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東韓と東道

−東韓と東道の比定(その二)−

応神紀に見える「東韓」についてはそれがどこを指すのか諸説あるようである。 八年条に百済記より引用として「枕彌多礼、及[山見]南、支侵、谷那、東韓之地」、十六年条に注として「東韓者甘羅城、高難城、爾林城、是也」としてあり、「甘羅城」、「高難城」、「爾林城」をそれぞれ「[山見]南」、「谷那」、「支侵」と同所と見る説もある。 しかし、三国志には「兒林」と「支侵」は異なる地となっていて、この解釈は無理があると考える。 これら「東韓」の比定地はいずれも定かでないが、有力説は忠清南道西部から全羅北道北西部をあてる。 しかし「東韓」という名称からするに、百済西部の地域をあてるのは不自然に感じる。 それでは「東韓」をどのような地域に想定するか。 すでに論文中に述べたように、「甘羅城」を三国志の「甘路国」とし、絡東江中流域の金泉市近郊とする。 「爾林城」を鮎貝によって、任実郡とし、「高難城」をその中間の全北鎮安郡鎮安面、三国史記の「難珍阿」に当てる。 これにより「東韓」を秋風嶺をまたいで、絡東江中流域から錦江上流域へつながる地域とする。 応神紀八年条「[山見] 南」を忠南大徳郡鎮岑面、三国史記の「真[山見]」南方とする。 応神紀八年条「支侵」を全北南原郡山東面、三国史記の「居斯勿県」とする。 「支侵」は百済滅亡後の唐支配下の行政区分名「支潯州」に現れ、この州に属する地名が忠清南道西部に現れるにもかかわらず、なぜ「居斯勿県」を「支侵」と考えるか、実は「支潯州」には同名の県名が現れるのである。 日本書紀には、伝承の過程での混乱か、明らかに同名異地を混同していると見られるケースがある。 百済記のこの記述も、同名県のもたらした混乱ではないか。 「居斯勿(コサムル)」には「支侵(キシム)」に相通ずる部分があるので、これもまた混乱の原因となった可能性はある。 応神紀八年条「谷那」を定説どおり全南谷城郡谷城面とする。 すると「東韓」地域の北部に隣接の「[山見]南」から始まって、南部に隣接する「支侵」、「谷那」を北から南へ配置していることになる。 「谷那」から蟾津江水系を下れば「多沙」に出る。 まさにこの半島中央の山中を蟾津江水系をさかのぼり、錦江水系を下ってゆくルートが「帯山」に城を築いて守ろうとした「東道」ではなかったろうか。 なおこの東韓、東道の南部地域は、概ね高霊土器の分布の西の境界に近い。

参考図

水色の線は高霊土器のおおよその分布。緑の線は通説による東韓の位置



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