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魏志韓伝の構造

−二分史料と三分史料−

魏志韓伝の原史料構造を考えるに際して、特に辰韓、弁辰条に関して考えてみるのが、面白そうです。 韓伝はその冒頭で、韓には三韓有りとしています。

そして引き続き馬韓に関する記載になります。 三番目の韓は本来弁辰であったのか弁韓であったのかの問題は残りますが、全体の構成を三韓として始めていることは間違いありません。

ところが実際の韓伝では、辰韓条と弁辰条はうまく分かれていないように見えます。 通常「弁辰亦十二國」以下を弁辰条としますが、これにはイリヒコさんの下記の批判があります。

邪馬台国とは何だろうか? - 古代史雑論 - 幻の弁辰の鉄

私もこれには全面的に賛成で、弁辰条は「弁辰與辰韓雜居」であろうと思います。 重複になりますがこの状況を見てみると、「弁辰亦十二國」以下には、辰韓と弁辰の国名リストが現われ、弁辰の記述ではなく、弁辰と辰韓共通の内容です。 また国名リストに先立つ「各有渠帥」以下の記述も両韓共通の記事となっています。 そもそも「弁辰亦十二國」で改めるから、弁辰条の始まりのように取れるので、本来この文は「始有六國、稍分爲十二國。」に引き続くもので、弁辰条の始まりではないのでしょう。

なぜ辰韓の記述の中に、弁辰と辰韓に共通の記述が現われるのでしょうか。 そもそもどこまでが、共通の記述なのでしょうか。 記述を追ってゆくと「今辰韓人皆褊頭。」という一文に出会います。 つまりそれに先立つ「兒生、便以石[厭/土]其頭、欲其褊。」がやはり辰韓に対する記述であることが分かります。

さて「弁辰與辰韓雜居」以降は辰韓条の「有城柵」に対応すると思われる「亦有城郭。」、辰韓との比較を書いている「衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異」、弁辰[シ賣]廬國に対する記述である「其[シ賣]廬國與倭接界。」と、立て続けに弁辰の記事が現われるので、弁辰条に相違ないでしょう。 すると引き続く「十二國亦有王」は弁辰に対する記事で、これと対比されている「其十二國屬辰王。」は辰韓に対する記述であると分かります。 なぜこんな回りくどい理解をしなければ分からない書き方になっているのでしょうか。

「其十二國屬辰王。」が辰韓条であるとすると、「弁辰亦十二國」以降「大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸」までが両韓共通の記事であり、それが辰韓条の中にすっぽりはまっていることに気づきます。 この部分を取り除くと、「始有六國、稍分爲十二國、其十二國屬辰王。」となって、「其十二國」が辰韓であることがより直接的に理解できるようになります。 しかも辰韓条と弁辰条はすっきりと別れ、冒頭の韓を三韓に分けた構想にもあってくるのです。

この国名リストの記事は、韓を三韓に分けた史料に追加されたのではないでしょうか。 韓伝の国名リストの記事を見れば、容易にそれが韓を馬韓とそれ以外に分けたものであることが分かります。 韓伝の構成が複雑なのは、韓を三分した史料と、二分した史料を合成したことが原因なのではないでしょうか。

この仮説に立って、どのように二種類の史料が合成されたかを考えて見ます。

まずなぜ現位置に、二分史料は挿入されたのでしょうか。 おそらく元の辰韓条に「始有六國、稍分爲十二國」と、複数の国に分かれている事を示す記述が現われたところが、挿入点として適切に思えたのではないでしょうか。 ではなぜ、国名リストを辰韓と弁辰に分割して適切な場所に挿入しなかったのでしょうか。 それは「各有渠帥」に始まる文や、「大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。」の文が、すでに両韓を合わせた記述になっていて、容易に分割しがたいと考えられたからではないでしょうか。 また「弁辰亦十二國、又有諸小別邑」はおそらく弁辰条に、つまり「弁辰與辰韓雜居」よりもあとのどこかにあったものを、両韓の国名リストをここに挿入するために移動したものと思います。 この仮説を馬韓条で検証してみましょう。

辰韓条に挿入されたと想定した史料に対応する記事は、馬韓では「各有長帥」の記事と国名リストの間に、「散在山海間、無城郭。」が入っています。 この「無城郭。」の記事は、辰韓条の「有城柵」、弁辰条の「亦有城郭。」に対応しており、三分史料にあった可能性があります。 しかし三分史料の「散在山海間、無城郭。」を、二分史料の間に挟み込むように挿入する必要があるでしょうか。 そのような動機は見当たらないのです。 では「散在山海間、無城郭。」の記事は、国名リストとともに二分史料にあったのでしょうか。

ここで面白いことに、馬韓条のなかに、上記「無城郭。」に矛盾するような記事が見つかるのです。

「其國中有所爲及官家使築城郭」

城は無いのかあるのか。 矛盾が生じるにあたっては以下のような可能性があるでしょう。

  1. 二つの記事において、城の概念が異なる。
  2. 二つの記事において、その情報のカバーする地域が違う。
  3. 二つの記事において、その情報の時代が違う。

いずれにせよ、この二つの記事は同一の原史料ではなさそうに思えます。 「無城郭。」は構造上二分史料に属していたと考えられ、「其國中有所爲及官家使築城郭」は馬韓に対する風俗などの記事ですから、辰韓、弁辰条との比較から、元の馬韓条、三分史料の中にあったのでしょう。 すなはち、馬韓条においても、三分史料に対して、二分史料の挿入された形跡が伺えるのです。

ではこの二つの史料が合一された時期は何時でしょうか。 すでに触れましたが、魏略に現われる記事が多く共通することから、魏志東夷伝には先行史料があるとされます。 この先行史料が魏略そのものであるか、魏略と三国志の共通の原史料であるか、とりあえずここでは確定させませんが、まずは原史料がどうなっているのか調べてみます。 翰苑に引く魏略を見てみると、下記のような記事が現われています。

「三韓各有長師、其置官、大者名臣智、次曰邑借、凡有小国五十六、惣十餘萬戸。」

これは注に引かれた記事であり、翰苑の性格上相当な変形を受けていますが、明らかに魏志東夷伝の下記の記事に対応するものです。

「各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借」

「凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。」

すなわち、原東夷伝においてはすでに、三分史料と二分史料の合一が行われていたことがわかります。 このことからさらに、魏志東夷伝の原史料である、原東夷伝には、さらに先行する史料があり、そのうちの三分史料では、それが馬韓、辰韓、弁辰の三条に別れ、地理的位置関係や風俗などに関して記録されていたことが分かります。

そして、国名リストはそのような三分史料とは別の、韓を二分する原史料にあったということになります。



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