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雄略紀分析

―倭王武と獲加多支鹵と雄略と―

1.日本書紀α群再編纂仮設

私は隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文を非常に重要なものであると考え、その結論を継体欽明朝の秘密に日本書紀再編纂仮設としてまとめました。 前稿においては、日本書紀α群の顕宗紀から崇峻紀までを取り上げて分析しました。 日本書紀α群は森博達氏の書記区分論によると、日本書記において雄略紀を端緒に、最初に書き始められたもので、中国人が著者であったとします。 私はこれらの天皇紀をみて、これらを中国人に書かせたのは、中国正史のような史書作成を試みようとしていたためだと思います。 天皇の書として書かれたものではあって、当然そのような前提での文献批判は必要ですが、α群の編纂姿勢を見ている限り、過剰に美化したり隠ぺいしたような傾向は感じられません。

α群の天皇紀は、古事記に垣間見えるような口承中心で伝えられた、王年代記的な物語を中心に据えながら、各氏族から提出された文献史料をもとに、歴史書としての編纂を進めたものであろうと思います。 氏族から提出された史料には即位後の年次を伝えたものや、特に渡来系氏族の場合などは記述に干支が含まれ、記事の配置に大いに参考にされたものと思います。 ただこれら氏族提出の史料の大部分は、先祖がどのように天皇家に貢献したかといった、いわば先祖自慢の史料であったと思われます。 歴史的な視点がなく、視野狭窄的で倭国全体の動きをつかめないものが、多数あったのではないかというのが、前稿の結論でした。 その結果α群の作者はこれらの史料を、それらの史料が伝える奉仕の対象の天皇ごとに、ばらばらの一代記としてまとめざるを得なかったものと思われます。

α群は雄略以下順次新しい天皇に至り、欽明の子供の世代に至り、利用できる史料の性格に、大きな変化が現れたと思われます。 欽明の子の推古朝には、天皇記国記の文字資料としての編纂の記録があり、おおよそそのころから倭国の政治に関する政府記録ともいうべき歴史史料が現れたのでしょう。 α群の作者にとっては、本格的な編年体での史書編纂が可能になってきたものと思います。 するとそれ以前の各天皇一代記的な編纂を、全体として編年体の史書に書き改めるモチベーションが、選者の間に芽生えたのではないかと考えるのです。

一代記的な天皇記を、全体として編年していくに際して、大きな困難が伴ったことが、前稿の分析で分かったことです。 それは推古朝以前の天皇制が、それ以降とはかなり異なる形態をとっていたことが主因になっていたと思われます。 すなはち古代天皇制は、寝殿にこもり神床で夜間に神意を聞く最高決済者である天皇と、昼に実際に人々に指示を出す王の、実質的に二人の王によって行われていたためです。 そして天皇が亡くなったときには、この昼の王が次期天皇になるケースが通例であったようなのです。

そして天皇の周辺にいて支える人々が、実際に対面し指示を受けるのは、いわば昼の王であり、氏族の伝承に残されたものは、昼の王としての在位期間の記録が中心となり、そこには天皇即位がいつ行われたかなどは記録がなく、即位については別途もっぱら口承をもとにした、古事記のような王年代記的記録に頼ったと思われるのです。 このため天皇一代記として成立した、最初の天皇紀には、即位前の記述が含まれ、それを干支等に基づいて編年していけば、当然複数の天皇の在位が並行してしまうことになったのです。 このような複数の天皇の在位は、古事記のような王年代記的な物語を聞き習っていた、日本書紀編纂時期の人々にとって受け入れがたかっただけでなく、皇帝中心の一元的支配を当然と考えていた、中国人編纂者にとっても、考え難いことであったのです。

天皇在位の重複を避けるためには、記事の繰り替えを行うしかありません。 再編纂は下の巻から順次行われ、おそらく上梓までの間に時間のない中で、矛盾が生じても見切りで次々に上巻に向けて編纂が行われ、このため継体紀から欽明紀にかけては、明らかな矛盾を多く含むことになったのです。 前稿ではもっとも大きな並列在位は、継体と仁賢武烈そして安閑宣化欽明の間にあり、これが日本書紀でも継体紀が最大の謎とされる原因となっているのです。

日本書紀再編纂において、選者が基本方針としたのは、明らかな在位並行を生む、国内史料の干支等を無視し、編年を百済三書と呼ばれる、百済系史料によることでした。 結局国内史料については、本来の年次からはずれた記述となったのです。 例えば現在武烈紀にある、武寧王即位記事は、本来は顕宗紀にあったのです。 継体と仁賢武烈の在位重複は、全部で十八年におよび、結局顕宗紀を繰り上げるしかなかったわけです。

雄略紀においては、百済漢城落城について百済記の引用文が、文中の蓋鹵王乙卯年冬の干支にもかかわらず、一年ずれた雄略二十年476年の条にあることは、別途考察の必要があるでしょうが、百済三書を引いて書かれている、武寧王誕生の記事については、文中に引かれた辛丑年にあっています。 また、百済三書を引いてはいませんが、東城王即位についても、三国史記の記録とあっています。 日本書紀のいわゆる紀年は、β群においては神功紀の年次が、百済記の干支を二運120年、ところによっては三運180年、遡らせている話は有名ですが、α群においてはそのような事は行われていないようです。

雄略紀の末年が東城王即位記事と同年となっているのは、おそらくぎりぎりまで没年を引きあげられたからであると思われます。 東城王の即位は雄略の治世から動かせなかったのでしょう。 結局古事記に八年とする顕宗紀は三年に短縮され、同じく何年かあったように書かれている飯豊王の政務期間は、一年以内になっています。 この文章での目的は、これら再編纂過程を探り、可能な限りもとの一代記を復元することで、雄略朝の実像に迫ることです。

2.古事記崩年との関係

再編纂前の一代記としての雄略紀を再編する重要な手立ては、百済系史料以外の年次の手掛かりをつかむことです。 前稿では、一代記的記述には古事記崩年干支に関連する史料が、利用されていたことを見ました。 古事記崩年自体は、別人の崩年を間違えた可能性や、天皇譲位年を崩年として扱った可能性などを、前稿で指摘しました。 しかし一方で、各天皇一代記の編纂史料として、ある程度利用されていた可能性も指摘しました。 そこでまず雄略紀と古事記崩年の関係を見ていきましょう。

雄略二年七月条に奇妙な記事があります。 百済の池津媛が焼き殺された事件なのですが、そこに百済新選からとして、この女性が百済の蓋鹵王が己巳年に即位したときに、天皇の要求により差し向けたものであるとの註があるのです。 三国史記によると、蓋鹵王が即位したのは乙未年なのです。 この近くの己巳年は429年と489年で、時代が大きくずれてしまいます。 どうも原史料、それも百済系史料そのものに、何らかの混乱があったと思われます。

この池津媛の記事によく似た記事が、応神紀三十九年二月条にあり、そこでは百済直支王が、妹の新齊都媛を遣わしたとあります。 ところがこの記事も奇妙な記事で、応神紀では二十五年に直支王は亡くなっているのです。 応神紀の記事はなんらかの理由で差し込まれたものでしょうが、年次を指定して差し込まれるということは、原史料には干支が付随していた可能性があります。 この記事の応神紀に置ける干支は戊辰で、己巳の前年にあたります。

どうも己巳年にこの混乱を解く鍵がありそうなので、時代的に近い429年の己巳年の三国史記百済本紀をみてみると、毗有王の三年であることが分かります。 宋書帝紀にはこの年に百済は朝貢しており、毗有王の即位後最初の朝貢であると思われます。 そしてその翌年、劉宋より百済王余毗として、先々代の腆支王すなはち日本書記の直支王の爵位を継承することを認められます。 ここで直支王に繋がってきます。

直支王の即位年は、乙巳年で字形が似ており、そもそも己巳年としてあやまって伝える史料があったのでしょう。 そこへ毗有王の劉宋への最初の朝貢年が己巳年であったため、毗有王と直支王の混乱が生じたと思われます。 そしてこの毗有王の即位二年、戊辰年の春二月に從者五十人を引連れた倭国の使者が来たとの記録があります。 恐らくこれが、雄略二年の註に見える、天皇が女性を要求したという話のもとになる出来事なのでしょう。 つまりその返礼として遣わされた女性の話が、応神紀三十九年の新齊都媛の伝承になったと思われます。

同時に己巳年に即位した王が、天皇に求められて女性を送ったという伝承が成立し、実際には己巳年に即位した百済王はいないため、いわば宙に浮いた伝承となっていたと思われます。 そこに雄略五年の記事にみるような、蓋鹵王が池津媛が焼き殺されたため、女性ではなく弟の軍君を天皇に遣わした話が結びついたのが、この年の記事に註された百済新選の記事なのでしょう。 己巳年というありえない干支を付けたままにしているのは、編纂者もこの異伝をいぶかっているのであると思われます。 池津媛は本来蓋鹵王とは直接の関係はなかったのでしょう。 ここにはさらに蓋鹵王と直支王の混乱が重なっていると思われます。

先に述べた応神二十五年甲寅年の直支王薨の記事は、久爾辛王が幼年にして後を継ぎ、木滿致が執政したというものですが、没年が三国史記の干支とあっていません。 実は新羅本紀の一運60年後の甲寅年の記事に、蓋鹵王が高句麗王の攻撃を受けたときに、王子の文周が新羅に援軍を求めたが間に合わなかった話が出てきます。 また干支は一年あとの乙卯になりますが、百済本紀には蓋鹵王が殺される前に、その子文周が木劦滿致に連れられて逃げる話があります。 おそらく木劦滿致と木滿致は同一人で、蓋鹵王の話と直支王の話がごっちゃになっているのでしょう。 このように日本書紀原史料の、百済系文書にも既に混乱があることは押さえておくべきでしょう。

しかしひとつ確実に言えるのは、この奇妙な異伝をあえて雄略二年に註したのは、その時点で蓋鹵王即位年が、雄略二年にあたっていたためであると考えられます。 蓋鹵王が即位したのは乙未年の455年ですから、雄略の初年は454年であったことになります。 そしてこの年は古事記に残された、允恭崩年にあたるのです。 日本書紀允恭崩年には、雄略が皇太子として新羅の使者に対応した記事があります。 恐らく雄略はこの年から、昼の王として実質的な活動を始め、再編纂前の雄略一代記はこの年に始まっていたのでしょう。

3.再編纂の跡を追う

雄略一代記が、古事記崩年と整合的な関係にあったとすると、そこでの崩御年は古事記同様の489年であったと思われます。 つまり末年が十年繰り上げられているということです。 さらに前節でみたように、元年は454年が457年に三年繰り下げられています。 恐らくこれは安康の在位年を空けるためでしょう。 雄略紀は前後十三年も縮められていることになります。

雄略紀における紀年の扱いを考える場合に、やはりもっとも気になるのは、百済漢城落城について引用された百済記の干支と一年ずれていることです。 継体紀においては、矛盾を顧みずに百済新選の継体崩年を採用したように、α郡では百済新選や百済本記の干支を非常に重要視しているにもかかわらず、この扱いには大いに疑問がわきます。 また百済三書の干支はβ群の神功紀等でも、二運三運ずらして解釈することはあっても、干支そのものはそのまま採用していることが多いを考えると、この疑問はますます大きくなります。 雄略紀においては、百済三書の干支すらも固守できなかった特別な事情があったことがわかります。

おそらくこの変更は、百済三書の干支に基づいて編年した後、何らかの緊急事態によってなされたものでしょう。 その理由は後程考察しますが、少なくとも雄略紀には次の操作が加えられたと考えられます。

1.元年の三年繰り下げ
   2.末年の十年繰り上げ
   3.途中の一年繰り下げ

この結果少なくとも以下の四種類の記事が存在する可能性が指摘できます。

A.三年繰り下げられた記事
   B.四年繰り下げられた記事(三年繰り下げの上さらに一年繰り下げ)
   C.十年繰り上げられた記事
   D.九年繰り上げられた記事(十年繰り上げの上一年繰り下げ)

この四種類の記事に該当しそうな記事を、雄略紀に探してみましょう。 考察するのは、三国史記や宋書などの、干支の確定した記事と比較できるものが良いでしょう。

まず注目するのは、雄略十一年秋七月の、百済から貴信が逃げてきた記事です。 百済から逃げてきたというのですが、なぜ逃げてきたのか全く書かれていません。 雄略十年には身狭村主青と檜隈民使博徳が呉から持ってきた鵞鳥が、水間の君の犬に噛まれて死んだため、罪を償うために水間の君が養鳥人を献上した話が出てきます。 その翌年の雄略十一年五月条には、川瀬舎人を置いた話と、十月条に鳥官の禽が菟田の人の狗に噛まれて死んだ話が出てきます。 河瀬の舎人の話は古事記にもあって、おそらく口承で伝えられた話で、干支を伴わない年次不詳の伝承であったと思われます。

一方、身狭村主青と檜隈民使博徳の話の原史料は、日本書紀編纂時に集められた、身狭村主青と檜隈民使博徳の子孫の残した物であったと考えられます。 稲荷山鉄剣銘文のような古い史料からは、その特異な仮名使いから、百済系の漢人の関りが予想され、雄略紀においてもそのような渡来人が、史戸/史部とされたと見えることから、雄略紀の原史料には、多くの干支史料が渡来人の子孫によってもたらされたと考えられます。 したがってこの記録には、干支が記録されていたと思われ、もとの一代記的記録においては、干支に基づく正しい年次が与えられていたと考えられます。

河瀬の舎人の話がこの位置にあるのは、鵞鳥が噛まれた話と類似した話だからその近傍に置かれたのでしょう。 十月条の鳥官の禽の話も同じことで、再編纂前からこの位置にあったのでしょう。 つまり百済から逃げてきた貴信の話は、もともとあった鳥に関する話題をまとめた位置に、あとから挟まった可能性があります。

この記事を試しに百済漢城落城に関連付けてみましょう。 この出来事は高句麗本紀百済本紀ともに475年9月の事になっており、日本書紀では雄略二十三年冬の事になっています。 したがって貴信がこの変事によって百済から逃げて、七月に日本にやってきたのなら、その年は476年となります。 一方雄略十一年は紀年では467年となりますから、この記事は上記のDに該当し、九年繰り上がっている可能性があります。

再編纂仮説では、限られた時間で再編纂されたと考えていますから、記事は塊で移動したケースが多いと思われます。 そこでこの記事の周辺で、原史料に干支を伴っていたと思われる記事を探してみます。 先ほどの雄略十年の身狭村主青と檜隈民使博德に関する記事は、前後の鳥がらみの文脈にありますから、これは外してよいでしょう。 すると雄略十二年夏四月に、身狭村主青と檜隈民使博德が使いとして呉へ遣わされたという記事が発見できます。

十二年夏四月丙子朔己卯、身狭村主青與檜隈民使博德、出使于呉
   十二年夏四月四日、身狭村主青と檜隈民使博德が呉に使者として出発した
   十四年春正月丙寅朔戊寅、身狭村主青等、共呉国使、将呉所献手末才伎、漢織、呉織及衣縫兄媛、弟媛等、泊於住吉津
   十四年春一月十三日、身狭村主青一行は呉国の使者とともに、呉が献上した手末の才伎の漢織、吳織、と衣縫の兄媛、弟媛と住吉津に泊まった

雄略十二年は紀年では468年ですから、再編纂前には477年であると言うことになります。 宋書には477年の11月に朝貢があったと記録されていますから、477年の5月に出発すれば概ね半年余りで朝貢したことになります。 魏志倭人伝では、六月に帯方郡に到着し十二月に朝貢していますから、旅程的には妥当であると思われます。 そしてこの時の使者は、雄略十四年春正月に戻ってきます。 これは紀年では470年となり、9年繰り上げられているとすると、479年となります。 帰りが一年二か月となり少し長いのですが、宋書には478年5月にも朝貢の記録があります。 478年5月の朝貢からでも、479年1月の帰国には間に合うでしょうから、この時の呉への使いは宋書の二回の朝貢記録のどちらにも関わることができることになります。

雄略十二年の記録は身狭村主青と檜隈民使博德の二回目の呉への使者です。 では一回目はどうでしょうか。

八年春二月、遣身狭村主青・檜隈民使博德、使於呉国
   八年春二月、身狭村主青と檜隈民使博德を呉国に使者として遣した
   十年秋九月乙酉朔戊子、身狭村主青等、将呉所献二鵝、到於筑紫
   十年秋九月四日、身狭村主青一行は呉国の献上した二羽の鵞鳥をもって、筑紫に到着した

雄略八年は紀年では464年にあたります。 これと比較できる宋書の記録は、460年12月と462年3月にあります。 既にみた記事移動のABCDの四つのパターンでは、ABが該当します。 もしAの三年繰り下げの461年2月とすると、一年後の462年3月に朝貢し、一年半後の463年9月に帰国したことになります。 行きも帰りも一年以上もかかったことになり、不自然さがあります。 もしBの四年繰り下げの460年2月出発ととると、462年9月に九州まで帰国という旅程になります。 行は460年12月まで十か月、帰りは一年半以上になり、不自然に長いと思われます。 しかし462年3月にもかかわったとすると、片道半年で九州までとなりますから、もしも大和までなら片道半年余りで、旅程的に自然です。 この場合はこの時も宋書の二回の朝貢に該当することになります。 旅程の自然さや二回目との一貫性という意味では、Bの四年繰り下げが該当しそうです。

この一回の使いで二度の朝貢という説は、477年と478年の朝貢に対して、廣瀬憲雄氏が提唱したことがあります。 ほんとうにそのようなことがあったのか、宋書の記録を検証してみましょう。

4.宋書の朝貢記録

宋書の朝貢記録について、しばしば問題に上がるのが、王名の記録されていない朝貢が、どの王に該当するのかということです。 坂元義種著『倭の五王――空白の五世紀』などでは、王名の明らかでない朝貢は、それ以前の朝貢に現れた王のものであるとしています。 一見もっともそうなのですが、この見解は宋書の記録に対する考察を欠いています。

宋書において王名の記述のない朝貢記録は、帝紀に現れるものだけです。 同じ宋書でも、夷蛮伝の倭国条には、王名の分からない朝貢の記述はありません。 これは当然のことで、帝紀は歴代皇帝の在位に起こった出来事を、年次別に記録したものであるのに対し、夷蛮伝の倭国条は、朝貢してきた王別に記録を集めたものだからです。

王名の分からない朝貢に関して考察する場合には、宋書の帝紀の記述を取り出して考察する必要があります。

宋書帝紀の倭国朝貢
西暦年号記事
430年元嘉七年春正月是月、倭国王遣使献方物
438年元嘉十五年夏四月己巳以倭国王為安東将軍
是歲、武都王、河南国、高麗国、倭国、扶南国、林邑国並遣使獻方物
443年元嘉二十年春正月是歲,河西国、高麗国、百済国、倭国並遣使獻方物
451年元嘉二十八年秋七月甲辰安東将軍倭王倭進号安東大将軍
460年大明四年十二月丁未倭国遣使献方物
462年大明六年三月壬寅以倭国王世子為安東将軍
477年昇明元年冬十一月己酉倭国遣使献方物
478年昇明二年五月戊午倭国王遣使献方物、以為安東大将軍

これをみれば、王名の記載された朝貢と、不明な朝貢が交互に出てきていることが分かります。 もし通説のように、不明な王名はそれ以前の朝貢の王であるとするならば、443年の朝貢はの朝貢である事になります。 ところが夷蛮伝倭国条では、この時の朝貢はのものであるとされているのです。 つまり王名不明な朝貢は、それ以前の朝貢の王によるものであるという主張は、一般論としては成立し無いことは明らかです。

では王名は帝紀においてどのような状況で記載されているのでしょうか。 上記の帝紀の記述をみると、王名は爵位の加号の記録に現れているのです。 九州王朝説批判で有名な川村明氏は、宋書帝紀の全ての朝貢例を調べて、王名は爵位の加号記事にのみ現れることを確認しました。

誤解のないように指摘しておくと、爵位の加号があったときに王名が記録されるのではなく、爵位の加号が帝紀に記録されるときに、王名が記録されるのです。 すなはち王名が記録されなかったのは、単に宋書帝紀の記録上の問題であることになります。 王名が記録されていないのは、王名が名のられなかったわけでも、爵位が与えられなかったというような、朝貢の中味に係る問題であったわけでもなく、あくまで記録上の問題だったのです。

さて王名の分からない朝貢には一つの特徴があります。 それは王名の分からない朝貢の次には、かならず新たな王名が現れていることです。 帝紀の430年の王名の分からない朝貢が、夷蛮伝倭国条により帝紀のその次の438年に現れるによることが明らかになることを考えると、むしろ帝紀の不明な王名は、次の朝貢の王名であるとした方が自然なのです。

実はを除くと、夷蛮伝倭国条では、年次をかぶせられない記事があります。 例えばについては下記のようにあります。

済死,世子興遣使貢献。世祖大明六年,詔曰:(以下略)

ここでは世祖大明六年の前に世子興遣使貢献の記述があり、ここに指定された年次以外の朝貢があった可能性が伺えるのです。 これはに対しても同じです。

興死,弟武立,自称使持節、都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王。順帝昇明二年,遣使上表曰:(以下略)

順帝昇明二年と指定された記録の前に、興死弟武立の記事があります。

このような記事の存在は、記事中に現れた朝貢年とは別の朝貢のあったことを想像させます。 の場合、これは宋書に記録された最後の朝貢ですから、この年次不明の朝貢はその前の477年と考えられます。 そうすると必然的にの年次不明の朝貢は、460年の朝貢であることが分かります。 夷蛮伝倭国条のには、そもそも年次の記録はありませんが、宋書帝紀は430年の王名不明の朝貢記録から始まるのですから、430年の朝貢もであるとするのが自然でしょう。

さてここで倭の王の朝貢において何が起こっていたのか推定しましょう。 の朝貢ではまず使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王の爵位を自称していますが、実際には使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王を加号されています。 これは希望した爵位がそのまま認められたのではないことを意味します。 の場合も同じく、使持節、都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王を自称し、安東将軍、倭国王を認められています。 については、爵位自称の記事は年次の前に出ていますから、まず477年の朝貢で爵位をもとめ、その一部が478年の朝貢で認められたと考えられます。

このようなことは、百済の朝貢でも見ることができます。 夷蛮伝百済条に元嘉七年に百済王餘毗が百済王映の爵号を継承した話がありますが、帝紀には元嘉六年に王名のない百済朝貢の記録があります。 これに対応する話が三国史記百済本紀の毗有王の三年と四年にあり、三年に宋への遣使の話があり四年に腆支王の爵号を継承した話があります。 三年の遣使いは毗有王の最初の使者で、おそらくその時には爵号を受けられなかったのでしょう。 翌年ふたたび朝貢し、爵号を受けています。

ここで宋書帝紀において、なぜ王名の明らかでない朝貢記事と、王名のある朝貢記事が交互に現れているのか、その理由が分かります。 歴代の倭の王は、まず爵位の加号を求める使者を送りますが、劉宋はそれを認めず、修正を要求したのでしょう。 そして一旦持ち帰り倭の王の決裁を得て、次の使者を立て爵位の加号を得たのでしょう。 そのため一人の王の二番目の使者が爵位の加号を得、かつそれが帝紀に記載された場合に王名が記録されたのだと考えられます。

ところでここで不思議なのは、460年以降倭の王の使者は、短期間に連続する傾向が現れるということです。 それまでの朝貢は5年から9年の間隔が開いていますが、460年12月と462年3月は1年3か月しか開いていません。 この期間ではぎりぎり帰って、直ちに次の使者を立てて間に合うかどうかもわかりません。 477年11月とその次の478年5月はわずか半年です。 これでは使者が往復することさえ出来ません。

これらの朝貢には特別な方法が取られたと思われます。 すなはち一回目の朝貢では目的が果たせず、もう一度朝貢が必要なことはすでに二回体験しているのですから、最初から立て続けに使者を出せば、期間が短縮できます。 もっと言えば、一回の使者が二回朝貢すれば、手間も時間も省けます。 実際の朝貢の場合、二度の朝貢は8年間隔があいており、結局爵位を得るのに9年ほどかかっている計算になります。

廣瀬憲雄氏によると、南朝宋の外交では皇帝が出御しない迎賓館で、外交文書や信物の受け渡しを行ったということです。 すると使者が迎賓館で待機し、申請爵位を訂正し再度外交文書を渡した場合、皇帝の日事を記録した起居中では、二度の朝貢があったように記録されるでしょう。 起居中は後漢末に始まり、晋書以降は帝紀等の史書の中心的原史料であったと思われます。 したがって一回の使者が迎賓館にとどまり、二度の朝貢として記録されることはありうると思われます。

つまり最初から2回分の朝貢の準備をして出発し、希望した爵位が認められないと、劉宋の修正要求を受けて倭の王の決裁を受けるふりをして途中まで戻り、再度朝貢して爵位を受けたのではないかということです。 460年と462年の朝貢の間には一年四か月ほどの期間があり、戻って再度使者が立つほどの期間とは思えませんが、急使が立って倭の王の決裁を受ける程度のことはあったかもしれません。 460年の使者と477年の使者は、倭の王からの絶大な信頼を得て、爵位については全権委任に近い権限を持って出かけたのでしょう。

実際のところ倭の王権の中華外交を支えていたのは、3世紀の楽浪帯方以来、漢人ルーツを保ち続けた、半島漢人コロニーからの渡来人たちで、稲荷山鉄剣銘文の仮名の分析から、特に百済系漢人が、雄略紀に見る史部の身狭村主青と檜隈民使博德のように、重用されていたと考えられます。 劉宋王朝の下す文書を読み、上表文を作成するなどはこれらの人々に頼るよりなく、要求する爵位についても、これらの人々にまかせるよりなかったのだと思われます。 雄略二年の記事において、雄略を独断を行う大悪天皇としながら、ただ史部の身狭村主青と檜隈民使博德のみは寵愛したというのは、まさにこのような史実を反映したものなのかもしれません。

5.一年繰り下げの理由

雄略紀は一代記的記述が、百済三書の干支をもとに編年された後、さらに一部の記事が一年繰り下げられているとしました。 なぜどのように一年繰り下げられたのか確認してみたいと思います。

雄略五年の武寧王誕生の記事は、百済新選を引いて基準となる干支、辛丑年を示しています。 したがって一年繰り下げはこの後の記事に対して行われたことになります。 既に述べたように、雄略初年は三年繰り下げられていて、雄略八年は四年繰り下げられています。 したがって、繰り下げは雄略八年と雄略五年の間に一年分の記事を追加して行われたと思われます。 追加された記事は、雄略六年か七年の記事ということになりますが、六年の記事は少子部連の記事などで、ここにあえて差しはさむような理由は見当たりません。

雄略七年を見ると、まず七月に少子部連の記事があります。 六年の記事とつながるようですが、六年の記事はユーモラスな記事であるのに、七年の記事は三諸丘の神を捕まえるというもので、おどろおどろしく記事の持っている気配は全く違います。 またこの間に六年四月条の呉からの使者の話が脈絡なく入り込んでいます。

雄略七年八月条には吉備下道臣前津屋の一族を皆殺しにした話に始まり、吉備上道臣田狭の妻を略奪する話が続きます。 田狭は新羅に逃れ、吉備海部直赤尾に新羅攻めを命じる話が続きます。 さらに朝鮮の技術者を呼び寄せるため、日鷹吉士堅磐固安錢を派遣する話が続きます。 これはとてもひと月の話とは思えないものです。 おそらく干支などをともなった記事ではなく、雄略朝と吉備勢力の争いの伝承をまとめたものであると考えられます。 その中に新羅攻めの記事があり、引き続く雄略八年以下の新羅での軍事行動との結びつきも良いので、少子部連の記事と合わせて、この位置に挿入することにしたものと思います。

この雄略七年の記事が後から追加されたとすると、雄略六年の呉の使者の話が、次の雄略八年の身狭村主青と檜隈民使博德につながっていたことになります。 おそらく唐突で理由の明らかでない呉への使者に対する、前振りの意味があったのでしょう。

それではこの記事はどこから来たのでしょうか。 この記事が挿入されたことで、雄略二十年の漢城陥落の記事が、百済新選註の干支から一年遅れになっていること、しかもその後の雄略二十三年の東城王即位が、三国史記の年次とあっていることから、二十三年と二十年の間にあった記事を、一年分雄略七年に移したと考えられます。

なぜ雄略七年の記事は移されたのでしょうか。 この記事によると、雄略に略奪された田狭の妻の産んだ子が星川の皇子であり、雄略没後清寧と争うことになるのです。 おそらく雄略七年の記事は、雄略二十二年の清寧の立太子記事の前にあって、清寧紀の星川皇子との継承争いに至る因縁を、説明したものだったのでしょう。

ところが編纂の最終段階にあって、大きな矛盾が見つかったと思われます。 すなはち、それまでばらばらな一代記であった雄略紀と清寧紀が、連続する編年の中に位置づけられることになった上、雄略の没年が十年引き上げられたため、この星川の皇子の誕生に結び付く話題が、雄略没年の星川の乱の二年前になってしまい、乱の時点で皇子はあまりに幼く、話の筋が通らなくなってしまったからだと思われます。

それではそもそも、清寧の立太子記事を含めて、十年繰り上げれば良かったのにと思いますが、伝承上立太子記事は雄略二十年の漢城落城記事よりも、著しく前には持っていけない事情があったのではないかと思います。

6.再編纂の実際

雄略八年の身狭村主青と檜隈民使博德の呉への使は、都合四年繰り下げられ、雄略十二年の使いは合わせて九年繰り上げられていました。 では記事の繰り上げと繰り下げの基準はどこにあったのでしょうか。 宋書の記録では460年と477年の朝貢に当たる使いの記録が、雄略紀では四年差になっていて、その間十三年短縮されています。 これは3節で述べた、元年の三年繰り下げと末年の十年繰り上げの調整が、この間に起こっていることになります。

もしも記事の込み合ったところでこんなことをすれば、記事の調整が非常に大変になったでしょう。 想定されるように短い期間でこのような再編纂が可能であったとすれば、この間に記事の密度の薄い期間があったと思われます。 そのような期間をめどにそれよりも後の記事は繰り上げ、それより前の記事は繰り下げたと考えることができます。

記事の全体の繰り下げは比較的簡単に行えます。 現日本書紀には、多くの場合即位元年に太歳記事がありますが、編年体を目指さなかった再編纂前にこの記事があったかどうかは分かりません。 仮にあったとしたら、この干支を動かすことで即位年は操作可能です。

α群では文中の百済三書にある記事と対応する出来事については、その干支に合わせようとしています。 もともとの記事を繰り下げる場合には、このような記事の即位年次を逆に繰り上げれば良いことになります。

例えば、雄略五年には武寧王の誕生記事があり、百済新選を引いてその干支を辛丑としています。 この記事の干支を動かさずに、即位年次を三年前の位置に移せば、他の記事の即位年次を三年繰り下げることになります。 とすればその様な操作前にはこの記事は、一代記の八年にあったことになります。 前節で述べた一年繰り下げの前に定点とした、百済史料と結びつく記事は全て即位年次では三年繰り上げることになります。 清寧立太子記事は、漢城落城以後の何らかの記事と、伝承的に関係があったため同じ操作となったでしょう。 後に清寧と争う、星川皇子の登場する雄略朝と吉備の抗争の話も、同様に一旦は即位年次で三年前に移動し、すでに述べたように後に雄略七年に移されたのでしょう。

それではここからさらに、雄略末年を十年繰り上げるにはどうすればよいでしょうか。 雄略末年は再編さん前には489年で、即位元年を454年とすると、雄略即位三十六年となります。 雄略末年を即位二十三年とするには、即位年次を十三年繰り上げた位置に移せばよいことになります。 さきに述べた記事の密度の薄い時期より後の、百済史料とつながりを持つ記事以外は、雄略即位年次を十三年繰り上げられたと考えられます。

7.記事の重複例

記事を移動した際に、当然元の記事と被りが生じた場合があったはずです。 ここではそのような可能性のある例を提示します。

現在の雄略九年三月条と五月条には新羅攻撃の記事があります。 これと三国史記の記事を照合してみましょう。 ここではかなり具体的な戦争の描写があり、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰などの戦闘の描写があります。

新羅王、夜聞官軍四面鼓声、知盡得喙地、與數百騎乱走。是以、大敗。
   新羅王は夜、四方に官軍が鼓を打つ音を聞いて、官軍が喙の地を全て得た事を知り、数百騎と乱れ逃げ、ここに大敗した。

新羅王は包囲され逃げ出し大敗したというのです。 この記事に続いて、残兵が降参せず、大伴談連と紀岡前来目連が戦死する話がでてきますから、結局は倭軍の敗北であったと思われます。 新羅王が囲まれた記述は、漢籍による潤色で事実ではないと言われますが、一旦は王城を包囲して攻めきれず敗北したとも解釈できます。

そこでこれに該当する記事が、三国史記にないかを確認してみます。 前節でみたように現在の雄略八年が460年とすると、雄略九年は461年となります。 これに最も近い年で、類似する状況を調べると、慈悲麻立干二年に下記の記事が見つかります。

夏四月,倭人以兵船百余艘,襲東辺,進囲月城,四面矢石,如雨。王城守,賊将退,出兵撃敗之,追北至海口,賊溺死者,過半
   夏四月に倭人が兵船百四艘で東の辺境を襲い、進んで月城を囲み四面から矢や石が雨のごとくあった。王は城を守り、賊将は退き、兵を出してこれを撃ち破った。北へ海際まで追い、賊の半数以上は溺れ死んだ。

夏四月に倭人が王城である月城を囲み、王が城を守って撃退した話です。 慈悲麻立干二年は459年にあたりますが、これは注意が必要で、慈悲麻立干十七年に高句麗が百済漢城を落とした話が出てきます。 百済漢城の陥落は475年ですから、これから考えると慈悲麻立干二年は460年になります。 雄略八年の記事も460年でしたから、現在の雄略九年三月条と五月条の記事が460年とすると、即位年時で一年後ろにずれていることになりますが、雄略九年の記事と雄略八年の記事の間には記事は挟まりようがありません。 とすると、現在の雄略九年の記事は二年分に分断された後半としか考えられず、現在の雄略九年三月条と五月条は、雄略八年の二月条に続くものだったことになります。 つまり二者の間に挟まる二月条の宗像に関する記事は、後から挟まり記事を二年分に分断したということです。 どこかから移動してきた記事がこの年にかぶさり、同じ年に二月条があったために、記事が二年に分断されたのでしょう。

さて何故宗像の記事は挿入されたのでしょうか。 継体欽明朝の状況から、再編纂は限られた時間の中で、矛盾にかまわずかなり機械的に行われたと思われます。 前節でみたように、再編纂前の雄略紀では呉への二回の使者の記録の間に、比較的記事の密度の薄い時期があり、それより後の記事は、百済三書の干支に絡む記事以外、雄略の即位年次で十三年繰り上げたと思われます。 雄略八年以降が一年繰り下げられたことを考慮すると、都合十二年繰り上げられたと思われます。 もしも宗像の記事が、繰り上げられて雄略八年に挿入された記事であったとすると、もとの年次は雄略二十年であったことになります。

宗像の記事は機械的に繰り上げられたのち、現在の雄略八年にそのまま挿入され、もともとあった八年二月条と二つの二月条が生じたのでしょう。 また武寧王の誕生記事は、もとは現在の雄略九年の位置にあったものが移されたため、完成された雄略紀では雄略九年は空白年となっていたと思われます。 このような状況で伝写されていけば、雄略八年の二番目の二月条は、九年二月条であるとの校勘を受けることになったと思われます。

ここで現在の雄略八年二月条と九年三月条以下が、内容として本来どのような関係であったかを考察してみます。 八年二月条は、新羅が天皇に背を向けて高麗を頼り、騙されていたことに気づいて国内の高麗人を殺したところ、高麗に攻められ任那を頼って窮地を抜けた話です。 一見すると新羅を助けて高麗と戦った話で、その後の新羅との戦いの話とは結び付かないように見えます。

この二月条に見える話と関りのありそうな話が、新羅本紀訥祇麻立干三十四年(450年)秋七月条にあります。 何瑟羅城主が高句麗の辺将を殺し高句麗王が怒って兵を起こして西辺に攻めてきたため、新羅王は謝罪し高句麗王は帰っています。 同様の記事が高句麗本紀の同年の記事にもあり、恐らく史実であろうと思われます。 また新羅本紀訥祇麻立干三十八年(454年)八月条と、同年の高句麗本紀にも、こんどは高句麗が北辺に攻めてきた話があります。

三国史記には倭と高句麗が戦った話は出てきませんが、新羅を支援して戦ったという意味では、八年二月条はこのような何年かにわたる出来事を背景にした話だと思われます。 八年二月条は従って、そのものが史実でもなければ、干支を伴った年次を確定できる話でもなかったのです。 この話の主旨は、新羅と高麗の不仲はここに始まったという記述と、その直後の善臣の新羅に語った、汝、以至弱當至强、官軍不救必爲所乘、将成人地殆於此役。自今以後、豈背天朝也(汝は本当に弱いのに本当に強い相手と戦った。官軍が救わなければ必ずや大敗し、この戦いによって他人の土地になっていたであろう。これより以後天朝に背くことは出来ない)という言葉にあらわされています。

そしてこの言葉が、九年三月条の天皇の言葉、新羅、自居西土、累葉稱臣、朝聘無違、貢職允済。逮乎朕之王天下、投身對馬之外、竄跡匝羅之表、阻高麗之貢、呑百済之城。況復朝聘既闕、貢職莫脩。狼子野心、飽飛、飢附(新羅西の土地にあって、ずっと臣従してきて朝廷の招きに応じなかったことは無く、貢物も絶えなかった。私が天下の王になって、対馬の外にとどまり、匝羅の表に隠れて、高麗の貢物を邪魔し、百済の城を侵略した。また朝廷の招きに応じなくなり、貢物を納めなくなった。狼の子の野心があり、飽きれば飛び去り、飢えればよってくる。)につながります。 つまりこの八年二月条は、雄略紀に突然出てきた新羅攻撃の話の前振りになっていて、切り離すことはできないのです。 日本書紀の世界観では、新羅と高麗はともに天皇に仕えるものですから、善臣の言葉の直前にある、新羅と高麗の不仲が始まったのが新羅が天皇に背を向け高麗を頼り、逆に高麗との不仲を引き起こしたのだということも、新羅を攻める理由にされているのです。 儒教的秩序を保つためには、臣下同士の勝手な争いは、主人が咎めなければならないものだからです。

ここでは繰り上げた記事がぶつかった際の例を上げましたが、全てがこのように放置されたのではなく、これは例外的にミスで残ったものであり、実際には年次を微調整して対応したと思います。

8.再編纂をシミュレートする

再編纂がどのように行われたかをシミュレートしてみましょう。 まず記事の繰り上げには、途中にあった空白年が大きな役割を果たしたと思われるので、空白年の状況を推定してみます。

呉への最初の使いの記事は空白年の前にあったわけですから、そこには帰国の記事まではあったはずです。 帰国年は462年で、454年元年の再編纂前には、雄略九年だったはずでこれは繰り下がりの記事です。 これに続く翌年の水間の君の養鳥人を献上した話から、川瀬舎人を置いた話までは、引き続き繰り下がりの記事であると思われます。 つまり再編纂前の十年は繰り下がりであったことになります。 一方で雄略九年二月条の宗像の記事が、再編纂前には二十年にあり、雄略七年に繰り上がったとすれば、この間が繰り上がりと繰り下がりの分岐点であったと思います。

再編纂は基準になる百済漢城落城の記事、翌年の久麻那利を汶洲王に与えた記事、東城王即位記事を三年繰り上げ、再編纂前の二十年以後の残りの記事を十三年繰り上げる形で行われたと思われます。 実は東城王即位は三国史記では九月以降で、雄略紀の四月とはそのままでは合わないのですが、三国史記においても年表と百済本記では、文周王の在位年にずれがあり、何らかの記録の混乱が認められますので、ここは単に入手できた百済系史料の即位年のみに合わせたものと考えます。

既に述べたように清寧即位記事はもともと汶洲王の百済を助けた後という伝承があったため、再編纂前の二十五年から、三年の繰り上がりとなり現在の雄略二十二年となったと思われます。 また現在雄略七年八月条にある雄略朝と吉備勢力の不和の話は、雄略没後の清寧紀の星川の乱の因縁として書かれたものであったので、再編纂前の二十四年にあったものが、やはり十三年でなく三年の繰り上がりとなりました。 その後十三年繰り上がった七月条と共に、一旦二十一年に合わせて置かれたのち、星川の乱との不整合により十四年の繰り上がりとなって、現在の雄略七年の記事となったと思われます。 この最終段階での修正は、百済漢城落城が一年ずれても無頓着に行われたことでわかるように、かなりあわただしく行われたため、繰り上がった少子部の話と共に、一年分丸ごと移動したと思われます。 一年分丸ごと移動すると、間の雄略即位後の年次を一年増やす単純な操作になるためです。

以下記事変遷一覧を表にまとめました。

雄略紀再編纂シミュレーション
西暦干支海外古事記崩御年一代記
(番号)
年次
再編
再編纂後
(番号)
年次
修正
修正後
(番号)
後世
校勘
雄略紀
(番号)
記事略記
453癸巳1安康三年
2
3
4
5
454甲午允恭崩御6元年
7
455乙未(百)盖鹵王即位8二年
9
10
11
456丙申12三年1安康三年1安康三年1安康三年八月眉輪王が安康天皇を殺害
222是日八釣白彦皇子、坂合黒彦皇子、眉輪王、円大臣を殺害
333冬十月癸未朔市辺押磐皇子殺害
444是月御馬皇子殺害
555十一月壬子朔甲子天皇即位
眞鳥大臣、大伴連室屋、物部連目大連
457丁酉13四年6元年6元年6元年春三月庚戌朔壬子草香幡梭姬皇女が皇后に
14777是月韓媛、稚媛、童女君を妃に
458戊戌(新)慈悲麻立干即位15五年8二年8二年8二年秋七月池津媛と石川楯を焼き殺す
999冬十月辛未朔癸酉吉野宮へ行幸
101010是日皇太后が膳臣長野、菟田御戸部、眞鋒田高天を献上
111111是月史戸、河上舍人部を置く
459己亥(新)倭人来寇
三国史記にずれ
実際は翌年か
19六年12三年12三年12三年夏四月阿閉臣国見の讒言で栲幡皇女が自殺
20
21
460庚子(宋)倭国朝貢25七年13四年13四年13四年春二月葛城山で狩りの途中一事主神に会う
26141414秋八月辛卯朔戊申吉野宮へ行幸
28
29
30
461辛丑16八年3年上げ15五年15五年15五年春二月葛城山で狩りの途中猪に会う
173年上げ161616夏四月百済王の加須利君(蓋鹵王)が軍君を遣わす
183年上げ171717六月丙戌朔筑紫の各羅嶋で嶋君(武寧王)が生まれる
181818秋七月軍君入京
462壬寅(宋)倭国王興朝貢
(新)倭人来寇
31九年19六年19六年19六年春二月壬子朔乙卯泊瀬小野に遊ぶ
202020三月辛巳朔丁亥蜾蠃が桑ではなく嬰児を集めたので少子部連とする
212121夏四月呉の国が使者を遣わし献上をおこなった
463癸卯(新)倭人来寇32十年25七年1年下げ22七年22七年秋七月甲戌朔丙子少子部連に三諸岳の神を捉えさせる
34261年下げ2323八月吉備弓削部虛空から吉備下道臣前津屋の行状聞く
伝物部兵士に一族を殺させる
271年下げ2424是歲吉備上道臣田狹を任那の国司に、その間に妻を奪う
吉備海部直赤尾に新羅攻めを命ずる
日鷹吉士堅磐固安錢が技術者を連れ帰る
281年下げ
291年下げ
301年下げ
464甲辰36十一年八年25八年25八年春二月身狭村主青と檜隈民使博德を呉に遣わす
2626自天皇卽位至于是歲新羅と高麗が争う
膳臣斑鳩、吉備臣小梨、難波吉士赤目子が新羅救援
271年下げ
281年下げ
291年下げ
301年下げ
465乙巳37十二年31九年1年下げ27九年春二月甲子朔難波日鷹吉士と弓削連豐穗に凡河内直香賜を誅殺させる
3828三月新羅親征を神が止め紀小弓宿禰、蘇我韓子宿禰、大伴談連談、小鹿火宿禰に征伐させる
王城を囲むが落とせず大伴談連、紀岡前来目連が戦死
紀小弓宿禰が病死
3929夏五月紀大磐宿禰に新羅で軍を掌握し韓子宿禰、小鹿火宿禰と不和
采女大海が紀小弓宿禰を葬る
30秋七月壬辰朔田辺史伯孫が馬と埴輪を交換
466丙午十三年32十年1年下げ31十年31十年秋九月乙酉朔戊子身狭村主青が呉から持ち帰ったガチョウが、噛まれて死ぬ
水間君が養鳥人を献上
331年下げ
341年下げ
467丁未十四年35十一年1年下げ32十一年32十一年夏五月辛亥朔川瀬舎人を置く
361年下げ3333秋七月百済から貴信が逃げてくる
3434冬十月鳥官の禽が菟田人の犬に噛まれて死ぬ顔に入れ墨をして鳥養部とする
468戊申十五年37十二年1年下げ35十二年35十二年夏四月丙子朔己卯身狹村主靑と檜隈民使博德が使いとして呉へ出発
381年下げ3636冬十月癸酉朔壬午木工鬪鶏御田に楼閣を立てさせる
391年下げ
469己酉十六年40十三年1年下げ37十三年37十三年春三月歯田根命が山辺小嶋子を犯す
物部目大連に責めさせる
411年下げ3838秋八月春日小野臣大樹に播磨国御井隈人、文石小麻呂を討たせる
421年下げ3939秋九月韋那部真根がを処刑しようとして止められた
431年下げ
470庚戌十七年44十四年1年下げ40十四年40十四年春正月丙寅朔戊寅身狭村主青が呉の使者と帰国
漢織、呉織、衣縫の兄媛弟媛と住吉津に泊まる
4141是月呉の使者のため磯歯津路に通し呉坂と名付ける
4242三月迎吳使、呉の人を檜隈野に住まわせ吳原と名付ける
衣縫兄媛を大三輪神に奉じ弟媛を漢衣縫部とした
4343夏四月甲午朔根使主に呉人をもてなさせるが、過去の盗みが発覚して誅殺される
根使主の子の小根使主は天皇の城を批判して殺される
471辛亥十八年45十五年1年下げ44十五年44十五年秦の民を秦造の秦酒公の下にまとめる
461年下げ
472壬子十九年47十六年1年下げ45十六年45十六年秋七月桑を各地に植えさせ秦の民を広めて庸調を献上させる
4646冬十月漢部の人々を集めその管理者を定め直とした
473癸丑27二十年13年上げ48十七年1年下げ47十七年47十七年春三月丁丑朔戊寅贄土師部を置く
474甲寅49十八年1年下げ48十八年48十八年秋八月己亥朔戊申物部菟代宿禰と物部目連に伊勢の朝日郎を討たせた
475乙卯(百)漢城落城
(百)文周王即位
50二十二年3年上げ50十九年1年下げ49十九年49十九年春三月丙寅朔戊寅穴穂部を置く
476丙辰(新)倭人来寇51二十三年3年上げ51二十年1年下げ50二十年50廿年冬高麗王が百済を滅ぼす
3313年上げ
477丁巳(宋)倭国朝貢
(百)三斤王即位
(新)倭人来寇
35二十四年13年上げ22二十一年14年上げ51二十一年51廿一年春三月久麻那利を百済汶洲王に与えて助ける
233年上げ2314年上げ
243年上げ2414年上げ
478戊午(宋)倭王武朝貢52二十五年3年上げ52二十二年52二十二年52廿二年春正月己酉朔白髪皇子を皇太子とする
535353秋七月瑞江浦嶋子が大亀を捕まえ蓬莱山に行く
479己未(宋)倭王武朝貢
(百)東城王即位
(新)炤知麻立干即位
40二十六年13年上げ54二十三年54二十三年54廿三年夏四月百済の文斤王が死に末多王を立て軍士500人を派遣した
東城王となる
4113年上げ555555是歲筑紫の安致臣、馬飼臣が高麗を撃つ
4213年上げ565656秋七月辛丑朔病に倒れ皇太子に引き継ぐ
4313年上げ575757八月庚午朔丙子崩御して遺言を大伴室屋大連と東漢掬直残す
543年上げ585858是時征新羅將軍吉備臣尾代は吉備国に到着
蝦夷が反乱を起こす
553年上げ
480庚申44二十七年13年上げ
481辛酉45二十八年13年上げ
4613年上げ
482壬戌(新)倭人来寇47二十九年13年上げ
483癸亥48三十年13年上げ
484甲子49三十一年13年上げ
485乙丑
486丙寅(新)倭人来寇
487丁卯22三十四年13年上げ
488戊辰53三十五年13年上げ
489己巳雄略崩御56三十六年13年上げ
5713年上げ
5813年上げ

9.雄略の即位年はいつか

再編纂前の雄略紀は、それ自体は時代性もはっきりしない様々な史料を編纂したもので、即位前の記事を即位後として記録したものではあっても、干支を伴う原史料に関しては、それを尊重して組み込み、中国や朝鮮の史料との整合性も、ある程度は認められるものであったと思われます。 それをそのまま歴史として評価できないとしても、ある程度雄略朝の出来事を年次を追って、追跡可能であると期待できます。

この一代記的史料には、即位前の話が即位後の話として書かれているのですから、この記録のどこかに即位に係る記事があるはずです。 継体紀に関して調べた前稿では、継体即位は筒城宮への遷都と、その後の外交軍事記事の欠落に現れていました。 天皇即位は夜間神床で神意を聞く地位であるため、昼間の政治から遠ざかり、記録を残すような周辺の人々とも疎遠になるためであると考えます。 編纂前の雄略紀においては、最初の呉への使いの後、記事の空白年があったと思われます。 つまり現在の雄略八年の身狭村主青と檜隈民使博德の呉への使いの記事の後に、その兆候があるはずです。 雄略九年三月の新羅攻めの記事に、天皇自身が新羅攻めを行おうとしたところ、神に止められたという記事があります。 おそらく前稿でいう、軍事外交を担う昼の王であった雄略は、夜の王であった安康の使者を、倭国王興の使者として南朝に遣わしたのち、みずから先頭に立って戦おうとしたけれども、それがかなわなかったということです。 私はこの頃に、即位前記に見える目弱王の変が起こったのであろうと思います。 雄略紀によれば変の起こったのは八月ですので、これがもし何らかの根拠に基づくものならば、前後が逆になりますが、神に止められたのが新羅攻撃のなかで、もっと後の事であった可能性もあります。 つまり紀小弓宿禰が亡くなり、紀大磐宿禰が軍の掌握を行ったところ、小鹿火宿禰や韓子宿禰と不和になり、韓子宿禰が殺されるという事件が起こっています。 新羅遠征軍の指揮が乱れており、自ら前線に立って統率しようとしたのが、八月ごろとすれば話が合います。 雄略紀には即位は三月となっており、この翌年の461年が即位元年にあたり、四月に蓋鹵王が崑支君を送り込んできたのは、即位に関連したことであった可能性があります。

そのあとの話は、身狭村主青と檜隈民使博德の帰国の話はありますが、古事記にも見える河瀬の舎人の話など、年次がはっきりしない口承伝承臭い話が、類似の話題の記事の近くに寄せられている気配があります。 前節のシミュレーションではこの後、外交記事が一時見えなくなり、戦闘記事も播磨国の文石小麻呂の征伐だけです。 この記事の前に、物部が命を受けて懲罰する話がありますから、これは物部つながりで記載されたものでしょう。 三国史記慈悲麻立干五年と六年、十七年の百済漢城落城を475年として修正すると、463年と464年に倭人襲撃の話がありますから、夜の王であったため記録されなくなっていると思われます。

また途中から再び記事が多くなってくるのですが、このきっかけが百済漢城陥落です。 継体紀では筑紫の君磐井との大戦争に際して、継体が退位したことを見ました。 倭国の重要な同盟国の首都が陥落する事態は、朝鮮半島政策の危機でしょうから、雄略は再び実務に復帰したのでしょう。 雄略は最高位までのぼっていますから、後世の上皇のような最高位にあり、自ら倭王武として朝貢使を南朝に遣わしたと思われます。 王名のは、雄略が夜の王である大王として即位していた時期に当たる、辛亥年(471年)の稲荷山鉄剣銘文に見える、獲加多支鹵(ワカタケル)のタケルの漢訳で、歴代の中国皇帝名にちなんだものでしょう。 これは和語の漢訳であって、をタケルと読む訓読の成立を意味するのではありません。乎獲居臣を何と読むか

現在雄略七年に置かれている、吉備勢力と雄略朝のいさかいの話の中に、田狭の弟の吉備海部直赤尾に命じて新羅を征伐させる話がありますが、前節のシミュレートでみたように、この記事の再編纂前の位置はこの立太子記事の前年雄略二十一年となり紀年で478年となります。 これは三国史記慈悲麻立干十九年と二十年、十七年の百済漢城落城の475年を基準とすると、477年と478年の倭人襲撃の話とつながる可能性があります。 次の東城王の記事に至るまで、外交と対外戦の記事が続きます。

雄略紀には東城王即位以後の、外交的記事は少なく、私はその後のある時点で重祚したのではないかと疑っています。 戦闘の記事についてはその後も、現在の雄略十八年、シミュレートした再編纂前の雄略三十年、483年の記事として、伊勢の朝日郎を征伐した話がありますが、文石小麻呂の征伐同様これも物部がらみの内戦で、本来干支を含まない年次のはっきりしない記事だった可能性があります。 東城王即位の話の前年に清寧の立太子記事があります。 この立太子は漢城落城後の、雄略の政務復帰、さらに重祚などの継承行為の中で行われたため、伝承として漢城落城後のことであると伝わっていたのでしょう。

10.消えた天皇

雄略が天皇位についていた間、誰かが昼の王として政務をとっていたはずです。 稲荷山鉄剣銘文では、この時期にあたる辛亥年に、乎獲居が天下を左治したとありますが、无利弖や乎獲居を統率する人間がいたはずなのです。 このときいったい誰が昼の王として、政務の統率を行ったのでしょうか。 さらに雄略が政務復帰した後は、誰かが神意を問う地位、すなはち天皇位についたはずです。 順当に行けば雄略に代わって昼の王を務めていた人物でしょう。 しかし雄略紀では雄略は天皇位につくような皇子を皆殺しにしているのです。

実は皆殺しになったはずの皇子に、もしかしたら一人だけ例外があるかもしれないのです。 それは顕宗紀にその皇后となった難波小野王の祖父にあたる人物です。 顕宗紀には難波小野王は允恭の曾孫で、磐城王の孫の丘稚子王の娘となっているのです。 つまり允恭の子に磐城王という人物がいたことになるのです。

一方磐城王と同名の人物が、雄略紀に吉備の稚媛の長男として現れます。 吉備の稚媛は吉備上道臣の娘とも吉備窪屋臣の娘とも伝わり、吉備上道の田狭の妻でしたが、雄略に奪われ生まれた子が磐城皇子で、弟が雄略死後に反乱を起こす星川皇子となります。 田狭の婦人には、玉田宿祢の娘毛媛という伝承もあり、大橋信弥氏(日本古代の王権と氏族)や吉田晶氏(毎日グラフ別冊 古代史を歩く4吉備)によればこちらの伝承が正しいとされます。

もし玉田宿祢の娘だとすると、円臣の娘で雄略の妃である韓媛の一世代上となります。 また星川の乱では吉備稚媛と田狭の子兄君と、城丘前来目が星川皇子に従って殺されたとなっていますが、城丘前来目とほとんど同じ名前の、紀岡前来目は雄略朝の新羅との戦いで死んでいるのです。 つまり一世代ずれたところに、同じような名前の人物が現れてくるのです。 しかも稚媛の伝承では、田狭は任那へ派遣されその間に雄略に召された事になっていますが、毛媛の伝承では、田狭は殺されています。 伝承には重要な点で食い違いもあるのです。 私見では同じような話が、允恭朝と雄略朝にあり混乱が起こっているのであると思われます。

もしも雄略に磐城王という異母兄弟がいたとすれば、この人物が雄略天皇即位後の昼の王の候補となります。 しかし雄略の政務復帰後天皇にまでなっていたのであれば、なぜその話は日本書紀にほとんど出てこないのでしょうか。 清寧の死後まで、磐城王かその子孫が生きていれば、清寧死後の皇位継承の問題もなかったはずです。

磐城皇子は星川の乱の際にそこに組しなかったことになっています。 私の想像では、こちらの雄略の異母兄弟の方は、星川の乱の前に亡くなったのではないかと思います。 顕宗紀には磐城王の子に丘稚子王があったとします。 もしもこの人物が生きていれば、やはり後継者の問題はなかったはずです。 私は星川の乱で亡くなったとする城丘前来目は、丘稚子王の誤りではないかと思います。 つまり允恭の血を引く磐城王は星川の乱の前に亡くなり、それに伴う継承の争いが星川の乱であり、磐城王の子も星川の乱で亡くなっているのです。 磐城王の背景にいたのは、書記を信ずるならば雄略朝と対立した、吉備系の人々であると思います。 それがゆえに磐城王の子は、星川の乱に際して星川皇子についたのでしょう。

そして磐城王の孫の難波小野王は、顕宗皇后にはなったものの、子を残さず仁賢時代に不敬を問われて自殺したことになっています。 つまりこの血統は絶えてしまったのです。 磐城王の記録が全く残らなかった理由は、以下の三点にまとめられるのではないかと思います。

(1).磐城王は雄略に次いで天皇になったが先に亡くなり雄略が重祚したため、安康から雄略、雄略から清寧という継承の伝承が残った。
            そのため重祚などということが想定されなければ、雄略の退位も磐城王の即位も飛んでしまうことが考えられる。
   (2).磐城王の子孫は血統が絶えてしまった。
   (3).血統が絶える原因として、朝廷への反乱の失敗や不敬等として記録される、政治的敗北があり、伝承を伝える周辺の一族も没落した。

この血統を支えた人々は、このような度重なる政変により没落し、事績を伝えることがなかったのでしょう。 歴史記録というものは、多くの場合その時代に生きている人のために、書かれるものだからです。

11.朝貢記事の再検討

倭王武の朝貢に関しては、まだ残る謎があります。 まず倭の五王の朝貢は、大体5年から9年の間隔で行われていますが、460年以降は連続する傾向があるだけでなく、462年から477年まで15年もあいていることも気になります。

倭王武の上表文では、父の済が高句麗の無道に対して怒り、攻めようとしたところにわかに父と兄を失い、喪に服して軍を止めているとあります。 しかしここまでの解釈では、雄略が宋への使者を送ったのは允恭の没後二十四年も経っていることになります。 兄の死からもすでに十七年も経っています。 この点はどう考えるべきでしょうか。

倭国王興の最初の遣使は、本稿では460年、一般には462年とされていますが、宋書によればその時にはは亡くなっており、そもそも上表文の内容は矛盾しています。 喪に服したのが兄の死であったという解釈も、父のの差し向けようとした軍を止めたという文脈に矛盾します。 つまり上表文の内容は脚色されたものであり、そのまま事実を言っているのではないということがわかります。 むしろ内容的には、460年の兄安康の使者を送り出した時の、雄略の心境を表しているように見えます。 そのとき允恭の後を継いだ安康のもと、雄略は軍事外交権を持っており、自ら新羅攻撃の先頭に立とうとしていました。 しかし目弱王の変で、神に止められたのです。

もう一つの問題は、もしも本稿で想定しているように、雄略が昼の王である時期に、安康の朝貢の実務を行ったのが、雄略紀の最初の呉への使いであり、しかも安康は使者が出発してほどなく殺されたのなら、その使者はいわば無効になっているはずです。 460年と462年の朝貢の間隔は、使者を立て直すほどの余裕はないにしても、大陸に滞在中の遣使からの急使が往復するぐらいの余裕はあり、劉宋によって修正された釈号に関して、倭の王の採決を得ることは可能であるとは思います。 その際に訂正もなさず、そのまま倭国王興として爵位を受けてしまうのはどういうことでしょうか。 そのままにしていたのであれば、対外的には16年もの間、雄略は倭国王興になってしまうことになります。

雄略が使者を立て直さずどう対処したのかですが、気になることがあります。 稲荷山鉄剣銘文の分析で、獲加多支鹵大王の時代に倭の王名表があり、そこでの王名には大小や宮号などを含まないものであると推定しました。参照:獲加多支鹵大王は雄略天皇か

ところが安康の和風諡号には、宮号しか含まれないのです。 数多く伝わる和風諡号にも、そのような例は他にありません。 私は諱や字などと言うのは中国の制度で、古代日本ではその原型になる自然発生的なものとして、子供のころ親に付けられた名を、成長に伴ってついた地位にふさわしいものに変えてゆくのが一般的であったと考えます。 そして天皇位につく前の、昼の王の時代に呼ばれた名が、五世紀王名表に残ったと考えています。

私は雄略は安康の即位事実を無視し、王名表から外してしまったと考えます。 そして対外的には倭国王興のまま即位したと考えます。 安康が復活したのは、雄略十九年の穴穂部の設置のころでしょう。 この記事は再編纂によって十二年繰り上がっており、雄略一代記の三十一年(484年相当)にあたり、倭王武として爵位を得た後であると思われます。 これはおそらく大伴氏のかかわった伝承で、原史料に干支があったかどうかわかりませんが、雄略晩年との伝えがあったのではないかと思います。 安康は允恭崩御後まもなく即位し、昼の王としての期間が短かったうえに、穴穂部設置までにかなりの期間が流れたため、伝承上穴穂皇子としてのみ伝わっていて、宮号だけが名として伝えられたと考えます。

477年の朝貢は百済漢城陥落に伴う、朝鮮半島政策の危機に際し、外交を立て直す必要に迫られたものであると思われます。 天皇位は別人に譲ったものの外交軍事の担当者として、かつ天皇位を超えた実質的な最高位として、倭王武と名乗ったわけです。

倭王武には他に南斉書に479年、梁書に502年の朝貢記録があります。 479年の朝貢には、かって南斉王朝成立に伴う形式的なもので、梁王朝成立に伴う502年の朝貢同様に、実際には朝貢はなかったとされてきました。 しかし2011年に発見された、愛日吟廬書畫續録巻五に残る職貢図題記に、斉建元中奉表貢献とあったことから見直されています。 このとし479年は加羅国王の南斉朝貢年であり、地勢的に百済もしくは倭の嚮導なしの朝貢は難しいこと、この年には百済の朝貢記録がないことから、倭が加羅を嚮導して朝貢したという説が有力になりました。

既に述べたように479年の朝貢は、加羅王荷知を嚮導したもので、それまでの爵位を求めることが主目的の朝貢とは異なります。 稲荷山鉄剣銘文の仮名が、百済三書の表音と強い共通点があることから、当時の倭国内で朝貢などに携わった人々は、百済系の漢人であろうと思われます。 加羅王荷知を嚮導するということは、百済との関係を悪くする可能性があったと思われます。 そのため479年の朝貢には、身狭村主青と檜隈民使博徳以外の、加羅との関係の深かった使者が立ったのでしょう。

先に見た磐城王を支えたとした、吉備系の人々の雄略紀における伝承を見てみると、田狭は任那国司になり新羅を頼り、任那に留まります。 吉田晶氏はこれらの人々は、半島南部と深いかかわりがあったと言っています。(毎日グラフ別冊 古代史を歩く4吉備) この朝貢は磐城王がまだ健在であった時期に、それを支える人々が行ったのでしょうが、倭国にはその時劉宋から倭王の爵位を与えられた、天皇磐城王より上位の雄略がいたため、倭王武の朝貢となったと思われます。 この時期の加羅に関りの深かった人々は、星川の乱などの影響で子孫が没落し、日本書紀には記録を残せなかったのでしょう。

以上長文になりましたが、私は宋書の倭国王興倭王武は、それぞれ日本書紀の安康と雄略に、その治績や人物像の少なくとも一部が反映されており、倭王武は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王とみてよいと思います。

参考文献

  1. 吉田晶 毎日グラフ別冊 古代史を歩く4 吉備 古代吉備通史
  2. 鈴木靖民 倭国と東アジア 吉川弘文館
  3. 河内春人 倭の五王 中公新書
  4. 廣瀬憲雄 古代日本外交史 講談社選書メチエ
  5. 日本書紀 岩波文庫(三)
  6. 全現代語訳 日本書紀 宇治谷孟 講談社学術文庫
  7. 維基文庫 三国史記
  8. 漢籍電子文献資料庫
  9. 日本書紀検索

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