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三韓概念の成立

−韓伝国名リストの分析を端緒として−



概要

『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳韓の条(以下韓伝と略する)はその構成が複雑で読解が難しいことで知られる。 殊に弁韓に対する扱いが、このような複雑化の主な原因になっていると思われる。 井上秀雄ほか訳注1974『東アジア民族史1−正史東夷伝』平凡社によれば、弁韓の記述は第一弁辰伝と第二弁辰伝の二つにまたがる。 構成としては『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳(以下東夷伝と略する)のほかの民族の記述に見られないものである。 このような韓伝の複雑さの原因はなんであろうか。 直接的な原因は韓伝を馬韓、辰韓、弁韓に三分しながら、国名のリストを馬韓の国名リストと辰韓弁辰の国名リストに二分するありかたにあると思われる。 辰韓と弁辰を合わせた国名リストが、辰韓に対する記述の途中に入っているのである。 第一弁辰伝と言われるものは、この辰韓弁辰の国名リストの冒頭の「弁辰亦十二國」を弁辰伝の始まりと誤認したものなのである。 それでは国名リストは何故このような形式を取ることになったのであろうか。 本稿ではこの国名リストの不思議な構成を手がかりにその成立について論じ、それが韓伝原資料の成立した三世紀中ごろにおける、半島漢人の韓に対する見方の変化に起因するとの結論に達した。 さらにそれを糸口に、本稿では建武二十年(44年)の東夷韓国人樂浪内附以降における半島漢人の韓概念が、歴史的にどのように変化していったかについても論じた。



目次

 


1.はじめに

韓伝の冒頭に近い部分には次のような記述がある。

「有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。」

すなはち韓には馬韓、辰韓、弁韓の三種があるというのである。 一般に三韓というときはこの三種を言い、三世紀の朝鮮半島には三韓が有ったと考えられている。 しかしながら裴松之註魏略を除くと本文には弁韓の記載があるのはここだけである。 以下通常本文中の弁辰と有るものを弁韓の記述と読みかえるのが一般的なようである。 翰苑に残る逸文をもって、三国志の原資料となったと思われる魏略の記載を見ると(1)(注1)、この部分は

「韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。」

となっていて、これは後漢書に引き継がれている。 つまり三韓とはもともと、馬韓、辰韓、弁辰のことであったと思われる。 前二者が韓を伴っているにもかかわらず、弁辰が韓を伴わないのも不自然である。 弁辰もまた韓であるとして弁辰韓と呼ぶとすると、これはあたかも辰韓の亜種の如く思える。 はたして弁辰は韓伝中で馬韓、辰韓と対等な扱いを受けていると言えるのだろうか。

弁辰の扱いの不自然さは、韓伝中の国名を列記した部分にもうかがえる。 韓伝の国名は馬韓の国名リストと、辰韓、弁辰の国名リストに二分される。 弁辰の国名は辰韓の国名と一緒にリストされた上で、それぞれの国名に弁辰と冠して区別している。 もしも韓を三分する意識があったなら、なぜ国名リストを最初から三つに分けないのだろうか。 国名リストにおいても、弁辰は辰韓の国名に註付きで区別されているという意味で、あたかも辰韓の亜種のごとき扱いである。

一部の意見では、韓伝は馬韓伝、辰韓伝に続いて第一第二の二つの弁辰伝が続くとされるが、(3)このようなケースは三国志東夷伝の他の民族記述にはみられない。 この第一弁辰伝に関しては、すでに弁辰伝と解釈するのは正しくないという意見があり、筆者もその様に考える。(4)(注2)

第一弁辰伝と言われてきたものが、実は辰韓に関する記述であるこことは、記述の内容からみて間違いあるまい。 このような誤解が生じた原因は、辰韓伝の中に辰韓弁辰混合の国名リストが入っているため、その冒頭の「弁辰亦十二國」をもって弁辰伝の開始ととらえられたことにある。 もしももともとこの国名リストが一種の韓に対するものであり、冒頭に記載された弁辰に関する記載も、国名に冠された弁辰を識別する記載も、後から付け加えられたものとすれば、韓伝の構成はすっきりしたものになる。(補助資料1) 弁辰と冠されていない国々が辰韓の国であることを考えると、韓はある時期まで馬韓と辰韓に分割され、現在伝わる辰韓・弁辰24ヶ国の国名リストは、もともと辰韓24ヶ国の国名リストとして作成されたものではないだろうか。 おそらく韓伝は最初馬韓と辰韓に二分して成立し、後に弁辰が識別され、修正されたものであり、それが内容のアンバランスにつながっていると推測するのである。

次節で述べるが、実は韓伝国名リストが段階的に成立したとすると、他にも韓伝に対する疑問が解けてくることがわかる。 ではいつ頃韓を馬韓辰韓に二分する観念ができ、いつ頃そこから弁辰が分離されたのだろうか。 弁辰が識別される前の韓伝原史料はどのようなものだったのだろうか。 本稿では現韓伝とその魏略註を中心に関連する漢籍を調べ、その背景にある漢人の韓概念の変化を推理した。 そこを糸口として、漢人の中でそもそもどのように韓概念が変化し、最終的に三韓概念が成立したのかを考察した。

2.鮎貝房之進氏の疑問 −盧國の帰属を問う−

前節で韓伝の国名リストが最初馬韓と辰韓の二つの国名リストとして成立したという見通しを説明した。 すなはち辰韓弁辰の国名リストは、辰韓の国名リストとして成立し、後に弁辰の註が入れられたものとの推定を行った。 このような推定を裏付ける事実はないだろうか。

鮎貝房之進氏は韓伝の辰韓弁辰の国名に関して次のような疑問を呈していた。(6) 彌離彌凍國と難彌離彌凍國は極めてよく似た名前であるのに、なぜ一方は弁辰、一方は辰韓なのか。 ここで、韓伝の辰韓、弁辰国名リストを確認する。

これは辰韓弁辰の国名リストから重複を除いたものである。 馬延については、可能な位置が二か所あるが、翰苑に引く魏志の記述からこの位置とした。 この国名リストでみると、鮎貝氏の指摘したもの以外に、辰韓と弁辰で類似した国名が多数あることに気付く。

彌凍で終わる国名

路で終わる国名

邪で終わる国名

盧で終わる国名

鮎貝のあげた例だけでなく多くの場合同種の国名が弁辰と辰韓にまたがる。 これはどうしたわけであろうか。 可能性として、辰韓と弁辰の国に、常に特殊な関係が存在する可能性も考えられるが、実際の国名で見る限り、そのような対称性、関係性は見当たらない。 弁辰と辰韓は祭祀に差があったとされている。 また言語はよく似ているとは書いてあっても、同じとはなっていない。

言語法俗相似,祠祭鬼神有異

また国名リストに一ヶ国づつ弁辰と冠して行ったのであれば、そのような記載を行った人物は、それぞれの国に対して一定の知識はあったはずで、混乱は少ないと思われる。 このことから考えると、国名リストにおいて国名の特徴が全く分れないのは不自然である。

そこで1節で指摘したように、国名リストが一旦辰韓の国名リストとして完成され、後に弁辰が註として加えられたと考えてみよう。 註はその国名下方の余白に記載されたであろう。 ある文献が他の文献に書きうつされるときに、時に本来註として書かれたものが本文として書かれることがある。 その場合国名の下につけられた註が、あたかも国名に冠されたように見えるであろう。 そこで、辰韓弁辰国名リストの国名に冠された弁辰を、国名の下に註されたとして見直してみよう。

ここでもう一度国名の特徴をみてみる。

彌凍で終わる国名

路で終わる国名

邪で終わる国名

盧で終わる国名

半路(弁辰)が路で終わる国名の中で唯一弁辰になっているのを除いて国名の特徴が、弁辰と辰韓で別れた。 半路に関しては、日本書紀で有名な伴跛の誤写との説があり、もしそうだとすると一つの例外もなく国名の特徴が別れることになる。 これは偶然とは思いがたい。 まさに弁辰が後から註されたことを裏付けるものである。(注3)

ここで注意しておくべき事実がある。 すなはちこのように考えると、実は盧國は辰韓の国であることになる。 このこと自体は韓伝の記述に照らして不自然な事ではない。

今辰韓人皆褊頭。男女近倭,亦文身。

上記記事から辰韓人は倭人に似ていたことが分かる。 一方いわゆる第二弁辰伝、本稿で真の弁辰伝としている部分に、下記のような記述がある。

盧國與倭接界。

倭に接しているのは盧國だというのである。 通常の韓伝解釈では、倭との地理的な近接は弁辰、風俗的な近接は辰韓となっていて、記述が交錯しているように見える。 盧國が辰韓であるとすれば、地理的に近接しているので風俗も近接していると理解できる。

ではこの一文が韓伝において明らかに弁辰に対する記述となっている事実はどう考えればいいのだろうか。 実はこの記述は、翰苑に引く魏略にも見える。 翰苑に引く魏略では記述が節略されているため、辰韓伝から弁辰伝に一続きのようになっているが、下記のようにこの記述の前後に韓伝の弁辰伝にみえる記述があるため、もともと弁辰に対する記述としてあったと思われる。

施竈皆在戸西。其績盧國与倭接界。其人形皆大。衣服供ト也。

すなはち、魏略を書いた魚豢は、盧國を弁辰であると考えていた。 このことはすでに魏略の成立時に参照した文献に弁辰の記載があり、しかも註記が本文化していたため、魚豢が盧國を弁辰であるとみなしていたことを意味する。 魚豢は盧國が倭に接するとの記述を見た時、それを弁辰の記述の中に置くべきであると考えたのであろう。 韓伝の成立時に魏略が参照され、その魏略が参照した史料においては、すでに国名リストの弁辰註が本文化しており、その時点ですでに韓を二分した史料から、弁辰を註されたものを含め、すくなくとも二文献を挟んでいたことが分かる。 想像を超える韓伝の重層性がうかがえる。(注4)

3.国名リスト成立の時期 −廉斯邑のゆくえと弁辰の分離−

最初の韓の国名リスト、本稿では馬韓、辰韓に二分されたリストと考えるものは、いったい何時形成されたものであろうか。 前節でみたようにその形成時期は、魏略をだいぶ遡り、魏略に至るまでに最低二文献を挟んでいると思われる。 その形成時期を考えるに際し、廉斯邑がヒントになる。

後漢書東夷伝によれば廉斯邑の蘇馬ィは建武二十年(44年)に貢獻し、漢廉斯邑君に封じられている。

建武二十年,韓人廉斯人蘇馬ィ等詣樂浪貢獻。光武封蘇馬ィ為漢廉斯邑君,使屬樂浪郡,四時朝謁。

この出来事は光武帝紀にもみえる。

二十年(中略)秋,東夷韓國人率衆詣樂浪内附。

また韓伝に引く魏略によれば、王莽の地皇時には廉斯邑のが投降し、子孫數世が冠、田宅を賜り、延光四年(125年)に復た除を受ける。

郡表功義,賜冠、田宅,子孫數世,至安帝延光四年時,故受復除。

このことから韓の国々の中では、廉斯邑は別格の存在となったはずである。 また三世紀の漢人にとって、廉斯邑がどうなったかの関心はあったはずである。 にもかかわらず韓伝は廉斯邑には一切触れていない。 このとこは廉斯邑は韓伝原史料の成立時には存在しなかったことを意味するのであろう。 韓伝には廉斯邑の朝謁記事に続き、漢末の情勢が記載されている。

漢時屬樂浪郡,四時朝謁。桓、靈之末,韓彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。

引用記事冒頭の朝謁記事は後漢書記載の出来事をを指すと思われるので、廉斯が消息を断つのは引き続く記事にみえる後漢末の混乱の中であろう。 現存の馬韓、辰韓、弁辰の国名リストには廉斯邑はみえず、最初の馬韓、辰韓二分の国名リストの成立も常識的にはそれ以降と考えられる。

その時期については、二つの候補がある。 ひとつは公孫康が帯方を分離し、倭韓が帶方に屬したという時期で、韓伝に下記にようにみえる。

建安中,公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡,遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方。

もうひとつは、魏が公孫氏と戦っていた時期で、同じく韓伝に下記のようにみえる。

景初中,明帝密遣帶方太守劉マ、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。其俗好衣,下戸詣郡朝謁,皆假衣,自服印綬衣千有餘人。

多くの韓の国々の首長が邑君や邑長の印を賜り、下戸に至るまで郡に朝謁したという。 この文面からすると、半島南端までのおよそ80ヶ国が記載された国名リストの成立は、景初年間がもっとも可能性が高い。 まさに混乱の中で、短期間に国名が収集され記録されたのであろう。

それでは、弁辰が識別されたのはいつであろうか。 ここで大変に興味深い記述が韓伝にみえる。

部從事呉林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。

辰韓を分割してその八國を樂浪に与えようとしたというのである。 現在の韓伝の国名リストでは、辰韓は12ヶ国であり、その過半数の八國を分割するというのは不自然である。 おそらくこの時点では、辰韓と弁辰の識別はなされず、辰韓は24ヶ国であったのではないだろうか。 その三分の一の八國を樂浪としようとしたのであろう。

私の以前の論稿で述べたように、韓伝の国名はその特徴からおそらく8ヶ国単位10群で構成されていたと思われる。(9) そのうち辰韓弁辰は8ヶ国単位で三群で構成されており、その最後のグループは半島東南部洛東江流域の南岸から、半島東岸にかけて位置したと推定した。 このグループは半島南部の鉄の産地に一致し、魏の目的はこの地域を樂浪に組み込むことであったと思われる。

弁辰が識別されたのはこの後になる。

ここで魏晋の東方政策に目を向けてみよう。 三国魏から西晋時代の東方政策は、公孫氏を滅ぼした後、おそらく正始年間にピークを迎えたと思われる。 238年魏の景初2年、公孫氏滅亡後魏は襄平(現在の遼陽)を中心に平州を設置し、正始年間には沿海州から朝鮮半島南部にまで直接の軍事行動を起こす。 しかしやがて平州は右北平(北京周辺?)を中心とする幽州に併合され、東方への進出も後退する。 正始年間の政変が影響したか、遼東に割拠し呉とも通じかねない公孫氏がほろび、依然呉蜀が健在である現実に対応したかと思われる。 274年西晋の泰始10年、西晋は再び襄平を中心とし平州を設置する。

晋書武帝紀:泰始十年(中略)二月,分幽州五郡置平州。

このような情勢をみると、弁辰を識別するようなあらたな情報が出てくる可能性が高いのは、魏の正始年間までと、西晋の泰始10年以降となる。 一方魏略の成立は265年頃とされる。(2) すでに指摘したように、魏略の成立までに最低二文献を挟んでいると思われることから、弁辰の識別から魏略の成立まではかなりの期間があったと思われる。 弁辰の識別は魏の正始年間の可能性が高い。 韓伝には下記のような記述がみえる。

時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓。

まさにその時二郡は韓を滅ぼしており、その兵は抗争の原因となった半島最南部まで至ったであろう。 すなはち大量の漢人が半島南部を実見したのである。 漢人の韓に対する知の地平が最も南下したのはこの時代であろう。

しかしこのような推定に対して唯一矛盾する文献事実がある。 韓伝に引く魏略の逸文である。 すでに一部を転載したが改めて全文を転載する。

初,右渠未破時,朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戸,亦與朝鮮貢蕃不相往來。至王莽地皇時,廉斯為辰韓右渠帥,聞樂浪土地美,人民饒樂,亡欲來降。出其邑落,見田中驅雀男子一人,其語非韓人。問之,男子曰:「我等漢人,名戸來,我等輩千五百人伐材木,為韓所撃得,皆斷髮為奴,積三年矣。」曰:「我當降漢樂浪,汝欲去不?」戸來曰:「可。」因將戸來出詣含資縣,縣言郡,郡即以為譯,從中乘大船入辰韓,逆取戸來。降伴輩尚得千人,其五百人已死。時曉謂辰韓:「汝還五百人。若不者,樂浪當遣萬兵乘船來撃汝。」辰韓曰:「五百人已死,我當出贖直耳。」乃出辰韓萬五千人,牟韓布萬五千匹,收取直還。郡表功義,賜冠、田宅,子孫數世,至安帝延光四年時,故受復除。

この文をそのまま認めると、すでに王莽の地皇年間に牟韓(弁韓)が知られていたことになる。 しかしこの文には注意深く対処すべきである。 まずこの魏略の逸文には、廉斯に関して地皇年間(20〜23年)と安帝延光四年(125年)の記述のみを含み、後漢書光武帝紀にもあらわれる建武二十年(44年)の樂浪内附には触れられていない。 おそらく魏略の中で、東観漢記光武帝紀にあった記事を引いた上で、参考資料として他の史料をもとに触れられたものである。 辰国については三世紀からはるか遡る紀元前の情報であり、廉斯のやってきた王莽の地皇年間と言えば、緑林軍や後の赤眉軍がすでに挙兵して数年たっている。 地皇三年には反乱軍が勝利し、中央は大混乱で記録に残るとは思われない。 また安帝延光四年は安帝の崩御年であり、同年すぐに次の少帝も亡くなり、政治的混乱の中にあった。 おそらく魏略が利用した文献は地方で成立したものであろう。 この文章の前半は、かっての辰國と廉斯邑を結び付け、辰韓と呼ぶ所以を表しているようである。 しかし後漢書光武帝紀でも東夷伝でも、建武二十年に至ってすら廉斯を辰韓とは呼ばず単に韓と言っている。 また廉斯は辰国と結び付けられているが、実際逸文を見る限り、辰国につての話題に続いて、すぐに廉斯の話題になっており、何の根拠も示されていない。 この文章は歴史と言うよりも、後世の脚色を含んでかなり後に成立した、辰韓と辰国を結び付けるもとになった伝説と見るべきである。 (注5)

さらに弁韓について見てみれば、そもそもこの伝説は辰韓に関して述べたもので、弁韓は一か所のみ不自然に登場する。 弁韓という呼び名の成立は、弁辰よりさらに進んで、三韓概念が確立して後の事であると考える。

ただこの伝説で、廉斯が船で直接行ける場所にあったことが分かり、部従事呉林が樂浪が本統べていた韓の地域は辰韓の南岸であると考えた原因となった可能性はある。 もっともこの間のやり取りが吏譯轉有異同とあって、どの程度事実が伝わっていたかこれもまた怪しい話なのである。

4.原韓伝の構成 −漢人の韓に対する関心と州胡の位置付−

2節の考察により、韓伝およびその下敷きになったと思われる魏略の東夷に関する記述には、すでに弁辰を識別する国名リストを含む原史料があったと想像される。 韓を馬韓と辰韓に二分した資料はさらにその原史料の原史料となる。 これを原韓伝と呼ぶことにする。

原韓伝の内容はどのようなものであったのか、それを韓伝の記述から推理してみよう。 韓伝より魏略からの註を除いた部分について、その記述量に着目して分析してゆく。

まず冒頭に韓は三種に分かれているとの記述がある。

記事A:「韓在帶方之南,東西以海為限,南與倭接,方可四千里。有三種,一曰馬韓,二曰辰韓, 三曰弁韓。辰韓者,古之辰國也。」

以上44文字を記事Aとする。 続いて馬韓の位置、生業についての記述がある。

記事B:「馬韓在西。其民土著,種植,知蠶桑,作綿布。」

以上16文字を記事Bとする。 次に首長の呼び名と国名人口の記事がある。

記事C:「各有長 帥,大者自名為臣智,其次為邑借,散在山海間,無城郭。有爰襄國、牟水國、桑外國、小石 索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟盧國、素謂乾國、古爰國、莫盧國、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗盧國、卑彌國、監奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟盧國、内卑離國、感奚國、萬盧國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷盧國、牟盧卑離國、臣蘇塗國、莫盧國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、 狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國,凡五十餘國。大國萬餘家,小國數 千家,總十餘萬戸。」

以上241文字を記事Cとする。 続いて辰王に関する記述がある。

記事D:「辰王治月支國。臣智或加優呼臣雲遣支報安邪支濆臣離兒不例拘 邪秦支廉之號。其官有魏率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。」

以上53文字を記事Dとする。 引き続き韓の歴史に関する記述がある。

記事E:「侯準既僭號稱王,為燕亡人衞滿所攻奪,將其左右宮人走入海,居韓地,自號韓王。其後絶滅,今韓人猶有奉其祭祀者。漢時屬樂浪郡,四時朝謁。桓、靈之末,韓彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。建安中,公孫康分屯有縣以南荒 地為帶方郡,遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方。景初中,明帝密遣帶方太守劉マ、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。其俗好衣,下戸詣郡朝謁,皆假衣,自服印綬衣千有餘人。部從事呉林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。 時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓。」

以上249文字を記事Eとする。 続いて馬韓の風俗などの記事が現れる。

記事F:「其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。無跪拜之禮。居處作草屋土 室,形如冢,其戸在上,舉家共在中,無長幼男女之別。其葬有槨無棺,不知乘牛馬,牛馬盡於送死。以瓔珠為財寶,或以綴衣為飾,或以縣頸垂耳,不以金銀錦為珍。其人性彊勇,魁頭露,如Q兵,衣布袍,足履革。其國中有所為及官家使築城郭,諸年少勇健者, 皆鑿脊皮,以大繩貫之,又以丈許木之,通日呼作力,不以為痛,既以勸作,且以為健。常以五月下種訖,祭鬼神,羣聚歌舞,飲酒晝夜無休。其舞,數十人起相隨,踏地低昂,手足相應,節奏有似鐸舞。十月農功畢,亦復如之。信鬼神,國邑各立一人主祭天神,名之天君。又諸國各有別邑。名之為蘇塗。立大木,縣鈴鼓,事鬼神。諸亡逃至其中,皆不還之,好作賊。其立蘇塗之義,有似浮屠,而所行善惡有異。其北方近郡諸國差曉禮俗,其遠處直如囚徒奴婢相聚。無他珍寶。禽獸草木略與中國同。出大栗,大如梨。又出細尾鷄,其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。」

以上349文字を記事Fとする。 その次に現れるのが州胡に関する記述である。

記事G:「又有州胡在馬韓之西海中大島上,其人差短小,言語不與韓同,皆頭如鮮卑,但衣韋,好養牛及豬。其衣有上無下,略如裸勢。乘船往來,市買韓中。」

以上57文字を記事Gとする。 ここから先が辰韓に関する記事となる。

記事H:「辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國。」

以上118文字を記事Hとする。 次の文の冒頭が所謂第一弁辰条の初まりとされる。

記事I:「弁辰亦十二國,」

以上6文字を記事Iとする。 引き続いて弁辰と辰韓の首長の呼び名や国名人口の記述が現れる。

記事J:「又有諸小別邑,各有渠帥,大者名臣智,其次有險側,次有樊,次有殺奚,次有邑借。有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁〔辰〕樂奴國、軍彌國(弁軍彌國)、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰盧國、斯盧國、優由國。弁、辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戸。」

以上164文字を記事Jとする。 引き続き辰王の記事が現れる。

記事K:「其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得 自立為王。」

以上28文字を記事Kとする。 続く記事に風俗の記事などが現れ、有名な鉄の産地としての記述がみえる。

記事L:「土地肥美,宜種五穀及稻,曉蠶桑,作布,乘駕牛馬。嫁娶禮俗,男女有別。以大鳥羽送死,其意欲使死者飛揚。國出鐵,韓、、倭皆從取之。諸市買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。俗喜歌舞飲酒。有瑟,其形似筑,彈之亦有音曲。兒生,便以石厭 其頭,欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭,亦文身。便歩戰,兵仗與馬韓同。其俗,行者相逢,皆住讓路。」

以上131文字を記事Lとする。 続いて所謂第二弁辰条が現れる。

記事M:「弁辰與辰韓雜居,亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似,祠祭鬼神有異,施竈皆在戸西。其盧國與倭接界。十二國亦有王,其人形皆大。衣服巨エ,長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。」

以上73文字を記事Mとする。

いま三韓に関して記述の分量をみてゆくと、馬韓に関する記述は構成上は記事BCDEFGであるが、は韓全体の歴史であり、は州胡についての記述である。 馬韓に関する記述をBCDFとすると、これらの文字数は全部で659文字になる。 辰韓に関する記述は記事HJKLで合わせて441文字となる。 ただし国名リストJは辰韓弁辰共通の為半分にすると359文字となる。 弁辰に対する記述は記事IJMで合わせて253文字となる。 辰韓と同様に国名リストを半分にすると、171文字である。 これを見ると韓伝の重心は馬韓にあることは明らかである。 弁辰は馬韓の四分の一ほどしかなく、韓伝の中ではおまけのような存在である。

ところで馬韓の記述量が多いのは、馬韓の国名が多く、国名リストが重いことも影響している。 そこで国名リストの部分、記事Cをはずして評価してみよう。 また馬韓の記述に含めた記事Dは、辰王に関する記載であり、辰韓の記事に辰王があらわれることを考慮してこれを辰韓と辰王の記述としてまとめてみよう。 すると馬韓の記述は記事BFの365文字、辰韓と辰王の記述は記事HKLの330文字となり、馬韓と辰韓辰王に対する関心は拮抗してくることが分かる。 辰韓の風俗記事には、裴松之による魏略の註がみられ、辰韓の風俗記事が陳寿によってかなり整理されたことがうかがえる。

明其爲流移之人、故爲馬韓所制

其國作屋、横累木爲之、有似牢獄也

これを考慮に入れれば、辰韓辰王の記事は27文字増え、357文字にまでなり、馬韓とほぼ同じである。 一方弁辰の記述は記事Jの73文字となり、州胡に対する記事Fの57文字を比較すると、弁辰に対する関心は州胡とさほど変わらないことが分かるのである。

さて原韓伝に関して可能な限り迫ってみよう。 記事Kを見てみよう。 この記事の「其十二國屬辰王」は議論の多かった部分である。 国名リストの12ヶ国には弁辰が冠せられていて、辰王が辰韓の王ならば、普通に考えて弁辰ではない国々が屬辰王であるはずで、ここにあえて其十二國と断る意味が分からなかったのである。 この記事はおそらく弁辰が識別される前からの記事がそのまま引き継がれているのであろうと思われる。 つまり韓伝の記事には、原韓伝の記事がかなり残されている可能性が高いと思われるのである。 現在の韓伝から、弁辰の記載を抜きとることで、原韓伝の記事が推定できそうである。 参考までに、記事H以降の記事に対してそのような文面を作成してみた。(補助資料1) これは辰韓伝と弁辰伝から、文中の弁辰の記述と、国名リストの弁辰、および辰韓が12国であるとの記述のみを抜いたものである。 単純な操作であるが、辰韓伝弁辰伝の記述の謎めいた複雑さは、ほとんど消え去っていることに気付く。

「其十二國屬辰王」が原韓伝にあったとすると、弁辰は識別されていないが、辰韓の24ヶ国のうち、辰王に属する国が半分の12ヶ国であることは分かっていたことになる。 辰韓24国の中にやや異質の国があることは分かっていたのである。 しかもその関心の持ち方は辰王に属したかどうかである。 韓伝を見ると確かに馬韓に対する記述が多い。 しかし馬韓は、帯方に隣接した地域であり、当然情報も多かったはずである。 それに匹敵するほどの記事量があるということは、辰韓辰王に対する関心が非常に高かったことを意味するのではないだろうか。 よくよく見てみれば、辰韓に対する記述も辰王に絡むものが多く、馬韓の記述にも辰王が出てくることを見ると、原韓伝を書きあげる大きな動機が辰王にあったことがうかがえる。 まさに冒頭に、「辰韓者,古之辰國也。」とあり、漢人の関心の中心が古の辰國と、その後の辰王にあったと考えられるのである。 現在の韓伝に至るまで、弁辰の風俗などについて書き加えられているのであるから、記事Fの馬韓辰韓の風俗などに関する記述も書き加えられたものがあると考えてよい。(注6)

風俗の記事が最も多いのは馬韓であるから、原韓伝における辰韓と辰王に関する記述の割合はさらに高いものであり、そもそも原韓伝はまさに辰王に関して記述していると言っていいほどの内容だった可能性がある。

もうひとつ指摘しておきたいことがある。 構成上馬韓の付属になっている州胡であるが、一応馬韓とは区別しているようである。 しかし馬韓の国名リストには重要な謎がある。 それは史書により馬韓の国の数が異なることである。 魏略逸文では56ヶ国、韓伝では55ヶ国、晋書では56ヶ国、後漢書では54ヶ国となっている。 果たしてこの違いは何に起因するものであろうか。 後漢書の東夷伝は三国志東夷伝を下敷きにしていることは確実で、三国志において二回あらわれる莫盧國を一ヶ国と考えたためであろう。 しかしなぜ魏略と晋書は56ヶ国なのだろう。 魏略は三国志に20年ほど遡るという。(2) その魏略にはおそらく56ヶ国あり、韓伝はそれをもとに書かれていると思われる。 わずかな期間に一ヶ国の書き漏れが発生したのだろうか。 しかし三国志よりもずっと後の晋書には56ヶ国とあり、陳寿がみた資料には56ヶ国の名前がみえたはずである。 陳寿がそのうち一ヶ国を馬韓の国名リストから外すとすれば、それだけの理由があったであろう。 陳寿からみてその国を馬韓の国とみなすのが不適切であると考えるに足る記述があったはずである。 まさに韓伝の州胡がそれに当たる。 もとの馬韓の国名リストには州胡が含まれ、言語も風俗も違うとする州胡を馬韓とすることに疑問を抱いた陳寿は、国名リストから外してしまったのであろうと思われる。 (注7)

原韓伝は、辰王に対して大きな関心を抱き馬韓と辰韓に二分して書き始められた。 馬韓の想定される地域は、考古学的には多様な地域であり、これを馬韓として一括すること自体不自然である。 最初の国名リストが、公孫氏との戦争の時期に作成された可能性があることなどから、韓に対する情報は十分でなく、民族性などはあまり考慮せず、漢人にとって関心の高かった辰王と辰韓を分離し、それ以外を馬韓としてまとめてしまった可能性がある。 最初州胡を馬韓に含めてしまったことはそのような状況によるものであろう。 それが後継文献に引き継がれ、やがて次第に韓の実情が判明し、弁辰の記述が追加され三韓に分離された。 陳寿に至って州胡が分離され、4分される寸前まで至っていたのである。(注8)

5.初期韓概念とその変遷

半島南部地域はいつごろからか韓と呼ばれるようになった。 史書に残る確実なもっとも古い記録は、すでにみた後漢書光武帝紀、建武二十年(44年)の樂浪内附の記事である。 この時の記録は東夷韓國人となっており、まだ馬韓辰韓の名はみえない。

韓伝とそこに引かれた魏略でには、もっと古い時代についての伝説的な記録がある。 記述対象の時代がもっとも古いものは、韓伝の記事Dの冒頭の準に関する記述である。

侯準既僭號稱王,為燕亡人衞滿所攻奪,將其左右宮人走入海,居韓地,自號韓王。其後絶滅,今韓人猶有奉其祭祀者。

これには魏略より註として下記の一文が付けられている。

其子及親留在國者、因冒姓韓氏。準王海中、不與朝鮮相往來

すなはち韓および樂浪韓氏の起源を、燕人満の朝鮮に先立ってその地に国を起こしていたという、其氏に求めたものである。 しかし箕氏については、史記には全く記載がなく、伝説とする意見も多く、樂浪韓氏の祖先伝説であるとする見解もある。 史実はともかく、韓概念の起源が樂浪漢人の祖先伝説であるとの説は大変に興味深い。(15)

記述対象の該当する時代が次に古いものは、韓伝に引く魏略の辰韓である。 ここでは古朝鮮滅亡前に辰国に逃れた、二千餘戸のその後として辰韓が語られ、またそこには戸来という漢人が囚われていたことが語られる。

上記二つの伝説には共通点がある。 ひとつは樂浪漢人と祖先を共通にする人々が半島奥部にいることであり、そこへ行くために海を渡って行くことである。 辰国へ行くためには陸路かもしれないが、それと結び付けられた辰韓へは船で行っている。

少なくとも伝説の中の韓は、海の向こうの同祖の人々が逃れた伝説の地といった趣である。

一方で樂浪漢人にとってもっと現実的な韓も存在した。 樂浪郡の南には、漢の武帝が真番郡を設置している。 その郡治は縣である。 茂陵書の記述から、縣の位置は半島南部であると想像される。 これらの地域と樂浪郡は、真番郡の放棄後も交流があったであろう。 この樂浪の南に隣接する韓は二世紀中に馬韓として史書に登場する。 このとき馬韓は高句麗とともに玄菟郡を攻撃している。 その数年前に高句麗は、樂浪東方にあった東の華麗城を攻撃していることからみて、このころ高句麗の勢力が東を経由して樂浪南方まで延びてきていたのであろう。 ちょうど同じ時期、漢江流域に高句麗風の積み石塚が現れる。

どうも樂浪漢人にとっての韓には二つの顔があるようなのである。 ひとつは樂浪にとどまって南方と直接交流のない人々にとっての韓であり、海の向こうの同祖の人々がいる伝説の地であって、船に乗って行かなければならない。 半島奥地に同祖の人々がいるという伝説は、樂浪のあたりが民族移動の中継地となっていた、歴史的事実をある程度反映したものであろう。 もうひとつは韓地に出かけ実際に取引し、また時には争った人々にとっての韓であり、陸路南隣する韓であって、これを馬韓と呼び始めたのではないかと思う。 (注9)

魏略逸文で辰韓とされている廉斯については、馬韓が登場する121年から4年後の125年を最後に後漢末の混乱の中で史書から消える。 廉斯が辰国の伝説と結びつけられたのは、それ以降のことであろう。 はるか海を隔てた地にあり、かつ消息を絶った点が、樂浪漢人の伝統的な韓概念と一致し、同祖の人々が逃れていったと言う、すでに伝説化していた辰国と廉斯を結び付けたのであろう。

魏の景初年間、半島南部の情勢が一気に明らかになった時、樂浪帯方二郡の漢人は、同祖の人々が逃れていったと考えられていた半島南部に対して、深い関心をもったであろう。 そしてそこには驚くべき人々がいたのである。 その人々は秦の支配をのがれてきたという伝説をもち、樂浪に残してきた仲間がいると言い、二郡の漢人に多い燕斉訛りとは異なる、古い秦人の言葉に似た単語を話したのである。 しかも実に奇妙なことに、その人々は自ら王を立てることができず、半島西岸の国にその王がいると言うのである。

三世紀二郡の漢人は今まで交流のあった半島西岸の人々を一括して、もともと漢江流域を指した馬韓を拡大して馬韓と呼び、一方でその特異な人々を秦韓と呼んだのであろう。 そしてその地がかっての廉斯の地であることが分かると、廉斯に関して成立していた古の辰国の伝説と結び付け、秦韓との音の響きの共通性にも導かれて辰韓の名称が成立したのであろうと考えるのである。

辰韓は半島に伝わるいくつもの伝説をもとに成立した概念である。 始めに六国があり、しだいに分かれて十二国になったという記述も、のちの新羅の辰韓六村伝承のもとになる伝説が、存在したことを想像させる。 馬韓がその東界を割いて辰韓に与えたという話などは、まさに伝説であり、どの程度信頼できるのかわからない。 なぜなら下記にみえるように韓伝を見る限り、馬韓が広大な洛東江流域を割いて与えるほどの、政治的まとまりであったとは思えないからである。

其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。

しかし北方からの民族的な移動をかなり具体的に伝える伝説であり、それもまた二郡の漢人の祖先伝承に響きあうものであったであろう。

魏略は言う、明らかにそれ流移の人たり、ゆえに馬韓の制するところとなると。

6.初期韓概念とその変遷

三韓概念はおおよそ以下のように変遷したものだろう

古朝鮮:真番

西岸は真番、魏略の伝説によれば洛東江流域は辰国となるが、辰国自体その実在性は疑わしい。

前漢武帝:真番郡

西岸は真番郡、洛東江流域は不明。

前漢末:樂浪潘国

半島南部には真番郡故地として交流のあった地域もあり、100年成立の説文解字には、樂浪潘国の産として魚の名前が挙げられているという。(16) 少なくとも半島西岸は真番ないし樂浪潘国と呼ばれていたのではないか。 洛東江流域は不明であるが、樂浪漢人は半島南部はおろか、北部九州まで至っていたであろう。 ただし樂浪に定住する漢人の中には、海を渡っていかねばたどりつけないような半島の奥地に、同祖の人々がいると言う観念はあったであろう。

新〜後漢初め:韓の登場

海の向こうから投降してきた廉斯に代表される。 南隣する漢江流域を何と呼んでいたか不明であるが、前出の説文解字は本来この時代の成立である。

後漢後期:馬韓の登場

南に地続きで行ける現実の韓として漢江流域を指す。 もともとと関系が深く、その伯斉=百済の祖は夫余であるという。 このころ高句麗の支配下にはいり、おそらく日本海側を回って玄菟郡攻撃に動員され、史書に名を残すことになった。 一方その奥地は依然廉斯に代表される韓である。

後漢末期:古の辰国の伝説

漢末の大乱の中で、多くの漢人が南に流亡した。 郡に残された人々にとって、半島奥地は海の向こうの、同祖の人々がのがれていったと言う伝説の地となっていく。 このころ準王が海にのがれて、韓王を号したという伝説が成立し、消息を絶った廉斯邑も、漢書にみえる辰国の末裔として伝説化し始める。

魏が二郡を治めたころ:辰韓の登場

多量の韓人が郡を詣で、一挙に80ヶ国が郡に認識される。 秦の亡民と自称する人々が発見され、秦韓の名称が始まる。 廉斯はすでに滅亡していたが、その地が秦韓と重なることが明らかになると、秦と辰は同じ韻、声母は濁音系歯音で音韻上近接しているため、廉斯の古の辰国伝説と融合して、東南部24ヶ国を辰韓と呼ぶようになる。 80ヶ国は馬韓56ヶ国と辰韓24ヶ国として原韓伝が成立した。 この結果馬韓と呼ぶ領域は、漢江流域から辰韓を除く残余の地に拡大した。 このころ部從事呉林は、かっての廉斯邑の服属を根拠に、鉄の産地である辰韓南部の八國を分割して、樂浪に帰属させようとした。

二郡韓を滅す:弁辰の登場

半島南部の情勢がより明らかになり、辰韓の亜種として弁辰が認知される。 原韓伝の辰韓24ヶ国のうち12ヶ国に弁辰の註が付いた。 この後魏の東方政策は大きく後退し、半島南部の新規の情報も途絶えた。

魏略登場前夜:弁韓の登場

前代資料の国名の弁辰の註が本文化した。 韓は三分され、魏略に採用された廉斯の伝説など、一部に弁韓という名称も登場した。

魏略の成立:馬韓、辰韓、弁辰の三韓

冒頭に韓に三種あり、馬韓、辰韓、弁辰と宣言される。 盧國は弁辰の国とされる。

三国志の成立:馬韓、辰韓、弁韓の三韓および州胡

冒頭に韓に三種あり、馬韓、辰韓、弁韓と宣言される。 魏略の馬韓56ヶ国から、州胡がはずされ55ヶ国になる。

韓伝はおおよそ以下のように成立したのであろう

韓伝は東夷伝の一部であり、韓伝の成立経緯を知ることは、東夷伝の成立経緯を知ることになる。 韓伝はその記述にほころびがあり、成立経緯に関して知る手がかりがあった。 詳細にみてゆけば、東夷伝の他の民族の記述にも同じようなヒントがあるかもしれない。 たとえば韓伝以上に長い三国志東夷伝の倭人条には、その成立史をうかがわせる要素が数多くある。 筆者は韓伝以上に複雑な成立史を想定している。

本稿は長々と韓伝の成立史や、韓の民族概念の変遷を追ってみた。 残念ながら東夷伝の原史料に当たる文献は、わずかな逸文の残る魏略を除いて分かっておらず、文献それ自体の内部分析によるしかない。 それが客観性に欠けることは否めないが、東夷伝の成立史を多少なりとも明らかにすることができれば、三世紀の東夷世界に関する見方にも新しい光が当てられるのではないだろうか。

補助資料

(補助資料1)辰韓弁辰伝から弁辰を消す

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辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。 有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。 名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。

各有渠帥,大者名臣智,其次有險側,次有樊,次有殺奚,次有邑借。 有已柢國、不斯國、彌離彌凍國、接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、古資彌凍國、古淳是國、冉奚國、半路國、樂奴國、軍彌國、彌烏邪馬國、如湛國、甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、狗邪國、走漕馬國、安邪國(馬延國)、盧國、斯盧國、優由國。辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戸。其十二國屬辰王。

辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立為王。土地肥美,宜種五穀及稻,曉蠶桑,作布,乘駕牛馬。嫁娶禮俗,男女有別。 以大鳥羽送死,其意欲使死者飛揚。國出鐵,韓、、倭皆從取之。諸市買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。 俗喜歌舞飲酒。有瑟,其形似筑,彈之亦有音曲。兒生,便以石厭其頭,欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭,亦文身。便歩戰,兵仗與馬韓同。其俗,行者相逢,皆住讓路。

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