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馬韓7分の6区分の比定

−任那四県の考察−

馬韓7分の6区分の国名比定にあたり、国名表記に関してまとめておきたい。 ある程度の音の対応の認められるものをまとめる。

のように、口の開きの狭い母音から、口の開くの大きい母音への、ある程度体系的な変化が読み取れる。 この中でも特に

は切韻相当で、三国志の模韻が日本書紀、三国史記の歌韻に移っているケースで、倭人伝でも

に見られるものである。 おそらく表記に用いた字音体系によるものであろう。 このような字音体系の違いは、比定を行う際に大いに考慮すべきであろう。

さてまず馬韓7分の6区分の国名リストを概観しよう

このグループには定点とした比定地が二つあり

「牟廬卑離」は全羅北道南部の西海岸からやや内陸に入ったところ、「如來卑離」は栄山江流域の光州の南にある。 「牟廬卑離」の北には、全北井邑郡古阜面とした「狗素」があり、南に内陸に入れば、全南長城郡珍原面に比定した「臼斯烏旦」がある。 したがって、国名リストの配置は、高敞から海岸沿いに南に下るルートになると思われる。 終わりのほうにある、「如來卑離」の比定地から考えると全体の構想として、全羅道南部の西海岸を南下し、栄山江下流から遡上するコースが考えられる。

これを順次確認してゆこう。 まず「牟廬卑離」につづく「臣蘇塗」であるが、韓伝国名リスト中に臣の付く国名は「臣濆沽國」「臣釁國」「臣蘇塗國」「臣雲新國」の4ヶ国あり、いづれも馬韓で臣字は国名の頭に付く。 「臣蘇塗」は「臣+蘇塗」と分解でき、臣は何かの接頭辞の可能性が高いであろう。 一説によれば「小石索國」「大石索國」の「大」「小」同様、臣は字義によるとする。 一方、韓伝本文中に「又諸國各有別邑、名之爲蘇塗」とあるように、「蘇塗」は固有名詞の可能性が高い。 「臣蘇塗」は固有の地名「蘇塗」に接頭辞の付いたものとして「蘇塗」に関して考察してみよう。 固有名詞であるから、音訳として字音体系に考慮し切韻相当の模韻を歌韻に移し代表的な漢字を捜してあてると、「娑陀」のような地名になる。 これをみればまず思いつくのが、継体紀にみえる任那四県の「娑陀」であろう。

この「娑陀」の位置を先に述べた7分の6区分の配置の想定に立って考えると、全北高敞郡の南となって近年6世紀前半の前方後円墳の分布から、任那四県の想定される地域に重なる。 単なる地名の相似のみではなく、他の独立な要因から予想されるところにその地名が発見されるところに大きな意味がある。 さらに進んで、任那四県の内「牟婁」に関して考えてみる。 この地名は末松氏以来、全北高敞郡の「毛良夫里」などを比定地として想定されてきた地名である。 「毛良夫里」は「牟慮卑離」の比定地として考えてきたところで、先の字音体系の変化を想定すると「牟羅夫里」ないし「牟羅」の地名が想定され、「牟婁」とは音がずれる。 しかしながら、「古沙夫里」が「古沙夫」ないし「古阜」のように略されるケースを考えると、「牟羅夫里」から「牟羅夫」さらには「牟婁」への省略もありえなくないだろう。 そう考えると、三国志馬韓国名リスト7分の6区分は、「上多利」「下多利」「娑陀」「牟婁」の任那四県の地理的順を逆にたどっている可能性すらある。

さらに比定を進めて見よう。 「臣蘇塗」の次は「莫廬」で、これに字音体系の変化を想定すると「摩羅」のようになるがそのような地名は西海岸には発見されない。 南海岸に「馬老」という地名があるが保留しよう。 地名は変化することも消滅することも移動することすらあるため、特定の地名比定に深入りするのは得策でない。 比定する地名も、される地名も古い文献上にあるものであり、たかだか二字三字程度の文字を頼りの比定作業は、一字の誤写で簡単に吹き飛んでしまうことも考慮の必要がある。

「莫廬」の次は「古臘」であるが、字音体系の変化を考慮すると「歌臘」のような地名が想像されるが該当地名はない。 「阿老」という地名が西海岸に見える。 この地名は、一書によれば「何老」と書かれているが、それであれば可能性がありそうである。 「何」は声母がずれているが、半島系の古い文献では日本に良く似ていて、h系の子音とk系の子音が混用されることがある。

「古臘」の次は「臨素半」である。 字音体系の違いを考慮すると「臨娑半」、「狗素」が「古沙」に対応したことを考えると「臨沙半」となる。 「沙半」に関しては、百済滅亡後唐制のとられた行政区分に「沙半州」(半はサンズイ)があり、これとの関連が考えられる。 この唐代史料には、三国志に現れ、三国史記に現れない地名が現れる。 日本書紀の地名はさらに三国志に近く、百済人が古く文字化した地名が伝わっている可能性が高い。 日本書紀の「比利」などは、4世紀末の広開土王碑にも現れ、原史料の古さが伺える。 唐代史料はそれに次ぐもので、その位置づけは、7世紀資料として、8世紀資料の三国史記を上回るものがあるかもしれない。 「沙半州」の位置は、全羅北道高敞郡から全羅南道咸平郡におよぶ西海岸地方で、まさにいま馬韓7分の6区分の一部として想定される位置にある。 「臨素半」の臨の意味は分からないが、中世以降の韓語にはこのように日本語のラ行相当の音で始まる単語がないことを考えると、「臣」同様に表意的な使用であるかもしれない。

「臨素半」につづく「臣雲新」ないし接頭辞をはずした「雲新」には該当する地名は見つからないが、つづく「如來卑離」が栄山江の南側に有ることを考えると、栄山江流域と見るのが妥当であろう。 「楚山塗卑離」は「楚山塗+卑離」であろうから、「楚山塗」の漢字音推移「楚山陀」を見てみるが該当しそうな地名はない。

ここまで見てきて、「娑陀」や「沙半」のように、想定される位置に想定される地名が現れてくることは、地名比定の概観は誤っていないことを示唆するものであろう。 また馬韓7分の5区分と合わせてみるに、多くの国が海に近いところに現れ、内陸部は数が少ないように見える。 これは、その時代の邑落が海に近いところに多かったか、もしくは漢に通じた国々は海岸部に多かったことを意味するのだろうか。

参考図


娜々志娑无のぺぇじ 百済関係地図 熊州
娜々志娑无のぺぇじ 百済関係地図 全州
娜々志娑无のぺぇじ 百済関係地図 武州




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