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倭面上國王帥升

ー生口百六十人は海を渡ったかー

歴史上初めて見える倭人名?

後漢書と言う5世紀に書かれた中国史書には、歴史的事件としてはもっとも古い日本の記事が出てきます。 中国の書籍である漢籍に見える日本に関する最も古い記録は、論衡、山海経などに記載された紀元前11世紀から、紀元前3世紀のものですが、これらは多分に伝説的なものでした。 史書に見えるもので最古の記録は、1世紀に編纂された漢書の地理志に見える、百余国に分かれた国々が季節ごとにやって来たという記事です。 しかしこれは地理志という、地理の記録の中にあるもので、時代も明示されていません。 確実に歴史の一部として現れるのは、5世紀に成立した後漢書に下ります。 下記は後漢書東夷伝の該当記事です。

  建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
  建武中元二年(紀元57年)、倭の奴国が貢物を奉じて朝賀した。使いの人は自ら大夫と称した。倭国の極南界である。光武帝は賜うに印綬を以てす。
  安帝永初元年(紀元107年)、倭国王帥升たちは、奴隷百六十人を献じ、謁見を請い願った。

この記録には帥升と言う人名と思しき者が書かれており、もしそうなら倭人つまり日本人の人名に関する最古の記録となります。 ところが上記朝貢記事の後半の、この人名を含む安帝永初元年(紀元107年)の朝貢に付いて、赤下線部が史書により様々に記録されています。 この随想ではこの時の朝貢国名及び人名と思われるものに関して、本来の記録ではどのようになっていたのかを考察し、この記事が記録している歴史的真実に迫りたいと思います。 状況を確認するために東夷伝の記事に対応する、後漢書帝紀の記事も見ておきましょう。

  光武帝紀中元二年:二年春正月辛未、初立北郊、祀后土。東夷倭奴國王遣使奉獻。【倭在帯方東南大海中、依山島爲國。】
  中元二年(紀元57年)、春正月辛未、初めて北郊を立て、后土を祀る。東夷の倭奴国王が使いを遣わして奉献した。
  【唐 章懐太子註:倭は帯方東南の大海中にあり、山島に依って國を為す。】

  安帝紀永初元年:冬十月、倭國遣使奉獻。【倭國去樂浪萬二千里、男子黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。見本傳。】
  冬十月、倭国が使いを遣わして奉献した。
  【唐 章懐太子註:倭国は樂浪を去ること一万二千里、男子は顔や体に入れ墨をし、模様が左右大小違うを以て尊卑の差を別る。東夷伝を見よ。】

中国の王朝である後漢(25年~220年)の時代を記録した史書としては、八家後漢書と言われる数多くの史書が作成されたことが知られていますが、それらの基本的な原史料は、後漢の時代に同時代史として作成された、東観漢記と考えられています。 東観漢記を含め多くは四散してしまい、残されたのは既に挙げた後漢書と、後漢紀のみです。 後漢紀は4世紀後半に後漢書よりも凡そ50年早く成立したと言われています。 後漢紀の倭人の朝貢に付いての内容は、ほぼ後漢書帝紀に等しいものになっています。

  光武帝紀中元二年:二年春正月辛未,初起北郊,祀后土。丁丑,倭奴國王遣使奉獻。
  安帝紀永初元年:十月,倭國遣使奉獻。

赤下線該当部分の表記とそれに関連する後漢書帝紀、通典、後漢紀の表記を時代順に整理してみます。 年代は成立年と刊刻年が混ざっていますがご容赦ください。

各史書の倭国朝貢記事の関連記述(青字は日本に伝わったもの)
成立/刊刻年代後漢書東夷伝赤下線該当部分通典対応部分後漢書帝紀の国名後漢紀の国名備考
9世紀頃の写本倭面上國王帥升太宰府翰苑残巻に引く後漢書東夷伝
北宋刊本(1101年?)倭面土國王師升通典は後漢書を写したと思われる
慶元刊本(1195年~1200年)倭國王帥升倭國以後後漢書刊本では同一文面
1275年~1301年頃成立倭面國釈日本紀に引く後漢書
1455年~1457年成立倭面上國王帥升倭面國日本書紀纂疏に引く後漢書
明刊本(1522年~1566年)倭面土國王師升
明刊本(1548年)倭國後漢紀は後漢書よりも50年程早く成立
明刊本(1573年~1620年)成立倭國土地王師升唐類函に引く通典
1688年成立倭國王帥升倭面土地王師升異称日本伝に引く後漢書と通典
清刊本(1878年)倭國王帥升通典中華書局版のもと

人名部分は帥升ないし師升でそれほどの揺れではありませんが、朝貢国名の揺れは尋常ではありません。 漢籍には誤写誤刻はつきものとは言うものの、この表記の乱れは単なる誤写誤刻ではなく、史書編纂者や写本刊本の作成者を混ー乱させる要因があったと考えられます。 明代以降の書物には倭國土地王師升のような表記がありますが、これは北宋版通典ーの倭面土國王師升から、異称日本伝に引く通典の倭面土地王師升の形を経て、後漢書の倭國を折衷したものと思われます。 中国では朝貢国名が次第に倭國に統一されていったことが分かります。 清刊本の通典では倭國王帥升になっているほか、57年の朝貢国名まで倭奴國ではなく倭國になっています。

釈日本紀や日本書紀纂疏の文面からすると、日本に伝わった後漢書古写本には、帝紀の国名倭面國、東夷伝の国名倭面上國となっていたようです。 現存するもっとも古い写本史料である、翰苑に引く東夷伝にも倭面上國とありますから、唐時代の後漢書の東夷伝には倭面上國となっていたと考えて良いと思われます。

では帝紀はどうだったのでしょう。 後漢書帝紀の倭國の遣使記事に対する唐の章懐太子の註を見ると、帝紀の倭國に対して強く黥面を意識しているようで、ここの古写本での記載が、日本に伝わった古写本にあったように倭面國であった可能性を疑わせます。 しかしもしも日本の古写本にあるように、帝紀にも倭面國とあったとすると、唐時代の後漢書には107年に朝貢した国名の倭國は無かったことになります。 もしそうなら、さすがに後の刊本の文面が次第に倭國に統一されていくことは無いと思われます。 倭面國倭面上國になってゆくでしょう。

この朝貢に触れる文献史料の中で、後漢紀は史書としての成立は後漢書よりも早く、その文面が後漢書帝紀と同じであることは重要です。 後漢紀の倭人朝貢に関する記事は確かに後漢書帝紀に似ていますが、独自情報もあり同じ年次の記事全体を見れば、後漢紀の記事が欠損してのちの時代に後漢書から補ったとは考えられず、独立の情報と見なして問題ないと思えます。 おそらく後漢書や後漢紀の共通の原史料である、東漢観記に朝貢国名として倭國とあったのでしょう。 現存後漢書の帝紀と後漢紀に残る、107年朝貢記事が殆ど同じであることを考えると、とおそらく後漢書帝紀の国名は倭國であったでしょう。 同一年の朝貢に関する国名が、後漢書の帝紀と東夷伝で分かれていたため、後世の写本や刊本の作成者が混乱したものと思います。

倭面の源流

それでは倭面上國の表記は、何処まで遡れるのでしょう。 漢書地理志の倭人の記事に対して付けられた、魏の如淳の註如墨委面、在帶方東南萬里。を見ると、倭國倭面は既に魏の時代に関連づけられていることが分かります。 魏の時代にはまだ後漢書は成立しておらず、このことから倭面の記載はその原史料のおそらく東漢観記に遡ると思われます。

では東観漢記にはどのような記述があったのでしょうか。 現存後漢書によれば、この年の朝貢は帝紀と東夷伝に分かれています。 しかし三国志東夷伝のまえがきでは、初めて東夷伝を立てたとしていますので、魏略の様な私選の史書を除き、それに先行する正史である東観漢記に東夷伝があったとは思えません。 また朝貢記事が特定の人物の列伝にあったと言う事も想定しずらいです。 安帝永初元年の記事は、元々東観漢記の帝紀の一本の記事だったのではないでしょうか。

ここで東観漢記の朝貢記事を推定してみましょう。 後漢書帝紀の国名は倭國、東夷伝の国名を倭面上國と想定します。 これらが一本の記事であったとしたら下記のようになるでしょう。

  安帝紀永初元年:冬十月、倭國遣使奉獻。倭面上國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

一つの朝貢記事に二つの国名が現れます。 これを見た後世の史書選者、写本作成者、刊本作成者は悩んだことでしょう。 そもそも国名を二度書く理由が有りません。 魏の如淳や、唐の章懐太子はこれを見て、二番目の倭面上國は倭国に対する別称、ないし説明と考えたのではないでしょうか。 倭面上國倭面上國と考え、ここから倭人に対し倭面が結びつくことになったのでしょう。 一方最初の倭國倭面國からの脱字と考えた人物が、後漢書帝紀の国名を倭面國とし、その系列の写本が日本に伝わったのではないでしょうか。

では東観漢記の文面はいったい何を言いたかったのでしょうか。 ある掲示板で見かけた推論が面白いのでご紹介します。 実は面の字には靣と言う異体字があるのです。 この字は白に良く似ています。 汚損した史料などから書写した場合、白を靣に誤まる可能性があるというのです。 そこでに直してみます。

  安帝紀永初元年:冬十月、倭國遣使奉獻。倭白上國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

白上は史記、漢書、東観漢記にもみられる表記で、上白、奏上と同じように使用されます。 つまり白上以下は倭の使者の述べた内容だというのです。

  国王帥升たちは、生口百六十人を献じて謁見することを請い願っています。

此の文面では国王が複数いるように見えますが、下記のように景初の卑弥呼の最初の朝貢では、大夫難升米次使都市牛利の朝貢に対して大夫難升米等となっていることから、必ずしも王が複数いたとは言えません。 代表者の地位のみが書かれていると考えられます。

  景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。

倭国の使者は、国王自身が大量の生口を準備して来朝したいと願っていると口上したことになります。 但し、の意味に関しての議論から、さらにを三木太郎説に従ってに直してみる事もできます。

  安帝紀永初元年:冬十月、倭國遣使奉獻。倭白上國主帥升等獻生口百六十人、願請見。

  国の主帥であるたちは、生口百六十人を献じて謁見することを請い願っています。

この場合は主帥の倭語であることになります。

この時の朝貢は、王莽時代の7年、光武帝死の直前の57年に続く、漢の王朝を言誉セレモニーだったわけです。 ここで皇帝の徳を讃える為に、倭国では多くの生口を準備して、王自身が来朝するもしくは多くの主帥が朝見を望んでいると伝えたのではないでしょうか。 これはこのセレモニーを主宰した官人が言わせたリップサービスで、実際には遠路朝貢の労をねぎらうとともに、重ねての朝貢は漢王朝側の恩情として免ずることとしたでしょう。

これが正しければ、160人の生口を連れて渡海した人はいなかったことになります。 東観漢記は紹興26年(1156年)頃には散逸していたとされますので、現在の後漢書流布本の基になった慶元刊本(1195年~1200年)の時代には既に無かったことになります。 そして古い後漢書写本が残った日本を除き、この時代以降に成立した刊本では国名が統一されるようになり、現存後漢書の倭國表記に繋がって行くと思われます。

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