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幻の曹爽建郡

-三国志東夷伝の原史料についての考察(後編)-

概要

本稿では三国志東夷伝の原史料についての考察(後編)として、三国志東夷伝原史料の候補である、王沈の魏書と魏略を中心に、東夷伝に関連していくつかの史書の関係性をみてゆく。 前編では三国志東夷伝の地理や風俗の記述に関しては、魏略に多く依っていることを指摘した。 一方景初年間以降の東夷記事については、少なくとも魏略にはそれほどの情報はなかったであろうことを考証した。 後編では景初年間以降の外交記事は魏の起居註に依ったことを考証し、王沈の魏書そして晋時代の史料に依る情報もそこに追加されたことを考証する。 特に景初年間以降の記事について検討した結果、魏朝末から西晋初にかけての政争が、結果的に三国志東夷伝の原史料に大きな制約を与えたことを論ずる。 関連して、史書に残らない曹爽の東夷政策の可能性についても述べたい。 またしばしば刊本三国志に関して問題となる、現行刊本と系統の異なる三国志異本に関して、実体としての異本は存在しなかった可能性を指摘する。



目次

 

1.はじめに^

三国志東夷伝の原史料はなんであろうか。 一般にその候補として、魏略と王沈の魏書が挙げられる。 前編で述べたように、風俗や地理の記述については、魏略に多くを依っているようである。 特に倭人伝の卑彌呼の都までの道程(以下里程)は、文面から追っていくと、かなりの期間をかけて順次追記されていった可能性が高いと思われ、その卑彌呼に対する代名詞からみて、魏使の情報は含まれないと思われる。 このことは里程の原史料と思われる魏略の著者魚豢が、卑彌呼に親魏倭王の称号を与えて以降の、東夷外交に対する情報を知らなかったことが、理由である可能性を指摘した。 すなはち三国志東夷伝倭人の条(以下倭人伝)の終わりの部分の外交記事などは、魏略に依るものではない。 これは魏略逸文の状況からも推察できる。 それではなぜ西晋の著作郎であった陳壽が、魏使の直接情報を倭国の地理的記述等に用いなかったのだろうか。 倭人伝の終わりの部分には、景初以降の魏と倭の外交など、魏使に触れた記事があるが、この記事の原史料には地理的情報は含まれなかったのだろうか。 この疑問に答えるためには、まずこの外交記事について、原史料が何であるかを明らかにする必要がある。

魏略とともに三国志東夷伝の原史料に上がる王沈の魏書については、三国志東夷伝には裴松之註として引かれた例が無いことが知られている。 このことから王沈の魏書には東夷伝がなかったとする説と、王沈の魏書の東夷伝と三国志東夷伝が内容的に全く同じであったために註が付かなったとする説がある。 後者の説をとれば、王沈の魏書の倭国の地理的記述にも、魏使の情報は反映されていないことになる。 王沈の魏書は本来魏朝による正史編纂の事業が、王沈に引き継がれて魏の末年に完成されたものと考えられている。(1) 王沈は悌儁が倭国から帰国した時期、政権中枢の曹爽の近くにあり、この状況からみて王沈の魏書に、魏使の情報が反映されていないことは考えにくい。 おそらく王沈の魏書には東夷伝がなかったとするのが正しいであろう。 では倭人伝の外交記事の原史料はどのようなものなのだろうか。

2.曹爽時代の東夷外交史料について^

倭人伝里程に関する考察は、三国志東夷伝全体の原史料についての考察に導いた。 本節では倭人伝終わりに付された、外交記事に関してその原史料を考察する。 前節の結論からすると、この部分の原史料は先行史書ではないようである。 先行史書ではないとすると、魏朝のなんらかの政府史料を考えることになるであろう。 榎氏は三国志東夷伝の原史料の候補として、大鴻臚の外交史料を挙げられた。(2)

三国志の帝紀と倭人伝外交記事の関係はどのように考えられるだろうか。 そこで外交記事と年代の重なる、三少帝紀をみてみよう。 一見して感じるのは東夷に関する記述が少ないことである。 晋書武帝紀に東夷の朝貢記事が25年間に12回記されているのと比較してみるとはっきりするが、ほぼ同じ期間に朝貢2回、毋丘儉の高句麗征討に関するもの1回である。 そして2回の朝貢記事の内1回が、正始四年の倭國女王俾彌呼によるものである。 東夷外交に関する温度差、そして倭国の王名の表記の違いなどから、三少帝紀と倭人伝外交記事は全く出自の違うものであるとわかる。 三国志帝紀に関しては、満田剛氏によれば(3)王沈魏書との関係が深いという。 前節で考察したように、やはり三国志東夷伝原史料は王沈魏書とは別史料であることが裏付けられる。

それにしてもなぜ王沈魏書はこれほどに、曹魏の東夷外交に関心が薄いのか。 なぜ西域伝、烏丸伝、鮮卑伝などは立てた形跡があるのに、東夷伝は立てなかったのか。 なぜ詔書中に卑彌呼となっている倭の王名を、俾彌呼などとするのか。 なぜ親魏倭王どころか倭王とすらせず、倭國女王などと呼ぶのか。

私は三国志東夷伝中の倭人名に関して論じたことがある。(4) その中で、おそらく倭女王の名は最初俾彌呼と音写され、詔書中で何らかの理由で人偏を外されたとした。 王沈は曹爽政権下で、まさに親魏倭王の制詔が発される出来事の、ただ中にあったはずである。 そもそもなぜ親魏倭王の制詔に関わる、景初年中の倭人朝貢に触れないのであろうか。

史通によれば、王沈の魏書は時の権力者である、司馬氏に阿るところがあったという。 であれば王沈の魏書が曹魏の東夷外交に冷淡であり、とくに親魏倭王の制詔を避けているように見えるということは、その完成時において、曹魏の東夷外交が司馬氏にどのような扱いを受けていたかを物語る。 曹魏の東夷外交は司馬懿の公孫淵の征討がきっかけになって始まったのであるが、その後は曹爽が内政の実権を握っていた。 したがって、遠来の倭の朝貢などは、曹爽政権の功績になる。 司馬氏は正始十年(249年)のクーデター(高平陵の変)後、このような実績を疎ましく思っていたのではないか。 曹爽政権が倒れてのち、魏の東方政策は大きく後退し、その拠点は襄平から右北平に後退した。 既に野にあった魚豢は東夷伝を立てることができたが、曹爽政権下での東夷外交の情報は、ほとんど入手不可能だったと思われる。 魚豢は野に下る直前に、倭国の景初年間の朝貢に遭遇し、何らかの直接情報を得ていたのだろう。 東夷に関する情報を求めた結果、東方の辺郡において書き継がれた原東夷伝を、恐らく正始末年をかなり下る時期に入手できたのだと考える。 それではなぜ西晋の著作郎であった陳壽が東夷伝をたて、曹爽時代の外交に触れることができたのだろうか。 またその原史料は何だったのだろうか。

3.晋王朝の東夷外交と魏の起居註^

晋書武帝紀に東夷の朝貢記事が数多く見いだせることから、晋王朝の東夷政策は再び積極策に転じていることが分かる。 泰始十年(275年)には再び拠点を右北平から襄平に移している。 晋書武帝紀には

十一月己卯,倭人來獻方物。并圜丘、方丘於南、北郊,二至之祀合於二郊。罷山陽公國督軍,除其禁制。己丑,追尊景帝夫人夏侯氏為景懷皇后。辛卯,遷祖禰神主于太廟。

渡辺氏によれば(5)天子にとって最も重要な祭祀である南北郊祀の場所を、魏の採用していた方式から改めるという重要な儀式の時期に使者が来ているという。 即ち司馬氏は、倭人の朝貢を自らの王朝の徳を表すものとしようとしている。 晋書宣帝紀をみると、遡って景初年間の卑彌呼の最初の遣使をも、司馬懿の功績に帰そうとしている。

正始元年春正月,東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻。天子歸美宰輔,又增帝封邑。

景初末年の倭の使者は、もしかしたら翌年の正月にも朝見したのかもしれない。 それよりもここで年号を、晋書限断論によりここからが晋書の範囲になる、正始にしたことに主眼があるのではないか。 今や曹魏は滅び、曹爽政権下の倭人朝貢も、司馬懿の功績となった。 ここにおいて西晋の著作郎の陳壽も東夷伝を立てることが可能になったのであろう。

では陳壽はどのような原史料を用いることができただろうか。 東夷伝において主に参照したと思われる魏略には、この時代の曹魏の東夷外交に関する情報が欠けていたと思われる。 既に見たように王沈の魏書には東夷伝は無かったと思われるので、倭人伝終わりの部分の外交記事などは、知られている先行史書以外の史料によると思われる。

倭人伝の外交史料の形態をみてみると、年次ごとの記述になっていることに特徴がある。 このような年次ごとの記述は、倭人伝のみではなく三国志東夷伝の高句麗の条や濊の条にも見えている。

★倭人伝:
景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。

其年十二月,詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所獻男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到。汝所在踰遠,乃遣使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝。今以汝為親魏倭王,假金印紫綬,裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人,勉為孝順。汝來使難升米、牛利涉遠,道路勤勞,今以難升米為率善中郎將,牛利為率善校尉,假銀印青綬,引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹,答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤,皆裝封付難升米、牛利還到錄受。悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。」

正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔。

其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。

其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。

其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,狥葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。

★高句麗伝:
景初二年,太尉司馬宣王率眾討公孫淵,宮遣主簿大加將數千人助軍。

正始三年,宮寇西安平,

其五年,為幽州刺史毌丘儉所破。語在儉傳。

★濊伝:
正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。

其八年,詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。

ここでひとつの特徴として其で始まる年次に注目する。 このような用例すなはち、其一年から其十年までを調べてみると、三国志中で東夷伝のみで見付かる。 すなはちこの年次史料は、三国志の中でも東夷伝のみで利用されたものである可能性が高い。 おそらくこの時期の外交記事を補うべき、王沈の魏書に東夷伝が無かったからであろう。

正史を振り返ってみると、史記と漢書は私選の史書であった。 後漢に入って、国選の同時代史書として東観漢記が編まれた。 同時にこの時代以降、起居註の作成が始まったらしい。(6) 起居註の形式に近いものは古くからあるというが、唐代以降はそれ以前の王朝で書かれた起居註を一次史料として、国選の断代史が編纂されるようになる。 魏晋朝はその様な起居註による史書編纂の、黎明期にあたる。

陳寿が東夷伝で参照したとすれば魏の起居註であろう。 隋書経籍には、漢末の献帝起居註以下晋の起居註が続く。 魏の起居註は見えないが、魏にも起居註が書かれたと考えるのが順当である。 倭人伝外交記事の年次別の記述は、大唐創業起居註等の後世の起居註と比較すると、記述の粒度はかなり粗い。 また民族別に分かれていることから、陳寿による抜粋整理が行われたのだろう。

一方魏朝に置いても、国選の同時代史書の編纂が試みられ、私選の王沈の魏書として魏の末年近く完成された。 王沈の魏書は起居註も参照したであろうが、同時代の国選史書が元になっていることもあり、多くの公文書類が用いられているであろう。 先に見た様に倭人伝の外交記事を見る限り、王沈の魏書の三少帝紀該当部分は、三国志東夷伝とは異質な史料を用いていたと思われる。 それは恐らく王沈のその時の立場では、起居註にあった曹爽の功績である親魏倭王に関する記事を、史書に載せることができなかった為であると思われる。

4.起居註以外の原史料^

本稿においては、前編で里程が極めて重層的な成立をしていることに関して論じ、後編では何故魏使による直接情報が、里程に反映されていないかに問題意識をおいて、三国志東夷伝の原史料に関して議論してきた。 地理的記述があるとすれば、今見ている起居註に依ったと思われる、年次ごとの外交記事とは別の原史料を考える必要があるだろう。 起居註とは皇帝の日々の言行を記録した日記的な記録であり、皇帝の詔などはそのまま記載されることはあっても、必ずしも使者の報告書がそのまま転記されるような性質のものではないからである。 満田剛氏によれば、(4)陳寿は僅か四年ほどの間に、一人で三国志を完成させたことから、ある程度まとまった史料のみを基にした可能性があるという。 膨大な公文書史料にあたる時間はなかったかもしれない。 使者の報告書が残されていたとしても、撰述に入らなかった可能性は考えておくべきかもしれない。

しかしここで倭人伝に関連する、重要なもう一つの原史料について触れたい。 それは年次史料の最後の、正始八年の記事に関するものである。 この記事には、卑彌呼の死から、巨大な墓の建設、男王の即位、内乱、壹與の即位が含まれ、到底一年の出来事とは思えない。 これは起居註由来の記事としては不自然であり、三国志東夷伝中の他の年次記事には見られないことである。 また男王の名前が不明であったり、内乱に関する記事が回想的であったり、魏使の張政が立ち会ったとは思えない記事もある。 このような一連の年次記事の中で異例な記事は、全て卑彌呼以死以降に現れる。

ここで年次記事の中で卑彌呼がなんと呼ばれているかを列挙すると下記のようになる。

景初二年六月,倭女王1遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。

其年十二月,詔書報倭女王2曰:「制詔親魏倭王卑彌呼3:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所獻男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到。汝所在踰遠,乃遣使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝。今以汝為親魏倭王4,假金印紫綬,裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人,勉為孝順。汝來使難升米、牛利涉遠,道路勤勞,今以難升米為率善中郎將,牛利為率善校尉,假銀印青綬,引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹,答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤,皆裝封付難升米、牛利還到錄受。悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。」

正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王5,并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物,倭王6因使上表答謝恩詔。

其四年,倭王7復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。

其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。

其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼8與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。卑彌呼9以死,大作冢,徑百餘步,狥葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼10宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。


 1.倭女王
 2.倭女王
 3.親魏倭王卑彌呼
(詔書中)
 4.親魏倭王
(詔書中)
 5.倭王
 6.倭王
 7.倭王
 8.倭女王卑彌呼
(與狗奴國男王卑彌弓呼素不和)
 9.卑彌呼
(以死)
10.卑彌呼

8狗奴國男王卑彌弓呼と対句的表現になっている。また素より不和であって、卑彌呼親魏倭王になる前の話をしている。 9以死3親魏倭王卑彌呼以降は、8を除いて、親魏倭王または倭王とされているにもかかわらず、9以死以降はそれ以前には見られない、単独の卑彌呼になっている。 一連の文章であればこれは不自然であろう。 既に述べたように9以降には、それまでの年次記事には見られない、複数年にわたる出来事が回想的表現を含めて書かれている。恐らく卑彌呼以死以降は別の原史料によるものであろう。

他にもう一箇所、明らかに挿入されたと思われる文章が見付かる。 それは倭人伝で最初に卑彌呼が登場する、其國で始まる文である。 其國は一見何を差すか分からないが、読み進むにつれてあとから出てくる倭國がそれであることが分かる。 代名詞が先行し文としての不自然さがある。 おそらく異る文脈中にあった文の、抜粋挿入であろう。 前編の議論で、魚拳は卑彌呼の名を知らなかったと思われるので、この部分の原史料は魏略ではないだろう。

ここで、其國以下卑彌呼に関して述べた文と、正始八年の以死以下をならべてみよう。

抽出文1:
其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼,事鬼道,能惑眾,年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞。

抽出文2:
卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,狥葬者奴婢百餘人。更立男王國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。

このように続けると、卑彌呼に関して即位の経緯から始まり、生前の様子から死後の様子に繋がる、ひと続きの文章であったことが分かる。 特に冒頭の其國本亦以男子為王から更立男王へのつながりで、その国はもともとは男子が王になるのが正しい姿であったので、卑彌呼の死後男子の王が立ったのであることが分かる。

ではこの文章の作成された時代はいつなのであろうか。 既に述べたように、この文章には伝聞的回想的な部分があり、魏使の張政がずっと立ち会っていたとは思えない。 すなはち張政は少なくとも二度倭国に行ったのであり、この記録は二度目以降の記録であろう。 注目すべきは卑彌呼はもう倭王と呼ばれていないことである。 卑彌呼の名は詔書の中で明らかになったもので、当然倭王の称号と結びついている。 それが使用されないのは親魏倭王という称号が無効になった状況であったためと思われる。

晋書帝紀には、文帝が相國になった景元三年(263年)以降倭の使いが来たという。 倭国は正始八年(247年)以降混乱にあったと思われる。 朝貢が再開されたのが16年後の263年というのは、狗奴國との戦争、卑彌呼の死、大墓の建設、男王の即位、内乱、壹與の即位と考えると妥当であろう。 その帰国は倭国との往復を考えれば、秦始二年(266年)と考えられる。

晋書武帝紀秦始二年:
十一月己卯,倭人來獻方物。并圜丘、方丘於南、北郊,二至之祀合於二郊。罷山陽公國督軍,除其禁制。己丑,追尊景帝夫人夏侯氏為景懷皇后。辛卯,遷祖禰神主于太廟。

晋書帝紀の東夷外交に関する最初の記事この倭の朝貢である。 このとき晋は倭国外交を全て司馬氏の功績とし、東夷外交も積極作に転じたのである。 明記されていないが秦始二年(266年)の倭国の朝貢に対しては、何らかの称号が与えられたと考える。

梁書諸夷傳東夷条:
正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。

もしも張政の二度目の使いがこれ以降であれば、文中でそれに触れるか、少なくとも二度目には倭王等と呼ばれるだろうが、文中では壹與とのみ現れる。 したがって張政の二度目の使いは、263年の倭国朝貢に対応するもので、景元四年(264年)から咸熙元年(265年)の間と思われる。 正始八年(247年)、張政は詔書、黃幢を以て難升米に拜假せしめ檄告喻したと書いてあるが、二度目には詔書をもたず壹與に檄告喻したのみである。 この時には壹與は何の称号も得ていない。 日本書紀に引く晋の起居註では、秦始二年(266年)の朝貢の際には、壹與は倭女王と呼ばれているが、これは卑彌呼の最初の朝貢時、詔書が出る前の代名詞である。

上記記録は秦始二年(266年)の使者とともに帰国した張政の報告をもとにしたものであろう。 そのためこのとき卑彌呼の称号親魏倭王は使用されず、倭王とも呼ばれていないのであろう。 張政の派遣は、秦始元年晋王朝が成立したのをきっかけに、秦始二年の儀式に合わせて倭国の朝貢を促したものだろう。 この結果は陳壽はまとまった史書以外に、晋時代の文書も利用したことを示している。

ちなみに700年以上も後の11世紀に成立した冊府元亀では、臺與の朝貢を正始年中としているが、内容を見れば倭人伝の記事の丸写しに近く、単に倭人伝の正始八年条の年次をそのまま受けているだけと考えられる。 別情報があったわけではない。

5.女王國と倭國^

ではこの晋時代の報告書には倭国のまとまった地理は記載されていなかったのだろうか。 抽出文1と2を見てみると、其國倭國國中誅殺等の用語が見つかる。 すなはち、想定される張政の二回目の倭からの帰朝報告書では、倭は国々の集まりとしてではなく、一つの国として扱われていたと思われる。 このことはすでに起居註由来と思われる外交記事に現れている。

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和

ここでは倭女王のもとにある倭國と狗奴國が対置されており、里呈における女王を中心とする29ヵ国と狗奴國の対置とは、構図が異なる。 すなはち、倭国観自体が里程の段階とは大きく異なり、その地理的記述も大きく異なっていた可能性がある。 抽出文1と2を見ると、それは張政の帰朝報告書そのものではなく、そこからまとめられた晋代の史料であり、そこに地理的記述があっても、東夷伝の他の民族の地理的記述のような、簡潔なものであったと思われる。 したがって、魏略にあった細々した国々の地理的関係を記述した史料を置き換えるものではなかったと思われる。

そもそも多くの国々を含む倭という概念は、里呈が初めて成立した時期の記録に基づくものであろう。 魏略はその概念をそのまま引き継いだが、起居註や晋代史料によると思われる外交史料や、王沈の魏書に依ると推測される三少帝紀では、すでに倭國として扱われている。 これら魏略以外の史料に依った部分と、魏略に依った部分の間における、概念上の混乱によって文意が難解となっている記事も見つけられる。

佐伯有清氏は、難解とされる一大率に関する文章を三つに区切ることで、文意が通るとされている。(7)

A:
國國1有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北2、特置一大率、檢察諸國3諸國4畏憚之。常治伊都國5
B:
國中6有如刺史。7遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國8、皆臨津搜露、
C:
傳送文書賜遺之物詣女王9、不得差錯。

ABCは原文では一続きであるが、その場合直接的にとると、國中6の指すものが、伊都國5となる。 しかし中国における刺史はそのような小さな地域に限定されるものではないし、そもそも自女王國以北2に特に置いたと言う記述に矛盾してしまう。 また國中6が倭全体をさすとしても、やはり自女王國以北2に矛盾する。 そう考えると、AとBの間には、文脈的な断絶があると思われる。

また用語の観点で見ると、Aの中に自女王國以北2があらわれ、Cの中に女王9が現れるにもかかわらず、間のBでは倭人伝中唯一単独の7という表記が現れる。 AとCには自女王國以北2伊都國5女王9のように里程に現れる概念が現れ、國國1諸國3のように、里呈の地理観と整合的な記述も現れる。 おそらくこれらは魏略にあった文章であろう。 一方Bには起居註や晋代史料と思われるものに共通する倭國8が現れる。 おそらくBは晋代にまとめられた史料からの挿入であろう。

ここで自女王國以北と言う概念は、里呈が順次追加されたとすると、傍21カ国が追加された段階で初めて現れたはずである。 前編最後に述べたように、里呈の完成段階で魚豢が投馬國と合わせて追加したものであると考える。 そうであれば、魚豢は入手した地方史料以外に、倭人に関していろいろな情報を持っていたと思われる。 このことが、陳壽が東夷伝撰述において、魏略に大きく依存した理由の一つであろう。 そもそも女王國という概念そのものが、魚豢による造語であるのかもしれない。(8) そう考えると女王國東渡海千餘里以降の、多分に伝聞的な怪しげな記述も、史通に巨細畢載蕪累甚多と評された魏略らしいと言えるような気がする。

6.王沈の魏書から^

ここで再度魏略、魏の起居註、晋時代の文書以外の原史料に関して検討してみる。 前編で見たように魏略の東夷に関する記述は、そのもとにした地方文献と、魏の明帝期までの情報によると思われる。 三国志東夷伝において、明らかに明帝死後の曹爽政権下の出来事に関するものは、起居註由来や晋代史料に依ると思われる年次記事を除くと、下記の三例ぐらいであろう。

夫餘伝:
正始中,幽州刺史毌兵儉討句麗,遣玄菟太守王頎詣夫餘,位居遣大加郊迎,供軍糧。季父牛加有二心,位居殺季父父子,籍沒財物,遣使簿斂送官。

東沃沮伝:
毌丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進師擊之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恆在山巖深穴中為守備,冬月冰凍,船道不通,乃下居村落。王頎別遣追討宮,盡其東界。

韓伝:
景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。其俗好衣幘,下戶詣郡朝謁,皆假衣幘,自服印綬衣幘千有餘人。部從事吳林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓

夫餘伝の文は、毋丘儉伝によく似た文があり、毋丘儉伝の原史料にあったものであろう。 東沃沮伝の文もまた、毋丘儉伝に関連するものであり、同じ原史料にあったと考える。 韓伝の文は、弓遵の戦死に触れているが、倭人伝の正始元年に弓遵の名が見えており、正始年間に下ることは確実である。 後任の王頎の到官が正始八年であるから、正始八年をそれほど遡らないであろう。 景初中として始まった文中で、この部分だけ時代が異なる。 これに先行する文も桓、靈之末としており、内容的には韓の歴史としてつながっているだけに、文脈的に違和感があり、異なる原史料からの挿入と思われる。

三少帝紀の正始七年条に毌丘儉の濊貊征討と韓の投降が関連付けられている。

七年春二月,幽州刺史毌丘儉討高句驪,夏五月,討濊貊,皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。

おそらくニ郡の韓に対する戦争と、この毋丘儉の征討の間にはなんらかの関係があるのだろう。 やはり上記韓伝の文も、本来は毋丘儉の高句驪濊貊に対する征討に関して記載した史料中で、韓の投降に触れた際に言及したものではないか。 おそらくこれらの三つの文の原史料は、王沈の魏書であろう。

これを見てゆくと、曹爽政権下の魏の公文書に依ったと思しき記事は見つからない。 それにしても魏の東夷外交は、景初二年(238年)の公孫氏滅亡後に始まったものであり、倭との外交は曹爽政権下で行われたものである。 はたして曹爽政権下での魏政府の公式文書は利用されているのだろうか。 勿論それが全く利用されていないことは証明できない。 実際時代のはっきりしない風俗の記事に、曹爽政権下での魏政府の公式文書からの情報が含まれているかもしれない。 しかし風俗や地理の情報は地の文の今の文脈の中にあるもの、里呈と用語の共通するものが多い。 地の文の今を数多く含む魏略の西域伝の状況と比較した場合、三国志東夷伝の地理風俗の記事の中に、それと異質の文体をもつものが多く見つかるということもない。 もしかしたら、曹爽政権下の公文書は、曹爽一味が三族皆殺しとなった際に、処分されたのかもしれない。 一方で魏の起居註が残ったのは、曹爽一派の失脚後も、魏王朝は続いていたのだから当然である。 三国志三少帝紀が王沈の魏書由来なら、そこに毌丘儉の高句麗征討が記載されていることから、王沈の魏書の毌丘儉伝にも、高句麗征討は問題なく記載していたであろう。 この結果魏略以外では、起居註と王沈魏書の毌丘儉伝が、重要な同時代原史料となったのであろう。

曹爽については、失政が続きほとんど成果を残さないまま失脚した印象が残るが、現存史料の多くが司馬氏の実権下での成立であることを考えるべきである。 曹爽の歴史はいわば敗者の歴史なのである。

7.幻の曹爽建郡^

三国志東夷伝には前節の晋初の記録を除き、正始八年以降の記録がなく、どうも突然に終わったような印象がある。 それは正始十年の高平陵の政変により、魏の東夷外交が大きく方向を転じたことが原因であろう。 高平陵の変以降、魏の王族は軟禁状態にあり、司馬氏の意向もあって東夷に関しての情報は途絶えたのだろう。 しかしこの正始八年以降正始十年までの短い期間に、曹爽の隠された功績があるかもしれない。

前節韓伝の文章の末尾二郡遂滅韓はあまりにも唐突ではないだろうか。 確かに漢籍にはこのような唐突な文章の終わり方が多くみられる。 しかし韓との戦争の原因から、その経緯まで詳しく述べているにもかかわらず、韓の滅亡に関しては結果しか述べていない。 この戦争は楽浪に韓の一部を併合しようとしたことが原因で始まった。 韓は滅亡したのにその後の対韓政策は何もなかったのであろうか。

韓伝には馬韓の風俗の記事がある。 おそらくそれは、魏略の採用した地方文献に書かれていたものであろう。 その中に次の一節がある。

其國中有所為及官家使築城郭,諸年少勇健者,皆鑿脊皮,以大繩貫之,又以丈許木鍤之,通日嚾呼作力,不以為痛,既以勸作,且以為健。

この中に出てくる官家使築城郭が問題である。 この時代の用例を見る限り、この官家は魏の王朝である。 すなはち、魏は馬韓人を使用して城を築かせたというのである。 しかも其國中有所為とは、馬韓規模で何かの事業がおこされていたかの様である。

考古学的には三世紀以降、漢江流域及びその周辺に突然いくつかの土城が築かれ始める。 現在三世紀にさかのぼる城郭遺跡としては下記の三つが知られている。

1.六渓土城(坡州市)
2.風納土城(ソウル市)
3.井北洞土城(清州市)

これらの土城はいづれも平地に立地し版築により築造されている。 風納土城は不規則な楕円形状であるが、井北洞土城はほぼ正方形、六渓土城は卵型に近いがほぼ正方形で、形状と立地において漢の土城と類似している。

六渓土城は漢城百済初期、井北洞土城は放射線炭素測定により240年以降とされる。 風納土城と合わせて、立地や築造方法から同時期の築造と考えられる。 このうち風納土城に関しての調査が詳しい。(9) 年代に関しては2001年の調査では、二世紀前半から三世紀前半には築城されていたとする。 2011年の調査では、加築と修築など合計三度の変遷を経ていることが分かっている。 その後年代について、三世紀の第四四半期を上限とする見解も出ているようであるがきわめて興味深い。

馬韓伝には下記のような記述がある。

馬韓在西。其民土著、種植、知蠶桑、作緜布。各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借、散在山海間、無城郭

馬韓は無城郭、すなはち城郭は無かったと言う。 それまで城郭を持たなかったと言う馬韓の地に置いて、三世紀後半から突然立地と築造法という点で、漢風の土城が築かれ始めるのである。 これらの土城はニ郡の土城と比較した場合、六渓土城は大きめの県治規模、風納土城は郡治規模、井北洞土城は県治規模に相当する。 風納土城より新しいとされる漢城百済時代の夢村土城は、立地的には似ているが三つの土城に較べて完全な平坦地ではなく丘陵を利用している。 多くの百済の城郭は、その立地は平地にあったとしても、ほとんどの場合山城部分を有する。 このように漢城百済に立地と城郭設計の観点で類似の土城が殆どないことを考えると、これら三つの土城を漢城百済によるものと考える根拠は薄い。 実際文献上の無城郭と言う記述だけではなく、三世紀後半という時期を考えると、韓伝にみえる馬韓の大國萬餘家と、風納土城を含む三つの土城建設の事業規模との間に飛躍がありすぎるのである。

これらの土城は曹爽政権下での、新たな建郡の痕跡ではないだろうか。 正始八年以降、曹爽政権は新たな郡を設置しようとしていたが、その試みは正始の政変により中断され、歴史の中から消え去ってしまったのではなかろうか。

風納土城はかって帯方郡治の候補とされたが、周辺を含めて漢人の居住した痕跡のないことから否定されている。 しかし漢人が住む前に放棄された、魏の新郡治の予定地であった可能性はある。 土城の規模から考えて、工事はある程度の期間継続されたであろう。 建郡事業の実務はおそらく二郡が担ったであろうから、正始十年の高平陵の変後、直ちに建設が中止された訳ではないのかもしれない。 しかし漢人の入植にまで至らず放棄された土城に、三世紀第四四半期から韓人が居住し始め、特に風納土城は度々修復拡張されて、漢城百済の王都となったと考えるのである。 帯方の故地に建国したという百済の伝説も、全く根拠のないものではなかったのかもしれない。

前節韓伝の文章の末尾二郡遂滅韓での唐突な終了は、原史料となった王沈の魏書において、それ以降に関しての記述を司馬氏に阿って省略したためではないだろうか。 現在漢江流域に残るいくつかの土城は、魏略に採用された地方文献にわずかにその痕跡を残すのみで、失われた曹爽政権の歴史の証言者なのかもしれない。

8.三国志異本について^

三国志東夷伝の原史料に関する議論を行う場合に、避けて通れないのが三国志のよりオリジナルに近い異本の存在である。 そのような異本の存在は、最初末松氏によって提唱されたもので、魏略の逸文と太平御覧に引かれた倭人伝逸文の類似を根拠とするものである。(10) その後この議論は三木太郎氏に引き継がれ、(11)佐伯有清氏によって、魏略逸文と御覧魏志との広範な対稿が行われた。(12) 御覧魏志の文面には、現行刊本魏志の文面から節略されたと考えるには、あまりにも魏略逸文に類似し、かつ独自性のある記述が多い。

しかし私はこのような異本の存在には疑問を持っている。 実は太平御覧魏志の文面には、用語や文面などに整理された痕跡があり、より古い文面とは思えない部分が多いからだ。

倭國在帶方東南大海中,依山島為國,舊百餘小國。漢時有朝見者,今令使譯所通共三十國。 從帶方至倭,循海岸水行,歷韓國,從乍南乍東到其北岸拘耶韓國七千餘里,至對馬國戶千餘。 其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。所居絕島方四百餘里,地多山林,無良田,食海物自活,乘船南北市糴。 南渡一海一千里,名曰瀚海,至一大國,置官與對馬同,地方三百里,多竹木叢林,有三千許家,亦有田地。耕田不足食,亦行市糴。 渡海千餘里,至未盧國,戶四千,濱山海居,人善捕魚,水無深淺皆能沉沒取之。 東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚,有千餘戶,世有王,皆統屬女王。帶方使往來常止住。 東南至奴國百里,置官曰先馬觚,副曰卑奴母離,有二萬餘戶。 東行百里,至不彌國,戶千餘,置官曰多模,副曰卑奴母離。又南水行二十日,至於投馬國,戶五萬,置官曰彌彌,副曰彌彌那利。 南水行十日,陸行一月,至耶馬臺國,戶七萬,女王之所都,其置官曰伊支馬,次曰彌馬叔,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,其屬小國有二十一,皆統之女王。 之南有狗奴國,男子為王,其官曰狗石智卑。狗者,不屬女王也。 自帶方至女國萬二千餘里,其俗,男子無大小皆黥面文身。聞其舊語,自謂太伯之後;又云自上古以來,其使詣中國,草傳辭說事。 或蹲或跪,兩手據地,謂之恭敬。其呼應聲曰噫噫,如然諾矣。 又曰:倭國本以男子為王。漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐無定,乃立一女子為王,名卑彌呼。 事鬼道,能惑眾。自謂年已長大,無夫婿,有男弟佐治國,以婢千人自侍,惟有男子一人給飲食,傳辭出入。其居處,宮室樓觀城柵,守衛嚴峻。 景初三年,公孫淵死,倭女王遣大夫難升米等言帶方郡,求詣天子朝見,太守劉夏送詣京師。 難升米致所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹。 詔書賜以雜錦采七種五尺,刀二口,銅鏡百枚,真珠、鉛丹之屬,付使還;又封下倭王印綬。 女王死,大作冢,殉葬者百餘人。更立男王,國中不伏,更相殺數千人。 於是復更立卑彌呼宗女臺舉,年十三,為王,國中遂定。 其倭國之東,渡海千里,復有國,皆倭種也。又有朱儒國,在其南,人長三四尺。 去倭國四千餘里,又有裸國。墨齒國,復在其南,船行可一年至。

上記の太平御覧魏志の文面では、赤字のようにが追加され、官名の記載方法も青下線のように官曰に統一されている。 赤下線部分では其國女王國倭國に統一され、倭国以遠の地理が文章の末尾に持ってきてある。 これらは、現行刊本魏志が多くの原史料に依ることによる、記載の不一致や記事の順序の不自然さを整理した結果であろう。 この太平御覧魏志が、現行刊本文面に比べて先行するとは考えられないとの見解は、榎氏も述べているところである。(13)

ではなぜ魏略の逸文と、御覧魏志には共通点が多いのだろう。佐伯氏の対稿によって確かめられたのは、東夷伝の部分である。 これまで議論してきたように、三国志東夷伝はその骨格を魏略により、そこに記事を追加してできていたと思われる。 このことは魏略の完本が存在した時点では、明らかであり共通認識であったであろう。 また現在確認されている魏略逸文の、東夷伝部分は翰苑という類書の中にあることも重要であろう。

今なにがしかの類書中に、魏略東夷伝が引かれたとすると、それは整理節略され用語言い回しなどが変化したものになったであろう。 次に別の類書が作成され、そこに今度は魏志東夷伝が引かれたとする。 その場合類書の作者は、すでに先行類書に成立している魏略の節略文を参照するであろう。 なぜなら著者は三国志東夷伝が、魏略東夷伝をほぼ含んだ構造になっていることを知っているからである。 類書は一般に膨大なボリュームの著作であり、多くの場合現在の辞書類が、先行辞書の内容を参照するように、先行類書の内容を引いて、著作の労力を抑えようとする。 そのため先行類書の魏略節略文に、魏略に無い部分の魏志東夷伝の文章を節略して追加すれば済むと考えるのである。 このように類書は類書を引き、類書の系列を作る。 おそらく翰苑蕃夷伝は魏略を引いた古い類書を又引きしたものであり、太平御覧はその類書をもとに魏志東夷伝を引いた類書の系列にあるのであろう。

9.おわりに^

本稿では三国志東夷伝の原史料について考察してきた。 それはおそらく魏略をベースに、魏の起居註と王沈の魏書によって補い、晋代の史料からも情報を追加したものであったと思われる。 それらの原史料の異なる記事がどうして現在のような配置に置かれたのかは、大変興味深いことである。 しかしそれを知るには、魏略の再構成が必要になるであろう。 用語の不一致や、文脈の不整合、内容の重複などからある程度の推測はできるものの、残念ながらすべてを厳密に分類し、解明するのは困難である。

しかしながら、倭人伝には複数の原史料の層位の存在により、相互に整合しない、もしくは本来共存しない概念が存在するということを、注意喚起することはできる。 倭國や女王國のような、異なる原史料に由来する概念に関して、全体が一貫して書かれたとして理解を進めようとすると、結果的に大きな誤解を招く危険性があるだろう。

本稿のもたらす一つの有力な推論は、曹爽政権下での歴史記録は、司馬氏との政争の結果、大きな制約を受けているのではないかということである。 曹爽は史書にはまったくの無能のように書かれているが、これは公平な記録であるかどうかは怪しい。 曹爽政権下での成果のいくつかが、史書から葬り去られている可能性がある。 まさにその曹爽政権下での魏の使いの帰朝報告などは、倭人伝にはほとんど含まれていない可能性が高いのではないか。 特に里程部分は、地方にあって長い年月にわたって、積み上げられてきた記録の集成とみるのが妥当で、魏使の一行の行程記録とみなして、邪馬台国の位置論争に繋げるのは、あまり意味のある事では無いであろう。 それはその記述方式の複雑さや、音訳に使用された漢字などから、早くから指摘されてきたことであった。

謝辞に代えて

本稿を書くにあたって、かってyahoo掲示板においてなされた、三国志東夷伝の原史料に関する議論を大いに参考にさせていただいた。 匿名掲示板での発言の為、お名前を挙げることもできないが、特に魏の東方政策の変化、正始年中の倭の魏への朝貢が、曹爽政権下に置けるもので、政変によって大きな影響を受けた可能性、また外交記事が起居註に依ること、正始八年の記事に別資料が含まれること等は、同掲示板による情報である。 感謝を示すすべもなく、形ばかりの謝辞で代えさせて頂くこととする。

参考文献

  1. ^満田 剛 第一章 正史『三国志』と小説『三国志演義』;王沈『魏書』について
    三国志―正史と小説の狭間
  2. ^榎 一雄 
    『邪馬台国 (1960年) (日本歴史新書) 新書』
  3. ^満田 剛 『三國志』魏書の典拠について(巻一~巻十)
    『創価大学人文論集』 (14) 237-265 2002年
  4. ^shiroi-shakunage 難升米考 -三国志東夷伝の倭人名について-
  5. ^渡邊 義浩 第三章 1 倭国と曹魏の国際関係
    魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国 中公新書
  6. ^安部 総一郎 後漢時代關係史料の再檢討--先行研究の檢討を中心に
    史料批判研究 / 史料批判研究会 [編] (通号 4) 2000.06 p.1~43
  7. ^佐伯 有清 
    魏志倭人伝を読む(上) 歴史文化ライブラリー  吉川弘文館
  8. ^shiroi-shakunage 倭人伝における女王国概念 -三国志魏書東夷伝倭人条に見える女王国-
  9. ^李 炳鎬/井上 直樹 韓国古代都城の立地環境 高句麗と百済を中心に
    都城制研究(9)東アジア古代都城の立地条件 (奈良女子大学古代学学術研究センター)、pp.77-106 2015-03-27
  10. ^末末 保和 太平御覧に引かれた倭国に関する魏志の文について
    日本上代史管見 笠井出版印刷社, 1963
  11. ^三木 太郎 邪馬台国問題の基準
    魏志倭人伝の世界 吉川弘文館
  12. ^佐伯 有清 『太平御覧』所引の『魏志』-特に朝鮮関係の記事をめぐって―
    『朝鮮歴史論集』 龍溪書舎 1979・03
  13. ^榎 一雄 太平御覧に引く三国志について
    国書漢籍論集


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