倭面上国考(下)
ー師升の国はどこかー
1.はじめに
前の稿倭面上国考(上) ー永初元年の朝貢国名ーでは『後漢書』巻八十五東夷列伝に見える安帝永初元年の倭の朝貢国名について考察しました。 前稿の結論は、その国名が刊本化前の、『後漢書』北宋写本では倭面土もしくは倭面上であった可能性が高いというものです。 それではこの国はどこにあったのでしょうか。
倭面土もしくは倭面上を地名と捉える際、多くの場合は倭面土を採用するようです。 恐らくこのほうが地名っぽい響きがあるためでしょう。
提唱者 | 後漢書対象表記 | 読み | 比定対象 | 現在地 | 備考 | 参照文献 |
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内藤湖南 | 倭面土 | ヤマト | 記紀の大和 | 奈良県 | (1) | |
白鳥庫吉 | 面土 | イト | 三国志の伊都国 | 福岡県前原近郊 | 面土を回土の誤写とする | (2) |
橋本増吉 | 面土 | メヅ | 三国志の末盧国 | 佐賀県唐津近郊 | 『日本書記』巻九神功紀の梅豆羅にあてる | (3) |
七田忠昭 | 面土 | メタ | 和名類聚抄の肥前国三根郡米多郷 | 佐賀県上峰町一帯 | 『先代旧事本紀』巻十 国造本紀の筑志米多国造 | (4) |
七田忠昭説の米多郷は、近くに吉野ケ里遺跡があり、また『先代旧事本紀』国造本紀に筑志米多国造の名が見えるためなかなか興味深い説となります。 米多郷については天平風土記の『肥前風土記』に地名説話があり、そこでも米多井となっていて、メは奈良朝の特殊仮名遣いでメ乙であることになりますが、面の字はメ甲となり合いません。 ただこれについては『万葉集』巻5 802に宇利波米婆(瓜食めば)『万葉集』巻5 871に麻通良佐用比米(松浦佐用姫)のような用例があり、九州地方の訛でメ甲をメ乙に訛っていた可能性があります。 また土については、同じく奈良朝の特殊仮名遣いではト甲またはド甲にあたり、読みとしてはメドが適切となって、七田忠昭説のメタとずれが出てきます。 音としては橋本増吉説のメヅのほうが近いのですが、梅豆羅の場合のメも乙類となり面と合いません。 この場合は日本書記なので、訛とするのは難しいでしょう。 もっとも二世紀初頭の中国の記録を、八世紀の万葉仮名で評価することには限界があります。
さて七田忠昭氏以外の論者は、倭面土国を『三国志』魏書巻三十東夷伝の倭の国名に結びつけようとしています。 それはこの国が倭国の中心として、漢王朝に使者を立てたのだから、『三国志』の時代になってもその国名が残っているだろうと考えるからでしょう。 実際に倭奴国は『三国志』にも、奴国という人口で第三位の大国として現れるのです。 七田忠昭氏の比定地はその点が難点であり、また博多湾岸に比べて考古学的に見て見劣りのする点も納得のいかないものが有ります。 しかし倭面土が必ずしも倭国の中心ではなくむしろ小国であったとすると、これらは問題にならなくなります。 寺澤イト倭国論に立って、前原を二世紀初頭の倭国の中心とし、米多郷にいた王を使者として遣わしたという想定も可能になるのです。
これまでの地名の考察は、最初に述べたように、ただなんとなく倭面土国の方が、倭の地名の音を拾っているようだという、漠然とした根拠によるものです。 しかし現存の最も古い史料には倭面上国とあって、これを倭面土国からの誤写と断定することはできません。 前の稿では現存写本刊本からの推定をおこないましたが、これ以上の限定は難しいと思われます。 漢字をあてられたのが二世紀初頭とすると、漢字をあてたのはその時代の中国人で、そのような観点から、当て字の妥当性を見てゆくべきでしょう。 これらの地名が古代の倭人の言葉の音を、漢人がその時代の漢字の発音によって写したものとすると、そもそもどちらが妥当なのでしょうか。
2.古代の漢字音について
古い時代の中国の漢字音に関しては、遅くとも清朝以降研究があり、時代と共に漢字の発音が変化してきたことが分かっています。 漢字の音は大きく頭子音とそれ以下に分けられて、頭子音を声それ以下を韻といいます。 中国古代の詩では、多くの場合偶数句の末尾の韻をそろえることで、詩の音韻的調和をとることが行われてきました。 後漢のころから、漢字の音を声の同じ文字と、韻の等しい文字の組み合わせで表現する、切という方法が用いられるようになりました。 六世紀末頃この切をまとめて、その時代の都を中心とした地域の方言、及び時代的にも多少の幅のある発音を分類した、切韻という書物が作られます。 これ以降漢詩の押韻を構成するのに、参照されるようになります。 その後、唐の時代に切韻をもとに成立した広韻という書物は広く普及し、宋代の刊本が残されています。 この分類と現在の中国語の各地方言音をもとに、音声学的考察をした推定音価が得られていて、これを中古音と呼びます。 録音メディアのない時代なので、これはあくまで仮説であり、いくつかの説があります。
この中古音をもとに、さらに古い戦国時代にかかるような詩を集めた、詩経という詩集の押韻を調べ、より古い漢字音の考察を進めたものが、上古音と呼ばれる音になります。 押韻では韻の部分しかわかりませんが、上古音の構成には声符と呼ばれる漢字音の構成方法や、中国語に近縁な言語との比較言語学的な考察も合わせて用いられて、上古音の推定音も得られています。 しかしやはり絶対音価は仮説にすぎません。
問題の二世紀初頭は、中古音と上古音の間の時期になります。 この時期については、同じ時代の詩の押韻や、後漢以降中国に流入した漢訳仏典等の周辺言語とのかかわりをもとに、研究が進められています。 しかしその絶対音価は推定音に過ぎないことを、あらためて確認しておくべきで、推定音価の発音記号を用いて評価する際には、十分な注意が必要となります。 また異言語を漢字で表現する場合には、なんらかの近似を行う必要があり、どのような方針で当て字がなされたかも問題になります。 しかも両言語の持っている音素の違いにより、同じ音でも受け取り方に差が出ることも考慮の必要があります。 さらに言えば、古代の漢字音の研究は、基本的にその時代の中央の史料をもとに行われており、そこに中国語自体の方言性を考慮する必要がある場合には、問題はもっと複雑になります。
それだけでなく、そもそも古い時代の倭人語がどのようなものであったかが未知であるという問題があります。 これに関しては森博達氏により、『三国志』東夷伝の倭人に関する記録を基にした議論があり、上代日本語の基本的性格がすでに伺えるとの研究があります。 これも三世紀の記録限定の話であり、しかも記録されたのが日本のどの地域の、どんな方言であったのか不明なのですが、他に史料がないので、日本語に関しては、上代日本語と類似した言語を想定しておきます。(5)
従って本稿では各種の仮説を参照にしながらも、その推定音価にあまり頼らず、実際の表記事例に沿って考察を進めていきます。
3.倭面土と倭面上を比較する
まず考察すべきは、面という文字です。 この字は両者に共通しているばかりでなく、前稿でも触れたように、漢書注に委面という表記があって、このような注が現れてくる原因として、『後漢書』原史料に当たる『東観漢記』に、すでに倭面云々という表記があったことが伺われます。 つまり面字の存在は疑うべき根拠がありません。 この文字は当時の中国人にとって、倭人の言語のどんな音をあらわしたものなのでしょうか。
この文字は日本漢字音で/メン/となることから想像できるように、唐代以前の中国語で、最後に/n/のような発音が来る文字です。 最初の節で指摘しましたが、面は奈良朝の万葉仮名では、「メ」の甲にあてられています。 このように漢字の本来の発音の最後の子音を無視する使い方を、略音仮名といいます。 有名な例が万葉仮名で安を「ア」にあてているケースです。 安が崩されて、平仮名の「あ」になったとされています。 このような例の古いものとして、稲荷山鉄剣の銘文に見える、半弖比があげられます。 弖は中国にはない文字ですが、好太王碑文にも見えることから、高句麗起源と考えられ、日本では「テ」にあてられます。 比を「ヒ」と読んで「ハテヒ」とするならば、音が「ハン」である半を「ハ」と読ぶことになり、略音仮名的用法の例となります。 しかし日本語学者の沖森卓也氏(6)は、略音仮名が使用されたのは時代的に下るものとして、この用例を連合仮名的に解釈して、「ハデヒ」と読まれました。 連合仮名というのは、「ハン」のように日本語の音にあてると余る音を、次の音にかけて聞こえなくする方法です。 同じく稲荷山鉄剣の銘文にある、獲加多支鹵の獲の例などがそれです。 獲の音は呉音「ワク」ですから、本来中古音では、最後にkのような子音が来ます。 それを次の文字の加の頭の子音のkに重ねて聞こえなくする方法がとられています。 沖森卓也氏は「ハン」の最後のnは、次の文字の弖にかけていると考えておられるようです。 弖を「テ」にあてるとすると、最初の子音はtになるのですが、tとnは舌を上あごにつける発音で、中古音で歯茎音と呼ばれ比較的近いのです。 森博達氏は『三国志』の倭語の音訳文字について、濁音の前に鼻濁音的子音を末尾に持つ文字を用いていると指摘しています。(7) 鼻濁音をngであらわすと、「ハテヒ」は/pa//ngde//pi/のようになりますが、沖森卓也氏はこの鼻濁音的響きをとるために、あえて半のような文字を使ったとされるのです。 ただし木下礼仁氏によると、稲荷山鉄剣銘文の仮名は、『日本書紀』に引く百済史料の仮名との関連が深いとされます。(8) 百済なまりの漢字音による音写の可能性が高く注意が必要ですが、異言語話者による日本語の表記例として貴重なものです。 詳しくは獲加多支鹵大王を参照ください。
『日本書紀』と『古事記』の万葉仮名の多くは、日本人の造ったものとされますが、森博達氏は『日本書紀』の特定の巻の歌謡の仮名は、唐代の都から来た中国人の手によるものとされ、この巻をα群と呼びました。(9) その時代の唐の都の漢字音については、中古音として比較的よく史料が残っているため、そこから当時の日本語の発音についても議論されています。 今問題とされる倭面土ないし倭面上は、中国史書に現れるものですから、中国人による音あてに関して考察する必要があります。 α群では面や半のような、子音のnで終わる字は使用されていません。(10) 「幡」という文字は使用されていますが、これは古写本との比較により後世の誤写であることがわかっています。
『日本書紀』は八世紀成立の書物であり、問題となる『後漢書』の成立年代である五世紀、および問題の文字の記録された二世紀初頭とはとは大きな差があります。 そこでもう少しさかのぼり、七世紀成立の『隋書』の倭に関する音写文字をみると、軍尼という表記があり、軍という日本漢字音が「グン」になる文字が使われています。 この場合は後の文字尼の読み「ニ」の頭子音がnであり、連合仮名的用法として用いられていることがわかります。
更にさかのぼること三世紀には、『三国志』東夷伝の記録に、難升米という人名の記録があります。 難升米の最初の文字難は日本漢字音「ナン」で、中古音では発音の最後がnになっています。 『三国志』東夷伝にはほかに臣という文字も使われていて、これは日本漢字音「シン」ですが、傍二十一国の国名に、一度だけ現れたものなので、誤写の可能性を疑えます(11)。 しかし難は卑弥呼の正使の名前で、引用された詔書を含め何度も現れていて、誤写というのは無理があるでしょう。 おそらく難升米は詔書作成時に用いられ、東夷伝の記録ではそれに従って用いられたものでしょう。 しかも次の升字の最初の子音はnではありません。 なぜこの文字が使われたのか、大きな問題でしたが、難に人偏を足した儺は「ナ」の読みがあり、『日本書紀』α群でも「ナ」の音に対して「那」とともに多用された文字です。 漢籍において、異民族にあてられた文字の、偏を省略することはよく行われます。 北部九州で発見された金印において、倭が省画されて委となっていることはよく知られた例です。 実は時代は後漢より昔のことになりますが、委には倭と同じ読みが行われていたことが知られています。 このため印面に置くために、省画してあえて古風な読みの文字を使ったと考えられます。
実は難にも古くは、「ナ」の読みがあったと思われるのです。
『詩経』という戦国時代にかかるような古い詩集にある隰桑という詩の一節では、難と何が押韻しています。
隰桑有阿(低く湿った土地では桑の木が美しく)
其葉有難(そしてその葉は生い茂っている)
既見君子(貴公子たちを見るとき)
其樂如何(なんと素晴らしい喜びでしょう)
何の呉音は「ガ」ですが、古くから「ハ」に近い音で最後は母音の「ア」となり、この字と押韻しているということは、難にも「ナ」に近い発音があったことを伺わせるのです。 また『周礼』の夏官司馬には悪霊を払う儀式を難としています。 この儀式にはのちの時代儺があてられています。 非常にまれな用例ですが、難升米が魏の都についたのは、十二月とされていて、この儀式の季節になります。 おそらく詔書において難升米の文字を当てた人物は、このような儀礼に関与する人物で、「ナ」という音を聞いたときに、まず儺が思い浮かび、古礼式や経典に精通した人物だったので、あえて珍しい当て字を行ったのではないでしょうか。
さてこう見てゆくと、後漢の永初元年二世紀初頭の記録に、倭の国名の記録として面で始まる単語が出てくることをどう評価できるでしょうか。 続く文字がnで始まる音ならば、連合仮名的用法になります。 しかし続く文字上も土もnで始まりません。 では稲荷山鉄剣の半弖比のケースはどうでしょうか。 このケースでは先の文字の終わりの子音nと、次の文字の最初の子音tが、歯茎音という比較的近似した分類に入り、沖森卓也氏は倭人の濁音の鼻濁音的音価を表現するため、このような文字が使われたとされました。 面を使ったのが同じ理由によるとすると、二番目の文字はnやtに近い子音の濁音という可能性を指摘できます。 土と上の子音はいずれも調音点が歯茎硬口蓋音とされるもので、nやtの調音点が歯茎音となっているのと比べてずれていますが、連合仮名的な用法といえる範囲のように思います。
ただ土は分類上次声音と呼ばれる有気子音をもちます。 『日本書紀』α群では、例外的に「ヒ」に一点現れるほかは、次声音の字はカ行音にしか現れません。 また『隋書』東夷伝でも『三国志』東夷伝でも現れません。(12) 音写文字のこの特徴は、当時の日本語に有気子音が耳だたず、音写を行った人物が有気子音を聞き分ける、中国人であった根拠の一つとなっています。
一方上には終わりに鼻濁音がついていて、やはり日本語には不適です。 このような文字はα群では乙類の「ソ」に対してよく用いられていて、森博達氏によると、頭子音と主母音の組み合わせで、ほかに妥当なものがなかったためであるとされています。 『三国志』東夷伝の場合には、難升米の升がこれに該当し、難升米は乙類のソによる「ナソメ」を音写したものと思われます。 その点で行くと上は主母音が「ア」類で、ほかにも候補字があり、日本語音写文字として、あえてこの字を用いることは妥当性がないように思われます。(13)
以上倭面土も倭面上も古代中国人の日本語音写文字として不審な点があります。 この両者とも何らかの誤写ではないのでしょうか。 私は原記録では倭面士となっていたのではないかと思います。 『後漢書』の伝写の過程で、士の文字の上部が汚損により読みづらくなったものが現れ、ここから土や上に誤写されるものが現れたのでしょう。 士であればその推定頭子音dzはより面の末尾子音nとつながりやすそうです。 士は万葉仮名では「ジ」に用いられており、倭面士は「ワメジ」と読めそうです。
『後漢書』巻二光武帝紀建武中元二年(57年)にみえる倭奴国を、倭を切り離して奴国として評価する例に倣えば、地名として面上=「メジ」が考えられます。 しかしメジと言う地名は、『古事記』・『日本書記』・『風土記』・『万葉集』のような奈良朝文献でも、『先代旧事本紀』・『和名類聚抄』・『延喜式』のような平安期文献でも発見できません。 地名の変遷を考えると、さらに新しい地名を比定するのは躊躇します。
そこで比較的メジに近い地名を捜すと、『延喜式』および『和名類聚抄』高山寺本駅名に面治駅という律令制の駅名が発見できます。 面治駅の推定地の近くには、字(アザ)米持(メヂ)に面沼神社があり、これも『延喜式』の式内社となり、大化の改新に遡るとされます。 面沼は本来は面治であったものを、『延喜式』が誤写したとの説もあり、中世には面沼神社を、米持(メジ)大明神としていたこともあり、説得力があります。(14) (現地を見てみたところこれにはやや疑問が生じました。) 同じ字なので言うまでもないですが、奈良朝以前での文字化であれば、面治のメは甲類となってあいます。
しかし問題は面治は「メヂ」であり、奈良朝では「ジ」と「ヂ」は区別されていたということです。 もっとも面士と繋げた時、これが倭語の「メジ」にあてたものかは微妙なところがあります。 半弖比の例においてタ行の「テ」の濁音を表記している例からすると、面士の士はおそらく面の舌音系韻尾のもとで、タ行の「ヂ」を表した可能性があると考えます。
面治駅の推定地は現在の兵庫県美方郡温泉町井土にあたり、近くの美方郡香美町香住区米地字にある佐受神社も中世には米持(メヂ)大明神と呼ばれていたらしいので、この周辺にふるくメヂの地名が存在した可能性があります。 ちなみに中世まで下れば、メの甲乙の区別はありません。 両者は古代の二方郡と美含郡にあたる地域で、古代の二方国造りの領域で但馬の国の西部になります。 ただこのあたりには弥生の大遺跡がありません。 同じ『和名類聚抄』に見える米多郷に比べても大変に見劣りします。 しかし 面士国が倭国の中心でないのなら検討の価値はあります。
森岡秀人氏の原倭国論による比定地の評価
森岡秀人氏(15)は近江を中心とした弥生後期の土器や青銅器の動きから、氏が「原倭国」とよぶ政治的なまとまりが近江を中心として成立したとされました。 その時期は一世紀末から二世紀末とされ、近江南部の野洲川下流域にある伊勢遺跡がなにも無い所に突如現れて巨大化することから、その中核であると推定しました。 考古学的な考察からの仮説ですが、正にその時期が安帝永初元年(107年)の倭国の朝貢に重なることから、この時に朝貢したと言う帥升は、北近畿にいた可能性があるとされました。 面士国の面治への比定は、近畿周辺への比定と言う意味で、森岡原倭国論によって評価することができそうです。
面治駅は山城を発する古代の山陰道の、但馬最後の駅となっています。 面治駅から山陰道を離れ、岸田川を下ると諸寄という中世の日本海航路の有力な寄港地があり、このあたりは中世の交通の要衝と言えます。 今のところ問題となる二世紀初頭にあたる弥生後期後半のものとしては、大遺跡も首長墓と言う規模の墓も見つかっていませんが、面治から岸田川沿いに6kmほど下ったあたりにある初瀬谷・柏谷古墳群(16)は、弥生後期後葉から古墳前期の墳墓群とされていて、古墳時代の墓からは国産のものではない原料を用いたガラス玉や、内行花文鏡の破片が発見されています。 北に数百メートル離れて、和泉谷・津原古墳群(17)に引き続く古墳前期中頃から古墳後期中頃の墳墓が築かれ、さらに北に1Km程度の場所に六世紀の二方古墳(18)が築かれるなど、おそらく古代二方国造の中心地であったと考えられます。 この地域の土器からは西の稲葉との交流が伺え、隣町の香美町の弥生後期後半から古墳前期のトチ三田遺跡(19)では、北陸方面から影響を受けた製塩土器も見つかっています。 つまりこのあたりは弥生後期後半以降、山陰から北陸の日本海側の文化圏に属すると思われ、西方は稲葉の国の四隅突出墓祭祀圏に隣接します。
一方この地域は東方では但馬国造に属する領域に隣接します。 但馬国造は但馬の国の東半分に当たり、その豊岡市九日市上町女代に弥生後期の近畿式銅鐸(突線鈕2式)が見つかっています。 つまり比定地は二世紀初頭の、近畿式銅鐸圏と四隅突出墓祭祀圏の境界領域にあることが分かります。 この時期には湖南の近畿式銅鐸の中心地に、伊勢遺跡が建設されており、伊勢遺跡との関係を考える場合には、この地理的条件を考慮する必要があります。
弥生後期後半に入って日本海側に鉄器が増加し、鉄器や鉄素材が日本海ルートで本州に流れた形跡が指摘されています。(20) 対馬から何らかのルートで、出雲など山陰方面に直接つながることも想定できるのではないでしょうか。 森岡原倭国の王が漢王朝への使者を派遣するとしたら、この時代に有力になっていたこのルートを使った可能性が高く、そのためには西の有力な祭祀圏である、四隅突出墓の築かれた地域の協力が必要になるでしょう。 つまり実質的には四隅突出墓祭祀圏と近畿式銅鐸祭祀圏の、共同での朝貢となると思われます。
二世紀初頭に近畿式銅鐸祭祀圏と、四隅突出墓祭祀圏が合同で使者を送るとしたら、その代表はどのように選ばれるでしょうか。 代表者をどちらか一方の祭祀圏からから選ぶことは難しく、両者の中間に位置し両者に通ずる国が選ばれるのではないでしょうか。 またあまり有力な国では、その後の主導権を握られるなど不都合があるかもしれません。 両者の境界上にあり、小さな国で御しやすい国が選ばれるのではないでしょうか。 小さな国であるため、配下の大夫ではなく王そのものが使いに立ったということになるでしょう。 北陸・北近畿・山陰の日本海側の国々が連帯し、多くの生口と舟を集め、中立的な小国の王が代表として使者に立ったとすれば、面士国の面治への比定には、それなりの合理性があると思います。
ここで師升と言う名前に注目してみます。 升という文字は、倭人伝でも難升米や弥馬升に用いられています。 弥馬升は邪馬台国の官名の第二位に当たるもので、第三位に弥馬獲支が現れます。 この官名は古音を用いて読むとミマワキとなり、おそらく弥馬升に次ぐものであることからミマに対するワキ、つまりミマの副官と理解できます。 そうすると弥馬升はミマの長官と言うほどの意味にとれそうです。 師升は人名でなく、この時の倭国のまとまりの中での役割、官名に相当するものであったのではないでしょうか。 以前難升米考で考察したところでは、この升の前にあるのは、どうやら地名の可能性があるようです。 師を地名とすると、一音節となってしまって比定は難しいですが、『三国志』東夷伝の倭の国名を見ると、奴のように短い地名もあるため、可能性は否定できないと思われます。 奴が「ナ」を表し、後世の地名の「那珂(ナカ)郡」につながるとすれば、師は後世の地名の、「シカ」につながる可能性もあります。 「シカ」/「シガ」のような地名は日本全国にあり、ありふれた地名と思われます。
上記の仮説に立つと、二世紀初頭の倭国の朝貢は、日本海側の諸国が幅広く団結し、中華王朝へのルートを開いた大事件であることになります。 時代は弥生後期中葉と言ったところではないでしょうか。 弥生後期後半になると、原の辻交易が独占的地位を低下させ、楽浪土器が北部九州一帯に広がり、吉備にも模倣した土器が現れると言います。(21) この時期になって山陰方面からの鉄器発見事例が多くなるのも、このときの朝貢が大きな突破口になったと考えることもできそうです。
下記に面治の位置を示します(NPO法人 守山弥生遺跡研究会のサイト野洲川下流の弥生遺跡の弥生後期の祭祀の地域性の図に加筆)

参考文献
- [戻る](1) 内藤虎次郎 1929 「倭面土国」 『読史叢録』弘文堂書房
- [戻る](2) 白鳥庫吉 1981.12 「卑弥呼問題の解決」 佐伯有清編 『邪馬台国基本論文集Ⅱ』 創元社 p67
- [戻る](3) 橋本増吉 1982.5 「翰苑記事内容の考察」 『東洋史上より見たる日本上古史研究』 原書房 p180
- [戻る](4) 七田忠昭 2021.9 『上峰町史』上巻 上峰町
- [戻る](5) 森博達 1985.11 「上代日本語との共通点」 森浩一編 『日本の古代1』 中央公論社 p187
- [戻る](6) 沖森卓也 2017.4 「音仮名の用法」『日本語全史』 筑摩書房 p30
- [戻る](7) 前掲(5) 「子音韻尾字の用法」 p194
- [戻る](8) 木下礼仁 1993.10 「稲荷山鉄剣銘文にみる朝鮮との関係」 『日本書紀と古代朝鮮』 縞書房 p135
- [戻る](9) 森博達 1991.7 『古代の音韻と日本書紀の成立』 大修館書店
- [戻る](10) 前掲(9) 「三・ニ 有韻尾字の使用状況」 p28
- [戻る](11) 前掲(5) 「難升米は奴国の人ではなかったか」 p194
- [戻る](12) 前掲(9) 「ニ・一 清音仮名」 p99
- [戻る](13) 前掲(9) 「三・ニ 有韻尾字の使用状況」p28
- [戻る](14) 井上通泰 1941.4 「南海道山陽道山陰道北陸道 但馬国」『上代歴史地理新考』 三省堂
- [戻る](15) 森岡秀人 2015.03 「倭国成立過程における 「原倭国」 の形成―近江の果たした役割とヤマトへの収斂―」 寺沢薫 ・ 橋本輝彦編 『纒向学研究センター研究紀要 纒向学研究』 3:39-55
- [戻る](16) 情報初瀬谷・柏谷古墳群 兵庫県町づくり技術センター・埋蔵文化財発掘調査
- [戻る](17) 和泉谷・津原古墳群 兵庫県町づくり技術センター・埋蔵文化財発掘調査情報
- [戻る](18)
- [戻る](19) 『香住町誌』1980.11 香住町教育委員会 p282
- [戻る](20) 会下和宏 2019.12 「弥生時代の山陰地域における鉄器普及の様相」『山陰研究』(第 12 号) 島根大学法文学部山陰研究センター p1~p12
- [戻る](21) 白井克也 2001 「勒島貿易と原の辻貿易―粘土帯土器・三韓土器・楽浪土器からみた弥生時代の交易―」『第49回埋蔵文化財研究集会 弥生時代の交易―モノの動きとその担い手―』埋蔵文化財研究会第49回研究集会実行委員会,pp.157-176
変更履歴
- 2024年07月23日 ドラフト版
- 2024年07月26日 初版
- 2024年07月29日 二版 万葉仮名に関する情報追加と漢字音に対する誤解の訂正、歴史的評価の追加
- 2024年07月31日 三版 各史書の倭国朝貢記事の関連記述の表を修正
- 2024年08月04日 四版 図版追加と文面考証を追加、参考文献を追加
- 2024年11月14日 五版 西嶋説批判を追加
- 2025年07月14日 六版 文献的検討と地名比定を分離、面土/面上の原記録として面士を想定
白石南花の随想