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難升米考

-三国志東夷伝の倭人名について-



概要

三世紀の中国史書三国志の東夷伝には、同時代の日本列島に住んでいた倭人の人名と思われるものが記録されている。 三国志など中国史書の、その当時の倭人の言語の固有名詞を表したと思われる漢字表記については、長い研究の歴史があるが、いまだにその意味が明らかになっていないものが多い。 人名については、吉田孝氏がその著作日本の誕生の中で、師升都市牛利について触れたものが比較的新しいが、それでもすでに20年以上が経過している。 本稿では、それ以前に三木太郎氏がその著作倭人伝の用語の研究に納められた、伊聲耆掖邪狗についてをもとに、三国志東夷伝の倭人の人名には職掌と思われるものが含まれているとの仮説を立てた。 この仮説に基づき職掌とした部分を、同じく三国志東夷伝中に現れる官名を表したと思われる表記や、記紀に残る人名や職掌と思われるものと比較することで、その意味を推定した。 その結果、各使者の職掌と三国志東夷伝中に記載された、魏と倭の外交の上で果たした各人の役割の間に、思いがけなく良い対応関係があることをみつけた。 そればかりでなく、これまでその理由が判然としなかった外交経緯に関しても、解釈可能になることが分かった。



目次

 

1.はじめに^

三国志東夷伝倭人条(以下倭人伝)には、幾人かの倭國の使者の人名と思われる記載がある。 これは後漢書東夷伝に現れる、帥升を除けば、記紀等の文献記録に残される以前の、日本列島に住んでいた人々(以下倭人)の人名記録としては最古のものである。 しかしながらこれら倭人の人名については、音韻を表したと思われる漢字表記以外に何の記録もなく、その意味を探るのは困難を極めた。 固有名詞の音価に関しては、有坂秀世氏以来多くの言及があり、比較的近年では森博達氏が、その音韻体系が上代日本語に近いものであることを明らかにされた。(1) この事実は、倭人伝の固有名詞を解読するに当たり、極めて強力なヒントである。 しかしながら倭人伝の時代と、まとまった文献史料がある記紀の時代とは、五百年に及ぶ時間差があり、いまだ意味のわからない語が多い。

三木太郎氏はその著作の中で(2)、倭人伝正始四年の使者について考察しておられる。

三国志東夷伝:其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。

現在伊聲耆掖邪狗は、伊聲耆,掖邪狗の二人の使者の人名であるとされることが多いが、次使と見なされる掖邪狗には率善中郎將印綬が与えられたにもかかわらず、正使と見なされる伊聲耆に対しては何の官位も与えられないことや、冒頭に一度記載されただけで二度と現れないこと等から、氏は本来伊聲耆掖邪狗は一人分の名前で、前半部分の伊聲耆は二度目以降の記述では省略されたと考えられた。(補足1) 都市牛利についても、一度目だけ都市牛利とし、二度目以降は単に牛利として都市を省略していることや、中国人使者の張政に対して、二度目以降の記述では姓のを省略して、名ののみで記載されているのと同じことであると言う。 実際二名の使者の名前が確認できるのは、引用された詔書の中だけであり、それ以外の地の文では一名であるか二名であるか確定できる場合については、常に一名の名前のみを挙げているのである。

三国志東夷伝:景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。

三国志東夷伝:臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。

しかしそうであれば、その当時の倭人の人名には、中国人が姓として扱う様な部分と、名として扱う部分があったことになる。

一方この問題には強力な反論がある。 もしも倭人の名前に性質の異なる二つの部分があり、中国人が前半部分を名を修飾するものと考えて省略したとするならば、何故難升米は二度目以降省略されないのか。 吉田孝氏は、倭人伝の中でも詔書を引用した部分はもっとも信頼性の高い部分であるとして、その中では難升米は省略されず、都市牛利は二度目以降牛利となっていることから、都市は大夫に相当する別の中国の官名であると考えられた。(3) すなはち、初回の大夫難升米は二回目以降難升米に、都市牛利牛利に省略されたとするのである。 吉田氏は実際に都市の印が存在したことも示され、これは現在もっとも有力な仮説であろう。 ただし慎重な吉田氏は、都市が史料にほとんど現れない地方の下級官であり、倭人伝中の大夫とのバランスが悪いことを指摘されている。 確かに引用された詔書のみを見れば吉田説は強力であるが、本当に地の文は詔書に比べて、それほどに信頼性が劣るのだろうか。

多く受け入れられている説では、倭人伝の使者は常に正副二人の名が記されているとされている。 しかし隋唐以前の中国史書では、使いを出した主体の名が記されることはあっても、異民族の使者の名前が記録されること自体珍しい。 時代の近いところでは隋書の東夷伝の百済の条に、使者の名前が記されてはいるが、それも正使までである。 上に挙げた地の文の人名の数の確定できる二例をみれば、倭人伝であるかその原史料の著者であるかは分からないが、正使の名前だけを採録する方針だったことが分かる。 実際最初の遣使について見れば、引用された詔書の中では正副二名の名が見えるのに、地の文では正使の名前のみが挙がっているのである。 このことから、副使の名前が記録されたのは、寧ろ詔書の全文を引くという、特殊な条件で生じた例外的な事象と考えられる。 三木太郎氏の言うように、伊聲耆掖邪狗はやはり一人の人名と考えるべきではないだろうか。 もしそうであれば難升米に関しては、実は省略されなかった別の理由があることになる。

2.難升米^

難升米の名前に修飾的な部分があり、それにもかかわらず他の人名と異なって、省略されなかった理由は何が考えられるだろうか。 省略された都市牛利,伊聲耆掖邪狗と比べた場合、難升米はもっとも短い名前である。 これだけが理由ではないだろうが、何か関係がないだろうか。 難升米が省略されるとすると、升米ないしが考えられる。 の場合名(な)が一文字となる。 漢書王莽伝によれば、王莽は二名の禁で漢人に一字名を強制したと言う。 その後漢人の名(な)は次第に一文字になってゆき、魏晋期はそれがもっとも浸透した時期であるという。(補足2) 異民族に対して一文字名が禁止されていたわけではないとは言うものの、漢人の名(な)がわずかな例外を除いて一文字になった魏晋期、中国人が名(な)の字数をもって漢人か否かを判断する様になっていた可能性は高い。

一般に文章を作成する場合、重複を避け省略するのは、記述を簡潔にし読みやすくするためである。 省略によって余計な誤解が生じる場合は、省略を避けることになる。 難升米は中国での地位を表す大夫を自称していたのであり、この人物の名(な)を一字名にすることは、あらぬ誤解を生む恐れがあったのではないだろうか。 最初は詔書中でそのような配慮が行われ、それが年次記事にも反映されたのではないだろうか。

しかし難升米の名(な)の部分が、のみとするのは不自然ではないだろうか。 名(な)がであるとすると、それはどのような発音を表しているのだろうか。 が上代特殊仮名遣いで、どのような音を表すか万葉仮名を参考にすると、それは(乙)(甲乙は上代特殊仮名遣いの甲類乙類)であることが分かる。 (乙)一音で表される代表的な単語のひとつが、である。 日本書紀雄略紀には、物部連目と言う人物が登場する。 物部は氏(うぢ)、連は姓(かばね)、目が名(な)である。 で表されるような名(な)が、古代に実在したことが分かる。

もしもこのような分析が正しければ、倭人名の省略は機械的に行われたのではなく、その意味を理解して行われたことを物語る。

難升米の名(な)に先行する修飾詞難升はいったい何であろうか。 物部連目との比較で見れば、それは氏(うぢ)姓(かばね)に相当する事になる。 吉田氏によれば姓と名を連称する制度は、古代中国とローマという特定の社会で発生したものであり、それが周辺民族に波及したものであると言う。 倭國において姓名の連称が始まるのは、五世紀のいわゆる倭の五王以降だとするのである。(4) しかし三世紀倭人の人名の構造について、ほとんど知見の無い中で、先入観をもって見ることは危険であろう。

五世紀以降に下る資料ではあるが、江田船山大刀銘文では治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖と、名(な)の无利弖=むりて典曹人という職掌を冠している。 同じ時期の稲荷山鉄剣銘文に見える名前については、一見すると修飾詞名(な)の構造は見えないが、鉄剣銘文は、杖刀人首としての奉事根原を述べたものであるから、何と読むのかわからないが杖刀人首乎獲居と名のったかもしれない。 また乎獲居臣は後世の姓(かばね)の原型となるものであろう。(乎獲居臣を何と読むか参照) 日本書紀で眞鳥臣が、雄略即位前紀では正式名として平群臣眞鳥と書かれるように、氏(うぢ)を欠いた形ではあるが、正式名としては臣乎獲居=お(乙)(甲)をわけ(乙)であったかもしれない。 実際物部連目もこの即位前記に現れるのであるが、日本書記の他の場面では目連のように姓(かばね)が後ろに付いているのである。

三世紀に置いては、倭人伝の官名の卑狗,多模,彌彌のように、おそらく後世のにつながると思われるものが現れる。 これらは官名であるが、上代文献では大彦、太玉、八井耳のように多くは名(な)に接尾しているように見える。 しかしについては日子座=ひ(甲)(甲)ゐます,彦国葺=ひ(甲)(甲)くにぶくのように、名前の前に出る場合も多い。 これは古い時代に、が後世の姓(かばね)に相当する、王権内の職掌を表した名残ではないだろうか。 倭人伝の官名には狗古智卑狗のように、卑狗に修飾詞を冠したものがある。 このような修飾詞名(な)の形式に該当する例は、御間城入五十瓊殖活目入五十狹茅等、記紀には数多く見出すことができる。 この様な職掌の例は他に縣主,國造,稲置等数多くあり、それぞれ春日縣主大日諸大倭國造吾子篭宿禰闘鷄稻置大山主等、修飾詞職掌名(な)の例証に困らない。 三世紀に置いても、このような修飾詞職掌名(な)の形式が、一般的であったと考えてよいのではないだろうか。

3.三世紀の職掌^

では難升が職掌であるとすると、それはどのような意味なのだろうか。 これを考えるに際し、倭人伝の官名を参考にすべきである。 邪馬臺國の官名には彌馬升,彌馬獲支が見える。 この二つの官名から単語として彌馬,升,獲支が抽出できる。 彌馬は、という職掌を修飾していることが分かる。 そうすると、官名の順からして彌馬升彌馬と言う何かの長の地位にある官であることになる。 同様に難升と言う何かの長であることになる。(補足3)

森博達氏によると、は子音終わりの音節で、日本語を表すのに適切ではないという。 倭人伝の卑彌呼は、三国志帝紀では俾彌呼となっている。

三国志三少帝紀齊王:冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。

倭人伝では人編がはずされていることが分かる。 これは後漢書に置ける倭奴國が、志賀島で発見された金印では委奴國となっているのに似た事情と考えられる。 卑彌呼難升米は、最初俾彌呼儺升米などと表記されたが、理由は分からないが詔書中で人編がはずされ、倭人伝の表記は詔書に合わせたのではないだろうか。(補足4)

このに関して、森博達氏は倭人伝の奴國との関連を指摘されている。(補足5) 森博達氏によれば奴國奴=なが、魏の時代には妥当な表記ではなくなっていたと言う。 もしも難升米が古の奴國の出身であることが分かった場合、中国人にとっては大いに関心がわいたであろう。 文献には残されていないがその出身地はと表記された可能性がある。 詔書中では人偏を省略されたが、本来のの表記は、難升米の帰国などに際して北部九州に伝わり、儺縣などの表記の起源になったのではないだろうか。 北部九州の地名には、倭人伝と日本書紀地名に文字の共通性がある。

倭人伝日本書紀
對馬對馬
一支壱岐
末盧末羅
伊都伊覩

北部九州では弥生期から、漢字を利用したと思われる考古学的な証拠があり(5)、三世紀までに確立した表記が、後世に伝えられた可能性は十分にある。 もしも森博達氏の洞察が正しければ、難升は儺の長官、すなわち儺の領主を表すのであろう。 もしもそうだとしたら、難升米が周代の領主を意味する大夫を自称したことには、それなりの意味があったことになる。 実は彌馬もまた地名を表していた可能性がある。(補足6)

ここで当然次の様な疑問がわく。 難升米奴國の首長であるのなら、なぜその職掌が奴國の官名の兕馬觚,卑奴母離に関連しないのだろうか。 理由の一つは、官名の記された状況と人名の記された状況の違いにあるのではないだろうか。 倭人伝の官名は、帯方郡から倭國に至る里呈に現れるそれぞれの国の説明として現れる。 一方人名は、倭國との外交記事の中に現れる。 実は里呈に現れる卑彌呼の代名詞女王と、外交記事に現れる倭女王倭王の違いや、里呈に含まれる音訳漢字の様相が、魏時代の中央音とは思えないことから、二つの記事は異なる環境で書かれたと考えられる。

三世紀倭國の王卑彌呼は、共立によって王位についた。 国々は自主的に倭王権の祭祀に従ったのであろうが、倭國が全体として秩序をもって動くために、それぞれの国の首長は倭國内部の職掌を分担することになったと思われる。 それは倭國全体の職掌であって、それぞれの国々の官制とは直接結びつかないものになったであろう。

そのような倭國全体の職掌が、倭王が都した邪馬臺國の官制の影響を受けるのは自然なことであろう。 邪馬臺國の官制の第二位が彌馬升であり、その修飾部分のおそらくは地名と思われる彌馬を除いた職掌名がである。 このことから難升米は、倭國全体についての第二位の職位にあったことが想像される。

4.上代人名との比較^

もしも難升,彌馬升地名で、ある地位を表したものであるなら、上代の記録にそれが残っていないものだろうか。 まず倭人伝の字については、日本書紀神功紀に魏志云として引かれた難斗米を根拠に、本来の字であったとする意見がある。 しかし字は同じ倭人伝の彌馬升のみならず、後漢書東夷伝にも帥升として知られる、固有名詞とおぼしきものの表記に残っている。 おそらく字が正しいであろう。 字が日本語を表した場合に想定される音節として、森博達氏は(乙)を挙げられている。 (乙)一音節の単語としては、十、衣、麻、背などがあげられる。 ここで背に注目してみると、これの母音交替形にがある。 上代日本語に置いて、夫を背=せと呼んだことはよく知られているが、その母音交替形である背=そ(乙)にも類似した意味があったのではないだろうか。 升=そ(乙)とすると、地名にはその地域の、男性首長の意味があったのではないかと考えうる。 ここから難升米を、と言う地域の男性首長で、名(な)をと言ったと言う解釈が生まれる。

ここで思い起こされるのが、古事記のヤマトタケル伝承に現れる、男性首長の熊曽建=くまそ(乙)たけ(甲)である。 熊曽建=くまそ(乙)たけ(甲)は古事記では、西方のまつろわぬ民熊曽=くまそ(乙)の族長であり、建=たけるはその名(な)である。 もちろん熊曽建=くまそ(乙)たけ(甲)は伝説上の人物であり、建=たけ(甲)はしばしば八十建=やそ(乙)たけ(甲)などとしてあらわれる一般表現で、実在性は疑わしい。 しかし建=たけ(甲)が、ヤマトタケル伝承で名(な)として扱われるのは、伝承の中核的部分であり軽視できない。 もしも熊曽建=くまそ(乙)たけ(甲)が、本来は熊=くまと言う地域の男性首長建=たけ(甲)の意であるとすると、難升米との非常に良い一致となる。 儺も熊も、日本書紀にそれぞれ儺縣、熊縣として現れる古い地名でなのである。 難升米は日本書紀風に書けば、儺襲目ということになろうか。 熊曽=くまそ(乙)が民族名を表すのは、本来地名でその地域の男性首長を意味したものが、次第に意味を転じ、その地域にすむ人々を表すようになっていった可能性がある。(補足7)

ここでもう一つ関連すると思われるのが、古事記に葛城長江曾都毘古、葛城之曾都毘古、日本書紀に葛城襲津彦、日向襲津彦として現れる、曾都毘古=そ(乙)つび(甲)(甲)である。 曾都毘古=そ(乙)つび(甲)(甲)を、上代の格助詞とすると、その前に来る曾=そ(乙)は場所、時間、属性である。 曾=そ(乙)が、男性族長を表すなら、曾都毘古=そ(乙)つび(甲)(甲)は族長である男の意味になる。 曾=そ(乙)は本来は男性首長であるから、曾都毘古=そ(乙)つび(甲)(甲)は重複表現になるが、曾=そ(乙)の原義が失われ、単に族長あるいは熊曾の場合のように、一族の意味となったことによって生じた名(な)であろう。 曾都毘古の前に葛城長江あるいは日向のように、地名が先行することも熊曽難升に共通する。

5.都市牛利について^

都市牛利は二度目以降の登場では、牛利と省略される。 本稿では牛利は名(な)と考える。 森博達氏によると、倭人伝の音訳文字には上代日本語に共通する性格があるというが、上代日本語とは違い、倭人伝では濁音始まりの漢字が語頭に使われたケースがある。 ただ氏の分析によると、この時代の倭人の濁音は鼻濁音であった可能性があり、単なる濁音に関しては本来の倭人後の濁音を表したものではない可能性があるという。 しかしは鼻濁音で始まる音である。

ここで字に関して考えたように、字の一部が略された可能性を考えてみよう。 例えばである。 が表しているとすれば(乙)となるが、実はは暁母字であって、もしも当時の漢人が表記したとしたら、日本語に当てることはないはずである。 ところが倭人伝にはほかにも暁母字が使用されている。 卑彌呼好古都國が該当する。 これは大きな謎ではあるが暁母字が使われていることは事実であり、牛利が本来は許利であり、(乙)をあらわしていた可能性はある。(6) (乙)であれば、上代文献には由碁理=ゆご(乙)り,伊斯許理度売=いしこ(乙)りと(甲)(甲)など(乙)に関連する人名が現れていて、古代人の名(な)として不自然ではない。

職掌の都市は何を表したのだろうか。 牛利同様にこの表記の表した倭語を考えると、(甲)ないし(甲)となる。 (甲)であれば、上代文献に現れる刀自と同音になる。 上代文献ではこれは女性の役割を表している。

都市牛利の性別に関しては何の情報もない。 海を渡った旅であれば男性がふさわしいとも思えるが、豊後国風土記の土蜘蛛八十女の伝説などにみるように、古代において女性の役割が幅広かったことを考えると断定しがたい。 また男性社会の中国では女性の使者は珍しがられたはずで、その形跡がないことから女性の可能性を否定できるようにも思えるが、そもそも倭國に女王を認めている以上、これも断定に至らない。 刀自は夫に代わって一家を切り盛りする存在であり、(7)語源は戸主ともいわれる。 三世紀には日本の戦国時代の家宰のように、男性が行っていた、あるいは男女を問わない職掌であった可能性もある。

私は最初の遣使の状況から、都市牛利は倭國の使者として難升米を補佐するためにつけられた存在ではなく、もともと難升米の身近にいて補佐する人物だったと考える。 最初の遣使においては、獻上されたのは男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈にすぎず、帥升生口百六十人、二回目遣使の生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢。、三回目遣使の男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。 と比較してあまりにも簡素である。半島交易の窓口である、儺の首長であった難升米は、公孫氏の滅亡に伴う半島の激動とその倭國にとっての重要性を、他の誰よりも先に感じ取ることができたであろう。 最初の遣使は、難升米の献策による急使で、卑彌呼の裁可が下るや、難升米の裁量下で迅速に行われたのではないだろうか。 その副使は王権中枢による人選をまたず、常日頃から難升米を支えてきた人物が選ばれたと考えるのである。

6.伊聲耆掖邪狗について^

三木太郎氏の考察によれば、伊聲耆掖邪狗伊聲耆掖邪狗と分解される一人の人物名を表す。 本稿の考察により、この人物の名(な)の部分は掖邪狗と考える。 掖邪狗は魏時の音価に近い中古音をベースに考えると、やくやくもしくはややくであろうか。

職掌の伊聲耆はどのように考えられるだろうか。 本稿の論旨に沿うならば、それは邪馬臺國の官名と何らかの関係があるはずである。 難升米の職掌がと分解できたのであれば、伊聲耆も何らかの複合語であるのかもしれない。 中古音ベースで読むならば、伊聲耆いせぎ(甲)のように読みうる。 日本語においてしばしばみられる、複合語における連濁の現象からすると、伊聲耆いせ(甲)のように分解できるのではないだろうか。 難升の例においては、難升が邪馬臺國の官名彌馬升から、修飾詞彌馬を外したと関連づいた。 難升と同様に考えるならば、に相当するものが伊聲であり、伊聲耆が関連する邪馬臺國の官名は、耆=ぎ(甲)から連濁を除いた、(甲)を含むものであろう。 邪馬臺國の官名で、(甲)を含む官名は伊支馬彌馬獲支である。(補足8)


伊支馬=いき(甲)
彌馬獲支=み(甲)まわき(甲)

(甲)を含む官名としては邪馬臺國以外に、伊都國の爾支=にき(甲)が挙げられる。 倭人伝の官名については、王がいると明示された伊都國、邪馬臺國、狗奴國においてはその構成が違うことが知られている。 それ以外の国々がすべて、正副の二官を挙げているが、王のある国においてはそれぞれ伊都國は三官、邪馬臺國は四官、狗奴國は一官のみとなっている。 女王の勢力下に属さない狗奴國に関しては、その距離も人口も記載されておらず、なんらかの情報不足で一官のみが伝わった可能性がある。 すなはち王の存在する国においては、その他の国には無い官があったと考えることができる。 邪馬臺國においては彌馬升,彌馬獲支が、伊都國においては泄謨觚,柄渠觚が他の国における正副の組み合わせをなしていると見なせる。 邪馬臺國では伊都國に比べてさらに官の数が多いが、共通点は正副の官の組み合わせの上に、もう一つの官が置かれていることである。 しかもその二つの官がともに、(甲)を含むことは見逃せない。 一見すると難しい対応ではあるが、伊聲耆伊支馬に対応するのではないだろうか。 伊支馬から(甲)を分離するとなると、必然的に伊=い支=き(甲)馬=まのように分解することになる。 支=き(甲)に対して前後から修飾がなされていることになる。 後ろからの修飾の例を記紀において捜してみると、味耜高彦根神天津彦根神に見られる彦根が、に対してが後接して修飾している例として挙げられる。 また倭人伝官名についてみても、彌彌に対する彌彌那利の例が挙げられよう。 語頭のは、上代日本語においては強調の意味を持つ。 彌馬升の修飾を外した地位をあらわす部分がであるように、伊支馬の該当部分は支=き(甲)である可能性を指摘する。

(甲)は記紀や風土記において、いざなぎ,おきなのような例で知られる、男性を表す接尾辞である。 難升=なそ(乙)の男性首長を表すように、伊聲耆=いせぎ(甲)いせの男性首長を表すのだろうか。 升=そ(乙)支=き(甲)の違いは、後者が王と密接なかかわりがあることである。

倭人伝によれば、倭女王卑彌呼は王になって以来、その姿を見たものは少なく、ただ一人の男子が出入りし飲食を給し言葉を伝え、その男弟が国を治めたという。 この時代の王が他者の助けなしに、政治的な指示を出すことが難しかったことを物語る。 ただ一人出入りする男子か、男弟であるかは別として、この王から切り離すことのできない官が支=き(甲)であるのではないだろうか。 本稿ではこの最上位の官を、男性最高祭祀官としておく。

さて伊聲耆はどのような立場にいただろうか。 伊支馬は邪馬臺國の官として、女王のもとを離れることはできない存在であろう。 一方倭人伝における伊聲耆は使者として魏に赴き、また大夫と名のることから領主、すなはちある地域の首長であるであることを思わせるのである。 おそらく倭國における首長間の役割分担としての伊聲耆は、いせという支配地を背景にした首長が、邪馬臺國における最高位である男性最高祭祀官に擬せられたものではなかったか。

倭人伝に記載された魏との外交記録には、謎めいた部分がある。 最初の使者難升米は、親魏倭王の称号と金印をもたらす大成果を上げたにもかかわらず、次回の使者は伊聲耆掖邪狗となっている。 しかも伊聲耆掖邪狗の使いの後、魏は難升米に対して黄幢をわたそうとしている。 使者とそれに対する応答が微妙にずれている。

この謎は伊聲耆掖邪狗が倭國最上位の祭祀官であったことで説明できる。 卑彌呼は最初の遣使によって、改めて魏との外交の重要性に気付いたのであろう。 倭國の最高官位であり、自らにもっとも近い伊聲耆掖邪狗を、本来名目の上では祭祀官であるにもかかわらず、外交の場に差し向けたのであろう。 黄幢についても次のように考えられる。 おそらく黄幢は正始六年に帯方郡に預けられたまま、韓族の反乱のため難升米の手には渡らずにいたようである。 倭人伝に記された最後の遣使である、正始八年の載斯烏越狗奴國との争いに関する報告に対して、張政が倭國に派遣され、難升米黄幢が渡され、檄告諭された。 このことから、本来黄幢には軍事的な意味があったと思われる。 最高位といえども祭祀官である伊聲耆掖邪狗の手には渡されず、武官である難升米に渡されたのであろう。

さてここでもう一度伊聲耆掖邪狗の名(な)掖邪狗について考えてみたい。 都市牛利の名(な)が(乙)であれば、木こり、石こりのような、切ることに関連した名(な)かもしれない。 それはある種の職業的な熟練者を意味している可能性がある。 都市の職掌が首長の補佐役だとしたら、名(な)は職掌に見合ったものである可能性がある。 難升米の首長であり、倭國の軍権の長であったなら、その名(な)の目は、軍事氏族である物部連の目に通ずるものがある。 すなはち本稿で名(な)と呼んできたものは、実は成人して職掌についてのち、それにふさわしいものをつけたものである可能性が出てくる。 ここから掖邪狗は祭祀官にふさわしい名(な)であった可能性を指摘できる。 掖邪狗という表記を見たとき、私は日本書紀に南西諸島の呼び名としてあらわれる、掖玖を思い起こした。 これら西南諸島の名産は貝殻であり、弥生遺跡からもごぼうら貝製の装身具をつけた人骨が見つかっている。 古墳時代に至っても装飾品として見られる、(8)やこう貝の語源は、七世紀以前の南西諸島の呼び名であるやくとも言われている。 私は掖邪狗とは、三世紀には存在したが上代には廃れてしまった南方産貝製の装身具で、その時代の祭祀官のみが身に着ける特殊な品ではなかったかと想像するのである。

7.載斯烏越について^

これまでの人名に対する本稿の考察に沿うならば、載斯烏越は一人の使者の人名であり、おそらくは職掌を含むであろう。 載斯烏越を二語に分けるとすればどのような可能性があるだろうか。 載斯烏越を倭語として読むとすると、魏時代の音価であればさしうをちであろうか。 もしそうであれば、烏=うは語中の単独母音であって、上代日本語の特徴に合わない。 もしもこの語が載斯=さし烏越=うをちと二語にはっきり区切って発音されるならば、問題は少ない。 あるいは江田船山大刀銘文のように、さしうをちのように伝えられたのかもしれない。 烏越=うをち/うをつ/うをのような名(な)は、上代文献ではあまり見慣れないものであるが、不自然と言うほどでもないだろう。(補足9) 載斯=さしが職掌だとすればそれはどのような意味なのだろうか。

記紀においてさしという名前を捜すと、日本書記の刺領巾=さしひれと言う名前に思い当たる。 刺領巾は住吉仲皇子の近習隼人である。 古事記においては曽婆訶理=そばかりとする。 井上辰雄氏によれば、訶理=かりは刀であり、領巾とともに古代において霊力のある品と見られていたもので、近習の名(な)としたと言う。(9) そうだとすれば、名前の前半曽婆=そば刺=さしは何を意味するのだろうか。 曽婆=そばはこの人物の職掌である近習と合わせて考えるとき、後世の側(そば)を意味するのではなかろうか。 そばが側の意味を持つ最初の事例は、10世紀の宇津保物語まで下るが、おそらく近い意味の言葉ではないだろうか。 そこから刺領巾=さしひれ刺=さしについて考えると、これは近習であり、おそらく記紀の物語の内容からすると、身辺警護を行う武人の意味ではないかと思われる。

載斯烏越の職掌が近習であったとしたら、どのようなことが見えてくるであろうか。 まずそれまでの使者の地位が首長であったことを考えると、載斯烏越の地位は全く異なることになる。 このことは、倭人伝の記述と矛盾がない。 載斯烏越は倭人伝正始八年の使者であるが、この度の使者はそれ以前と全く異なる。 まず前二者が大夫と名のり、魏の都に向かっているのに、載斯烏越は大夫とは記されておらず、向かった先は新任の帯方太守王頎のもとである。 それまでの使者が獻上物を持って行って、使者に対しても称号を得、多くの賜物を持ち帰っているのに対し、載斯烏越は何も持って行かず、何も賜らず、何の称号も得ていない。 明らかに様相の異なる使者である。 さらに、前二者が倭王の使者と明記されているのに対し、載斯烏越には遣使の主体が書かれていないのである。

載斯烏越を遣わしたのは誰なのだろうか。 それはこの遣使の結果を見てみればわかる。 この遣使に対し、太守王頎は帯方郡にとどまっていた黄幢を張政に託し、難升米に授けて檄告諭しているのである。 おそらく、狗奴國との抗争激化の状況で、難升米が太守王頎に遣わした急使であったのだろう。 緊迫した情勢のもと、難升米自身は倭國を離れられない。 半島もまた韓族反乱の余燼のくすぶる不穏な情勢であった。 このような中で使命を達成することができる、腕の立つしかも気心の知れて信頼できる人物に、倭國の命運を託したのではないだろうか。

8.王名について^

本稿の最後に、倭人伝に現れる王名に関して考えてみたい。 卑彌呼卑彌弓呼臺與の三人の王名が現れるが、二回登場する卑彌呼臺與については省略が見られない。 卑彌呼については卑彌と分解して、卑彌を後世の(甲)(甲)=姫と対応させる説、彌呼と分解して(甲)=日(甲)(甲)=巫女と対応させる説等がある。 しかし狗奴國の男王の名が、卑彌弓呼であって、前者は男王であることに矛盾し、後者は単語と想定した彌呼が分断されていることで説得力がない。

王名の意味に関して考えるために倭人伝の官名について見てゆこう。

国名官名1官名2官名3官名4
對馬卑狗卑奴母離
一支卑狗卑奴母離
伊都爾支泄謨觚柄渠觚
兕馬觚卑奴母離
不彌多模卑奴母離
投馬彌彌彌彌那利
邪馬臺伊支馬彌馬升彌馬獲支奴佳鞮
狗奴狗古智卑狗

官名に用いられた文字の出現回数を見ると

文字出現回数
7回
6回
5回
狗/母/離/馬4回
支/觚3回
爾/泄/謨/柄/渠/兕/多/模/那/利/伊/升/獲/佳/鞮/古/智1回

全部で57文字の内、が上位を占め、それぞれ一割以上になる。 これが王名にも使用されているのである。

さらに官名においてこの二文字は、彌彌のように重なる場合を除いて常に語頭に現れるが、王名においても同様である。 卑彌呼卑彌弓呼はこのように、人名というよりは官名に近く、その語頭の卑彌は、その当時の王権祭祀に関連する意味があったと考えるほうがよいだろう。 これは敵対する国の王名があまりにも似ていることからも分かる。 おそらく卑=ひ(甲)は太陽の彌=み(甲)は水を表すのだろう。

さて残る王名の臺與について考えてみよう。 卑彌呼卑彌弓呼は、王権祭祀に関わりのある王の称号であると考えられるが、臺與はその名称があまりにも異なる。 臺與卑彌呼の宗族であり、その祭祀を継承したものと考えられるので、臺與が王の称号とは思えないのである。 しかし臺與は二度目に省略されず、この中に職掌は含まれていないようである。

私は臺與即位の前後にわたって立ち会った魏人がいたのではないかと考える。 その人物は即位前の臺與の名(な)を聞く機会があったのではないだろうか。 おそらく臺與の王位に就いてのちの職掌は、敢えて言うとすれば王の称号の卑彌呼であろう。 臺與は十三歳にして王位に就いた。 魏人がその名(な)を聞いたとき、臺與はまだ職掌を持っておらず、親につけられた名(な)を使っていたのだろう。 臺與はいわば奇跡的に後世に伝わった、倭王の実名、すなはち中国風に言えば諱だったのではなかろうか。(補足10)

10.おわりに^

本稿においては、三木太郎氏の研究に導かれて、倭人伝の人名に職掌が含まれるという仮説を立て、三世紀の人名について考察してきた。 結果として、少なくとも仮説を信じる限りでは、いままですりガラスを通して見ていたような印象の、三世紀の魏と倭の外交交渉が、生き生きとしてよみがえってきた。 これは幸運なことに、一般になじみのない古漢字音に対する先人の長きにわたる研究を、森博達氏が自身の見解を加えたうえで、完成度の高い文章にまとめたものに出会うことができたためでもある。 仮説に仮説を重ね、感覚的なミスリードを伴うものであるかもしれないが、倭人伝解釈に新しい切り口を見せることができたと思っている。 これら先人の研究に感謝をするとともに、いまだに倭人伝の表音漢字に関する研究成果が、十分に利用されていないのではないかと訝る部分がある。 ただし、邪馬台国関連の文献的研究には長い歴史があり、膨大な論文が出されている。 著者は在野にあって、十分な研究史に触れることができず、すでに発表済みのものが含まれているかもしれない。 場合によってはすべてが発表済みであるかもしれない。 その場合はご容赦願いたい。

謝辞に代えて

本稿は数年前のyahoo掲示板投稿内容をもとに修正加筆を加えたものです。掲示板参加者及びインターネット上で意見を交換した人々から多くの啓示受けたことを感謝いたします。

補足

補足1^

伊聲耆掖邪狗に関しては、それ以前に内藤湖南も、伊聲耆,掖邪狗は実は同じ名前の繰り返しであると言う説を立てられていて、そのため二度目以降は省略されたとしていた。 文章の読みからは、伊聲耆掖邪狗を一人分の名前と考えることは、自然なことである。

補足2^

王莽の時代、匈奴の嚢知牙斯が自主的に名(な)をに改めたり、韓人のや、高句麗侯のなど、異民族にも一文字名が多くなる。 しかしながら、異民族に対してこのような強制は行われたわけではなく、異民族の名前は基本的に二文字以上が普通であった。

補足3^

倭人伝の所謂里呈の固有名詞については、上古音系の音価が現れることが知られている。 獲支は、一支を壱岐とすることで分かる通り、(甲)の音を想定でき、獲支は稲荷山鉄剣の獲居=わけ(乙)獲加多支鹵=わかたけ(甲)る/わかたき(甲)から考えるにわき(甲)と読めるであろう。 奈良朝文献には分別の意味でのわき(甲)の用例が見る。 わきが傍、側の意味に用いられる最古の例は、九世紀の霊異記に下るが、官名の順序からして副の地位にある意味と考えてよいだろう。 官位の順からその上位にくるはおそらく、獲支に対して上位の地位であり、彌馬升=み(甲)の長と考えられる。

補足4^

倭人伝の音訳文字は80%以上が小韻の主字であると言う。 小韻の主字とは、六世紀末に成立した切韻という韻書(漢字の発音を分類した辞書)において、同音の文字を集めたグループの最初に記載された文字である。 小韻の主字は同音の文字を代表する文字であり、多くの場合漢籍に頻出する文字である。 森博達氏の研究によれば、倭人伝の音訳文字には韻類やアクセント型にも偏りのあるという。 このことから倭語のある音に漢字を当てようとしたときに、音韻のみから判断して、最初に思いつく文字を当てたと想像される。 もちろん最初に思いつく文字には個人差があるであろうし、とうぜん音訳者が置かれた状況にもよってくるであろう。 全てが小韻の主字ではないのは、韻書を見て書いたわけではない以上当然のばらつきである。 ここでの音に最初に当てられたと想定した音訳文字は、全部で九字ある小韻の五番目で、頻出字とは言えない。 史記、漢書、三国志、後漢書には、同じ小韻の主字であるは合計45回あらわれるのに、は合計4回しか現れない。 の字義は驅疫であり、宮中でも年末にの儀式が行われたという。 倭人伝によると詔書が出されたのは十二月であるという。 この十二月に関しては諸説はあるが、詔書の下書きがなされたのは、年末のの儀式に絡む時期であった可能性がある。 の音を聞いたとき、音訳者の脳裏にの儀式が浮かんだのかもしれない。

補足5^

氏の指摘は、奴國と読めるのは上古音系の音価によるもので、魏の時代の漢字音では妥当ではないため、字を当てたとする。 氏は既に北部九州で、日本書紀の儺縣に通ずるの用字が成立しており、に通ずる字が使用されたとするのである。

補足6^

彌馬は素直に読めば(甲)のようになるであろう。 古事記には下記の様な人名が現れる。


御真津日子訶恵志泥命
御真津比売命

が上代の格助詞であるとすると、その前に来る語は、場所、時、属性のいづれかである。 このことから御真=み(甲)と言う地名が想定できる。 このほか御真木入日子印恵命、日本書紀雄略紀の御馬皇子など、(甲)と言う地名があったことを想像させる人名がある。 日本書紀雄略紀には他にも、御馬瀬のような地名があらわれ、(甲)が古くからある地名であることが分かる。 和名類聚抄にはこのほかにも、阿波の国美馬郡、伊予の国宇和郡三間郷、美作の国、加賀の国石川郡三馬郷など、多くの(甲)地名がある。 語源的には、(甲)は水間を起源とする、比較的一般的な地名であると言われる。 彌馬が地名を表す可能性はかなりあると思われる。

補足7^

熊曾については、風土記の球磨噌唹説が有力視されているが、中村氏の言うように一体の地勢でなく、また二つの地域名を連結させて部族名とするのも不自然である。(10) 日本書記には襲の国の物語として書かれているが、登場人物の川上梟帥や、厚鹿文、迮鹿文等の名前から、肝属川流域およびその南方と想定される。

記紀における熊曾は、仲哀天皇の時代までにしか現れない。 記紀の時代性はあまりあてにならないが、考古学者の白石太一氏(11)は大王墓級の古墳が現れる古墳群の移動と、記紀における天皇墓の伝承地の移動に、大まかではあるが一致が見られるとする。 概ね仲哀陵以降が、百舌鳥、古市古墳群の始まりとするなら、熊曾の時代はおおむね中期古墳時代初期までと考えられる。

肝属川流域は九州南部では前期古墳時代から前方後円墓の広まった地域であり、古事記に見えるまつろわぬ民の印象とは異なる。 おそらく和同風土記の時代に集められた、地方伝承をもとにしたものと思われる。 最上位者である渠帥者を厚鹿文、迮鹿文、その配下に熊襲八十梟帥があるとしながら、討たれたのが熊襲梟帥であり一貫しない。 また川上梟帥の伝承の位置づけも不自然である。 すでにあった熊曽建伝説に地方伝承をあわせたものであろう。 古事記の伝承はそれより古く、前期古墳時代の異文化地域を指していたと思われる。 九州では東海岸にくらべ、西海岸への古墳文化の浸透が遅く、球磨川流域は前期古墳時代には異文化フロントであったと考えられる。 球磨川流域は南部九州の東西を結ぶ重要な地域で、内陸に奥深く下流域は急流で、前期には古墳文化の浸透を拒んでいたのであろう。 この地勢はのちの蝦夷の北上盆地を思わせる。 この球磨川中流域こそが熊の地域であり、この地域の首長が本来熊曾であったと考える。 そこからおそらく西方のまつろわぬ民として拡大解釈されていったのであろう。 中期古墳以降はこの地域にも古墳文化が浸透し、熊曾も歴史から消えてしまうのである。

補足8^

邪馬臺國の官名に関して、森博達氏の見解を参考に、私見を交えると下記のように想像される。

官名読みの推定
伊支馬いき(甲)
彌馬升(甲)まそ(乙)
彌馬獲支(甲)まわき(甲)
奴佳鞮なかて

補足9^

古代人が鳥や魚など自然物を名(な)にしたケースは多い。 継体記に遡って紆嗚=うを(魚)の表記が見える。

補足10^

魏時の音価であれば、だよ(乙)のような音になるが、百済系文書における沙至比跪=さちひこ曾都毘古=そ(乙)つひ(甲)に当たるなら、同様に音訳に於て日本語の母音(乙)の混乱があった可能性があり(乙)(乙)も候補に入れられる。 第一音節は森博達氏の濁音に関する分析から清音を想定すると、古代の人名としては(乙)(乙)が相応しいであろう。 豊=と(乙)(乙)は近世に至るまで、しばしば女性の名(な)として使用されたが、記紀に於ては万幡豊秋津師比売や豊葦原などに見られるように、極めて神聖な用語と思われる。 倭人伝では臺與卑彌呼の宗族とされるが、生まれながらにこのような名を付けられるとすれば、貴種であり多くの期待を負う人物であったと思われる。

参考文献と参照リンク

  1. ^森博達 倭人伝の地名と人名『日本の古代1、倭人の登場』中央公論社、1985年
  2. ^三木太郎 伊聲耆掖邪狗について倭人伝の用語の研究』多賀出版、 1984年
  3. ^吉田孝 日本の誕生『倭の女王と交易-都市牛利と都市』岩波書店、1997年
  4. ^吉田孝 日本の誕生『大王(天皇)にも姓があった-東アジア世界の
    岩波書店、1997年
  5. ^近年北部九州での弥生期にさかのぼる硯の発見が相次いでいる。
    野村 大輔 本郷(124):2016.7東京 : 吉川弘文館 p14-p16
    〈文化財〉取材日記 アジアの中で見つめる九州 :
    伊都國の遺跡で出土した硯から 、2016年
  6. ^shiroi-shakunage 卑彌呼は何と呼ばれたか、2006年
  7. ^義江明子 刀自からみた日本古代社会のジェン ダ ー ――村と宮廷における婚姻、2011年
  8. ^木下尚子 南島貝文化の研究―貝の道の考古学
    法政大学出版局、1996年
  9. ^井上辰雄 熊襲と隼人 教育社歴史新書 日本史 8 新書、1978年
  10. ^中村明蔵 隼人の古代史平凡社新書、2001年
  11. ^白石太一 古墳と大和政権文藝春秋、1999年
  12. ^佐伯有清 魏志倭人伝を読む〈上/下〉邪馬台国への道 (歴史文化ライブラリー) 吉川弘文館、2000年
  13. ^三品彰英 邪馬台国研究総覧 創元学術双書、1996年


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