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三韓の対中交涉とその性格

この論文は尹龍九氏論文の日本語翻訳です

I. はじめに

魏志東夷伝は、3世紀前半に古代国家が形成された過程にあった様々な社会集団の生活像を比較的詳細に伝えている。曹魏が高句麗をはじめ東中国地域の経略から得た知見を史料としたものである。そのため、東夷伝には曹魏との交渉と紛争記録が多く含まれている。曹魏の東夷経略が、三国をはじめ交涉の古代諸政治勢力の成長に及ぼした影響は多大なものだった。(註 001)

曹魏の東夷経略については早くから関心の対象となってきたが、具体的な研究は意外に少なく、池内宏の論考が唯一である。(註 002)これは東夷経略の前後背景や意味に対する説明なしに、単に経路を復元したものだった。すなわち、曹魏は242年高句麗の西安平県攻撃を契機に244年高句麗の丸都城を陥落させ、その翌年に再度高句麗とその支配下にあった東沃沮を服属させ、北に挹婁と扶餘を迂回して曹魏の国勢を誇示する一方、南にはを征伐したがその戦役が終わろうとした246年頃辰韓八国分割に反対した韓の帯方軍攻撃につながるという理解がそれだ。

このうち高句麗方面(沃沮、東濊を含む)の経略については特別な異論がないが(註 003)、帯方郡攻撃事件を巡る韓魏間の紛争は見解の違いが激しい。韓魏紛争が伯済をはじめとする三韓社会が古代国家に成長する上で韓の画期と見なされ(註 004)研究者の関心は高いが、これを説明する関連史料の内容が断片的であることに加え、語言まで難解なためだ。しかしこれまでの分析や見解にも問題があると見られる。 第一に、韓魏紛争を記録した史料と既往の研究に対する検討が十分でない点だ。広く知られているように帯方郡攻撃の主導勢力を表した「臣智激韓忿」という魏志(東夷伝韓条)の一句が混同されたためだ。しかし、いざ字句の混乱がどこに原因があり、復元する余地はないのかについての議論は行われず、自意的解釈にとどまっている。関連論考においては、先行研究との差別が曖昧なことが問題とされる。韓の帯方郡攻撃を專論した成合信之の研究(註 005)に言及した論考がないことが端的な例になるだろう。

第二に、韓魏紛争を曹魏が東夷経略に乗り出すことになった背景と関連付けて理解していない点だ。韓魏紛争は、郡県と土着社会の問題だけでなく、曹魏の対外政策とそれによる東夷経略の延長線で理解する時、その意味の把握が可能だと考えられるためだ。本稿の第3章で、三国(魏・呉・蜀)鼎立期、曹魏の対外関係推移を通じて東夷経略の背景を調べた理由だ。 第三に、曹魏が東夷社会に行った経略方式に違いがあり、この時、三韓をどのように認識したかに対する考慮がなかった。曹魏が三韓を攻略するにあたって何を期待し、さらには韓魏紛争の発端になった辰韓八国分割がどんな意図の下に試みられたのかをきちんと説明できなかった理由もここにある。そのために第4章で曹魏をはじめとする三国の異民族支方式を概観し、これが三韓など東夷地域ではどのように現れるかを探ってみようと思う。 これをもとに第5章では、韓魏紛争の経緯と意味を探ることによって、3世紀前半の「三国」の「交涉(曹魏)」に対する理解を広げたい。

(註 001)
    李基白、「3世紀東アジア諸国の政治的発展-魏の東侵と関連して」(『韓国古代政治事会史研究』一潮閣、1996)pp.42~47。

(註 002)
    池内宏、「曹魏の東方経略」(『満鮮地理歴史研究報告』12、1928;『満鮮史研究』上世1版、吉川弘文館、1951)pp.251~293。これに附論で書かれている(pp.281~288)「毌丘倹の高句麗征伐に関する三国史記の記事」と、この他に「公孫氏の帶方郡設置と曹魏の楽浪・帶方二郡」(『史苑』2-6、1929;前掲書、pp.237~250)も池内宏の論旨を理解する上で参考になる。

(註 003)
    もちろん和田淸の批判がある(「魏の東方経略と扶餘城の問題-高句麗に関する二征戦」、『東亞史研究ー満洲篇』東洋文庫、1955、pp.22~32)。批判の主旨は、第2次高句麗征伐の際、王頎の軍隊が北沃沮から北に肅愼氏国である挹婁を通過し、再び西に満州の奧地を大迂回し、哈爾浜方面阿城にあった扶餘を経略した後還師したという問題だ。扶餘の位置を松井などの見解により、農安・長春一帯と見て、池内宏の見解が誤りであることを指摘した。これとは異なり、王頎の北沃沮進出は、咸鏡南文川に比定される買溝を、北沃沮の一名である置溝婁と誤認し、誤った記事を魏志の撰者がねつ造したためという見解もある(李丙燾、「魏の侵略」、震檀学会編、《韓国史-古代』乙酉文化社、1959、p.330)。しかし、二つの見解とも池内宏が復元した東方経略の経過をほとんど追従していることには違いがない。

(註 004)
    李丙燾、「百済の興起と馬韓の変遷」、同書、pp.347-350。

(註 005)
    成合信之、「三韓雜考-『魏志』韓伝にみのえる韓の帯方郡攻撃事件をめぐって」(『院大院史学』11、学習院大学史学会、1974年)pp.10~26。

II.史料と既存研究

韓の帯方郡攻撃と関連した史料は広く知られている通り次の3種類がある。

A-1.景初中 明帝密遣帯方太守劉昕・楽浪太守鮮于嗣 越海定二郡 諸韓国臣智加賜邑君印綬 其次與邑長 其俗好衣幘 下戸詣郡朝謁皆假衣幘 自服印綬衣幘千有余人①部従事呉林以楽浪本統韓国分割②辰韓八国 以與楽浪 吏訳伝有異同 ③臣智激韓忿 攻帶方郡崎離営 時太守弓遵・楽浪太守劉茂興兵伐之 遵戦死 二郡遂滅韓(註 006)

A-2.正始七年 春二月 刺史毌丘倹討高句麗 夏五月 討濊貊 皆破之 韓那奚等数十国 各率種落降(『三国志』4、斉王芳紀)

A-3.十三年 秋八月 魏幽州刺史毌丘倹與楽浪太守劉茂朔方太守王遵 伐高限麗 王乗虛遣左将真忠 襲取楽浪辺民 茂聞之怒 王恐見侵一還其口(『三国史記』24、百済本紀 古尒王条)

すなわち、曹魏は楽浪・帯方二郡を回復した後、三韓内の土着勢力に印綬衣幘の賜与を通じて個別接触する一方、部従事呉林をして辰韓八国を楽浪郡に配属させようとしたが、これの施行過程で誤解が生じ、韓が帯方郡の崎離営(黄海道平山郡仁山面麒麟里一帯)(註 007)を攻撃して帯方太守を戦死させたが、郡県が反撃するやついに'滅韓'したという。滅韓の韓が三国全体を指し示していないことは明らかだ。そこでA-2の「韓那奚等数十国各率種落降」と、A-3の「之怒王恐見侵御還其口」を'滅韓'の実状として理解しているところ、(註 008)この事件を正始七年(246)頃に起きたと見る理由だ。

ところでA-2の「韓那奚等数十国 各率種落降」とした記録が'滅韓'の実際の内容ならば、同書から脱落したことは疑問だ。またA-3の三国史記記録は百済がこの事件にかかわっていることを明らかにしているが、これに従えば帯方郡攻撃の主体とその結果に対して史料A-1とは相反する解釈が可能だ。

このような論議は基本的にA-1の記録(①~③)が難解なところにある。かつて部従が郡従の誤りだという見解(註 009)から、この記事が馬韓を説明する内容に入っているので、辰韓八国を馬韓八国と見て(註 010)、古朝鮮の位置を京畿北部に比定し、記録を矛盾なく理解しようとした研究(註 011)は広く知られたところだ。しかし、部従事は刺史部所属の州吏として~州部~郡従事が正式職名であるので、(註 012)'部・郡'の字句は論議が不必要なものだった。辰韓八国の問題も三国志諸版本やこれを引用した文献に馬韓八国と表記した例がないだけでなく、辰韓が京畿北部を含むという見解もまた、これを嶺南地方に比定する学界一般の研究と見る時に受け入れ難いものだ。

したがって帯方郡攻撃の主導勢力を表した「臣智激韓忿」の字句に対する議論が問題解決を難しくする主な要因だ。したがってこの記録は早くから関連研究者らの検討を経ることになり、そうした中で概して次のような二つの見解が提示されてきた。

㈀通行本(明毛氏汲古閣十七史本)魏志の「臣智激韓忿」という字句をそのまま認め、「臣智」が韓人を激怒させ帯方郡を攻撃したと見る見解だ。この時、臣智の実体は辰韓渠帥説(註 013)、史料A-3にともなう百済古尒王説(註 014)、そして馬韓辰王説(註 015)に分けられる。

㈁「臣智激韓忿」の記録が百衲本(南宋 紹興本)魏志には「臣幘沾韓忿」と表記されているが、この時「臣幘沾韓」は馬韓の「臣濆活国」を指すという見解(註 016)だ。すなわち憤激した臣濆活韓国が帯方郡を攻撃したということだ(註 017)。近来、これに続いて臣濆活国が辰王連盟の主要構成体であり、これの立場で帯方郡を攻撃したと見る研究(註 018)がある。

それでは、このうちどちらの見解が正しいのだろうか? 現在、国内学界では㈀の百済古尒王説(註 019)が、日本では㈁の見解が通説として位置していることが明らかになっているが、通行本の刊本の「臣智激韓」とした字句を紹興本(註 020)により「臣濆活韓」の誤謬と見ることが議論の出発点とされている。それは「臣智激韓忿」という時の語義解釈の困難も問題だが、これが明代以後の別本でのみ見られるという点だ(註 021)。反面、紹興本魏志は百衲本に収録された善本であり現存最古の版本だ。もちろん紹興本による見解もすでに指摘(註 022)された通り、連続して字句の誤謬を認めなければ成立できないものだ。事実、刊本は写本に比べて誤謬の可能性を大きく減らしたが、一度誤ったことが繰り返される問題がある。しかも宋代以来の魏志版本は全て崇寧末~大観年間(1,102~1,110)の矯正を経た国子監本系統に属しており、別本による問題はないという(註 023)。魏志諸版本の対校としては陳寿本来の字句を復元するのに限界があると考えられる。

ここで一つの方法は、魏志東夷伝を引用した文献との比較だ。唐宋時代の文献には魏志東夷伝を収録したものが少なくない。これは写本の伝写であるか、今では珍しくなった初期刊本の姿を見せるという点で注目される。特に魏志東夷伝を節文(註 024)ではなく全文そのまま収録した場合がそうだ。これと関連して筆者が注目する史料は通志だ。

通志は南宋 紹興31年(1、161)に鄭樵(1、104~1、162)が著した紀伝体通史である。『通志』194、四夷伝 東夷 馬韓条には(註 025)馬韓の「臣濆活国」が「臣濆沽国」と表記されているのをはじめ、韓魏紛争についても

B. 景初中 明帝密遣帶方太守劉昕·楽浪太守鮮于嗣 越海定二郡 諸韓国臣智加賜邑君印綬 其次與邑長 其俗好衣幘 下戸詣郡朝謁 皆假衣幘自服印綬衣幘千有余人 部從事呉林 以楽浪本統韓国分割辰韓八国 以與楽浪 吏訳伝有異同 臣濆沽韓忿 攻帶方郡崎離営 時太守弓遵·楽浪太守劉茂 興兵伐之 遵戦死 二郡遂滅韓

に示すように、百衲本(南宋紹興本)および通行本(明汲古閣本)と同文である。通志が魏志のこの字句を忠実に転載したことがわかる。ところが、通行本の「臣智激韓忿」だけは、百衲本の「臣幘沾韓忿」に類似した「臣濆沽韓忿」として記録されており、明確な差異を示している。馬韓諸国名を併記した部分でも、通行本の「臣濆活国」ではなく「臣濆沽国」と表記されていることがわかる。通志の記録は、これに収録された魏志東伝の記録の性格や、同時期の文献で同じ例をもう少し考究してみるべきだが(註 026)、「臣智激韓」を紹興本により「臣濆活韓」と見てきた㈁の見解が妥当なものであることを推測する上で大きく参考になる。

こうして見ると、「臣智激韓忿」をそのまま認めて「臣智」の実体を明らかにしようとした㈀の見解には従えないだろう。しかし、筆者は㈁の見解に従うが、これを全面的に納得するわけではなく(註 027)㈁の見解でも参考にすべき点が少なくないと見る。

まず、㈁の見解(註 028)で「臣智激韓」が「臣濆活国」に該当することは指摘されたが、本来の表記を提示できなかったが、今や上記の検討を通じて「臣濆沽国」が原文に近いものと考えられるという点である。(註 029)前者が明清代刊本に見られるのに対し、後者は通志をはじめとする宋代の一致した表記であるためである(註 030)

第二に、やはり㈁の見解で臣濆沽国を目支国辰王に所属して(あるいは辰王連盟体を構成する指導的地位に)あるという説明(註 031)は従うのが難しい。このように見るのは

C-1.(馬韓)…辰王治月支国 臣智或加優呼臣雲遣支報安邪蹴支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之号 其官有魏率善邑君・帰義侯・中郞将軍・都尉・伯長

C-2.辰王治目支国(目)支国置官亦多 曰臣智(『翰苑』蕃夷部 三韓条所引「魏略」(註 032)

史料C-1をすべて辰王に連結された内容と理解するためだ。C-2があたかもC-1の'辰王治月支国臣智或加優呼…其官あり…の3句を連結されたように見せる。ここに「安邪蹴支濆臣離兒不例」を「安邪蹴支、濆臣離兒不例」と言い切って、濆臣を臣濆が倒置されたと見て(註 033)、これを臣濆活国の臣智(離兒不例)だということだ。不確かこの上ない翰苑に引用された魏略逸文を持って、C-1の3句を連結されたと見ることも難しいが、「安邪蹴支離兒不例」の濆と臣の間を切り取って読む見解(註 034)も少なくないだけでなく、たとえそれに従っても濆臣が臣濆の倒置という根拠が提示されなければならないだろう。現在の魏志諸版本とこれを引用した通志などにはすべて濆臣と表記されている。

第三に、見解の中で百済古尒王説の根拠となってきた三国史記の記録は、韓魏紛争を理解するのに参考になるという点だ。もちろん三国史記に記録された中国との交渉記事については一般的にその信憑性を置いていない(註 035)。だからといって造作と附会でしか見ることは難しく、たとえ巷談俗説であっても「古記」等の独自の所伝には従っただろう(註 036)。したがって史料A-3の記録から見る時、百済が韓魏紛争にどんな形であれ参加したことは明らかだ。ところがA-1を含めて魏志韓伝のどこにも百済を明記した記録は見当たらない。帯方郡攻撃を巡る韓魏紛争の中心に百済がなかったということを言っているのだろう(註 037)

第四に、史料A-2の「韓那奚等数十国各率種落降」は、韓魏紛争と直接関連させにくいという点である。便宜上、史料A-2を再度見ることにする。

正始七年 春二月 幽州刺史毌丘倹討高句麗 夏五月 討濊貊 皆破之 韓那奚等数十国 各率種落降

先入観なしに見るならば「韓那奚等数十国 各率種落降」は前の文章と連続したものと理解される。すなわち高句麗と濊貊を全て打ち破ったら韓那奚等数十国が曹魏に降伏したという。東夷韓条に関連記録がない理由と見える。ところが毌丘倹の高句麗、濊貊征伐の結果は他の記録にも見つけることができる。

D-1.(正始)六年 復征之 宮遂奔買溝 倹遣玄菟太守王頎追之 過沃沮千有余里 至肅愼氏南界 刻石紀功 刊丸都之山 銘不耐之城諸所誅納八千余口 論功受賞 侯者百餘人(『三国志』28、毌丘倹伝)

D-2.(東沃沮)…毌丘倹討句句麗 句麗王宮奔沃沮 遂進師撃之 沃沮邑落皆破之 斬獲首虜三千餘級

D-3.(濊)…正始六年 楽浪太守劉茂 帯方太守弓遵 以領東属句麗 興師伐之 不耐侯等挙邑降

すなわち、D-1に「諸所誅納八千余口」と記されているのは、A-2と同様に一連の東夷経略の結果を略述化したものであり、その下の「斬獲首虜三千余級」・「不耐侯等挙邑降」なども対象・規模が異なるだけであり、「韓那奚等数十国各率種落降」という記録と同じ表現といえる。降伏の内容は、事実上、郡県に朝貢するものだった。各率種落とは、朝貢者が率いる戸口数と居住区域を描いた地図、すなわち図籍を提出したことに対する常套的表現であるためだ。したがって、従来のA-2を曹魏との戦争に敗れ、土着社会が降伏した結果と理解したことは誤りである。

一方、韓那奚を「韓の那奚」と読んできた点にも疑問がある。魏志では東夷諸族を表現する際、小水貊・狗邪韓国・不内濊侯・臣濆沽韓のように、地域名+種族名で表したものが一般的であるためだ。もちろん「韓の那奚」と見ることが不可能な読法ではない。実際、日本学界は那奚を辰韓十二国の一つである冉奚国に規定してきた(註 038)。しかし、これは魏志諸版本はもちろん、これを引用した通志・太平御覽・冊府元龜などに混用なしにそれぞれ表記されており、従うのが難しい(註 039)。したがって史料A-2は曹魏の東夷経略を総括する記録の一つであるだけに、その意味を諸々考究することや全的に韓魏紛争と関連付けて理解することは検討を要する問題と思われる。

以上で見たように、韓魏紛争については史料A-1とA-3程度がその実体を伝えている。そしてA-1の「臣智激韓忿」は「臣濆沽韓忿」と訂正されるべきであり、A-3に見られる百済の活動が韓魏紛争の中心ではなかった。魏志韓伝には馬韓54国の名前を羅列し、臣濆沽国と伯済国を7~8番目に書いている。韓伝に見られる馬韓諸国の国名は、臨津方面から次第に南につながるように並べて記載されている(註 040)。だとすれば、韓の帯方郡攻撃は臣濆沽国(註 041)が主導したが、百済国のように馬韓北部の土着社会の中にはこれに参加したケースもあると考えられる(註 042)

(註 006)
    『三国志』30、東魏志伝 韓条。以下本文で魏志 東夷伝を引用した場合、典拠を表示しない。

(註 007)
    李丙燾、「三韓問題の新考察4-辰国及三韓考」(『震檀学報』5、1936)p.116。

(註 008)
    池内宏、前作、P 247。

(註 009)
    池内宏は、部従事を郡従事の誤記と見て、これを帶方太守の従事官とした(同書、p.244)。

(註 010)
    辰韓八国を馬韓八国の誤記とする見解は古くからあり(樋口隆次書、「朝鮮半に於ける漢四郡の彊域及沿革考-五回」、『史学雜誌』23-5、1912、pp.506~507)、近年繰り返されたことがある(千寬宇、「韓伝の再検討」、『震檀学報』41、1976;『古朝鮮史・三韓史研究』一潮閣、1989、p.241年4月24日)。

(註 011)
    李丙燾、「真番郡考」(『史学雜誌』40-5、東京大学史学会、1929)p.79。

(註 012)
    郡従事については以下の文を参照した。
    厳耕望、「従事郡歷史」(『上編地方行政制度史-研究3』魏晋南北朝地方行院度史上冊、中研究院語言日本所、1963)pp.145-151。政制 楊鴻年、「州従事」(『韓魏叢考』、1985)pp.268~270。出版
   

(註 013)
    池内宏、前書、p.245;李丙燾、前書(註 1936)p.117。
    しかし、二つの見解は、辰韓の位置をめぐって池内宏は通常の嶺南で、李丙燾は漢江以北に比定して違いがある。最近、辰韓八国を春川から南に忠州に至る中部地域と見て、韓魏紛争を辰韓が主導し、春川に進出しようとしていた百済が参加して起こしたと見る見解もある(崔海龍、「辰韓連盟の形成と変遷-下」(『大丘史学』53、1997、pp.5~6)。帯方郡攻撃は韓国臣智が主導したというが、臣智が誰なのかは明らかにしなかった。

(註 014)
    千寬宇、前掲、p.242。
    古尒王説はよく李丙燾の創見として引用されたりするが、これは誤りだ。すなわち、李丙燾は韓魏紛争は辰韓と楽浪・帯方との争いであり、以後の辰韓は滅韓という表現どおりに混乱に陥ったという。扶餘系の流移民として辰韓の一部族であった百済が、韓魏紛争による混乱に乗じて漢江以北の辰韓を統合し、建国の基礎を用意したという。彼は古尒王代の百済が韓魏紛争に参加したことを示す三国史記の記録(史料A-3)は、楽浪・帯方太守がを征伐したという三国志の記事によって附会されたものとして考慮する価値がないと言ったこともある(同書、pp.116~117;「百済の興起と馬韓の変遷」、同書、1959、p.347;「百済の建国と馬韓勢力の変動」、『韓国古代史研究』博英社、1976、p.473)。

(註 015)
    三上次男、「南部朝鮮における韓人部族国家の成立と発展」(『古家東北アジア史研究』吉川弘文館、1966)p.109。
    盧重国、「目支国に対する一考察」(『百済論叢』2、百済文化開発研究院、1990)p.83。
    しかし、辰王といっても、三上次男は2世紀末から3世紀初頭に出現し、一時三韓社会を統括した辰国の王とした見方であるのに対し、盧重国は目支国臣智として馬韓連盟の盟主程度と理解している。また、後者が百済国がいかなる形であれ韓魏紛争にかかわったと見る点でも、これを認めない前者とは異なる。

(註 016)
    「臣智激韓 宋本作臣幘沾按上文有臣濆活国 疑幘濆其一有譌」(朝鮮史編修会編、『朝鮮史』1編3巻:支那史料、朝鮮總督府、1933、別錄p.38頭註)。よく末松保和の見解(「新羅国考」、『新羅史の諸問題』東洋文庫、1954、後註65.pp.518~519)を創見のように理解するが、これは上記の按語を祖述したものである。

(註 017)
    末松保和、上の文。
    栗原朋信、「邪馬台国と大和朝廷」(『史觀』 70, 1964;『上代日本對外關係の硏究』、吉川弘文館、1978)p.129。
    山尾幸久、「『魏志』倭人伝の成立」(『魏志倭人伝』、講談社、1973 3 edition)p.24。

(註 018)
    成合信之、前文、P 11、23。
    井上幹夫、「魏志東夷伝にみえる辰王について」(竹内力三博士古稀記念会編、『竹内力三杯古稀記念続律令国家と貴族社会』吉川弘文館、1978)p.623。
    武田幸男、「三韓社会における辰王と臣智下」(『朝鮮文化研究』4、東京大学東洋文化研究所、1996)pp.17~18。
    井上幹夫と武田幸男の論文は、すでに成合信之によってほとんど言及されているが、注記なしに自説と述べられている。

(註 019)
    李基東、「貴族国家の形成と発展」(『史講座-古代』一潮閣、1982)p.135。
    クォン・オヨン、「百済の成立と発展」(『韓国史』6、国史編纂委員会、1995)pp.30~31。
    李基白、前文、P.46
    李鍾編、「『三国志』韓伝 政治関係記録の史料的価値とその限界」(吉玄益敎授停年紀念史学論叢刊行委員会編、『吉玄益敎授停年紀念史学論als』、1996)pp.378~381。
    文案、「百済の対中国郡県関関係一研究」(『伝統文化研究』4、朝鮮大学伝統文化所)pp.164-168。
    李賢恵、「3世紀の馬韓と伯済国」(『百済の中と地方』、忠南大学百済研究所、1997)p.21。
    金秀泰、「3世紀中・後半の百済の発展と馬韓」(『馬韓史研究』、忠南大学校出版部)p.192。
   

(註 020)
    本書では、1937年の上海商務印書館 縮印の四部叢刊初編本を参考にした。

(註 021)
    通行本である明毛氏汲古閣十七史本をはじめ、清乾隆武英殿付考證本(中華書局輯「四部備要本」18、1989年初版、北京、p.363)にも同文の記録がある。よく知られている通り、武英殿本は明北監敖文禎刊本を底本としたものである(井上幹夫、「三国志の成立とそのテキストについて」『季刊邪馬台国』18、1983、p.168)。

(註 022)
    李賢恵,前記文,年25。

(註 023)
    尾崎康,「三国志」(『正史宋元版の研究』汲古書院、1989)pp.314~343。

(註 024)
    これまでも、翰苑の注文と太平御覽に引用された魏志逸文が魏志東夷伝の理解に使われてきた。しかし、これはいちいち原文を見て書いたものではなく、すでに繰り返されてきた写文を再び移しながら絶文され、あるいは改文されたものであった。これについては尹龍九、「3世紀以前の中国歴史書に現れた韓国古代史像」(『韓国古代史研究』14、韓国古代史学・、1998、pp.142~144)で言及している。

(註 025)
    『通志』194、東夷伝 馬韓条(『万有文庫十通本通志』第3冊、中華書局、1990 2版、北京、pp.3106-3107)。

(註 026)
    これと関連して注目されるのは、南宋以来、正蜀僞魏に立脚して再編された三国志の記録である。12種が刊行されたと伝えられているが(蔡東洲「宋儒的僞蜀正魏争與編修『三国志』之風」、『四川師範学院学報』1993-5、pp.104~110)、その中の一つである1260年に郝経が賛美した続後漢書にも魏志東夷伝がほとんどそのまま収録されていることを見るものである。現在、現在扶餘・高句麗・濊以外は闕文であるが(『続後漢書』81、東夷列伝;「新編叢書集成」111、新文豊出版公司、1984、元太、pp.652~654)、この時期に再編された三国志の記録は、通行本魏志東夷伝の字句異同を比較する史料として注目される。

(註 027)
    例えば、末松保和が帯方郡を攻撃したのは臣濆沽国だが、紛争の主体は辰韓だと見たものとか(前掲、p.131)、栗原朋信の場合「臣智激韓」を「臣濆活韓」の誤りとしながらも、一方で臣濆活国の臣智が帯方郡を攻撃したと見た点(前掲、p.83)などだ。辰韓は紛争の発端になったが、これに参加した痕跡がなく、臣智激韓は臣濆活(沽)韓の誤字であるか、臣智がどうであったか、どちらかと見なければならないためだ。

(註 028)
    成合信之、前文、p.11;井上幹夫、前文、1978、p.622;武田幸男、前文p.17。

(註 029)
    ㈁の見解の中には山尾幸久のように臣幘沽国(あるいは臣濆沽国)とした研究もある。

(註 030)
    すなわち、臣濆活国は名毛氏汲古閣十七史本と清乾隆武英殿本に見られ、臣濆沽国は北宋咸平国子監本(1003)をはじめ、南宋紹興本(1131~1161)および同じく南宋 通志 東夷伝(1161)に確認されている。唐代翰苑 百済条所に引く「魏志」には臣濆沾国とされているが、これもまた臣濆活国よりは臣濆沽国に近い表記とされている。北宋咸平国子監本の表記は清 盧弼撰, 『三国志集解』30、東夷伝韓条臣濆活国分注を参照した。

(註 031)
    成合信之、前文、p.13;井上幹夫、前文(註 1978)、p.623;武田幸男、前文p.17。

(註 032)
    湯淺幸孫校釈、『翰苑校釈』(国書刊行会、1983)P.60。

(註 033)
    濆臣が臣濆の倒置という見解で栗原朋信の研究(前掲、p.129)を挙げているが、すでに李丙燾が指摘したものであった(「三韓問題の新考察 3-辰国及三韓考」、『震檀学報』4、1936、p.57)。

(註 034)
    かつて白鳥庫吉が「安邪蹴支濆、臣離兒不症例」として見ており(「韓の朝鮮四郡疆域考」、『東洋学報』2-2、1912;『白鳥庫吉全集』3、岩波書店、1970、p.318)、近ごろ全榮は「安邪・蹴支濆、臣離兒・不例」と切り、支濆を優呼として見たことがある(「百済南方境域の変遷」、『千寬宇先生還曆紀念韓国史学論叢』、正音文化社、1985、p.139)。

(註 035)
    池内宏、「毌丘倹の高句麗征伐に関する三国史記の記事」、前掲、pp.281~288。
    坂原義種、「『三国史記』百済本紀の史料批判-中国諸王朝との交涉記事を中心に」(『韓』4-2、1975;『百済史の研究』塙書房、1978)pp.81~82。
    坂原義種によれば、三国史記の中国関連記事には百済側所伝は見られず、いくつかの中国史書を中心に適当に挿入したに過ぎないという。

(註 036)
    李丙燾は、三国史記高句麗本紀、東川王条に毌丘倹の侵入に対抗した東部人 密友と紐由の奮戦記録は、魏志の内容を補足する価値があるとされている(前掲、1959、p.330)。近年、探津行德によれば、三国史記編者は中国史料を無作為に転載したのではなく、一定の原則の下に作成されたという。つまり中国資料を基礎としながらも他の資料は問い合わせを乱さない範囲で追加し、該当国と関係のない部分は省略し、古記を重視したということだ(「『三国史記』紀載大中国関係記事についてーその検討のための予備的考察」、『院史学』27、院大日本学学史、1990、p.60)。

(註 037)
    万一、百済が帯方郡攻撃の主導勢力ならば、郡県の反撃で'滅韓'された対象も百済になるので、これから見れば百済の古代国家として成長を説明しにくくなる、かつて李丙燾,前文(1936)は韓魏紛争を体験して百済が国家的成長をしたと見ながらも、百済の参加を知らせる史料A-3を操作と見たかと思えば、盧重国(前文)が目支国を主導勢力と見て百済の参加を低く見たこともこれを念頭に置いたものといえる。

(註 038)
    池内宏以来の通説だ(前掲、pp.247-248)。

(註 039)
    このほか、韓魏紛争が郡県に近接した馬韓が中心となって起こったという立場から、那奚を馬韓の小国と見る見解もある。すなわち、翰苑百済条に引用された魏志逸文に「不斯濆那奚他馬国」の那奚を韓那奚と見るのである(橫山貞裕、「魏と邪馬台国との関係について」、『国士館大学幸孫紀要』8、1976、p.84)。しかし、翰苑の逸文は錯誤であることが明らかである。すなわち「濆邪・奚他・(乾)馬国」を表したものだからである(湯淺幸孫、前掲書、p.100)。

(註 040)
    千寬宇、「馬韓諸国の位置試論」、前掲、p.376。

(註 041)
    千寬宇は臣濆沽国を京畿道加平に位置づけた(同書、p.417)。

(註 042)
    韓魏紛争の影響は程度の差はあるだろうが、三韓全体に及んだだろう。韓魏紛争の影響は程度の差があるだろうが、三韓全体に及んだだろう。 しかし、紛争に直接関与した勢力の範囲は広くなかったとされる。 早くも那珂通世も三韓全体ではなく、曹魏に叛乱した勢力だけを指すと見たことがある(「楽浪玄菟帯方考」『史学雜誌』5-4、1899;『外交繹史2-朝鮮古史考』岩波書店1915、p.81)。もちろん、韓国全体(三上次男)あるいは辰韓が関与したと見る見解(池内宏)があり、最近は弁韓までが直接参加したという研究も見られる(白承玉『3~5世紀伽耶南部諸国(加耶南部諸国)』『加耶文化遺蹟調査及び整備計画』伽耶大学伽耶文化研究所1998、p.128)。

III.東夷経略の背景

2世紀後半、地方軍閥が台頭し後漢社会を統制力不能状態にしていき、続いて魏蜀呉 三国の定立と抗争は東アジアの国際秩序を変えた。(註 043)特に曹魏をはじめとする三国は共に自国内の開発と辺境郡県組織の回復を図る一方、周辺が民族社会にも積極的に進出していることが注目される。この時期、異物志類の文献が急増したのも(註 044)まさにこの民族社会に対する関心とそれにともなう知識の拡大にある。

三国が辺境地帯と異民族居住地の開拓に腐心したのは、何よりも後方が安定してこそ相互間の抗争に総力を傾けることができるためだった。さらに三国は相手の背後にある異民族と軍閥の反乱を扇動したり共に攻撃もしたので、背後地の安定は切実な問題であった。これは呉・蜀(註 045)はもちろん、曹魏の後方も例外ではない。孫呉が229年に遼東の公孫氏と連合して、曹魏を挟み撃ちしようとしたが、公孫氏が消滅した後にも高句麗とこれを企てたことはよく知られた例だ。ところが、これは辺境の軍閥と異民族が自衛のために三国の懐柔を誘引することによって助長された側面も少なくなかった。遼東の公孫氏と高句麗、交趾の士氏政権がこれに該当する。しかも公孫氏は曹魏が呉蜀との抗争に執着する間に遼東から山東半島、そして朝鮮半島西北地方(註 046)に影響力を拡散(註 047)する一方、孫呉の他に鮮卑および扶餘・高句麗を糾合もした。(註 048) 237年の鮮卑の曹魏侵攻は公孫氏の扇動によるものだ。(註 049)

ところで三国の辺境開拓は背後地と安定を期する目的の他に、長期間の抗争で必要とされる軍兵および財源の調達を同時に解決しようとしたものだった。2世紀後半以来続いた戦乱によって住民は孤立し、生産施設は破壊されたためだ(註 050)。曹魏が位置した華北の破壊は酷かった。呉蜀の場合、破壊の程度は低かったが、本来生産施設が微弱なうえに人口や勢力範囲では曹魏より大きく劣勢だったので(註 051)、状態が良いことはなかった。 三国の辺境開拓は、一方の必要から行われたものではなく、相互間の力関関係や周辺民族の動静に大きく影響された。概ね208年の赤壁での敗北で曹魏が南進を止め、222年の夷陵の戦後第2次蜀呉同盟による勢力均衡で戦闘が小康状態すると(註 052)本格的に進められた。

まず、蜀漢は207年、諸葛亮がいわゆる「隆中対策」で提示した「保其岩阻 南撫夷越 外結好孫権」によって、孫呉と連合して曹魏の脅威に備えながら、225年に南夷を征伐して不足した軍兵と財源を確保した(註 053)南夷攻略は、ビルマ方面および西域との交易を活性化し、一方で曹魏の西側進出を遮断する効果も上げた。(註 054) 227年から234年まで5回にわたる蜀漢の曹魏に対する北伐は、これに力づけられたものだった。 孫呉も蜀漢との同盟を通じて曹魏の脅威が鈍化すると、229年から西南の山岳に広範囲に分布した山越を討伐した。そして彼らを平地に移して各種役事に労働力として活用した(註 055)。続いて荊州一帯の武陵蛮に対する支配を強化し(註 056)、 230年以来、夷州(台湾)と亶州(九州の南の列島)等の東南海洋(註 057)と、東北には遼東の公孫氏および高句麗と通交して戦馬を交易し、曹魏に対する挟み撃ちを図った(註 058)。さらに40年近く独立を維持して抵抗した交趾の士燮政權(註 059)を239年に完全に制圧して、南方進出の橋頭堡を確保した。以後、扶南と林邑をはじめとする東南方面に何度も交易使節を派遣する(註 060年)。

一方、曹魏の場合は当初、辺境開拓および異民族社会への進出に消極的だった。それは蜀呉に比べて相対的に国力が充実していただけでなく、かつて207年に烏桓を征伐し、これをいわゆる「三郡烏桓」に再編して軍兵に充員し(註 061)、211年~215年には凉州一帯を開拓して西域と通交する等(註 062)、華北に対する支配力を固めてきたところだ。しかし、続く戦乱で軍兵と財源が枯渇し、ちょうど遼東の公孫氏政権(註 063)と孫呉と通交が頻繁(註 064)になると事情が変わった。そして228年になると遼東を征伐して背後の憂いをなくし(註 065)、不足した財源を確保しようという議論があったが、これに反対して上げた曹植の表文がこの時の事情をよく示している。

すなわち、遼東征服で不足した戦費や軍兵を調達することはできるが、呉・蜀との争いが続く状況ではこれの施行が難しいということであった(註 066)。 しかし、蜀漢は234年に北伐を主導した諸葛亮が病死になってから、国内の安定に重点を置くようになった。言及した通り、孫呉も239年の交趾平定以降、扶南など東南方面への開拓に力を入れていた時期(註 067)だった。これに対して曹魏は235年に東部鮮卑を討伐して西側を安定させ(註 068)ここの兵力を東北に回し、237~238年に遼東の公孫氏征伐(註 069)に乗り出すことになる。しかしこの時にも

E-1.(景初元年七月)幽州刺史毋丘倹上疏曰…「陛下卽位已来 未有可書 呉蜀恃險 未可卒平 聊可以此方無用之土剋定遼東」臻曰.「倹所陳皆戦国細術非王者之事也…且淵生長海表 相承三世外撫戎夷 内脩戦射 而倹欲以偏軍長驅 朝至夕卷 知其妄矣」倹行軍遂不利(『三国志』22、衛臻伝所引「幽州刺史毋丘倹上疏」)

E-2.(延熙元年) 寇難未弭 曹叡驕凶 遼東三郡苦其暴虐 遂相糾結 與之離隔 叡大興衆役 還相攻伐曩秦之亡 勝廣首難 今有此変 斯乃天時 君其治厳 總帥諸軍屯住漢中 須呉挙動 東西掎角 以乘其釁(三国志44、蔣琓伝所引「詔蔣琓屯漢中」)

公孫氏征伐の主将だった幽州刺吏毌丘倹は、蜀呉が隙をついているとして当初これに反対した。実際、史料E-2に見られる通り、蜀では曹魏の主力が遼東征伐に出ると、孫呉と東西掎角に挟撃するために漢中に駐屯しては情勢を観望しているのだ。 曹魏は公孫氏政権を倒した後、楽浪・帯方郡に対する支配力を回復し、三韓など東夷とも通交を再開した。しかし、曹魏が東北開拓に力を注ぐ隙に、242年に蜀漢が蔣琬・姜維をして再び北伐を断行し、遜呉は遼東に派兵して高句麗との連係を試みると、状況が急変する。結局、242年の高句麗の西安平県攻撃を契機に、曹魏は244年から246年にかけて大々的な東夷経略に乗り出すことになる。遼東の安定と東夷との通交を維持しようとしたものだった。さらに東夷と遜呉の連係を遮断し、蜀漢との抗戦に注力する目的もあった。

このように三国は相互間の抗争より自国の安定に注力した230年代以後、競争的に辺境と異民族社会を攻略した。後方安定と戦争のための物力の調達が主な目的だった。そしてその施行は相手の動向を鋭意注視する中でなされた(註 070)。自然敵対国の逆襲や援兵が到着する前に攻略を終えなければならないので、速戦策を使わざるをえなかった。曹魏の東夷経略も例外ではなかった(註 071)。公孫氏政権と東夷経略の主役である毌丘倹と司馬懿が即時呉蜀戦線に配置された(註 072)理由もここにあるのだ。

(註 043)
    三国定立期の各国の政治情勢と対外関係については、次の論稿の整理が参考になる。
    張大可、「三国形成時期的外交」(『三国史記研究』、1988)pp.105-125。出版
    馬植杰、「三国分立局面的確立」(『三国史』、人民出版社、1994)pp.77~93。
    窪添慶文、「三国の政治」(松丸道雄外編、『世界歷史大系 中国史2:三国~唐』、山川出版社、1996)pp.3~28。
    金子修一、「二・三四四紀の東アジア市民界」(平野邦雄編、『古代を考える―邪馬台国』、吉川弘文館、1998)pp.46~68.

(註 044)
    石田幹之蔵、「三国時代に於ける南海知識の增進」(『南海に支那史料』、生活社、1945)pp.45~64。
    内田吟風、「『物産志』考」(『鷹陵史学』3・4合、1977)pp.275~296。

(註 045)
    例えば、曹魏は軍船を南方交趾に送り、そこの軍閥士氏政権と連合して孫呉を攻撃すると、216年には繁陽の山越民を懐柔して反乱を助長した。遜呉もまた西に向かって蜀漢の背後にいる南夷を扇動して、いわゆる「雍孟の乱」を起こし、永易太守まで追い出したことがある。蜀漢の場合も227年に凉州の異民族を、そして231年には東部鮮卑と連合して曹魏を攻撃した。

(註 046)
    後漢末以来荒廃化された楽浪郡の南部に帯方郡を設置したのも、公孫氏が曹魏との安定期にあった時に行われたという見解(松田澈、「遼東公孫氏政権と流入人士」、『麗澤理学紀要』41、1986、p.105)はこれをよく示している。

(註 047)
    2世紀末から遼東半島、山東半島及び朝鮮半島西北地方には、同様の形式の塼室墓が築造されている(谷豊信、「楽浪郡と漢代の山東」、『中国、仙人のふるさと-山東省文物殿』、大阪府立弥生文化博物館図録 13、1996、p.118)から、公孫氏の支配力は勢力内深くまで浸透したものと推測される。

(註 048)
    公孫氏政権が異民族を遮断しながらも、彼らの本格的な流入の端緒を開いたという指摘(谷川道雄、「後漢・魏晋時代の遼西と遼東」、「中国辺境社の歷史的研究」、「昭和63年度科研費報告書、1989」)はこれと関連して参考になる。

(註 049)
    曹魏が背後地を安定させ、孫呉の策動を遮断して東夷攻略を断行したことは指摘されたことがある。
    漥添慶文、「楽浪軍と帯方軍の推移」(井上光貞外編、『倭国の形成と古文献-東アジア時代における史講座3』、学生社、1981)p.39。 金子秀一,前文,p.67

(註 050)
    西嶋定生、「魏晋・南北朝時代の会社と諸諸」(『中国古代の会社と諸諸』、大学出版会、1981)、pp.225-227。
    陳漢玉、「北方古老経済区域的破壊」(『中華文明史4-魏晋南北朝』、河北文育出版社、1994)p.151。

(註 051)
    宮川尙志、『諸葛孔明-『三国志』とその時代』(桃源社, 1966)p.159.三国の国力比較表。

(註 052)
    張大可、「赤壁之戦與三国鼎立」・「夷陵之戦與党三国鼎立的地均勢」、前掲、pp.67~77・91~104。

(註 053)
    呉潔生、「"隆中対"與党三国前期戦略戦南北」(『社会科学』1985-4、蘭州)pp.68~76。

(註 054)
    蜀漢の西南夷経略とビルマ、西域などとの交易活動については次の論考を参考にした。
    重松俊章、「東西交通史上の南と四川」(『史淵』20、1939)pp.128~130。
    宮川尙志、「南中平定」前編、pp.153~155。
    許富文、「蜀漢の南夷経略」(『歷史学報』99・100合、1983)pp.185~213。
    馬植杰、「蜀漢的少數民族」、前掲、pp.346~352。

(註 055)
    高亞、「孫呉開闢蛮越孝-上・下」(『大陸雜誌』7-7;『秦漢史及中古史前期研究論集』、大陸雜誌史学叢書1-4、1960)pp.99~111。
    呂錫生、「山越在東呉立国中的作用」(『季季師範学院学報』、社会博学版、1984-3)pp.63~68。
    周兆望、「孫呉時期江西境内的山越及其対経済開発的貢献」(『争鳴』、1992-3、南昌)。
    馬植杰、「呉国的少數民族」、同書、pp.353-359。
    白翠琴、「孫呉対山越之治理」(『魏晋南朝民族史』、四川民族出版社、1996)pp.409-411。

(註 056)
    谷口房男、「三国時代の蛮について-孫呉の武陵蛮対策を中心として」(『白山史学』15・16合、1970)pp.81~99。

(註 057)
    手塚隆義、「孫權の夷州・亶州遠征について」(『史苑』29-3、1969)。
    白翠琴、「孫呉対夷洲的経営」、前掲、pp.419-421。

(註 058)
    重松俊章、「孫呉の対外発展と遼東との関系」(『九州帝国大学法文学部十周年記念哲学史学文学論文集』、岩波書店、1937)pp.255-283。
    黎虎、「孫権対遼東的経略」(『北京師範大学学報』1994-5)pp.41~47。

(註 059)
    交趾の士氏政権については次の論考がある。
    尾崎康、「後漢の交趾刺史について-士燮をめぐる諸勢力」(『史学』33-3・4合、1961)pp.139~166。
    後藤静平、「士燮-三社紀の越南」(『史苑』32-1、1972)。

(註 060)
    駒井義明、「孫権の南方遣使について」(『歷史と地球論』25-6、1930)pp.545~559。
    杉本直治著、「三国史記における呉世の対南策」(『アジア史研究』Ⅰ、日本学術振興会、1956)。
    渡部武、「朱應・康泰の扶南見聞錄輯本考-三国呉の遣カンボジア使節復元」(『東海大学文学部紀要』43、1985)pp.7~28。

(註 061)
    王錦厚、「曹操三征三郡烏桓之始末」(『秦漢東北史』遼寧人民出版社、1994)pp.145~155。

(註 062)
    曹魏の西域経営については、伊瀨仙太郎の「三国・晋代の西域経営」(『中国西域経営史研究』巖南堂書店、1968再版)pp.95~98参照。

(註 063)
    公印氏政権については次の文が有益だ。
    Ken H.J.Gardiner、『The Kung sun Warlords of Liao tung(註 189~238)』(Parers on Far Eastern History 5・6、1972)pp.59~107・141~202。
    西嶋定生、「親魏倭王冊封切に至る東アジアの政勢-公孫氏政権の興亡を中心として」(『中国古代国家と東アジア時代』、京都大学出版会、1983)pp.469~511。 松田澈、前文、pp.95~115。

(註 064)
    「孫権…比年以来 復遠遣船 越渡大海 多持貨物 誑誘辺民 辺民無知 余之交関 将吏以下 莫肯禁止」(『三国志』8、公孫度伝裴注所引「呉書」「赦遼東玄菟将校吏民公文」)。

(註 065)
    「曄以爲公孫氏漢時所用 遂世官相承 水則由海 陸則阻山 故胡夷絶遠難制 以世権日久 今若不誅 後必生患 若懷貳阻兵 然後致誅 於事爲難」(『三国志』14、劉曄伝)。

(註 066)
    「臣伏以遼東負岨之国 勢便形固 帶以遼海 今輕軍遠功 師疲力屈 彼有其備 所謂以逸待勞 以飽制飢者也 以臣観之 誠未易功也 若国家攻而必剋 屠襄平之城 懸公孫之首 得其地 不足以償中国之費 虜其民不足以備三軍之失 是我所獲 不知所喪也 若其不拔 曠日持久 暴師於野 然天時難測 水濕無常 彼我之兵 連於城下 進則有高城深池 無所施其功 退則有帰塗不通 道路瀣洳 東有待釁之呉 西有伺隙之蜀 呉則荊揚騷動 蜀應西境 則雍梁參分 兵不解於外 民罷困於内 促耕不解其飢 疾蠶不救其寒 夫渴而後穿井 飢而後植種 可以図遠 難以應卒也 臣以爲當今之務 在於省徭役 薄賦斂 勸農桑 三者旣備然後令伊管之臣 得施其術 孫呉之将 得奮其力 若此則泰平之基 家立而待 康哉之歌 可坐而聞 曾何憂於二賊 何懼於公孫乎 今不恤邦畿之内 而勞神於蛮貊之域 竊爲陛下不取也」(『藝文類聚』24, 人部8 諫条所引 「魏陳王曹植諫伐遼東表」)

(註 067)
    渡部武によると、孫呉の南方遣使は243~252年の間に行われたという(前文、P.12)。

(註 068)
    船木勝馬、「三国時代の鮮卑について」(『中央大学文学部紀要』21、1976)pp.63~81。 白翠琴、「軻比能統一漠南及其與曹魏的系」、前掲、pp.37~41。

(註 069)
    曹魏の公孫氏征伐については王錦厚の「漢末公孫氏拠遼與西晋的統一」(前掲、pp.306~322)が詳しい。

(註 070)
    三国が相手や背後軍閥に対する征伐において、周辺情勢を勘案して施行するかどうかが決定されたことは、三国志に散見される。例えば、207年に曹操が遼西の烏桓を打つ時、蜀漢の襲撃を恐れた(『三国志』1、武帝紀、建安12年条)、215年に曹操が蜀を征伐しようとしたが、内部の安定に重点を置いた時だとして中止した(『三国志』21、劉廙伝所忍「上疏諫曹公親征蜀」)。この他にも、公孫淵が孫呉の使節を殺して魏に送り、孫権が激怒して親征しようとした時、目の前に迫った曹魏を置いては不可能だとか(『三国志』57、陸瑁伝所引「諫親征公孫淵疏」)、中国を一にすれば遼東は自然降服するだろうという(『三国志』53、薛綜伝所引き「上疏諫親征公孫淵」)理由で引き止めていることを見る。

(註 071)
    金容範、「魏晋の東北関係」(忠南大学修士学位論文、1986)p.24。

(註 072)
    毌丘倹は豫州刺史(以後、鎭南将軍、鎭東将軍楊州都督)に移って対呉戦線に、司馬懿とその司馬昭の領導下の中央軍は対蜀戦線に投入される。

Ⅳ.東夷経略の方式

三国の異民族支配方式について、蜀漢は懐柔方案で、孫呉が征伐方案を中心に運用したのにのに対して、曹魏の場合はこれを兼ねたという理解(註 073)がある。蜀漢の南夷経略、孫呉による蛮越(武陵蛮と山越)平定および曹魏の鮮卑支配を指したものだ。これに対する優劣論(註 074)に従うのは難しいが、三国の異民族支配が同一ではなかったという指摘には意味がある。経略の対象とした異民族が居住環境と発展の程度において異なり、その支配もまた一律的ではないためだ。 三国が取った異民族支配方式は多様なものだった。まず、地方と種族の特性によって支配を異にした。租界の場合だけ見ても、呉蜀との接境地帯は強力な郡県制を実施し、北方の烏丸は内地に徙民して、いわゆる「三郡烏丸」と呼ばれる軍兵に再編され、鮮卑は懐柔や討伐を経てこれに補充された。西域諸国は朝貢を通じた交易対象として管理した。概して三国は接敵地域、自国の辺境とそれに近接した異民族、そして遠所の異民族社会に分けて支配したようだ。特に遠く離れた異民族社会との通交は、交易上の利害以外にも三国が国勢を誇示しようとする外交的側面で重要視した。

だからといって、地域と種族による支配方式が固定されたわけではない。三国間の抗争が続き、異民族に対する関心と経略の必要が増えたうえに、周辺情勢の変化にも影響を受けたためだ。蜀漢が223年の南夷の反乱を契機に懐柔策で征伐に続き異民族を優待する支配を行ったことや、曹魏が遼東を絶域として放置し、懐柔を経て結局征伐して服属させたことは、これをよく示している。

このように三国の異民族支配が多様かつ変化したが、経略目的とその達成のための方向では同一だった。言及した通り三国は後方に対する敵対国の牽制を防止し、不足した軍需物資と軍兵および労働力を充当し、異民族社会と交易して利権を図った。そのために可能な中央政府が辺郡の運営はもちろん、異民族社会との交涉までも掌握するための措置を取ることになる。既存の郡県組織と在地勢力を通じては、彼らが持つ社会的規制力によって効果を高めることができなかったのだ。これに伴い、既存の郡県の廃置分合と徙民政策を実施し、都督将軍、州刺史および伴易のような領護持節官をして変更に対する統制を強化した。異民族社会に対しては懐柔して交通するか、あるいは征伐を通じて掠奪し、遠距離は使節を送って朝貢させたが、これもまた中間交易層を排除しようとしたものだった。

曹魏が東夷を含む東北に本格的に乗り出すことになった(註 075)背景と目的も、背後の安定と呉・蜀との戦争に必要とされる物力の調達にあったことは明白である。しかし、東夷といっても、これは北方の扶餘・挹婁・高句麗から、南に沃沮・魏・韓が位置する朝鮮半島と海の向こうの日本列島の倭人に至るまでの広域にわたっていた。生活条件と社会発展の程度に差があるのは、魏志東夷伝の叙述に見るところである。しかも、これらの社会は東夷以前に立伝された名稱のように単一の政治体ではなく、その中に多数の勢力集団で構成されていた。したがって、曹魏が東夷を支配した具体的な内容は、当該地(あるいは種族)の特性と攻略目的によって異なっていただろう。

(註 073)
    張大可、「論三国時期的民族政策」(『西北民族学院学報』1986-1;前掲)p.310。

(註 074)
    中国の少数民族政策と関連して、蜀漢の懐柔策を成功した支配方式と見る視角だ。
    朱紹侯、「三国民族政策優劣論」(『河南師大学報』1981-3)pp.36~43。
    張大可,上記文,pp.310-325.
    黎虎、「蜀漢"南中"政策二三事」(『歷史研究』1984-4)pp.153-166。
    汪福寶、「蜀漢千治南中歷史作用的再認識」(『安徽師範大学学報』1990-3年)。
    侯紹庄外、「諸葛亮南征及蜀漢的民族政策」(『貴州古代民族関系史』、貴州民族出版社、1991)pp.91~97。

(註 075)
    曹魏東北地方の事情については次の文が参考になる。
    金容範,前文,pp.13~31.
    大庭脩、「三・四四年における極東の動向」(『古代中世における日中関係史の研究』、同朋舍出版、1996)pp.41~59。
    谷川道雄、前の文。

1.朝貢と互市

漢代以降、中国人と移民の接触は通常、それに近い州郡で行われてきた。時には移民の「内属」、すなわち集団的に投降してきた場合には、彼らを一定の場所に定着させ、いわゆる「領護持節官府」を置いて統治した。(註 076)魏志に伝を立てられた東夷諸族は、幽州部管轄の4つの辺郡(玄菟・遼・楽浪・帯方郡)と接触したことが明らかになった(註 077)。ところが、移民を周辺に置いた辺郡が大体そうであるように、彼ら東夷族はそれぞれ接触した郡県が決まっていた。

F-1.扶餘….本属玄菟

F-2.部従事呉林 以楽浪本統韓国 分裂辰韓八国 以與楽浪

F-3.高句麗…漢時賜鼓吹技人 常従玄菟郡受朝服衣幘 高句麗令主其名籍

F-4.至王莽地皇時 廉斯鑡爲辰韓右渠帥 聞楽浪土地美 人民饒樂 亡欲来降…詣含資県 県言郡(註 078)

扶餘が玄菟郡で、韓は楽浪郡が本来統括したとか、常に玄菟郡に出てきて朝服の本を受け取っていた高句麗人の名籍を高句麗県の県令が主管し、辰韓人廉斯鑡が楽浪郡に投降するとき含資県で受付して郡に報告したことに、それぞれ所属する郡県があったことを見る。

平時、郡県の異民族支配は朝貢を斡旋し、これに合わせて開設された互市での交通を監督することであった(註 079)。朝貢とは皇帝の徳化に感泣して臣下の礼を行う儀式である。したがって朝貢を捧げる者は臣下としての責務が伴う。すなわち臣属の朝貢者は定められた期日に自分または代理人を入侍させ、統率している戸籍の数と領地を描いた図籍を提出し、税金の形で土地の産物を捧げなければならなかった(註 080)。これに対して皇帝は遠路の苦労を慰め、恩徳を施す回賜をすることになる。朝貢はほとんどが該当する辺郡互市や領護官府で行われた。(註 081)ところで詣郡の場合も象徴的には詣闕して天子を謁見することであるから、これにも回賜が続いた。回賜の内容は印綬衣幘の賜与を通じた郡内での交易許可であった。互市はこのために開設した權設市という。

しかし、朝貢とそれによって開設された互市は本来、異民族を効果的に統制するためのものであり、異民族の朝貢は重賞のような交易上の利を図ることにあった。そのため、双方が期待に及ばない場合、これはいつでも変化した。郡県では互市を閉鎖し、異民族も相応の措置を取った。次の史料Gを見てください

G-1.扶餘…本属玄菟 漢末 公孫度雄張海東 威服外夷 扶餘王蔚仇台更属遼東

G-2.高句麗…常従玄菟郡受朝服衣幘 高句麗令主其名籍…後稍驕恣 不復詣郡…至觴安之間…更属玄菟…靈帝建寧二年…伯固降 属遼東 熹平中 伯固乞属玄菟

G-3.(韓国)…部従事呉林 以楽浪本統韓国 分割辰韓八国 以與楽浪 吏訳伝有異同 臣智激韓忿 攻帶方郡崎離営

扶餘の場合、遼東の公孫氏が勢力を広げるにつれ、玄菟から遼東郡に属し、高句麗は玄菟郡への朝貢を拒否し、互市の位置を恣意的に変更し、韓では他の郡県への強制配属に対して強く反発している。

このように朝貢と互市交易による東夷支配には限界があった。仮に運営が円滑であっても、朝貢のような儀禮的な交渉を通じては、東夷経略の目的、すなわち背後安定と戦争に役立つ物力調達を実現することは難しいためである。曹魏の東夷支配は別の措置を取らなければならなかった。

(註 076)
    小林聰、「後漢の民族統御官に関する一考察」(『九州大学 東洋史論集』17、1989)pp.95~115。

(註 077)
    曹魏は238年に公孫氏の勢力を征服した後、平州を新設して東夷校尉府を設置した。しかし、平州はやがて幽州に統合されたが、この時に東夷校尉府も廃止されたようだ。したがって、東夷校尉府は西晉代に復設されるまで明確な活動がなかった。これについては唐国編、「西晋至北魏時期」護東夷校尉「初探」(『中民族愛学院学報』1989-3)pp.3~7参照。

(註 078)
    『三国志』30、東夷伝韓条所引「魏略」

(註 079 黎虎、「魏晉南北朝外交関涉機構-縁辺州郡」(『漢唐外交図史』、蘭州大学出版社、1998)pp.224-241。
    それによると、辺境州郡の「異民族事務」は、接伝使節、接応来使、対外遣使、互通文書、伝賜假授、接応貢献、通互市、締結盟約, 獲取外交情報など、概ね朝貢と関連したものだ。

(註 080)
    小林聰、「漢時代における中国周辺民族の内属について」(『東方学』82、1991)pp.34~38。

(註 081)
    異民族の朝貢が事実上'重賞'を目的としたものであり、特に彼らが'詣闕'する場合'薄来厚賜'しなければならないことはもちろん、朝貢使節の護送と宿泊にともなう経費まで所属郡で負担しなければならなかったので可能な'詣府''詣郡'にしたのだ。

2.分割と操縦

曹魏は東夷社会を専担郡県で朝貢と交通の管掌を通じて支配する方式を取った。しかし、魏志東夷伝にはこれと異なる姿も見られる。すなわち東夷社会を一つの単位として見て支配しようとしていたのではないかと思われる。これによる支配は二方向に進行された。

第一に、濊(あるいは沃沮)を境界として南北に分割して支配することだ。まず、まず南部圈域の場合を見てみよう。

H-1.辰(弁)韓…国出鉄 韓濊倭皆従取之 諸市買皆用銭、如中国用銭…又以給二郡

H-2.倭人…女王国…王遣使詣京都帯方郡諸韓国

史料H-1は辰(弁)韓で産出された鉄の流通範囲を、H-2は倭の女王が行った対外交渉の対象を示すものだ。これによれば東夷の・濊・三韓・倭が楽浪・帯方郡と一つの交易網を形成したことを(註 082)知ることが出来る。

東夷経略が本格化し、南部圏域に対する郡県の交渉範囲も変わった。 つまり、楽浪は濊をはじめとする東・南部陸路交易圈で、帯方郡は西・南海岸と倭地につながる沿岸交易網を専担するように調整したようだ。 帯方郡が水路交通を中心に交渉したことにより(註 083)途絶えたはずの地域への通交を拡大し、これを楽浪郡に担当させることにより衰退した郡県の機能を復旧しようとした措置と見える。

扶餘・高句麗・東沃沮・挹婁で構成された北部圏域は、南部のような明示的な史料は見られない。しかし、彼らに対する民族誌的の叙述は一つの圏域と見るに十分だ。

I-1.扶餘 在長城之北、去玄菟千里…本属玄菟、漢末、公孫度雄張海東、威服外夷 扶餘王蔚仇台更屬遼東

I-2.高句麗 在遼東之東千里 東夷旧語 以爲使句麗別種 言語諸事 多與扶餘同…漢時賜鼓吹技人 常従玄菟郡受朝服衣幘…。伯固降 属遼東 熹平中 伯固乞属玄菟

I-3.東沃沮 在高句麗蓋馬大山之東..其言語與句麗大同 時時小異…漢武元封二年…以沃沮城爲玄菟郡…飮食居拠衣服礼節 有似句麗

I-4.挹婁 在扶餘東北千余里…其人形似扶餘 言語不與扶餘・句麗同…土氣寒 劇於扶餘

上記の史料Iによれば、これら東夷社会は種族はもちろん、地理的環境や言語・風俗においても親縁性があることが分かる。いずれも遼東・玄菟郡と交渉したところから分かるように、一つの貿易権を成していたとされる。これは高句麗をはじめ扶餘・沃沮・邑樓までは毌邱倹の主力軍が攻略し、同時に征伐した濊地域は楽浪・帯方太守に担当させた理由からも見ることができる(註 084)

曹魏は東夷社会を交通圈によって南北に区分し、それぞれ楽浪・帯方郡と遼東・玄菟郡を通じて支配した。交易権は地理・種族・文化などの民族誌的要因によって長い間形成されたものだった。したがって交易権による東夷支配はそれからの衡平な收益の増大、すなわち曹魏が異民族社会の経略で成そうとした物力調達という目的によって施行された支配方式といえる。

第二に、東夷社会を友好・敵対・懐柔・国定対象に分け、支配を別にして分裂との対立を助長することだった。後安定のための支配方式と理解される。例えば

J-1.扶餘…其人…性彊勇謹厚 不寇鈔…歲歲遣使詣京都貢献…(魏略曰) 「其俗停喪…大體の与党、中国の国相彷佛也」

J-2.高句麗…其人性匈 喜寇鈔…常従玄菟郡受朝服衣幘…後稍驕恣 不復詣郡…其俗淫 男女已嫁娶 便梢作送終之 厚葬…

扶餘と高句麗の人性・朝令・喪俗を表した史料Jの記録は、中国人と敵対による記述の違いを示している。これは扶餘が終始友好的関係を維持した(註 085)反面、一方、高句麗は紛争の記事で満たされたのにも分かる。ところが、このような相反する認識は、二つの東夷社会に対する支配方式の違いに起因する。すなわち、後漢末、遼東の軍閥公孫氏が扶餘と'結婚同盟'を結んだことにも見るように、(註 086)扶餘をして高句麗など濊貊諸族に対する統轄を企て(註 087)しようとしたものだった。

扶餘が北部では曹魏に抱き込まれた友好的な相手だとすれば、南部では女王国がこれに該当する。次の史料を見よう。

K.倭人…到伊都国…皆統属女王国 郡使往来常所駐…王遣使詣京都帯方郡諸韓国…景初二年六月 倭女王 遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝献 太守劉夏遣使 将送詣京都 其年十二月 詔書倭女王曰…「…今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帯方太守假授汝」…正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 封詔書印綬 詣倭国 拜假倭王

これによれば、倭には帯方郡から派遣された使節が常住して曹魏との交渉を斡旋し、倭女王卑弥呼の貢献に対しても外臣の爵位としては最高とされる国王号として「親魏倭王」を授与した。さらにこれを帯方郡に直接伝達させることによって、女王国に対する大きな友誼を誇示しているのだ。

異的と言える曹魏の優待は、倭地の様々な勢力集団に対する管理を女王国を通じて実現しようとしたものだが、同時に倭の地理的環境を考慮したためだ。すなわち、孫呉との抗争で供給が中断されたいわゆる南方産物を日本列島から確保(註 088)でき、この一帯に対する曹魏の国勢を誇示して孫呉の海洋進出を牽制しようとした(註 089)ものだった。

このように、曹魏は扶余と倭女王国をを取り込んで、高句麗・孫呉などの敵対勢力の拡張を牽引する一方、周辺の異民族に対して(註 090)通じる者の役割を期待した。 このような延長で友好と敵対勢力に隸屬された集団に対する処理も決定された。

L-1.挹婁…自漢以来 臣属扶餘 扶餘責其租賦重 以黄初中叛之扶餘数伐之

L-2.倭人…詔書倭女王曰."…今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帯方太守假授汝…今以絳地交龍錦五匹、,,又特賜汝紺地句文錦五匹…悉可以示汝国中人"…其八年 太守王頎 到官 倭女王卑彌呼 與狗男王卑彌弓呼素不和 遣倭載邪烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書・黄幢 拜假難升米 爲檄告喩之

L-3.東沃沮…遂臣属句麗…毌邱倹討句麗 王宮奔沃沮 遂進師撃之 沃沮邑落皆破之 斬獲首虜三千余級

L-4.濊…更属句麗…正始六年 楽浪太守劉茂 帯方太守弓遵 以嶺東濊属句麗 興師伐之

すなわち、史料Lに見られるように扶餘に漢代以来臣属してきた挹婁が黄初中(220~226)に過重な収奪に叛亂しても傍観していた曹魏は、高句麗に服属された東沃沮と濊の場合は徹底的に討伐した。これは倭の諸小国に対する女王国の支配権を認め、狗奴国との紛争が起きるや直ちに使節を派遣して与王国に対する支持を誇示したことからも見ることができる。

友好的相手に隷属した集団に対して'放置'した反面、敵対勢力に隷属した集団の場合には濊の場合のように一旦討伐した後に懐柔した。

M-濊…正始六年 楽浪太守劉茂 帯方太守弓遵 以嶺東濊属句麗 興師伐之 不耐侯等 挙邑降 其八年詣闕朝貢 詔更拜不耐濊王…四時詣郡朝謁 二郡有軍征賦調 供給役使 遇之如民

史料Mは濊に対する曹魏の討伐が高句麗との連係を遮断しようとするもので、懐柔した後には郡県編戸民のように戦費を徴発していることを示している。これを通じて郡県の安全を図ったと考えられる。濊が楽浪・帯方郡の東辺に接したためだ。討伐と懐柔を援用した点で、韓に対する曹魏の支配は濊と同じだった。更に曹魏は

N 韓….其官有魏率善・邑君・帰依侯・中郞将・都尉・佰長….桓靈之末 韓濊強盛 郡県不能制 民多流入韓国 建安中公孫康分屯有県以南荒地 伐韓康分任有県以南荒国臣 爲帶方郡 遣公孫模・張敞等 収集流民 興兵伐韓濊旧民稍出 是後 倭韓遂属帯方 景初中 明帝密遣帯方太守・楽浪太守鮮于嗣 越海定二郡 諸韓国臣智加賜邑君印綬 其次與邑長 其俗好衣幘 下戸詣郡朝謁 皆假衣幘自服印綬衣幘千有余人

史料Nに見られるように、韓と可能な勢力集団別に交渉したと思われる。辰韓人廉斯鑡を前面に出して三韓社会と接触(註 091)した漢代とは差(註 092)がある。土着社会を操縦して(註 093)郡県の安定を図ろうとしたのだ。曹魏が韓の小国と個別接触しようとしたもう一つの理由は、中間交易層を排除して貿易上の収益を図り、辰・弁韓の鉄供給のように必要な物品の安定的確保のためだった。朝鮮半島南部と交易していた倭(註 094)に使節を送り交易したのもこのことから理解される。

以上で見たように、曹魏の東夷支配は、専担郡県をして朝貢とそれによる互市での交流を管掌することであった。しかし、このような儀礼的な方法では、後方安定と戦争のための物力の調達という東夷経略の目的を果たすことはできなかった。これに対して曹魏は二つの支配方式を駆使した。一つは東夷社会を交流圈によって南北に区分して支配することであり、もう一つは友好・敵対・懐柔・放置対象に分け、支配を異にして分裂と対立を助長することであった。前者は主に物的な調達を、後者は背後の安定のためである。

三国は楽浪・帯方郡に交易を通じた支配を受けており、同様に懐柔の対象だった。ところが、曹魏は東夷経略を前後して支配の強度を高めていった。沿岸から内陸へと交易範囲を拡大しようとし、土着社会とは個別接触を通じて中間交易層を排除し、収益の増大を図った。また、「近郡諸国」と言える馬韓の北部は郡県保護のために懐柔の主な対象とした。そのため、同地域に対する曹魏の統制は加重されざるを得なかっただろう。

(註 082)
    これと関連して鉄をはじめとして、銅と織物も楽浪を中心に三韓と倭は分業体系を形成したという見解が参考になる。
    菅谷文則、「古代の日本列島から輸出品と東アジアの交易」(『橿原古学研究所論集』10、吉川弘文館、1988)pp.307-316。

(註 083)
    帯方郡は韓・倭との交渉にあたって、最初から水路交通によったと考えられている。遼東に基づく公孫氏が魏と高句麗を避け、遠距離の呉や韓・倭と通交するためには、水路交通が効率的だったのである。これは魏が公孫氏を征伐し帯方郡を接収した後も続いた。水軍として魏を脅かす呉との対決はもとより、南方産物資の調達のためにも、帯方郡の水路を利用した交渉は重視されたためである。このように水路に頼って郡県と異民族が交渉したのは、交趾諸郡が東南アジア諸国をはじめとする南方諸国と交易したことにも見られる。三国時代の水路交通については、次の論考が有益である。

内田吟風、「東アジア古代海上交通史汎論」(内田吟風博士頌壽祈念会編、『内田吟風博士頌壽祈念東洋史論集』、同朋舍、1978)pp.548-553。
    大庭脩、「三国志に見える海上交通」(『季刊邪馬台国』17、1983);前掲書(註 1996)、pp.90~94。

(註 084)
    『三国志』28、毌丘倹伝、『30』東夷伝扶餘・東沃沮・濊条

(註 085)
    宋鎬晸、「扶餘の成長と対外関係」(『韓国史4-初期国家:古朝鮮・扶餘・三韓』国史編纂委員会、1997)p.194。

(註 086)
    「扶餘…漢末 公孫度雄張海東 威服外夷 扶餘王蔚台更属遼東 時句麗鮮卑彊 度以在扶餘二虜之間妻以宗女」(『三国志』30、東扶餘伝『三国志』)

(註 087)
    神崎勝、「扶餘の歷史にする覺書-上」(『立命館文学』542、立命館大学文学部、1996)p.531。
    神崎勝は殷富を誇った扶餘王権の支援があったとし、これは中国人が扶餘に濊貊族のリーダー役を期待したためと見ている。

(註 088)
    曹魏が倭との交易で目標にしたことは、主に南方産物資の確保にあるという。
    森浩一、「倭の産物と交易」(上田正昭外編、『ゼミナ-ル日本古時代史』上、光文社、1979)p.121。
    岡崎敬、「南海を通ずる初期の東西交涉」(『增補 東西交涉の考古学』平凡社、1980)pp.363~364。
    内田吟風、「魏志倭人伝中の熱帶的諸記事」(小野勝年博士頌壽記念会編、『小野勝年博士頌寿記念 東方学論集』、龍谷大学東洋史研究会、1982)pp.57~71.

(註 089)
    栗原朋信、「魏志倭人伝にみえる邪馬臺国をめぐる国際同盟の一面」、前掲、pp.81~86。
    西嶋定生、前文(註 1983)、pp.490~494。
    榎一雄、「『魏志』倭人伝道とその周辺-東洋史上にあらわれてくる綴の姿」(『季刊邪馬台国』18、1983)pp.27~28。
    これと関連して孫権が反対をおして、亶州(九州南部と薩南諸島)を攻めたのは、ここが曹魏の水域とみなして牽制しようとしたという(手塚隆義、前の文)。

(註 090)
    栗原朋信(同書、p.86)は、曹魏が倭と連合して三国の統合を妨害しようとしたと見た。しかし、魏志東夷伝のどこにも関連記録を見つけることができず、取り難い。

(註 091)
    『三国志』30、韓伝裴注所引「魏略」の廉斯鑡説話。

(註 092)
    漢代は華夷分別に立脚した羈靡論に基づき、異民族が朝貢をすれば受け入れるものの、来ないとしてこれを制裁することもなかったのに対し、3世紀は曹魏の積極的な努力によって成り立ったという点で違いがある。羈靡論による異民族支配の方式については、以下の論考が有益である。
    金翰奎、「漢代の天下思想と羈靡之義」(全海宗外、『中国人の天下思想』、民音社、1988)pp.185~203。

(註 093)
    金哲埈、「部族国家と部族連盟」(『韓国古代国家発達史』、韓国史研社、1975;『韓国古家古家究』、ソウル大学校出版部、1990)p.24。

(註 094)
    田村晃一、「弥生文化と朝鮮半島-その交流あり方について」(『日本史黎明-八幡一郎先生頌寿記念考古学論集』六興出版、1985)pp.527-551。

V.韓魏紛争の性格

これまで帯方郡を攻撃した韓の実体を究明し、その原因となった朝鮮の「東夷経略」がどのような背景と目的で断行されたのか、さらにはその実現のために曹魏が行った支配方式を検討した。これをもとに、本章では韓魏の紛争の経緯を再構成し、その性格がどのようなものかを考えてみたい。

史料A-1の一部をもう一度見てみよう。通行本の「臣智激韓忿」とした表記は「臣濆沽韓忿」と訂正している。

部従事呉林 以楽浪本統韓国 分裂辰韓八国 以與楽浪 吏訳伝有異同 臣濆沽韓忿 攻帶方郡崎離営 時太守弓遵・楽浪太守劉茂 興兵伐之 遵戦死 二郡遂滅韓

これによれば、曹魏が部従事(幽州部楽浪郡従事)(註 095)呉林にして(帯方郡の管轄下にある)辰韓(12国のうち)8国を切り離して楽浪郡に配属させようとしたが、これを施行する過程で吏訳の誤りと誤解が生じ、それが臣濆沽韓を憤激させ、ついには帯方郡攻撃による韓魏紛争につながったという。

帯方郡攻撃の主体が究明されたにも関わらず明瞭に理解されないのは、次の二つの問題のためだ。一つは帯方郡で専門担当し管轄した辰韓12国の内、8国だけを取って楽浪郡に移属ようとする意図が何かという点だ。他の一つは辰韓8国の管轄地調整に対して馬韓の北部に位置した臣濆沽国が忿に耐えられず、郡県と激しく戦争を行ったかということだ。

まず、曹魏が辰韓八国を楽浪郡に帰属させようとした問題を見てみることにする。帯方郡から辰韓八国を引き離して楽浪郡に帰属させたのは、かつて池内宏の地籍(註 096)のように朝貢と交易の管轄地を変更したことである。問題はこの動機と目的なところ、概して二つの説明があった。

㈀ 郡県側の必要によったという見解であり、これには3つの説明がある。一つは、三国の北部は楽浪郡で、南部は帯方郡の管轄に調整(註 097)したという説明だ。もう一つは、経略に楽浪・帯方2郡太守が遠征した代価、すなわち論功行賞の次元で三韓社会に対する管轄権が配分されたためであるとか、(註 098)あるいは濊を遠征した後、隣接する辰韓の北部地域を遠征した後、隣接した辰韓の北部地(すなわち8国)に曹魏が直接交涉しようとしたこと(註 099)と見る見解がそれだ。

㈁韓人社会の成長と支配力を弱化させようとする意図と見る見解だ。帯方郡を攻撃した主体を百済など漢江以北の勢力と見る研究と、あるいは目支国辰王に緊密に関連した臣濆活国(あるいは臣濆沽国)のどちら側と見るかにより二つの見解に分かれる。前者は百済をはじめとする漢江流域の土着社会の結集と成長を阻止しようとしたと見る。(註 100)反面、後者は辰韓を支配(特に対外交渉権)した辰王の影響力を抑制する(註 101)目的で管轄地調整を行ったという指摘だ。

㈀の三つの見解は頷きにくい面がある。 最初の見解は辰韓を漢江北に見なければ成立できないことだ。第二は、辰韓8カ国だけが対象になるのかについての説明がなく、第三は、辰韓との直接交渉が帯方郡の管轄下では不可能なのか疑問だ。ただし、曹魏代に楽浪・帯方2郡の交渉範囲を変更しようとしたという指摘と、辰韓8カ国を辰韓の北部地域と見て、ここに曹魏が直接交渉しようとしていたという説明は参考にしたい。

㈁の場合は帯方郡攻撃を百済が主導したり、また臣濆沽国が牧国の辰王と緊密な関係にあるということが前提になるべきだが、すでに2章で全て否定したことがある。ただし、辰韓8国を漢江以北(註 102)あるいは春川一帯(註 103)に規定しようとする見解に見るように、楽浪・帯方郡に近接した領域に対する曹魏の統制が遠拠に比べて強力だったことは推測に難くない。

このように見る時、辰韓8ヶ国の楽浪配属に対する既往の見解では満足する説明を探し難いと言えよう。ここで筆者が4章で言及した楽浪・帯方郡の交渉範囲の変化を想起しようと思う。言及した通り、曹魏は朝貢とそれによる互市運営だけでは三国抗争期に切実な背後安定と物力調達を成し遂げることはできなかった。この時、物的調達のために考案されたのが交易圈を中心に郡県の交涉社会を分割し調整することだった。

三韓社会は帯方郡が海路交易網を専門担当しながら、自然陸上交通による交易は楽浪郡が掌握することになったのだ。水路への接近が難しい三韓の東南部内陸地方は楽浪郡に管轄権が移されたはずであり、この時問題になったのが辰韓の管轄だった。帯方郡に所属した辰韓の8国を楽浪に移属したことはこのような事情からなされたものだった。ところが辰韓12国のうち8国が楽浪に帰属し、4国は帯方郡の管轄下に置いたことを見れば、後者の4国は水路交通が可能な沿岸に分布しただろう。(註 104)

以下は、辰韓8カ国の管轄地の調整に対して、なぜ馬韓の北部に位置する臣濆沽国が郡県と激しく戦争を行ったのかという問題だ。曹魏の背後安定のために郡県の保護は必須であり、自然近郡の馬韓会社に対する懐柔と統制が強化されたことは見ても分かる通りだ。韓魏紛争が曹魏の強圧策のために起きたという見解(註 105)もこれを念頭に置いたものだ。やはり漢江流域あるいはその北方に位置した臣濆沽国としても、高まる曹魏の統制に不満を持っていただろう。しかし、これが背景にはなるだろうが、郡県を攻撃したことがなぜ臣濆沽国なのかは説明が難しい。三韓に対する曹魏の統制が近郡地域すべてに加えられたはずだからだ。

史料によれば、臣濆沽国の帯方郡攻撃は辰韓8国の楽浪配属に関連している。(註 106)曹魏は部従事呉林をして実際にこれを施行に移したことを見る。これは楽浪から陸路を通じて嶺南方面の辰韓8国に至る交易路を開設しようとしたものだった。曹魏が楽浪配属を口実に辰韓8国と直接交渉を試みた理由は、辰韓に至る韓の土着社会との個別接触を通じて交易上の利得を追求することにあるだろう。これらの地との交易とは、土産物を集積しようとしたことであり、この時辰韓8国は鉄の供給先として重視したと考えられる。

辰・弁韓の鉄器生産は紀元2世紀中盤を過ぎて大量生産体制と広域の流通網を形成した(註 107)反面、3世紀の辰韓社会は深刻な鉄器不足を体験した。(註 108)しかもこれまで楽浪・帯方郡に鉄器を供給した筈の遼東の鉄産地もまた、公孫氏征伐過程で深刻な被害を被ったと考えられる(註 109)このために辰・弁韓の鉄器が競争力のある交易に発展することができた。広く知られているように魏志韓伝に辰韓の鉄器が楽浪・帯方郡に給されたことを(註 110)記したのは(史料H-1)、この時期楽浪・帯方地域に鉄が需給が円滑でないのに(註 111)起因するということだ。

それでは、辰韓に通じる交易路開拓の途上で臣濆沽韓と衝突した理由は何だろうか?第4章で説明した通り、曹魏をはじめとする三国は既存の郡県組職や在地勢力を排除し、中央政府が辺郡の運営および対外交解も担当しようとした。辰韓への直接交渉も中間交易層を排除しようとするものといえる。これを後押しするのが辰韓八国の楽浪配属問題を主導した部従事呉林の存在だ。

部従事はたいてい每郡に1人ずつ配置されたが、魏晋代には中郡以上に1人ずつ置かれ、辺遠には必要に応じて派遣された。これは郡県の行政全般を糾弾し、州の政令を伝達・執行した州の重職だった。したがって、現地の地方官とは敵対的関係にある場合がほとんどだという(註 112)を見るならば、幽州部従事呉林を派遣して辰韓八国の楽浪配属を主導したのも、辰韓に通じる陸路交易から郡内の中間交易層を排除しようとしたものと推測される。

これは結局、郡県と三韓の中南部内陸地方の間で享受してきた臣濆沽国の交易権利が喪失される危機と見なされたのだろう。臣濆沽韓が帯方郡崎離営を攻撃した理由は、交易を巡る利害関係が直接的な契機であった。もちろん、曹魏が東夷経略に前後して三韓に対する統制を強化したことがその背景をなす。先に見た通り、曹魏交易が難しかった三韓の内陸地方に直接交易しようとし、郡県保護のために馬韓北部に対する統制を加重していた。

このように臣濆沽韓の帯方郡攻撃を交易と関連した利害関係で見るならば、韓魏紛争の余波は広域には至らなかっただろう。曹魏は東夷経略を速戦で終わらせ呉蜀との抗戦に専念し、司馬懿が政敵曹爽を除去し実権を握っていた時期につながり対外関係は消極的姿勢で臨むほかはなかった(註 113)のだ。したがって東夷伝に記録された曹魏の高圧的な三韓支配は、東夷経略に前後して一時的に施行されたものと考えられる。

しかし、韓魏紛争は、三韓社会が東アジアの情勢変化による影響に目を開くことなった。彼の参加有無により勢力関係に変化があっただろう。この過程で武裝の必要も痛感したことであり、郡県の影響力が急激に減った魏晋交替期以後の三韓内の征服戦争が進行された要因となった。

(註 095 呉林は楽浪の管轄地調整のために派遣された者であるだけに、部楽浪従事が正確な名称だが、楽浪に常置されたのか、また帯方郡も管轄したのかは分からない。

(註 096)
    池内宏、前作、P 244。

(註 097)
    李丙燾、前冊(註 1959)、P.335。

(註 098)
    橫山貞裕、前文、p.83。

(註 099)
    成合信之、前文、P 23~24。

(註 100)
    李基東、前文(註 1982)、p.135;李基白、前文、p.46。

(註 101)
    三上次男,前文,p.109;成合信之,前文,p.19;井上幹夫,前文(註 1978),p.623;武田幸男,前文,p.18。

(註 102)
    李丙燾、前掲、1959、p.335。

(註 103)
    崔海龍、前文、p.5。

(註 104)
    これに関連して、嶺南地方は紀元1世紀以来、尚州-大邱-永川-慶州につながる陸上交易網と、金海を中心とする洛東江下流と周辺南海沿岸の海上交易網が形成され、これが鉄器流通と対外交涉関係 をもとに急速に成長したという見解があり、参考になる(鄭仁盛、「洛東江流域圏の細形銅劍文化」(『嶺南考古學』22、嶺南考古學會、1998、pp.71~72)。

(註 105)
    文案,前文,p.165;崔海龍,前文,p.6年8月13日

(註 106)
    これまで帯方郡攻撃の原因として多くの研究者が指摘してきた問題である。しかし、馬韓が憤った理由は十分な説明が見られない。もちろん、馬韓八国を郡県領に編入させようとしたものと誤解したり(李丙燾、前掲書、1976、p.123)、辰韓の納貢距離が遠のくことによる不便のためという(橫山貞裕、前掲書、p.83)見解がある。しかし、前者は辰韓八国を馬韓八国の子分とは見難く、後者は辰韓のことに韓人が憤激した理由を説明できないという問題がある。

(註 107)
    李賢恵、「鉄器便所と政治権力の成長」(『加耶諸国の鉄』、仁済大学加耶文化研究所、1995)pp.22~28。
    孫明蔵、「弁・辰韓鉄器の初現と展開」(『加耶文化』11、加耶文化研究院、1998)pp.254~256。

(註 108)
    宮崎市定、「支那の鉄について」(『史林』40-6、1957)p.449。

(註 109)
    王錦厚の調査によれば、遼東地方でこれまでに調査された漢魏代の鉄産地は、鉄官が位置する営口をはじめ、隣接する海城、遼陽一帯に集中しており(同書、pp.96~99)、公孫氏と曹魏との戦闘もこの一帯で行われていたことがわかる(同書、pp.320~322)。

(註 110)
    楽浪に供給するために、板状の鉄斧が一時的に製作されることもあった(孫明蔵、前文、p.259)。

(註 111)
    楽浪・帯方地域の塼室墓では、前代とは異なり、鉄器副葬が急激に減少する現象はこれを反映している(李南珪、「1~3世紀楽浪地金気門化」、『韓国古代史論医学』5、韓国古代社屋研究所、1993、p.275)。

(註 112)
    厳耕望、前掲、pp.148-149。

(註 113)
    金容範,前文,pp.30~31.

VI.結び

以上で筆者は、韓の帯方郡攻撃事件にまつわる問題点を考究するとともに、次のようないくつかの事実を考えてみた。

1)帯方郡を攻撃した韓の実体について、通行本(明毛氏汲古閣十七史本)魏志は「臣智激韓忿」とし、百衲本(南宋紹興本)魏志には「臣幘沾韓忿」と表記されている。通行本は文言が難解であり、臣智が誰なのか明らかにされておらず、百衲本の「臣幘沾韓」は馬韓の「臣濆活国」を指すと見たが、連続して字句の誤りを認めてこそ可能な見解であった。版本の対校としては原文復元に限界があるものだった。ここで代案として提示できるのが魏志東夷伝を引用した文献との比較であった。特に唐宋代文献は写本の写しであり、今は稀少になった初期刊本の姿を見せている。この場合、全文を収録した場合が重要だと見て選択したのが通志の東夷伝だ。通志は南宋紹興31年(1、161)に鄭樵(1、104~1、162)が著述した紀伝体通史であり、魏志の版本の中で最古本と言える百衲本と同時期の文献である。これには百衲本の「臣幘沾韓忿」に類似した「臣濆沽韓忿」と表記されている。通行本の魏志の「臣智激韓忿」を百衲本によって「臣濆沽韓忿」と見てきた見解が妥当であることを確認することができた。

2)臣濆沽国の馬韓人が帯方郡を攻撃した時期は、244年から246年にかけての曹魏の東夷経略が終わった頃だ。東夷経略は三国が相互間の抗争よりは自国の安定と辺境開拓に注力した時期に、後方安定と戦争のための物力の調達を目的に断行された。曹魏の通常の東夷支配は、専担郡県にして朝とそれによる互市での交通協定を管掌することだった。しかし、このような儀礼的な方法では、後方安定と戦争のための物力の調達という東夷経略の目的を成し遂げることはできなかった。これに対して曹魏は二つの支配方式を駆使した。一つは東夷社会を交易圈によって南北に区分して支配することであり、他の一つは友好・敵対・懐柔・解放対象に分けて支配を別にして分裂と対立を助長する方式だ。前者は主に物的調達を、後者は背後安定のためのものだ。

3)三韓は濊・倭人と交易圈を成し楽浪・帯方郡の経済支配を受け、また同様に懐柔の対象だった。近郡の地域と言える漢江以北は郡県安定のために懐柔と統制が強化された。ところが帯方郡が海路に通じる交易網を専門担当しながら、自然陸上交通による交易は楽浪郡が掌握することになり、三韓社会の交渉方式も変わった。水路への接近が難しい三韓の東南部内陸地方は楽浪郡に管轄権が移されたのであり、この時問題になったのが辰韓の管轄であった。臣濆沽韓の帯方郡攻撃の発端となった「辰韓八国」に対する楽浪移属はこのような事情からなされたものだった。

4)問題は臣濆沽国が何のために郡県と激烈な戦争を行ったかという点だ。直接的な契機は辰韓8ヶ国の楽浪配属にあった。曹魏は楽浪から陸路を通じて嶺南方面の辰韓8国に至る交通解放路を開設しようとしたものだった。これを口実に臣濆沽国のような中間交易層を排除して交易上の利害を図ろうとした。特に3世紀前半に不足事態を体験していた鉄を辰韓との交易から確保しようとしたと見られる。一方、曹魏は郡内交易勢力も排除したようだ。辰韓8国の楽浪配属問題を主導した部従事呉林の存在はこれをよく示している。部従事は既存の郡県組織と在地勢力を排除して、辺郡の運営および対外交易解放も中央政府が担当するために幽州部が派遣したものだった。要するに楽浪と辰韓8国との直接交渉は、臣濆沽国の立場から見る時、郡県と三韓の中南部内陸地方の間で享受してきた交易上の旣得の権利を一気に喪失する危機と見なされたのだろう。臣濆沽国が帯方郡を攻撃した理由はこれにあると考えられる。

5)このように臣濆沽国の帯方郡攻撃を交通を巡る利害関係で見るならば、韓魏紛争の余波は広域に達しはしなかっただろう。曹魏は東夷経略を速戦で終わらせ呉蜀との抗戦に専念し、司馬懿が政敵曹爽を除去し実権を握っていった時期につながり、対外関係は消極的姿勢で臨むほかはなかったためだ。したがって、東夷伝に記録された曹魏の高圧的な三韓支配は東夷経略に前後して一時的に施行されたものと考えられる。しかし、韓魏紛争は三韓社会が東アジアの情勢変化による影響に対して目を開く契機となった。これの参加有無により勢力関係に変化があっただろう。この過程で武裝の必要も痛感したところ、郡県の影響力が急激に減った魏晋交替紀以後、三韓内の征服戦争が進行された要因になった。

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