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馬韓7分の5区分の比定

−日本書紀神功紀四十九年条の考察−

内藤湖南氏の卑弥呼考には日本書紀神功紀四十九年条に関して

「又同年に出でたる布彌支(ホムキ)、半古(ハムコ)の地は、、馬韓傳に不彌國、支半國、狗素國、捷盧國の名見えたり。こは三國志が不彌支國、半狗國、素捷盧國とすべきを誤りて四國に分ちたる者なるべく、之を日本紀によりて正すことを得るは、實に奇と謂ふべし。」

という一文がある。 しかし、日本書紀と三国志のこの比較には疑問が残る。 なぜなら日本書紀の文面中のこのあたりの文面は

『於是其王肖古及王子貴須亦領軍來會時比利辟中布彌支半古四邑自然降服』

であって、三国志のこの内藤氏指摘部分の原文

『不彌國支半國狗素國捷廬國』

と比較した場合、いづれが国名の区切りを間違えやすいかといえば、日本書紀であると思われるからである。 魏志に即して日本書紀の文章を修正してみよう。

『於是其王肖古及王子貴須亦領軍來會時比利辟中布彌支半古?五邑自然降服。』

ここで五邑は

比利、辟中、布彌、支半、古?

?は脱落した文字である。 この後半三国を三国志と比較すれば

狗素=古?

となる。 「狗」と「古」程度の表記の差は、よく見受けられるものである。 では「素」に対応する文字は何か。 「素」と「盧」は声母が違うが同韻の声調違いである。 「斯盧」が「新羅」になるように、三国志の「盧」が日本書紀の「羅」に対応するなら、「素」に対応するものは、「羅」の声母を「素」に揃えた「娑」であろう。

古娑

のような地名は日本書紀にも、三国史記にも現れないが、近似した地名で

古沙

は非常に有名な地名である。 神功紀四十九年条で投降した四邑は実は五邑で

比利、辟中、布彌、支半、古沙

ではあるまいか。(注) 実は有力な証拠がある。 神功紀四十九年には引き続いて

『唯千熊長彦與百濟王。至于百濟國登辟支山盟之。復登古沙山。共居磐石上。』

とあって、千熊長彦と百濟王が辟支山と古沙山に登っているのである。 辟支山は辟中が降伏したのであるから理解できる。 古沙山に登ったのは古沙が降伏したからでは有るまいか。 ちなみに古沙は三国史記の古沙夫里で、唐代にはここに古四州として五県が置かれた。すなはち古沙は古四ともかかれたわけで、日本書紀の原文は

『於是其王肖古及王子貴須亦領軍來會時比利辟中布彌支半古四五邑自然降服。』

であって、この「四五邑」の錯覚が誤写を引き起こしたのではあるまいか。 本来の物語は七邑平定の後五邑投降であれば、数字的にも美しい。

もひとつ指摘できることは、このように考えると、時代の違う二つの文献に、布彌、支半、古沙と不彌國、支半國、狗素國という同一の国の並びが現れることである。 このことから推定するに、この三国は非常に密接に関連した地域にあったであろうと言うことである。 すると神功紀の五ヶ国は実は比利、辟中と布彌、支半、古沙の2グループに分けられ、辟中と古沙がその中心国であったと推定できるということである。 さらにもうひとつ加えるならば、このとき倭によって攻撃されたのは、南蠻忱彌多禮であって、済州島の可能性が強いとされている。 済州島は三国志の州胡とされ、馬韓の西にあるとされるところから、その多くの活動範囲が、半島西岸であったのであろう。 神功紀では済州島が百済に賜れると、自然に上記邑落が投降してきたことになっており、おそらく上記5ヶ国は半島西岸にあったのであろう。 さらに百済王の南下に伴ってこれらの邑落が投降したということは、おそらくこれらは概ね北から南に並んでいたであろう。

ここで不彌國、支半國、狗素國の比定を行おう。 狗素が古沙ならば、それは三国史記の古沙夫里=古阜郡=全北井邑郡古阜面であろう。 同書によれば古阜郡には領県が二つあり

皆火県=扶寧県=全北扶安郡扶安邑

欣良買県=喜安県=全北扶安郡保安面

地図でみれば海岸線に沿って半島を回り込み、北から皆火県、欣良買県、古阜郡の順である。 皆火県は新羅時代に改名されて扶寧県となったが、戒発という異称も残ったようである。 皆火から扶寧は導けない。 おそらく皆火と扶寧は本来異なる集落で、中心集落の変更による命名変更であろう。 新羅時代景徳王改名は、漢字の字義によったものが多いが、一部に元の地名の音感を残すものがある。 扶寧は不彌の音感を残しながら、字義にこだわった改名ではなかったか。 同じく欣良買県と喜安県も、中心集落の変更があり、喜安県は支半の音感を残しながら、字義にこだわった改名であると考える。

さて不彌、支半、狗素の三国は、馬韓の7分の5区分にはいる。 この区分の国名は

一番目の萬廬に関しても諸書に情報がある。 南斉書には

『建威將軍餘歴、忠款有素、文武列顯、今假行龍驤將軍、邁盧王。』

とあり、他に面中王、八中侯、弗斯侯が登場する。 また同じ南斉書の建武二年(495年)、牟大遣使上表曰として、邁羅王、辟中王、弗中侯、面中侯が登場する。 新羅が斯盧に対応するように、ここで邁羅王が邁盧王に対応すると考えてよいであろう。 邁羅に関しては、唐の時代の都督府一十三県 として、邁羅県があり、忠南保寧郡藍浦邑あるいは全北沃溝郡沃溝面などの候補が上がっている。 1995年、扶余宮南池遺跡より発見された木簡に「邁羅城」とあり、いずれにせよ扶余近郊であろう。 ここで馬韓の7分の5区分の国名を見渡すに、「萬廬」から一つはなれて全羅南道の「臼斯烏旦」があり、しかも「臼斯烏旦」よりも遅れてそれより北に不彌、支半、狗素の三国が現れるという複雑な状況を呈している。 先頭の「萬廬」以外の比定地はすべてその南にあるのだから、「辟卑離」を「萬廬」の南に見るのは自然であろう。 まさにそこに三国史記地名の碧骨郡=金堤郡=全北金堤郡金堤邑がある。 こここは唐代の辟城県もと辟骨とする場所で、日本書紀に辟中、辟城とする場所に他ならないだろう。 辟骨の骨はコルで、夫余系の地名で城または邑落とされ、韓系の城または邑落とする夫里=卑離を置き換えたものであろう。 しかしそこから臼斯烏旦は不彌、支半、狗素推定地を通り越して南の山中で、少々離れた印象である。

ここで日本書紀の記載から、比利、辟中、布彌、支半、古四が概ね西海岸を南北に並んでいると推定したことを思い出そう。 萬廬、辟卑離、不彌、支半、狗素の比定地が概ね海岸沿いに北から南へ向かっているときに、その間に挟まれた臼斯烏旦は光州近くの内陸部である。 ここにはおそらく、海岸沿いを南に行くルートとは別の内陸ルートが関係している。 辟卑離=金堤から夫安は近く、この間に1ヶ国は入らないだろう。 臼斯烏旦比定地の全南長城郡珍原面から、金堤まではかなり離れるため、ここに内陸の1ヶ国がはいるであろう。 残念ながら、一離に相当する地名はない。 歴史に登場する有名な地としては、顕宗紀の帯山城で、唐代の帯山県もと大尸山がある。 大尸の尸はl ないしliの可能性があり、大尸(tai li)が何らかの意味で一離(iet lie)と関連があるのかもしれない。 一離を全北井邑郡泰仁面の大山郡とすると、一離、辟卑離、狗素が唐の古四州五県に入ってくるところが、地域性から見て興味深い。 萬廬もまた古四州五県の一つ淳牟県=豆乃山県=全北金堤郡万頃面である可能性もあるのではないか。 古四州五県残る一県が、佐賛県=上漆県=全北高敞郡興徳面である。 これを捷廬国にあてる見方はどうであろうか。 あるいはやや離れるが、上老県=長沙県=全北高敞郡茂長面も有力かもしれない。

参考図


娜々志娑无のぺぇじ 百済関係地図 熊州
娜々志娑无のぺぇじ 百済関係地図 全州
娜々志娑无のぺぇじ 百済関係地図 武州




注1

すでに同様の説があるようである。

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