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6.會稽東冶之東

ー倭国地理観の源流ー

三国志に見える倭国の地理観

三国志魏書東夷伝にある倭人の記事には、三世紀の中国人の記録した日本の記事があることは大変有名です。 その中でも倭国の王が都を置いていたという邪馬台国は、その位置に対する議論が盛んに行われました。 三国志によれば倭国はかなり南方の国で、その位置は長江流域より南の會稽東冶の東方、その社会や風俗は中国南方の海南島に比定される、儋耳朱崖に比較されています。 地域的には漢書地理志の粤地に相当する地域と考えられていたことになります。

倭国がこのように南にあるという地理観は、中国人の日本に対する地理観に長く影響しました。 山海経などでは、中国人にとって北方の入り口である燕地に属していた筈の倭人が、南方の粤地にまで達していた事になるのです。 中国人にとって倭国は中国大陸の東に南北に長く伸びた存在で、その奥地は南方にあることになったのです。

隋書流求國伝にみられる、建安郡すなはち漢代の會稽東冶から東への進出の試みは、隋の時代に下っても明らかにそこに倭国があると考えたからでしょう。 それは手に入れた布製の鎧を、見覚えがないか倭国の使者に見せていることからも分かります。

宋の時代の古今華夷区域総要図でも蝦夷を日本の南に描くなど、一度出来上がった地理観は中々訂正されなかったのです。 この影響は明の時代の混一疆理歴代国都之図にも影響を与えています。 私は金印考(1)ー儋耳朱崖と極南界の倭奴國ーにおいて、このような地理観が後漢代に遡るとし、倭國が儋耳朱崖と関連付けられるのは、その中元二年(西暦57年)の倭奴國の朝貢における、後漢王朝側の政治的思惑が原因とされることを説明しています。 しかしそこで触れたように、儋耳朱崖とともに會稽東冶の東とも位置づけられる事については、別途考察の必要がると思われます。 儋耳朱崖と會稽東冶の東では、地理的に隔離されているだけではなく、方位も南と東で異なっています。 ここでは何故會稽東冶の東となったのかについて考察したいと思います。

會稽東冶之東

倭國が儋耳朱崖と関連付けられるのは、後漢王朝の政治的理由によるものでした。 では會稽東冶の東はどうでしょうか。 會稽東冶に関する重要な記録が三国志にあります。

三国志呉書吳主傳黄竜二年春正月:
   遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。 亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。 世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。 所在絕遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。
  (拙訳)將軍衞溫、諸葛直に甲士萬人をひきいて海に浮ばせ、夷洲と亶洲に遣わした。 亶洲は海中に在り、長老は「秦の始皇帝、方士の徐福を遣はして、童男童女数千人をひきいて海に入り、蓬萊の神山及び仙薬を求めさせたが、此の洲に止まって還らず、何世代かを経て数万家となった。 その人々は時に會稽に来て貨布することがある。 會稽東県の人が、海行して嵐に会い、漂流して亶洲に至る者が有る。」と伝へて言う。 その場所ははるかに遠く、卒は至ることができず、ただ夷洲の数千人を得て還っただけだった。

ここに會稽東県とありますが、後漢書では會稽東冶県となっており、これはこの地に関する重要な情報を提供してくれます。 この一文の意味するところは、會稽東冶県には海の向こうから人がやってくるけれども、中国人はそこへ行けないということです。 この当時の呉には、遼東まで航海できる船があったことが知られていますから、向こうへ行けないのは航海技法に問題があったためであると考えられます。 この時代には陸地を目当てにした沿岸航法が主流で、水平線しか見えなくなる開けた海を渡れなかったのです。 ところが海の向こうにはその方法を知った人々がいたことになります。 このような航法は既に紀元前には発見されて、太平洋の島々に人々が移り住むようになっていましたが、中国人はそのような方法を知らなかったのでしょう。

ここに亶洲として見える、開けた海の向こう側にいる人々の住む土地はどこだったのでしょうか。 台湾は中国大陸から、見える位置にありその候補から外れます。 台湾から与那国島は、ある程度の山の上からは見えますが、通常の沿岸航法の範疇では渡れないでしょう。 おそらく西南諸島のどこかもしくはそれ以遠と考えられます。 上村俊雄氏の沖縄諸島出土の五銖銭によると、沖縄諸島の久米島の、本土の弥生時代並行期にあたる貝塚期の遺跡から、前漢武帝の発行した五銖銭が見つかっています。 五銖銭は隋の時代まで流通し、それ以降の遺跡からも見つかるのですが、久米島大原遺跡からは元狩四年(紀元前119年)初鋳の最も古いタイプのものが見つかっており、その他にも元鼎二年(紀元前115年)初鋳の赤側五銖銭も見つかっています。 これら古いタイプの五銖銭は、元鼎三年(紀元前114年)に鋳造をやめており、それ以降も流通したとは言うものの、大原遺跡からはそれ以降の時代の貨幣は見つかっておりません。 沖縄諸島には燕の刀銭が見つかるなど、古くから北方の九州方面を通した、大陸からの遺物の流入が見られるのです。 しかし大原遺跡からは同時代の九州方面からの金属器の流入が見られず、北からの流入ではなく東シナ海を渡った交流の痕跡であるとみられています。 元狩四年(紀元前119年)初鋳の最も古いタイプの五銖銭は、極めて珍しいもので、九州からも朝鮮半島からも見つかっていないのです。 ちなみに武帝による漢の四郡設置は元封3年(紀元前108年)の事です。 大原遺跡を始め久米島の五銖銭は、久米島の東シナ海に面した海岸の貝塚から見つかっていて、久米島は沖縄諸島でもっとも大陸に近く、比較的標高もあり海上の道標としての性格もあるのです。

久米島の遺跡の物語ることは、三国志呉書吳主傳黄にみえるような、中国人の行けない海の向こうの人々の来訪が、少なくとも前漢武帝の時代にまでさかのぼるということです。 そしてそれが鯷壑の東 ー東鯷人とは何者かー・東鯷人と東夷王でみたような、王莽の東方民族の呼び寄せの動機になったと思われます。 倭奴國考 ーなぜ金印は奴國に与えられたかーで述べたように、平帝の時代の東夷王の朝貢は、後漢時代の倭奴國朝貢の先例となったものであろうと思います。 すなはち東夷王とは奴國王であったと考えられ、結局王莽の呼び寄せた東方の民族は、後漢の時代には倭人と見なされていたのでしょう。 このことが後漢の時代の倭人が、會稽東冶の東にいるという地理観が、生まれてきた理由であると考えられます。

女王國の位置

三国志に置ける女王國の位置として下記のようにあります。

三国志魏書東夷伝倭人条: 計其道里、當在會稽、東治之東。
  (拙訳)その道のりを計ると、まさに會稽郡、東県の東にある。
  東治などと言う地名はない。文脈上突然未知の地名を出して来る位置ではない。後漢書に従い史記漢書にある東冶に改めた。

の字は説文解字に田相值也。从田尚聲とあります。 本来田地などの取引の際、相当する土地を当てる所から来ているらしいのですが、丁度やぴったりと言ったニュアンスがあります。 ここでは當在〜で、「まさに〜にある」としました。 會稽郡東冶県と言う漢の時代の特定の古地名を出して来ているのは、そもそも東観漢記にそのような記述があったためでしょう。

後漢書東夷伝倭国: 其地大較在會稽東冶之東。
  (拙訳)その地は凡そ會稽郡東冶県の東である。

おそらく後漢書の記述は、原史料である東観漢記から取ってきたものでしょう。 三国志の記述は、前史である東観漢記の記述と、まさにぴったりだと言っていると思われます。

議論に当たって現代の地図や地理観を基にしても意味がないため、関連する地名とその距離表記を後漢書郡国志で見てみます。 漢書地理志では楽浪郡は燕地に、會稽郡は呉地に属します。 それ以下は粤地に属する郡を列記しました。

楽浪郡:雒陽東北五千里
  會稽郡:雒陽東三千八百里
  蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里
  鬱林郡:雒陽南六千五百里
  合浦郡:雒陽南九千一百九十一里
  交阯郡:雒陽南萬一千里
  九真郡:雒陽南萬一千五百八十里
  南海郡:雒陽南七千一百里
  日南郡:雒陽南萬三千四百里

後漢書の志は西晋の司馬彪の続漢書にあったものを、後漢書に補ったもので、郡県名や戸数は後漢順帝時代のものとされます。 距離は細注ですので時期は不明ですが、細注に対する南朝梁の劉昭の注と思われるものが残っているため、南北朝以前と思われます。 今南北成分のみに着目して、帯方から一万ニ千里が洛陽の南北何里に相当するか考えてみます。

帯方郡は距離が出ていないので楽浪郡を基準にすると、そこは洛陽の東北五千里ですから、南北成分では洛陽の北三千五百里程になります。 帯方郡から狗邪韓国までの七千里の内、南北成分が韓の方四千里とし、そこに海峡渡海の三千里、奴国までの東南方向六百里を計算するとざっくり七千四百里となります。 そこから女王国までの一万ニ千里から、不彌国までの一万七百里を引いて南千三百里とすると、女王国は帯方郡の八千七百里南にあることになります。 洛陽を基準とすれば、南に約五千二百里となります。 武帝に滅ぼされる前には、所謂呉地とされる長江河口域よりも南に東甌国があり、さらに南に閩越国、その南に南越国がありました。 南越国の中心が南海郡治の番禺ですから、閩越国の中心である會稽郡東冶県は洛陽の東の會稽郡治よりはかなり南で、番禺の位置洛陽の南七千一百里の三分のニ、南四千八百里とすれば確かに大体會稽東冶の東になります。

閩越国(図中の东越)の位置 會稽郡東冶県

実際にはこの距離を計算したのは、恐らく三国志原史料の魏略の著者魚豢で、水行陸行の二ヶ月を三国志明帝紀景初二年に引く干竇晉紀に見るように、軍隊の移動に要する千里一月と見なしたと思われます。 したがって総距離は本来一万二千七百里、これは概算表現では萬二千餘里となります。 女王国は帯方郡の九千四百里南、洛陽の五千九百里南と考えていたでしょう。


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