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漢書地理志にみる楽浪郡の改革

−楽浪郡初元四年戸口統計木簡による考察−



目次


1.漢書地理志楽浪郡県名リストの謎

漢書地理志にある楽浪郡の県名は、どのような順でリストされているのだろうか。 このようなリストを作成するに当たって、県名をもれなく記載し、かつ見る側にもそれがもれなく記載されていることが分かりやすいためには、なんらかの意味ある順に配置されていると考えられよう。 もしもこのリストが、各県の地理的位置に配慮して作成されているとしたらどのようなことが言えるだろうか。 例えば、現代日本の県名をリストするに当たり、地理的順に北から並べた場合と、地方別に地理的順に整理したうえで並べた場合を比べるてみよう。 地方別に整理したものをどのように配置するかによって、現れる県名の順は変わるだろうが、東北地方といったくくりの県は、一群となって現れるだろう。 地方別の順によっては、例えば関東、中部、東北と並べれば、地域と地域の境界で、地理的に大きく離れた県がリスト中に連続する可能性はあるが、そのような地理的飛躍は境界のみで、続けては現れないだろう。 地方別の整理そのものが、地理的順になっていなかった場合にはさらに複雑になり、分かりにくくなってくるが、それでも全体にわたって何らかの地理的整理が行われているかどうかは判断できるだろう。

漢書地理志における、楽浪郡の県名リストについてみてみよう。

これと後漢書郡国志の県名リストと比較してみると。

ここで前漢から後漢にかけて、用字の違いと思われるものを除くと、漢書地理志18番目の「呑列」以下が抜けて、「楽都」が加わったことが分かる。

三国志魏書東夷伝東沃沮条には

「漢以土地廣遠、在單單大領之東、分置東部都尉、治不耐城、別主領東七縣、時沃沮亦皆爲縣。漢建武六年、省邊郡、都尉由此罷。其後皆以其縣中渠帥爲縣侯、不耐、華麗、沃沮諸縣皆爲侯國。」

とあり、漢代、單單大領の東には東部都尉を不耐城を置いて治めたこと、後漢に入って東部都尉が廃止され「不耐、華麗、沃沮」は侯国となったことが記されている。 この「不耐、華麗、沃沮」は、漢書地理志に言う「不而、華麗、夫租」であろう。 この三県を含む「領東七縣」が放棄されたように見えるが、それは漢書地理志にあって、後漢書郡国志にない「呑列」以下の八県に含まれているはずである。 「呑列」は漢書地理志注より、列水の上流であることが分かるが、川は西へ至って「黏蝉」で入海となっていて、これは後漢書に楽浪郡の県とされている「占蝉」と同一であろう。 ということは、列水は後漢になって楽浪に残った、單單大領の西へ注ぐ川である。 このことから「呑列」もまた單單大領の西と考えてよいだろう。 つまり、漢書地理志において、「呑列」より後の県名リストの最後の七県が、「領東七縣」と見てよいだろう。 このことからすると、漢書地理志楽浪郡県名リストも、地理的配置を意識して出来ているように思える。

しかし、のこされた「領西」の十八県の配置を考えてみると、とても地理的配置を考慮しているとは思えないことに気付く。 例えば、リスト三番目の「浿水」はおそらく、史書に名高い川「浿水」に関連しているであろう。 「浿水」は、史記、漢書、三国志などに、前漢と古朝鮮の境界として出てくる河川である。 一方リスト四番目の「含資」は、晋書地理志に帯方郡として現れる県で、三国志によれば、この郡は後漢代楽浪郡の南部(屯有以南)を公孫氏が割いて、倭韓濊などの最前線として分置したのであるから、もとの楽浪郡内部では漢地から遠いところにあったはずである。 実際三国志に引く魏略では、辰韓右渠帥の廉斯鑡がこの県に投降してきている。 つまり、「浿水」「含資」は、漢時楽浪郡の端と端に近い関係である。 もしこの飛躍が地域境界によるものなら、引き続いて「含資」と同様の地域が現れるだろう。 しかし「含資」に引き続いて「黏蝉」が現れるが、これは列水の河口で、漢書注で帯水の上流とする「含資」の記載からすると、地域的に大きな差がある。 しかも引き続く「遂成」を飛ばして次の「搨n」は漢書注に「浿水」の河口とする。 再び浿水がらみに戻る。 引き続き、浿水とは対極にある、後に帯方郡の郡治となった韓地最前線の南方の「帯方」が現れ、めまぐるしいばかりである。 この傾向はさらに続き、十三番目「昭明」は漢書地理志に南部都尉治と成っているところであるのに、つづく十四番目「鏤方」は説文解字に「浿水出楽浪鏤方東入海」、水経注に「浿水出楽浪鏤方縣 東南過臨浿縣 東入于海」とあり、浿水の上流にある。 その次は後の帯方郡に属する南方の「提奚」となり、続いて晋書地理志楽浪郡にもある「渾彌」で、後漢楽浪の北半であり、行ったり来たりの様相を呈する。 これらをまとめて、何らかの地理的配置を想定することはとても無理な話であろう。

現存の漢書地理志楽浪郡の県名リストは地理的配置によらないリストである可能性が高い。 これは例えば錯簡による混乱の可能性はあるだろうか。 しかしこの県名リストの順は、「領西」に関しては後漢書郡国志に現れる県名リストに一致する。 用字や、県の入れ替えもあることから、まったくの引き写しではなく、前漢から後漢に引き継がれた何かがあるのであろう。 地理的順ではないが、別の何かの意味のある配列と考えられる。 一方で地理的配慮がないなら、何故「領東七縣」は地理的まとまりを保っているのだろう。 もし「領東七縣」「東部都尉」に軍事権をあずけた県をまとめたとするなら、何故「南部都尉」にあずけた県はまとめられなかったのだろうか。 何らかの、郡の内政を反映したとすれば、それはどのようなものだろうか。

楽浪郡に関しては、私の知る範囲では郡の改廃、対外交渉や反乱以外に、郡の内政に関する資料をほとんど見たことがない。 「領東七縣」に関する、三国志の記述がようやく内情の一部を知らせてくれるが、前漢時代の楽浪郡に関してはまったく知らない。 「領西」の漢書地理志楽浪郡の県名リストを説明しうるような、郡の内政に関する資料は永らく無かったと思われる。

2006年、北朝鮮の孫永鐘氏は、平壌の古代の墓から、「楽浪郡初元四年県別戸口多少」と題された木簡を発見したと発表した。 この木簡を韓国の尹龍九氏が写真をもとに釈読したものを、金 秉駿論文「楽浪郡初期の編戸過程−楽浪郡初元四年戸口統計木簡を端緒として」の注で知るところと成ったので、これをもとに漢書地理志楽浪郡の県名リストの意味をさぐって見よう。

木簡写真(上)

2.楽浪郡初元四年県別戸口簿

平壌発見の木簡の価値は、初元四年と年次のはっきりした楽浪郡の内部資料であることである。 伝世書写されてきたものに比べて、紀元前45年の同時代資料である。 そして、単に県名だけでなく、県毎の戸数と口数とその増減も書かれているのである。 部分的情報とはいえ、前漢時代の楽浪郡内政に関する、ほとんどはじめての資料ではないだろうか。

この内容を金 秉駿論文を元に、一部数字の合わない点を、韓国ネット情報で修正したものを掲載する。



下記表にまとめた

表1 楽浪戸口簿木簡
県名木簡前漢後漢楽浪帯方戸数戸増減人口口増減参考
朝鮮1111-967893568901862-
冉邯222--22843414337467-
増地377--53820335371【漢書】莽曰増土
黏蟬455--1049136332206-
駟望5996-1213117391278-
屯有613132-48465921906273-
帶方788-143465328941574-
列口81111-2817155241170【郭璞注山海經曰】列、水名。列水在遼東
長岑91212-468394942161-
海冥101010-73487249291【漢書】莽曰海桓
昭明111414--643104435137【漢書】南部都尉治
提奚121616-5173413037-
含資1344-6343102813109【漢書】帶水西至帶方入海
遂成14664-30055319092603【晋書】遂城秦築長城之所起
鏤方1515155-23453916621243【説文解字】浿水出楽浪鏤方東入海、【水経注】浿水出楽浪鏤方縣 東南過臨浿縣 東入于海
渾彌1617173-175835513258355-
浿水1733--1152288837297【漢書】水西至増地入海莽曰樂鮮亭
呑列1818---19883616303537【漢書】分黎山列水所出西至黏蟬入海行八百二十里
東暆1919---2798201361-
蠶台2021---534174154139-
不而2120---1564512308401【漢書】東部都尉治
華麗2222---12918300236-
邪頭昧2323---1234010285303-
前莫2424---5442300246-
夫租2525---1150251119-
樂都--18-------
南新----3-----

表中の「木簡」は今回の木簡の出現順、「前漢」は漢書地理志の順、「後漢」は後漢書郡国志の順、楽浪は晋書地理志楽浪の順、帯方は晋書地理志帯方の順である。

ここでまず注目するのは、木簡の七番目の「帯方」から十三番目の「含資」までの七県である。 晋書地理志帯方と比較すると、七県中六県が帯方七県の内に入っていることが分かる。 つまり、三国志の記述からすると、「屯有」以南に有ることになる。 しかも、残る十一番目の「昭明」も、晋書には見えないが「南部都尉」の置かれたところで、この七県がすべて楽浪郡の南部にあったことが分かる。 そして十九番目「東暆」以下は、漢書地理志の最後の七県と、一箇所順を違えただけであり、すでに議論したように、この七県は東部にあることが分かる。 つまり、漢書地理志の県名リストとは異なって、このリストは地理的順に配慮して書かれていると思われる。 そこで残りの一番目から六番目までと、十四番目から十八番目はどうなっているか確認しておこう。

まず十四番目から十八番目のグループのほうを先に見てゆこう。 十五番目「鏤方」は、説文解字に「浿水出楽浪鏤方東入海」、水経注に「浿水出楽浪鏤方縣 東南過臨浿縣 東入于海」とあり、浿水上流地域である。 十六番目「渾彌」を飛ばして十七番目「浿水」はその名も浿水に関係する県であろう。 このことから、このグループは浿水を含む一帯、楽浪郡の漢寄りの場所に位置したであろう。 南部が後に韓倭濊等との最前線としての帯方郡になることを考えると、中央である楽浪郡治のある朝鮮県をはさんで、その反対側に位置したと言えよう。

この「朝鮮」を含む、中央の一番目から六番目までのグループに関しては、一番目「朝鮮」は楽浪郡治のあるところで、かっての王険城であることが知られる。 漢書朝鮮列伝には、楼船将軍が斉より渤海を渡って、漢書地理志にも見える「列口」から王険城の南側に迫るとの記述がある。 後漢書「列口」には列水に関する注がついており、列水の河口であろう。 漢書地理志には、この列水の西へ向けて流れ至る河口が「黏蟬」と成っており、これはおそらく列水河口の南側が晋書の帯方郡の南部に属する「列口」で、北側が中央のグループに属する「黏蟬」なのであろう。 すなわち、南部のグループと中央のグループは、概ね列水河口を境界としていることが分かる。

十八番目「呑列」であるが、これは列水の水源である。 ところがここは中央のグループでなく、漢に近い三番目のグループに属している。 列水は西に向かうとなっているが、文面通りに受け取ると、中央のグループの南の境界である列水の水源が、漢に近いグループにあることは理解できない。 列水は遡ると、南から離れてゆくと解釈するしかなくなる。 列水の上流が北東方向となると、「呑列」「朝鮮」の北東である可能性がある。 すると、十四番目から十八番目の漢寄りのグループは、中央のグループの概ね北方に位置しているのであろう。

中央のグループに三番目「増地」があり、漢書地理志にこの県は浿水の河口であるとされている。 浿水に関する記述を集めてみると、説文解字と水経注はいづれも東へ向けて海に入るとする。 ところが漢書では浿水県から西へ向かって「増地」で入海するとする。 これは矛盾であるが、水経注には「楽浪鏤方に出る。東南を過ぎて浿県を臨み、東に入海する」とあるから、漢書をあわせて考えると「鏤方」から東南に向かい「浿水」を過ぎて西に向かい「増地」で海に入っていたとするしかない。 浿水を遡上すると、まず東に向かい、北西に向きを変えた後浿水県に出会い、その北西の上流域に「鏤方」が有ったのであろう。 よって北から順に「鏤方」、「浿水」、「増地」であり、中央のグループは南は列水の河口から、北は浿水の河口の間にあるのであろう。

さて、「遂成」は南部のグループと、浿水の漢側のグループの間にある。はたしていずれのグループに属するだろうか。

後漢書では「遂成」と同じ位置に「遂城」が現れ、晋書地理志では「遂城」に対する説明として「遂城秦築長城之所起」という解説が入る。

史記朝鮮列伝によれば

「朝鮮王満者、故燕人也。自始全燕時、嘗略属真番、朝鮮、為置吏、障塞。秦滅燕、属遼東外徼。漢興、為其遠難守、復修遼東故塞、至浿水為界、属燕。」

であるから、漢は浿水をもって境界とし「復修遼東故塞」したのだから、漢以前の長城の端は浿水よりは漢側にあったのだろう。 また燕人満は

「燕王盧綰反、匈奴、満亡命、衆掌千餘人、髷結服而東出塞、渡浿水、居秦故空地上下障、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、斉亡命者王之、都王険。」

であるから、東へ塞を出て浿水を渡っている。 つまり、長城は浿水の西にある。いずれにせよ浿水の漢側であり、「遂成」は浿水河口の北のグループであろう。

全体を整理すると

表2 楽浪戸口簿木簡県名リストの地域性
県名グループ位置
朝鮮中央グループ浿水河口から列水河口の間
冉邯
増地
黏蟬
駟望
屯有
帶方南部グループ列水河口以南
列口
長岑
海冥
昭明
提奚
含資
遂成北部グループ浿水河口以北
鏤方
渾彌
浿水
呑列
東暆東部グループ單單大領の東全部
蠶台
不而
華麗
邪頭昧
前莫
夫租

中国史書が朝鮮を遼東すなはち遼水の東としていること、三国志に秦開が朝鮮の西を攻めて満番汗に境界を置いた話が出てくること、同じく三国志に、衛満が東に浿水を渡り、朝鮮の西方に封じられたとの記載のあること、漢書朝鮮列伝に左将軍が陸路から古朝鮮を攻撃するに際し、漢の定めた国境である、浿水の西軍を破れなかったとの記述があること、その後左将軍は浿水上の軍を破り、王険城の西北に至ったこと等など、漢から朝鮮を見た場合にその方位は疑いも無く東である。ところが漢書地理志の朝鮮の河川はことごとく西に向かっていて、また韓は南に位置したことが三国志より分かるので、漢から朝鮮へ向けての方位観は東で、そこから韓へ向けては方位が南になり、朝鮮の領域は西へ向かって海に面する地にあることが分かる。 漢から韓へ向けて陸路を採る際に、その方位が東から南に変わる地点は、漢との境界浿水のあたりであることになる。 ここまで述べたことに、帯水に関する情報「含資、帶水西至帶方入海」を加えて、文献による楽浪郡の概念図を作成した。

図1 楽浪郡概念図

3.考古学的な比定地の考察

この木簡リストの性格をもう少し詳細に見ていこう。 考古学的に下記の比定地が有力とされる。

表3 考古学的比定地
県名比定地
朝鮮(楽浪郡治)楽浪土城(平壌南郊大同江南岸)
黏蟬城峴里平安南道龍岡郡城城峴里
帯方黄海北道鳳山郡石城里
昭明黄海南道信川郡土城里

「朝鮮」を平壌とすれば、列水は大同江となり、その河口北岸に近い「黏蟬」の位置も推定に合致する。 「列口」に関しては、大同江河口南側に近いことから、李丙濤説を採って三国史記に現れる「栗口」が音韻的にも妥当であろう。 「呑列」は列口すなはち大同江の水源ということで、かなり北のほうになりそうである。 「屯有」については列水河口が、後の帯方である南部グループと、楽浪にあたる中央グループの境界に当たることから、李丙濤説を採って三国史記の于冬於忽、現在の黄州が妥当であろう。 「含資」は、「帯方」に向かって西流する帯水の上流域であるから、瑞興江上流の瑞興あたりを比定する説が有力。 帯水に関しては漢書地理志との不一致があるが、これは浿水との比較で考えてみたい。 漢書では左将軍は、浿水を渡って王険城の北西に迫るのだから、平壌からさほど離れてはいないだろう。 浿水は説文解字では東入海、水経注では東入于海と成っているが、朝鮮半島北部の渤海側ではこのような河川を捜すのが難しい。 清川江が有力視されているが、それでは水経注の「浿水出楽浪鏤方縣 東南過臨浿縣 東入于海」が説明できない。 すでに述べたように、そもそも漢書地理志では「浿水」の注として「水西至増地入海莽曰樂鮮亭」とあり、川は「浿水」からは西へ流れていて文献上の矛盾がある。 浿水、帯水ともに入海に関しては情報が疑わしい。 どうも本来の情報は、支流の終端を表現していたものを、史料の誤解で入海としているのではないか。 とすると、浿水は本来清川江支流の大寧江であり、帯水を載寧江支流の瑞興江として全て決着がつく。 「鏤方」を大寧江の上流とし、「浿水」を清川江に交わるあたり、「増地」を清川江の河口とする。

「遂成」はどこだろうか。すでに見たように「遂成」は秦の長城の端とされている。長城の性格上その端は、大河川や山、砂漠、海などの騎馬兵の通れない自然地形であろうが、このあたりにあるのは大河と海であり、鴨緑江では少々遠すぎるように思う。 「遂成」はおそらく清川江河口から、鴨緑江河口までの間の海沿いであろう。

ここまでの内容を地図にまとめてみる。

図2 中間比定図(青字は文献のみによる比定である。)

北部五県に関してみると、分かった四県は西から東へ配置されていて、このリスト各グループ内でも、地理的配置を意識したものになっていることが分かる。 他のグループに関しても、おぼろげながら地理的順を追ってゆけることが分かるだろう。

4.晋書地理志楽浪郡県名リストの考察

さてここで、木簡リストと晋書地理志の楽浪と帯方を比較してみよう。 まず帯方と木簡の比較をおこなう。 木簡の南部グループ七県と、帯方七県では県の出入りがある。 木簡の昭明が抜けて、帯方の南新が入っている。 そこでこの二県を除いて木簡と帯方を比較すると

南部グループ

晋書帯方

海冥の位置が入れ代わっているだけで、ほとんど一致している。 木簡リストが地理的配置に留意してリストされたものなら、晋書地理志のリストもその可能性がある。 ここで「海冥」「提奚」「含資」に関しては、順序を変えて現れているが、二つのリストがいずれも地理的順であるとするとどのようなことが想定できるだろうか。 もしもこの三県が三角形型の配置になっていたとすれば、順によらず地理的配置に沿っていると言える。 しかし全体としては、この三組の前で地理的に飛躍が出来る可能性がある。 例えば、木簡リストが地理的に連続していたなら、「長岑」から「海冥」へは何らかの地理的つながりがあると考えられるが、帯方リストではここは切れてしまう。 三つ組自体はある程度地理的繋がりがあるのだから、帯方リストは二つのグループに分かれている可能性がある。 「海冥」「提奚」「含資」に関しては、「含資」から帯水が西へ流れたところに「帯方」が有るのだから、この三県で東の地域グループを作っている疑いがある。

一方で木簡リストの県の内、晋書地理志楽浪にあるものだけを抜き出してリストして比較すると。

木簡リスト

晋書楽浪

一見すると順番にはなんの関係もないように見えるが、ここでも「遂城」「鏤方」「渾彌」の三県は三つ組として存在する。 この三県はいずれも木簡北部グループに属することに注意すれば、この三組で晋書地理志楽浪の北部グループをなしている可能性が出てくる。 ここで、「朝鮮」「駟望」「屯有」は木簡リストと比べた場合に、地理的順とは思えない。 しかし、「遂城」「鏤方」「渾彌」の三つ組がひとつの地域グループをなしていると考えると別の見方が浮かぶ。 つまり、ばらばらに見える三県はそれぞれ、地域をあらわしているのではないだろうか。 そこで、「朝鮮」を中央とみなした場合、「屯有」は三国志の記述から晋の楽浪郡の最南端にあることが分かるので、南を代表するとみなせる。 では「駟望」はどのような方位を代表するだろうか。 木簡リストでは、「駟望」の前に「増地」「黏蟬」が現れるが、これは西の河口すなわち海岸地域である。 「駟望」「朝鮮」の西にあり、かつ木簡リストで先行するこれら海岸地域に重ならないための余地は小さい。 一方「朝鮮」(平壌)のあたりで大同江は東に向かい、また東方には南江の流域が奥深くある。 「駟望」の立地にはよりふさわしいと思われる。 このように考えると、以下のような想定が生まれる。

表4 晋書楽浪の地域グループ
県名グループ
朝鮮中央グループ
屯有南部グループ
渾彌北部グループ
遂城
鏤方
駟望東部グループ

方位による配置の序列は、木簡リストと同じになる。

晋書帯方もまた同様な考察が可能である。 「帯方」の場合、すぐ北に「屯有」があり、北のグループは存在できない。 つづく「列口」は西にあり、「列口」「長岑」「南新」とともに、東の地域グループ「海冥」「提奚」「含資」に対して、西の地域グループを作っているのであろう。

表5 晋書帯方の地域グループ
県名グループ
帯方中央グループ
列口西部グループ
南新
長岑
海冥東部グループ
提奚
含資

「海冥」に関して考察すると、漢書地理志に「莽曰海桓」とあり、海の字にはこの土地の特性を現した意味があると思われる。 つまり、「海冥」はおそらくすでに考察した県との位置関係もあわせて考察すれば、黄海南道の海岸地域を想定するのが妥当であろう。 またそれが、晋書において、帯方の東のグループを作っている可能性も加味すると、現在の海州近辺の可能性がある。

ただそうだとすると、木簡リストの「列口」「長岑」「海冥」「昭明」「提奚」「含資」の並びの関係が問題になりそうだが、「列口」「長岑」「海冥」が海岸部を東に向かい、「昭明」「提奚」「含資」が内陸部を東に向かうリストと考えればよいだろう。 これらをまとめて比定試案を示す。 「渾彌」「冉邯」(楽浪王氏出身県)は全体の比定プランから補間した。 また、「提奚」に関しては、「含資」が韓人の投降先であり、最前線であることを考慮した。

図3 比定試案(青字は補間によるもの、下線は晋書地理志にも見える県である。)


さて比定の最後に、宋書に見られる次のリストを同じ方法論で検証しよう。

「晉惠帝元康二年九月,帯方、含資、提奚、南新、長岑、海冥、列口蟲食禾葉蕩盡」

「長岑」「海冥」「列口」は木簡リストにも現れる三県組で、これが何かの地域をあらわしている可能性がある。 「南新」の場所は分からないが、漢代の南部都尉の置かれた「昭明」との入れ代わりであることを考慮すれば、おおよそ地理的に重なるのではないか。 すると「含資」「提奚」「南新」も木簡リストの「昭明」「提奚」「含資」に対応する三つ組で、これも何かの地域をあらわすだろう。 すでに述べたように、これらは黄海南道の内陸と海岸の地域をあらわすのであろう。 「含資」「提奚」「南新」は内陸を東から西へ向かうリストであり、つづく海岸地域の三つ組を合わせると、「蟲食禾葉蕩盡」は黄海南道の東部内陸部に始まり、西進してやがて黄海南道海岸部に至ったのであろう。 「帯方」がトップにあるのは、単にそれが郡治であるからである。

5.木簡南部グループの地域性考察

今まで、七番目「帯方」から十三番目「含資」までを木簡リストの南部グループとして取り扱ってきた。 木簡リストの東部グループ七県は領東七県にあたり、東部都尉が分け置かれていたことが、三国志によって分かる。 のちの晋の帯方郡にあたる南部グループは、南部都尉が分け置かれていたのだろうか。 これは史書に明記されたことではない。 東部都尉の置かれた「不而」は表1を見れば、戸数口数とも領東七県で最大の県である。 ところが木簡南部グループ七県のうち、南部都尉が置かれたとする「昭明」はこのグループ中でも戸数口数とも第四位に過ぎないのである。 一方「帯方」は戸数で大楽浪全体の三番目、口数では二番目にあたり、木簡南部グループでは傑出した存在である。 そもそも木簡南部グループは「帯方」を除けば、千戸を越える県が無い。 領東七県でも七県中四県が千戸を超えているのにである。 北朝鮮の孫永鐘氏が指摘しているように、黄海南道のこの地域は、後の穀倉地帯であり、農業不適地とは思えない。 また、郡治から大同江や載寧江によれば水運のある地域でもあり、実に不自然な状況である。 これは何らかの歴史的、文化的、そして恐らくは民族的違いによるものであろう。 つまり、紀元前45年の黄海南道には楽浪郡治を中心とする文化圏とは異なる風景が広がっていたのである。 楽浪郡が出来た紀元前108年以前には、楽浪郡治は古朝鮮の領域であったのだから、黄海南道にはそれとは異なる政治領域があり、紀元前45年の時点ではまだ郡治に同化されていなかったのであろう。

史記や漢書によれば、古朝鮮が滅ぼされる前、真番、臨屯などを服属させたとあり、古朝鮮滅亡後の真番郡、臨屯郡などは、その故地であろうと思われる。 紀元前82年二郡が廃止されると、その地は楽浪郡、玄菟郡に合わされ、玄菟郡が後退すると領東七県は楽浪に帰属した。 この領東七県はもとの臨屯郡玄菟郡であるとの説が有力であり、東部都尉が置かれたのは、この政治的背景の異なる領域を支配するための軍事的処置と思われる。 とすれば、木簡リストの南部グループは真番郡由来の県であり、南部都尉が置かれたのは、この政治的背景の異なる領域を支配するための軍事的処置と考えるのが自然であろう。 しかしここで、もう一度なぜ小県の「昭明」に南部都尉が置かれたのか考えてみる必要がある。 なぜ南部で突出した大県である「帯方」でないのか。 「帯方」は後に南部の郡治となることで分かるように、地勢的にもそこ都尉を分置するのは好都合なはずである。

おそらく「帯方」は郡治と政治的背景の異なる県ではなかったのだろう。 つまり、「帯方」は武帝楽浪郡そして、古朝鮮に属したのであろう。 「帯方」だけが突出して大きな人口を持つこともそこで理解できる。 「帯方」を除く南部六県「列口」「長岑」「海冥」「昭明」「提奚」「含資」こそが真番郡由来の県であり、異なる文化的背景を持っていたのであろう。 そして紀元前45年の戸口数をみれば、四郡設置以来63年、楽浪併合以来37年を経過してもこの地域差は解消されていなかったのであろう。 人口を見る限りは、その状況は領東七県よりも深刻な状況にあったと思われる。

一方で領東七県に関しては、三国志を見る限り、漢制の採用に積極的であったことが伺える。

東沃沮条に

「夷狄更相攻伐、唯不耐濊侯至今猶置功曹、主簿諸曹、皆濊民作之。沃沮諸邑落渠帥、皆自稱三老、則故縣國之制也。」

濊条に

「自漢已來、其官有侯邑君、三老、統主下戸。」

ただし、問題は別のところにあった。

東沃沮条にある「皆濊民作之。」

濊条の「皆以濊爲民」

このことから、漢族の殖民が進まず、異民族の自立傾向が強かったと思われる。 漢四郡設置以降の漢族移民が少ないことは、金 秉駿論文「楽浪郡初期の編戸過程−楽浪郡初元四年戸口統計木簡を端緒として」に詳しいが、戦国以降の騒乱時に多くの漢族の流入した古朝鮮地域と、真番、臨屯地域には地域的な落差が大きかったと思われる。これはやはり県別の人口にも現れている。

漢書注によれば

「茂陵書臨屯郡治東暆縣,去長安六千一百三十八里,十五縣;真番郡治雪縣,去長安七千六百四十里,十五縣」

とあり、本来臨屯郡治は「東暆」である。 ここに漢の臨屯支配の拠点が合ったはずである。(おそらくこの県名は字義によるものであろう。) ところがこの県は木簡リストでは、領東地域の最小県であり、木簡リスト全体でも二番目に小さい県なのである。 一方人口嶺東最大にして東部都尉の置かれた「不而」は、後に侯として封じられ、正始八年には王を拜するのである。 つまり紀元前45年の大楽浪郡には、漢の制度を積極的に受け入れ発展しながらも自立を高めてゆく領東地域と、おそらくは独自性を保ったまま、旧古朝鮮領域との経済落差を埋められない南部地域があったのである。

6.漢書地理志楽浪郡県名リストの考察

ここでようやくにして、漢書地理志楽浪郡県名リストの謎に迫ることができる。 この県名リストは、地理的配置を考慮したものではないことはすでに述べた。 しかも後漢に引き継がれる以上、何らかの郡内政にかかわる理由に基づいて配置されているのである。 まず、ここまでに図3の比定試案で示した県の配置と以下のリストを見比べながら、ここになんらの地理的意味も無いのか検証してみよう。

するとリストの一番目から三番目までは、郡治から北へ向かって並んでいることが分かる。 次の「含資」でリストの地理的秩序が滅茶苦茶になることはすでに述べた。 「含資」を飛ばして四番目から七番目までをみると、全て列水河口以北の渤海湾に面した県であることが分かる。 何らかの地理的秩序があるように見える。 このリストが地理的に滅茶苦茶に成るのは、実は南部の県が挟まってくるからである。 そこで、臨屯玄菟由来と思われる嶺東七県と、真番由来と想定した六県をこの中から抜いて考えてみよう。

すると七番目「増地」に続いて、「帶方」「駟望」「屯有」が並んでいるが、これは木簡リストにも現れる三つ組みである。 これを図3の比定試案とを見比べてみると、郡治の東南部に並ぶ三県である。 次に現れる三県「鏤方」「渾彌」「呑列」は郡治の北にあり西から東に並んでいる。

これを整理すると

表6 武帝楽浪由来の地域グループ
県名グループ
朝鮮中央グループ
冉邯
浿水
黏蟬西部グループ
遂成
増地
帶方南部グループ
駟望
屯有
鏤方北部グループ
渾彌
呑列

木簡リストと晋楽浪郡では方位の順は

中→南→北→東

晋帯方郡では

中→西→東

今回のリストでは

中→西→南→北

方位の序列は一貫している。 また今回は三県づつがグループになっている。 この十二県が武帝楽浪郡とすると、漢書注に見える臨屯郡、真番郡の県数が十五県。 そして、真番から楽浪にやってきた県が六県、臨屯からやってきた県が嶺東七県から玄菟郡治であった「夫租」をのぞく六県。 どうも、玄菟後退までの漢の四郡では、三県づつの管理が行われていた気配がある。

ここで、リストから取り除いた真番由来とした六県のうち、漢書のリストで以上十二県の直後に挿入された県をリストアップしてみる。

ここで「昭明」を南部都尉の置かれた政治的に別格の県であるとすると、残りの県は、晋の帯方郡の東部グループであり、韓濊倭との最前線であることに気付く。 「含資」は韓人の投降先としても挙がっていたのである。

こんどは、これらの県の直前の県を見てみよう。

これらの県を図3の比定試案および先にあげた表6のグルーピングと見あわせてみると、「屯有」以外は各地域グループのもっとも漢に近い側にあることが分かる。 つまり、漢書地理志楽浪郡の県名リストは、意図的に漢に近い側と韓への最前線を組み合わせているようなのである。 北の十二県を三県隣組に分けて後、そのもっとも漢に近い県を韓地最前線の県と組み合わせる。 この意図は、先に見た南北格差解消に他なるまい。 では四つある三県隣組のうちの一つ西部グループは、何故南と組まされなかったのだろうか。 その三県隣組の末尾にあるのが「増地」である。 「増地」は北方十二県の内もっとも人口が小さい県である。 王莽が「増土」と呼んだこの県はまさに、浿水河口の新たに生まれた県で、開発途上にあったのであろう。 さて十二県の中央と北部のグループは地理的順に並べられている。 そして、西部のグループは人口の少ない県を末尾に持っていった。 では南部のグループはどうであろうか。 地理順に並べずに、「帯方」を最初に持って行ったのは意味があるはずである。 おそらく、西部グループの小県「増地」は、南部グループの最南部にある人口第二の「帯方」と組を作ったのであろう。 この南北結合フォーメーションこそが、漢書地理志楽浪の県名リストの背景にあるものではなかろうか。 つまり、もともと有った武帝楽浪の地域別三県隣組の四組に真番由来六県を組み合わせ、以下のような四組の南北結合フォーメーションに変えたのであろう。

表7 漢書地理志楽浪の地域グループ
県名グループ
朝鮮武帝楽浪中央グループ+真番韓地最前線
冉邯
浿水
含資
黏蟬武帝楽浪西部グループ+武帝楽浪南部グループ最大県
遂成
増地
帶方
駟望帯方除く武帝楽浪南部グループ+真番海辺三県+南部都尉置県
海冥
列口
長岑
屯有
昭明
鏤方武帝楽浪北部グループ+真番韓地最前線
提奚
渾彌
呑列

南部グループは地理的に旧真番に近いことから、この再編成でもっとも大きな影響を受け、「駟望」は韓地最前線の「海冥」に加えて、真番海辺三つ組の残り「列口」「長岑」と組を作り、残った大県「屯有」と南部都尉のある「昭明」が組み合わされたものと思う。 このような政策自体は、実質南部都尉体制の解消である。 漢書地理志の元資料には、まだ南部都尉は新設南部六県グループの軍事的中心として存在したのであろうが、すでに当初とは大きく意味合いを変えていたであろう。 一方嶺東七県は、このような直接的な開発促進策を取るには、自立的成長が大きく、自治を助長する異なる政策を取ったものと思う。 後漢に入り、東部都尉を置いた嶺東七県を自立させ、一方嶺西を維持した政策的方向は、すでに前漢に始まって後漢に継承されたものであろう。 後漢書郡国志の県名リストが、同じ南北フォーメーションをしているのはその現れなのである。

このような南北フォーメーションの効果はどのように現れてきたであろうか。 晋書地理志には、楽浪郡と帯方郡の戸数が記載されている。 この楽浪郡と帯方郡の県に相当する県を、木簡の中から選び出してみる。 「昭明」が無くなり、「南新」ができているので、便宜的にこの二県を同じとして晋の楽浪相当と晋の帯方相当の戸数を木簡から求めてみる。

木簡

晋書

単純に比較できる数字ではないのは明らかだが、紀元前45年には南北格差はほとんど三倍近い。 一方晋書の時代には逆転しているのである。

7.楽浪改革と王莽の対外政策

このような楽浪改革の始まったのはいつ頃なのだろうか。 紀元前45年の木簡にはまだその兆候は見られない。 もういちど南北フォーメーションを見てみよう。 もしも南部開発のみを狙ったのであれば、小県と大県の組み合わせだけでよさそうなものであるが、このように漢に近い県と、韓に近い県を組み合わせることにどのような意味があるだろう。 どうもこの配置は、楽浪郡の対外的自立性を奪うことにも目的がありそうに思う。 後漢に入ってすぐ王調の反乱が起こるのであるが、そのような郡の自立化傾向はすでに紀元前に始まっていたのではないだろうか。 このフォーメーションは、漢に近い県を経由して、直接韓地最前線に直結する意図があるように思える。 漢書地理志には年次の入った記事もあり、その年次は元始二年(紀元2年)である。 その前年元始元年には王莽が漢の実権を握っている。 そして元始五年には、漢書王莽伝によると

「越裳氏重訳献白雉、黄支自三萬里貢生犀、東夷王度大海奉國珍、匈奴単于順制作去二名」

となって遠方よりの朝貢が有ったことを示している。

漢書地理志には

「平帝元始中、王莽輔政、欲耀威コ、厚遺黄支王、令遣使献生犀牛」

とあって、この遠方からの朝貢が、王莽の働きかけによるものであることをうかがわせる記事がある。 韓地フロンティア直結政策は、王莽の対外政策とも関連したのではないか。

紀元14年には王莽により大規模な地方行政の改革が行われ、多くの郡県の名前が変えられたり、都尉の役職名が変えられたりした。 楽浪郡においても、郡名が楽鮮郡にかえられ、浿水県は楽鮮亭に改名されている。 楽鮮亭が何を意味するのか分からないが、郡名と同じであるということは、郡行政において何か重要な役割を果たしたのではなかろうか。 この「浿水」が南北フォーメーションにおいて、郡治のある「朝鮮」と同じ中央グループにあって、かつもっとも漢に近い県として、対韓フロンティアの「含資」と組を作っていることは大変に面白い。 後に楽鮮亭とされる浿水県は紀元2年の漢書地理志の史料では、王莽の下ですでに郡内で特殊な地位にあり、対韓外交の中心であったのかもしれない。 そしてその「含資」に王莽の地皇年間に韓人廉斯鑡が投降してくるのも無関係ではないのだろう。

このように考えると、南北フォーメーションは郡の内政だけでなく、中央による対外政策にも関係してくるものであったことになる。 このフォーメーションが後漢に入っても継続されていることは、王莽の対外政策が朝鮮半島では継承されていることを示すのであろうと思う。 まさに韓廉斯との外交は、建武二十年(紀元44年)、安帝延光四年(紀元125年)と後漢によって継承される。 また、倭人といわれる元始五年(紀元5年)の東夷王につづいて、 建武中元二年(紀元57年)、安帝永初元年(紀元107年)の倭人の朝貢が続くのである。

この南北フォーメーションは、公孫氏による南部帯方郡分離による対韓政策と対照的な政策であるように思う。

公孫氏よりはるかに遠隔地にあった漢が、自立傾向を深める楽浪郡を統治しつつ、対外政策をとるための特殊な工夫であったのかもしれない。

参考文献と参照リンク

  1. ASCCの瀚典全文檢索系統 2.0 版
  2. 「楽浪郡初期の編戸過程−楽浪郡初元四年戸口統計木簡を端緒として」
    金 秉駿 季刊古代文化 古代学協会 / 古代学協会 〔編〕61(2) (通号 577) [2009.9]


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