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倭人伝の到と至

-三国志東夷伝の原史料についての考察(前編)-

概要

本稿においては三国志東夷伝の原史料に関する考察の前編として、まずその倭人の条に現れる、郡から邪馬台国に到る道程の記述に用いられた、文字や記述方法の複雑さに注目して分析を行った。 漢書西域伝との比較によって、そのような複雑さが修辞的な意図や経路表現に関する意図ではなく、多種の原史料に基づく重層的な成立の過程にある可能性を示した。 これを里程の漸次追記仮説として、道程記述の複雑さやその不自然さが、一貫して説明できることを示した。 さらに仮説をもとに道程記事の成立過程に関して議論し、最後の節で原史料の一つと目される魏略の、その中における位置づけを試みた。 後編として、王沈の魏書や魏略と三国志東夷伝との関係性を調べ、魏略以外の原史料の在りようと、なぜ東夷伝の原史料として魏略が重要となったかの解明を試みる。 さらに太平御覧魏志や魏略の逸文から議論されている三国志異本についても触れる。



目次

 

1.はじめに^

三国志魏書東夷伝の倭人の条(以下倭人伝)には、当時の朝鮮半島にあった中華王朝の植民地である郡から、倭人の女王が都を置く邪馬台国までの行程(以下里程)が記録されている。 この里程の記事においては、など同一の意味を持つ文字が使い分けられている。 また人口を表す、官名に対する官曰、官有なども、文脈上はほぼ同じ意味合いで使われていると思われる。 このような使い分けは何を意味しているのだろうか。

邪馬台国の位置論争においてはの使い分けに注目が集まった。 これは榎一雄氏の放射説(1)を支持する牧健二氏が、は到着を表し、魏使は伊都國までしか行っていないとしたことが始まりであろう。(2) この使い分けに対しては高橋善太郎氏が、いくつかの例を挙げて検討されたことがある。(3) 氏の挙げられたのは下記の四例である。

A:魏書 巻100 勿吉國

自和龍北二百餘里有善玉山,山北行十三日祁黎山,又北行七日如洛瓌水,水廣里餘,又北行十五日太魯水,又東北行十八日其國。

B:魏書 巻100 失葦國

路出和龍北千餘里,入契丹國,又北行十日啜水,又北行三日有蓋水,又北行三日有犢了山,其山高大,周回三百餘里,又北行三日有大水名屈利,又北行三日刃水,又北行五日其國。

C:梁書 巻54 中天竺國

其國人行賈,往往扶南、日南、交趾,其南徼諸國人少有大秦者。孫權黃武五年,有大秦賈人字秦論來交趾,交趾太守吳邈遣送詣權,權問方土謠俗,論具以事對。時諸葛恪討丹陽,獲黝、歙短人,論見之曰:「大秦希見此人。」權以男女各十人,差吏會稽劉咸送論,咸於道物故,論乃徑還本國。漢和帝時,天竺數遣使貢獻,後西域反叛,遂絕。桓帝延熹二年,四年,頻從日南徼外來獻。魏、晉世,絕不復通。唯吳時扶南王范旃遣親人蘇物使其國,從扶南發投拘利口,循海大灣中正西北入歷灣邊數國,可一年餘天竺江口,逆水行七千里乃焉。

D:旧唐書 巻41 地理志嶺南道

京師陸路一萬二千四百五十二里,水路一萬七千里,東都一萬一千五百九十五里,水路一萬六千二百二十里。東大海一百五十里,南林州一百五十里,西環王國界八百里,北愛州界六百三里,南盡當郡界四百里,西北靈跋江四百七十里,東北辯州五百二里。九德 州所治。古越裳氏國,秦開百越,此為象郡。漢武元鼎六年,開交趾已南,置日南郡,治於朱吾,領比景、盧容、西捲、象林五縣。

AとBに関しては、地理的記述の最後に其國に到着する際に到るが使われており、意味的な使い分けがあるように思われる。 Cについてはその使い分けは判然としない。 またDに関しては、全く同じ用法の中で、一か所だけ到が使用されており、使い分けはないと言える。

果たしてこのような使用文字の違いが起きる原因は何であろうか。 下記の四つの可能性が考えられると思われる。

ア:誤写誤刻によるもの
イ:文章に変化をつけるために意図的に文字を変えたもの
ウ:何らかの意味の違いを表現したもの
エ:異なる時点での記述、あるいは異なる作者による記述が含まれていることによるもの

はたして倭人伝里程の場合はどのように考えられるであろうか。 これを考える手始めに、まず漢書西域伝をとりあげて検討してみよう。

2.漢書西域伝による検討^

漢書西域伝をとりあげる理由は、漢書が三国志に先行する史書であり、その内容が三国志に影響を与えたことが伺えること、特に西域伝には、国々の地理的記述が多く、そこに至も到も使われているため、倭人伝里呈との比較が容易だからである。 また漢書西域伝を用いた倭人伝里程の研究には、牧健二氏や川村明氏による先行研究があり、用例に関する研究成果を生かせることも理由である。(1)(4)

漢書西域伝の至の用例は全部で143例あり、到の用例は5例ある。 至と到の合計に対する到の割合は3%強で、漢書全体の割合とほぼ等しい。(表1)

五例ある到るの用例は下記のようになる。

E:西夜伝

西夜國,王號子合王,治呼犍谷,去長安萬二百五十里。戶三百五十,口四千,勝兵千人。東北都護治所五千四十六里,東與皮山、西南與烏秅、北與莎車、西與蒲犂接。

訳:西夜は国王を子合王と号し、呼犍谷に治し、長安を去ること一万二百五十里。戸数六百五十、人口五千、勝兵が千人いた。東北は都護の治所まで五千四十六里、東は皮山国と、西南は烏秅国と、北は莎車国と、西は蒲犂と接していた。

F:罽賓伝

臨崢嶸不測之深,行者騎步相持,繩索相引,二千餘里乃縣度。畜隊,未半阬谷盡靡碎;人墮,勢不得相收視。

訳:崢嶸として深く険しく計り知れぬ深淵に臨めば、行くものは騎馬でも徒歩でもたがいに支えあい、縄や綱で引きあいながら二十余里行ってはじめて県度国に着けるのです。

G:康居伝

康居國,王冬治樂越匿地。卑闐城。去長安萬二千三百里。不屬都護。

訳:康居国は、王が冬は樂越匿地に治し、春秋は卑闐城に行く。長安を去ること一万二千三百里で、都護に属しない。

H:大宛伝

匈奴嘗困月氏,故匈奴使持單于一信國,國傳送食,不敢留苦。

訳:かって匈奴が月氏を苦しめたことがあり、そのため匈奴の使者が単于のわりふを一つ持ってこれら諸国に来るだけでも、諸国はこれをつぎつぎ駅伝で送りとどけて食わせ、長く引きとめたり苦しめたりしなかった。

I:車師後城長伝

長安,莽皆燒殺之。其後莽復欺詐單于,和親遂絕。

訳:長安につくと、莽はこれを皆焼き殺した。その後莽はまたも単于を欺き詐って、和親はついに絶えた。

訳はちくま書房漢書の小竹武夫氏による。

FGUIは実際にその地に到着するという意味合いで用いられている。 一方Eは単に地理的関係を表している。 至については、数が多いので省略するが、川村明氏の論文に見るように両方の使い方があって、西域伝でも至と到は完全に使い分けられているとは言えない。 前節で挙げた理由のでは説明しきれない。 の変化を付けるためだとすると、全部で148例の内わずかに5例を変える状況は想定しがたい。 の誤写誤刻の可能性は、漢籍の実態を見ればどんな場合でもその可能性を排除できないものではあるが、至と到は字の印象に差があり、148例の内5例だけ間違える、または5例も間違えるの両方の観点から、どうも腑に落ちない。 ではの可能性はどうだろうか。

Eの事例には非常に面白い特徴がある。 西夜伝においては東北都護治所五千四十六里となっているが、西夜伝以外のすべての国において、都護との地理的表現には都護の表現が用いられているのである。 実に漢書西域伝では都護の記述が全部で39例も出てくるのである。 一例として西夜伝の次に現れる蒲犂伝の一部を挙げる。

J:蒲犂伝

蒲犂國,王治蒲犂谷,去長安九千五百五十里。戶六百五十,口五千,勝兵二千人。東北都護治所五千三百九十六里,東莎車五百四十里,北疏勒五百五十里,南與西夜子合接,西無雷五百四十里。

なぜ西夜伝だけが例外なのだろうか。

実は西夜伝には面白い特徴がある。 西夜伝では国王を子合王と号しているとする。 西夜國が子合國を併せているように見える。 ところが周辺の国の地理的記述では下記のようになる。

 烏秅國:北與子合蒲犂,西與難兜接
 蒲犂國:南與西夜子合
 依耐國:南與子合

すなはち、西夜と子合は別の国として表されている。 さらにその俗に対する記述も下記のように、子合との比較になっている。

 蒲犂國:種俗與子合同。
 依耐國:南與子合接,俗相與同。
 無雷國:俗與子合同。

一方西夜伝では下記のようになっている。

西夜國:蒲犂及依耐、無雷國皆 西夜類也。西夜與胡異,其種類羌氐行國,隨畜逐水草往來。

つまり、西夜伝では子合國は存在しないようであるのに、西夜國の周辺の国についての記述では、西夜國と子合國は別の国の扱いであり、むしろ子合國が基準となっているのである。 このような矛盾は書いた人間の認識の違いを表していると思われる。 つまり全体の状況からするに、西夜伝は周辺国の記述を行った人物とは別人が追記もしくは改変したと思われるのである。 漢書西域伝に見られるこのような混乱に関しては、後漢書西域伝も下記のように言及している。

漢書中誤云 西夜子合是一國,今各自有王。

このことから、他のケースについては断定はできないが、すくなくともEのケース、西夜伝でのみ都護との地理的関係に到を使用されていることに関しては、前節で挙げたの可能性が濃厚なのである。

この結果をもとに、倭人伝における至と到の関係を考えるとすれば、下記の点に注目すべきであろう。

前節の原因、ア、イ、ウでは一連の文面は一人の人間が考えたものであり、共通の認識の下で書かれるが、のケースでは著者の認識が異なり文面に不整合が現れる可能性があるということである。 したがって文面の記述方法、記述内容の違いや不整合を見てゆくことで、文字の違いがのケースであるかどうかの判断ができる場合があるということである。

3.倭人伝里程の至と到^

下記に掲載した倭人伝の里程においては、至が9例到が2例ある。

K1:從郡倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東其北岸狗邪韓國,七千餘里

K2:始度一海,千餘里對馬國
     其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。
     所居絕島,方可四百餘里,土地山險,多深林,道路如禽鹿徑。
     有千餘戶,無良田,食海物自活,乖船南北巿糴。

K3:又渡一海千餘里,名曰瀚海,一大國,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離。
     方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴。

K4:又渡一海,千餘里末盧國,有四千餘戶,濱山海居,草木茂盛,行不見前人。
     好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之。

K5:東南陸行五百里伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。
     有千餘戶,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。

K6:東南奴國百里,官曰兕馬觚,副曰卑奴母離,有二萬餘戶。

K7:東行不彌國百里,官曰多模,副曰卑奴母離,有千餘家。

K8:投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶。

K9:邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戶。

KA:自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳。
     次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,
     次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有為吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,
     次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。

KB:其狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。

KC:自郡女王國萬二千餘里。

このほか下記の至の例があり、倭人伝全体では至が10例到が2例となる。

L1:女王國渡海千餘里,復有,皆倭種。

L2:又有侏儒國在其,人長三四尺,去女王四千餘里

L3:又有裸國、黑齒國復在其東南,船行一年可
     參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里。

倭人伝全体としては、至と到の合計に対する到の割合は17%弱で、概ね三国志全体の傾向と似通っている。(表1) このような違いは何に起因するものだろうか。 前節で述べたように、の誤写誤刻の可能性は排除できないものの、文字の印象的に差があるのと、文字の違いの現れ方に納得のいかないものがある。 またの変化を付けたとするのも現れ方が不自然である。 の意味の違いについては多くの議論がある。 しかし至と到が漢籍において全く混用されている実態を考えると、魏書 巻100の勿吉國や失葦國の様に、明快にその違いが分かる様に書かない限り、読み手にその意図を伝える事はできないであろう。 それは実際に三国志以降の史書が、この里程の表現に対して、至と到るの意味を分けて解釈したケースが無いことでも明らかである。 倭人伝里程の書き方で至と到の意味を分けたとするのは、あまりにも無理があり、漢籍の実態を無視した空論と言わざるを得ない。

それではの書き手の違いはどうであろうか。 ここでK1とK5の地理的記述に到を使用している伊都國と狗邪韓國について、その他の国々の記載との記載の違いや整合性を見てゆこう。

榎氏は女王国以北の詳細が分かる里程の国々は、下記のように地名と距離の記載の順に違いがある二つのグループに分けられるとし、放射説の根拠とされた。

 α:(方位)+距離+地名
 β:方位+地名+距離

それぞれに属する国は

 α:對馬國、一大國、末盧國、伊都國
 β:狗邪韓國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國

となる。 ただし方位については對馬國と末盧國には記載がない。 榎氏はαに属する伊都國までを直列で読み、βに属する国々を並列で読むことを提唱された。 しかし途中の狗邪韓國がβに属するという批判は早くからあったようである。

今到を使用している伊都國と狗邪韓國を見ると、αとβのグループに属することが分かる。 至と到に着目して整理すると下記のようにまとめられる。

 一群:對馬國、一大國、末盧國
 αに属する。を使用。

 二群:狗邪韓國、伊都國
 αとβに分かれる。を使用。

 三群:奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國
 βに属する。を使用。

到を使用した国は、一群と三群の二つのグループの中間的な様相を表しているように見える。 そして伊都國は実際に順番的に一群と三群の境界にある。

榎氏の放射説に伴って指摘されてきたことの一つとして、各国に対する詳細な記述の有無がある。 すなはち、伊都國までの国々には国ごとの記述があるが、伊都國以遠においては官名以外の記述がないのである。 これをもって、魏の使いは伊都國までは行っているが、それ以遠には行っていないとし、その結果地理的記述も伊都國までは直列に行程が示され、それ以遠については伊都國から放射的に距離が記載されているとの説も行われたことがあった。 しかし記述内容をみてみると、末盧國までは地勢や産業などの詳しい記述が生き生きとなされているのに対し、伊都國に関しては王の存在と女王に対する帰属、そして郡使に関する記述で、それ以前とは大きく異なっている。 むしろそれは邪馬壹國に対する女王の都の記述や、狗奴國の王と女王との関係に関する記述と合わせて、郡からみた倭の政治情勢に対する関心を書いたものと整理できる。

  伊都國:世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐
  邪馬壹國:女王之所都
  狗奴國:男子為王/不屬女王。

すなはち、伊都國に関する記述内容は、むしろ三群およびそれ以南の国々に対する記述との共通性があるのである。 一群には自然環境や産業に関する詳細な記述があり、二群と三群には王のいる国に政治的記述があるのみで官名以外の記述が無い。

里程に記載された各国の性格
国名到/至距離と地名の順距離単位人口自然と産業政治状況3節4節での分類
狗邪韓β2群
對馬α官曰有/戸1群
一大α官曰有/家1群
末盧α有/戸1群
伊都α官曰有/戸2群
β官曰有/戸3群A
不彌β官曰有/家3群A
投馬β官曰可/戸3群B
邪馬壹β日/月官有可/戸3群B
傍21国参考
狗奴官有参考

このようにの使用されているニ群は、一群と三群の中間的ではあるが、異る性格を持っていると思われる。 前節の議論に従えば、二群の記述奢は前後の群の記述者とは、別人である可能性が伺えるのである。 但しこの場合、すでに一体として存在した記述の中に二群が追加または修正されたとしたら、一群と三群の異質性が説明できない。 このような記述の違いを説明するとすると、一群が記載された後二群が追記され、さらに三群が追記されたと考えることができよう。 このように里程に次々と情報が追記されていったとすることを、里程の漸次追記仮説と仮称する。

もしもこのような仮説が正しいなら、これら三つのグループの記述に、西夜伝に見られるような、つなぎ合わせたことによる不整合があるのではないだろうか。 一群と二群のつなぎ目である、末盧國から伊都國への東南陸行五百里の行程には疑問が多く、多くの論者が実際の移動を記録したものではないとしてきた。 末盧國の中心と思われる宇木汲田遺跡や桜馬場遺跡からみると、伊都國の中心と思われる三雲遺跡は、むしろ東よりやや北寄りの方角で方位がおかしい上に、この間を陸路で行くことに不自然さがあるためである。 伊都國の中心と思われる三雲遺跡から、奴國の中心と思われる岡本遺跡を見るとほぼ真東で、里呈に記された東南と合わせて考えるに、里程の方位には多少の誤差はあるようであるが、東北と東南では90度違ってしまう。 自然な行程として、呼子から船で三雲に向かうとすれば、実際の方位は真東に近く、里呈では東南と記された可能性がある。 しかしそうなれば陸行ではない上に、末盧國の中心地に立ち寄らなかったことになる。 これを仮説に沿って考えると、一群の記述者は末盧國に行き詳細な記述を行い、その後二群の記述者が、狗邪韓國から對馬國、一大國を経て伊都國渡り、二群を追記したことになる。

これを裏付けるような事実もある。 里程の国々には、末盧國と其餘旁國を除いて官名が記されている。 もしも二群ないし三群の記述者が官名を追記したとすれば、両者がいずれも末盧國を経由しなかったため、末盧國に官名が記されなかったと理解できるのである。 仮説に沿って考えるならば、二群の記述者は、末盧國から伊都國へは実際の移動を記録したのではなく、呼子から伊都國への方位と、両国が同じ島の上にあるとの伝聞情報から、推測の記事を残したのであることになる。 五百里という距離も、そこまでの国々に関する距離記述と整合的に考えたものと結論することになろう。

4.倭人伝里程の戸と家、度と渡^

倭人伝里程には他にも同じような意味合いで異なる文字が使われているケースがある。 戸数を表記する際に使われている、戸と家である。

前節では倭人伝里程を三つに分けた。 しかし古くから原史料の違いを指摘されている部分がある。 投馬國、邪馬壹國に関する部分である。 この二国については距離表記が日数になっているほか、戸数に関しても有に変えて可が用いられ、よりあいまいな表現になっている。 記述方式の違いがのケースとして、里程の漸次追記仮説に従い、三群をさらに下記のように二つに分けてみる。

 三群A:奴國、不彌國
 三群B:投馬國、邪馬壹國

ここで大変面白いことが分かる。一群における戸数表記は

 對馬國:有千餘戶
 一大國:有三千許家
 末盧國:有四千餘戶

また三群Aにおける戸数表記は

 奴國:有二萬餘戶
 不彌國:有千餘家

この二つのグループでは、戸と家が交互に用いられていることが分かる。 これはこの二つのグループの記述者が、文章に変化を付けようとした結果と思われ、一節で述べたのケースに当たると思われる。 おそらく下記の違いも同じ理由によるものであろう。

 東南至奴國
 東行至不彌國

ここまでくると、狗邪韓國から海を渡る際のとそれ以外の場所のの用例も気になる。 は字の印象が似ており、のケースの誤写誤刻を考えることもできるだろう。 ただ一海はおそらくそこで初めて海を渡ること、つまり大海中の倭に行くことを意識したものであると思われる。 二群が追加されたときに、倭の国ではない狗邪韓國が追加されたことで、倭韓の境界に関する混乱を避けるため、本来は一海のような表現であったものを、書き改めた可能性がある。 その際に用字も変わってしまったのではないだろうか。 もちろん本来狗邪國である国名に韓を加えたのも、同じように倭韓を区別するためであろう。 このように里程の漸次追記仮説に従うと、倭人伝里程の表現方法の変化や文字の変化が一貫して矛盾なく説明できるように見える。

5.倭人伝里程の官曰と官有^

前節までの仮説に従って見てゆくと、三群Bには気になる表現の差異がある。 すなはち官名の記載方法に関する違いである。

 投馬國:南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶。
 邪馬壹國:南至邪馬壹國,女王之所都。水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戶。

この両国の官名記載の差をどうとらえればよいだろうか。 邪馬壹國の官名の記載方法はそれまでの国々とは異なるが、以下のように狗奴國の官名記述も官有で始まることを考えると、三群B以降ではむしろ投馬國のみが特殊なのである。

狗奴國:其官有狗古智卑狗

これは狗奴國や、邪馬壹國の官名の数が不規則であったためとも思えるが、伊都國の官名も官曰爾支,副曰泄謨觚柄渠觚となっており、奴國の官曰兕馬觚と比較すると、泄謨觚柄渠觚は二つの官名であり、伊都國もまた正副二官ではなかったと思われる。 この記述の違いを書き手の違いと考えると、このグループもまた投馬國とそれより先に、書かれた時期が分けられることになる。 しかし投馬國と邪馬壹國に到る水行陸行および人口の記述の記述は一致している。 距離や人口の記述では投馬國と邪馬壹國が一致し、官名の記述では邪馬壹國と狗奴國が一致する。 狗奴國には距離や人口の記述がない。 記述の違いが誤写誤刻脱漏や意図的に表現を変えたものでなく、書き手の違いとして説明するとすれば、距離や人口の記述を欠いた邪馬壹國と狗奴國の記述が先にあり、投馬國と邪馬壹國の距離や人口は、投馬國と同時に追記されたものと考えるしかない。 そうするとそれ以前の邪馬壹國と狗奴國に対する記述は下記のようなものであったことになる。

南至邪馬壹國,女王之所都。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮。其南有狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。

自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕以下の国名のみの二十一國を省いたのは、この段階では女王國の戶數とそこに到る道里も分かっていないからである。 この時点で女王国以北については戸数と道里を略載できると断って、二十一國を記載するとは思えないからである。 つまり国名のみの二十一國は投馬國の追加と同時に、もしくはその後追加されたと言うことになる。

里程の遠方にある國が先に記述されたとするのは、ここまではなかったケースであり、何か裏付けが欲しいところである。

実は有力な裏付けがある、森博達氏の分析によれば、倭人伝里程には魏の時代の音価とは考えにくい表音表記があるという。(5) 例えば末盧國が日本書紀の末羅縣であれば、の音価はの音に近く、これは魏時の音価とは思われず、前漢時代に遡る音価であるという。 これと類似した例が奴國が日本書紀の儺縣に相当するとした場合、音価がとなるケースである。 卑奴母離ひなもりと読めるのも同様の想定による。 北部九州の国々については、漢の時代に遡って知られていたとすることもできるが、邪馬壹國の官名彌馬獲支においても、獲支の連合仮名的な使い方からして、に対しての様な上古音的な音価が想定できる。 また同じく森氏によれば国名のみの二十一國の国名にも上古音的音価が現れていて、特にその中に出てくる多くのは上古音的にと考えられるようである。 二十一國の国名の内で終わる数多くの国名を見れば、狗奴國もまたと読むのが妥当であろう。 つまり里呈の表音文字はほとんどが魏時の中央音による音写ではなく、非常に古い時代に音写されたか、古い音価を持った方言音による音写であるということである。 里程の中には三文字ほど、魏時の音価で妥当な文字もある。 伊都國不彌國官名多模投馬國官名彌彌那利等である。 私はこのうちについては同じタ行音であり、この音写を行った方言の特殊性に原因を求めた。(6) 時代は上古音から中古音に移行する途中であり、拙論が正しくなかったとしても、多少入り混じること自体は驚くほどのことではあるまい。 しかし投馬國官名の彌彌那利については事情が異なる。 上記に逐一確認したように、卑奴母離奴國、森氏考証の国名のみの二十一國の内八か国九文字等、里呈の中では圧倒的な数のに当てられており、この一か所だけ用字が異なるのである。 つまりこの結果からすると、投馬國だけが里程の大部分とは異なる用字を行う人物によって書かれたと思われる。 これを投馬國が他の国々とは異なる状況で書かれたと考えると、距離や官名、人口などの表記から求めた投馬國以降の里呈の中で、投馬國が後から追加されたとする考えと整合的である。

6.想定される倭人伝里程の成立プロセス^

里程の漸次追記仮説に基づくと、里呈の成立に関して下記のような想定が可能になる。

  第一段階:官名を欠く對馬國、一大國、末盧國の現記事
  第二段階:郡から狗邪韓國までの現記事、及び王と郡使の所在地、官名の記述を欠く伊都國の現記事
  第三段階:奴國、不彌國の現記事、及び對馬國、一大國、伊都國の官名
  第四段階:距離と人口を欠く邪馬壹國と狗奴國の現記事、及び伊都國の王の存在と女王との関係、郡使の所在地
  第五段階:投馬國及び、投馬國、邪馬壹國までの距離と人口
  第六段階:国名のみの二十一國の現記事

ただし對馬國、一大國、伊都國の官名については、第二段階の可能性もある。 これらの内第一段階までが前漢時代に遡る古い音価か、何らかの方言音で成立したもの、第二段階以降第四段階までが何らかの方言音によるもの、第五段階で魏時の中央音に整合すると思われる表記が現れる。 第六段階の二十一國も前漢時代に遡るような音価か、何らかの方言音が現れている可能性がある。

ところで官有で始まる記述方法は、実は東夷伝の他の国々に似ている。

夫餘:
 皆以六畜名官有、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者。

高句麗:
 其官有相加、對盧、沛者、古雛加、主簿、優台丞、使者、皁衣先人

濊:
 其官有侯邑君、三老、統主下戸。

韓:
 其官有魏率善邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。

このことから仮説に基づく限り、倭人伝里程が東夷伝の形に組み込まれたのは、第四段階である蓋然性が高いと思われる。 東夷伝の原型となるものは、非常に古い漢字音を含むことになる一方で、上記の韓の官名表記からも分かるように、その書かれた時代は魏の支配が韓に及んだ時代に下る。 つまり倭人伝里程はある段階までは地方文献だった可能性がある。 それが中央の文献に取り込まれたのは、早くとも第五段階ということになる。 東夷伝の原型が形作られた第四段階までは、おそらく韓伝に燕斉のなまりがあったと伝えられる、楽浪や帯方のような地方で記載されていたことになる。 韓伝に関する考察から、それは正始年間の終わりごろまで追記され続けていたと思われる。(7) 第五段階で魏の中央音に整合する用字が現れるのは、単にそのような人物が地方において関わっただけか、その段階で中央文献に取り込まれたのかは、この仮説だけからは判断できない。 第六段階で再び古い音価が現れるのは、ずっと地方において追記が続いていたか、もしくは中央にあって既存の文献から取り込まれたものであるかの、いずれかは判断できない。

ここで里程の漸次追記仮説に基づいて、倭人伝里程が最初どのように成立したか考察してみたい。 里程の第一段階は唐津周辺と思われる末盧國で終端する。 そもそもそのような里程が記録されるとすると、どのような時代であろうか。 倭人伝を見れば三世紀の倭国の外交上の窓口として機能していたのは伊都國であり、考古学的にみてもその地位は弥生中期中頃に遡る。 末盧國に関連すると思われる宇木汲田遺跡に、最初の王墓が出現したのはやはり弥生中期中頃であるが、漢鏡でなく多紐彩文鏡等を含む様相などから、その時代は伊都國に先行するであろう。 しかし多紐彩文鏡しか見つからない末盧國が終端になるとしたら、まだ漢郡の政治的影響が倭の国々に及ぶ前ということになる。 文献化されるとしたら漢人の南下は必須と思われるので、第一段階の成立は正に初めての倭への漢人の到着の記録と言うことであり、その後すぐに末盧國は伊都國にその地位を奪われたと考えることになる。 漢の四郡の中でも真番郡治は、茂陵書の記述から朝鮮半島南端に近い所にあったと思われ、茶戸里からは紀元前に遡ると言われる筆管も出土している。 おそらく勒島あたりから南へ渡るルートを記述するものだったのではないか。 しかし紀元後一世紀頃には、倭の対韓窓口は伊都國であると共に、韓の対倭窓口は金海となる。 これ以後のいつかの時代に、楽浪または帯方から倭に渡った人物が、第二段階の記述を行ったという推測が成立する。

第三段階は里程が不彌國まで伸びる。 しかし不彌國で終端する里程の存在も理解しにくい。 おそらくこの段階の記載は、伊都國を中心とした周辺地理や官名などの情報追記であったのであろう。 すなはち、本来奴國と不彌國は、伊都國を中心とした距離と方位の記述と思われる。 倭人伝里呈の距離表記が過大であることは古くから指摘されていて、伊都國までの一万里余りを400mあまりの魏代の一里で評価すると、実に4000Kmを上回る距離となって、現代の平壌から九州北岸までの700Kmを6~7倍も上回ってしまう。 ところがこの第三段階での距離表記についてみてみると、その比定地に定説のある伊都國と奴國については、百里つまり40Kmあまりとなっていて、平原遺跡を伊都國、岡本遺跡を奴國に見立てて測った距離の、約20Kmほどの二倍程度におさまる。 第三段階における里数表記が百里の単位で、それほど精密なものでないとすると、概ね距離は正しく表記されていることが分かる。 そして不彌國を宇美とし光正寺古墳にとると、平原からの距離はそれほど変わらず、やはり理数表記はそれ程過大ではない。 また方位は呼子から平原が真東に近く、平原から岡本もほぼ同じ方位であるが、平原から光正寺古墳はやや北側に編し、それぞれ里程の方位である東南と東から、45度程度の体系的ずれで理解可能である。 想像に基づくと思われる末盧國から伊都國を除けば、少なくとも陸上の地理については距離や方位表記は、かなり粗いけれども概ね妥当ということになる。

ただし邪馬壹國と狗奴國への方位である南は、それが記載された第四段階では距離を伴わず、したがって伝聞によるものであった可能性が高くなる。 この二国が追記されたのは、仮説によれば東夷伝の原型ができた時点であるから、韓伝に関する考察から(7)、弁辰の情報が記録される前の魏の景初年中、遅くとも正始年間の韓の反乱の前となる。 その後この東夷伝の原型には、正始年間以降に弁辰の情報が追加されていったと考える。

7.倭人伝の原史料^

倭人伝里程については、魏の時代の使者が倭国に渡った時の記録によるものとする説がある。 しかしここまで述べてきた里程の漸次追記仮説が正しければ、里呈は魏使による一貫した記録とは思い難い。

実際外交記事中では、詔書の前には卑弥呼に対する代名詞は倭女王、詔書以降は狗奴國男王との対句的用例の中で倭女王と呼ばれる以外、倭王ないし親魏倭王であり、卑弥呼は魏との外交を経て、親魏倭王の称号を得たことに丁寧に対応している。 一方里程においては卑弥呼に対する代名詞は単に女王であり、代名詞のみで名前は明かされない。 里程の完成者は、卑弥呼の名が魏朝にとって明らかになり、親魏倭王の称号を授けられたことを知らなかったのであろう。 すなはち里程の中には倭国から帰国した魏使による情報は含まれないと思われる。

三国志東夷伝には、地の文にの表記があることで知られ、内藤湖南氏も指摘するように、三国志東夷伝高句麗条には、正始五年に毋丘儉に追われる位宮を、今句麗王宮是也としている。(8) すなはちこの地の文のの示すのは、正始年間の初頭にとどまることが分かる。 これは三国志の書かれたとする太康年間どころか、魏の末年頃が有力とされる魏略や王沈の魏書をはるかに遡り、原史料の書かれた時代を示すと思われる。 地の文のは、三国志東夷伝に十五ヶ所にわたって登場し、文脈的なつながりまで考慮すると、三国志東夷伝の主要な部分が、地の文のの史料にあったことは確実と思われる。 倭人伝里程も、地の文のの文脈で語られる、倭人伝冒頭近くの今使譯所通三十國の記載から見るに、地の文のの史料にすべての国が出そろった完成形があったと考えられる。 上述したように里呈の完成者は、卑弥呼が親魏倭王の称号を授けられたことを知らなかったとするなら、地の文のは景初年間に遡ることになる。

内藤湖南氏が指摘しているように、倭人伝の里程の存在する倭国の風俗地理の記述部分には、魏略の逸文に対応する部分が幾つか確認でき、(8)今倭水人好沈沒捕魚蛤のような、三国志東夷伝の地の文のを含むものも知られている。 このことから、魏略もまた地の文のの史料を原史料の一つとして書かれており、里程の全文があったと考えられる。 実際それを裏付ける様に、郡から伊都國までと狗奴國や女王國までの総距離などが、逸文中に確認できる。

これは一つの疑問を生じさせる。 魏の末年近くに成立したという魏略は、倭国の地理を表すのに、何故魏使の報告などではなく、つぎはぎの地方文献由来の古い史料を用いたのであろうか。 この状況は魚豢が、正始年間以降の魏朝の史料を利用できなかったことを思わせる。 魏略については逸文のみであり、その著者とされる魚豢についても詳細には分かっていない。 三国志裴松之註によれば、漢魏交代期に魏政権中枢の人物に近く、隋書巻33雑史に魏の郎中であったことが見えるのみである。 史通に事止明帝とあることから、明帝の時代をそう下らずに野にあり、その後の魏朝の内情には詳しくなかった可能性がある。 残された逸文を見る限り、その中心はやはり漢末から明帝の時代までであり、それ以降の逸文もあるものの数は少ない。(9) それらは直接見聞や史料に寄ったのではなく、関係者からの伝聞や、ことによると市中の噂話に近いものもあるのではないだろうか。 実際魏略には呉に関する逸文もあるが、現在魏略の成立年が魏末に想定されている事からして、未だ滅んでいない呉の直接資料に依ったとは思われず、伝聞によるものと考えられる。(10) このように魚豢が魏の政府から離れたところにいた事は、魏略が当時の権力者である司馬氏に対して、辛口の記述をしていることからも想像できる。

東夷伝に対する裴松之註には、魏略西域伝の全体が引かれているが、十六ヶ所に及ぶ地の文のがあり、三国志東夷伝と共通した特徴を持つ。 また三国志東夷伝や西域伝に相当しない逸文にも、地の文のが知られていて、その時代は予想される魏略の成立年代と近い正元二年に下る。(11) 即ち地の文のの史料とは正に魏略そのものではないだろうか。 地の文のはそのまま書かれた時代を示すのではなく、魚豢が卑弥呼に対する詔書や毋丘儉の高句麗征討のような、景初末年から正始年間にかけての、魚豢の住む京兆から遠く離れた、東夷との外交軍事などの内部情報を、網羅的に知ることができなかったことを示している可能性がある。

8.おわりに^

ここで里程の漸次追記仮説に従ってひとつのストーリーを描いてみる。

楽浪ないし帯方のような地方において、倭国の地理に付いての文書が漸次追記されて来たが、景初年間に他の民族に関する情報と併せて、最初の東夷伝形式の文書が成立し、少なくとも正始末年まで追記されていた。 一方魚豢は明帝死後しばらくは職にとどまって、景初年間の倭人の朝貢に直接ないし間接に携わることができ、聞き取り記録の一部を入手していた。 卑弥呼への詔書が出される前に役を辞し、魏の史書の編纂をはじめた。 明帝までの記録は魏朝に仕えていた時の直接史料を用いることができたが、明帝以降の時代については利用できた史料は限られていた。 特に景初末年から正始年間にかけての東夷との外交軍事に関しては、殆ど知ることがなかった。 その後地方文献であった東夷伝の原史料を手に入れることができたため、魏朝にあった時に入手した情報や、入手できたその他の史料を加えて東夷伝を立てた。 倭人伝里呈に付いては、魚豢は第四段階で入手したが、手元に残していた景初中の倭人からの聞き取り史料をもとに、投馬國を経由して邪馬壹國へゆく日程と人口を追記した。 同時に魚豢が入手していた別の何らかの古い史料より、国名のみの二十一國を追記し、現在の里程が完成した。

もしもこのようなストーリーが正しければ、景初年間以降に下る、倭人伝の外交記事などの原史料は、魏略ではないことになる。 実際外交記事に対する魏略の逸文は知られていない。 では三国志東夷伝の、そのような景初年間以降に下る記事の原史料は、どのようなものなのだろうか。 また西晋の著作郎であった陳寿は、一般には見ることもできないような、西晋の公文書類を含む多くの史料を入手できたにもかかわらず、何故東夷伝において魏略に多くを依存することになったのだろうか。 特に倭国の地理に関して、魏使の報告は反映されず、つぎはぎの魏略の情報によったのは何故だろうか。

本稿においては三国志東夷伝の原史料についての考察の前編として、倭人伝里程に焦点を当てたが、後編「幻の曹爽建郡」において倭人伝の外交記事等の、魏略以外の原史料を、三国志東夷伝全体の問題として取り上げる予定である。 その際に三国志原史料に関して考察する際に必須と言える、末松保和氏や三木太郎氏の言う三国志異本の存在についても触れることになる。(12)(13)

表1^

代表的な史書における到と至の合計に対する到の割合
史書名至の出現数到の出現数到の割合
史記2174642.9%
漢書32631063.1%
三国志131021914.3%
後漢書231136313.6%
宋書25721646.0%
南斉書815384.5%
梁書1040827.3%
陳書572244.0%
晋書34041654.6%
隋書2400281.2%
旧唐書56421041.8%
新唐書72291972.7%
宋史154352231.4%

理由は分からないが、三国志と後漢書の割合が大きい。後漢書原史料が東観漢記であると考えると、時代的な問題かもしれない。

謝辞に代えて

本稿を書くにあたって、かって大論争及びyahoo掲示板においてなされた、倭人伝里程に関する議論を大いに参考にさせていただいた。 特に里程が魏使による一貫した情報に基づくものではないという説、さらには北部九州に関する里程が後漢代に遡るという説、末盧國までの里呈が漁労民などの情報によるとの説、末盧國までの里程が紀元前にまで遡る可能性があるとの説などには大きな影響を受けた。 本稿に置いて示した説は、概ねそれら掲示板で見た議論の私の独断によるまとめのようなものである。 残念ながら匿名掲示板での発言の為、お名前を挙げることもできず、感謝を示すすべも無い。 最後に形ばかりの謝辞で代えさせて頂くこととする。

参考文献

  1. ^榎 一雄 
    『邪馬台国 (1960年) (日本歴史新書) 新書』
  2. ^牧 健二 魏志倭人伝難解理由の解明と前漢書の書例との関係
    竜谷史壇 (通号 73・74) 1978.03 p.p19~53
  3. ^高橋 善太郎 魏志倭人伝の里程記事をめぐって
    愛知県立大学文学部論集. [人文・社会・自然] / 愛知県立大学文学部・愛知県立女子短期大学紀要委員会 編
  4. ^川村 明 『漢書』西域伝と魏志倭人伝
    古代史の海 通号5 P2~19
  5. ^森博 達 第5章「倭人伝の地名と人名」
    「日本の古代1 倭人の登場」中公文庫
  6. ^shiroi-shakunage 卑弥呼はなんと呼ばれたか -漢字音からみた倭人伝-
  7. ^shiroi-shakunage 三韓概念の成立 -韓伝国名リストの分析を端緒として-
  8. ^内藤 湖南 卑彌呼考
  9. ^全 海宗 魏略および東夷伝に関する若干の見解
    朝鮮学報 96 1980年 7月 pp.1~22
  10. ^裴松之 魏略曰
    三國志 卷47 呉書二呉主孫権伝第二 二十五年春正月
  11. ^江畑 武 再び「魏略」の成立年代について―何遠景氏の255年説について―
    阪南論集 人文・自然科学編 26(1), p33-43, 1990 阪南大学学会
  12. ^末末 保和 太平御覧に引かれた倭国に関する魏志の文について
    日本上代史管見 笠井出版印刷社, 1963
  13. ^三木 太郎 邪馬台国問題の基準
    魏志倭人伝の世界 吉川弘文館


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