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獲加多支鹵大王は雄略天皇か

ー天皇系図の成立ー

獲加多支鹵大王は雄略天皇か

獲加多支鹵大王 ー稲荷山鉄剣銘文仮名を読むーでは、稲荷山鉄剣銘文に見える獲加多支鹵[ワカタケル/ワカタキル/ワカタケロ/ワカタキロ]などと読める事を示しました。 このワカタケ(キ)ル(ロ)に付いては、銘文の辛亥年を471年とし記紀に見える雄略天皇すなはち、日本書紀の大泊瀬幼武、古事記の大長谷若建[オホハツセワカタケ]であるとするのが有力です。 (ここで青字は上代特殊仮名使いの乙類を示します。) しかしながらネット上では異論も多く、辛亥年を531年とし宮の斯鬼[シ]から、日本書紀に磯城嶋金刺宮、古事記に師木島大宮を宮とする、欽明とする説が取り上げられることが多くあります。 これに対しては、銘文の辛亥年と白石太一郎氏説による鉄剣の埋納年代の5世紀末〜6世紀初頭から無理があると思われますが、ここでは鉄剣銘文そのものから何が言えるかを検討してみます。

銘文の方言性を考える

獲加多支鹵大王 ー稲荷山鉄剣銘文仮名を読むーでは仮名書きされた言語は、第一次近似的に上代日本語に繋がる中央の言語であると取り扱ってきましたが、大野晋氏等複数の研究者が、発見早々からこの銘文には東国方言の形跡があるとの指摘をしています。 方言性が指摘されているのは弖已加利獲居です。 前節ではこの人名を[テカリワ]としましたが、日本語としては不自然です。 八世紀の万葉集などにみられる東国方言には、オ列乙類音がしばしばエ列音に変化することが知られています。

知々波々我 可之良加伎奈弖 佐久安例弖 伊比之等婆 和須礼加祢豆流
チチハハガ カシラカキナデ サクアレテ イヒシケトバゼ ワスレカネツル

この場合[ケトバゼ]とは[コト]の東国訛りと考えられています。

[テカリワ]の最初の音がそのような訛りであるとすると、本来の読みは[トヨカリワ]となり、上代日本語として自然な響きになります。 実際にどこで作成されたにせよ、東国の人物に与えられる鉄剣の銘文が、その人物もしくはその周辺の人物からの聞き取りを銘文化したとすれば、これはあり得ることでしょう。

しかし関東で発見された稲荷山鉄剣の銘文に東国方言の痕跡があるとしたら、これは鉄剣銘文仮名の性格に付いて重要な情報を与えてくれます。 獲加多支鹵と同じ表記と思われるものが、九州で発見された江田船山鉄刀銘文にも見えるためです。 治天下獲□□□鹵大王世に見える獲□□□鹵が相当すると思われるものです。 一般論として特定の日本語には、複数の漢字化の可能性があるため、同一の文字が使われたとすれば、模範となる仮名使いのテキストからそれを写し取ったと言うことになります。 稲荷山鉄剣銘文に東国方言という特殊性があるとしたら、そこには模範となる仮名使いのテキストから写し取られたものと、稲荷山鉄剣銘文のために漢字化された二種類の仮名があることになります。 ではどれが模範となる仮名使いの写しで、どれが鉄剣作成時の仮名なのでしょうか。

この問題に対して光を投げかけたのが、「ワカタケル大王とその時代 埼玉稲荷山古墳」に収録された森博達氏の「稲荷山鉄剣銘とアクセント」です。 銘文中の仮名表示の単語で、上代日本語のどのような単語に対応するかが判断できるものについて、森氏が平安期から鎌倉期のアクセント史料と、中古音の四声のアクセントを比較した状況は下記のようになって言たということです。

銘文抽出語の上代日本語とのアクセント比較
(読みの推定の青文字は乙類)
銘文からの抽出語読みの推定比較した上代語一致/不一致
獲居一致
比垝ヒコ一致
足尼スクネ宿禰一致
獲加ワカ一致
多支鹵タケル梟帥一致
不一致
意富オホ不一致
斯鬼磯城不一致

一般論として、本来中国語を表す漢字で、異民族の言語を表現するのは難しいことでしょう。 日本語は比較的簡単な音節構造を持っているとはいえ、アクセントまで一致させるのは選択できる漢字に制限を受けることから難易度が上がります。 アクセントを重視したため、発音の類似性が落る可能性もあるでしょう。 日本書紀歌謡の仮名においては、巻別にアクセントが上代日本語と一致するものと、一致しないものがあるとされています。 アクセントを反映させるかどうかは、音訳者の音訳姿勢によるものと言えます。 比較できた単語がわずかに八語にすぎないことから、何らかの結論を出すのは厳しい状況ではあるものの、銘文の仮名には二つのタイプがある可能性が見て取れます。

獲加多支鹵は、九州と関東で発見されたことから、鉄剣や鉄刀がどこでつくられたにせよ、刻まれた銘文中の王名は、おそらく中央で漢字化されものをそのまま使用したのでしょう。 中央には漢字化された王名が確立していて、標準として参照されていたのでしょう。 もしも森氏の示唆するところが正しければ、その漢字テキストには獲加多支鹵以外にも、アクセントを重視するような仮名使いで記された仮名表記があったはずです。

五世紀王統譜

前節で見た音訳語のアクセントに関する扱いを見てみると、王名である獲加多支鹵と同じくアクセントを重視する表記の語は、[ワ][ヒコ][スクネ]等の人名の一部に使用される語であることが分かります。 このことはこれらの語が、人名を列記したようなテキストにあったことを思わせます。 人名を列記したようなテキストとして真っ先に思い起こすのは系図です。 おそらく獲加多支鹵を含む大王系図があったのでしょう。 そしてまさにそれを参照したと思われる、稲荷山鉄剣の銘文にも系図が書かれています。 稲荷山鉄剣の銘文に系図が書かれたのは、そのような既存の大王系図に触発されたからではないでしょうか。

また意富がアクセント重視でないことから、意富比垝は大王系図に無く、乎獲居の系図は大王には繋がらず、この時代の系図が記紀系図のように、多くの氏族の系図が天皇家に繋がるようなものではなかった可能性があります。

稲荷山鉄剣の銘文の系図が、その当時の大王系図をもとに真似されたものとすれば、大王系図に関して幾つか想定できることがあります。 恐らくその時の系図には、稲荷山鉄剣銘文の系図を上回る代数が書かれていたでしょう。 稲荷山鉄剣の銘文の系図は八代ですから、大王系図は八代以上あったと思われます。 稲荷山鉄剣の系図は、八代にわたる父子継承の系図ですが、実際にはそのような継承が成立することは稀で、自然な系図では兄弟や傍系からの継承がふくまれるのが常です。 この系図は実際の系図を表したものではなく、地位の継承に関しての何らかの理想を表したものと考えられます。 この系図自体が既存の大王系図に触発されたものとすれば、参照された大王系図もまた、同じように大王の継承を全て父子での継承としたものであったろうと思います。 それはこの時代に王位継承に関して、何がしかの理想があったことを伺わせます。

意富もまたアクセント重視でないところから、大王系図には[オホ][ヲ]のような修飾的な部分を含まない名前が書かれていたと思われます。

また宮の斯鬼がアクセント重視でないことは、大王系図中には宮の記載はなく、正に稲荷山鉄剣銘文の系図のように、王名のみが列記されたものであったと思われます。 記紀の天皇も一代のうちにしばしば宮を変えますが、この時代においてもそのように考えられ、王と宮が風土記などに見るように結びつけられるのは、もう少し時代が下ると考えられます。

大王系図が漢字化されて存在したとすると、後世の天皇系図に影響を与えたと思われます。 口誦で伝わる伝承は、どうしても時代と共に変化しがちですが、文字化された記録は時代を越えて伝わる力が強くなります。 従ってこの当時の系図に書かれた大王名は、後の記紀の系図に記録されている可能性が高くなります。

ではどのような情報が記紀に伝えられたでしょうか。 王名のみが列記され、血縁関係や宮の名などが書かれていなかったとすると、記紀に伝わったのは王名のみと言うことになります。 しかもそこには[オホ][ヲ]のような、修飾的な部分は含まれていませんでした。

獲加多支鹵に相当する天皇を記紀に記された天皇名から探してみましょう。 ここまでの考察から、記紀に伝わる王名に関連すると思われる所謂和風諡号のうち、宮の名や[オホ][ヲ]のような、修飾的な部分を外した部分が検討対象となります。 獲加多支鹵[ワカタケ(キ)ル(ロ)]と読めることから、該当するのは日本書紀に大泊瀬幼武、古事記に大長谷若建[オホハツセワカタケ]と言う名の伝わる雄略天皇が唯一の候補となります。 この比定には反論もありますが、銘文を検討する限り他の選択肢は無く、銘文の辛亥年と白石太一郎氏説による鉄剣の埋納年代の5世紀末〜6世紀初頭、そして古事記の崩年干支、日本書記の紀年や朝鮮系記事から想定される、[オホハツセワカタケ]の年代にも矛盾がありません。 記紀との比較から、[オホハツセ]は後に冠せられたものであること、幼武/若建は本来は[ワカタケル]と読まれたことが推定できます。 ただしこれはむろん記紀の[オホハツセワカタケ]が実在したということではなく、その伝承の核になる王名を持つ大王が実在したことを示すのみです。

実はもう一人この王統譜に名前があったことが推測される天皇があります。 アクセントを重視する仮名書きに[スクネ]がありますが、記紀に記録された天皇名で[スクネ]を名前の一部に持つ天皇は允恭天皇、日本書紀の雄朝津間稚子宿禰、古事記の男浅津間若子宿禰[ヲアサヅマワクゴノスクネ]のみです。 この天皇は恐らくこの王統譜には[ワクゴスクネ]として記載されていたでしょう。 記紀の伝承ではこの天皇は[ワカタケル]の父にあたる人物で、探湯の儀式を行い氏族の系統を正し、臣や連などの姓(カバネ)を定めたとされています。 稲荷山鉄剣銘文にも、乎獲居として姓(カバネ)の存在が示唆されます。(乎獲居臣を何と読むかを参照) 正にこの天皇の時代から、中国風の血統を重視する継承が意識され、その一環として大王系譜が作成されたと思われます。 考古学的な発見が偶然性の強いものであるとしても、稲荷山鉄剣に加えて江田船山鉄刀がこの時代に現れるのは、このような時代性を反映していると思われます。 そこに現れる仮名が百済系であることは、日本書記における漢字伝来や史部の伝承とも合います。 この時代は倭の五王の時代で、血統に関して中国からの強い影響によって、このような時代の画期が生まれたのでしょう。 稲荷山鉄剣系図において継承が全て父子の間で行われているのは、血統による王朝を創始しようとしている王権の理想が、最初期にはもっとも素朴な形で現れていたことを物語るものではないかと思われます。 記紀の王統譜も、古い部分が殆ど父子による継承であるのは、この王統譜の名残なのでしょう。 このように稲荷山鉄剣銘文は血統を強く意識し、代々の王名のみを父子継承の形で列記した、素朴な五世紀王統譜の存在を強く示唆するのです。

天皇系図の成立

[ヲアサヅマワクゴノスクネ]の世代から、記紀の王統譜が兄弟相続などを含むようになるのは、この最初期の王統譜が成立して後、まだ実際の血縁関係の口誦伝承が失われる前、恐らく[ワカタケル]よりそれほどくだらない時代に、血縁関係を含むものに修正されたことを物語ると思われます。

この時代に関する有力な金石文資料が、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文です。 この銘に対する一般的な読みは下記のようになります。

  癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

(大意)癸未の年八月、日十大王の年、男弟王が意柴沙加[シサカ]の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直[カワチアタイ]、穢人今州利の二人らを遣わして白上同二百旱をもってこの鏡を作る。

鏡は形式から見て五六世紀の作とされ、癸未年の候補として443年と503年が挙げられています。 意柴沙加[シサカ]宮に関しては記紀の宮伝承には無く、まだこの時点では大王と宮の関係は確定していなかったことがわかります。 費直と言う姓が現れているところは、の現れている稲荷山鉄剣と整合がとれていて、稲荷山鉄剣を前後する時期のものと見てよいと思われます。 443年説を取ったとしても、稲荷山鉄剣の471年より28年前です。 稲荷山鉄剣の時代に置いて、漢字化された大王系図が成立していたとすると、日十大王の名も記紀に伝わっていた可能性が高いと思われます。

この鏡の銘に関しては在野の研究者である、石和田秀幸氏の優れた研究があります。 石和田氏は下記論文により、この銘文中のと判読されていた文字が、実はで有るとしました。

隅田八幡神社人物画像鏡における「開中」字考

銘文中の開中費直[カワチアタイ]と考えられていた部分が、歸中費直と読むべきであり、歸中を南斉書百済伝に見える百済上表文にある百済地名、面中八中辟中弗中、同様の地名と見て、その実質的に地名を表す部分を歸中費直[アタイ]としました。 歸[]は、乎獲居[ヲワ]同様に名を表す可能性も無いではないですが、紀[]と言う特徴的な地名を考えると、これは紀の川流域と関連する一族を表すと考える方が自然で、紀氏に直接繋がるかどうかは兎も角、氏族の萌芽と看做しえると思われます。 これは稲荷山鉄剣や江田船山鉄刀には見られなかったもので、これによってこの鏡が何故紀の川流域にあったのかの謎が初めて解かれました。

石和田氏はさらに下記論文により、この銘文中の大王名曰十を、いわくの意味の曰[ヲチ]計[]の省略と見て、[ヲ]と読み顕宗天皇、日本書紀の弘計[ヲ]天皇、古事記の袁祁[ヲ]王としました。 そして斯麻をその兄、日本書紀に記す仁賢天皇の字名である嶋郎[シマノイラツコ]に当てました。

上代表記史からみた隅田八幡神社人物画像鏡銘 ー「男王」と「斯麻」は誰かー

この結果遂に曰十大王とその兄を記紀の天皇と関連付けることになり、稲荷山鉄剣の時代の頃から王名の漢字記録が始まったと言う想像を裏打ちするものになりました。 しかもこの銘は系図ではないものの大王とその兄の関係を記録しており、この兄弟が天皇になったとする記紀の記録を信ずるならば、父子による王位継承ではない王統の血縁関係の記録の開始を暗示するものであると思われます。 これもまた[ワカタケル]よりそれほどくだらない時代に、血縁関係を含む系図の記録が始まったという前節の想像に整合します。 銘文の癸未の年は503年となり日本書記の紀年とは合いませんが、日本書記の紀年と古事記の崩年は継体以前には一致しておらず、寧ろこの時代にはまだ大王の在位年の文字記録が始まっていなかったことを示しているのでしょう。 六世紀初頭においてはまだ在位年や宮などの記録はないものの、血縁関係を含む天皇系図の文字記録が始まっていたと考えられるのです。

石和田氏は他にも同じ銘文に関して下記の様な論文も出されています。 参考までに挙げておきます。

隅田八幡神社人物画像鏡銘釈読考 ー末尾十文字の新解釈ー

天皇の物語

最後に後の記紀に繋がるこの時代の天皇の物語について考察してみたいと思います。 中国の正史宋書には、477年に倭王武が朝貢して上表文を奉っています。

封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。

その内容は祖先が自ら甲冑を着て、東の毛人や西の衆夷および海の北を征服したというもので、記紀の征服譚を彷彿させるものがあります。 特に東の毛人や西の衆夷の征服については、記紀のヤマトタケルの伝承を思い起こさせます。 但し稲荷山鉄剣の状況からして、上表文を書いたのは恐らく百済系の人物でしょう。 天皇の物語自体は恐らく口誦による伝承であったと思われますが、塚口義信氏は上記上表文や、葛城氏のような滅ぼされた豪族の記述があることなどから、五世紀代には天皇の物語の原型が成立していたとされています。

ここでは稲荷山鉄剣からヤマトタケルの名が、この時の王統譜にあった可能性を考えてみたいとおもいます。 記紀の仁徳天皇天皇その和風諡号が日本書紀の大雀、古事記の大鷦鷯[オホサザキ]には、修飾的な部分[オホ]が含まれています。 今まで見たように五世紀王統譜にはこのような語は含まれていなかったとすると、[オホサザキ]はこの王統譜には含まれなかったのでしょうか。 仁徳天皇は記紀の物語の中で、始祖王的な重要な地位を占めていて、記紀の物語を信ずるならば、雄略天皇もその兄の安康天皇も仁徳天皇系の子孫との婚姻を重視していることがわかります。 仁徳天皇はおそらく五世紀王統譜にもあったでしょう。 ただその名前は[サザキ]であったのではないでしょうか。

何故[サザキ][オホサザキ]に変わったかを考えてみます。 私はおそらくその後同じ名前の大王が現れたからではないかと思います。 記紀の武烈天皇、和風諡号日本書紀の小泊瀬稚鷦鷯、古事記の小長谷若雀[ヲハツセワカサザキ]です。 宮に関連する[ヲハツセ]は恐らく後世の付加でしょうから、最初は単に[ワカサザキ]としていたでしょう。 私はこの人物は仁徳天皇の血筋に繋がる大王として、[サザキ]にちなんで[ワカサザキ]とされたと思います。 この人物が王統に加わったことで、仁徳天皇は[オホサザキ]となったのでしょう。

この例からすると獲加多支鹵[ワカタケル]は既に存在した多支鹵[タケル]と言う大王名にちなんで、獲加多支鹵[ワカタケル]とし、すでに存在した多支鹵[タケル]には修飾子が冠せられたのでしょうか。 しかしアクセントに対する議論が正しければ、その修飾子は[ワカタラシ]に対する[オホタラシ][ワカヤマトネコ]に対する[オホヤマトネコ]のような、記紀において[ワカ]と対置される[オホ]では有り得ないのです。

私は単純な父子継承で書かれた五世紀王統譜に、[ヤマトタケル]の名があったと考えます。 現在に残る[ヤマトタケル]伝承に関しては、多くの伝承を融合して五世紀よりはかなり後にできたという説が有力です。 私も伝承の骨格の出来たのは、どんなにはやくとも推古朝よりも後の時代、日本書紀と古事記の不一致を見ると、八世紀初頭に下る可能性さえあると思います。 しかし[ヤマトタケル]の名のもとになった、ヤマトの皇子の熊襲征討の伝承については、そもそも熊襲が仲哀天皇の時代までしか登場しないことからも、かなり古い伝承であると考えられます。

記紀よりも古い文献である、常陸の国風土記には[ヤマトタケル]は倭武天皇として登場し、大王としての伝承が存在したことを伺わせます。 日本書紀では[ヤマトタケル]と両道入姫皇女の子に稚武[ワカタケル]王、古事記の系図では弟橘比売命の子に若建[ワカタケル]王が現れ、しかもこの系図は世代関係がかなり混乱したものになっていることが知られています。 獲加多支鹵[ワカタケル]はおそらく子供時代からの名などではなく、成人して地位を得た後、寧ろその時代に存在した[ヤマトタケル]の伝承を意識した名であり、後に血統関係を含む系図に改められたときに[ヤマトタケル]が除かれたことで、このような混乱が起こっているのではないかと考えます。 宋書の倭王武に関しては、鉄剣銘文の獲加多支鹵[ワカタケル]であるか否かには様々な異論がありますが、上表文の内容からも祖先の征服譚を意識した存在として、獲加多支鹵[ワカタケル]を考えることができると思います。

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