国名でみる三韓の地域性について

−区分法による三国志魏書東夷伝韓条国名リスト分析の試み−

概要

三国志魏書東夷伝韓条に現れる三韓の国名リストに対して、少数の確実性のある国名比定のみを根拠として、国々の配置について議論する方法を考案した。その結果、三韓時代の文化区画や、国名リスト自体の成り立ちに関して、興味深い可能性を指摘できることを示した。



目次


初めに

三国志魏書東夷伝韓条(以下韓伝)の国名リストに含まれる国々に関しては、三国史記時代のどの地名に当たるのか、現在のどのあたりに想定されるのか、さまざまな議論がある。しかしながら、そもそも名前しか手がかりの無い国々に対して、後の時代の地名との音の比較のみによる比定は根拠が薄く、決め手が無いのが現状であろう。しかし、これだけのまとまった数の国名があれば、国々がどのようにリストされているのか推測できるかも知れないし、それが判れば、決め手の無い比定に対してある程度の結論は出せるかもしれない。例えば、「弁辰古資彌凍国」は、三国遺事の「古自」、日本書紀の「古嵯」、「久嵯」現在の「固城」に比定されているが、これにどの程度の信頼を寄せることが出来るだろうか。しかしもしも「弁辰古資彌凍国」が南部海岸近くにあることがわかれば、この比定の信頼度は大きく向上するであろう。残念ながらこれまでの方法では、国名リストが地理的な順番で配置されているのかどうか、かりにそうだとしてどのように配置されているのか、その企画を知るためには、ある程度の確実な比定が必要で、現時点でそのようなことが可能になるほどの、定点となる比定は得られていない。確実な比定をふやすためには、国名リストの企画を調べる必要があり、国名リストの企画を調べるには確実な比定が多く必要に成る。ために事は進まない。少数の確実な比定点のみを根拠に、リスト全体の企画を知る方法はないか、それがこの論考の目指すところである。具体的には、韓伝の国名リストを機械的に分割し、分割した各区分に属する国名の特徴を調べ、それを相互に比較したり、少数の確実な比定地の情報をもとに、三国史記地理志や日本書紀に現れる、地名の特徴や性格と比較したりして、どのような企画で国々がリストされているのかを論じた。この方法は、個々の国名でなく国名の集団を扱う点で、長年の間に生じた単字の誤写や誤刻に対しても抵抗力があり(補足1)、不確かな個別の比定に振り回される心配も少ない。ただし、多いとは言っても総数で79ヶ国しかない国名を、より小さなグループに分割することで、各グループの性格に偶発的な揺らぎを拾ってしまうリスクがある。そこで、まず比較的大きなグループに分割して、このような偶発的揺らぎのリスクの小さいところから議論を始め、全体的傾向をつかんでから次第に分割を進め、より詳細な構造を見出すアプローチをとった。

1.確実な比定地

韓伝国名の比定地の内、確実性の高いものはどれであろうか。

1.1.定点となる比定地

<<各種史書からの追跡の可能な国>>

伯濟国

梁書、魏書、周書など中国各史書には百濟は馬韓の後であることが記されている。後漢書には、伯濟は馬韓の一国として唯一国名を示している国である。百濟と伯濟の音の一致もあるが、三国志で特筆されていないこの国を、百濟が隆盛して劉宋へ朝貢している時代に成立した後漢書が、あえて挙げる理由は明らかであろう。三国史記が示すところは、百濟発祥の地は漢江下流域で、日本書紀の記載ともほぼ一致する。伯濟は漢江下流域でよいだろう。

斯盧国

梁書の記事「辰韓始有六國、稍分爲十二、新羅則其一也」「魏時曰新盧、宋時曰新羅、或曰斯羅」が直接的に新羅と斯盧の関係を示す。また、太平御覧に引く「秦書」の記事も、新羅と斯盧の関係に関するものと思われる。三国史記が示すところは、新羅発祥の地は慶州であるから、斯盧は慶州でよいだろう。

<<史書の記載内容、地勢、考古学的見地からの比定>>

狗邪国

三国志魏書東夷伝倭人条には、この国が倭国への渡海の出発地であるとされている。日本書紀、三国史記の記載、金海周辺での考古学的成果と地勢、そして「狗邪」と古地名「伽耶」の音の比較からみて狗邪は金海近郊で間違いないだろう。

涜(さんずいに賣:以降「涜」で代用する)盧国

三国志魏書東夷伝倭人条の倭に接するとの記事と、半島における倭系遺物の分布と釜山周辺での考古学的成果と地勢、そして涜盧と古地名「東莱」の比較からみて、涜盧国は釜山周辺であろう。


<<音韻の余りにも似ているもの>>

臼斯烏旦国

三国史記地理志に現れる、「丘斯珍兮」があまりにも類似していて、他に類似地名が無い。「丘斯珍兮」の最後の「兮」は三国史記地名に多く接尾する語であり、「丘斯珍兮」が「貴旦」とも言われ、珍と旦の通音があることまで考慮するとさらに類似性が高くなる。有力な候補である。

井上秀雄訳注三国史記では全南長城郡珍原面とする。

牟盧卑離国

三国史記地理志に現れる、「毛良夫里」が有力候補。「卑離」は三韓中では馬韓国名のみに数多く接尾して現れる語で、百済故地の地名に数多く接尾して現れる「夫里」と対応すると考えられる。それを考慮すれば、音韻の類似性は高い。

井上秀雄訳注三国史記では全北高敞郡高敞邑とする。

如來卑離国

三国史記地理志に現れる、「尓陵夫里」が有力候補。「卑離」に関しては既述した。音韻の類似性にやや疑問も残るが、状況に矛盾がなければ候補地と考えられる。

井上秀雄訳注三国史記では全南和順郡綾州面とする。

1.2.比定地として採用しないもの

<<一般に比定が確実視されているが、本稿で採用しない国>>

弁辰安邪国

三国史記に「阿尸良」、「阿那加耶」、日本書紀に「安羅」とする。三国史記では、羅と邪は通音しているので、音韻的には良く一致している。「阿那加耶」の「那」は「安」の末尾子音と対応しているように見える。日本書紀には韓伝に現れる国名に極めて近い地名が良く登場することは、内藤湖南氏によっても指摘されている。ただ2文字表記で、音韻も単純であり、偶然の一致の可能性もある。安邪を安羅に比定する理由の一つは、弁辰の国名のリスト中で、金海に比定される狗邪と近接していることも理由に挙げられるのではないか。安羅の現在地は咸安であり、金海との地理的関係を考慮する心理があると思われる。しかし、国名リストがどのようになっているのか、何らかの意味で地理的順序に沿っているのかどうかも判らない段階では今ひとつ弱い。

古資彌凍国

これを一般に、現在の固城に当てる説がある。根拠は三国史記の「古自」と思われるが、2文字表記で根拠として弱い。「古自」が地名として極めて珍しいものであるとも思えない。「彌凍」に関しては、水堤などという解釈もあるが根拠がない。「彌凍」が三国志「彌知」に繋がるとして、三国志地名から地形的な特徴とみなす説もあるが、これも確たる根拠がない。

不斯国

これを一般に、現在の昌寧に当てる説がある。根拠は三国史記の「比自火」または「比斯伐」と思われるが、最後の「伐」ないし「火」を新羅地名によくある接尾として取り除くとしても、一致は2文字分で根拠として弱い。そもそも、三国史記地理志によれば、百済南部海岸の地名にも「比史」なる地名がある。馬韓、弁辰、辰韓の領域もわからない段階での比定は難しい。

<<概略の位置のみ議論されているが、定説のないもの>>

月支国

後漢書には「目支国」とある。(補足2)辰王に対する記述から、牙山地区などの候補が上がっているが、考古学的にも地名的にも決め手がない。そもそもこの国の韓における位置づけに諸説あり決着がついていない。本稿では諸説への依存を避けて、簡潔な議論としたいため、この国に関してはあえて言及しない。

<<その他の国々>>

そのほか井上秀雄訳注三国史記には多くの比定地が出てくるが、地名の類似のみによるものであり、その類似が十分な信頼性を担保するほどのものはない。

2.馬韓の国名リストの概観

ここで馬韓の国名リストを、登場順に番号を振って載せる。

(注1:「優休牟琢」の「琢」は本来の字は水偏)
(注2:20番目はASCCの瀚典全文檢索系統 2.0 版では「占離卑」となっているが、翰苑に引く魏志および通史では「占卑離」となっている)

馬韓の国名リストに関しては、漠然とそれが北から南に向かっていると思われている節がある。それは恐らく、馬韓の国名リストの早いほう(8番目)に漢江流域と思われる「伯濟」が現れ、後半のほう(35、41、47番目)に全羅北道南部から、全羅南道と思われる、「臼斯烏旦」「牟盧卑離」「如來卑離」が現れるからであろう。はたしてこれらの国々は北から南へ並んでいるのだろうか。全体がどのようにな配置になっているか確認するため、国名リストを3分して、各区分の特徴を調べてみる。

さて、韓伝国名のうち馬韓の国名のみに接尾して現れる「卑離」について見てみる。これは百済地名のみに接尾して現れる「夫里」との関係が疑われるもので、馬韓国名を特徴付けるものである。上に挙げた各区分に含まれる「卑離」の回数を調べてみる。

(表1)馬韓3分割
区分名国の数卑離
馬韓3分の1区分18国0国
馬韓3分の2区分18国5国
馬韓3分の3区分19国3国

グループに含まれる18ヶ国という数は、弁辰、辰韓それぞれの12ヶ国を上回り、このような偏差が全くの偶然とも思えない。三国史記地理志地名について、「夫里」の出現数をみると熊州、全州、武州にのみ現れて

(表2)「夫里」出現回数
州名「夫里」の出現回数
熊州3回(内1つは都督府13県とするもの)
全州2回
武州5回

その一部が馬韓の領域であったと考えられる漢州には、「夫里」が見出されないことは興味深い。上記3州に現れる「夫里」に関しては百済語とみなされ、漢州地名とは高句麗地名を関連させようとする論が盛んであるが、そのような試みの第一人者である李基文氏の著作「韓国語の形成:3.高句麗の言語とその特徴」における下記のような記述にも留意すべきであろう。

「この地域は大体において夫餘系言語を使用した歳(さんずいのワイ)または夫餘系の南下支流である百済が起こった所で、四世紀と五世紀の交替期に高句麗の広開土王とその後を継いだ長寿王に依って高句麗の版図に入るようになったのである。したがって、この地域には少なくとも新羅統一頃まで広くみて夫餘に属する言語および、方言が話されていたとみることができる。」

上記の「卑離」の発見されない馬韓3分の1区分には、漢州と比定される「伯濟」がある事実とと合わせて考えるならば、このような区分の性格の差は、区分の持つ地域性を表すものと考えるのが妥当であると思う。すなわち、馬韓3分の1区分は馬韓の北部に相当し、全羅南道に比定される国名とあわせて考えるならば、馬韓の国名リストは概ね北から順に、地理的順に記載されていると考えてよいであろう。ただし、単純に南北に並んでいるとは思えないところもある。35番目「臼斯烏旦」、41番目「牟盧卑離」、47番目「如來卑離」の比定地は全て、全羅南道ないし全羅北道最南部にあり、あまりに接近しすぎている。すべて新羅時代の武州の地名であり、馬韓の故地と想定される漢州南部、熊州、全州に対して、35番目「臼斯烏旦」以下21ヶ国、全体の3分の1以上の国が武州に集まっていることになる。しかも35番「臼斯烏旦」の比定地は、41番「牟盧卑離」よりも南にある。概略の配置は地理的順でも、細部の構造はもっと複雑な様相を呈していると思われる。これを知るためには、分析の解像度を上げる必要があり、この問題に関しては後ほど触れる。

3.弁辰と辰韓の国名リストの概観

弁辰と辰韓の国名リストに関してはどのようなことが言えるだろうか。韓伝には次のような記述がある。

「弁辰與辰韓雜居」
弁辰と辰韓は混ざり合って住んでいる。

弁辰と辰韓は、地理的には分かれていないのだから、もしも全体を地理的順で記載すると、国名リストは弁辰と辰韓の入り混じったものになるであろう。まさに、韓伝の国名リストはそのようになっているのであって、馬韓の状況と合わせて考えるに、弁辰と辰韓を合わせた24ヶ国の国名リストは、全体として地理的順序に並んでいるのであろう。

ここで弁辰と辰韓の国名リストを、登場順に番号を振って載せる。

(注:ASCCの瀚典全文檢索系統 2.0 版では馬延は2度現れるようであるが、翰苑に引く魏志の記述からこの位置とした。馬延が2度現れる理由としては、ちょうど最初の馬延から2番目の馬延までが19文字あり、現存刊本の1行が19文字であることから、現存刊本の形態となって以降に起こった隣の行の国名の重刻の可能性があるのではないか。)

国名リストの地理的配置を調べるため、馬韓で行なったと同様に国名リストを区分して評価しよう。全体を12ヶ国づつ二つのグループに分けてみる。

さて、韓伝国名のうち弁辰辰韓の国名のみに接尾して現れる「彌凍」について見てみる。

(表3)弁辰辰韓2分割
区分名国の数彌凍
弁辰辰韓2分の1区分12国3国
弁辰辰韓2分の2区分12国0国

「彌凍」は最初の区分のみに現れる。「卑離」の場合と違って、「彌凍」が後の時代のどのような地名に対応するか定説はない。しかし、三国史記地名に共通して接尾して「彌凍」に似通った地名となると限定されてくる。おそらく「彌知」がそれに当たるのであろう。「彌凍」とはやや音が遠いが、翰苑に引く魏志では「彌陳」に作っている。「陳」と「知」の頭子音は清濁の違いしかなく、ともに内転三等韻で母音の響きもにている。違いは最後が子音のnで終わるかどうかだけであり、時代差による脱音を想定できる。ここは「陳」が正しいであろう。では「彌知」地名はどこにあるのか、新羅時代の州名で調べると。

(表4)「彌知」出現回数
州名「彌知」の出現回数
武州2回
尚州2回
慶州1回

武州の2回は意外であるが、全羅道の南西部であり、今考える弁辰辰韓地域ではあるまい。残りの3回は慶尚北道にある。知乃彌知縣は新羅の化昌縣で、井上秀雄訳注三国史記では現在の慶尚北道尚州郡化西面。武冬彌知は新羅の單密縣で、井上秀雄訳注三国史記では現在の慶尚北道義城県丹密面。豆良彌知停は新羅の西畿停と呼ばれ、新羅の都金城(慶州)の西の守りとされ、おそらく洛東江支流の上流域にあったのだろう。いづれも、洛東江流域の上流部と考えられる。一方で、信頼できる比定地として挙げた、「弁辰狗邪」「弁辰涜盧」「斯盧」がいずれも、弁辰辰韓2分の2区分にあり、これらは半島南東部の海沿いにある。ここから、弁辰辰韓の国名リストの配置は、概ね洛東江流域の上流部から、東南部の海岸へ向かっていると推定できる。ただし「彌知」地名が全羅道南西部に分布するにもかかわらず、なぜ馬韓の国名リストに「彌凍」が現れないかの課題が残るが、これは後に考察する。

4.国名リストのグループ構造

弁辰辰韓の国名リストの国々はどのような地理的配置になっているのであろうか。「弁辰狗邪」の比定地金海と、「弁辰涜盧」の比定地釜山は隣接しているにもかかわらず、国名リストでは間に2国を挟んでいる。このように、概ね地理的な順番で配置しているとしても、細かく見ると単純な地理的配置では説明できないところがある。これは、馬韓の国名リストでも見てきたところである。「弁辰狗邪」->「弁辰走漕馬」->「弁辰安邪」のリストと、「弁辰涜盧」->「斯盧」->「優由」のリストは隣接する起点から始まっており、もしも地理的配置とすれば異なる方向へ向かっているのであろう。

これまで、「弁辰安邪」を「安羅」「阿那加耶」に比定するのは、何らかの意味で地理的順序に沿っているのかどうかも判らない段階では、今ひとつ根拠が弱いとしてきた。しかし、弁辰辰韓の国名リストが概ね地理的配置に沿っているとすれば、「弁辰安邪」は「弁辰狗邪」=金海に概ね近接していると思われ、「弁辰安邪」の比定地として「安羅」「阿那加耶」すなはち現在の「咸安」は有力といえるであろう。ここから、「弁辰狗邪」->「弁辰走漕馬」->「弁辰安邪」のリストは、洛東江が東流するあたりの下流部を、西へ向かう配置であろうと推察される。(補足3)また「弁辰涜盧」->「斯盧」のリストは釜山->慶州で日本海側を北上しているように見える。弁辰辰韓の国名リストの全体としては、概略洛東江上流から海岸部へ向かう配置になっているにもかかわらず、逆に「弁辰狗邪」から始まるリストは洛東江を遡上しているとすると、国名リストは幾つかのグループに別れ、各グループ毎のそれぞれの配置プランは、そのグループ内部の事情に寄っていると思われる。ここで上げたケースでは、国名の配置が主要な交通ルートに沿っている可能性が示唆される。「弁辰狗邪」国から洛東江沿いに遡上するルートと、「弁辰涜盧」国から日本海側を北上するルートは、郡から朝鮮半島海岸部を回ってきた物流のルートの延長線上にあると想定されるからである。国名の配置が、このように大局的には地理的順番に配置されたグループに別れ、それぞれのグループ内ではそれぞれの事情により配置されているとすると、馬韓でみた国名分布の謎も解ける可能性がある。

例えば下記のようなケースを考える。
12ヶ国の国々が北から南へ

A->B->C->D->E->F->G->H->I->J->K->L

と並んでいるとする。

これが、国名リスト上では4ヶ国づつ三つのグループに別れ、北にある第1群が北から南へ

A->B->C->D

その南にある第2群が南から北へ

H->G->F->E

その南にある第3群が北から南へ

I->J->K->L

となっている場合、全体の国名リストは

A->B->C->D->H->G->F->E->I->J->K->L

となって、リスト上で離れたDとEが、地理的には隣接することになる。またH国の位置がわかった場合、国名リストを単純に北から南に並んでいるとみなした場合、7ヶ国がH国より南にあるように見えるが、実際にはH国より南には4ヶ国しか存在しない。馬韓に置いて、南部に国々が集中するように見えた理由はこのような事情によるものかもしれない。二つのグループがほとんど東西に並んでいるような場合には、馬韓の「臼斯烏旦」と「牟盧卑離」のケースのように、リスト上で南北の逆転する状況も発生しうるであろう。(補足4)

ここで極めて興味深いことが判る。国名リストに見出された1つのグループは、弁辰と辰韓の境界を跨いでいる。さらに興味深いことは、グループごとに「盧」で終わる国名と「邪」で終わる国名が分かれていることである。それはまるで、東海岸グループでは「盧」、洛東江ないし南岸沿いのグループでは「邪」が使われているように見える。この状況を三国史記や日本書紀の地名で見た場合、どのようなことが言えるだろうか。「斯盧」が後の「新羅」であるとすると、「盧」は後の「羅」に引き継がれると考えられる。同じく「弁辰狗邪」が「加耶」に引き継がれることから、「邪」は後の「耶」でよかろう。ところで、三国史記、日本書紀の時代にこの二つは通音のようにして現れる。加耶は加羅でもある。多羅は大耶でもある。このことから「羅」と「耶」、そしてその起源となった「盧」と「邪」は、同一の意味をもつ語のように思える。すなはちこの二つのグループは国名末尾に同一の意味を持つ接尾/la/ /ya/の対立を持っているようである。この二つはもともと、東海岸グループと南岸ないし洛東江下流グループの方言差であったのではあるまいか。洛東江流域では時代がさがる程に、「斯盧」=「新羅」の勢力が強くなっていった。三国時代には/la/接尾地名を使用する勢力が、/ya/接尾地名を使用する勢力を押さえていったため、地元の古伝承にのみ/ya/接尾地名が残ったのではあるまいか。新羅には「斯耶」、「新耶」等と言う伝承はないこともこの推測と整合する。また日本書紀の加羅も安羅も多羅も、百済滅亡後の百済人の資料であろう。次節で見るが、百済地域は概ね/la/接尾地名の地域と言える。後漢書には

「弁辰在辰韓之南」
弁辰は辰韓の南

「言語風俗有異」
言語と風俗に違いがある

と三国志とは異なる記述がある。後漢書は五世紀の加耶と新羅の知識に基づいて三国志の記事を修正しているのであろう。加耶と新羅が、三韓時代の異なる方言区画に属する、「斯盧」と「弁辰狗邪」を中心に発展して地域を分けたのであれば、後漢書がその出自をもとに弁辰と辰韓に対して誤った考察を行なったと解釈できる。4世紀の加耶と新羅は、弁辰、辰韓と直接に繋がるわけではない。むしろこのような地域性は古く洛東江下流域と、東海岸地域の方言差であったのではないだろうか。ただし、方言差はそれがそのまま国名の性格となって現れるとは限らない。/la/ /ya/に関しては、三国時代の資料も合わせて考えると、三韓時代の方言差の可能性が伺われるが、方言差ではなく祭祀の違いなど別の要素に基づいて国名を名づけた可能性や、三韓時代ではなく先住民族の名づけた古い地名の影響を受けている可能性、そして地名には地域差がないが特定の基準で選別された地名のみが国名として記載される可能性なども考えうる。そこで本稿では、本稿独自の造語として、国名区画という言葉を用いる。弁辰、辰韓には「彌凍」の接尾で特徴付けられる国名区画と、「盧」「邪」の接尾で特徴付けられる国名区画が存在するようである。ここで極めて興味深い点は、馬韓において「盧」の接尾する国名が、数多く現れることである。馬韓における「盧」の接尾する国名の分布はどのようになっており、それは弁辰、辰韓とどのように関係するのだろうか。

5.馬韓の国名区画を調べる

すでに馬韓に関しては、「卑離」地名の分布から、二つの「国名区画」の存在を考察した。ここではこの国名区画の中味をもう少し詳しく調べる方法を考える。とくに前節で述べたように、「盧」の接尾する国名の分布が興味深い。そこで3分割区分における、「盧」の接尾する国名の出現回数を調べてみたい。その際に以下の2国に関しての取り扱いを事前に決めておこう。

いずれも「盧」の接尾する国名ではない。しかしながら「牟盧卑離」において「卑離」が語として抽出できるならば、「牟盧」も語として抽出可能である。この国の識別は、共通部分を除けば「牟盧」であるわけで、地名の中に現れる「盧」の接尾する語としては、他の単独の「○盧」国と変わりはない。また、「速盧不斯」に関しても、辰韓の「不斯」や、馬韓の「不斯濆邪」を考慮すると、「不斯」を語として抽出できる可能性がある。そこでこの2国を、「盧」の接尾する国名に含めて考えることにする。「盧」の接尾する国名の出現回数は

(表5)馬韓3分割
区分名国の数○盧
馬韓3分の1区分18国3国
馬韓3分の2区分18国3国
馬韓3分の3区分19国3国

すなはち、「盧」の接尾する国名に関しては、馬韓は均質に見える。方言区画に関しては、使用する語によって、境界が変わることはありうる。「盧」の接尾が示すものが方言区画で、「卑離」の示すものは、先住民の残した地名分布ということも考えうる。ところで、本当に「盧」の接尾に関して馬韓の国名リストは均質なのだろうか。馬韓の3分割という大きな区分が、区画を不鮮明にしている可能性はないだろうか。そこで、区画をもっと細かくしてみよう。ただ、1区画の国名の数が小さくなると、それだけ偶然の揺らぎを拾う可能性が高くなるため、少しづつ区画を増やしながら、推移を見てゆこう。

まず、馬韓の国名リストを4分割してみる。比較するために「卑離」の出現回数も合わせて記載する。

(表6)馬韓4分割
区分名国の数卑離○盧
馬韓4分の1区分14国0国1国
馬韓4分の2区分14国3国3国
馬韓4分の3区分14国3国4国
馬韓4分の4区分13国2国1国

馬韓4分の1区分の「盧」の接尾出現数は小さくなったが、馬韓4分の4区分にも国名区画が現れそうである。

分割を5に増やしてみる。

(表7)馬韓5分割
区分名国の数卑離○盧
馬韓5分の1区分11国0国1国
馬韓5分の2区分11国2国2国
馬韓5分の3区分11国2国3国
馬韓5分の4区分11国2国3国
馬韓5分の5区分11国2国0国

ついに馬韓5分の5区分の「盧」の接尾の出現回数が0になった。これを見る限り、馬韓5分の1区分の特徴と、馬韓5分の5区分の特徴に大差はない。はたしてこれは、数字の操作の見せる幻であろうか。さらに区分を小さく取って推移を見てゆく。

(表8)馬韓6分割
区分名国の数卑離○盧
馬韓6分の1区分9国0国1国
馬韓6分の2区分9国0国2国
馬韓6分の3区分9国3国1国
馬韓6分の4区分9国2国2国
馬韓6分の5区分9国1国3国
馬韓6分の6区分10国2国0国
(表9)馬韓7分割
区分名国の数卑離○盧
馬韓7分の1区分8国0国0国
馬韓7分の2区分8国0国2国
馬韓7分の3区分8国2国2国
馬韓7分の4区分8国2国1国
馬韓7分の5区分8国1国2国
馬韓7分の6区分8国3国2国
馬韓7分の7区分7国0国0国
(表10)馬韓8分割
区分名国の数卑離○盧
馬韓8分の1区分7国0国0国
馬韓8分の2区分7国0国1国
馬韓8分の3区分7国2国2国
馬韓8分の4区分7国1国1国
馬韓8分の5区分7国2国2国
馬韓8分の6区分7国1国2国
馬韓8分の7区分7国2国1国
馬韓8分の8区分6国0国0国

分割数が7以上になった時点で、最初の区分と最後の区分の「卑離」「盧」の出現数がともに0になる。はたしてこれは、分割のもたらす偶然だろうか。特異性の現れる区分が、馬韓国名リストの最初と最後である点に、これが単なる偶然ではなく、何らかの地域性を表している可能性を感じる。最初の区分には「伯濟」が入っていて、漢江流域の地域特性である可能性がある。最後の区分はどのような地域なのであろうか。馬韓の国名リストが概ね北から南に向かっているとすれば最南部。概ね海岸沿いに沿っているとすれば、弁辰、辰韓と接する地域となる。問題の最後の区分の一つ前の区分には「如來卑離」があり、その比定地は光州市の南の内陸部である。日本書紀、神功皇后摂政紀49年3月条に加耶地域の7ヶ国平定の後、西の古溪の津に至り、南蛮、忱彌多禮(済州島)を屠った記事がある。ここに出てくる「古溪」は、問題の区分に現れる馬韓国名リスト50番目の「狗奚」に音的に近い。(補足5)最後の区分が、南部海岸地域ないし、弁辰辰韓との境界近くである可能性は指摘できるであろう。南部海岸地域は地勢的に、弁辰辰韓との関わりが強いことは予想できる。とすれば、この区分の特異性が数字のマジックとしてではなく、弁辰辰韓地域との関わりで理解できる可能性はある。前節でみたように、弁辰辰韓地域には「盧区画」と「邪区画」が対立していた可能性が伺われ、「盧区画」は東海岸、「邪区画」は洛東江が東へ向かう下流域、弁辰辰韓地域の最南部と思われる。馬韓の最後の区分と地勢的に近い地域はこの弁辰辰韓の「邪区画」で、そこには「卑離」も「盧」も存在しない。そして馬韓の最後の区分には「卑離」も「盧」も存在しないだけでなく、馬韓55ヶ国中唯一「邪」で終る国名である、52番目の「不斯濆邪」が現れるのである。馬韓の最後の区分は、弁辰辰韓南部地域と共通の国名区画にあったと思われる。この結論に従うならば、「国名区画」は弁辰辰韓の境界を跨いでいるだけでなく、馬韓との境界をも跨いでいることになるのである。

6.弁辰辰韓の国名区画を調べる

弁辰辰韓の国名区分の解像度を、馬韓で行なったと同程度まで上げるとどのようになるだろうか。今、弁辰辰韓24ヶ国の国名を、8ヶ国ずつ三つのグループに分けてみよう。各区分の中味を書き下すと

弁辰辰韓3分の1区分

弁辰辰韓3分の2区分

弁辰辰韓3分の3区分

一見して判るように、「彌凍」接尾国名は第1の区分のみに現れ、第2の区分には「路」接尾地名が現れ他の区分には現れない。「邪」接尾、「盧」接尾の地名は全て第3の区分に入る。

(表11)弁辰辰韓3分割
区分名国の数彌凍○路○盧○邪
弁辰辰韓3分の1区分8国3国0国0国0国
弁辰辰韓3分の2区分8国0国3国0国0国
弁辰辰韓3分の2区分8国0国0国2国2国

この解像度では、あらたに「路」接尾国名区画が現れるようである。「盧」接尾国名区画に引き続いて、「彌凍」接尾国名区画も、「路」接尾国名区画も弁辰辰韓の境界を跨いでいる。この新たに現れた国名区画に関してその地域を考察してみよう。3分の3区分は概ね南岸、東岸の地域と予想されるから、残りの2区分は慶尚道の地形から、洛東江の上中流域と考察され、3分の2区分はその中流域が妥当であろう。ここで接尾する「路」に関して考察してみる。「路」と「盧」は同音なので(補足6)、「斯盧」が「新羅」に相当する如く、三国史記や日本書紀の「羅」などに相当するであろう。ところで、日本書紀には「甘羅城」という地名が出てくる。

「東韓者、甘羅城・高難城・爾林城是也」
東韓とは甘羅城・高難城・爾林城のことを言う

内藤湖南氏の指摘したように、日本書紀には韓伝そのままの地名がよく出てくるが、この「甘羅城」と「甘路」、「爾林城」と馬韓29番目の「兒林」を比定出来るであろうか。(補足7)日本書紀の地名のひとつの問題点は、その地名のさす場所が良くわからないことである。ここでは逆にこの比定から場所を推定してみよう。「甘路」は洛東江中流域、「兒林」は馬韓7分の4区分にあるから馬韓の中央あたり、恐らく忠清南道南部から全羅北道北部であろう。この二つが、「東韓」という一つの地域として認識されるとしたら、二つの地域を結んで、半島を横断する重要な通路に関連するであろう。そのような通路として、秋風嶺が挙げられよう。この洛東江側が三国時代に甘文国(甘湖国)があった場所になる。この地名は「甘路」や「甘羅」との関係を疑わせるものがあるが、地名の類似以外の根拠はないだろうか。もしも三国志の時代に、洛東江中流域の金泉から秋風嶺を抜けて錦江中上流域へ抜ける地域が、東韓として呼び習わされるような一体性があったなら、そのような繋がりは三韓の時代にもありえただろう。もしも、三韓の時代に「甘路」と「兒林」の間に地域的連携があったら、それは国名区画に影響したかもしれない。はたして馬韓29番目の「兒林」に隣接して、馬韓55ヶ国中唯一「路」で終わる国名、馬韓28番目の「冉路」が現れるのである。「邪」接尾国名区画に続いて、ここでも「路」接尾国名区画は、弁辰辰韓の境界のみならず、馬韓との境界をも跨いでいることになる。

7.韓伝国名リスト成立の謎

さて、本稿において行なっているのは、韓伝国名リストの字面のみに対する極めて平明簡易な操作である。なぜこのような簡単な操作で、しかも分割の単位を8ヶ国単位にした段階で、これほどドラスティックに国名リストの構造が明らかになるのであろうか。これは偶然ではなく、この国名リストがもともと8ヶ国単位にグルーピングされていたからではないだろうか。このように考えるに当たって、8で割り切れない馬韓の国の数55が障害になる。馬韓の国の数に関しては

とあるがいずれが正しいのであろうか。後漢書が54国としているのは、馬韓43番目莫盧国と18番目莫盧国を同一視したためであろう。一方、翰苑や晉書の56国はどのように考えればよいのだろうか。翰苑は品質が悪く、魏略の内容をどの程度伝えているのか疑わしいが、晉書にほぼ同様の記載があり無視できない。これと三国志の記述を見比べると、いづれかがいづれかを単純に誤写したとも思いにくい。三国志が馬韓55国をリストしておいて後、「五十餘國」とぼかして書くのも、弁辰辰韓に関しては馬延の重複を別とすれば、24国をリストして「弁、辰合二十四國」と明記するのとアンバランスである。想像するに、陳壽の参照した魏略には、55国の国名をリストして「凡有小國五十六」等と記載されていたのではあるまいか。それを引き写す陳壽としては、国名が55国しかないにもかかわらず、「凡有小國五十六」とは書けなかったのではあるまいか。それでは、これら歴史書の大本になった史料ではどうだったであろうか。想像するに、56国のリストの後「凡有小國五十六」等と記載されていたのではあるまいか。それが陳壽が目にするまでの間に、末尾の一ヶ国程度が脱落してしまうなどの変化が起こったのではあるまいか。馬韓の国の数がもともと56国であったとすれば、これは8で割り切れるだけでなく、韓全体の国の数が80ヶ国となり、韓伝国名リストが8ヶ国づつ10群からなっていたことになるのである。このような、国名リストの状況と、グループ毎の地理的配置がそのグループ毎の事情によっている可能性を考慮すると、韓伝国名リストの成立を以下のように想像することができるだろう。

何者かが、韓全体で10ヶ国の代表国を選ぶ。この者は韓全体に目の届くものであるから、恐らくは郡の漢人官僚であろう。この10ヶ国は、半島西部では概ね郡から遠くへ、すなはち北から南へ7ヶ国、半島東部では洛東江上流から下流へ向けて3ヶ国選ばれたのであろう。そしてこの10ヶ国に対して、それぞれ周辺の7ヶ国を推挙させて報告させ、全体を80ヶ国のリストにまとめた。すなはち、この国名リストは韓の集落の全てを網羅したものではなく、もともと推挙にもとづくリストであって、各々の8ヶ国のグループは中心国の思惑で選ばれたのであろう。各8ヶ国はすでに何らかの政治的フィルターを通っているため、8ヶ国単位で見たときにもっとも国名の地域差が明瞭に見えるのであろう。これが、全羅南道には「彌知」地名があるにもかかわらず、馬韓国名リストに「彌凍国」(彌陳国)の現れない理由でもあるだろう。もしかしたら、代表10ヶ国の選んだ国々は、領域的にオーバーラップしていた可能性もあるのではないか。

弁辰辰韓の国名に関しては、8ヶ国毎のグループは弁辰辰韓の区別を無視しているかに見える。しかし実は弁辰辰韓の三つの区分には、それぞれ4ヶ国づつ弁辰と辰韓が含まれている。このリスト成立に当たって弁辰辰韓の推挙を均等に行なうような指示が行なわれたのではないだろうか。これが弁辰辰韓の国の数が12ヶ国づつと言うような、不思議な対称性の原因になっている可能性がある。(補足8)

この節を終わるに当たり、弁辰辰韓3分の3区分に関して考察しておきたい。この区分には「盧区画」と「邪区画」の二つが存在する。これは一見この節のここまでの議論に矛盾しているかのように見える。私はこの8ヶ国の中心国は、弁辰狗邪国であったのだろうと想像する。弁辰狗邪国は洛東江下流の代表国であったのであろう。弁辰狗邪国は郡から洛東江流域に向かう物流の中心国であり、その物流ルートは半島南岸から弁辰狗邪国に入り、メインルートは洛東江を遡上してゆき、一方弁辰狗邪国からサブルートが日本海側へ回っていたのであろう。すなはち物流路は

メインルート
州鮮->馬延->弁辰狗邪->弁辰走漕馬->弁辰安邪

サブルート
弁辰狗邪->弁辰涜盧->斯盧->優由

となっていたのではあるまいか。弁辰狗邪の影響力の及ぶ範囲が、ふたつの国名区画にまたがっていたと考える。すでにみた、「路国名区画」が馬韓の「盧国名区画」に食い込んでいるケースとともに、この時代の中心国の影響範囲が、「国名区画」と完全に一致しないケースもあったのであろう。三韓の境界と「国名区画」が不一致であり、8ヶ国ごとの区分が三韓の区分と対応していることを考えると、この時代の韓の政治文化言語の状況は、8ヶ国づつグルーピングされた国名リストによる三韓の区分と、その下部構造にある起源のわからない「国名区画」の二重構造を持っていたことになる。

8.結論と展望

本稿では、韓伝国名リストを題材に、地名比定に対する新しいアプローチを試みた。地名以外に手がかりのない文献上の地名に対して、それが多数有る場合には地名の集団による比定が、簡単な操作にもかかわらず多くの考察を導きうるものであることをしめした。ただし、本稿の題材である韓伝国名リストにおいては、題材自身の成立プロセスが、この手法のメリットを強調してしまっている可能性があることも考察された。

ここで考察された、韓伝国名リストの成立プロセスとは、地理的順番に選ばれた代表10ヶ国が、その周辺の7ヶ国を推挙し、これを束ねることで、全体の国名リストを構成したと言うものである。馬韓においては7ヶ国、弁辰、辰韓においては3ヶ国の代表が選ばれたと考える。韓伝国名リストに関しては全ての邑落を尽くしたものではなく、推挙による選ばれた国々のリストであると考える。この推定に関しては、韓伝地の文との関連をさらに考察する必要があるだろう。

本稿の手法が導き出した結論の一つとして、韓伝国名リストが概ね地理的配置にあると言うことが上げられる。これは特に弁辰辰韓地域においては、これまでの定説と食い違う。既存の比定の多くがそれほど特徴的でもない、短い地名の比較によるものであり、その根拠は十分とは言えなかったと考える。特に弁辰辰韓地域の比定に関しては見直しが必要であると考える。

本稿の手法が導き出したもうひとつの結論として、韓伝国名リストにおいて三韓の区別の下部構造に、その境界を跨るように異なる地域性である国名区画が存在する可能性を示したことが上げられる。なかでも「盧国名区画」「邪国名区画」「路国名区画」の三者の関係は興味深く、概ね半島の東西の海岸沿いに「盧国名区画」、南岸に「邪国名区画」、洛東江中流域から秋風嶺を抜けて錦江中上流域の内陸部に「路国名区画」のような分布地域を想定できる。このような三国志時代の三韓の境界とは境界の一致しない国名区画の起源や意味、そして特に倭国との関わりは興味深い課題である。

本稿では「邪国名区画」とした馬韓7分の7区分とともに、7分の1区分が性格的に馬韓のグループで異質であることを示したが、その特質については特に議論しなかった。李基文氏の指摘するように、この地域が本当に夫餘系言語を使用した地域と言えるかどうかは検討の余地がある。この区分には「伯濟国」がある。

本稿ではあえて議論を避けた「月支国」であるが、本稿の考察を適用した場合、「月支国」に対しても何らかの新しい視野が開ける可能性はある。「月支国」の属する馬韓7分の2区分は、本稿の範囲内では上述の7分の1区分と馬韓の多数派の中間を示していることになるが、これだけでは十分な議論とは言えない。その位置に関しても、本稿の範囲内では既存の議論を覆したりうわまわったりするほどの情報は得られなかった。「月支国」のある地域の性格に関しては、「伯濟国」のある地域の性格とともに、また別の機会に触れたい。

本稿のような手法の対象となりうる題材がどの程度あるかは判らないが、単一の地名の場合の単字の誤写誤刻等の偶発的な要素を回避し、時代差による情報喪失などにより個々の比定が困難であっても、一定の情報を取り出すことが可能であり、適用可能であれば大きな力を持つものと思われる。また、本稿の導き出した考察が魏志韓伝に記録された3世紀朝鮮半島南部に関して、新たな視野を開き、今後の韓伝地名比定に対しても重要なヒントを提供できたと信じたい。

補足

補足1

むろん錯簡・脱簡や一括して誤った誤刻等の大物には対処できない。

補足2

後漢書および翰苑本文とそこに引く魏略に「目支」。翰苑に引く魏志に「自支」とある。おそらくは「目支」が正しいだろう。

補足3

「弁辰走漕馬」に関しては、欣明紀に現れる「卒麻(そちま)」を当てる説がある。欣明紀「卒麻(そちま)」に関しては、慶尚南道金海郡率利馬の地を当てる説があるが、そうだとするとまさにこのリストは洛東江を遡上する配置になっている。「走漕馬」「卒麻(そちま)」では音のずれが大きいが、「走漕馬」には何らかの誤写、誤刻があると考えることもできる。

補足4

馬韓の地理的配置のアンバランスの原因の一つとして、実際に南部に国が密集している可能性もある。韓伝に

「其北方近郡諸國差曉禮俗、其遠處直如囚徒奴婢相聚。」
その北方の郡に近い諸国は礼俗に差があり、遠くの者達は囚人や奴婢の集団に似る。

とあり、南部ほど無秩序であるとしている。無秩序であることが小国が多いことを示しているのかもしれない。

馬韓の国家構成がどのようになっているのかを、韓伝の記述より調べてみる。

「大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戸。」
大国は万余家、小国は数千家、総計十万余戸。

馬韓の国の数は全部で55ヶ国であるから、総戸数を10万から19万とすると、平均の戸数はおよそ1800から3500になる。つまり平均戸数が小国の戸数と言ってよい。このことは馬韓の国の構成が、ごく少数を除いて小国に集中している状況を想定させる。馬韓はほとんどを占める小国と、その4−5倍の大きさの極少数の大国で構成されていると想像される。この記述自体の信頼性をみるため、弁辰、辰韓の記述と比較してみよう。

「弁、辰韓合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。」
弁辰と辰韓の合計二十四国、大国は四、五千家、小国は六、七百家、総計は四、五万戸である。

弁辰と辰韓の合計は24ヶ国であるから、総戸数を4万から5万とすると、平均の戸数はおよそ1700から2000となる。平均の戸数は大国と小国の中間にあり、国の規模はばらついていると思われる。韓伝の記述に

馬韓:「各有長帥、大者自名為臣智、其次為邑借。」
それぞれ首長がおり、大首長は自らを臣智と称し、その次は邑借と為す。

弁辰、辰韓:「各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊ワイ(さんずいに歳)、次有殺奚、次有邑借。」
それぞれ首長がおり、大首長の名は臣智、その次に險側、その次に樊ワイ(さんずいに歳)、その次に殺奚、その次に邑借がある。

これから、弁辰、辰韓では大首長の臣智から以下邑借まで五階層の首長名があるのに、馬韓では大首長の臣智の直ぐ下に邑借があることがわかる。これと戸数から推定される国の規模の構成が一致していることは興味深い。韓伝から推定できる国の規模の情報は整合性が取れていると言える。さてこのような国の構成で馬韓の国名リストと地域の問題はどのように評価できるだろうか。まず大国の割合はどのくらいになるかを算出してみる。総戸数を中間をとって15万戸として、一万戸の大国の数と残りの小国の平均戸数を比較する。

総戸数15万戸

大国の数が5を超えると、小国の戸数は数千戸というより千余戸が妥当な線に成ってくる。大国は漢州、熊州、完州、武州の各地に一つあるかどうかと想像される。かりに武州に大国がなく小国のみとして、国の数は大国一ヶ国分の4〜5ヶ国増となるであろう。

また馬韓の境界がどこにあるのかわからないので、馬韓の南部は武州を越えて、新羅の康州に食い込んでいるという可能性も有るかもしれない。

補足5

同じ日本書紀に同一地名を「久差」とも「古差」とも書いた例がある。日本書紀の記述がどれほど史実を表しているかに関しては疑問があるが、伝説の成立時においては地域的な関係に全くリアリティーがなかったと言うわけではないだろう。

補足6

「路」は「盧」と中古同音異声である。すなはち、アクセントのみの違いである。もしも「路」と「盧」で、音の違いを表したとすれば、韓伝国名においてはアクセントの違いを書き分けていることになる。実は韓伝には、「路」と「盧」以外にも「蘇」と「素」、「古」と「沽」、「奴」と「怒」「林」と「臨」のような、同音異声の文字が結構でてくる。(下記注)この点は「觚」と「古」しか同音異声文字の出てこない、倭人伝の音訳文字の状況と異なる。森博達氏はそのことより、倭人伝の音訳文字では、アクセントの違いは表現されていないか、倭人の言葉がアクセントの少ない言語だった可能性があるとされている。しかし韓伝では、アクセントを意識している可能性を否定は出来ないのではあるまいか。仮にアクセントを表現しているのでないとしても、表記者にとっての何らかの音韻差を書き分けた可能性は残るであろう。もっとも、韓伝国名に関して、それが表音のみであるとの議論はなされていない。それどころか、馬韓の「小石索」「大石索」の「大」「小」のように、明らかに表意と思われるものも存在する。しかし、「半路」「甘路」「戸路」が意味を表しているとも思われないので、ここでは「路」が表音であると考えた。じつは、本稿を書くにあたり、漢字文化の浸透にともなう、漢字表記の国名がかなりの数存在する可能性を感じた。この件に関してはまた機会を改めて論じたい。

(注)「咨」と「資」のように全く同音の字も出てくるのだから、必ずしも断言できないかも知れないが、「咨」は翰苑に引く魏志では「資」となっている。

補足7

日本書紀の記述がどれほど史実を表しているかに関しては疑問があるが、この東韓の出てくる伝説の成立時において、東韓という地域に全くリアリティーがないようであれば、そもそも伝説自体が説得力を欠いてしまうであろう。伝説の史実としての真偽はともかく、東韓という用語にはある程度のリアリティーがあったと想像する。

補足8

このように考えるに当たって、韓伝の下記のような記載が障害と成るかもしれない。

今有名之爲秦韓者。始有六國、稍分爲十二國。

しかし、韓伝はその最初の部分に

有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。

とあるにもかかわらず、国名リストは馬韓と辰韓、弁辰の二本立てになっていて不可解な構成である。私はこれは地の文と国名リストが同時に書き上げられたものではなく、国名リストが地の文に挿入されたための不一致と考える。韓伝のとくに辰韓、弁辰条にみる混乱もこれに起因するのであろう。ただし、これを論ずるには韓伝地の文と国名リストの関係に関してさらに考察をすすめる必要があるが、本稿の範囲を超えるので別の機会にしたい。



変更履歴

shiroi-shakunage記す