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3.金印考(2)

ー委奴國をどう読むかー

漢委奴國王の委奴は一語で読むべきか

「漢委奴國王」はどう読むのでしょうか。 三宅米吉氏による「漢(カン)の倭(ワ)の奴(ナ)の国王」という読みが定説になっています。 これは委奴國を、後漢書に見える中元二年(西暦57年)に朝貢した倭奴國であるという亀井南冥説に従って、「倭の奴國」と分解し、これを魏志倭人伝に北部九州の大国として現れる奴国に比定して、日本書紀の儺縣と考えるものです。 これは金印の見つかったのが、博多湾上の島の上で、儺縣が博多付近にあったことと合わせた判断でしょう。 この場合はナと読まれることになります。

しかしこの読みには有力な批判があります。 大谷光男氏は、『金印蛇紐「漢委奴国王」に関する管見』の中で、『後漢書』に記載された、皇帝が他の民族に授けた金印紫綬の例から金印紫綬は、一国(国家)に授け、国内の一部族(国)に授けられることはなかった。 したがって、金印「漢委奴国王」の読み方で、「カンのワのナのコクオウ」と訓む三宅説は退けられることになると結論されました。 大谷説に代表される、三宅米吉氏の三段に区切って読む説に対する批判は他の方もされていますが、実は批判は間違いであることが分かっています。 大谷説をはじめ、後漢から南北朝にかけて大量に発見される印と、後漢以降に記録された漢旧儀を根拠に、三段読みはあり得ないとする説は、漢の印制が時代と共に変化したことを考慮していなかったのです。

 
漢南北朝官印にみられる印字に国名を冠す印章一覧
前漢新莽後漢三国南北朝
滇王之印新越余壇君漢委奴国王無し晋歸義胡王無し
越青邑君新難兜騎君漢匈奴歸義親漢君親晋胡王
越貿陽君新保塞烏桓䙲犂邑率衆矦印漢匈奴惡適尸逐王晋歸義胡矦
新西国安千制外羌佰右小長漢匈奴惡適姑夕且渠晋率善胡邑長
新五属左佰長印漢匈奴呼律居訾成群晋率善胡仟長
新西河左佰長漢匈奴姑塗黑臺耆晋率善胡佰長
新前胡佰長漢匈奴呼廬訾尸逐晋歸義叟王
新前胡小長漢匈奴栗借溫禺鞮晋歸義叟矦
漢匈奴伊酒莫当百晋歸義叟仟長
漢匈奴歸義親漢長晋率善仟長
漢匈奴破虜長晋歸義氐王
漢匈奴守善長晋歸義氐邑長
漢歸義鮮卑王晋歸義氐仟長
漢鮮卑率衆長晋歸義氐佰長
漢歸義賨邑矦晋歸義羌王
漢青羌邑長親晋羌王
漢破虜羌長晋歸義羌矦
漢歸義羌長晋率善羌邑長
漢歸義羌佰長晋率善羌仟長
漢破虜胡長晋率善羌佰長
漢歸義胡長晋虜水率善邑長
漢歸義胡佰長晋虜水率善仟長
漢率善胡長晋虜水率善佰長
漢休著胡佰長晋蠻夷歸義王
漢仟長印晋蠻夷王
漢歸義夷仟長晋蠻夷歸義矦
漢夷佰長晋蠻夷率善仟長
漢率善氐佰長晋蠻夷率善佰長
漢歸義氐佰長晋烏丸歸義矦
漢歸義蠻邑長晋烏丸率善邑長
漢丁零仟長晋烏丸率善仟長
漢廬水仟長晋烏丸率善佰長
漢廬水佰長晋鮮卑歸義矦
漢屠各率衆長晋鮮卑率善邑長
漢保塞近群邑長晋鮮卑率善仟長
漢保塞烏桓率衆長晋鮮卑率善佰長
漢烏桓率衆長晋鮮卑率善中郎將
漢邑長晋率善倓邑長
漢叟邑長晋率善倓仟長
漢率衆君晋率善倓佰長
漢邑長印晋率善韓佰長
晋率善佰長
晋夫余率善佰長
晋高句驪率善邑長
晋高句驪率善仟長
晋高句驪率善佰長
晋支胡率善邑長
晋支胡率善仟長
晋支胡率善佰長
晋屠各率善仟長
晋屠各率善佰長
晋匈奴率善邑長
晋匈奴率善佰長
晋上郡率善佰長親
晋王印晋歸義王

この表は馬彪氏の論文『光武の新莽に「因りて改めず」についての研究』に掲載されたもので、羅福頤『秦漢南北朝官印徴存』の官印実例史料によって作成されたものです。 この表によってわかることは、印面の形式は時代とともに変わっているということです。 外臣に与える印面に、前漢時代の印には王朝名がありませんが、王莽の新の時代から王朝名が加わります。 これは実は漢書にも書かれたことで、王莽がその建國元年に、「匈奴單于璽」の印を返納させて、「新匈奴單于章」の印を与えたのは有名なエピソードです。 三国志魏書東夷伝に見える、「濊王之印」は伝世の印ですが、形式的には王朝名がなく、前漢時代と言うことがこのことから分かります。 その新の印に下記のようなものがあるのです。

「新保塞烏桓䙲犂邑率衆侯印」=「新」+「保塞烏桓」+「䙲犂」+「邑率衆侯印」
 「新越餘壇君」=「新」+「越」+「餘壇」+「君」

分解すると、「䙲犂」「犂汗王」などという匈奴の王号からして固有名詞でしょうし、「餘壇」もそんな熟語が漢籍にみえないことから固有語でしょう。 つまり形態として、「王朝名」+「民族名」+「非漢語固有名詞」+「中国の地位名」という形式の印が存在するのです。 後漢の「漢匈奴悪適尸逐王」も分解すると「漢」+「匈奴」+「悪適尸逐」+「王」となって同じ形式です。 したがって後漢前期の初代光武帝の時代に与えられた印面に「漢委奴國王」=「漢」+「委」+「奴」+「國王」とあっても一向に不思議はないと思われます。 ちなみに「漢匈奴悪適尸逐王」のような印は、文字様式から後漢でも一世紀頃のものと考えられているようです。

後漢の後半から魏晋南北朝にかけて、大量の外臣への印が作られ、それらが「王朝名」+「民族名」+「中国の地位名」という定型になっていた上に、参照した漢旧儀のような書物も、後漢以降に成立したものであったため、大谷氏のような誤解が生じてしまったのです。 時代性から考えて、「漢委奴國王」「漢」+「委」+「奴」+「國王」と読むことに何の問題もないことが分かるのです。

委奴をどう読むか

「漢委奴國王」「漢」+「委」+「奴」+「國王」と読むことが可能だとしても、「委奴」を二つに切り離すべきであるとは断定できません。 前稿では、後漢書の選者范曄は三国志との比較で、「倭奴」という国が見えないことから、倭の奴國と呼んだと推定しました。 しかし三宅米吉説の現れる前には「漢(カン)の委奴(イト)の国王」と読まれていました。 魏志倭人伝には、三世紀の伊都國に王がいて、中国の郡からの使者の常に留まるところとされるうえに、一大率のような重要な役人がいたとされます。 したがってこの時の朝貢も伊都國によるものとするのです。 この説も金印の見つかった位置との関係は、三世紀の奴國とそれほど変わりありません。

しかし三宅米吉氏はの読みはであって「委奴(イト)」とは読めないとしました。 またと読むのは問題です。

一部には漢代の都は華北にあったのだから、北部方言の漢音で読むべきという人もいましたが、これは明らかに間違いです。 漢音とは唐代の長安の貴族が、自分たちの発音こそが正しい漢字の発音であるとして漢音と呼び、それ以外を呉音としたことに由来する呼び名です。 これが遣唐使を通じて日本に入ってきたとき、唐直輸入の漢音こそ用いられるべきとして、その当時すでに日本に広まっていた漢字の読みを、全て呉音と呼んだのです。 漢音呉音と古代中国の方言とは関係ありません。 呉音などは一体いつどこから伝わったものかも諸説あり、そもそも一度に伝わった発音体系ではないと考えたほうが良いでしょう。

現代中国には多くの方言があり、テレビドラマ等も方言に翻訳して放送されるほどです。 方言差というよりも異言語と言ったほうがよいでしょう。 この状況は揚雄の『方言』など持ち出さずとも、古代においても同じだと考えられます。 中国には漢字があり、発音が通じなくとも文字でコミュニケーションが取れるとはいえ、全く会話の通じない状況では統治にも支障があるでしょう。 現代中国の普通話のもとになった方言に、北京周辺で話されている官話という方言がありますが、この命名は明の時代に中国を訪れた宣教師が、役人が地元の言葉以外に別の言語を話しているのに気づいたことがもとになっています。 古くから都で話されている言葉をもとにした、標準語と言うべき物が使われていたことは容易に想像できます。 古い時代の方言の記録はほとんど残りません。 それは文献が中央で作られることが多いことや、地方においてもある程度の知識を持った階級は、自分の才知を世に知らしめるためにも、中央の言語を使ったからでしょう。 唐代の官吏登用試験の科挙には、漢字の発音が出題されました。

古代中国の方言音の実際は、ほとんどわかっていませんが中央音は文献からたどることがある程度できます。 とくに重用されるのが、隋の時代の初めには作成された切韻です。 切韻は漢字の音を、二つの漢字の組み合わせで著わしたもので、このような組み合わせをと言い、切韻の名前の由来になっています。 この分類表は極めて複雑なもので、単一の方言音をあらわしたものではなく、その時代およびその前後の時代の、隋の中枢部分とその周辺部分の発音を分類したものと想像されますが、この切韻であらわされる方言が、現代中国の各地の方言に分岐してきたと仮定して、その発音を再現したのが中古音という仮説です。 中古音の構成には、日本やベトナムに古く伝わった漢字音や、チベットから伝来の仏典の音訳なども参考にされています。 さらに中古音をもとに、春秋戦国期の詩を集めた詩経という書物の詩の押韻と、周辺の言語との比較言語学的な考察をもとに、より古い時代の漢字音を再構した仮説があり、上古音と呼ばれています。 前漢までの時代のは、現代日本語の音でいうとに近く、後漢の時代のは、現代日本語の音でいうとに近いと考えられています。 匈奴キョウド等と読むのは日本漢音読みであって、匈奴フンナの様な民族名の音写であると思われます。 これが日本の高校世界史で教える、ヨーロッパに侵入したフン族であると思われます。 いずれにせよ、「委奴」が日本語の発音に当てられたなら、イトとは読めないことは確定的です。

倭奴は倭を卑しめた表現か

倭奴とはすなはちの事であり、は異民族を卑しめる為の接尾であると考える説があります。 異民族名等に対して中国人が、卑しめるために相応しい文字を当てたと言うのです。 しかしこの所謂卑字説は昔からありますが、全く根拠がありません。 古代の辞書は卑しい文字を区別していませんから、ある文字が卑しいかどうかは、現代人が自分の感性だけで決めているので、古代人がどう思っていたかの判断に客観性がありません。 卑字説論者は異民族の名詞には卑字が当てられるとしながら、三国志の倭の国名でいえば、伊都好古都のように、卑字とみなせないものが現れると、その都度理由を考えるばかりで、体系的な説明を与えません。

卑字説の根拠の一つは、漢書に王莽が異民族の高句麗などの文字を、卑しめるために改めたという記録にあるようですが、王莽は王朝の簒奪者で、その様な行為は悪政の一つとして挙げられているのです。 逆に言えば普通はそんなことはしないのです。 王莽が高句麗下句麗に改めたとすれば、取りも直さずそれはその時代にはは良い字だと、思われていたという証拠になります。

問題になっていると言う字について考えるならば、現代人にとって確かにこの字は奴隷を連想させ、良い印象はありませんが、それは現代の人権感覚でものを見ているからかもしれないのです。 古代に於て奴隷的労働は、都市文明を維持するために必須のもので、著作を行うような階級の人びとにとっては、無くては生活できないような存在だったでしょう。 金銭で売り買いされる奴隷は、言わば高級家畜の様な存在で、と言う字自体に、われわれの持っている様な感覚は無かったかもしれません。

実際に漢代の県名には、高奴県、盧奴県、狐奴県、雍奴県があり、人名にも浞野侯の趙破奴や、漢高祖曾孫管侯の劉戎奴があります。 時代が下れば、そのものずばり北魏時代の魯陽王倭奴や、北周の叱奴太后、唐代に下って玄宗皇帝の趙麗妃の兄である趙常奴、宰相李林甫の幼名である哥奴なんてのもあります。 これらのを卑字であると見做すのは無理があります。 前稿で見たように、倭奴國は后土の儀式において漢の南界をなす重要な存在であり、卑しめる理由がないのです。

漢の倭の奴の國王

前稿では、金印と後漢書の倭奴國の間の関係が非常に深いものであることを論じてきました。 またにはと通ずる読みがあり、藤原宮跡から発掘された木簡ではいわし伊委之と書いています。 これは上古推定音からも伺えることです。 もしも委奴倭奴と異なるとすると、金印の存在が史書に記述されていないことになります。 もちろん全ての事柄が史書に記載されるというわけではないです。 しかし一方で後漢が倭奴國王に印を与えたとの記録があり、漢委奴國王の印もしくはその精密なレプリカが見つかっている以上、その関連を考えるべきであると思われます。 したがって金印のの省画、もしくは本来はであったものを、史書ではと書いたかのいずれかでしょう。

漢籍において異民族名に用いる文字が、偏を足したり略したりすることはしばしば見るところです。 高句麗高句驪とも書かれ、晋高句驪率善邑長のような印もありますが、高句麗高句驪が別の国などという人はいません。 後漢の朝廷ではが正式字であったかもしれませんが、伊委之の例でみてもわかる通り、は相互に通音字、代用字として用いられたと考えて間違いないでしょう。

三国志との関係で考えるならば、三世紀の倭人の国奴國ととるか、もしくは一世紀には存在した委奴國もしくは倭奴國が三世紀にはなくなっていたとしか考えられないでしょう。 一世紀に倭人を代表して漢に朝貢した国が、二百年弱でなくなったと考えるよりも、委奴國は三国志の北部九州の戸数二萬の倭人の大国奴國であり、その地名が日本書紀の儺県に残ったと考えるほうが、金印の見つかった位置も考慮に入れれば、はるかに自然であると思われます。

ただし、「漢(カン)の倭(ワ)の奴(ナ)の国王」という読みは、に対して前漢以前の上古音の読みを適用しています。 この読みをとるならば、暗黙裡に奴國の朝貢が後漢より前にもあり、その時に国名に対する用字が決まったことになりそうです。


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