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蛇鈕の金印

−中国史書に見る漢時の倭国−

はじめに

本稿は2006年6月にYahoo BBSへ投稿した内容を、HTML化したものである。

「東夷の王大海を渡る」を掲載するに当たり、その参考として掲載することにした。内容は2006年のBBS投稿と同じであり、筆者の現在の考えとは異なる部分がある。



目次


1.三国志に見る漢時の倭国

現在、三国志以前の倭人に関する情報を文献に求めるとすると、下記のものが挙げられます。

山海経 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」 蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。

論衡 「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草」 周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。

漢書 「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」 楽浪海中に倭人あり、 分かれて百余国をなし、 歳時をもって来たりて献見すと云う。

後漢書 「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」 建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。

「安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見」 安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。

こうしてみると、意外に文献情報があることが分かりますが、三国志倭人条からみるとわずかな情報に限られています。 しかし、後漢代以前の中国と倭人の交流は、三国時代の交流に影響を与えたでしょうし、三国時代の記録には、本来前時代に得た情報が入っている可能性があります。 三国志倭人条の情報を精査することで、その中に後漢以前の交流の情報を読み取ることができるかもしれません。 私はこれまで、倭人条で使用された用語、使用された表音漢字などから、倭人条成立のプロセスを考え、その中に三国以前の記述を見出すことに関心を抱いてきました。 しかし当然各記事がどのように成立したかは、推測の域を出ないもので、特に漢代の年号の入っているわけではない記事の、いったいどの部分が三国以前に遡るのかを決するのは、非常に困難な行為です。 そこで今回は三国以前の倭人に関する記録と、三国志の記録とを関連付けさせて、三国志中にある三国以前の倭人に関する情報を推定し、上記記録と合わせて、中国人から見た漢代の倭国像を、推理してみたいと思います。

2.文身記事の謎

三国志倭人条の文面の中で、その文脈がどうもうまくつながらないとされているところの一つに、倭人の文身に関して述べた部分があります。

「男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、断髮文身以避蛟龍之害。・・(中略)・・計其道里、當在會稽、東冶之東。」

この文は倭人の黥面文身について触れた後、漢書地理志越地の条を引いて「夏后少康之子」以下倭人の文身に触れ、最後に越にゆかりの深い会稽東冶でまとめています。 ところがその間に一見すると関係の無い文、「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。」、が挟まっているのが気にかかります。 佐伯有清さんの『魏志倭人伝を読む』の説では、魏略に見える「聞其旧語、自謂太伯之後。」が現倭人条には抜けているとして、

「男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。聞其旧語、自謂太伯之後。夏后少康之子封於會稽、断髮文身以避蛟龍之害。・・(中略)・・計其道里、當在會稽、東冶之東。」

であったのであろうとしています。 確かに魏略にあって、魏志に無ければ、裴松之の注が飛んできそうなもので、「聞其旧語、自謂太伯之後」が抜けている可能性は高いと思います。 この「聞其旧語、自謂太伯之後」の出所は大変に興味深いものがあるのですが、ここでは後に譲ります。 実は佐伯さんの説明で納得できるところはあるのですが、私にはどうしても今ひとつすっきりしないものが残るのです。 「黥面文身」「自謂太伯之後」が喚起するのは史記の一文

「呉太伯、太伯弟仲雍、皆周太王之子、而王季歴之兄也.季歴賢、而有聖子昌、太王欲立季歴以及昌、於是太佰、仲雍二人乃・刑蛮、文身断髮、示不可用、以避季歴。」

であって、ここから同じ史記の越王句践の話題を通して

「越王句践,其先禹之苗裔,而夏后帝少康之庶子也.封於會稽,以奉守禹之祀.文身断髮,披草莱而邑焉。」

漢書地理志の越地の条へつながるという訳です。

「其君禹後,帝少康之庶子云,封於會稽,文身断髮,以避蛟龍之害」

しかし漢籍中には

太平御覧 「其俗男子無大小皆黥面文身。聞其旧語、自謂太伯之後、又云 自上古以來、其使詣中國、」

晋書 「男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。」

ここではいづれも「又云」「又言」となっており、呉の太伯につながる伝説と、自ら大夫と言った伝説とは、別の伝説として分けて述べられているのです。 佐伯さんのように元の三国志の文面を考えると、他の史書中で「黥面文身」と「太伯之後」が結び付けられる理由が分からなくなります。

私には別の考えが浮かびます。 「太伯之後」が史記を喚起することで、文脈上の繋がりを取っているのなら、「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。」も何らかの史書を喚起することで、文脈上の繋がりを取っているのでは無いのでしょうか。 ではその史書とは何者か、倭人条では漢書地理志が引かれていることは有名です。 「太伯之後」が喚起するものが史記ならば、その史書は史記や漢書に匹敵するものでなければバランスが悪そうです。 三国時代に、史記、漢書と並んで高く評価された史書は、東観漢記であるとされています。 とすれば「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。」は、東観漢記を下敷きにしていると考えても、良いのではないでしょうか。 主に東観漢記を元にして書かれたと思われる、范曄後漢書では

「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。」

の記事が見えますから、おそらく東観漢記にも「使人自稱大夫」を含む奴国の奉貢朝賀記事が有ったのでしょう。 しかしこのような記事では、三国志倭人条の文脈はつながりが悪いままです。 もしかしたら東観漢記の奴国の奉貢朝賀記事には、もっと別のことが書いてあったのでは無いでしょうか。 その記事は三国志の記事の作者にとって、漢書地理志越地の条を引かせるに十分なものだったのでは無いでしょうか。 すなはち、東観漢記の奴国の奉貢朝賀記事には、奴国を越地に結びつける記述があったのではないでしょうか。

3.同時代の奴国観

さて、もし東観漢記の奴国奉貢朝賀の記事に、奴国を越地に結びつける記事が有ったとしたら、その当時の中国人は奴国をひどく南の国だと思っていたことになります。 それを裏付ける証拠はあるでしょうか。 まずまさに奴国奉貢朝賀と同時代の証言として、王充の論衡を見てみます。

異嘘第十八 「使暢草生於周之時,天下太平,倭人來獻暢草」

儒搗謫十六 「周時天下太平,越裳獻白雉,倭人貢鬯草」

恢國第五十八 「成王之時,越常獻雉,倭人貢暢」

ここでは倭人ははるか南方の越常氏と並立されています。 しかもその貢ずるのは暢草で、これは中国南方の産ではないかとされています。 このトピのhnさんはこの倭人を、経書にある鬱人ではないかとされています。 おそらく王充は周の成王時代の伝説の南方民族と、倭人を同一視しているものと思われます。 これは第一の証拠です。

また光武の授けた印は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されものとされ、蛇鈕の金印であることが分かっています。 朝日新聞社刊、週刊朝日百科「日本の国宝」の中で、高倉洋彰氏は 『「漢委奴國王」金印は蛇鈕で名高い。漢の印制に蛇鈕はないが、後漢から晋代の蛇鈕印が他に十二例知られていて、半通印の一例を除けば、南方の諸民族に与えた可能性が高い。「魏志 倭人伝」をみると倭の習俗が、ベトナムのハノイとほぼ同じ緯度にある海南島に近いと表現していて、中国は倭を南方の民族と誤解していたふしがある。したがって奴国王印の蛇鈕も南方諸民族用のそれとみられ、漢の倭についての地理観をうかがわせる。』 と述べておられます。 これは第二の証拠です。

すなはち奴国奉貢朝賀と同時代資料は、当時の中国人が奴国を南方の人々であると考えていたと思って、間違いないのではないでしょうか。 奴国が越地に属するものとして理解されていたとしても不思議は無いでしょう。

ここでその当時の中国人の想念の中で、倭国がどのようなものになっていたか考えて見ます。 戦国時代の山海経では倭人は燕地に属します。 また漢書によれば倭人は、幽州に属するものとして現われてきます。 倭人は漢の武帝の開いた、中国北方の窓口から現われてくるのです。 一方越地はこれまた漢の武帝の開いた、中国南方の窓口です。 その当時、後漢の楽浪と北部九州の倭人社会の間には、濃厚な交渉の継続のあとが見えますから、中国北方の窓口に倭人がいるという認識は、失われていないはずです。 もしも奴国が南の窓口に属するという観念があったら、その当時の中国人にとって、倭国は北の窓口から南の窓口、楽浪海中から越地の沖合いに向けて、南北に点々と続く海中洲島の上にあると理解して、不思議無いでしょう。 そして奴国が越地に属するとしたらそれは定めし、倭国の極南界と思われたでしょう。 范曄後漢書に見える極南界記事は、しばしば三国志の其餘旁国二十一国の末尾の奴国を、倭奴国と見なしたことによる范曄の挿入記事とされますが、三国志には最初のほうに、戸数二万で官名を伴った奴国が有るのですから、これはありえないことです。 むしろその当時の中国人の倭人観をあらわすもので、東観漢記に本来あったものでしょう。 極南堺記事が後世の挿入とされるもう一つの理由が、その記事の唐突さです。 しかしもとの東観漢記に下記のようにあったら、その唐突さは無かったかもしれないのです。

「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫。(奴国が越地に属することを示す記事)倭國之極南界也。光武賜以印綬。」

それではなぜ東観漢記の奴国奉貢朝賀記事にあった(奴国が越地に属することを示す記事)が范曄後漢書に採られなかったのでしょうか。

4.東観漢記の記事

東観漢記に奴国を越地に結びつける記述があったとして、それは何故、范曄後漢書に反映されないのか、その理由を考えて見ます。 まず「使人自稱大夫」の記事に関して考えて見ます。 私の想定が正しければ、この記事は東観漢記にすでにあったはずです。 そしてそれは三国志に引かれています。 すると范曄の参照した、東観漢記と三国志の両方に、同じような内容の記事が有ったことになります。 そこで范曄は重複を避けるために、一方を採ったのでしょう。 三国志記事では昔からの話になっていて、東観漢記の奴国奉貢朝賀記事にあれば、奴国の奉貢朝賀記事に残すのが自然と考えたのでは無いでしょうか。 では越地に属することを述べた記事はどうだったのでしょうか。 もしもそれが倭人の地理風俗に関する記事であって、東観漢記から三国志に引かれたとしたら、范曄にとっては同じようにだぶって見えたことでしょう。 范曄は重複を避けるために、少なくとも一方を削除したでしょう。 奴国奉貢朝賀記事に無いとしても、それはそのほかの記事、おそらく范曄後漢書前半の倭国の地理風俗に関して書いた部分に埋もれている可能性があります。 その記事は、つづく安帝永初元年の記事とのバランスから考えてそれほど長いものでは無いでしょう。 そして同時にその記事は、三国志作者に、漢書地理志越地の条を引かせるほどの、力のあるものでなければなりません。 そこで范曄後漢書前半の倭国の地理風俗記事のうち、そのような条件に当てはまるものを探してみると。

1:「男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。」 2:「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、タン耳相近。」

が浮かんできます。 そのうち「黥面文身」は中国史書中では、「自謂太伯之後。」に結び付けられていますから、これが東観漢記にあったとは思えません。 つまり候補2が有力になります。 さてほんとうにこの文は東観漢記にあったといえるのでしょうか。

5.後漢書三国志比較

そこで問題の記事が、三国志から来ているのかどうか心証を得るために、記事の内容を検討します。 よくみるとこの記述は、三国志の記述とくらべて、表記方法だけでなく、実質的な内容に差が有ることが分かります。 そこで後漢書の各文を、三国志の対応する文と比較して、実質的に内容の違う文を探して行ってみましょう。 (以下、漢:は後漢書、魏:は三国志。)

A漢:「倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、」 A魏:「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。」

ここは范曄が魏の時代の話を、後漢の時代の話にしている事がわかります。 内容は変わっていますが、その理由がはっきりしています。 「自武帝滅朝鮮」は漢書あたりからの推測が入っているのでしょうが、まさか「漢時」とは書けないので代わりに入れてあるのであって、この一文が無いと「使驛通於漢者三十許國、」を置くことが難しく、現在交流のある国の数を表現しづらいのでしょう。

B漢:「國皆稱王、世世傳統。」 B魏:「世有王、皆統屬女王國。」

この文は一見すると独自のように見えますが、対応する三国志の記述を生かすとしたらこうなるところでは無いでしょうか。 あるいは魏略に見える「其國王皆属女王也」が目に入っているかもしれません。 この時点では范曄は女王を出したくないのでしょう。 出せば三国志を読んでいるような読者は、三国志の時代を想起してしまいます。 范曄は女王を注意深く後から出します。

C漢:「其大倭王居邪馬臺國。」 C魏:「南至邪馬臺國、女王之所都」

女王を出さず、里程を省略して「邪馬臺國」について述べればこうなるでしょう。

D漢:「樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。」 D魏:「自郡至女王國萬二千餘里。」「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」

やはり女王を出さず、里程を省略して漢の時代のこととして書けばこうなるでしょう。

E漢:「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、タン耳相近。故其法俗多同。」 E魏:「計其道里、當在會稽、東冶之東。」「所有無與タン耳、朱崖同。」

内容が変わっています。 漢の時代だから地理をあいまいにしているのでしょうか。 三国志の「計其道里」は「萬二千里」に基づくものでしょう。 范曄は「萬二千里」を出していますから、「大較在會稽東冶之東」とする理由がありません。 また「與朱崖、タン耳相近。」では逆に地理的に限定していることになるでしょう。 「與朱崖、タン耳相近。故其法俗多同。」は「所有無與タン耳、朱崖同。」に比べると迂遠な表現になっています。 これも解せません。

F漢:「土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績爲[糸兼]布。出白珠、青玉。其山有丹土。」 F魏:「種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、[糸兼]緜。」「出眞珠、青玉。其山有丹、」

実質的に内容に差がありません。 産物の記述を一箇所にまとめているようです。

G漢:「氣温ドン、冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲。其兵有矛、楯、木弓、竹矢或以骨爲鏃。」 G魏:「倭地温暖、冬夏食生菜、」「其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。」

鐵鏃が抜けていますが、実質的に内容に差がありません。 ここでも、三国志でばらばらに成っている、産物の記述をまとめているようです。

H漢:「男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。」 H魏:「男子無大小皆黥面文身。」「諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」

実質的に内容に差がありません。 風俗の話をまとめています。 ここでは、三国志でばらばらに成っている、文身の記事をまとめています。

I漢:「其男衣皆横幅結束相連。女人被髮屈[糸介]、衣如單被、貫頭而著之」 I魏:「男子皆露[糸介]、以木緜招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈[糸介]、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。」

実質的に内容に差がありません。 風俗の話をまとめて簡潔にしています。

J漢:「並以丹朱[土分]身、如中國之用粉也。」 J魏:「以朱丹塗其身體、如中國用粉也。」

実質的に内容に差がありません。 ファッションというべき話を前項に続けています。 この記述は三国志では前項と離れたところに置いています。 ばらばらな場所にあった記事を集めています。

K漢:「有城柵屋室。父母兄弟異處、唯會同男女無別。」 K魏:「有屋室、父母兄弟臥息異處。」「其會同坐起、父子男女無別、」

内容に城柵が入っています。 これは韓条で「有城柵」が「有城柵屋室」に成っていることとかかわりがありそうですが、卑弥呼のところで城柵が現われることと合わせて、まとめた表現をしている可能性があります。

L漢:「飮食以手、而用ヘン豆。俗皆徒跣、以蹲踞爲恭敬。人性嗜酒。多壽考、至百餘歳者甚衆。」 L魏:「食飮用ヘン豆、手食。」「皆徒跣。」「傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。」「人性嗜酒。」「其人壽考、或百年、或八九十年。」

実質的に内容に差がありません。 ばらばらな場所にあった記事を集めています。

M漢:「國多女子、大人皆有四五妻、其餘或兩或三。女人不淫不ト。又俗不盜竊、少爭訟。犯法者沒其妻子、重者滅其門族。」 M魏:「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不ト忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸。」

内容に「國多女子」が追加されています。 この部分は追加された情報です。

N漢:「其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞爲樂。」 N魏:「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。」

三国志では喪主が肉を食べず他人が歌舞飮酒します。 後漢書では家人が酒も食事もとらず、等類は歌舞を楽しみます。 ほぼ同じ内容の言い換えと行ってよいと思います。

O漢:「灼骨以卜、用決吉凶。」 O魏:「其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火[土斥]占兆。」

まとめているだけですね。

P漢:「行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰「持衰」。若在塗吉利、則雇以財物;如病疾遭害、以爲持衰不謹、便共殺之。」 P魏:「其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。」

まとめているだけですね。

Q漢:「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」 Q魏:なし

ここは新情報。

R漢:「桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王。侍婢千人、少有見者、唯有男子一人給飮食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衞。法俗嚴峻。」  R魏:「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」

一見すると新情報があるようですが、同じ内容です。 范曄はここで初めて女王を出してきています。 「桓、靈間」は時代を漢代にするためでしょう。 また「倭國大亂、」の「大亂」は「桓、靈間」に引かれたものでしょう。 ここで范曄は「其國本亦以男子爲王」とは書きにくいと思います。 漢の時代には男の王がいたはずですが、現在女王であることが前提になるから「本亦」とは書きづらいと考えるのです。 また漢の時代のこととして「以男子爲王」も書けないと思います。 男が王になるのは当たり前だからです。 これに代わり「卑彌呼」につながる直前情報として「無主」を入れたのであろうと推理します。 「法俗嚴峻。」は三国志で省略した部分に「一大率」や「於國中有如刺史」を含む部分があることによると思われます。 ここで初めて漢末に女王が立ったことを宣言できました。

S漢:「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國。人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。」 S魏:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

基本的には同じなのですが、三国志で女王国の南になっている、女王に属さない狗奴国が、東になって現われています。 これは新情報です。

T漢:「會稽海外有東[魚是]人、分爲二十餘國。」

これは漢書からの引用。

U漢:「又有夷洲及セン洲。傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬莱神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至セン 洲者。所在絶遠、不可往來。」

これは三国志でも呉志からの引用でしょう。

こうして三国志および漢書によらない情報として下記のものが抜き出せます。

E漢:「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、タン耳相近。故其法俗多同。」

地理的情報に差異。

K漢:「有城柵屋室。父母兄弟異處、唯會同男女無別。」

「城柵」追加。

M漢:「國多女子、大人皆有四五妻、其餘或兩或三。女人不淫不ト。又俗不盜竊、少爭訟。犯法者沒其妻子、重者滅其門族。」

「國多女子」追加。 范曄の誤解による追記とされますが、果たしてどうでしょうか。 古代の中国人は、南の方に行くほど男性は早死にし、女性の比率が高いという観念がありました。

Q漢:「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」

漢書固有の情報です。

S漢:「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國。人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。」

拘奴國の位置変更。

おそらく、「國多女子」や拘奴國の位置に関しては、范曄の入手した倭国に関する新情報(風聞のごときもの)があったと思います。 Kの城柵に関しては、卑弥呼の所に現われた情報をまとめているだけかもしれません。 これらは東観漢記にあった情報ではないでしょう。

Qの建武中元二年以下の情報は東観漢記から採ってきたと考えるのが普通でしょう。 こう見るとEの地理情報は、やはり東観漢記から持ってきたと考えられないでしょうか。

憶測が過ぎると言われるでしょうが、東観漢記の奴國奉貢朝賀記事を次のように推測してみます。

「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、タン耳相近、倭國之極南界也。光武賜以印綬。」

このような東観漢記の記事があった場合、中国史書の記述の相互関連や、その文面の成立をどのように考えることができるでしょうか。

6.東観漢記と後漢書、三国志の比較

推定した東観漢記と三国志から後漢書が成立する状況を考えてみます。 東観漢記の奴國奉貢朝賀の記事に現われる地理的記述は、どうして范曄後漢書では、前半の邪馬臺國の地理的記述として使用されているのでしょうか。 三国志の奴国は、邪馬臺國とは行程にして二ヶ月以上も離れているのです。 これには三国志にある、其餘旁國の奴国が重要な働きをしていると思います。 東観漢記の奴國は極南界に有るはずです。 三国志の最初に出てくる奴国は、この条件に合いません。 当然東観漢記の奴國は、三国志の「此女王境界所盡」の直前の其餘旁國の奴国であると范曄は考えるでしょう。 その国は詳細は分からないけれども、女王の都する国の傍らにあるのです。 したがって范曄にとっては、東観漢記の奴国の地理的記述を、邪馬臺國の地理的記述とすることに問題はないはずです。 何より、先行史書の三国志には、東観漢記の奴国の地理的記述と、女王国の地理とが比較されているのですから保障付です。 范曄にとっては、東観漢記の奴國奉貢朝賀の記事に現われる地理的記述は、後漢代の貴重な記録ではあるけれども、それを奴國の地理的記述として残しておくよりも、女王国の地理的説明として使いたかったのでしょう。

一方で推定した東観漢記から三国志が成立する状況を考えてみます。 三国志倭人条では、冒頭でまず漢書地理志を引いて、「今使譯所通三十國」を説明した後、里程の記述に入ります。 そして里程が終わると、「男子無大小皆黥面文身」で風俗の話をはじめ、ここで私の想定する東観漢記を喚起する一文「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。」が現われます。 作者はここでその次に続く文が「其地大較在會稽東冶之東」であることを意識しつつ、漢書地理志越地の条を引き「文身」の説明をします。 つぎに、三国時代の新情報である「自郡至女王國萬二千餘里」をもとに、「計其道里、當在會稽、東冶之東」であると、下敷きにした東観漢記の記事を確認していることになります。 私は「計其道里、當在會稽、東冶之東」には、その当時の不確かな地理感だけでは説明のできない響きが有り、東観漢記の記事を確認しているとすることで、より内容的な納得がいくと思います。 では先行する東観漢記で、倭国の極南界となっている奴国と、女王国の地理を比較することに問題は無いのでしょうか。 また三国志里程には、女王国のまえにすでに、戸数二万の奴国が現われ、女王国からの行程は二ヶ月もあるのです。 ここでもまた、其餘旁國の奴国が重要な働きをしていると思います。 三国志作者は、最初に現われる戸数二万の奴國ではなく、其餘旁國二十一国に含まれる奴國が、東観漢記に書かれたかって金印を受けた国であり、かつ女王国の傍らに有る国であるという、何らかの確信を持っていたのであろうと考えます。 その確信が何であったのかは後に譲るとして、であるからこそ、其餘旁國を現三国志に見るような位置に挿入し、かつそれに続けて「此女王境界所盡」と入れることで、東観漢記の倭国の極南界の記事に合わせて見せたのでしょう。 「會稽東冶之東」の説明の次にはタン耳朱崖の説明に入ります。 三国志は風俗物産の説明は、倭地温暖以下で行っています。 タン耳朱崖の説明は、風俗から地理を説明しているのでしょうが、風俗とからめ、道里から計った地理の説明が「會稽東冶之東」でできているのに、何故ここでさらに極端に南のタン耳朱崖の風俗で、倭国の地理を説明する意味があるのでしょう。 内容的には「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣」でも十分に南方的であることを言っているのです。 しかも漢書地理志タン耳朱崖の風俗記述と、ここで出てくる倭人の風俗は確かに良く似ていますが、出てくる動物や鏃の有り方など違いもあり、いかに越地つながりでも、タン耳朱崖の記事の出現には唐突のきらいがあります。 しかし下敷きにした、先行史書に「與朱崖、タン耳相近」の記事があれば、タン耳朱崖の説明が出てくるのはごく自然であると思われます。 つまり「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。」以下は、三国志時代の新知識と、漢書地理志をもとに、先行史書である東観漢記の地理的記述の確認を行っているとすると、全体がすっきりと理解できるように思います。

しかし今度は逆に東観漢記に何故「與朱崖、タン耳相近」のような極端な地理的認識が現われるのか疑問が起こるかもしれません。 それはおそらく、王充の論衡に見るように、周の成王時代の伝説の南方民族と倭人が同一視されていたことにより、伝説の南方民族に関連する、極端な地理的認識が混入したのではないかと思います。 なぜそのような混乱が起こったのかは、後に譲るとして、東観漢記に本当にこのような地理的記述があったかどうかに関して、ほかの検証方法がないか考えて見ます。

7.東観漢記記事の影響力

ここまで東観漢記倭奴國奉貢朝賀記事に、なんらかの地理的記述が付属していたのではないかという仮説に関して、長々と述べてきました。 そのような仮定は、論衡、後漢書、三国志、漢委奴国金印などに矛盾せず、むしろそれらの記事の中にあるある種の不自然さを解消できるように私には思えます。 残念ながら、ここまで挙げてきた論拠は、全ては私の印象にかかるものであり、立証に至るものではありません。 ここでは、やはり立証に至るような、なんらの証拠も挙げることはできませんが、今までとは対象文献を変えて、もしも東観漢記に想像するような地理的記述があったとしたら、後漢書よりあとの文献にどのような影響を与えるかを検討してみます。 東観漢記は、元の時代に散逸したとされています。 元代にいたる何時の頃まで、東観漢記の倭奴國奉貢朝賀記事があったのかは定かではありませんが、宋史にいたる史書の後漢相当記述部分について検証してみましょう。 時代順に行くと、宋書、南齊書には格別見るべき点はありません。 つぎの梁書の関連部分を抜き出すと

「倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帯方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠。」 「物産略與タン耳、朱崖同。」

ここでやはり「文身」は「自云太伯之後」に結びついており、「大抵在會稽之東」とは別扱いになっているのが目を引きますが、東観漢記の影響に関しては不明です。 つぎの陳書には倭人の記事がなく、その次の晋書では

「男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。計其道里、當會稽東冶之東。」

「文身」が「自謂太伯之後」に結びつき「上古使詣中國、皆自稱大夫。」が「又言」になっていることはすでに指摘しました。 ほかは三国志の内容を踏襲しているようです。

つぎは隋書です。

「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里、在會稽之東、與タン耳相近。漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。」

「與タン耳相近。」までは後漢書の記事を引いているようです。 興味深いのはその次で、安帝時の遣使朝貢が倭奴國になっている点です。 この後漢代の古云を書くに当たって、作者は何を参照したのでしょうか。 もし後漢書のみを参照したなら、奴國は倭国の極南界であって、倭国の遣使朝貢である安帝時朝貢と、同一の国であるとは断定しがたいところでしょう。 しかしここで、東観漢記に奴国が「會稽東冶之東、與朱崖タン耳相近」と書いてあれば、それは後漢書邪馬臺国の地理そのものであり、後漢代の朝貢を全て同一の国によるものであるとの想念を生み出しやすいと考えます。 安帝時朝貢に関しては場所は不明としても、それが倭国朝貢であれば、後漢書の文脈ではそれは邪馬臺国と同一視されるでしょう。 南史、北史、に目新しい部分はありません。 通典には下記の興味深い記事が現われます。

「倭 自後漢通焉、在帶方東南大海中、依山島爲居、凡百餘国。」

倭が通じてきたのは、後漢の時代からだと言うのです。 漢書や後漢書を無視するとは思えませんから、このような判断はどう考えたらよいのでしょうか。 おそらく、その当時の倭国と、倭奴国を同一視し、当時の倭国が始めて通じたのが、後漢の倭奴国であると言っているのではないでしょうか。 であればこれは隋書の判断と同じだということになります。

唐會要、舊唐書、新唐書には「倭國古倭奴國也」の認識が現われます。 これは隋書や通典の認識にそっているのでしょうが、やはり極南界の奴国を倭国と同一視させるにあたって、東観漢記の地理的記述が影響を与えた可能性があります。

8.三つの疑問点

ここまで東観漢記には、奴國奉貢朝賀に関して下記のような記述があったという仮設を述べてきました。

「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、タン耳相近、倭國之極南界也。光武賜以印綬。」

唯一の論拠は、こう考えれば三国志の下記の文脈が通るというものです。

「男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、断髮文身以避蛟龍之害。・・(中略)・・計其道里、當在會稽、東冶之東。」

しかも、こう考えても現存する史書の記述に矛盾せず、むしろ不自然な点を解消するように思われます。

しかしやはり疑問点がいくつか残ります。

(1).なぜ東観漢記では、奴國の地理をこのように極端に南方的としているのか。 王充の論衡で、周の成王時代の伝説の南方民族と、倭人を同一視しているとしたらどうしてそのような混乱が起こったのでしょうか。

(2).「又云」「又言」などとして、東観漢記とは別の情報とされている「自謂太伯之後。」はいったいどのような情報源によるものでしょうか。 東観漢記とは別とすると、それは西暦57年や107年の倭人朝貢記事とは別であることになります。 東観漢記にはない情報を記した文献があったのでしょうか。 だとすると、それは西暦57年や107年の倭人朝貢とは別の出来事を記したものでしょうか。 それはいったいどのような出来事だったのでしょうか。

(3).この仮説によれば、三国志作者は最初に現われる戸数二万の奴國ではなく、其餘旁國二十一国に含まれる奴國が、東観漢記に書かれたかって金印を受けた奴國であり、かつ女王国の傍らに有る国であるという、何らかの確信を持っていたのであろうと考えられますが、それは何故でしょうか。

私が立てた仮説は、立証不可能ですが、これらの疑問に答えなければ、仮説それ自体でも不完全なものになります。 ここからはこれらの疑問に答えることを目指します。

9.奴国朝貢の謎

奴国はなぜ王充によって、周の成王時代の伝説の南方民族と、同一視されることになったのでしょうか。 それを考えるために、西暦57年の奴国朝貢を、後漢王朝の側からみて、その東夷外交の中に位置づけて見たいと思います。

まず下記リンクを開いてみてください。

http://www.netlaputa.ne.jp/~k-salt/bbs0102/bbs/bbs.html#204

一部内容のリピートになりますが、私は以下の点は重要であると思います。

指摘されているように、その朝貢のタイミングはあまりにタイミングが良すぎます。 後漢紀にみる下記記事「丁丑倭奴國王遣使奉獻」と「二月戊戌,帝崩南宮前殿」より、光武帝の崩御は倭奴國朝見の21日後であるとされています。 このタイミングのよさは果たして偶然なのでしょうか。

光武帝の倭奴國朝見には、当時の倭人社会を考えると他にも不審な点があります。 つまりこの朝見が、倭人社会の理由で行われたとすると、57年頃の北部九州の考古学的状況に合わないのです。 西暦57年は現在の年代観では、弥生後期前半に相当します。 しかしその時期の北部九州では、伊都国と想定されている三雲遺跡の全盛といってよく、時代的にも場所的にも接近して、王墓と見なされる井原鑓溝遺跡もあります。 一方の奴国と想定される須玖遺跡は繁栄は続いているものの、井原鑓溝遺跡に相当するような王墓の発見される期待は 少なくなってきています。 三雲遺跡には、弥生中期末から後期前半にかけて、楽浪土器の集中する地区もあり、楽浪漢人の常駐というような、楽浪郡との密接な政治的関係させ感じさせる状況です。 ここで倭人社会側の理由で、奴国が代表して金印を受けることは、考えにくいとする考古学者もおられるようです。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/010/re_010_041211.htm

後漢王朝は、光武帝の実力によって成立した王朝であり、光武帝の病状は帝国の将来に暗いものを感じさせていたでしょう。 倭人側の事情ではなく、むしろ後漢王朝の側の理由で、王朝の徳をアピールする政治的セレモニーとして設定された朝見であるという説には説得力があると考えます。

そしてそれに続く安帝永初元年の朝見も、安帝の即位後一年ほどのことであり、倭奴國朝見の50年後ということもあって、相当に演出くさいものです。 このときは「願請見」となっており、倭奴國朝見の場合と異なり、印綬に関する言及もありません。 漢王朝側は、光武帝時のセレモニーを継承するものとして、倭奴國の朝見を期待していたのに、やってきたのが奴國ではなかったという、困惑さえ感じます。

さてそれでは何故、後漢王朝は伊都国ではなく、奴国を選んだのでしょうか。 実はこの問題を解決するに格好の、倭国と比較しうる、他の東夷の国に対する後漢王朝の外交の例があるのです。

それは韓に対する外交です。

後漢書光武帝紀:「二十年/秋、東夷韓國人、率衆詣樂浪内附。」 後漢書東夷伝:「建武二十年、韓人廉斯人蘇馬[言是]等詣樂浪貢獻。光武封蘇馬[言是]爲漢廉斯邑君、使屬樂浪郡、四時朝謁。」

西暦44年、韓人廉斯人蘇馬[言是]が衆を率いて樂浪郡に行き、漢廉斯邑君とされます。 倭奴國朝見の13年前です。 そして三国志に引く魏略に「安帝延光四年時、故受復除」とあり、安帝の時代に再びお呼びのかかるところも共通です。 ちなみに安帝延光四年は、安帝の死の年、西暦125年にあたります。 この外交が倭と似ているのは、光武帝−安帝の組み合わせだけではありません。 三国志東夷伝に

「辰王治月支國」 「其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立爲王。」

つまり辰韓人は自分たちで辰王を立てられず、馬韓人が常に王に立ち、馬韓の月支國において治めているのです。 そして三国志に引く魏略に「至王莽地皇時、廉斯[金齒]爲辰韓右渠帥」の記事があり、廉斯邑が辰韓にあった事がわかるのです。 後漢王朝は、辰韓の王である月支國の辰王を差し置いて、廉斯邑と外交を行ったことになります。 この状況は当時の倭国に対する外交と非常に良く似ていると考えます。 おそらく、小国に分裂している倭韓に対しては、ある種の分断支配を行うことで、漢王朝の影響力を、東夷民族の奥深くに至らせようとしたのではないかと考えます。

10.王莽のくわだて

さて前節で見たような、類似性を考えるといよいよ興味深いのは、対韓の外交で、なぜ廉斯邑が選ばれたかの理由です。 三国志に引く魏略に下記のような一文があります。

「至王莽地皇時、廉斯[金齒]爲辰韓右渠帥、聞樂浪土地美人民饒樂、亡欲來降。・・・(中略)・・・表[金齒]功義、賜冠乍[巾責]田宅、子孫數世、至安帝延光四年時、故受復除」

つまり、廉斯邑が選ばれたのは、王莽の時代にその原因があるのです。 後漢王朝としては、前代の王朝を上回る必要があったのでしょう。

そうであれば、奴国が選ばれた原因も、王莽の時代に原因がありそうです。 王莽の時代、元始五年の漢書の王莽伝の記事に下記のようにあります。

「越裳氏重譯獻白雉、黄支自三萬里貢生犀、東夷王度大海奉國珍」

この東夷の王は、その頃の東アジアの状況を考えると、倭人である可能性が高いと言われています。 韓に関する後漢の外交状況を考えると、恐らくこのときに朝見したのは、奴国ではないでしょうか。 そう考えると、後漢王朝が行った外交は、倭韓平行していることになります。

さて、元始元年の越裳氏の朝見も、元始二年の黄支の朝見も、王莽伝によればいずれもみずからの政治の正しさをアピールするために、王莽が政治的に仕組んだものです。 ことに越裳氏の白雉は、古い伝説に、周公旦が成王を輔弼していたとき越裳氏が白雉を献じた伝説もあり、自らを周公に重ねてみていた王莽にとっては重要なものだったようです。

奴国に対してはどうだったのでしょうか。 漢書王莽伝に下記の記事があります。

「莽既致太平、北化匈奴、東致海外、南懷黄支」

すなわち「東致海外」の意味するところは明白であると思われます。 王莽は東夷に対しても働きかけていたのでしょう。

さて王莽が期待していたのは何だったのでしょうか。 ここで問題になってくるのが、王充の論衡です。

「周時天下太平,越裳獻白雉,倭人貢鬯草」

越裳と倭人が並んでいます。 越裳氏の白雉が王莽にとって格別の意味を持つのなら、当然倭人の鬯草も同じように重要なはずです。 この一文をみれば、王莽が倭人に働きかけない訳がないことに気づきます。 では王莽は倭人に働きかけたのでしょうか。 私にはそうは思えないのです。 なぜ王莽伝では東夷王であって倭人ではないのでしょうか。 そしてなぜ國珍であって、鬯草ではないのでしょうか。 その当時漢王朝は、半島に進出し、楽浪郡は倭人と交易をしています。 東夷外交の後退した、晋書の時代とは違います。 倭人がやってきて倭人と書かないとは思えないのです。

私は王莽はあてが外れたのだと思います。 王莽は周の成王の時代に鬯草を献じた、南方の伝説の民族を呼び寄せるつもりだったのではないのでしょうか。 しかしやってきたのはどうもそれとは違う人々だった。 持ってきたのは鬯草ではなかった。 王莽は倭人に期待していたのではなかったのでしょう。 王莽伝の倭人の記録がはっきりと書いてないのはそのためではないでしょうか。 王莽にとって、やってきたのが楽浪の海中にいる倭人ではがっかりだったのでしょう。 おそらく周の成王の時代の伝説の南方民族と、意図的に混乱させたのは王莽だったのではないかと思うのです。

それでは奴国はこの時どのようにして、朝見したのでしょう。 少なくとも一時は王莽はそれを、伝説の民族と勘違いし、歓待したであろうと思われます。 はたして奴国は楽浪からやってきたのでしょうか。 そしてなぜ伊都国ではなかったのでしょうか。

11.貝の道

元始五年の漢書王莽伝に現われる、東夷の王は奴国の王であったのでしょうか。 もしそうなら奴国はどのようにして遣使を行ったのでしょうか。 東夷の王と書かれる以上は、楽浪からの遣使の可能性は少ないのではないでしょうか。 王莽の期待に応え朝見するとしたら、おそらく南方、会稽からの遣使の可能性が高いでしょう。 そのようなことは可能だったのでしょうか。

homepage3.nifty.com/okinawakyoukai/kennkyuukai/146kai/146kai-1.htm

ここに挙げたのは貝の道に関する文章です。

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この図をみると、北部九州から沖縄への、定常的な交易があったことがわかります。 時期は弥生時代の前期から中期にあたります。 したがって、奴国から交易に関連するつてをたどって沖縄まで行くことは可能であると思えます。 その先の先島諸島や台湾は、縄文いらい別文化圏に入ります。 はたして、沖縄から大陸へは行けたのでしょうか。 沖縄からは、漢の五銖銭などが見つかっていますが、「燕」の明刀銭や、朝鮮系土器なども見つかっていて、必ずしも会稽へのルートを想定できません。

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この図から見るとヤコウガイの分布が、時代は唐に下りますが大陸との交易を示しています。 問題の紀元前後の時期を考えると、はっきりした交易の痕跡はないものの、後の時代までを視野に入れれば、交易の可能性はありそうです。 また三世紀に下りますが三国志にも下記のような記述がみられます。

「二年春正月,魏作合肥新城.詔立都講祭酒,以教學諸子.遣將軍温、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲.亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬來神山及仙藥,止此洲不還.世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者.所在絶遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還.」

所在絶遠の亶洲の人民が「時有至會稽貨布」とは、三世紀にあって亶洲(済州島とも、種子島とも、日本のどこかとも言われる)から人がやってきて交易していたことを示すもので、残念ながら直接証拠を示すことはできませんが、沖縄から会稽へのルートには実現性があると考えます。 かなりの無理はありますが、奴国に強い意志があれば、会稽からの朝見の可能性はあると考えます。

ではなぜ、伊都国ではないのでしょうか。

12.奴国のくわだて

なぜ伊都国ではなく奴国なのでしょうか。 紀元前後であれば、状況から見て、まだ奴国の王も健在であったろうと思われます。 しかしこのころから、三雲番上地区に楽浪土器の集積が現われ、伊都国の対漢外交上の有利は動かなくなってきています。 奴国が優位に立つ条件はあるのでしょうか。

南インドの黄支からの朝見を実現させたことから推測するに、おそらく王莽は相当長期間にわたって、中国南方からの伝説の民族の朝見を促す努力をしていたであろうと思います。 そのような努力が、台湾から先島諸島の住民に伝わり、さらにそれが沖縄に伝わると、貝の道をたどってその情報が北部九州まで届いたと思います。 さて貝の道ですが、弥生中期以前には、沖縄から西北九州を回り、日本海側へ入るルートが主でしたが、問題の紀元前後には、沖縄から北上し有明海に入り、そこから上陸して博多湾に抜けるルートになっていました。 つまり、奴国はその当時の貝の道の直上にあったのです。 情報はまず奴国に入ったと思われます。

ではなぜ奴国は、楽浪でなく、困難を極めたであろう会稽から遣使を行うなどということを行うのでしょうか。 王莽が南から誘いをかけたとしても、南から行かなければならない訳でもないでしょう。 そのほうが当然王莽にとっては好都合ではあったでしょうが。

私はこれはその当時の、倭人社会の状況に理由があったのだと思います。 弥生中期後半、三雲や須玖には王墓が現われますが、そこから現われた漢鏡の年代から、漢鏡入手の時期が紀元前一世紀中頃と推定されます。 そのころには、三雲(伊都国)と須玖(奴国)はほぼ互角の状況であると考えられます。 しかし弥生中期末、三雲番上地区に楽浪土器の集積が現われるころから、この関係は伊都国に大きく傾いていったのではないでしょうか。 弥生後期前半のある時期、伊都国は漢系威信財を独占しているようにも見えます。 伊都国のような小国が、海峡諸国をコントロールして、そのような独占を果たせるものでしょうか。 私は、伊都国と楽浪郡が、なにか特殊な外交関係を持ち、そのことでいわば楽浪側で漢系威信財の宛先として、伊都国を限定するということが行われていたのではないかと思うのです。 三雲に常駐した漢人は、それを担保する仕組みであったのではないでしょうか。

そのような仕掛けがあれば、奴国が楽浪に行っても、目的を果たすことができないかもしれません。 これに王莽が、南からやってくる民族を期待していたという事情が重なったのではないかと思うのです。

かくてこの朝見は、奴国にとっては伊都国の圧力を跳ね返す、乾坤一擲の大勝負だったのではないでしょうか。

では奴国の試みは成功したのでしょうか。 南回りでは大変に厳しいですが、一度でも交易のルートが開ければ、楽浪を相手とすることも可能だったでしょう。 しかし弥生後期初頭に、貨泉などの漢系遺物が一時期風とおしの良くなる時期がありますが、大勢を挽回した形跡はありません。 王莽の政権が安定せずすぐに滅亡すると、後ろ盾を失った奴国側はかえって衰退したかもしれません。 実際弥生後期に入ると、北部九州から中南部九州へ向けての威信財の配布などが衰え、貝の道もすっかり衰えています。 これは奴国が、伊都国の秩序に組み入れられて、南方へ向けての独自の展開を行えなくなったことを意味しているのかもしれません。

13.漢委奴国王印

王莽時代の東夷の王が、奴国の王であったとして、王莽はどのように扱ったのでしょうか。 黄支や越常氏と異なって、その詳細がないことを見ると、何らかの齟齬があったものと考えます。 最初は伝説の南方民族として歓待したものの、奴国の朝見の目的が本来会稽からの朝見ではなかったのであれば、実情を知ったのはそれほど間がなかったはずです。 ただ王莽としては、表面上周の成王の時代の伝説の民族と同一視しておくために、奴国の使者の南方的風俗や、会稽からの朝見であったことをもとに、奴国を必要以上に南方的に表現したのでしょう。 東夷の王などと書いているところを見ると、当初は倭人とは呼んでいなかった可能性もありそうに思います。 そこで史書を探し、この時期会稽の海中から朝見したとされる民族を見てみると、それは漢書地理志に見る「東[魚是]人」をおいて他にありません。

「會稽海外有東[魚是]人、分為二十餘國、以歳時來獻見云。」

森博達氏は[魚是]は[魚夷]とも書かれ、「東[魚是]」は「東[魚夷]」すなはち「東夷」に他なるまいと言われていたことを思い出します。 「東[魚是]人」は東夷の王をあくまで倭人とは区別して表現しようとした、王莽政権の造語なのではないでしょうか。

さて後漢の時代に入ります。 班固の漢書によって、後漢の時代の認識を見てみましょう。 すでに多くの人が指摘しているように、漢書地理志において、倭人の記述と東[魚是]人の記述は非常に良く似ています。

「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。」

しかも方や呉地の条の最後、方や幽州の条の最後です。 班固は前漢時代の記録により、これらを分けて書いていますが、それらが同じであることを知っていたのでしょう。 東[魚是]人=倭人は後漢以降三国の人々にとっては、常識だったのかもしれません。 そうでなければ、三国志の作者が、漢書地理志を引きながら、会稽東冶の東として、平然と東[魚是]人とかぶるような記載をするはずがありません。 魏都賦に残る下記の文面もそのような事態を暗示しています。

「於時東[魚是]即序,西傾順軌」

倭人であることがはっきりしてからも、奴国がはるか南方の国であると言う、中国人の認識は変わらなかったと思われます。 それは王充の記述に現われています。 西暦57年の後漢王朝はこの南方の奴国に何を期待したでしょうか。 まずは、先行きの危ぶまれる後漢王朝の政治の正当性をアピールするために、王莽の時代にやってきた奴国に朝見させること。 そして、伊都国を牽制し漢王朝の威光を倭人社会の奥深くに届かせるために、はるか南方の奴国に倭人の代表としての正当性を与えること。 後漢王朝はその13年前、漢廉斯邑君で成功した外交を再現しようとしたのでしょう。 漢廉斯邑君と違い、奴国の場合に漢委奴国王と匈奴相手にしか見えないような珍しい三段読みの称号を与えたのはなぜでしょうか。 私はおそらく、奴国はすでに王莽より奴国王の称号をもらっていたのだと思います。 ただしそれは、「東[魚是]人」ないし「東夷王」としてのものであったのだと思います。 漢王朝があえて委の一字を加えたのは、ここで王莽時代の奴国王を倭人の代表として認めるという意味だったのではないでしょうか。

後漢王朝の意図は成功したでしょうか。 残念ながら西暦57年には、奴国王はほとんど力を持っていませんでした。 ただ、王調の乱などで自立化を深めていた楽浪郡の独自外交に歯止めをかけ、伊都国の威信を失墜させ、倭人社会の中に新しい政治的動きを作ることには成功したのではないかと思います。 西暦57年から、一世代と経たぬあたりから、弥生後期後半の動きが始まるのです。

14.聞其舊語自謂太伯之後

さて二番目の疑問に関して考えて見ます。 晋書、太平御覧などの「又云」あるいは「又言」などとして、東観漢記とは別の情報とされている「自謂太伯之後」はいったいどのような情報源によるものでしょうか。 少なくとも晋書の時代に、東観漢記の、西暦57年や107年の倭人朝貢記事が存在すれば、それとは別の伝承であることになります。 私はおそらく、魏志の原史料にこの記述があって、「又云」あるいは「又言」以下「自古以來」に繋がっていたのであろうと思います。 便宜の目的で、想像上の原史料文面を下記のように仮に想定します。

「男子無大小皆黥面文身。聞其旧語、自謂太伯之後。又云 自上古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。昔夏后少康之子封於會稽、断髮文身以避蛟龍之害。・・(中略)・・計其道里、當在會稽、東冶之東。」

三国志の文脈では、「自古以來」以下は漢書地理志越地の条に繋がる流れです。 私の想定する原史料では、「又云」あるいは「又言」で、どちらかと言えば呉地の条に繋がりそうな「自謂太伯之後」と並立していることになります。

倭人を呉地と結びつけるこの史料はどのような性格のものでしょうか。 まず三国志の下敷きになっている、メジャーな三大史書にはこのような記述がないのですから、格の落ちる史料となります。 このことはそれ程問題はありません。 史記、漢書、東観漢記の用いられ方は、その文面を知っていることを前提としたもので、知らなければ文脈が繋がりにくくなります。 つまり、多くの人が読んでいることが前提になる書き方であると言えます。 三国時代には、これら三大史書は郡の中級官吏に至るまで読んだと言われ、その前提にかなっています。 しかし「自謂太伯之後」は、何に書いてあったか、その文面がどうであるかにかかわらず文脈が続きます。 つまり文献としてメジャーなものである必要がなく、三国志原史料の作者が知っていれば良いようなものです。

この文献の正体を探るのはかなりの難関です。 ただそのような文献があれば、倭人は越ではなく呉に結び付けて理解されることになったでしょう。 三国志原史料の作者が、倭人を漢書越地の条に結びつけたのは、東観漢記の記事があったからで、それがなければやはり呉と結びつけることになったかもしれません。

では観点を変えて、倭人を呉に結びつけた他の史料はないのでしょうか。 とりあえず三国までの時代で見てみます。

さてこれでは倭人が呉地に結びついた時代はありません。 そこで前節でお話した、班固の漢書にある、東[魚是]人を考えて見ます。 漢書の文類では、東[魚是]人は会稽海外であって、これを呉地の条で見ることは少しも不思議ではありません。 しかし班固が東[魚是]人は倭人であり、かって会稽からやってきたことを知っていたらどうなるでしょうか。 班固が東観漢記にもかかわったことを考えるとますますこの疑念は膨らみます。 私の仮説では、東観漢記には倭人はおおよそ会稽東冶の東にあると書かれていたことになりますが、そうなると会稽海外の東[魚是]人とかぶらない訳がないのです。 おそらく班固は知っていたのでしょう。 倭人がやって来たとすれば、地理的に会稽東冶のあたりが濃厚です。 そこは呉地の会稽郡であっても、由来的にはあまりに越的であります。 王充は素直に越常氏と比較しています。 三国志作者も問題の史料と、会稽東冶の東と書いた東観漢記を見て、越地に軍配を上げたようです。 ではなぜ班固は東[魚是]人を呉地としたのか。 それは東[魚是]人を倭人と区別したと同様、前漢時代の史料を重視したからではなかったのでしょうか。

私は「自謂太伯之後」の記事は、東[魚是]人に関して王莽政権の残した史料中にあったものではないかと思うのです。

15.絶遠二十一国

さていよいよ最後の疑問に関して考える段となりました。 自説によれば、三国志作者は最初に現われる戸数二万の奴國ではなく、其餘旁國二十一国に含まれる奴國が、東観漢記に書かれたかって金印を受けた奴國であり、かつ女王国の傍らに有る国であるという、何らかの確信を持っていたのであろうと考えられます。 そのような確信はいったいどこから来たものでしょうか。 また其餘旁國二十一国はどのような情報源に基づくのでしょうか。

森博達さんは、「日本の古代1 倭人伝の地名と人名」の中で、倭人条の音訳漢字についての分析を行い、音訳は中国原音で丁寧に行われた可能性があり、音訳対象の言語は上代日本語のもつ特徴をほぼ満たしているとされています。 一方でこの二十一国に関しては、面白い発言をされています。 これらの国々の国名に使用された音節を、使用された漢字から考察するとき、魏晋代の推定漢字音を使用すると、上代日本語の音節分布や、音節のつながり方とは大変異なったものになるというのです。 このことから、二十一国に関しては魏晋代の推定漢字音ではなく、前漢時代の推定漢字音を使用すべきでは無いかというのです。 森さんはこのことから、この二十一国は魏代の音訳ではなく、前漢時代に音訳された東[魚是]二十余国のリストからの挿入であろうとしています。 森さんは、漢書地理志の倭人の記事と東[魚是]人の記事が良く似ており、東[魚是]人=倭人説が古くからあること、「[魚是]」の前漢時代の音が「夷」に通ずること、そして魏都賦なども論拠に挙げておられます。

森さんの挙げた論拠はこれまでの私の議論でも使用させていただきました。 ここで私は森説を補強することができると思います。 すなはち、前節であげたように、三国志原史料の作者は「自謂太伯之後」の情報を、王莽政権の残した東[魚是]人に関する史料から引用したと私は考えています。 もし東[魚是]人に関する史料に、その二十余国の国名があったら、三国志原史料の作者はそれを転記するかもしれません。 ただし条件があるでしょう。 つまり6節で検討したように、三国志原史料の作者は、その二十余国の中に含まれる奴国が、後漢代の奴国であり、かつ女王国の近くであるとの確信を持つ必要があります。 その二十余国の中に含まれる奴国が、後漢代の奴国であることは、後漢代の朝見に関してのいわくを知っていれば問題ないかもしれませんが、女王国の近くにあることはどのようにして知ったのでしょうか。

森博達さんは、他にも面白いことを書いておられます。 難升米は奴国の出身だというのです。 これはあまり根拠があるようにも思えないにもかかわらず、考古学者に人気の説です。 かりにそうでなくとも、長い対漢外交の歴史のある北部九州人は、魏への使者の中に含まれたであろうと思います。 私はかれらが、かっての会稽からの朝見に関して何か話したのではないかと思うのです。 三国志原史料の作者が、そのことを質問したかもしれません。 やってきた奴国人の使者が、かって会稽からやってきた国の子孫だと知れば、女王国がその近くにあるという誤解が生じるかもしれません。

また実際会稽からの朝見の国々の多くが女王国の近くであるという直接の情報を得た可能性もあります。 王莽の時代にやってきた奴国はどのような国々を従えてきたのでしょうか。 奴国が伊都国に対抗して会稽から朝見したなら、おそらく伊都国中心の秩序の外にある国々だったのでしょう。 そうであれば、女王国は伊都国の文化圏とは一線を引いた地域にあったのかもしれません。

16.弥生中期末の倭人社会

この論考を通して私のやりたかったことは、三国志の記事を後漢代以前の記述と比較することで、三国志にある記事の後漢時代以前の情報を引き出すことでした。 まず文身記事の文脈から、東観漢記の奴国朝見記事に、奴国の地理的情報に関して、後漢書以上のことが書かれていた可能性に関して議論しました。 私にはそのように考えることで、既存の資料の内容がより自然に理解できるように感じました。 ただしそれでは奴国の地理に関して、後漢代の人々がかなり思い切った南方系の理解をもっていたことに成ります。 その理由を漢書などにより推理した結果は、前漢末の王莽伝ある東夷の王が奴国であり、かつ会稽郡より遣使を行ったと言う、かなり思い切った内容になりました。 さらに種々漢籍に残る、倭人が呉の太白の子孫であるという伝説や、三国志にある女王国の傍らにある二十一カ国の国名が、本来そのときの記録によるものではないかと推理しました。

全ての推理は論証の難しいものばかりでありますが、私はこの仮説は残された史料や、考古学的知見に矛盾するものではないと考えます。 あくまでひとつの仮説、推理に過ぎませんが、後漢以前の中国人の倭人観に関して、残された事実に大きく矛盾しない、一貫した解釈を与えることができたと思います。

私にとって興味深いのは、女王国の傍らにある二十一カ国の国名です。 これは森博達氏の仮説では、弥生中期末の倭人社会の国々を現すことになりますが、私の仮説は森説に、この二十一カ国の国名が残される、もう少し詳しい事情を追加することができます。

森説では、二十一ヶ国は有明海沿岸から順次北にさかのぼり、最後に一番北の奴国が来ることになりますが、私の仮説では必ずしもそうではなくても良いと考えます。 奴国が最後に出てくるのは、奴国が嚮導者として伊都国の勢力圏外の国々の使者を従えて行ったからではないかと思います。 その国々は女王国の回りにあったのかもしれません。 二十一国がどこにあったのか、それは残された国名を比定するしかありません。

二十一国の情報はその国名しかなく、いまだかって成功したと言える比定は無いと考えます。 比定が難しいのは情報が国名だけであるばかりでなく、以下のような理由があると思われます。

1)使用されている漢字の記された時点での漢字音が分からない。

これには、音訳状況、時代、方言といった問題が絡みます。

2)音訳された言語に関する情報が不足している。

これはその当時の倭人語の資料が残っていないことによるものです。 また音訳されたのが列島のどのあたりの方言かも分かりません。

3)音訳された単語の音節数が短い

ほとんどが漢字二文字です。 じつはこのことは、比定を困難にしている重要な要因です。 韓伝の国名に関しては、いくつか後世の地名との比定ができているものがあります。 もっともその後世の地名が現代のどこであるかはまた問題なのですが・・・ 二つばかりあげると

三国志:「如來卑離」 三国史記:「爾陵夫里」

三国志:「牟盧卑離」 三国史記:「毛良夫里」

これらは音節数が多いことであたりがついたと思われます。

4.単語にありふれた地形がまじっていそう

例えば

「斯馬」:島? 「邪馬」:山?

このようなケースが多く含まれているなら、比定は絶望的でしょう。 これらの困難のうち1は森さんの仮説が正しければ、時代、方言の問題は解決されています。 ただしそこで想定される、前漢末の長安音は上古音に属し、いろいろな仮説が飛び交っている状況ですが、西域諸国の国名など、資料は少ないながら残されています。 さらに森さんの調査で、音訳が丁寧に行われたことがわかります。 これは音訳文字からその当時の倭人語を再現するに当たって重要なことです。 2はやはり森さんの調査で、上代日本語と近い言語であるとされています。 ただし上代日本語とは時間的に離れている上に、どのような方言かは決定できていません。 残る問題の3.4.は、音節数が長く、特異な地名を手がかりとすることができるように思います。 私は今ある程度この問題に対する見通しを持てるような気がしています。

それは森仮説が正しければ、たとえ国名だけだとしても、前漢末に相当する弥生中期末の倭人社会に関しての、初めての文献情報であるかもしれないのです。

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