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玄菟郡

−漢と貊の間−

概要

玄菟郡は漢の武帝の設置後、時代とともに西方に移動していったことが知られており、一般に第一玄菟郡、第二玄菟郡、第三玄菟郡の三つの時期に分けられる。(1)(2)(3)(注1) しかしながら玄菟郡移動については、郡治の位置や郡治の移動の回数と時期などに複数の説がある状況で、(4)(5)(6)(7)なお不明な部分も多い。 玄菟郡治の移動は、三国志魏書東夷伝東沃沮条に簡単に記述された以外に、文献上の記載がなく、多くは周辺状況からの推測となっているのである。 その推測の大きなよりどころとなっているものが、漢帝国の支配下から興起した高句麗の発展と、それに伴う玄菟郡の西退という歴史モデルである。(1)(3) しかしながらこのモデルに立つ諸説は、そもそも第二玄菟郡相当を記載したと思われる、漢書地理志の玄菟郡記述に対する文献批判から出発している。(1) またこの延長上にある後漢代の第三玄菟郡についても、後漢書郡国志の記述に何らかの誤りがあると考えざるを得なくなる。(4) 二つの志は漢代における玄菟郡を俯瞰する希少な文献であり、このいずれにも誤りがあるとするならば、これらの説は他のどのような根拠に基づいていると言えるのだろうか。 本稿では、主に史記、漢書、後漢書、三国志を基本資料とし、その他文献も参照しつつ文献上の玄菟郡をトレースし、合わせて今世紀に入っての考古学的成果を加味し、高句麗と玄菟郡に関する歴史モデルを再検証しようと考える。



目次


1.はじめに

中国漢代の玄菟郡については、その位置を次第に移動したとされる。玄菟郡の変遷状況は三国志東夷伝沃租条に記載されたものがまとまっている。

三国志東夷伝沃租条:「漢武帝元封二年,伐朝鮮,殺滿孫右渠,分其地為四郡,以沃沮城為玄菟郡。後為夷貊所侵,徙郡句麗西北,今所謂玄菟故府是也。沃沮還屬樂浪。」

これを見ると玄菟郡治は、沃租城から高句麗西北に移り、そこも三世紀にはすでに玄菟故府であり、玄菟郡治がよそへ移動していたことが分かるのである。 沃租城から高句麗西北への郡治の移動の原因は、「夷貊所侵」であるが、一般にはこの夷貊を高句麗とする。 沃租城を郡治とした時代を第一玄菟郡、高句麗西北に移動したのちを第二玄菟郡、その後を第三玄菟郡とするのが一般的である。 三国志東夷伝に記載された民族配置から、沃租城は現在の咸興市附近と想定される。 三世紀高句麗の中心部は集安とされ、その西北の郡治は漢書地理志の記載なども合わせて、現在の新賓永陵附近にある漢の古城とされる。 その後の郡治については、三国志呉書の裴松之註に引く呉書より、撫順方面とされる。

三国志呉書裴松之註:「玄菟郡在遼東北,相去二百里」

この玄菟郡治が晋書地理志に見る玄菟郡治の高句麗縣とする。 玄菟郡の移動に関しては、以上の三国志の資料と、おおむね同内容の記載が後漢書東夷伝にあるのみである。 ところが玄菟郡の移動に関しては諸説ある。たとえば李 丙Z氏は、第一玄菟郡の郡治は沃租ではなく、集安あたりにあった高句麗縣であるとする。(注2) また武田 幸雄氏(8)や田中 俊明氏(6)は、第一玄菟郡時代には集安に高句麗縣があり、それが第二玄菟郡時代には新賓永陵に移動したとする。 集安の高句麗縣は漢書王莽伝にみえる高句麗候の支配地となったとするのである。しかし集安に高句麗縣があったという証拠は、文献上も金石文上も見当たらない。 高句麗縣については、集安西北から撫順方面に移動したことのみが文献上言えることであるのに、なぜこのような頻繁な移動の想定が生まれてくるのであろうか。 高句麗縣の移動に関しては、それを高句麗の漢支配からの離脱と興隆を原因とすると考えられているようである。(1)(3)(4)(5)(6)(7)(8) このような玄菟郡と高句麗の関係性についてはどのような資料に基づいて議論されてきたのであろうか。

この問題の源流は、第二次大戦前の日本支配下の満州朝鮮の地理と歴史に関する研究であり、文献的にも考古学的にも現在の玄菟郡像の原型を作っていることがわかる。 ことに津田 左右吉氏によって行われた、漢書地理志の玄菟郡記述に対する文献批判は、現代にいたるまで多くの影響を与えていると思われる。(1) 氏は真番郡在北説に依拠し、玄菟郡が真番郡の跡地に移動したという前提で論じられているが、漢書地理志の玄菟郡記述に対する文献批判の部分は内容的にそのような説には依存しない。 長くなるが引用する。

「ところで此の三縣中の郡治の地たる高句驪縣が今の興京附近であるといふことには異議があるまい。 西蓋馬縣は不明であるが、王莽がそれを玄菟亭と改稱したところから見ると、玄菟郡治よりは遼東に近い地點だらうと考へられる。 王莽に改稱せられた他の多くの例、特に楽浪郡の浿水縣を楽鮮亭と改めたことから類推してかう考へられる。 ただ上殷台縣だけはその所在を推知する何等の手がかりも無いが、他の二縣とひどく隔たってゐる筈は無いから、やはりその附近と見なければなるまい。 さすれば移轉後の玄菟郡は大體今の渾河の上流の流域にあったのである。さてここで考ふべきは西蓋馬縣の註に例の有名な馬水の記事のあることである。 「馬水西北入鹽難水,西南至西安平入海」はどう解釋しても無理が生ずるから、そこに何かの誤が潜在するらしく思はれるが、何れにしても今の鴨緑江もしくはその支流の畔にあったものであらう。 然るに、それが渾河流域にあるのは、そこに縣の移轉という事實があることを示すものであり、この註記は移轉前の記録から取ったものではあるまいか。 漢書武帝本紀に註記せられてゐる茂陵書の如きものが後にも傳はつてゐた様であるから、漢書編纂の際にかういふ古記録があったと見るのは、決して不當ではない。 ただ高句驪縣の條の註記は渾河の上流にあることを示してゐるのであるから、此の點から見てかういふ推測は少しく無理のやうであるが、その高句驪縣が實はやはり鴨緑江の流域から移轉したものらしい。」

この解釈によって地理志の時代の玄菟郡は、「今の興京」すなわち新賓永陵の高句麗縣を中心とする、小さな地域にあったと考えられるようになった。 上に見る西蓋馬縣や高句驪縣の移動とは、いわゆる第一玄菟郡から第二玄菟郡への移動の際に、属縣が移動したと言っているのである。 高句驪縣はさらに三世紀には西方に移動していたのだから、この一文が玄菟郡はその属縣ごと西へ西へ移動したという、現在までの玄菟郡のイメージを作ったと言ってもよいであろう。 しかしながら最後のセンテンスには、著者の迷いが感じられる。 西蓋馬縣の注記は第一玄菟郡のものとしながら、高句驪縣の注記は第二玄菟郡のものとしているからである。 同文後半では高句驪縣もまた移動してきたことを示唆しているが、これは不自然さの解消にならないばかりか、むしろなぜ高句驪縣の注記が第一玄菟郡のものでないのか疑問が増すばかりである。 この論文が書かれた当時、撫順周辺では漢代遺跡の発掘が進み、遼河方面での玄菟郡の姿が浮かび上がってきていた。(7) 文献上の考察に基づいて書かれたというよりも、むしろそのような考古学的背景と、その当時大陸に進出していた日本人にとっての実感が、このような結論につながっているように思われる。 すなはち遼河から鴨緑江までの広大な土地に、わずか三縣しかない第二玄菟郡の構想が、受け入れ難かったのではないか。

その後この地域の考古学的調査は大きく進み、日本では武田 幸雄氏や田中 俊明氏による研究成果が、1995年出版の「高句麗の歴史と遺跡」にまとめられている。 玄菟郡に関連して注目されたのは、遼寧省から吉林省の古代高句麗の中心地に、漢の土城の跡と思われるものが多数見つかったことである。(9) とくに吉林省集安市の通溝城下層にみつかった土城跡は、上記津田 左右吉説以下諸説にある、もとの高句麗縣治と想定できそうに思える。 特に李 丙Z説ではこれが第一玄菟郡の郡治でもあり、極めて重要な意味を持つ。(注2) これらの結果はこれまでの玄菟郡像を補強するものと思われた。

(図1)玄菟―−「高句麗の歴史と遺跡」より(5)

しかし、その後も考古学的な発見は続き、桓仁地域の下古城子土城について、それが高句麗前期に始まることが分かった。(10) それ以前には高句麗は土城を作らないとされ、発見された土城は漢代のものとされたが、そのような根拠は失われた。 通溝城下層の土城は戦国期の遺物を含むがそれは上限を与えるものでしかなくなったのである。 一方で吉林通化赤柏松漢代古城のように、出土物より漢の縣城である可能性が高い遺跡もあらわれている。(11) その年代は「初歩推断其年代為西漢中晩至東漢早中期」という。 場合によっては後漢の中期まで、吉林省に漢の縣城があった可能性もあるのである。 現在中国における一般的な解釈は、高句麗縣治を新賓永陵漢代古城、上殷台縣治を吉林通化赤柏松漢代古城、西蓋馬縣治を集安附近土城とするものである。 これは今までの第二玄菟郡の範囲を大きく広げるものである。

このような状況も踏まえて、玄菟郡がいかなるものであったか、もう一度文献に沿って考え直してみることが重要であると考える。 本稿では「史記」「漢書」「三国志」「後漢書」を基本的な文献資料とし、その他の文献を参考として、そこから玄菟郡の記述を整理し、どのような玄菟郡像が描けるのかを導き出してゆく。 これら史書に記述上の矛盾がある場合には、より成立年代の古い文献を正とした。 特に成立年代の新しい後漢書東夷伝については、三国志東夷伝書稱を見れば、その原史料に当たる東観漢記には東夷伝がなかったことが想像される上、内容の比較でも五世紀情報を付加した三国志東夷伝の焼き直しになっていると思われるため、利用にあたっては十分に留意することとした。 ただし後漢代の記述については、東観漢記等の先行史料の本紀的記述や他の烈伝的な記述から取ったと思われる、他の資料に見えない情報が見える。 これらは比較できる他の情報も無いことから、本稿でも基本史料として扱った。

2.第二玄菟郡 −漢書地理志の玄菟郡−

まずは津田 左右吉氏による、移動する玄菟郡像の原点となった、漢書地理志の玄菟郡を見ていこう。

漢書地理志玄菟郡:「玄菟郡,武帝元封四年開。高句驪,莽曰下句驪。屬幽州。戸四萬五千六,口二十二萬一千八百四十五。縣三:高句驪,遼山,遼水所出,西南至遼隊入大遼水。又有南蘇水,西北經塞外。上殷台,莽曰下殷。西蓋馬。馬水西北入鹽難水,西南至西安平入海,過郡二,行二千一百里。莽曰玄菟亭。」

まず「玄菟郡」に続く「武帝元封四年開」は漢書地理志のどの郡の記述にも見られる、郡の開設についての記述である。 これは最初にいわゆる第一玄菟郡が設立された事情を表す。 それに引き続く「高句驪」は異例の記述である。 通常ここには、その郡にある官や地名などが書かれる。 続く「莽曰下句驪」はさらに異例である。 この位置に「莽曰」が来る場合は、それ以下が王莽によって改称された郡名になる。 しかし王莽が玄菟郡を改称しなかったことは、「西蓋馬」についての註の「莽曰玄菟亭」により明らかである。 王莽伝により、王莽は「高句驪」を「下句驪」としたことが明らかなので、この「高句驪」は民族名であろう。 あえて解釈するならば、玄菟郡は「高句驪」であるとしているとしか言いようがない。(注3)

ひきつづき人口の記述がある。 四万五千六戸は一縣あたり、一万五千戸となり周辺の郡に比べ多い。 参考までに幽州の例をあげる。

(表1)漢書地理志幽州の人口
郡名人口記述戸数口数縣数縣あたり戸縣あたり口戸あたり口
戸五萬六千七百七十一、口二十七萬八千七百五十四。縣十八56,771278,754183,153.915,486.34.9
上谷戸三萬六千八、口十一萬七千七百六十二。縣十五36,008117,762152,400.57,850.83.3
漁陽戸六萬八千八百二、口二十六萬四千一百一十六。縣十二68,802264,116125,733.522,009.73.8
右北平戸六萬六千六百八十九、口三十二萬七百八十。縣十六66,689320,780164,168.120,048.84.8
遼西戸七萬二千六百五十四、口三十五萬二千三百二十五。縣十四72,654352,325145,189.625,166.14.8
遼東戸五萬五千九百七十二、口二十七萬二千五百三十九。縣十八55,972272,539183,109.615,141.14.9
玄菟戸四萬五千六、口二十二萬一千八百四十五。縣三45,006221,845315,002.073,948.34.9
樂浪戸六萬二千八百一十二、口四十萬六千七百四十八。縣二十五62,812406,748252,512.516,269.96.5

李 丙Z氏はこの玄菟郡の人口が過大であるとして、第一玄菟郡時代の記録が混ざっているとする。(4) しかし、一戸あたりの口数は五人ほどで、標準的な値をとっている上、漢書地理志には涼州武都郡の一縣あたり二万一千六百二十四戸、益州蜀郡の一縣あたり一万八千八百七十五戸、州陳留郡の一縣あたり一万七千四百二十八戸などの例があり、決して玄菟郡だけが特殊なのではない。 北朝鮮の学術誌に2006年に載った論文で明らかになった、楽浪郡初元四年戸口統計木簡によれば、(12)紀元前45年の集計による楽浪郡の人口は、戸数四万三千八百十五、口数二十八万五百二十四で、元始二年(2年)と想定される漢書地理志との関係からみると、人口の値は順調な増加を見ていて、漢書地理志の集計がそれほど杜撰なものではないと考えられる。 一縣あたりの戸数が多いのは、周辺郡との何がしかの政治情勢の違いを反映していると見られる。

ひきつづき属縣の記述に移る。 高句驪縣の記載には、遼水と南蘇水の記述がみられる。 遼水は「西南至遼隊入大遼水」で、遼河とみられる大遼水の支流であり、渾河と見られる。 「遼山,遼水所出」との源流に関する記述からみて、高句驪縣は渾河の源流近くにあることが分かる。 南蘇水は渾河支流の蘇子河とみられ、「西北經塞外」の記述から高句驪縣は長城の外にあったことが分かる。 高句驪縣治は新賓永陵の漢代古城にあてる説が有力である。 引き続く、上殷台縣については地理的記載がなく、文献的には不明であるが、吉林通化赤柏松漢代古城が候補地として挙げられている。 最後の西蓋馬については、「馬水西北入鹽難水」と二つの河の合流点の記載がある。 「西南至西安平入海,過郡二,行二千一百里。」とあり、長大な河川で西安平で海にそそぐ。 鴨緑江下流の丹東市郊外の城址で「安平楽末央」の瓦がみつかり、西安平は鴨緑江河口近くと見られることから、上述二河川のいずれかは鴨緑江であることが分かる。 西蓋馬縣は鴨緑江に支流の合流する地点近くにあったのである。 鴨緑江最大の支流は佳江(渾江)であり、この二河川の合流点付近の可能性が高い。(注4)(注5)

西蓋馬縣の位置を推定する際に、しばしば蓋馬の名により、蓋馬山すなわち鴨緑江の上流部分を想定することがあるようであるが、そこは蓋馬であって、縣名は西蓋馬であることに注意する必要がある。(13)(14) 実際にも西蓋馬縣の説明に源流に関しての記載がなく、鴨緑江の上流部分を示唆しているとは思えない。

(図2)玄菟―−「高句麗の歴史と遺跡」を改編(5)

図1に候補地を赤い印で示したものが図2である。 図をみてすぐにわかることは、三縣が桓仁を取り囲むようにあることだ。 桓仁は高句麗の最初の本拠地である、卒本の候補地の一つであったが、近年の五女山城の発掘によって有力視されるようになった。(15) はたして高句麗と玄菟郡の関係はどのようなものであったのだろう。 三国志東夷伝には次のように見える。

三国志東夷伝高句麗条:「其人性凶急,善寇鈔」

このように書かれたことで高句麗に対して凶暴なイメージが定着しているが、問題とする漢所地理志の時代、元始二年(2年)以前に高句麗が漢と争った記録はない。 すでに1節で挙げたように、同じ三国志東夷伝沃租条にある、その攻撃が第一玄菟郡放棄の原因となったとする夷貊が高句麗であるとの説があるが、そもそも高句麗の名のあらわれる文献の中で夷貊としているものを、高句麗であるとするのは穿ち過ぎである。 高句麗と漢とのかかわりは三国志東夷伝の下記の部分に描かれる。

三国志東夷伝高句麗条:「漢時賜鼓吹技人,常從玄菟郡受朝服衣,高句麗令主其名籍。」

漢と高句麗の間は実に平和的な関係にあった。 特に注目するのは「高句麗令主其名籍」と書かれた点である。 高句麗令すなはち縣令がいる以上、高句麗縣は戸数一万以上の大縣である。 津田 左右吉氏や池内 宏氏以来の通説となっている、蘇子河流域の玄菟郡では収まりきれない。 また高句麗令は「主其名籍」とあることから、高句麗の人口を把握していたのである。 ここで後の時代三世紀の高句麗の人口を評価してみよう。 三国志東夷伝高句麗条には「戸三萬」とあることから標準的な一戸5人を想定すると、15万人となる。 そのほかにも拔奇は涓奴部の加とともにそれぞれ3万口を率いて投降している。

三国志東夷伝高句麗条:「拔奇怨為兄而不得立,與涓奴加各將下戸三萬餘口詣康降,還住沸流水」

また後漢書東夷伝に建武二十三年(47年)にも一万口投降していることを考えると、それ以前の人口は22万口となる。

後漢書東夷伝高句驪条:「二十三年冬,句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪内屬」

時代も違い単純に比較するのは誤りとなるが、この人口が元始二年(2年)の玄菟郡の口数22万余りと重なることは注目に値する。 高句麗は玄菟郡の属民として、玄菟郡の配下にあったのではないか。

ここで漢書王莽伝にみる高句麗の姿をみてみよう。

漢書王莽伝:「先是,莽發高句驪兵,當伐胡,不欲行,郡強迫之,皆亡出塞,因犯法為寇。遼西大尹田譚追撃之,為所殺。州郡歸咎於高句驪侯。」

王莽は高句麗を胡攻撃のため動員しようとするが、高句麗兵は言うことをきかず、強制すると長城外に逃れて法をおかした。 追撃した遼西大尹の田譚も殺されてしまった。 これを見ると、高句麗は王莽の軍命を聞く義務があったように見える。 すくなくとも王莽政権は攻撃を強制できたのである。 さらに最後の「州郡歸咎於高句驪侯。」は漢人が高句驪侯を異民族の首領というより、同僚のように見ているように思える。

漢書王莽伝:「莽不尉安,穢貉遂反,詔尤撃之。尤誘高句驪侯至而斬焉,傳首長安。」

王莽は嚴尤の奏言を聞かず、穢貉はついに反乱を起こす。 王莽の命により嚴尤はこれを討ち、句驪侯を誘い出し殺してしまう。 句驪侯は罪に問われること確実な情勢で出頭しているのである。 この状況を見れば、高句麗候が玄菟郡の統制下にあったことは明らかである。 は爵位を得ていたのだから(注6)、ある程度の高句麗族の自治はあったであろうが、玄菟郡の秩序のもとにあったのである。

この後の玄菟郡はどうなったのであろうか。

漢書王莽伝:「於是貉人愈犯邊,東北與西南夷皆亂云。」

異民族の反乱は全方位に広がっている。

漢書王莽伝:「莽志方盛,以為四夷不足呑滅,專念稽古之事」

王莽が反乱を収拾した形跡はない。

高句麗が反乱を起こしたのが、始建国元年(9年)以降。 おそらくこの反乱が未収拾のまま、王莽は天鳳元年(15年)大規模な制度改革を行い、郡名縣名なども改称した。 この時西蓋馬が玄菟亭に改称された。 高句麗は下句麗に、上殷台は下殷に改称されたことを考えると、西蓋馬は王莽にとって玄菟郡に残された文字通り最後の砦であったのであろう。 西蓋馬が漢の手に残ったのは、おそらく鴨緑江を下って遼東西安平に抜けるルートが確保できたからであろう。

その後の玄菟郡はどうなったのか。 実は後漢に入って玄菟郡は全く政治的存在感を失っているのである。

三国志東夷伝高句麗条:「當此時為侯國,漢光武帝八年,高句麗王遣使朝貢,始見稱王。」

この王莽の事件の際に高句麗は独立し、建武八年に光武帝より王号を受けている。(注6) この時楽浪東部都尉に属していた領東の縣が独立しているように、後漢は一貫して貊を郡縣支配から独立の方向に向かわせたようである。 しかし高句麗を属民としていた玄菟郡は内実を失ってしまった。 後漢書東夷伝高句驪条をみると

後漢書東夷伝高句驪条:「二十三年冬,句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪内屬。」(47年)

後漢書東夷伝高句驪条:「二十五年春,句驪寇右北平、漁陽、上谷、太原,而遼東太守祭以恩信招之,皆復款塞。」(49年)

いずれも玄菟郡の姿は見えない。

後漢書東夷伝高句驪条:「和帝元興元年春,復入遼東,寇略六縣,太守耿撃破之,斬其渠帥。」(105年)

この時も寇略したのは遼東であって、玄菟郡ではない。 余 昊奎氏はこの時の高句麗の寇鈔を分析し、この時点ですでに長城外にあった、いわゆる第二玄菟郡は放棄されていたと結論した。(16) 後漢書郡国志にみるいわゆる第三玄菟郡は、むしろこの時に再建されたものであるとする。 氏によれば、第二玄菟郡は97年頃に放棄されたとするが、そのような史書の記載はない。 同論文によれば、後漢書祭烈伝の下記の記述によって一世紀中盤には玄菟郡は安泰であったとする。

後漢書祭烈伝:「之威聲,暢於北方,西自武威,東盡玄菟及樂浪,胡夷皆來内附,野無風塵。」

しかしこの文章は修辞的であり、注意を要する。 祭の没年は73年で、明帝末年に近くしかも咎を得ての失脚ののちの死である。 後に復権したとしても、おそらく明帝の時代に班固等によってまとめられた、東観漢記の最初の烈伝には間に合っていないだろう。 次の編纂時期である安帝の時代には玄菟郡は再建されており、これ以降に書かれたものであれば、「東盡玄菟及樂浪」、つまり漢の支配の及ぶ東の果てまでの意味で修辞的に使用されているだけであろう。

玄菟郡は王莽の時代に高句麗が反乱を起こして以来、安帝初年(106年)に再建されるまで、ほぼ実体を失っていたと思われる。 班固が漢書地理志に註を書いた際に、玄菟郡とするものはすでに実体がなく、そこは「今の」高句麗に他ならなかった。 漢書地理志の玄菟の條に、郡の説明として突然「高句驪」があらわれるのは、班固にとってもその想定読者である同時代人にとっても、まさにそれが現実であったからである。

3.第一玄菟郡 −漢と貊の間−

2節で述べた玄菟郡と高句麗の関係は、一般的な説とはあまりにも異なるものである。 漢の辺郡が、軍事力による強制的な異民族支配を行っていたという観点とも相容れない部分がある。 はたして漢と貊の関係はどのようなものであったのか、玄菟郡の生い立ちを探ってみよう。

漢が貊に政治的に働き掛けた最古の記録は、史記平津侯主父列傳の記事である。

史記平津侯主父列傳:「今欲招南夷,朝夜郎,降羌,略州,建城邑,深入匈奴,燔其蘢城,議者美之。」

この文章は元光元年(紀元前134年)の主父偃の武帝への上書の中にある。 漢書にも同様の文があるが細かな表現には違いがみられ、文献として伝わっていたものか疑わしい。 なによりも、夜郎が武帝と接触するのは元鼎年間(紀元前112年)であり、羌族が匈奴の支配下を抜けるのは漢が匈奴を討ってからである。 また漢が匈奴に深く侵入して蘢城を攻撃するのは元光六年(紀元前129年)のことである。 いずれも元光元年よりも後のことであり、ここに見える略州建城邑も後の倉海郡建設に関する話が混ざりこんでいると考えられる。

史実としての土地への進出が始まるのは、漢書武帝紀、元朔元年(紀元前128年)の下記の記事が最初である。

漢書武帝紀元朔元年:「東夷君南閭 等口二十八萬人降,為蒼海郡。」

注目すべきは、この進出は武帝による他のケースと異なり、漢の側の本格的な武力を伴わず、の投降によって始まっている点である。

は何故漢に対して投降してきたのだろうか。 紀元前128年の前年、紀元前129年から漢武帝と匈奴の戦争が本格化し、衛青による蘢城攻略という漢の歴史的勝利が記録されている。 匈奴は遊牧民の帝国であり、年中行事のように漢等の農耕民の土地に侵入していた。 それが匈奴の生業の一部と化していて、それを統率することが支配者として認められるために必要とされた。 は農耕民であり、立場は漢と同じである。 地理的にも匈奴の略奪を受ける位置にあり、漢と同様に匈奴を恐れていたはずである。 衛青の勝利により、は漢の保護を求めたのではないだろうか。 からみれば漢は優れた文化と巨大な生産力をもつ先進国家であり、そこに無敵の匈奴を破る軍事力も備わっていることが分かったのである。 蒼海郡は君南閭の投降に伴う、自発的参加を前提として設置されたものだろう。 その放棄も史書には必ずしも明白ではないが、史記、漢書を見る限りは、その建設の負担に反対が大きかったことが原因のようである。

史記平準書:「其後漢將歳以數萬騎出撃胡,及車騎將軍衞青取匈奴河南地,築朔方。當是時,漢通西南夷道,作者數萬人,千里負擔饋糧,率十餘鍾致一石,散幣於邛僰以集之。數歳道不通,蠻夷因以數攻,吏發兵誅之。悉巴蜀租賦不足以更之,乃募豪民田南夷,入粟縣官,而内受錢於都内。東至滄海之郡人徒之費擬於南夷」

おそらく遼東から日本海へ抜けるルート作りに無理があったのだろう。

漢武帝は元封三年(紀元前108年)に、燕人満の起こした王国を滅ぼすと、そこに楽浪郡を置き、それに従っていた真番、臨屯をそれぞれ真番郡、臨屯郡とした。 三国志東夷伝沃沮条を見ると、沃沮はこれ以前燕人満に従っていたようであるので、この時には臨屯郡に属したであろう。(注2)

三国志東夷伝沃沮条:「漢初、燕亡人衞滿王朝鮮、時沃沮皆屬焉。」

その翌年の元封四年(紀元前107年)に玄菟郡がおかれるが、おそらく蒼海郡の構想がこの時よみがえり、その目的地であったと思われる沃沮縣が玄菟郡に所属替えになり、郡治が置かれる。 三国志東夷伝沃租条に見える、「沃沮還屬樂浪」と言う表現は元臨屯郡の沃沮が、元の臨屯郡を合わせた大楽浪郡に戻ったことを言っているのであろう。

漢書食貨志:「彭呉穿穢貊、朝鮮置滄海郡」

漢書食貨志には上記のようにあるので、蒼海郡や第一玄菟郡は第二玄菟郡よりも南の、遼東西安平縣から鴨緑江を遡り、現在の咸興市附近へ抜けるものだったかもしれない。

臨屯郡は茂陵書や漢書地理志との比較から、いわゆる漢書地理志楽浪の領東の地域であり、三国志東夷伝を見ればそこは貊の地である。 蒼海郡の時代には無理のあった朝鮮半島日本海側への到達も、朝鮮が滅び楽浪、臨屯への郡の設置で実現可能となったのであろう。

漢書本紀によれば、始元五年(紀元前83年)に真番郡は放棄された。

漢書昭帝紀始元五年:「罷耳、真番郡」

漢書本紀等の信頼できる史料には記述が無いが、臨屯郡もおそらくほぼ同じころ放棄されたのではないかと見られる。 またおそらく臨屯郡は同じ貊の地である玄菟郡に合わされたとみてよいだろう。 その結果玄菟郡は遼東から朝鮮半島の日本海側に至る長大な郡となり維持は困難となったと思われる。 夷貊が反乱を起こしたのは、このような郡の維持を負担することになったことが原因かもしれない。 前節で述べたように高句麗の名の出てくる文献で、夷貊と記載されたものを高句麗と考えるのは無理がある。 このとき反乱を起こしたのは、鴨緑江以東の山岳地の民ではないかと思われる。 三国史記高句麗本紀に見える、蓋馬、句茶といった人々である。 蒼海郡と言い、第一玄菟郡と言い、もともとその構想は現地人の自発的帰属に依存していたのであろう。 支配民の反乱は直ちに郡の構想に影響を与えた。 このとき高句麗は寧ろ漢の側に立ち、玄菟郡を助け、想像をたくましくすれば爵位をもらうに至ったのではないか。 この結果遼東から日本海に抜ける第一玄菟郡の構想は放棄され、遼東から高句麗を取り込み、鴨緑江を下って遼東西安平に戻る、遼東塞外の外郭線を構成する第二玄菟郡の構想となったと思われる。

重要なことは玄菟郡は楽浪郡などと違い、そもそも漢の軍事的征服によって成立した郡ではないということである。 玄菟郡によって抑圧された高句麗の興起と、それに伴う玄菟郡の後退という池内 宏氏等のモデルは(1)(3)、その出発点から成立しないのではないだろうか。

4.再編玄菟郡 −後漢書郡国志の玄菟郡−

余 昊奎氏が論証しているように、和帝元興元年春(105年)の遼東寇鈔の際にはすでに塞外の第二玄菟郡は放棄されていた可能性が高い。 氏はこの出来事をきっかけに、後漢の辺境防備体制の再構築の一環として玄菟郡が再構築されたとする。(16) 氏はこの寇鈔の記事に「復入遼東」とあることから、遼東寇鈔はすでに何度も行われていたとするが、私はこれは二十五年春(49年)の寇鈔に引き続くものという意味であろうと考える。 そうでなければこの時点まで何の対策も無かったように見えることが説明できない。 和帝元興元年春の出来事はかなりの大事件であったらしく、翰苑に引く高麗記によれば遼東南城門には太守耿のこの時の功績を記念する石碑があったという。

翰苑高麗本文:「淪碑尚在、耿播美於遼城」

翰苑高麗註:「范曄後漢書曰、耿遷遼東太守、元興元年、貊人寇郡界、追撃斬其渠帥、案高驪記云、故城南門有碑、年久淪沒、出土數尺、即耿碑之者也」

この寇鈔はなぜ引き起こされたのだろうか。 後漢の祭の懐柔策により、貊の地は郡県支配より独立し候国となった。 特に高句麗は王号を得ている。 建武八年(32年)以降、途中建武二十五年(49年)の寇鈔を除き、基本的に東夷と漢の関係は安定していた。

後漢も和帝の時代(88年〜106年)となると天災が多発し、政治的に不安定な状況となる。 鮮卑や羌の寇鈔も相次ぐようになる。 これら後漢の内憂外患はおそらく同根であろう。 後漢に災害が多ければ同じことが周辺民族にも起こっていたであろう。 それが寇鈔を招いたのであろうと考えている。

では高句麗はどのような状況だったのだろうか。 残念ながら記録は漢にしか残っていない。 周辺民族の状況がどのようであったのかは、漢籍をたどり後漢と周辺民族のかかわりから推測するしかない。 夫餘と高句麗に関する記録を読み合わせていくことで、この時期貊内部に起こっていた政治的状況を探っていこう。

(表2)後漢書に見る高句麗と夫餘
西暦年号高句麗夫餘
32建武八年十二月、高句麗王遣使奉貢。
47建武二十三年冬十月 蠶支集落の大加である戴升等萬餘口が樂浪に内屬。
49建武二十五年春、右北平、漁陽、上谷、太原を侵寇するが遼東太守祭の懐柔策で塞外に戻る。冬十月,夫餘王は遣使奉貢し,光武はこれに厚く答えて報いた。 これをもって使者は毎年通うようになった。
105元興元年春正月、遼東の六縣に侵寇したため、太守耿がこれを破り、その渠帥を斬った。
109永初三年春正月、高句驪遣使貢獻
111永初五年高句麗王宮が遣使貢獻し玄菟郡に屬することを求めた。三月,夫餘王は始めて將歩騎七八千人をもって、樂浪に寇鈔し、吏民を殺傷したが、その後また帰属した。
118元初五年夏六月、高句驪と穢貊が玄菟郡に侵寇し、華麗城を攻めた。
120永寧元年嗣子の尉仇台を遣して、闕に詣て貢獻した。天子は尉仇台に印綬金綵を賜した。
121建光元年春正月、幽州刺の史馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡諷等の將兵が長城を出てこれを撃った。 貊の渠帥を捕とらえ斬り、兵馬財物を獲た。 高句麗王宮はその嗣子遂成に將二千餘人を率いて姚光等にはかりごとを行った。 使者を差し向け偽りの降伏をし姚光等はこれを信じた。 遂成はそうして困難な状況を制し、大軍を遮った。一方で三千人をひそかに差し向け玄菟、遼東を攻め,城郭を焼き、二千人余りを殺傷した。 この時廣陽、漁陽、右北平、涿郡屬國は兵三千餘騎を発してこれを救うが貊人はすでに去ったあとであった。
121建光元年夏四月,また鮮卑八千餘人と遼東を攻め、遼隊で吏人を殺した。蔡諷等が追撃し、新昌において戰歿した。 功曹の耿耗、兵曹掾の龍端、兵馬掾公孫は身をもって蔡諷を守ったがともに沒した。 死者百餘人。
121建光元年秋、高句麗王宮は馬韓、貊數千騎を率いて玄菟を包囲した。
121建光元年冬十二月、高句麗王宮と遂成は馬韓、貊數千騎を率いて玄菟を包囲した。 夫餘王は子の尉仇台に將二萬餘人を付けて遣わし,州郡力を合わせてこれを討ち破った。斬首五百餘級。同左
122延光元年春二月,夫餘王は子を遣し、その將兵は玄菟を救い高句驪 、馬韓、穢貊を撃破した。遂成は遣使して漢の生口を返還した。
(建光二年は三月に延光に改元)
同左
122延光元年秋七月、高句驪は降伏した。
136永和元年その王京師に來朝し、帝は黄門鼓吹と角抵戲をもって之に遣した。
141-147順桓之間遼東を犯し,新安、居郷を侵寇した。
145-147質桓之西安平を攻めて,その道上において帶方令を殺し,樂浪太守の妻子を捕えた。
161延熹四年十二月,夫餘王が遣使來獻した。
-167桓帝末鮮卑、南匈奴および高句驪の嗣子伯固が次々に侵寇してきた。 四府は橋玄を舉げて度遼將軍、假黄鉞とした。 橋玄は鎮に至ると兵を休ませ士を養い,その後諸將を督して守り、胡虜および伯固等を討撃したため,皆破れ散って退き走った。
167永康元年春正月、王の夫台將は二萬餘人をもって玄菟に侵寇した。玄菟太守の公孫域はこれを撃破し斬首千餘級。
169建寧二年玄菟太守の耿臨は高句麗を討ち、斬首數百級。伯固は降服し遼東に屬した。
174熹平三年春正月、夫餘國が遣使貢獻。

この表をみると、高句麗と夫餘はしばしば対称的な行動をとっている。 建武25年(49年)春高句麗が右北平、漁陽、上谷、太原を寇鈔すると、同じ年の冬夫餘が遣使奉貢する。 永初5年(111年)三月夫餘が楽浪を寇鈔すると、前後は分からないが同じ年高句麗は玄菟郡に属することを求めている。 元初五年(118年)六月高句麗が玄菟郡を寇鈔すると、永寧元年(120年)嗣子の尉仇台を遣している。 以後高句麗が後漢と戦いになる中、夫餘は後漢を助け高句麗と戦っている。 この時期までの夫餘と高句麗は同調的ではなく、後漢をめぐって競合しているように見える。 もちろんこれだけでは実際の高句麗と夫餘の関係は分からない。

残念ながら後漢代の高句麗と夫餘の残した記録は無く、十二世紀成立の三国史記は、漢代の事績に関してはほとんど伝説の域をでない。 しかしながら、史実としてみることはできなくとも、国家創成期のある種の伝説としてみることはできるであろう。 高句麗本紀には、帶素王の例のように扶餘が強力な敵としてあらわれてくる。

数少ない断片的な資料では断定的にいうことはできないが、高句麗と夫餘が多くの時期敵対的な関係であったと考えてもよいのではないだろうか。 このように見た時看過しがたい記録がある。 永初五年(111年)の夫餘の楽浪郡寇鈔である。

後漢書安帝紀永初五年三月:「夫餘夷犯塞,殺傷吏人。」

後漢書東夷伝夫餘条:「至安帝永初五年,夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。」

池内 宏氏は本紀には楽浪と書かれておらず、引き続く後漢書東夷伝夫餘条の中の下記の記事にはすべて玄菟となっていることから、この時の樂浪は玄菟の誤りとされ、現在一般に受け入れられている。(17)

後漢書東夷伝夫餘条:「永康元年,王夫台將二萬餘人寇玄菟」

後漢書東夷伝夫餘条:「夫餘本屬玄菟」

しかし永康元年(169年)に襲ったのが玄菟郡であったから、永初五年(111年)に襲ったのも玄菟郡であるとか、玄菟郡に属していたから楽浪郡は襲わないというのは論理的ではない。 高句麗は玄菟郡に属しながら、遼東、楽浪なども襲っている。 この楽浪攻撃の記録は、後漢書東夷伝夫餘条の中にあり、同様の記録は三国志東夷伝にはなく、後漢書本紀にはあることから、もともと先行史書の本紀的記述から取られたものであろう。 池内 宏氏の指摘するように、確かに本紀には楽浪郡とは書かれておらず、東夷伝夫餘条には引き続く記事はすべて玄菟郡となっているが、むしろこの状況で一か所だけ楽浪郡と誤るのは不自然である。 この記録は夫餘が初めて侵犯してきた記録であり、相当印象深いものである。 表2に見るように、夫餘は122年には馬韓まで攻撃していて、地理的に離れているから攻撃できないとは言えない。 単に誤伝として片づけられるか疑問がある。

この記事を真正面から受け止めたらどのような歴史が描けるであろうか。 三国志東夷伝の民族配置をみると、夫餘は高句麗の北にある。 夫餘が後漢代の朝鮮半島西岸に位置した楽浪を攻撃するとしたら、通常高句麗の領域を通過するであろう。 避けるとすれば相当に東を迂回することになって不自然である。 もしも本当にこの時夫餘が楽浪に侵入したとすれば、高句麗はどのような状態だったのだろうか。 敵対する夫餘が眼前を通過するのを見ているよりなかったか、夫餘の支配下にあったのではないか。 夫餘が111年に楽浪まで南下したとすれば、夫餘の南下はそれ以前から始まっていたと考えられる。 和帝の晩年、後漢と生業の違う鮮卑や羌が後漢に侵攻してきたことから考えるに、後漢と同じ農耕民である貊も同じ境遇にあったことが想像される。 強力な鮮卑に地理的に近い夫餘は大きな被害を受けていたであろう。 すでに元興元年(105年)以前から夫餘の南下は始まっていたのではないか。 それが高句麗をはじめとした夫餘の南の貊を圧迫し、元興元年(105年)の遼東寇鈔を引き起こしたのではないだろうか。

元興元年(105年)の遼東寇鈔に対する耿の反撃は、高句麗にとって相当の打撃であったようで、永初三年(109年)には後漢に遣使してくる。

後漢書和帝紀元興元年:「三年春正月庚子(中略)高句驪遣使貢獻」

後漢との外交関係を回復させ、夫餘の南下に対抗しようとしたが、元興元年(105年)の打撃からの回復もならず、安帝永初五年(111年)には夫餘に蹂躙されてしまう。 しかし夫餘もまた、後漢の反撃を受け打撃をこうむる。 これは高句麗にとって再起のチャンスであっただろう。 永初五年(111年)には高句麗王宮が玄菟郡への帰属を求めてくる。

後漢書東夷伝高句驪条:「安帝永初五年、宮遣使貢獻、求屬玄菟。」

高句麗はこの時後漢玄菟郡に何を求めたのだろうか。 おそらく夫餘南下に対する保護をもとめただろう。 具体的な保護策は後述するとして、後漢の保護は功を奏し、高句麗は立ち直る。 七年後の元初五年(118年)高句麗は玄菟郡を寇鈔し、東の華麗城を攻る。

後漢書安帝紀元初五年:「夏六月,高句驪與穢貊寇玄菟。」

後漢書東夷伝高句驪条:「元初五年,復與貊寇玄菟,攻華麗城。」

後の記事からこの時期高句麗は東方に向かい、沃租、東を経て、漢江流域の馬韓北部までを勢力下におさめた様である。 漢江流域ではこのころから高句麗風の積石塚があらわれるのである。 高句麗の勢力が楽浪郡を避けるように南下したのは、夫餘の失敗に学び、後漢との衝突を回避したのであろう。 南の華麗城を攻めるに際して、玄菟郡とぶつかってしまったのは、不測の事態であったと思われる。 余 昊奎氏は陽動作戦とするが、まったく方向違いの陽動作戦は不自然であろう。 なぜ南の華麗城を攻めるに際して、玄菟郡とぶつかったのかは後述する。

後漢と高句麗の関係に溝が入ったと見るや、夫餘王は嗣子の尉仇台に貢獻させる。

後漢書安帝紀永寧元年:「夫餘王遣子詣闕貢獻。」

後漢書東夷伝夫餘条:「永寧元年,乃遣嗣子尉仇台詣闕貢獻,天子賜尉仇台印綬金綵。」

後漢と高句麗は戦争状態となる。

三国志東夷伝高句麗条:「至殤、安之間,句麗王宮數寇遼東,更屬玄菟。遼東太守蔡風、玄菟太守姚光以宮為二郡害,興師伐之。宮詐降請和,二郡不進。宮密遣軍攻玄菟,焚燒候城,入遼隧,殺吏民。後宮復犯遼東,蔡風輕將吏士追討之,軍敗沒。」

後漢書にはもう少し詳しい状況が見える。

後漢書安帝紀建光元年:「建光元年春正月,幽州刺史馮煥率二郡太守討高句驪、穢貊,不克。」

後漢書東夷伝高句驪条:「建光元年春,幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等將兵出塞撃之,捕斬貊渠帥,獲兵馬財物。宮乃遣嗣子遂成將二千餘人逆光等,遣使詐降;光等信之,遂成因據險以遮大軍,而潛遣三千人攻玄菟、遼東,焚城郭,殺傷二千餘人。於是發廣陽、漁陽、右北平、涿郡屬國三千餘騎同救之,而貊人已去。」

二郡が高句麗攻撃軍を起こしたのは建光元年(121年)で118年の玄菟寇鈔から時間がたっている。 遼東、玄菟の太守は宮による高句麗の強大化が、二郡の為にならないとして軍を起こしたようだ。 宮は二郡に対して降伏するとみせて攻撃軍を止め、その間にひそかに軍を動かし反攻した。 ところで後漢書東夷伝ではこの時宮は玄菟遼東両郡を攻めたことになっているが、三国志では玄菟郡の候城縣を攻撃したことになっている。 この時の玄菟郡はどのような状態であったのだろうか。 後漢書郡国志に見える玄菟郡は、およそ140年頃の状態をあらわすとされる。 121年の玄菟郡に関して確実に言えることは、後漢書郡国志の故屬遼東とされた縣に関する劉昭註から、高顯、候城、遼陽の三縣が安帝即位年(106年)に玄菟郡にあったことだけである。

後漢書郡国志玄菟劉昭註:「東觀書安帝即位之年,分三縣來屬。」

余 昊奎氏によると、この時後漢の防衛体制再編の中で、遼東中部都尉配下を中心として玄菟郡が再建されたとする。(16) 漢書地理志によると前漢時代の遼東中部都尉は候城縣にあった。 高句麗本拠地に迫ってきた、後漢の攻撃軍の意図を挫くとすれば、その本拠地を攻撃した可能性が高い。 この時の後漢の高句麗攻撃軍の拠点は候城縣だったのであろう。 おそらく、この時点での玄菟郡治は候城縣だったのではないだろうか。

高句麗は後漢の一郡ほどの人口しかない。 匈奴や鮮卑のような遊牧民とちがい、農耕民の高句麗は剽悍で戦闘員比率が高いとしても限度がある。 強大な後漢と戦争状態になった高句麗は追い詰められた状態だったに違いない。 その年の六月には鮮卑とともに遼東郡に侵入している。

後漢書安帝紀建光元年:「夏四月,穢貊復與鮮卑寇遼東,遼東太守蔡諷追撃,戰歿。」

後漢書東夷伝高句驪条:「夏,復與遼東鮮卑八千餘人攻遼隊,殺略吏人。蔡諷等追撃於新昌,戰歿,功曹耿耗、兵曹掾龍端、兵馬掾公孫以身扞諷,沒於陳,死者百餘人。」

遊牧民の鮮卑と高句麗が連合するのはこれが最初で最後になる。 高句麗としては非常手段であったのだろう。 さらに同じ年の冬にも攻撃に出る。

後漢書安帝紀建光元年:「冬十二月,高句驪、馬韓、穢貊圍玄菟城,夫餘王遣子與州郡并力討破之。」

後漢書東夷伝高句驪条:「秋,宮遂率馬韓、貊數千騎圍玄菟。夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人,與州郡并力討破之,斬首五百餘級。」

先に述べたように118年の攻華麗城とこの冬の侵犯記事から想像するに、高句麗は東沃租から東、さらには漢江流域の馬韓にまで勢力を広げていたと思われる。 この時の攻撃は高句麗の総力を挙げたものであったのだろう。 しかし宿敵の夫餘が後漢の味方をしたため、高句麗は敗北してしまう。 翌年にも夫餘は高句麗などを攻め、ついに遂成は使いを送ってくる。

後漢書安帝紀延光元年:「春二月,夫餘王遣子將兵救玄菟,撃高句驪 、馬韓、穢貊,破之,遂遣使貢」

このとき使いを送ってきたのが宮の子の遂成であることから、どうやらこのとき宮はすでに死んでいたようである。 七月には高句麗は降伏する。

後漢書安帝紀延光元年:「秋七月癸卯,京師及郡國十三地震。高句驪降。」

このときの状況は後漢書東夷伝高句驪条に詳しい。

後漢書東夷伝高句驪条:「是歳宮死,子遂成立。姚光上言欲因其喪發兵撃之,議者皆以為可許。尚書陳忠曰:「宮前桀黠,光不能討,死而撃之,非義也。宜遣弔問,因責讓前罪,赦不加誅,取其後善。」安帝從之。明年,遂成還漢生口,詣玄菟降。詔曰:「遂成等桀逆無状,當斬斷醢,以示百姓,幸會赦令,乞罪請降。鮮卑、貊連年寇鈔,驅略小民,動以千數,而裁送數十百人,非向化之心也。自今已後,不與縣官戰而自以親附送生口者,皆與贖直,人四十匹,小口半之。」」

宮の死は延光元年(122年)の遂成の使いによって知ったのであろう。 安帝は陳忠の意見を入れて遂成を許す。 東夷伝では翌年、本紀ではその年の七月、遂成は漢人の捕虜を返し、自ら玄菟郡まで行って降伏した。 詔の内容は厳しいものであり、遂成は許されたと言っても全面降伏である。 このとき後漢は罪は宮にあるとして許したのではないか。 このことは三国志東夷伝の記事にも一致する。

三国志東夷伝高句麗条:「其曾祖名宮,生能開目視,其國人惡之,及長大,果凶虐,數寇鈔,國見殘破。」

「國見殘破」、高句麗は再び破滅の寸前であった。 おそらく再び後漢の保護を受けなければ立ち直れない状況であったであろう。 後漢は夫餘と高句麗のどちらかが滅亡し、どちらかが強大化することを望まなかったであろう。

高句麗がこのように後漢代に幾度も滅亡寸前になったなどという説は、既存の強力で次第に発展を遂げてゆく高句麗観とは相いれない。 しかしながら、三世紀以降の高句麗を見れば、漢末の公孫氏に始まり、魏の丘儉、前燕の慕容とたびたび本拠を覆されては盛り返している。 漢代だけ順調であったと考える方が不自然であろう。

その後後漢と高句麗の関係は安定した。

後漢書東夷伝高句驪条:「遂成死,子伯固立。其後貊率服,東垂少事。」

そしてついに我々は順帝永和年間、後漢書郡国志の時代に到着する。 そこに見える玄菟郡の姿は実に驚くべきものである。

後漢書郡国志幽州玄菟郡:「玄菟郡武帝置。陽東北四千里。六城,戸一千五百九十四,口四萬三千一百六十三。高句驪遼山,遼水出。西蓋馬、上殷台、高顯故屬遼東。候城故屬遼東。遼陽故屬遼東。」

郡治は高句驪縣である。 その地理的説明「遼山,遼水出。」は漢所地理志に共通し、渾河の源流近くにあることが分かる。 すなはち、第二玄菟郡時代から高句驪縣は動いていない。 遼東中部都尉から来たと思われる三縣を除けば、西蓋馬、上殷台もそのままである。 従来高句驪縣をはじめとする第二玄菟郡時代の縣は、撫順方面に移動したとされてきたが、文献上移動の根拠はない。 そもそも縣城は都市であり、立地の問題で放棄し、新たな場所に建設する場合、それは新たな都市であって、通常は新たな名前をもつ。 楽浪郡でも漢書地理志と後漢書郡国志の間で、領東七縣を除くと縣数が変わらないにもかかわらず、縣名が変わったケースが見受けられ、漢代の人々が縣の名前にそれほど執着したとは考え難い。(注7)

これらの縣はおそらく第二玄菟郡と同じ位置にあったであろう。 考古学的にも、高句驪縣と思われる新賓永陵の漢古城は高句麗の時代まで使用され、上殷台の候補である吉林通化赤柏松漢代古城は、後漢中期にまで下る可能性があるとされる。 都市として生きていれば、そこに漢の役人が来れば縣として成立しうるであろう。 それにいったいどんな意味があっただろう。

すでに述べたように第二玄菟郡の縣は、初期高句麗の中心地桓仁を取り囲むような配置となっている。 特に北部の高句驪縣と上殷台縣は、夫餘との間にあり、ここに玄菟郡の縣があれば、南下する夫餘はどうしても最初に玄菟郡とぶつかることになる。(注8) このような遠方の縣は後漢の持ち出しになったであろうが、高句麗にとっては願っても無い安全保障策であっただろう。 後漢にとっては夫餘と高句麗を両立させ、遼東や楽浪の安全を確保するための出費となる。 高句麗の役割は、これらの縣治への漢人官吏や商人の通行の安全を確保することであっただろう。

さてこのようにみるとこの時代に第二玄菟郡が復活していたかのようであるが、その内実は前漢時代とは大いに異なるものであった。 それは人口にあらわれている。

六縣あって一千五百九十四戸、人口四萬三千一百六十人は、戸数が少なすぎ一戸あたりの人数が二十七人となって何らかの誤りがあると思われる。 諸説あるが戸数の千と万の誤りなどと推測されている。 一方一縣あたりの人口は周辺郡と比較して自然な値であり信頼できる。 漢書地理志の時代に比べて縣数が倍になっているにもかかわらず、人口は五分の一ほどになっている。 おそらくこの時代には、高句麗の人口は玄菟郡によって把握されていなかったのであろう。 その状況は三国志東夷伝高句麗条に見える。

三国志東夷伝高句麗条:「後稍驕恣,不復詣郡,于東界築小城,置朝服衣其中,歳時來取之,今胡猶名此城為。溝者,句麗名城也。」

高句麗にとって玄菟郡の縣がその勢力範囲にあることは不都合ではなかったろうか。 高句麗王宮は118年南の華麗城を攻めるに際して、おそらく本拠地桓仁の南にある、西蓋馬縣を通過した。 この時不測の事態が起こり西蓋馬縣とぶつかったのではないか。

しかしこの方式は概ねうまくいき、宮の時代121年から122年の間、高句麗と後漢の激しい全面戦争の期間を除いて、平和が維持された。 そして122年から18年間の平和な時期を過ごすうちに、140年には玄菟郡治も候城縣から、かっての第二玄菟郡治である高句驪縣に移っていたのであろう。

5.第三玄菟郡 −晋書地理志の玄菟郡−

前節に見るような再編玄菟郡の体制はいつまで続いたのであろうか。

三国志東夷伝高句麗条:「宮死,子伯固立。順、桓之間,復犯遼東,寇新安、居郷,又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守妻子。」

後漢書東夷伝高句驪条:「遂成死,子伯固立。其後貊率服,東垂少事。順帝陽嘉元年,置玄菟郡屯田六部。質、桓之閨C復犯遼東西安平,殺帶方令,掠得樂浪太守妻子。」

宮の子遂成については、三国志には記載がなく後漢書との違いを見せているが、高句麗による侵犯の起こるのが伯固の時代であることは共通している。 後漢書の記事に見える、新安と居郷は後漢書郡国志にはみえず、伯固の遼東復犯は140年以降と考えられる。 注目すべきはこの時の伯固の攻撃対象が玄菟でなく遼東であることだ。 もしも私の推測が正しければ、伯固の最も身近にあった後漢の郡は玄菟である。 攻撃した縣が新安、居郷の新設縣であることを合わせて、この時後漢は何らかの地方行政の変更を行った可能性がある。 伯固の遼東侵犯の時すでに、長城外の旧第二玄菟郡の三縣は放棄されていたのではないだろうか。 旧第二玄菟郡の三縣を放棄し、遼東塞内に縮小したことに伴って、玄菟郡の何らかの権益も縮小し、緊密に結びついた高句麗にとっても不利益があったと想像する。 おそらくこの変更が伯固の攻撃を引き起こした原因だったのではないだろうか。

後漢では141年に梁冀が大将軍となり、144年には順帝が死去し、沖帝、質帝とめまぐるしく皇帝が変わり、146年に桓帝が即位する。 旧第二玄菟郡の三縣の放棄は梁冀による政策であったと思われる。 159年梁冀が死ぬと、宦官の勢力が強まり、166年の党錮の禁以降混乱期に入り、夫餘や高句麗の侵犯に対応できなくなる。 このころ橋玄伝に桓帝末として伯固と戦った記事が見える。

後漢書橋玄伝:「鮮卑、南匈奴及高句驪嗣子伯固並畔,為寇鈔,四府舉玄為度遼將軍,假黄鉞。玄至鎮,休兵養士,然後督諸將守討撃胡虜及伯固等,皆破散退走」

記録を見る限り、伯固の侵犯に対する後漢の反撃は、二十年以上の時を経た169年である。

三国志東夷伝高句麗条:「靈帝建寧二年,玄菟太守耿臨討之,斬首虜數百級,伯固降,屬遼東。」

このとき高句麗は遼東郡に属することになった。 何故玄菟郡でないのか理由は分からないが、玄菟郡と高句麗の間になにか強い結びつきがあり、前回の高句麗侵犯がその結びつきによるものであったことを配慮したのかもしれない。 このことはそれ以前の段階、140年代後半の伯固の遼東攻撃の際には、すでに旧第二玄菟郡の領域が放棄されていた可能性を補強するものである。 しかし高句麗はその数年後には玄菟郡に属することを求めている。

三国志東夷伝高句麗条:「熹平中, 伯固 乞屬玄菟。」

高句麗にとって少なくともこの時代までは、玄菟郡に固執する理由があったらしい。 またなぜかしきりに遼東を攻撃する。

三国志東夷伝高句麗条:「自伯固時、數寇遼東。又受亡胡五百餘家。」

伯固の死後建安中(196年−220年)に公孫康は高句麗を討ち、内部分裂した高句麗の拔奇は投降し、拔奇と涓奴部に従った口数は六万におよぶ。

三国志東夷伝高句麗条:「建安中、公孫康出軍撃之、破其國、焚燒邑落。拔奇怨爲兄而不得立、與涓奴加各將下戸三萬餘口詣康降、還往沸流水。」

王となった伊夷模は新たな土地、おそらく集安に国を開き、拔奇は子を高句麗に残し遼東に向かった。

三国志東夷伝高句麗条:「降胡亦叛伊夷模、伊夷模更作新國。今日所在是也。拔奇遂往遼東、有子留句麗國、今古雛加駮位居是也。」

この後東夷世界では、魏による公孫氏討滅、毋丘儉による高句麗攻撃などの事件が続く。 そして魏王朝は晋王朝に変わり、ついに我々は280年と想定される、晋書地理志の時代にたどりつく。 すなはち三国志の今の情勢である。 そこにみえる玄菟郡はどのようなすがたであろうか。

晋書地理志玄菟郡:「玄菟郡漢置。統縣三,戸三千二百。高句麗、望平、高顯」

郡治は高句麗縣である。 しかしこの時代、新賓永陵の高句麗縣には郡治がなかったことは、三国志東夷伝沃租条に見たとおりである。 上殷台、西蓋馬の旧第二玄菟郡の縣もすでにない。 この時代の玄菟郡治は、三国志呉書裴松之註にみえるように、第二玄菟郡時代よりも遼東に近かったと思われる。 再建玄菟郡の時代に、おそらく中心的役割を果たしていた候城縣も無くなっている。 なぜ郡治は新設の高句麗県に移ったのであろうか。

私は拔奇以下が遼東に向かったことに関心がある。 彼らは遼東のどこにいたのであろうか。 彼らが遼東に向った時、長城外の旧高句麗縣は放棄されていた。 私はこの拔奇以下を受け入れたのが、新高句麗縣であり、第三玄菟郡はかっての第二玄菟郡を、遼東塞内に再現したものではないかと思う。 高句麗縣は移動したというよりも、いったん放棄された旧縣を、新たな高句麗族を受け入れて再建したものではないだろうか。 これは縣城をともなった僑縣の奔りと言えるかもしれない。(注7)

6.あとがき

私が本稿を書こうとした理由は、一般向け書物に描かれた玄菟郡、特にその属縣が鼠のようにせわしなく移動していくさまに違和感を覚えたことにある。 そのように簡単に移動する都市などあるのだろうか。(注7)

その文献的、考古学的根拠を探ってゆくうちに、これが史料的根拠というよりも、高句麗族の興起とそれに伴う玄菟郡の後退という、歴史モデルに依存しているように感じた。 そして漢書地理志、後漢書郡国志という、一瞬ではあるが玄菟郡を俯瞰できる史料があまりにも重要視されていないように感じたのである。(注9) 私はより文献に即した場合どのようなストーリーが描けるのか試してみたくなった。 本稿はそれ自体が文献の谷間をストーリーによって埋めたもので、実証的に既存の説を覆すようなものではないかもしれないが、いわばアナザストーリーとして提示したのである。

漢と周辺民族の関係を見る際に、何よりも重要なことは、周辺民族を盗賊侵略者としてみる漢籍の立場を離れ、また同時に抑圧された諸民族とそこからの解放という視点からも離れて、史料に導かれるようにその関係に迫ることではないか。

後漢書、三国志には玄菟に属す、遼東に属すという表現が出てくる。 たとえば求屬という表現で特定の郡への帰属を求めているケースはほかには、後漢書東夷伝夫餘条しかない。

後漢書東夷伝夫餘条:「夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。」

このほかには三国志と後漢書の東夷伝高句麗条に同じ事件についての乞屬という記録があるのみである。

三国志東夷伝高句麗条:「靈帝建寧二年,玄菟太守耿臨討之,斬首虜數百級,伯固降,屬遼東。熹平中,伯固乞屬玄菟。」

後漢書東夷伝高句驪条:「建寧二年,玄菟太守耿臨討之,斬首數百級,伯固降服,乞屬玄菟云。」

そもそも異民族が漢の特定の郡に属するという表現自体が、漢代の史書では東夷を除いて見られないものである。

東夷はどのように扱われていただろうか。 漢書地理志では東夷を天性が柔順であり、三方の外に異なるとする。

漢書地理志燕地:「然東夷天性柔順,異於三方之外」

また三国志東夷伝書稱にはこのように見える。

三国志東夷伝書稱:「中國失禮,求之四夷,猶信。故撰次其國,列其同異,以接前史之所未備焉。」

後漢の政策をみても東夷に対しては格別に寛大で、積極的に独立を認めている。 東夷にのみ地方の組織である郡に属するという表現が現れるのは、塞内を別格として漢の行政組織になじみやすい人々であるという認識からきているのではないか。

はたして漢にとって東夷は、盗賊侵略者であったのか。 東夷にとって漢は強圧的な支配者であったのか。

本稿の最後の問題提起としておきたい。

注記

(注1)玄菟郡の時期分けに関しては、武帝によって設置されたものを第一玄菟郡、昭帝よって移設されたものを第二玄菟郡、安帝以降を第三玄菟郡、魏晋期を第四玄菟郡とする場合もある。 本稿では安帝以降を再編玄菟郡とし、魏晋期を第三玄菟郡としている。

(注2)李 丙Z説では、楽浪、真番、臨屯の三郡は、朝鮮の征服後に建郡されたもので、漢書にもともと古朝鮮の勢力下にあったされる朝鮮、真番、臨屯の領域は全てこの三郡に含まれるとする。 したがって、沃租はもともと臨屯郡であって玄菟郡ではなく、玄菟郡は当初より高句麗縣にあったとし、この点は三国志東夷伝の誤りとする。 また高句麗縣は、漢書地理志の玄菟郡の説明に高句麗があらわれることから、もと高句麗の領域にあったとし、集安がその位置であろうとする。 この李 丙Z説には和田 清氏も賛意を示す。 氏は第二第三の玄菟郡の郡治がともに高句麗縣であり、玄菟郡の移動とともに同名の郡治が移動していることから、玄菟郡の郡治は当初より高句麗縣であったとする。 また李 丙Z説に従って高句麗集安の丸都城の丸都は玄菟のなまったものであろうとする。(13) 本稿においては、沃租はもと臨屯郡に属したが、すぐに玄菟郡に改属されたという立場を取っている。

(注3)後漢書東夷伝高句驪条には、武帝は朝鮮を滅ぼした後高句麗を縣としたとある。

後漢書東夷伝高句驪条:「武帝滅朝鮮、以高句驪爲縣」

後漢書東夷伝のこの記述は漢書や三国志には該当するものがなく、漢書地理志の玄菟郡に対する前述の異様な註を解釈したものであろう。 李 丙Z氏や和田 清氏も漢書地理志のこの一文は、玄菟郡がもと高句驪であったことを示すとする。(13) しかし漢書地理志の他の郡の記述例からすると、その場合は「武帝元封四年開」に先立って「故高句驪」のように書かれるはずである。

(注4)和田 清氏は、馬水を禿魯江、鹽難水を鴨緑江とし、西蓋馬縣を江界とする。(13) 他の説と異なり和田 清氏の説ではこれが第二玄菟郡の西蓋馬縣であり、第二玄菟郡を漢書地理志どおり、鴨緑江にからむ大きな郡としている。

(注5)翰苑に引く高麗記では、馬水を鴨緑江、鹽難水を佳江(渾江)としている。

翰苑高麗本文:「波騰碧瀲天險以浮刀」

翰苑高麗註:「漢書地理志曰玄菟郡西蓋馬縣馬水西北入鹽難水西南至西安平入海過郡二行一千一百里應劭云馬水西人鹽澤高驪記云馬水高驪一名淹水今名鴨水其國相傳云水源出東北靺鞨國白山水色似鴨□故俗名鴨水去遼東五百里經國内城南又西與一水合即鹽難也二水合流西南至安平城入海高驪之中此水最大波瀾清K所經津濟皆貯大船其國恃此以為天塹今案其水闊三百歩在平壤城西北四百五十里也刀小船也毛詩曰誰謂河廣曾不容刀也 」

高麗記は唐の太宗の時代の陳大徳による奉使高麗記一卷と見られる。

(注6)後漢書東夷伝によれば、建武八年の高句麗への王号は「復」となっており、高句麗侯はもと王号をもっていたが王莽によって候に格下げされたと考えているようである。

後漢書東夷伝高句驪条:「建武八年、高句驪遣使朝貢、光武復其王號。」

しかし下記に見るように、王莽伝で王位を格下げしたケースはそのように明記されていて、高句麗はその中にはない。

漢書王莽伝:「莽策命曰:「普天之下,迄于四表,靡所不至。」其東出者,至玄菟、樂浪、高句驪、夫餘;南出者,徼外,歴益州,貶句町王為侯;西出者,至西域,盡改其王為侯;北出者,至匈奴庭,授單于印,改漢印文,去「璽」曰「章」。」

句驪侯はもともと候だったのである。

(注7)南朝東晋の時代、王室の南遷に伴い多くの漢人が移住し、僑郡縣が大量に発生したが、僑縣のほとんどは実体のないものであったらしい。 明確な縣城を伴うものは、いずれも西晋時代の徐州に属し、南遷した王氏や蕭氏の本貫地となった臨沂縣と蘭陵縣のみと言う。(18) 現在の山東省にあった徐州琅邪國琅邪縣が、現在の中国江蘇省の南徐州南琅邪郡琅邪縣に、同じく現在の山東省にあった徐州蘭陵郡蘭陵縣が、現在の中国江蘇省の南徐州南蘭陵郡蘭陵縣に移動したものである。 また三燕時代に高句麗の攻撃を遼西に僑縣としてのがれた、西晋時代の楽浪郡朝鮮縣や帯方縣が、北朝北魏の時代に平州北平郡朝鮮縣や営州樂良郡帯方縣に再建されるが、これも楽浪王氏等の僑縣とみなせるという。(19) しかし少なくとも一郡をなした属縣が縣城をともなって丸ごと移動したケースなどない。 また郡治のような重要な縣で有れば必ず移動されるものでもない。 実際真番郡治は移動していない。

(注8)和田 清氏もこの縣の配置の重要性に関して指摘しておられる。(13)

(注9)首藤 丸毛氏はこのような文献事実を詳細に吟味し、玄菟郡治の高句麗縣は一度も移動していないという独自の説を立てられた。(20)

参考文献と参照リンク

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     3国史記高句麗紀の批判
     附真番郡撤廃、玄菟郡移轉の事情及び高句麗建國の年代について
     津田 左右吉 (1926年)
  2. 満鮮地理歴史研究報告第16
     楽浪郡考
     附遼東の玄菟郡とその属縣
     池内 宏 (1941年)
  3. 史苑 第十四巻第三号
     漢魏晋の玄菟郡と高句麗
     池内 宏 (1942年)
  4. 韓国古代史研究―古代史上の諸問題
     第三章 玄菟郡考
     李 丙Z (1980年)
  5. 高句麗の歴史と遺跡 (1995年)
     高句麗とは
     森 浩一
  6. 『魏志』東夷伝訳註初稿(1)
     田中 俊明(2009年)
  7. 満州歴史地理 (1913年)
     第一編 漢代の朝鮮  玄菟郡
  8.  第二編 漢代の満州  高句驪
  9. 世界の歴史 (6) 隋唐帝国と古代朝鮮
     武田 幸雄 (1997年)
  10. 高句麗の歴史と遺跡 (1995年)
     前期・中期の王都
     田中 俊明
  11. 高句麗都城の考古学的研究
     第4章 高句麗都城関係遺跡の検討
     第1節 桓仁地域の都城関係遺跡
     (4)平地城の探求―下古城子土城と蛤城 @下古城子土城
     千田 剛道 (2015年)
  12. 吉林通化赤柏松漢代古城
  13. 「楽浪郡初期の編戸過程−楽浪郡初元四年戸口統計木簡を端緒として」
     季刊古代文化 古代学協会 / 古代学協会 〔編〕61(2) (通号 577) [2009.9]
     金 秉駿 (2009年)
  14. 東方学(通号1)玄菟郡考
     和田 清 (1951年)
  15. 西蓋馬縣と馬紫水--人文科学委員会第2回大会・歴史学研究報告
     日野 開三郎 (1947年)
  16. 高句麗都城の考古学的研究
     第4章 高句麗都城関係遺跡の検討
     第1節 桓仁地域の都城関係遺跡
     (3)五女山城の遺構と遺物の検討
     千田 剛道 (2015年)
  17. 二世紀前半の高句麗と後漢の関係変化 (特集 多元のアジア)
     史滴 (37), 29-58, 2015-12
     早稲田大学文学部東洋史学専修室
     余 昊奎 (2015年)
  18. 満鮮史研究第一巻
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     池内 宏 (1951年)
  19. 南朝貴族の地縁性に関する一考察--いわゆる僑郡県の検討を中心に
     東洋学報 : 東洋文庫和文紀要 / 東洋文庫 編
     中村 圭爾 (1983年)
  20. 北魏時代の楽浪郡と楽浪王氏
     中央大学アジア史研究 / 白東史学会 編
     園田 俊介 (2007年)
  21. 玄菟・臨屯・真番三郡についての一私見
     朝鮮学報 / 朝鮮学会 編
     (通号 93) 1979.10
     首藤 丸毛 (1979年)


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