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2.倭奴國朝貢と鬱林郡の倭人

ー後漢代の倭國地理観ー

論衡の検証

三国志や後漢書において、倭國の地理は儋耳朱崖という極端に南の地域と比較されています。 このような地理観は、建武中元二年(西暦57年)の、後漢王朝に対する倭奴國の朝貢にその起源があることを、金印考(1)ー儋耳朱崖と極南界の倭奴國ーにおいて見ました。 まさに倭奴國の朝貢と同時代の証言として、一世紀に書かれた王充の論衡を見てみたいと思います。

異嘘第十八: 周之時、天下太平、人來獻暢草(本来倭字を欠いているが他の記事との整合性から補った)
  (拙訳)周の時代、天下太平、人がやってきて暢草を献じた。

儒增第二十六: 周時天下太平、越裳獻白雉、倭人貢鬯草
  (拙訳)周の時代、天下太平。越裳は白い雉を献じ、倭人は鬯草を貢いだ。

恢國第五十八: 成王之時、越常獻雉、倭人貢暢
  (拙訳)成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢いだ。

越常/越裳は南方の民族で、後漢書には交阯之南有越裳國、つまり交阯(ベトナム北部)の南に越裳国があるとしています。 地域的には漢書地理志の分類では、倭國が関連付けられた儋耳朱崖同様の粤地に属する人々になります。

暢草は上記異嘘第十八の続きを見ると、

夫暢草可以熾釀、芬香暢達者、將祭、灌暢降神。
  (拙訳)さて暢草は加熱して醸すべきもの。良い香りをのびのびと広げる。まさに祭にあっては、暢を灌ぎ神を降ろす。

または同音で、論衡を見る限り同じものであるようです。 漢書顔師古注にもの古字で通字とされています。 は後漢代のニ世紀初頭成立の辞書である説文解字には下記のようにあります。

以秬釀鬱艸、芬芳攸服、以降神也
  (拙訳)黒キビを以て鬱草を醸し、芳香を服するところに神が降りる。

同じ説文解字にはという字の説明として香り高い草であるとしますが、さらに下記が続きます。

一曰鬱鬯、百艸之華、遠方鬱人所貢芳艸、合釀之以降神。鬱、今鬱林郡也
  (拙訳)ある説では、鬱鬯は百草の華、遠方の鬱人が香り高い草を貢ぎ、合わせて醸して神を降ろすと言う。鬱は今の鬱林郡である。

鬱林郡は現在の広西チワン族自治区の中央部、香港の西北、ベトナムのハノイの北東にあたり、まさに漢書地理志の粤地の属になります。 鬱人と鬯に付いての記述はもっと古い書物にもあります。

戦国時代成立の周語: 王乃淳濯饗醴、及期、鬱人薦鬯、犧人薦醴、王祼鬯、饗醴乃行、百吏、庶民畢從
  (拙訳)王の沐浴酒宴の日が来ると、鬱人は鬯を薦め、酒祭官は醴を薦める。王は鬯により神を降ろし、酒宴の場には全ての官吏や庶民が揃う。

前漢以前成立の周礼: 鬱人掌祼器。凡祭祀賓客之祼事。和鬱鬯以實彝而陳之
  (拙訳)鬱人は神降ろしの酒祭器をつかさどる。凡そ祭祀や賓客の酒祭時に、鬱鬯を調合し宗廟の祭器を正してこれを並べる

いずれも周の時代の出来事として記録されています。 鬱人と鬯の関係の記録は、論衡にある倭人と鬯の関係の記録などよりも、遥かに古いものであることが分かります。 鬱人と鬯の関係については、周語、周礼、説文解字などの複数の記録がありますが、倭人と鬯の関係の記録は全く孤立したものです。 そもそも鬱は、鬯を含む会意文字で、このとからも鬱と鬯の関係の深さが伺えます。 論衡には下記のような一文もあります。

超奇第三十九: 白雉貢於越、暢草獻於宛
  (拙訳)白雉は越に於て貢がれ、暢草は宛に於て献じられる。

ここで論衡の解説書によればの意とあります。 確かに康熙字典によれば、と通音とあります。 日本漢字音では宛(えん)鬱(うつ)で読みが違いますが、唐の時代の韻鏡を基にした現在の分類では、いずれも三等C1類合口影母で、陽類と入声の違いしかありません。 これは音節の最後が、tnの違いです。 しかもこの二つはいずれも、上顎の歯茎に舌をつける音で類似音と言えます。 確かに通音の可能性はあるでしょう。 実際に草冠を被せたには、の両方の読みがあります。 これはこの二字が通字として用いられた痕跡と考えられます。 王充は暢草を貢いだのは倭人であるとしていますが、それは地理的には鬱であるとしているのです。 王充の言う倭人はまさに鬱人であることが分かります。

王充は迷信などを批判した合理主義者のように言われますが、同時に頌漢論で漢王朝を讃えています。 後漢王朝は王充が批判した讖緯説に染まるところが多く、山田勝美氏によれば(新釈漢文大系論衡)、漢王朝礼賛は晩年に漢王朝に仕官した時期の阿りかもしれないとされています。 しかしこの点に関しては、笠原祥士郎氏(王充における儒家と王朝)などは、頌漢論は王充の思想の中で重要な位置を占めるものであるとします。 実際に論衡の頌漢論以外の部分でも、漢王朝自体に対する批判は感じられず、漢王朝礼賛は王充の本音ではないかと感じます。 恐らく王充がまだ仕官していた時期に起こった倭人の朝貢は、王充にとって各別に印象深く、後漢王朝の繁栄を象徴するものとして捉えられたと思います。

鬱人は周時代の記録に現れて後、歴史から姿を消してしまいました。 恢國第五十八はでは越常氏が雉を献じ、倭人が暢を貢いた話に続いて、それでも周は滅びたと続きます。 一方周の時代に越常が献じた雉は一羽であったのに、漢の時代には三羽を献じ、四夷が朝貢し、漢の領域は伝説の尭舜の時代を大きく越えて広がっているとします。 漢王朝礼賛の話が続くのですが、ここで唯一周に有って漢に無いものが、暢を貢ぐものであるわけです。

王充は歴史家の班彪に師事したとの記録があり、論衡でも賞賛していることからも分かるように、その子班固とは知り合いだったと思われます。 漢書の著作で有名な班固は、著作中の漢書を後漢明帝に認められ、東観漢記光武帝紀の編纂に携わります。 東観漢記に東夷伝が無かったとすると、倭奴國の朝貢記事は光武帝紀の中にあった可能性が高いと思われますので、王充もその内容を知っていた可能性があります。 倭の発音には唐代の想定音で、三等B類合口影母の読みがあり、鬱の三等C1類合口影母の読みと末尾子音の有無を除いて類似しています。 倭人が越常氏や鬱人同様に漢書地理志の粤地に属し音韻も似ていることから、意図的な同一視を行ったものと思います。 王充にとっては、倭人の朝貢は暢を貢ぐものと言う、漢王朝にとって欠けたピースを補うものだったのでしょう。 光武帝に朝貢した倭人は暢を貢いだ訳ではないでしょうが、かって暢を貢いだ鬱人は倭人であるとすることで、倭人の朝貢を受けた後漢王朝は、周王朝に対して一点も引けを取らないことになるのです。

もしも王充に倭人が現在の南海島に比定される、漢書地理志の粤地に属する儋耳朱崖の近くと言う認識がなかったら、このような同一視はさすがに無理だったことでしょう。


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