀では改変され、並列は解消されている。 日本書紀はなぜ改変されたのであろう。 日本書紀の雄略紀から崇峻紀の巻十四から巻二十一までまでが、用字用語を通じて一体感の高い区分であるが、本稿では対象を顕宗紀から敏達紀にしぼって検討しよう。

継体の末年を百済系文書によって決めたとする部分の著者の註には、複数の矛盾する記述があって、どれを取るか苦慮したことなどが述べられているが、他にも随所に原史料を尊重したという記述がみられる。 様々な情報を合わせて編纂を行ったが、全体の整合性を取る余裕が無かったことを伺わせる。

先に見た顕宗紀から武烈紀への記事の移動も、年次の矛盾を引き起こす武寧即位記事のみでなく、その前の大伴室屋の記事とそのあとの百済の意多郎が亡くなった記事を合わせて移動しているようにみえる。 顕宗在位を三年で止めると共に、顕宗三年の十月以降の三条をまとめて動かしたようで、改変がかなり機械的におこなわれた可能性を示唆する。

今もし複数の天皇が並列して存在したとする書物があったとして、そこからの改変に必ずしも十分な時間的余裕が無かったとすると、何故現在の日本書紀では並列する天皇の間の交渉が書かれていないのだろうか。 仁賢が天皇に即位したとき、すでに継体が樟葉や筒城にいたとしたら、そのことが仁賢紀にまるで書かれていないのはなぜかが問題になる。 もしもそのような交渉の記録があったとしたら、並列記録を解消するには、文面に対する詳細な再編纂が必要になったはずである。 それは欽明、安閑、宣化についても同様である。 しかし残された日本書紀の文面は、矛盾にかまわずあわただしく改変が行われたように見えるのである。

これはこれらの原史料の内容に対する基本的な示唆を与える。 例えば5節では宣化元年五月の那津口への食料運び込の記事について、その理由にあたる部分が明かな漢籍による潤色を受けていて信頼しがたいものであることを見た。 原史料にはおそらく食料運び込みの具体的な記述と、宣化元年もしくは干支による時制がだけが与えられていて、書記編纂者はまずそれを宣化一代記としてまとめたのであろう。 事実に関して何らかの年次を伴う史料があったが、その出来事が他の何に関連しているのかの情報がなかったと思われる。 書記編纂者は史書として成り立たせるために、前後の事情をしばしば漢籍等を用い作文してそれを補ったと思われる。 同じく5節で取り上げた、宣化二年十月に新羅の侵攻に対して任那へ磐と狹手彥を派遣した記事も、それ自体は伝承もしくは史料として残っていたが、その前後も周辺の事情も残っていなかったということである。 つまり各天皇紀は最初は、それぞれの天皇の周辺に仕えた人々の後継氏族が、奉事の根源として自分たちが関係した部分だけ伝えた口承を含む史料をもとに、それぞれ一代記としてまとめられたものであったのではないか。 そのため王朝の歴史として全体の関係性が分からないまま、各天皇の記録は孤立して、年次はそれぞれ別々に立てられたものだったのであろう。 そのような一代記を、伝承された天皇順に並べたものが、改変前の書記の姿であったと考える。

それら天皇の一代記が、全体として国の歴史として編年体に再編成されていくとき、何が起きたかを考えてみよう。 そのためまず事実として、編年の矛盾がどのように起こっているのかを見てみよう。 巻十七の継体紀には531年に安閑への譲位とその直後の継体の崩御が語られているのに、続く巻十八では安閑即位は534年となっていて、再編成が明かな矛盾を生んでいる。 素朴に考えると、巻十八の編年が終わった後に、巻十七の編年が為されたように見える。 また巻十九の敏達紀の立太子年が敏達欽明年によるもので、巻十八とは明かな矛盾を含んでいる。 これも巻十九の編年が終わった後で、巻十八の編年が行われたとすれば理解できる。 すでに述べたように、仏教伝来の十三年が敏達欽明年のままなのは、再編纂によって伝来の干支戊牛が在位期間から外れたため、やむなく行ったものであろう。

各天皇の一代記であった原史料に基づき、そのような個別の歴史の集まりとして編纂された初期日本書紀が、編纂の最終段階で全体を通しての編年体に再編纂されることになったとき、下の巻から順に編年を行って固定して行き、矛盾があっても途中で修正を行う時間的余裕がなかったのであろう。 下の巻から順に固めていった理由は、新しい巻にはすでに国史としての編年が出来ていたためであると考える。 森博達説では、日本書紀α群はβ群よりも先にできていたとするが、用明紀には推古紀について触れた部分があり、またα群でも巻二十四から巻二十七には、β群の二十二巻、二十三巻と共通する部分があることから、推古紀などは一部α群より先にできていたと思われる。

日本書紀に関しては、しばしば壬申の乱以降が歴史として扱われるという。 それは天武持統紀以降、記述の密度が大きく上がるためである。おそらくその時期から政府記録というべきものが、文字史料として残りはじめたためであると思われる。 しかしその前段階として、日本書紀推古紀には七世紀初頭に天皇記国記が編纂されたという記事があり、国史編纂の段階に差し掛かったことが分かる。 現存しないが、国記は焼かれるところを取り上げられたということから、文字史料であることは確実で、このあたりから編年された国史がまとまり始めたのであろう。 いわば歴史の薄明段階というべきこの時期は、推古帝の時代であり、用明、崇峻は推古と同世代、敏達は夫である。

私はすでに敏達以降は、最初からある程度編年された形まとめられたものと推定する。 系図史料に関しては稲荷山鉄剣銘文の存在から、比較的早く文字化されたと考えられ、顯宗紀に引く譜第や、欽明紀に引く帝王本紀等にその痕跡をみとめるが、天皇事績のまとまった文字化は、後でみるようにようやく欽明朝のどこかで始まったことなのであろう。(補註7.1.日本旧記について) 実際いわゆる古事記崩年干支と、日本書紀の天皇崩年は、用明以降は月日はともかく、年次は一致してくる。(補註7.2.敏達天皇の崩年について)(補註7.3.推古天皇の年齢について) 国史を編年体で編纂する場合、まず編年がある程度信頼できる状態にある巻から遡って行こうとするのは自然な事である。

以後日本書紀の再編纂と年代的な矛盾は、ばらばらに編年されていた各天皇紀を、一貫した編年体に改めようとしたときに起こったと思われる。 稲荷山鉄剣銘文の存在は、各天皇紀の原史料として、関連する氏族の残した干支を含む物があったことを推察させる。 そのような干支の分かる各種原史料と、現在古事記崩年干支として伝わるものと根を同じくする史料、そして亡命百済人貴族によってもたらされた、百済系史料の干支を合わせて、編年の骨格を作ったと思われる。 そしてそこに干支を持たない何々天皇の何年などという記事や、そもそも年次の手掛かりの全くない史料等を、内容からの推察により編年していったのであろう。

しかし編年を行って行ったとき、多くの天皇の時代が並列することになった。 稲荷山鉄剣銘文の存在から、王の即位順に関する史料は早くから存在し、古事記のような王朝史観は日本書紀編纂前には確立していたであろう。(7.1) 編年をはじめた結果は、それとは全く相容れないものであったため、下の巻から順に一部干支の分かる記事の入れ替えなどを行って再編纂したと思われる。

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8.編年の方法

日本書紀崩年と古事記崩年の干支は崇峻、用明、安閑を除くとほとんどが不一致である。 敏達も一年ずれてはいるが、概ね敏達からは不一致は解消に向かう。 ここで推古以前の、継体紀以降の紀年および古事記の崩年干支を確認しておこう。

 
継体から欽明までの即位崩年記事
西暦干支日本書紀古事記
526丙午
527丁未継体崩年:丁未
528戊申
529己酉
530庚戌
531辛亥継体崩年:即位二十五年辛亥
532壬子
533癸丑
534甲寅継体崩年:或本即位二十八年甲寅
安閑元年:太歳甲寅
535乙卯安閑崩年:即位二年
宣化即位:安閑二年
安閑崩年:乙卯
536丙辰宣化即位:太歳丙辰
537丁巳
538戊午
539己未宣化崩年:即位四年
欽明即位:宣化四年
540庚申欽明元年:太歳庚申
540~570---
571辛卯欽明崩年:即位三十二年
敏達即位:欽明三十二年
572壬辰敏達元年:太歲壬辰
573~583---
584甲辰敏達崩年:甲辰
585乙巳敏達崩年:即位十四年
用明即位:敏達十四年
586丙午用明元年:太歲丙午
587丁未用明崩年:即位二年
崇峻即位:用明二年
用明崩年:丁未
588戊申崇峻元年:太歲戊申
589~591---
592壬子崇峻崩年:即位五年
推古即位:崇峻即位五年
崇峻崩年:壬子
593癸丑推古元年:太歲癸丑
592~627---
628戌子推古崩年:即位三十六年推古崩年:戌子

継体崩年は三説あり、本文の説では安閑元年までに空きができ、譲位により即位直後に継体が亡くなったという記述に矛盾する。

古事記の継体崩年は日本書紀よりだいぶ早い。 一方安閑崩年=宣化即位年は日本書紀と一致している。

継体末年から欽明即位にかけての紀年の混乱は、継体朝末年の四者並立を解消する際の混乱が原因であると考えてよいであろう。 もしも継体安閑宣化の並立と、辛亥年同時崩御をみとめて、欽明即位年が531年であったとすると、上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起との矛盾もなくなるのである。

ここで安閑の崩年だけが、一人離れて古事記と一致していることには意味があると考える。 用明以降の崩年が一致しているということは、それなりの伝承があったのであろう。 並列解消のための再編纂で、多くの矛盾が発生したとすると、逆に一致している安閑の崩年は、編年にあたり年次の根拠になった可能性を指摘できる。

日本書紀の安閑元年の干支は、古事記安閑崩年の干支と、おそらくは別に在位二年の伝承があり、そこから逆算したのであろう。 日本書紀に言う「或本」の継体崩年534年も、やはり古事記安閑崩年の干支からの逆算、譲位による当年称元法を考慮して決められたものであったであろう。 古事記崩年干支と同根の原史料が、日本書紀編年史料の一つであったと思われる。 では百済本記とは矛盾する、古事記安閑の崩年535年(乙卯)はどこから出てきた伝承だろうか。

ここに欽明即位前紀の記述が意味を持ってくる。 欽明は自分は幼いので、安閑皇后に天皇即位を依頼している。 おそらく安閑皇后は神功紀における神功のように欽明を補佐したのであろう。 のちの女性天皇がすべて皇后であったことを考えると、実質天皇の地位を代行していたとも考えられる。 そしてその崩年、もしくは欽明への実質的な天皇位譲位年が、535年(乙卯)なのであろうと思う。 この混乱の原因には、安閑とその皇后が合葬されたことも影響しているかもしれない。

相互に矛盾する原史料のうち、書記編纂者が重視した史料は何度か変更されたと考えられる。 すでに述べたように、欽明紀は最初欽明の一代記として、磐余玉穂の宮に入った525年を元年として書かれた史料をもとにしていたと思われる。 この一代記の敏達欽明年が、欽明二十九年敏達立太子という記事となって、敏達紀に残された。

α群最後の巻二十一から始まった編年作業が欽明紀以降におよび、各種史料の干支を整理すると、継体、安閑、宣化、欽明の在位年がかぶり始めたと思われる。 そのため欽明紀は安閑、宣化紀とともに再編纂がなされることになった。 だぶりをなくするためには短くするよりなかったのであろう。 元興寺欽明年の辛亥年即位でもまだ長すぎたと思われる。(補註8.1.安閑元年について) 欽明元年は安閑崩年に宣化在位年の四年を足して、日本書紀が初めて示したものであると思われる。 しかしその時には敏達紀はすでに完成していたのである。

一方で巻十七の継体紀からは、百済史料を最重視するようになったことが、継体紀に記された編纂方針に伺えるのである。 この方針転換は一代記記述の継体紀の崩年が、安閑即位前紀の継体崩年が二十五年になっていることから考えて、すでに百済本記と一致する二十五年になっていたことと、継体紀を編年するまとまった時制が、百済本記によるしかなかったことが原因であろう。 そしてこの編纂方針の変更が継体崩年と、既に完成していた巻十八の安閑即位年の間の、矛盾を引き起こしたのであろう。

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9.継体紀二十三年条のなぞ

既に数多くの指摘のあるところであるが、継体二十三年の冒頭部分の多沙津をめぐる百済や加羅とのやり取りは、継体七年から九年にかけての、己汶と帶沙に関するやりとりと類似している。 これは筒城の宮に居たころの記録とは、別の原史料に基づいた重複であると思われる。 七年から九年にかけての記事は、穗積臣押山に対して「百済本記云、委意斯移麻岐彌」とあるように、百済本記が原史料であるか、日本側史料があったとしても突合せを行っていると思われる。 従って干支の追える史料をもとにしてると思われる。 しかし二十三年条冒頭の史料は、三年分の出来事がまとめられているだけでなく、それに続いて加羅の王が新羅王の娘を娶る話が出てくるが、これは三国史記法興王九年の下記の記事の出来事であろう。

「春三月,加耶國王遣使請婚,王以伊飡比助夫之妹送之」

またそれに引き続き、新羅と加羅が対立し新羅が加羅の刀伽・古跛・布那牟羅の3つの城を取り、北の境の五つの城を奪った話が合って、これは三国史記法興王十一年の下記の出来事であろう。

「秋九月,王出巡南境拓地,加耶國王來會」

ここでは戦争になっているようには書かれていないが、続いて三国史記法興王十九年には下記のように、いわゆる金官国併合記事がある。

「金官國主金仇亥,與妃及三子(中略)以國帑寶物來降」

このことから継体二十三年条冒頭の毛野臣派遣までの記事は、継体七年(513年)から三国史記新羅本紀法興王十一年(524年)までの、少なくとも十一年間をまとめたものであることが分かる。 少なくとも内容が一か月の出来事でないことは、一見して明らかである。 継体二十三年春三月条の冒頭の記事は、毛野臣の派遣の前段としての状況説明のために書かれたもので、本来干支も年次も含まない記事であったと考える。 この月のできごとは、毛野臣の派遣だけであろう。 なぜこんな記事が差しはさまれたのであろうか。

この毛野臣の伝承は継体紀の中では浮いてしまう要素があった。 すなはち、継体の一代記は継体十年秋九月の、己汶に対する百済の返礼以降、外交関係の記事がなく、その後のことが不明になってしまっているのである。 毛野臣出征の前提になる新羅の加羅侵攻は、同月条前半の記述によって初めて明らかになるのである。 毛野臣にかかわる記述は、「一本伝」とあるように複数の伝承があるかなり有名な話だったと思われる。 そのなかに出征の前提となる、外交的経緯に関してまとめたものがあって、日本書紀はそれをそのまま同じ月の記事の中にまとめたのであろう。 ここで問題になるのが、なぜ継体十年以降継体紀の外交記事が、一旦途絶しているのかである。

 
継体二十三年条と継体紀の外交、三国史記の比較
西暦干支継体紀三国史記関連記述二十三年条冒頭の範囲
507丁亥継体元年三月、樟葉即位
508戊子二年
509己丑三年春二月、百済に使者を立て、百姓を百済に戻す
510庚寅四年
511辛卯五年冬十月、筒城遷都
512壬辰六年冬十二月、百済より任那四県の割譲の要請
哆唎國守穗積臣押山の奏により割譲
513癸巳七年夏六月、百済が伴跛国による己汶侵略を訴える
冬十一月、己汶・帶沙を百済に与える
百済が多沙津を要求
下哆唎國守穗積押山臣が奏する
514甲午八年三月、伴跛が戦争をはじめる
515乙未九年春二月、帶沙江に行った物部至至連が
伴跛に襲われて汶慕羅島へ逃げる
加羅王が多沙津割譲拒否
物部伊勢連父根は大嶋へ帰る
516丙申十年夏五月、百済は己汶において物部連をねぎらう
秋九月、百済が使者を立て己汶の地を賜ったことを感謝する
多沙津を百済に渡した
517丁酉十一年<<以下二十一年まで外交の空白>>加羅王は日本を恨み新羅に接近
518戊戌十二年春三月、弟国遷都
519己亥十三年(一本云による即位年)
520庚子十四年
521辛丑十五年
522壬寅十六年春三月、加耶国王が新羅国に婚姻を申し込む、
新羅は比助夫の妹を送る
加羅王は新羅王女を娶るが、
付き添った人々が新羅の服を着る
523癸卯十七年夏五月、百済国王武寧薨
武烈紀に冬十月、百済國の使者麻那君の記事
加羅王が新羅人を追い返す
新羅は加羅の北の境界の城を奪う
524甲辰十八年春正月、百済太子明卽位
武烈紀に夏四月、百済王の使者期我君の記事
秋九月、新羅王は南境の地を開き
加耶国王と合う
525乙巳十九年
526丙午二十年秋九月、玉穂遷都(一本云、七年)
527丁未二十一年夏六月、毛野臣を新羅に派遣し南加羅・喙己呑を取り返そうとするが磐井に阻まれる
秋八月、磐井征討開始
528戊申二十二年冬十一月、物部大連麁鹿火が磐井を討った
529己酉二十三年春三月、南加羅・喙己呑を取り戻すため、近江毛野臣を安羅に派遣
夏四月、任那王己能末多干岐、來朝
530庚戌二十四年冬十月、調吉士は任那から帰って毛野臣の失敗を報告
毛野臣は呼び戻されて対馬で亡くなる
531辛亥二十五年継体崩御
532壬子金官國主金仇亥と妃及三子が、
国家財産と宝物をもって新羅に來降

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10.並列する天皇の謎

再編纂前の天皇の同時並列は、史料編纂上の虚像なのであろうか。 本稿の議論は、隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田解釈をきっかけとしている。 つまり石和田解釈が正しい限り、日本書紀の再編纂前の編年には、同時代史料の裏付けがあり、歴史のリアリティーがあると考えられる。 では天皇の並列は何を意味しているのだろうか。

継体紀については継体の大和入りが、即位後二十年も遅れたことなどから、古くから二朝並立説があった。 しかし継体紀での重臣の名と、武烈紀での重臣の名は重複しており、日本書紀に書かれた内容的には、ただちに対立する二つの朝廷があったようには見えない。 継体欽明朝の内乱説はどうだろうか。特に辛亥年の継体と皇子二人の死は、何らかの政変によるものなのだろうか。 少なくとも記紀にはそのような記述はなく、変事による死なのか、疫病などによるものか分からない。 これを再び重臣でみると下記のようになる。
安閑:大伴金村大連、物部麁鹿火大連
宣化:大伴金村大連、物部麁鹿火大連、蘇我稻目宿禰大臣、阿倍大麻呂臣大夫
欽明:大伴金村大連、物部尾輿大連、蘇我稻目宿禰大臣

物部麁鹿火大連は宣化紀で亡くなっているので、重臣は完全に引き継いでいる。 少なくともこれでみる限りは、大規模な政変はなかったように見える。 日本書紀は内乱などに関しては、特に隠す気配が見えない。 複数の天皇が並立していたとしても、対立する複数の王朝があったとは思えない。 それでは並行する天皇の役割は何であろうか。

そのヒントが継体紀にある。 前節でみたように、継体紀の外交記録は継体十年で一旦途絶している。 継体紀にはその記事に時期的な偏りが見えるのである。すなはち弟国宮に遷都して以降記事の量が減り、磐井の乱以降再び増えるのである。 この間の外交的出来事は、継体二十三年三月条冒頭のダイジェストをみると、多沙津の百済への割譲以降は、新羅と加羅の関係に関するものであり、継体紀にその間の記述がないのは、百済系史料を大きなよりどころとしているためであるとも考えうる。 しかしこの間には、十七年夏五月条と十八年春正月条に、百済王の消息に関する記事がある。 これは百済王の消息についてのみ述べたもので、おそらく百済系史料からの引き抜きであり、本来の継体一代記にあったものではないであろう。 一方本稿の仮説ではこの期間はちょうど武烈紀に並列する期間である。すでに指摘しているように、武烈紀には継体紀の百済王の崩御と即位に対応する、百済の使者の記録がある。 つまりこの間の外交は継体ではなく武烈が行っていたことになる。(補註10.1.聖明王の即位年について)

並列する天皇には何らかの役割分担があったのではないだろうか。 古事記継体記の崩年記事は、丁未の年の四月であり、527年の四月である。 すでに推測したように、これは崩御の年ではなく、継体から安閑への譲位の誤伝であろう。 一方磐井の乱など継体紀の記事の増えるのは、継体二十一年527年の六月からである。 つまり継体紀の記事は、継体の譲位以後再び増えることになる。 また継体の磐余の玉穂宮への遷都に関しては、日本書紀に或る本に継体即位七年との記事がある。 玉穂の宮への遷都が継体二十年、その七年前は継体十三年であり、弟国宮への遷都の翌年になる。 つまり継体は弟国宮への遷都の翌年に天皇に即位し、継体二十一年の四月に譲位したのではないだろうか。 すると継体紀には天皇即位期間の外交記事がなく、その間の外交記事は武烈紀にあることになる。 このことから、記紀において天皇とされる存在には、外交を行わないものと行うものの二種類あったように見える。 古い時代の日本の王権では、複数の王がいて役割を分ける仕組みがあり、日本書紀にはその痕跡だけが残されたのではないだろうか。

実は欽明紀にもその痕跡が残されている。 それはすでに述べた三代実録貞観三年八月十九日条である。 そこには狭手彦が宣化欽明両朝で活躍したこと、欽明朝に高麗と戦い宝物を持帰ったことが記されているのだが、問題はその帰還が珠敷天皇の世となっているのである。 すでにみたように実際には欽明十五年には帰還していたと思われるため、この伝承には無理がある。(補註10.2.三代実録に引く伴大田宿祢常雄の家諜について) 実は欽明紀によればこの年に敏達が皇太子になっているのである。 つまり継体紀に見た如く天皇であった欽明ではなく、皇太子が外交を行っていたのではないか。 そのことが三代実録の誤伝となったのであろう。

さらにα群ではないが、允恭紀にもその痕跡がある。 允恭の崩御の後、新羅の使者に対応したのは、允恭の後を継いだ安康ではなく、後の雄略天皇の大泊瀬皇子である。 また允恭五年に反正天皇の喪の話題が出てくるが、允恭紀において政務に関連する話題があるのはこの年までである。 古事記の反正崩年干支と履中崩年干支から読み取れる、反正在位年は五年であり、允恭紀の五年までは即位前の、皇太子時代の記述であったのではないか。

天皇が実質の政務を皇太子を摂政として任せた例としては、推古紀の厩戸皇子の例が有名である。 そして敏達紀以前の日本書紀の原史料では、各天皇の一代記として、即位前の事績も含まれていたのではないかと考えるのである。

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11.夜の王と昼の王

前節でみたように、並列する天皇は並行王朝ではなく、皇太子のように後に即位する人物が、天皇の職務の一部を担う仕組みがあり、そのような即位前の事績が天皇即位後の事績として記録されたことによるものであろうと考える。 この結果政務を代行していた期間については、あたかも在位年が並行するように見えたのであろう。 では天皇の職務のどのような部分が代行されたのであろうか。 今まで見てきた中では、どうも天皇は外交については直接関与しなかったように見える。 これは記紀だけでは判然としないが、天皇の政務のあり方に関する情報は、中国史書にある程度の実態が残されている。 開皇二十年(600年)の倭国の使者についての隋書の記録には倭国の政治に関して不可思議な記述が見える。

「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

拙訳

「開皇二十年、倭王の姓はアメ、字はタリシヒコでオホキミと号する。 (倭王は)使者を遣わして帝に詣らせた。上は役人を通じそのありようを聞いた。 使者の言葉によると「倭王は天が兄であり日が弟である。 まだ夜が明けない時に、跏趺して坐り訴えを聴く。 日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねる。」。 高祖は「それは甚だ義理にかなっていないから改めるように命じる。」と言った。」

すなはち、倭王とは夜に訴えを聞く存在で、昼間は政務を行わないというのである。 夜だけ政務を取るということを、日本書紀の崇神紀崇神記等に照らして考えるに、神のお告げを夢に聞くという記述があることに気づく。 軍事も外交も内政も通常は昼間に動いているのであるから、倭王は政治の実務を行わず、諸問題に対する最高決済として神意を聞く存在だったということになる。 ただし隋書の記述だけでは、昼の政務がどのような形態で行われていたのか判然としない。

この形態は魏志倭人伝にみる卑弥呼の政治形態を思わせる。 卑弥呼は人前に出ず、男弟が政務を助けていたとされる。 実際には厩戸皇子と蘇我馬子のように、政務は複数の人間が行っていたのであろうが、全体を統括する存在があったと考えたほうが分かりやすい。 夜の王に神意を問う前に、一旦は裁定できる人がいなければ実務は回らないであろう。 昼の王とでも言うべき存在があったと考える。 つまり古代天皇制は、祭祀を司る夜の王と、俗事を司る昼の王で行われていたと考えられるのである。(補註11.1.考古学的にみた二王並立)

しかし隋の皇帝からは、理にかなわない奇習とみなされた。 これは国際社会で未開の国とみなされたも同然であり、東アジア社会の中での地位確立のために、隋への朝貢を求める倭王権にとって恥辱的出来事であったであろう。 隋の朝廷には、新羅や高句麗百済など、倭王権が外交を行う国々の関係者もいたであろうし、それらの国の一部の使者は、隋に留まって国際外交上の働きかけを行うものもあったであろう。 つまり倭王権はその当時の東アジア国際外交の表舞台で恥をかいたのである。 この事件は律令政権にとって、恥ずべき事件としてトラウマになっていたと考える。 このため日本書紀には、このような政務の形態も開皇二十年の遣隋使も記録されず、また天皇の政務形態も改められていったのであろう。 あるいは推古朝は倭の五王のように、隋からの爵位を求めたのかもしれないが、この事件での外交的ダメージを回復するために、あえて対等外交を目指し、対高句麗戦に力を入れていた隋も、倭国を高句麗の背後の大国とみなし、敵対的にはあつかわなかったと考える。

古代の政務の実態については、中国の制度を取り入れた律令政治の時代に編纂された、記紀だけではなかなか判明しない。 夜の王昼の王という考えは過激であるかもしれないが、金石文と漢籍により記紀研究の限界を超えることができたと考える。 推古紀の内容からすると、厩戸皇子が蘇我馬子のような重臣に諮り、実際の政務を行い、重大な案件については推古天皇が夜、宮殿で神意を問うという政務形態であったのであろう。 昼の王になるのは、推古紀の厩戸皇子や、欽明紀や三代実録から見える、珠敷太子の例からは、次期天皇になる皇太子が一般的と思われる。 しかし允恭紀の大泊瀬皇子のように、皇子の内有力な人物やがその地位にあることもあり、また継体のように、昼の王となった人物が次期天皇になることもあったのであろう。 一般に天皇に即位した人物は、その前に昼の王として政務を取ることが多く、その周辺の人物が残した一代記には、天皇即位前の事績が区別されず記録されていたことが、日本書紀編纂当初において、あたかも複数の天皇が並立していたかのような状況を、引き起こしたのであると思われる。

朝鮮半島では、524年と思われる蔚珍鳳坪碑に、寐錦王と葛文王の二人の王名が刻まれており、六世紀新羅王権が複数の王によって治められていたことが分かっている。 同様に日本においては、503年の隅田八幡神社人物画像鏡銘文とその石和田解釈をてがかりに、日本書紀を再検証することによって、王と呼べるような存在が複数あったことが推察できるのである。 以下の節ではここまで見てきた議論を前提として、継体朝から欽明朝を見たとき、どのような歴史観が得られるのかを見ていきたい。

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12.継体即位前夜

まずは継体朝の謎の一つ、継体即位に至る経緯を検証してみたい。 しかし実は今まで見てきた議論の延長上に、継体政権の前にその前段階の政権の存在が推察できるのである。

継体紀の検証のところでみたように、継体紀に並行すると考える仁賢紀に気になる記述がある。 仁賢四年条の的臣蚊嶋と穗瓮君に罪があり獄死する記事である。 並行する継体紀では、その翌年にあたる継体五年に山背の筒城の宮へ遷都している。 この政変と継体朝に何らかの関連があったと考えられる。

私は継体の前任者は仁賢紀の四年に現れる穗瓮君で、的臣蚊嶋がその執政を助けたとみている。 この政権はこのとき失脚し皆獄死となっているから、一族皆殺しにあったのである。 日本書紀で獄死というのはここ一か所であり、異様な印象を受けるうえ、日本書紀にも他の史書中にも、この二人の名は全くみえない。 実に不気味なことであるが、この政権に関する一代記を残すような人々がいなかったため、日本書紀には何ら事績が伝わらなかったためと考えられる。

的臣というのは、応神紀に的戸田宿禰として朝鮮半島へ派遣されたという記事が日本書紀の初出で、特に欽明紀の半島での軍事外交の局面によく登場し、平安宮大内裏の東面南門にその名を残す。 軍事氏族であったとみられ、直木幸次郎氏などの研究では、河内・和泉・山城・近江・播磨に足跡があるとされる。(12.1) 応神紀仁徳紀での活躍は、いまだ氏族形成前のことで、仁徳紀に的臣祖盾人宿禰とあるように、後の的臣氏の祖先伝承中の人物であろう。 その意味では的臣蚊嶋も同様であると思われる。

日本列島は日本海側の水運と太平洋側の水運に横たわる、長大な障害物とも言え、北から若狭湾、南から大阪湾・伊勢湾が入り込み、真ん中に琵琶湖のある近畿濃尾地域では、東西南北の流通路が交差する。 的臣の足跡のある地域は、その西半分にあたり、半島情勢に詳しいことを含めて、昼の王の外交軍事をサポートするのにうってつけの存在だったと思われる。

穗瓮君については、何一つ情報がない。 しかし筑紫君や下毛野君など地方豪族には地域の名を冠した「君」が何人か見えることから、この穗瓮は何かの地名であろうと思われる。 私は穗瓮(ほべ)というのはさげすんだ書き方で、本来は穂部ではなかったかと考える。とすると穂という有力豪族もしくは、皇統につながる一族がいたということになる。

古事記の日子坐系図の中に、三川之穗別之祖という名が見える。 また國造本紀には、生江臣の祖の葛城襲津彦の四世孫の菟上宿祢を穂国造に定めたとある。 生江臣とさきの的臣は古事記には、葛城襲津彦の後裔として並べて書かれており、生江(いくえ)と的(いくは)で名前も似通っている。ただし、的臣は日本書紀には六世紀までの記録しかなく、文献上十世紀までにわずかに末裔の名が見えるだけである。 そして氏族の成立する六世紀後半以降の本貫は不明である。

一方の生江氏はもっとも古い文献が七世紀後半の木簡で、主に奈良朝以降、続日本紀以降の氏族で、その本貫は越前足羽郡である。 生江氏の新しさと、平安期に下る旧事本紀の成立時期から考えて、國造本紀にどれだけ信を置いていいのかの疑問はあるが、生江氏には三河国境に近い尾張山田郡にいた記録があり、何らかの伝承があったと思われる。

生江氏と的氏は、時代的にも地域的にも全くかぶらない。 そのため全くの別物であると考えてしまいそうだが、これほどきれいに排他的なのは、逆にこの二つの氏族が密接な関係にあって、時代と共に名のりを変えたのではないかという疑いがでてくる。 文献的には生江氏は七世紀以降の新しい氏族であるが、本貫とされる越前足羽には古墳中期以来の古墳群があり、族(やから)としては古くから続く人々であると考えられる。 私は的氏の本貫が不明であることも併せて、この二氏は同根ではないかと考える。

的臣と生江氏の関連する地域を合わせると、この政権はほぼ継体と同じ地域基盤をもっていたと考えられる。 この時期の朝鮮半島情勢からして、このような交易水運と朝鮮半島情勢に詳しい勢力の助けなしでは、昼の王の責務は果たせない情勢であったのであろう。

おそらく顕宗の崩御までは、日本書紀に皇太子とする仁賢が昼の王だったのであろう。 仁賢の外交記録がないのは、外交の実務は穗瓮君の政権が担っていたのかもしれない。 顕宗の崩御により、仁賢が順当に即位したが、そもそも血統断絶の中で、ようやく見出した後継者の二人のうち、一人が子を残さず崩御したのであるから、たちまち後継者不足に陥り、血統的にはあまり順当とは言えなかったであろう穗瓮君が昼の王になったと考えられる。

この政権の事績は全く残されていないが、継体が昼の王となったのが筒城の宮に入った後であれば、それ以前はこの政権の担当する期間であったはずである。 継体紀にはこの期間の外交事績として、即位二年十二月条に、耽羅人が百済に通じたことと、三年春二月条で百済に使者を立てて、任那にいる百済から逃げた百姓を、百済に戻したことがある。 耽羅の記事は南海中耽羅人とあって、明らかに百済視線であり、百済系文書にあったものであろう。また三年条も百済本記云として、使者の名前を久羅麻致支彌とするが名前が分からないとする。 つまり百済本記の記事をもとにした書き入れであり、対応する日本側の記述は無かったのであろう。 これは恐らく穗瓮君政権の政策が、百済本記に残されたものであると考える。注目すべきはこの政策が、継体の行った任那四県割譲等と同じく、親百済的な政策であることである。 すなはち継体は前政権の政策を継承したと思われる。

これは前政権の失脚が、政策によるものではなかったか、失脚させたが政策転換を起こすことのできるような、後継政権が作れなかった事を意味している。 もしかしたら失脚の原因は、穗瓮君の血統的な問題であったのかもしれない。

日本書紀仁徳紀即位三十年冬十月条には、的臣の祖先の口持臣を筒城宮に派遣して、仁徳のもとを離れた磐之媛皇后を呼び寄せた話が出てくる。 そこでは口持臣の妹の国依媛が、皇后に仕えていたとの話がある。 つまり少なくとも日本書紀の伝承では、的臣と筒城宮にはつながりがあるのである。 私は穗瓮君の政権は、筒城宮で政務を行っていたのではないかと考える。 そうだとすると、継体は前政権の地域的勢力基盤と政策と政庁を引き継いだことになるのである。 継体は前政権の一翼を担う存在だったのではないだろうか。

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13.継体の即位まで

継体の即位の事情に関しては、実は二重の構造になっていることが分かる。 一段目は金村が三国に迎えに来た時で、二段目は樟葉での即位である。

一段目については継体は金村の言を疑い即位をためらうが、河内の馬飼の助言によってうけることを決意する。 記紀における天皇即位の話には、允恭の場合のように群臣の即位の願いにかかわらず重ねて辞退する話や、仁徳の場合のように他の候補がいて譲り合ってなかなか決まらない話などがある。 しかし継体の場合のように、即位を勧める言葉を疑うというケースは他にない。 またその直前に金村が倭彥王に即位を勧めようとしたところ、その兵を遠望した倭彥王は、顔色を失い逃亡したという。 他の即位説話にない、実に不穏な空気が満ちているのである。 しかも継体は三国にいたのに、身分の低い河内の馬飼の助言を受けているのである。

本稿の議論では、継体は前政権の一翼をなし、金村がやってきたときには、すでに樟葉にいたことになる。 身近にいた河内の馬飼の助言を受けるのは自然なことになる。さらに前政権は失脚し、関係者はみな獄死しているのであるから、不穏な空気も当然なこととなる。 倭彥王もまた前政権の一翼を担っていたのであろう。 彼は自分も前政権の失脚に連座し、金村の軍勢が捕縛に来たと勘違いしたのではないだろうか。 結局継体は昼の王になることを決意し、前政権の政庁のあった筒城の宮に向かったのであろう。 継体即位の二段目は、通常の推挙と辞退の話であり、後の継体十二年に筒城の宮にいた継体に、天皇即位の推挙を行った話が元なのであろう。

継体の天皇即位に関しては、大和入りが遅れたことから、大和の勢力の抵抗があったとされることが多いが、実際にその状況を、日本書紀に沿って説明した説については、少なくとも私は知らない。

しかし本稿の説では、継体の天皇即位は仁賢崩後となるのである。 ここで武烈即位前記が俄然意味を持ってくる。 そこでは平群臣真鳥が、専横を行い王になろうとしたとある。 血統的に真鳥が天皇にはなれないのだから、王になろうとしたという意味が問われる。

このとき大和には武烈がいた。 武烈は仁賢の唯一の男子であり、仁徳の血を引くものとして、血統を重視する人々にとっては希望の星であったことであろう。 実際その名のワカサザキはオホサザキと対をなしている。真鳥がその地位を奪おうとしたというのは、さすがに無理がある。

武烈は手白香の弟にあたり、手白香と継体の間に欽明があることから、この当時の出産状況を考えるに、継体の皇后になったとき手白香は遅くとも二十代前半、おそらく十代後半。 皇后になったのが継体の弟國での即位後なら、武烈はまだ少年であったことであろう。 真鳥は血統正しい少年を天皇位につけ、自らは昼の王になろうとしたのではないだろうか。 しかし武烈に何かあれば、昼の王が天皇位に付く可能性も残る。

真鳥は雄略紀にはすでに大臣として見えており、この時には既に高齢であったと思われるので、少年武烈が先に亡くなることはないように見えるが、このとき真鳥は自分の権勢を子孫の鮪に引き継ごうとしていたようである。 鮪と大豪族の物部麁鹿火の娘である影姫との婚姻を謀っていたようなのである。 物部は大伴金村の任那四県の百済割譲の際にも、金村と距離を取っていたようであるし、真鳥は物部を自分の勢力に引き入れようとしていたのであろう。 物部と姻戚関係を結べば、鮪の権勢は安泰となる。

しかし若い鮪が真鳥の後を継ぐことになれば、当然真鳥の子孫が天皇位につく可能性が出てくる。 このため真鳥の専横もあって、武烈周辺の人々の人心は真鳥を離れることになったのではないか。

金村はそのすきを突き、武烈周辺に取り入り、真鳥とは異なる提案を行った。 すなはち、自分の擁する継体を天皇に即位させ、武烈を昼の王にするのである。 血筋の劣る継体が天皇になるとはいえ、壮年の継体とまだ若い武烈を比べれば、やがて武烈に天皇位が返ってくる。すなはち、武烈がまだ未熟なうちは、継体がいわば天皇位をあずかり、武烈の昼の王としての政務は金村が助けるのである。

金村はこの提案で武烈周辺の人心をつかむと、鮪と影姫の婚姻に割って入り、影姫を武烈に合わせようとする。 しかし日本書紀の影姫の歌に、わが夫とあるように、影姫と鮪の婚姻は既になっていたのであろう。 このため鮪は影姫を渡すことを拒む。金村は武烈をけしかけ、ついに鮪を討つ命令をうける。

金村は大伴の名の通り、自らは表に立たず、権威者に命じさせて自分の意を通してゆく。 ついに鮪を討ち果たすと、真鳥の支持者は将来に対する期待も持てなくなり、真鳥は手足をもがれたも同然となる。 そしてついに金村は武烈に対し、真鳥を討つ命令を出させるのである。(補註13.平群氏について)

継体がこのとき、大和に近い筒城から弟国に退いたのは、反継体派を刺激しないためであろう。反継体派の中心人物がなくなっても、物部には遺恨がのこったであろうし、安心できる情勢ではなかったと思われる。 継体の得た神意は金村が武烈に伝え、武烈が同じ大和で継体の下についているような形を避けたのかもしれない。 継体の天皇位は名目上は武烈からの預かりものだからである。

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14.継体朝の成立と金村の失脚

しかしここで想定外な事が起こった。 武烈の方が先に亡くなったのである。 なぜ早死にしたのかは書いてないのでわからないが、これは反継体派には打撃であったろう。 継体はついに大和入りし磐余の玉穂に宮を構える。 このとき継体の正当性は、手白香の生んだ欽明にあったと思われる。 欽明は当時の風習として、大和の手白香のもとにいたのであろうが、525年の継体の大和入りとともに、王宮に入り名目上の昼の王になった。 これが敏達欽明年の元年になったと思われる。 同時にまだ幼い欽明を安閑が実質の昼の王として支えた。(補註14.安閑立太子について) これにより、継体朝は盤石となったのである。

継体を擁する大伴氏の権勢は絶頂に近づく。527年四月金村は継体を退位させ、安閑を天皇に即位させる。 そして宣化を実質の昼の王として、欽明につける。これは自らの擁する継体朝の継承を確定するためである。 しかしそれ以外にも目的があった。 527年六月、筑紫の君磐井を攻める大戦争が起こる。 これは日本書紀によれば磐井の乱であるが、筑後国風土記では大和側が突然攻め寄せたように書かれている。 私は事実は金村による磐井の打倒であると考える。

敏達紀十二年秋七月条によると、天皇は任那復興のため、百済に仕える火葦北國造の阿利斯登の子、達率日羅を呼び戻そうとする話が出てくる。 このとき日羅は宣化天皇の時代のことを述べるに際して、金村を我君大伴金村大連と呼んでいる。 このことから金村は南九州の火の国に大きな勢力を持ち、そこを拠点に百済と関係を結んでいたことが分かる。

一方磐井は北部九州を中心に新羅と関係を結んでいたのであろう。 大和政権内にはずっと、親百済派と親新羅派の対立があったと思われるところがあるが、親百済派の大伴金村にとって、北部九州の親新羅派の磐井は邪魔な存在であったのであろう。 この九州における政敵を、政権の力でねじ伏せようとしたのが、磐井の乱の真相であろう。

磐井の乱において継体を退位させたのは、総指揮官として経験が深く諸豪族を従える力を持つ継体を必要としたためである。 金村は常にそうあったように、ここでも自分が前に出ず、権威の裏付けで動く形を取りたかったのであろう。 継体に夜の間の政務でなく、実際に諸豪族の前に姿をあらわして指示させることが目的であったと思う。 これにより大和政権は、継体勢力基盤のひとつである近江の毛野臣などの軍を動員できた。

ただ日本書紀磐井の乱の記述は、漢籍による潤色の度合いが著しく、そこからどの程度の歴史を読み取れるかは難しい。

絶対的な権力を握った金村であったが、常に継体を権威として利用し、自らは表に立つことはなかった。 また実際に天皇家に自らの血筋を入れようなどという気もなかったのかもしれない。 しかし531年辛亥の年に、金村が後ろ盾としていた継体だけでなく、安閑、宣化までもが亡くなったのである。 これをして辛亥の変などと呼ぶ人もいるが、既に述べたように、日本書紀には変事は書かれていることが多い。 重臣の名をみても、欽明即位時に金村の名があり、なんらかの変事により三人が亡くなったとすると不自然である。 実際欽明即位後も、金村は難波祝津宮に伴われて行っている。 そこで任那四県割譲の非を問われているのである。

権力者が同時に亡くなったケースとしては、奈良朝の聖武天皇の時に、藤原四兄弟が疫病でなくなった事があり、変事と決めつけることはできない。 書かれていない以上は分からないとしか言いようがないが、金村にとっては痛手であったことは間違いない。

しかし大伴氏は大連からは外れてしまうが、欽明朝にはいっても狭手彦の活躍などはあり、大伴氏は姿を消したわけではない。

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15.残る課題と展望-まとめに代えて-

本稿では隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文を端緒として、日本書紀の編纂プロセスに関して考察してきた。 その結果として、日本書紀継体紀から欽明紀にかけての、編年上の矛盾がほとんど編纂プロセスによって引き起こされたことを主張する。 同時に古代日本の天皇制の形態についても、新たな仮説を提示した。

この仮説では、特に継体の大和入りが遅れた経緯について、日本書紀に記述にそって理解できることを示した。 また磐井の乱に関しても、新しい観点を与えることができたと思う。

一方今後の課題も多く残る。 各天皇の即位年や同時に昼の王であったのが誰かなどについては、明らかにできない部分が多い。

例えば安閑の即位年は、本稿の仮説では継体二十一年に相当する、継体の古事記崩年を譲位年と考えている。 本来は譲位年である当年が元年になるはずであるが、その場合は百済本記に従って、継体安閑宣化が同時に辛亥年で亡くなったとすれば、安閑在位年は五年になって合わない。 機械的に越年称元法に従えば、二十二年が元年とする伝えがあっても良いかもしれないが、それでも在位年は四年になる。 一つの可能性があるとすれば、前節に見たように安閑は継体二十年には昼の王になっていたので、在位二年は二十一年に宣化に昼の王を譲るまでの期間を伝えたのかもしれない。 ただそれだと、安閑紀元年の記述は継体二十年になるが、すでに大連が物部尾尾輿になっていて合わない。 在位年は昼の王として伝わった期間を採用し、記述は天皇在位期間のものを取ったとしなければならない。 これは極めて場当たり的な解釈と言わざるを得ない。 他に安閑紀には百済の使者が来たという記録があり、本稿の議論ではこれは昼の王の時代の記録であるはずであるが、昼の王時代の記事と天皇即位後の記事を、在位二年の伝えをもとに丸めてしまっているのかもしれない。 このような短縮は6節の欽明紀に関する議論でも見たところである。

安閑に関しては譲位記事があるので天皇に即位したと思われるが、宣化については天皇位についていないように思われる。 安閑と宣化が同時に即したとすれば、安閑は天皇、宣化は昼の王であろう。 事績をみると宣化のエピソードが外交と戦争に関係するのに対し、安閑のエピソードは内政に偏るように見える。 ただ一点、既に述べたように元年五月の百済が下部脩德嫡德孫と上部都德己州己婁を遣した話は、外交とするしかない。 14節でみたように、武烈については天皇になるべき存在であったが、天皇にはなっていないと考える。 宣化については、後の欽明皇后である石姫がその娘であることから、後の天皇家にとっては武列と並んで、天皇であったとして欲しい存在であろうとは言える。 このことが両者を天皇として扱うことになったのではないか。 常陸の国風土記には、ヤマトタケルが倭武天皇として現れ、だれを天皇とするかは後世の都合によって決まっているように見える。

欽明に関しても課題が残る。 欽明については14節で述べたように、継体二十年の磐余玉穂の宮への遷都いらい、名目上の昼の王であったのであろう。 ただしそもそも昼の王に即位という概念があったか、あったとしてそれが立太子とどう違うのかは今のところ分からない。 また昼の王は大兄制とのかかわりがあるかもしれないが良くわからない。(補註15.大兄制について)

欽明は辛亥年に天皇即位していると思われる。 しかし天皇に即位した後では外交記事が少なくなるという傾向があるのであれば、外交記事であふれている欽明紀はどうなるのであろうか。 実際のところ、欽明紀の前半は欽明紀というより、百済聖明王紀と言った方がようように思えるほど百済記事が多く、おそらく百済本記などが多く採用されていると思われる。 しかしその間の昼の王は誰だったのかは不明である。 その人物は後に天皇として扱われなかったので、全ての記事が欽明紀に流れ込んだ可能性はある。 役割に関する議論をするためには、全ての記事に関してその内容を吟味し分類することが必要になるが、現時点で筆者の力量を遥かに超える。

敏達紀あたりからは、古事記崩年干支と日本書紀が年レベルではあってくる。 このことから敏達紀あたりからは、編年された史料がそろそろ存在した可能性があると考えたが、欽明紀は各天皇の一代記からそのような編年された史書への、ちょうど過渡期にあたると思われる。 そのため三種の即位年があるなどの混乱もあるが、敏達の立太子あたりからは、次第に政権に関する記録としての性格が現れてきていると思われる。

天皇系図については、既に五世紀に文字化が始まっていたと思われるが、最初の系図は稲荷山鉄剣銘文の系図のように、即位した王の名を父子継承で列記しただけの物であったと思われる。 しかし隅田八幡神社人物画像鏡銘文に、兄弟が現れていることが暗示するように、六世紀にはいると顕宗紀に引かれる譜第のような、血縁関係を含む系図に変わって行ったと思われる。そして通説によれば、欽明朝に欽明紀に見える帝王本紀が作成されたとする。 津田左右吉によれば、古事記序文に見える旧辞もこのころとされる。 まさに欽明の時代は日本の歴史記録の転換点だったのである。 このため、欽明紀以前の原史料にたいして考えた、天皇一代記的な観点だけでは、欽明紀は評価できなくなっていると思われる。

巻十八以降の、欽明紀、敏達紀、用明紀、崇峻紀はいまだ解析が十分とは言えない。 敏達紀と推古紀での推古立皇后年次の違いや、欽明紀の後半と敏達紀の記述の類似性などには、まだ解きほぐすべき課題がある。 暫定的ではあるが、最後に歴代天皇の在位に関する表を載せる。 欽明在位の前半の昼の王は、例えば上殖葉皇子や宅部皇子のような、皇子のうちの誰かが担ったと考えている。 ただし全期間を一人で担ったのかどうかは分からない。 また敏達、用明の昼の王を、穴穂部皇子としたが、敏達紀の葬儀の場面に、天下を欲したとあること、自らを生きた王としていることから考えた。 用明の時代の昼の王については、用明紀に太子彥人皇子を呪う話が出てくることから判断した。 崇峻の昼の王は、崇峻紀にまだ十五六才の少年廐戸皇子が登場することから、名目上の昼の王ではないかと考えた。 政務の実際は蘇我馬子が行ったのであろう。

本稿の仮説は日本書紀を読み解く上で、重要な意味を持ってくると考える。 本稿のスコープは顕宗紀から崇峻紀までであるが、日本書紀α群の性格のよく似た部分としては、雄略紀と清寧紀がある。 本稿の仮説に基づき分析した結果、倭王武と興の朝貢について、あらたな視点が開けるのであるが、すでにあまりに冗長な文となっているため、ここで本稿を終わる。

歴代天皇推定在位年
西暦干支

  


  



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古事記崩年
499己卯
500庚辰
501辛巳
502壬午
503癸未
504甲申
505乙酉
506丙戌
507丁亥
508戊子
509己丑
510庚寅?
511辛卯
512壬辰
513癸巳
514甲午
515乙未
516丙申
517丁酉
518戊戌
519己亥
520庚子
521辛丑
522壬寅
523癸卯
524甲辰
525乙巳
526丙午
527丁未継体
528戊申
529己酉
530庚戌
531辛亥
532壬子?
533癸丑
534甲寅
535乙卯?安閑
536丙辰
537丁巳
538戊午
539己未
540庚申
541辛酉
542壬戌
543癸亥
544甲子
545乙丑
546丙寅
547丁卯
548戊辰
549己巳
550庚午
551辛未
552壬申
553癸酉
554甲戌
555乙亥
556丙子
557丁丑
558戊寅
559己卯
560庚辰
561辛巳
562壬午
563癸未
564甲申
565乙酉
566丙戌
567丁亥
568戊子
569己丑
570庚寅
571辛卯
572壬辰
573癸巳
574甲午
575乙未
576丙申
577丁酉
578戊戌
579己亥
580庚子
581辛丑
582壬寅
583癸卯
584甲辰敏達
585乙巳
586丙午
587丁未用明
588戊申
589己酉
590庚戌
591辛亥
592壬子崇峻
天皇在位昼の王名目上の昼の王退位後

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17.補註

★補註2.1.三国史記と百済新選における武寧王即位年の違い[戻る]

三国史記年表では、東城王が暗殺されたその年に武寧王が即位したことになっているため、その干支の対応するのは501年であるが、三国史記百済本紀では、東城王は十二月に亡くなり、武寧王即位は春正月となっているため、即位年は502年で日本書紀の記述にあっている。日本書紀は百済本記の干支を利用したのだろう。

★補註3.1.紀生磐宿禰について[戻る]

彼は雄略紀に見える、紀大磐宿禰と同一人物とみられ、雄略九年に新羅戦のさなかに病死した大将軍の父に代わって戦場に立ち、兵の統制権を奪って同僚に妬まれ、殺されかけた人物であるが、結局刺客を返り討ちにしている。 おそらく若いころから相当の軍事的才能と、人を動かすカリスマ性を持っていたのであろう。 また父の代から半島で活動しており、土地監も人脈もあったと思われる。 それにしても百済乗っ取りはあまりにも大胆であり、平時では考え難い。

★補註5.1.宣化在位年について[戻る]

本来は譲位なので527年が安閑元年なのだが、崩御と同じ扱いを行って、越年称元法で528年を安閑元年としたと考えられる。 宣化元年を同年とすれば、辛亥年までは日本書紀の言う在位年と同じ四年となる。 なぜ安閑在位年が二年なのかは別の考察が必要になる。

★補註5.2.磐井の乱における物部麁鹿火[戻る]

書記によれば重臣の意見が一致し、物部麁鹿火が総大将になる。 しかし物部麁鹿火は出征にあたって、下記のように「道臣から室屋に至るまで帝を助け罰を与えた」と言っている。

「在昔道臣爰及室屋、助帝而罰」

諸説指摘する通り、これは物部麁鹿火の言葉としては全く不自然なもので、本来は金村の奏したものではないかと考えられる。 (h.1) つまり磐井討伐の総大将は、最初大伴金村となっていたものを変えた疑いがある。 この麁鹿火の奏は漢籍を下敷きにした潤色であって、すくなくとも一旦金村を奏者とした文面を、変更したものであることに注意すべきである。 すなはち金村を総大将とした原史料があったか、日本書紀作者の文飾だとしても、一旦は文字化されたものを変更したのである。

古事記によれば金村と麁鹿火の二人が征討を命じられたように書いてあり、麁鹿火の名が先に出て、しかも麁鹿火は大連金村は連となっていて、やはり総大将は麁鹿火で金村はそれに従っているように見える。 日本書紀が最初に選んだ史料では金村が総大将で、それとは別に麁鹿火を総大将とする史料があったのであろう。 大伴系の史料と物部系の史料があったとする指摘もある。 そして日本書紀は編纂途中で、その別伝に切り替えたものと思われる。

また継体紀二十二年十一月条の、物部麁鹿火と磐井の間で行われた戦についても、漢籍の潤色が多くどの程度信用できるかは疑問視されている。 実際筑後の国風土記逸文では、にわかに軍勢が襲ってきたので磐井は逃げ、結局逃げおおせたことになっていて、話が違っている。 乱の平定に一年半もかかったのかも疑わしい。 もっとも毛野臣の新羅遠征が再スタートしたのが継体二十三年なので、筑紫君葛子が糟屋屯倉を献じたのが、この年の十二月となっていることも合わせて、乱後の収束まで含めて継体二十二年の末までかかったとするのは、時系列的にはおかしくない。 しかし総大将として、金村と麁鹿火を入れ替えている経緯からして、収束は大伴氏や毛野臣などの別の人物が行ったとしていた原史料があったかもしれない。

磐井の乱に関しては、二百年以上後の伝承とはいえ、風土記に採録された伝承との内容的な差もあり、そもそもあまり確かなことは伝わっていなかったとする説が有力である。

★補註6.1.当年称元法と越年称元法[戻る]

日本書紀では天皇即位年の翌年を元年とする、越年称元法が取られている。 ただし年が改まって即位した場合や、譲位の場合には即位した年が元年になる。 ほかに三国史記年表のように、当年称元法という方式もあって、即位年を元年とすることもある。 この二つがしばしば混在して混乱を招くが、一年だけずれた場合はその原因が称元法の違いに起因する可能性がある。 上宮聖徳法王帝説は当年称元法での、在位を言っていると思われる。 一方元興寺伽藍縁起では越年称元法を取り、仏教伝来の戊午を欽明の七年としている。

★補註7.1.日本旧記について[戻る]

雄略紀に引く日本旧記のような、旧伝を記した書物もあったことは確かであるが、おそらく古事記のように、ずっとのちの時代に口承伝承をまとめた史料であったであろう。

★補註7.2.敏達天皇の崩年について[戻る]

敏達敏達天皇の崩年は一年ずれるが、日本書紀の記述を見ると、欽明天皇が崩御の直前全てを敏達に任せるとの記述があり、欽明崩御の月と敏達即位の月がおなじであることから、本来はこの月に譲位があったとすれば、日本書紀の敏達年は一年ずれてしまったと考えられる。 この結果用明紀は古事記に比べて一年短くなったと考えられる。

★補註7.3.推古天皇の年齢について[戻る]

推古紀には敏達崩御の年齢は三十四歳となっていて、推古が皇后迎えられた年齢十八歳と敏達の在位十四年に矛盾する。 しかし崩年や宝算などとは相互に矛盾が無く、また古事記崩年干支とも矛盾がない。 おそらく敏達崩御の際の年齢ではなく、用明崩御の際の年齢を誤って伝えたものであろう。

★補註8.1.安閑即位元年について[戻る]

安閑元年は、或る本の継体二十八年崩年説を採用したのではなく、安閑崩年として古事記などに伝わっていた乙卯年と、安閑在位として伝わっていた二年から決まったのであろう。 安閑即位前紀の記述からすると、譲位であるにもかかわらず越年称元法が用いられ、継体二十八年崩説では一年のずれが起こる。 このことは即位前紀に、安閑即位を継体二十五年としていることからも伺える。 おそらく当初の一代記的記述では、継体の崩御は二十五年となっていたのであろう。

★補註10.1.聖明王即位について[戻る]

日本書紀継体紀には十七年夏五月に百済國王武寧の薨、十八年春正月に百済太子明卽位の記事が見える。三国史記では武寧王の崩御と聖王明の即位は同年となるが、百済系史料によったとみられる日本書紀には時間差があることが分かる。継体紀十二年から十九年を武烈紀に並行させると、この百済王の薨と即位に対応して、それぞれ百済の使者麻那君と期我君の記事が見える。武烈紀では麻那君に対してはしばらく朝貢がなかったとして拘束し、後から来た期我君は麻那君は百済王の族(やから)ではないとして、自分が仕えるとしている。明記していないので憶測になるが、武寧王崩後半年以上即位できなかったのは、王位継承が必ずしも順調でなかったことを示すのかもしれない。武寧王が即位するまえに、何者かが倭国の関与を求めてやってきて、倭国に拒否され、明の使者によって置き換えられたと解釈できる。麻那君を遣したのが百済國であり、期我君を遣したのが百済王であるのは、単純な言い換えなどではないのではないか。

★補註10.2.三代実録に引く伴大田宿祢常雄の家諜について[戻る]

三代実録に引く子孫の伴大田宿祢常雄の家諜には、下記のようにある。

「宣化天皇世。奉使任那。征新羅。復任那。兼助百済。欽明天皇世。百済以高麗之冦。遣使乞救。狹手彦復爲大將軍。伐高麗。其王踰城而遁。乘勝入宮。盡得珠寳貨賂。以獻之。珠敷天皇世。還來獻高麗之囚。今山城國狛人是也。」

この珠敷天皇世を礒城嶋天皇世の誤とする説もあるが、文脈からして宣化天皇世、欽明天皇世と続けて、ここで再び礒城嶋天皇世が出てくるのは不自然である。 また宮の名を使う例では下記が挙げられ、礒城嶋天皇世という書き方には違和感がある。
「斯歸嶋宮治天下天皇」 (元興寺伽藍縁起)
「磯城島宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
「磯城嶋宮御宇天皇」 (舒明即位前紀、孝徳紀大化元年八月)
「志紀嶋宮御宇天皇」 (出雲風土記神門郡)
「志貴島宮御宇天皇」 (出雲風土記意宇郡、山城風土記逸文)
「嶋宮御宇天皇」 (播磨風土記餝磨郡)
「磯城嶋金刺宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)

ここはやはり珠敷天皇世が本来の伝承であろう。

★補註11.1.考古学的にみた二王並立[戻る]

聖俗二王の並立については、考古学者が古墳の研究などから主張することが多くなってきている。 私の知る範囲で白石太一郎氏が、百舌鳥古市古墳群に関して述べられたのが最初で、前期古墳を中心に東潮氏や岸本直文氏等数多くの研究があるがここでは、岸本直文氏の論文を紹介する。(h.2) 岸本氏は後の大兄制度を二王並立の名残と考えられているようである。

★補註13.1.平群氏について[戻る]

平群の古墳の様相から、平群を本貫とする氏族は六世紀後半を遡らないとされる。 しかしここに現れる真鳥や鮪は、稲荷山鉄剣銘文に現れる祖先名のような、伝承上の人物であろうと思われる。 仁徳紀に見る、「木菟宿禰、是平群臣之始祖」や古事記にみる「平群臣之祖名志毘臣」等というのが本来の形であろう。 真鳥が討たれたのが、書記の継体十二年518年となるので、この時失脚した族(やから)の残党が平群に落ち着き、半世紀ほどした六世紀後半に平群氏として成立したと考えればよい。 水谷千秋氏の著作によれば、継体の大和入りの障害になったのは、北葛城にいた葦田宿祢系の葛城氏であるという。(h.3) 平群氏と葛城氏は、同じく武内宿禰を祖とする一族であり、平群氏が北葛城にいた真鳥や鮪を、平群へ移る前の祖先として挙げた事は十分に考えられる。

★補註14.1.安閑立太子について[戻る]

これは継体二十年のことであるが、一本にあるように継体が天皇位についてから七年の事である。 安閑が春日皇女を迎え立太子する伝承は、もとの継体一代記においては七年のこととして伝わったのであろう。 安閑は勾大兄皇子として伝わり、このとき大和に入っていたと思われる。 春日皇女と交換したとされる歌にも、大和の地名が入っている。

★補註14.2.大兄制について[戻る]

継体朝と大兄制度に関しては,多くの研究があるが(h.4)、本稿では取り上げなかった。 大兄の始まりは、日本書紀では履中の大兄去来穂別であるが、これは古事記に見る大江之伊邪本和気という表記から、墨江之中津王との対比で捉え、本来の大兄制度は安閑天皇の皇子時代の勾大兄皇子に始まるとされることが多い。 そうであればまさに継体朝がその始まりとなるのであるが、履中紀には劒刀太子という呼び名が現れ、日嗣の御子とは別の継承対象があったように思われるところがある。

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18.参考文献

  1. [戻る](0.1) 日本書紀 岩波文庫(三)補注17-21
  2. [戻る](0.2) 『福井県史』通史編1 原始・古代  第二章 若越地域の形成 第二節 継体王権の出現
  3. [戻る](0.3) 坂本太郎 継体紀の史料批判
  4. [戻る](1.1) 石和田秀幸 隅田八幡神社人物画像鏡における「開中」字考
  5. [戻る](1.2) 石和田秀幸 上代表記史より見た隅田八幡神社人物画象鏡銘:「男弟王」と「斯麻」は誰か
  6. [戻る](1.3) 石和田秀幸 隅田八幡神社人物画象鏡銘釈読考
  7. [戻る](5.1) 篠川賢 地域社会・地方文化再編の実態 第一章 「磐井の乱」とその後
  8.  
  9. [戻る](7.1) 獲加多支鹵大王は雄略天皇か ー天皇系図の成立ー
  10.  
  11. [戻る](12.1)直木孝次郎 的氏に関する一考察
  12. [戻る](h.1) 荊木美行 磐井の乱の再検討
  13.  
  14. [戻る](h.2) 岸本直文 倭王権と倭国史をめぐる論点 (古代東アジアにおける倭世界の実態 ; 倭王権の実態) 国立歴史民俗博物館研究報告 211:2018.3 p.15-50
  15. [戻る](h.3) 吉村武彦編 継体・欽明朝と仏教伝来 大橋信弥 六 継体・欽明朝の「内乱」
  16. [戻る](h.4) 水谷千秋 謎の大王 継体天皇 第四章 継体天皇の即位と大和定着
  17.  
  18. 直木孝次郎 古代を語る〈6〉古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ
  19. 日本書紀 岩波文庫(三)(四)
  20. 全現代語訳 日本書紀 宇治谷孟 講談社学術文庫

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