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倭の五王

―大仙陵古墳の被葬者―

1.はじめに

宋書に見える倭国の朝貢主体、いわゆる倭の五王について、倭国側の史料である日本書紀記述との対応や、倭の五王の陵墓についてながらく多くの議論が行われてきました。 多くの議論において、日本書紀には倭の五王の記録が欠けている、ないしは記録されていないとされてきました。 実際そのまま読んだ場合、宋書との不一致は明らかです。 本稿の目的は、日本書紀には本当に倭の五王の記述がないのか、また史上最大の前方後円墳である、大仙陵古墳と倭の五王の関係はどうなっているのかについて、文献的に検討することです。

私は隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文を非常に重要なものであると考え、その結論を継体欽明朝の秘密に日本書紀再編纂仮説としてまとめました。 そこでは最高位の天皇は夜に神意を聞く存在で、それとは別に昼の間政務をとる存在があり、多くの場合天皇即位の前にその役割をになっていたとしました。 日本書紀α群の欽明紀ぐらいまでは、編纂時に各氏族から集めた史料には、即位前の治績が即位後のように書かれており、そのまま編纂すれば天皇の在位が並行することになったため、治績の記録を差し替え、並行在位を回避したと考えました。 その結果百済系史料の干支などを除いて、国内系史料の干支は無視され、全体に治績期間を短縮する方向で調整されたと結論しました。

雄略紀の分析ではこの仮説に基づき、雄略紀の記事を分析した結果、雄略紀は前後十三年短縮されており、原史料で雄略のモデルとなったのは、宋書に見える倭王武であり、安康のモデルになったのが倭国王興であると結論しました。 果たして上記の日本書紀再編纂仮説は、残る倭の五王、讃珍済の比定に関する疑問を解決できるのでしょうか。

2.宋書について

倭の五王の原点は宋書の記述にあります。 まず宋書について確認しておくことが重要であると思います。

宋書の帝紀と夷蛮伝を見比べると、夷蛮伝では高句驪もしくは高驪、帝紀では一か所だけ高句驪で残りは高麗となっています。 このような表記の違いは、使用された原史料の少なくとも一部は異なるということで、帝紀と夷蛮伝を別の史書のように扱えるということを意味します。 倭の五王について夷蛮伝と帝紀を比較すると下記のようなことが分かります。

王名のない朝貢は帝紀にのみある。
   讃の朝貢は夷蛮伝にしかない。

このことから可能性としては下記が予想されます。

帝紀にも夷蛮伝にもない朝貢がある。

つまり当たり前の話ですが、宋書を倭の五王に関する完全な記録とみなすことはできないのです。 また朝貢による冊封にしても、劉宋側ではそう望んでいても、朝貢する側は爵位による権威のみを求めていて、必ずしもそのお作法に従ったとはいえない可能性があります。 すなはち新王が立ってすぐに朝貢したとは限らず、朝貢による爵位がどの程度国内支配において重要であったかもわかりません。 倭国よりも劉宋からの爵位に依存する度合いが高く、かつ五世紀については日本書紀よりはあてになる三国史記をもとに調べてみれば、即位後すぐに朝貢していないケースがあります。 すなはち、朝貢年からその王の即位年を求めることはできないということです。

劉宋に対しての報告の内容にも疑問があります。 有名な倭王武の上表文では、十数年も前に亡くなっていると報告した父のが、にわかに亡くなったので喪が明ければその遺志を継ぎたいと言っています。 劉宋側から見ても明らかに矛盾しているのですから、話を劇的にして爵位を引き出すための脚色が行われていると考えられ、そのまま受け取るわけにはいかないのです。

さらに雄略紀分析では、倭国側の一回の使者が劉宋側の二回の朝貢に相当する場合があるのもわかりました。 劉宋が歴代王朝の中で例外的に、皇帝の出御しない客館での文書や献上品や賜物の受け渡しを行っていたこともあり、その朝貢記録は必ずしも全幅の信頼を寄せるものではないと思われます。

実際宋書の記録には不審な点があります。 438年の帝紀の記録には、以倭国王珍為安東将軍是歳、武都王、河南国、高麗国、倭国、扶南国、林邑国並遣使獻方物の二回の記録があります。 他の朝貢とまとめて繰り返した記録のようにも見えますが、宋書帝紀で繰り返しているのはこの倭国のケースだけです。 この年には、倭国の使者が客館にとどまり、皇帝から見ると二回の朝貢を行っている可能性があります。 また帝紀451年の朝貢では、倭王済は安東大将軍に進号したと書いてあるのに、夷蛮伝では安東将軍はもとのままと書いてあります。 これも同年に朝貢が二回あり、二回目に進号を果たした可能性があるのです。 この点については坂元義種氏がかって述べられていますが、今のところ一般的には受け入れられていないようです。

私は本来宋書の記録をもって、記紀の系図を考証してみたいと思っているものですが、これらを考えてみるに、宋書の記録で倭国の王の即位や没年や系図を決定するのは簡単ではないということが分かります。 それはまるで明史日本伝をもって、織豊政権に関して議論するようなものです。

3.古事記崩年干支について

倭の五王について、古事記にはわずかに雄略記に、呉に関する記事があるのを除いて、関連すると思われる記述はほとんどありません。 ただ在位年を日本側史料と比較する場合に、日本書紀と並んで古事記崩年干支が利用されることがあります。 しかし古事記崩年干支は古事記に対する註であるうえ、付された天皇と付されない天皇があり、体系的な情報ではないと思われます。 また古事記本文については、仮名遣いから見て奈良朝とみてよいと思われますが、崩年干支はいつの時代に付けられたものか分からないという問題があります。

古事記はもともといつの時代の話か、年代のわからない口承文学的内容で、歴史書とは言えない代物ですが、おそらくそこに様々な氏族の伝えた史料をもとに、没年についての情報を追加したものでしょう。 その内容は一つ一つ個別にみてゆくと、信頼できるものもできないものもあったでしょう。 百済系漢人による記録の始まった、五世紀以降であれば、金石文の状況などからある程度あてになるかもしれませんが、四世紀に関してはその正体に不安があります。 百済との交流が四世紀第四四半期あたりからとすると、一体だれがそれ以前の記録を残したのでしょう。 前原にあった楽浪郡出張所の子孫でしょうか。 最近日本の広い範囲から、弥生期に遡る硯と思われるものが見つかっていますが、文字は複数まとまって意味を成すような使い方をされるだけではありません。 単なる記号として使われることは現代でも多く、もともと原初的な文字は言語を表すものではなく記号であったことと、四世紀以前に日本列島内で作成された、文をなすような文字史料が見つかっていないことを考えると、慎重に扱うべきものと思います。

また五世紀でももちろんどの程度信頼できるものかはわかりません。 α群の分析でも、安閑の崩年干支は同じ墓に合葬された、安閑皇后のものである可能性をみました。 継体の崩年干支は没年ではなく、譲位年を示したものと思われます。 特に崩御の月に関しては、日本書紀と一致しないものが多く、あまり信頼できない記録であると思われます。 ただ古事記に註された崩年干支と、同根と思われる史料が、日本書紀の当初編纂においても利用された可能性が高いこともまた見てきました。

古事記については、仮名遣いを擬古的にしているだけなどの批判がありますが、旧事本紀や古語拾遺では成功しているように見えず、奈良朝成立は疑いないと思われます。 神話など内容的に日本書紀より新しい形態が見えるのは、口承文学として練られてきたためであって、日本書紀の特に神話において明らかに古形のものが見えるのは、日本書紀には様々な氏族の提出した文字史料が利用されているためであると思われます。 口承で伝えたとしても、氏族ごとに伝えに違いがあるのでしょう。 古形を伝えたものがあるとしても一向に不思議ではありません。

口承文学的な史書と、広範に史料を集め、何とかして漢籍に対抗できるような史書を編もうとしたものが残っていることは、成立プロセスを考察するうえで、大変に幸運なことだと思います。

4.日本書紀β群について

はじめにで述べたように、私見では日本書紀α群については原史料の構造とその再編纂に関してある程度目途がつき、それをもとに倭国王興倭王武についての朝貢記録を比定出来たと考えています。 それ以前の讃珍済については、古くから宋書の記録と日本書紀紀年や古事記崩年干支との比較をもとに考えられてきました。 しかししばしば宋書の記録のみ、もしくは考古学的な記録のみから考察することが行われてきました。 それは年代まで含めて、日本書紀の記録に明確に宋書の記録と照合できるものがないことが、理由であったと思われます。 しかし2節で述べたように、宋書の記録だけでは日本側の情報を再建することは無理があり、考古学的にも何らかの金石文の発見がない限り、倭の五王との関連は難しいと思われます。 本稿の主題は日本側史料に、宋書の記録と比較できるものを捜すことです。

日本書紀再編纂仮説は日本書紀α群に対するもので、β群には適用できるのかが、一つの課題になります。 ここで注目するのが允恭紀で、允恭五年に反正の喪の話が出てきます。 これは従来謎とされていたのですが、日本書紀では反正の在位は五年であり、古事記崩年干支を見ても履中と反正の間隔は五年です。 允恭紀のこの五年間は反正との並行期間であったと考えられます。 つまりα群で発生した天皇在位の並行は、当たり前の話ですがβ群でも発生していたということです。 β群では並列をどのように解消しようとしたのかが、允恭紀と允恭記の記述の比較からわかります。 允恭記では允恭没後に木梨軽の立太子記事がありますが、允恭紀では在位中のことになっています。 允恭紀は即位四十二年まであるのですが、即位二十三年の木梨軽立太子以降は、引き延ばされていると思われます。 木梨軽の立太子前の二十二年を古事記の允恭崩年に合わせると、反正の古事記崩年が允恭五年の反正の喪にあってきます。 允恭二十四年を最後に崩御年までは無治績期間となっていて、紀年論でも本来の在位期間ではないとされてきたものです。

日本書紀紀年では没年が二十年延ばされ、反正並行期間の五年が足され、反正空位年一年と履中が五年から六年に延ばされていることを加え、全部で二十八年繰り上げられ、仁徳の没年は古事記崩年干支から示される427年から、日本書紀では399年になっています。 α群では治績期間の短縮があり、β群では治績期間の引き延ばしがあるということは、おそらく有名な神功紀の干支二運引き上げと関係があるでしょう。 おそらく二運引き上げによりできた年次の余裕によって、天皇在位年の並列を解消できていると思われます。 このため原史料が干支を伴っていた国内史料に関しても、α群ほどの無理やりな記事の繰り替えは行われておらず、本来の干支が保たれていることが期待できます。

5.陵墓伝承について

考古学者の白石氏が指摘するように、ざっくりとですが陵墓伝承地は、考古学的に大古墳の作られる古墳群の移動にあっています。 陵墓伝承は全幅の信頼を寄せるようなものではないとしても、同時代文字記録のない時代に対する手掛かりを与えてくれる可能性は秘めていると思われます。 時に日々目にするモニュメントは、それにまつわる話を親から子へ語り継ぐきっかけを与え、民族の記憶装置として機能することがあると思われるからです。

仁徳紀の即位六十七年の陵墓選定の記事について考えてみましょう。 まずこの記事がなぜ即位六十七年にあるのかを考察してみるに、記事の中身は百舌鳥耳原の地名説話を含んでおり、口承伝承の特徴を持っていることが分かります。 おそらくそもそも何時の事なのか分からない話だったのでしょう。 このようないつのことだったか分からない話を、史書のどこかに書き込もうとしたとき、選者にはある種の緊張感があったと思います。 このような伝承を仁徳の一代記に配当する際に、特定の年次に挿入してしまえば、出来事の起こった年次を選者が決めてしまうことになってしまうからです。 もしも年次のわかった関連する記事があった場合、話のつながりが良いので、その近くに置こうとするでしょう。 雄略紀分析でも、同種の記事の集まる傾向が見えました。 しかしこの伝承の前後には、関連性のある記事がありません。

選者にとっては途中のどこかでなく末年というのは、その一代の何処かで起こったこととして、このような記事の起きやすい場所です。 ましてや陵墓選定であれば末年がふさわしいことになるでしょう。 陵墓選定記事の即位六十七年から、没年の即位八十年までは治績記事がなく、β群の天皇在位並列解消のための、在位引き延ばしの可能性があります。 おそらく末年が六十七年になったため、この位置に陵墓選定の記事が置かれ、その後在位並列を解消するため末年を二十年引き延ばしたため、ずれてしまったのでしょう。

この仁徳紀の記事が面白いのは、仁徳の陵墓が寿陵であったことを物語るものと思いますが、その選定地が石津原となっているところも興味深いものです。 石津原が倭名抄の石津郷であるとすれば、現在の石津町に近いわけで、もっとも近い大古墳は、上石津ミサンザイ古墳となります。 そしてそれがこの百舌鳥古墳群の、大古墳としては一番早いものであることは、この仁徳紀の記事が説話的なものでありながら、一定の事実を含んでいることを物語ります。

6.応神紀と仁徳紀について

ここで応神紀と仁徳紀に注目してみましょう。 応神紀では、百済王の即位が三国史記の干支とほぼあっています。 二十五年条では久爾辛王の即位が六年ほど早くなっていますが、雄略紀の分析で触れたように書記のもとになった百済系文書では、毗有王の記録が見えず、腆支王(直支王)と蓋鹵王の記録が混同されていた可能性があります。 山尾幸久説ではここで現れる幼い久爾辛王の國政を執たとする木滿致は、三国史記に見える蓋鹵王が高句麗によって殺されたときに、子の文周を連れて逃げた木劦滿致であるとします。 この記録は干支の一運60年ずれた記録であることになります。 また同条で亡くなったとしている直支王が、即位三十九年に再び現れてきますが、これも百済系史料の混乱があったことによるもので、三十九年条戊辰の年の新齊都媛の記事は、三国史記毗有王二年戊辰の年の倭国の使節団に対する返礼だったと考えられます。

このように応神紀は全体が四十一年で、かならずしも不自然に長いとは言えない事も合わせて考えると、記事は引き延ばしたりせず、その干支は原史料のものをそのまま利用して二運引き上げている可能性があります。 これはその前の神功紀が海外史料の干支と、一部を除いてちょうど二運引き上げたようになっていることからも伺えます。 そこで注目するのが、応神三十七年(306年)に呉に遣わされ、応神四十一年(310年)に帰国した阿知使主一行の記事です。 この記事には、往復に四年もかかっていることや、敵対していた高麗(高句麗)に支援を求めていたことなど不審な点がありますが、ひとまず受け入れてみます。 この時の使者が、高麗の久禮波と久禮志の道案内で呉に至ったというのは、高句麗との共同朝貢であったことを意味するのでしょう。

ここで仁徳紀をみると、仁徳紀の即位五十八年(370年)庚午の年の十月条の、呉国と高麗国の朝貢記事との一致が目に留まります。 関連する国名と干支が一致しているうえ、応神紀には帰国したところ応神はすでに亡くなっていたので、連れ帰った女人等を仁徳に献上したとまで書いてあるのです。 おそらく応神四十一年(310年)の呉からの帰国記事と、仁徳五十八年(370年)の呉と高麗の朝貢は同一の出来事で、応神と仁徳の在位並列を嫌って、紀年では干支の一運60年ずらして記載しているのでしょう。

そして宋書帝紀の元嘉七年(430年)庚午の年の倭国朝貢と、これらの出来事の干支が庚午で一致していることが分かり、これらは全て同一の出来事であると思われます。 ただ応神紀の帰国は四十一年の二月是月条に続く是月条で、430年1月の朝貢の帰国としては早すぎるのですが、仁徳紀には十月となっていて、恐らくこちらが正しく、是月条は元は是年条の誤りでしょう。 有力な説では、三国史記と日本書紀に引く百済系文書の干支との比較で、応神紀は干支の二運120年引き上げられているとされ、応神四十一年(310年)は干支の二運120年引き下げれば、まさに一致します。

ここからは私の想像ですが、長寿王は倭国の426年の南朝への使者を捕らえ足止めしていたのではないでしょうか。 宋書夷蛮伝によればこの時期高句麗長寿王は、連年南朝に使者を出していたとされますが、太祖文帝の時代に入ってから、即位十二年に至るまで爵位を得た記録がありません。 そのため劉宋の関心を引き、爵位を得るための方便として倭国の使者を開放し、南朝への高句麗の使者を付けて、共同朝貢としたのではないかと思うのです。

倭の五王の朝貢において、高句麗の役割は無視できないようです。 東晋安帝の義熙九年の朝貢では、太平御覧に引く「義熙起居注」に、倭国ではなく高句麗の産物と思しきものが献上されたとあり、同年高句麗も朝貢していることから、高句麗による倭人捕虜の偽朝貢説もあるなど、錯綜しています。 私はこの年は高句麗による嚮導朝貢、もしくは高句麗との共同朝貢であると思います。 しばしば高句麗や新羅と倭国は敵対しており、日本書紀に見える高麗記事を疑う意見を見ますが、そもそも外交というものはそんな単純なものではないことは、歴史を見れば明らかです。 時に結び、時に敵対する、常ならざるが外交の姿というべきで、新羅や高句麗ルートが閉ざされていたとみるべきではないと思います。

日本書紀を見れば、新羅や高句麗の使者の話はよく出てきます。 顕宗紀の紀生磐宿禰も高麗と結んで、同盟国の百済と争っています。 百済に関する記述は、日本書紀が百済亡命貴族による百済系史料をよく用いていることからも、割り引いて考えるべきであると思われます。 430年の阿知使主の朝貢において、高麗が関係してくるのも、この時代までは高句麗もしくはその領域の沿岸を通る朝貢ルートであったことを示していると思われます。 このとき足止めされたのは、阿知使主が初めて南朝使者に立ったための、何らかの手違いがあったのかもしれません。

もしこの記録が正しいとすれば、応神四十一年は没年ですから、これは応神のモデルになった人物の最後の朝貢となります。 宋書夷蛮伝によれば、この年以前の朝貢はが行っているのですから、これはすなはち倭讃の最後の朝貢ということになります。 そしてそれを引き継いだは仁徳のモデルになった人物ということです。 宋書ではは兄弟ですが、実は応神紀には崩御が明宮と大隅宮の二つの伝承があり、日本書紀には即位時の宮も陵墓の記録もありません。 古事記と日本書紀では、相互の伝承が入り乱れています。 またこの四世紀末から五世紀前半には、大王墓級の古墳が天皇の数を超えてあります。 したがって応神仁徳は、複数の王をモデルに始祖王として造形されたものと思われます。 その中に兄弟で王位を分けたものがありそれがで、日本書紀と古事記の応神仁徳伝承の一部を構成しているのであろうと思います。

応神紀の一部をなすの没年は430年となります。 そしてその後を継いだは、仁徳伝承の一部をなしていると思われます。 仁徳紀の呉と高麗の使者があったとする、即位五十八年を430年とすると、陵墓選定記事は439年となります。 5節でみたように、仁徳紀の没年が本来の位置である陵墓選定記事の年次から、二十年引き延ばされているとすると、その没年は本来439年と伝えられていた可能性があります。 この没年はおそらくの没年を伝えるものでしょう。

3節で述べたように古事記崩年干支については、必ずしも全面的に信頼できるものではないと思われますが、何らかの伝承があったと思われます。 この節の結論として応神仁徳の古事記崩年干支については、その伝承の一部のモデルとなったの崩御年を示しているのではなさそうです。 一方で4節で述べたように、履中、反正、允恭の崩年干支は、モデルになった存在の崩御年の参考になりそうです。 そこで各天皇のモデルになった人物の没年を、上記の応神四十一年の記録や、古事記崩年干支をもとに推定すると下記のようになります。

讃(応神):430年
   珍(仁徳):439年
   履中:432年
   反正:437年
   允恭:454年

つまり仁徳のモデルになったよりも、子供の履中や反正のモデルになった人物が先に亡くなっているのです。 古事記の応神と仁徳の崩御年は、讃珍以外の伝承に関連する別の重要人物の崩御を示しているのかもしれません。 もしくは八世紀に確立していた天皇即位順に基づく校勘が入っている可能性があると思います。 例えばは上記推定では439年己卯の年に亡くなっていますが、これを仁徳崩年とすると、履中、反正と逆転してしまうので、丁卯の年の誤であるとみなされた可能性があります。

倭の五王関連対照表
数字は日本書紀の記事の即位年
ここでは応神の紀年を干支の二運引き下げ、仁徳の紀年を干支の一運引き下げ、允恭、履中、反正の崩御年を古事記崩年干支とした
ただし仁徳の崩御を陵墓地選定記事の67年、允恭の崩御を古事記に合わせて木梨軽の問題の前年の22年とした
西暦干支応神仁徳履中反正允恭中国史書古事記崩年
373癸酉1
374甲戌2
375乙亥3
376丙子4
377丁丑5
378戊寅6
379己卯7
380庚辰8
381辛巳9
382壬午10
383癸未11
384甲申12
385乙酉13
386丙戌14
387丁亥15
388戊子16
389己丑17
390庚寅118
391辛卯219
392壬辰320
393癸巳421
394甲午522九月、応神
395乙未623
396丙申724
397丁酉825
398戊戌926
399己亥1027
400庚子1128
401辛丑1229
402壬寅1330
403癸卯1431
正月、履中立太子
404甲辰1532
405乙巳1633
406丙午1734
407丁未1835
408戊申1936
409己酉20
九月、阿知使主等来朝
37
410庚戌2138
411辛亥2239
412壬子2340
413癸丑2441晋書帝紀:倭国遣使
414甲寅2542
415乙卯2643
416丙辰2744
417丁巳2845
418戊午2946
419己未3047
420庚申3148
421辛酉3249宋書夷蛮伝:倭讃朝貢
422壬戌3350
423癸亥3451
424甲子3552
425乙丑3653宋書夷蛮伝:倭讃が司馬曹達を遣す
426丙寅37
二月、阿知使主等呉へ向かうが
道に迷い高麗人の案内で朝貢
54正月、難波の宮炎上
阿知使主等に助けられる
正月、住吉仲皇子殺害
427丁卯38551
二月、磐余稚桜宮で即位
八月、仁徳
428戊辰39562
十月、磐余に都
重臣に阿知使主不在
429己巳40573
430庚午41
二月、崩御
是月、阿知使主等帰国
58
五月、荒陵の話題
十月、呉と高麗の使者
4宋書帝紀:正月、倭国王遣使
431辛未595
432壬申60
十月、白鳥陵の話題
6
正月、蔵職を建て蔵部を定める
(古事記に阿知直を蔵官)
三月、崩御
正月、履中
433癸酉6111
434甲戌6222
435乙亥6333
436丙子6444
九月、盟神探湯で氏姓を正す
437丁丑655
正月、崩御
5
七月、反正の喪
七月、反正
438戊寅666宋書
四月、讃の弟倭国王珍朝貢
439己卯67
十月、陵墓地選定記事
7
十二月、新室の祝い
440庚辰688
441辛巳699
442壬午7010
443癸未7111宋書
倭国王済朝貢
444甲申7212
445乙酉7313
446丙戌7414
447丁亥7515
448戊子7616
449己丑7717
450庚寅7818
451辛卯7919宋書
七月、倭王倭済朝貢
452壬辰8020
453癸巳8121
454甲午8222正月、允恭
455乙未8323
三月、木梨軽立太子
456丙申8424
六月、軽大娘を伊予へ流す
457丁酉8525
458戊戌8626
459己亥87
正月、崩御
27
460庚子28宋書帝紀:十二月、倭国遣使
461辛丑29
462壬寅30宋書夷蛮伝:三月倭国王世子興朝貢
463癸卯31
464甲辰32
465乙巳33
466丙午34
467丁未35
468戊申36
469己酉37
470庚戌38
471辛亥39
472壬子40
473癸丑41
474甲寅42
正月、崩御
475乙卯
476丙辰
477丁巳宋書帝紀:十一月、倭国遣使
478戊午宋書帝紀:五月、倭王武朝貢
479己未南済書東夷伝:倭王武朝貢
480庚申
481辛酉
482壬戌
483癸亥
484甲子
485乙丑
486丙寅
487丁卯
488戊辰
489己巳八月、雄略

7.讃と珍の陵墓について

の陵墓について考えてみます。 この節では便宜的に、讃珍と応神仁徳を同一視して話します。

百舌鳥古墳群は地図で見ると、明らかに二つのグループに分かれます。 丘陵の尾根上に有って大阪湾から見通せる位置にあるグループと、その東側の河谷沿いのグループです。 大型古墳のみについてみると、その造成方位も違います。 上町台地に続く台地の西側の低い脊梁部に上石津ミサンザイ古墳から、方位をそろえて北へ向かって順次作られた大仙陵古墳や田出井山古墳は、そのなかに規模第一と第三位を含むことから特別な一族の墓群であろうことが理解できます。

日本書紀において自らの陵墓地を選んだという伝承は、仁徳のものだけです。 つまり時の大王が何かのこだわりを持って陵墓地を選んだという伝承です。 仁徳は大阪湾に臨んだ難波に都を作ったと伝わっており、瀬戸内海がこの王権の権力基盤だったのではないでしょうか。 そのため大阪湾方面に自分の威を示すためにこの陵墓地を選び、かつ築陵の方位も選んだのではないかと考えます。 履中と反正が仁徳の子であるとすると、この一族は同じ立地と築陵基準が適用されたと私は思います。 一方延喜式では南から順に、履中、仁徳、反正となっています。 寿陵の可能性もあり、発掘が許されていないため絶対的年代にはまだ揺れる可能性がありますが、作成順は揺るがないとして、陵墓伝承と考古学の矛盾する例として多く取り上げられてきました。 しかし履中、反正と仁徳の没年が逆転するならば、新たな可能性が出てきます。

以下私の想像ですが、仁徳紀に見るように百舌鳥の陵墓地は仁徳が決めたものでしょう。 そして寿陵として五世紀初頭に史上最大規模な上石津ミサンザイ古墳を作成したと考えるのです。 その後仁徳と王位を分け合っていた応神は、ややおくれて古市にそれを上回る誉田御廟山古墳をやはり寿陵として築きます。 ところが履中が急死してしまい、仁徳は早くから築いていた上石津ミサンザイ古墳を我が子履中の陵墓とします。 そして誉田御廟山古墳を上回る規模の大仙陵古墳を寿陵として築き始めたのです。 ところがさらに反正が先に亡くなってしまい、また仁徳も大仙陵古墳が完成する前に亡くなったのでしょう。 そこで田出井山古墳の築陵をおそらく計画段階で中断して、大仙陵古墳の完成を優先させたのでしょう。 432年が履中の没年で、それからわずか7年後に仁徳が亡くなったとすると、大仙陵の築陵は仁徳の死に間に合わなかった可能性があります。

履中と反正は仁徳のもとで昼の王を務め、天皇即位の前に亡くなってしまいました。 日本書紀の記述からすると反正にはほとんど実績がなく、前節の表でみるように允恭は反正即位四年の並行年に、盟神探湯(クカタチ)の儀を行うなど、反正の臣下であっても実権を握っていたと考えられ、仁徳の子であったがゆえに昼の王についていただけの反正の陵墓は、倭国王珍として南朝朝貢を果たした偉大な王が、次々に作った二つの寿陵に比べて、著しく小さなものになったと考えるのです。

陵墓について触れたついでに、仁徳紀に見える陵についての不思議な記事に関して指摘しておきたいと思います。 仁徳五十八年に荒陵の木についての記事があり、六十年に白鳥陵についての記事があります。 両方とも唐突で前後のつながりがありません。 日本書紀にはよくこのような意味の分からない記事があるのですが、仁徳紀では陵に関連する記事は、このほか陵墓地選定記事と仁徳の崩御記事のあとの記事しかありません。 実際他の天皇紀でも、陵に関して崩御記事や、先王の葬儀記事を除くと、ほとんど出てこないものです。 そしてこの二つの陵にまつわる記事の年は、本稿の編年ではそれぞれ応神と履中の崩御年なのです。 これはいったい何を意味しているのでしょうか。 重要人物の崩御に伴って、陵墓が意識されたことによるものだったのでしょうか。 両記事とも、おそらく土師氏の伝承したものであると思います。 陵の記事はほとんど出てこないとしましたが、雄略紀九年七月の誉田陵の記事も、これとよく似た位置づけになります。 そしてこの年は、雄略紀の分析での調査によれば、再編纂前には安康の崩御年であったのです。

8.朝貢使となった人々について

宋書の倭の五王の記録と、日本書紀の呉への朝貢記録を比較した場合、ながらく対応する記録がないとされてきました。 日本書紀の呉への使者の記録は、応神三十七年および雄略八年と十二年の三回しかありません。 呉からの使者の記録を入れても、仁徳五十八年と雄略六年の二回を加えるだけです。 しかも紀年では、そのどれも宋書の記録と一致しないのです。

雄略紀の分析で雄略八年と十二年の呉への使いは、それぞれ460年と462年の連続朝貢と、477年と478年の連続朝貢に対応し、日本書紀史料の再編纂や宋書の記録の問題により、年次が一致しなかっただけであることを主張しました。 本稿では、応神三十七年の呉への使者が、宋書の430年の朝貢に該当することを主張しています。

しかしそれでもまだ、晋書の413年、宋書の421年、425年、438年、443年、451年、南斉書の479年、梁書の502年などの朝貢記録に合致するものがありません。 このうち479年と502年については、坂元義種氏によって南斉王朝成立と梁王朝成立に伴う形式的なもので、実際には朝貢はなかったとされてきました。 実際に502年に関しては、数多くの国へ同時に爵位が与えられた記録になっており、儀礼的なものと考えてよいようです。 しかし479年に関しては倭国だけであり、2011年に発見された愛日吟廬書畫續録巻五に残る職貢図題記に、斉建元中奉表貢献とあったことや、倭ないし百済の嚮導なしでは朝貢が難しいと思われる、加羅王の朝貢記録があることから見直されています。この年には百済の朝貢記録がないのです。

なぜこのように多くの朝貢記録が残されていないのでしょう。 私見ではこの原因は、朝貢に関する記録を伝えた史料にあると考えています。 古事記には雄略記に呉人の来朝記録があるだけであることを考えると、古事記や日本書紀のもとになった口承文学的記録には、呉への朝貢に関する記録はなかったと考えられます。 日本書紀の記録は、多くの氏族から集めた史料によるものなのです。 それらの人々は、当然中国語や漢字の知識を持った、渡来系の人々だったでしょうから、文字記録を残していた可能性が高かったと考えられます。 それにもかかわらず、一部の記録しか残らなかったのは、伝承した一族がそれを伝え日本書紀に反映させうるような、有力な後継氏族を残さなかったことによると考えられます。

では伝承しえた氏族の特徴は何でしょうか。 日本書紀の呉への朝貢記録は、応神三十七年は阿知使主と都加使主、雄略紀の二回は身狭村主青と檜隈民使博徳となります。 阿知使主は倭漢氏の祖とされ、応神二十年に十七県のともがらと共に来朝したとなっています。 坂上氏系図に引く新撰姓氏録逸文では、身狭村主青は阿知使主の率いてきた人々の子孫であるとされているそうです。 また檜隈民使博徳については、檜隈が倭漢氏の本拠地(註8.1)であることから倭漢氏とかかわりがあると思われます。 このように、南朝朝貢の記録が、倭漢氏につながる一族の記録となっていることには、それなりの意味があるのであろうと思われます。 実際に身狭村主青等が、倭漢氏とつながりがあったかどうかよりも、その配下であるかのような記録が残っていることが重要で、渡来氏族系の雄である倭漢氏の力によって、その伝承が最終的に日本書紀に反映されることになったと思われます 倭漢氏は東漢氏とも言われ、後継氏族には書氏があったことも大きいでしょう。

阿知使主の子として伝わる都加使主は、雄略紀に東漢掬として、星川の乱を平定しています。 したがって、実際に身狭村主青等が、南朝朝貢の使者に選ばれるに際しても、倭漢氏が影響力をもった可能性もあります。

南朝朝貢を担った倭漢氏以外の渡来系氏族については伝わっていませんが、宋書には元嘉二年(425年)に司馬曹達という名の使者がやってきたとされます。 この人物については、様々な意見がありますが、百済や高句麗の朝貢の記録からすると、この司馬は将軍号を得た倭王が置いた府官名とするものが有力です。 百済や高句麗の使者が最高位の長史であるのに、倭国の使者が次の地位の司馬であることや、府官名が記録されたのがこの一度だけである点など、なを謎も残っています。 実際司馬を姓のように読む説もあるようです。 ただこの使者は、名前からして渡来人であることは間違いなさそうです。

この司馬曹達と阿知使主の関係はどのようなものなのでしょう。 阿知使主は明らかに漢人の名前ではありませんが、倭漢氏は後漢霊帝の子孫を自称しており(註8.2)、漢名であれば劉氏となります。 坂上氏系図に引く新撰姓氏録逸文に見える、阿知使主と共に来朝した七姓民には、曹氏の名は見えません。 そして司馬曹達の後継氏族についても記録がありません。 一説によれば、敏達朝の司馬達等は子孫であると言いますが、名前の類似以外の根拠が見出せません。 子孫に鞍作止利や鞍作福利などがあるとされますが、この一族は蘇我氏とかかわりが深かったらしく、八世紀に後継氏族が重要な地位に就いた形跡がありません。 最後の有名人である鞍作福利も隋に行ってその後は不明です。 この司馬曹達のように、南朝外交を担っても、その後没落し八世紀に有力な後継氏族を残さなければ、その伝承は失われたことでしょう。 それにしてもなぜ八世紀の有力氏族であった倭漢氏の朝貢記録が、応神三十八年から雄略紀の身狭村主青まで途絶えてしまったでしょうか。 本稿の説明では、応神三十八年(430年)の使者は阿知使主親子で、その前年425年の朝貢は司馬曹達となるのですが、何故この時になって阿知使主親子が起用されたのでしょうか。

9.426年のクーデター

日本書紀にも古事記にも、履中即位の前に何らかの政治的混乱があったことを伝えています。 履中の難波の王宮が包囲され放火され、履中はからくも大和へのがれ、石上にかくまわれて体制を立て直し、即位二年には磐余の稚桜に都します。 このとき燃えたのは難波の宮ですから、本稿の履中仁徳並列説では、仁徳朝の都が焼失したことになります。 新たな王の即位に際しての、政治的混乱が記録されることは珍しくありませんし、日本書紀には多くの争いが記録されていますが、都が包囲され放火されたというレベルのものはさすがに珍しいと思います。 王権を支える豪族間での争いが、皇子間の争いの形をとって現れているのではないかと思うのですが、これはかなり大きな政変であると思われます。

このとき履中が宮から逃げるのを助けたのが、日本書紀では平群木菟宿禰、物部大前宿禰、阿知使主らの側近ですが、古事記では阿知直ひとりが登場することでわかるように、阿知使主は履中朝での最重要人物と言っても良いでしょう。 古事記によれば、後に阿知直を蔵官と呼ばれる重要な地位に付けますが、これは日本書紀の履中即位六年の、蔵職を建て蔵部を定めるという記述に対応するものでしょう。 阿知使主の名は出てきませんが、即位四年秋八月には諸国に国史を置き、国内の情報を文書で伝えさせたともあります。 これらの話で分かるように、履中朝では阿知使主などの渡来人を引き立てて、何らかの政治改革が行われたと考えられます。

履中の没年を古事記崩年干支により432年にすると、履中即位前紀は6節の表で分かるように426年正月となって、並行する応神紀では同じ年の二月に阿知使主は呉に使者として出発します。 日本書紀では即位二年十月の磐余に都を移す記事に、重臣として平群木菟宿禰、蘇賀満智宿禰、物部伊莒弗大連、圓の名が上がりますが、ここに阿知使主の名がないのは、呉へ遣使として立てられていたためと考えられます。 古事記や古語拾遺で、阿知直ないし阿知使主として登場するのは、これが日本書紀の履中六年の蔵職の記事に対応するとすると、履中四年が応神四十一年に対応し、すでに帰国を果たしているからでしょう。 阿知使主は426年に旅立って、430年に帰国したということで間違いないでしょう。 また宋書の425年の司馬曹達に代わって、阿知使主が遣使に立ったのは、426年の政変と関りがあるに違いありません。

このとき競い合った司馬曹達の一族については、記紀を見ても判然としません。 争った皇子の名前は残っても、それを支持した諸族の名前は、皇統につながるものや、後に勢力を回復したもの以外は記録されないのです。 この論考では、履中の崩御年を古事記崩年干支の壬申を採用して、432年としていますから、宋書の次の朝貢記録である、438年のの朝貢の時には履中は亡くなっています。 阿知使主の記録が残った後、雄略朝にいたるまで、倭漢氏の関連する朝貢使は現れませんが、履中の死後は別グループが朝貢使を担ったのでしょう。

阿知使主の朝貢は、トラブルによって四年もかかったうえ、宋書によれば430年の朝貢では、爵位を得ていません。 一方438年の朝貢が大きな成果を上げたところを見ると、再び手慣れたグループが担当したのかもしれません。 この論考では反正は古事記崩年干支の丁丑を採用して、437年の没としていますから、438年のの朝貢実務を担当したのは、允恭と言うことになります。 以後順当にいけば443年と451年のの朝貢は、允恭の朝貢となります。 ちなみに6節の表では、仁徳の崩御年と推定している即位六十七年は、允恭の即位七年に並行し、その年に新室の祝いの話があり、允恭の最高位である祭祀王への即位はこの年であると思われます。 これ以降允恭紀から政治的な話が途絶えることから、外交実務は第一皇太子の木梨軽が担ったと思われます。 この間特に政変などは記録されていないため、の朝貢使を担ったのは同一グループとみてよいでしょう。 朝貢使グループとして身狭村主青のグループが抜擢されるのは、允恭に続く安康の即位前紀に記録されている、木梨軽と安康の政争が原因なのではないでしょうか。

雄略紀の分析では、479年の朝貢は加羅王の朝貢の嚮導として、実際にあったとしました。 ただ朝貢使となったひとびとは、朝鮮半島南部に権益を持っていて後に雄略朝と争うことになった、吉備の首長につながる人々であったため、記録を伝える後継氏族がいなくなったと考えました。 つまり結果的に全ての朝貢に関して、日本書紀に記録が残される訳ではなかったと思われるのです。 そして顕宗紀にみえる允恭皇子の磐城王が、雄略紀の磐城皇子と同一人物であるとすると、この吉備の首長グループと允恭につながりがある可能性が出てくるのです。

の朝貢使を担った一族は、結局479年の南斉朝貢も担い、既に述べたように438年の朝貢が手慣れたグループによるものであるとすると、そもそも阿知使主以下の倭漢氏グループ以外は、司馬曹達のグループだけであった可能性があります。 結局朝貢記録を日本書紀に残せたのは、後継氏族が八世紀の有力な渡来人集団となった、倭漢氏につながることができた者だけだったのでしょう。 同じように有力な渡来人集団を形成した、秦氏や西漢氏のグループに属する氏族の祖先には、朝貢使を担ったような人びとはいなかったのでしょう。

10.倭の五王まとめ

雄略紀の分析では、倭国王興倭王武が、それぞれ日本書紀の安康天皇と雄略天皇のモデルとなったと考えられました。 本節の結論として、倭讃倭国王珍は、それぞれ日本書紀の応神天皇と仁徳天皇の、モデルとなった実在の王の一人と考えられました。 そしての陵墓は誉田御廟山古墳、の陵墓は大仙陵古墳であり、仁徳天皇陵応神天皇陵の伝承には、一定の真実があると考えられることが分かりました。 倭の五王の内残る一人は、倭王済となりますが、日本書紀系図を信ずるならば、これは日本書紀の允恭のモデルということになります。

日本書紀の記録が宋書の記録とうまく合わないのは、双方に問題があると考えられます。 特に日本書紀に関しては、八世紀の天皇制とは著しく異なった王政であったこと、各氏族の伝えた記録が、視野狭窄的な問題のあるものであったことに加えて、それを八世紀の天皇観に合うように編纂したことが、歴史記録として謎の多いものになった原因であると思われます。 また宋書においても日本書紀においても、全ての記録が残されるわけではないことも考慮する必要があります。

允恭以降の古墳時代後期のあり方としては、即位前の皇子が実務を担い、天皇即位した人物は主に祭祀を行う形態であると思われますが、古墳時代中期には異なる様相があるようです。 今後神功紀の分析に関して論稿を書く予定ですが、中期古墳時代の状況はそこで解明したいと考えています。 また神功紀からは、日本書紀原史料の別の問題点も見えてきます。 すなはち各氏族の伝承が持ち寄られたとき、八世紀時点での無名な存在に関する祖先の奉仕の記録は、著名な人物の記録にすり替えられている可能性です。 先代旧事本紀や古語拾遺の存在が示すように、八世紀以降の天皇制の中では、どのように祖先が八世紀における天皇系図上の有力者に関わるかが、その氏族の地位に大きな影響を与えたため、本来は別人の記録が既存の天皇紀に流れ込んでいるのです。

応神紀仁徳紀もそのようにして成立している可能性があります。 特に仁徳紀は没年が二十年引き延ばされていることは説明しましたが、それを除いても在位六十七年と長く、しかも即位五十八年庚午年の呉使の記録が、応神四十一年庚午年の呉使の記録と同じものであるとすると、この間に一運六十年の期間があり、仁徳紀に何らかの年次操作が加えられたと考えられます。 単純な治績空白期間ではなく、何らかの記録が差しはさまれていると思われます。 これも神功紀分析に際して改めて考えてみたいと思いますが、その際には426年の政変の意味もまた解明したいと思います。

参考文献

  1. 日本書紀 岩波文庫(二)
  2. 全現代語訳 日本書紀 宇治谷孟 講談社学術文庫
  3. 維基文庫 三国史記
  4. 漢籍電子文献資料庫
  5. 日本書紀検索
  6. 国史大系
★註8.1.[戻る]

続日本紀宝亀三年四月丁未 正四位下近衛員外中将兼安芸守勲二等坂上大忌寸苅田麻呂等言。「以檜前忌寸。任大和国高市郡司元由者。先祖阿智使主。軽嶋豊明宮馭宇天皇御世。率十七県人夫帰化。詔賜高市郡檜前村而居焉。凡高市郡内者。檜前忌寸及十七県人夫満地而居。(以下略)」

★註8.2.[戻る]

続日本紀延暦四年六月癸酉 右衛士督従三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。「臣等本是後漢霊帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因神牛教。出行帯方。忽得宝帯瑞。其像似宮城。爰建国邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東国有聖主。何不帰従乎。若久居此処。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。帰化来朝。是則誉田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣旧居在於帯方。(以下略)」

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