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倭人伝における女王国概念

−三国志魏書東夷伝倭人条に見える女王国−

はじめに

本稿は2008年1月22日にYahoo BBSへ投稿した内容を、HTML化したものである。



倭人伝における女王国概念に関しては、既に散々論じられていているが、備忘のため私なりの整理をしてみたいと思う。 倭人伝に登場する女王国は以下のとおり

このうち1には幾つかの疑問がある。

まず、なんの説明も無くいきなり「女王國」が登場すること。 ここまで「女王國」に関する説明は全く無い。

また「統屬」されるものが「王」であるのに、「統屬」するものが「國」になっている。

さらに2以下の「女王國」は地理的な説明の文に登場するのに、1のみは政治的関係を表す文に登場する。

ためしに、「女王」との政治的関係を説明した文章を挙げると。

いずれも「女王國」ではなく「女王」となっている。

1.の該当部分を他の史書であたってみると。

翰苑註はあまり当てにならない上に、「王女」となっているが、対応する本文が「分職命官、統女王而列部」となっていて、註の中に他に本文の「女王」に該当する部分が無いので、本来は「女王」であったと考えられる。

これらの状況を整理してみるに、1の「女王國」は本来「女王」とあったものが、誤られたものではないだろうか。

もしもそうだとすると1.の文は「女王國」の初出ではなく、本来は「世有王」が一般的意味での女性の王の統率下にあることを示すものだったのではあるまいか。 その女王に対する説明文が、後に来るa.の「南至邪馬臺國、女王之所都」ではあるまいか。 a.の文は同時に「女王國」の説明でも有り、全ての「女王國」はa.の文以降に現れることになって全ての疑問が解ける。

このとき「女王國」が「邪馬臺國」であることは疑問の余地がないだろう。 a.b.c.のように「女王」の政治的領域に関しての説明は、すべて「女王」で行われており、「女王國」は登場しないからである。

さてここで、「投馬國」の記述を含む、水行一月、陸行一月の行程が、後の追加記事であるとする私の仮説に立つとどうなるか考えてみる。 私の仮説では「邪馬臺國」はそれ以前の文献にあったが、その記述のうち、日数、戸数のみはこの際の追加であると考える。 すると、「投馬國」の追加以前の原里程には「邪馬臺國」までの行程は明らかになっていなかったことになる。

「邪馬臺國」に続く二十一國の記載は、それに先立って「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳」の文言があるのであるから、「自女王國以北」以下二十一國の記述もまた「投馬國」の挿入以降のことになるであろう。 さらに「邪馬臺國」までの行程が明らかになっていないのだから、「自郡至女王國萬二千餘里」の記載もまた、「投馬國」の記載以降の追加となるだろう。

このように考えると、水行一月、陸行一月の行程が追加される前には、里程中に「女王國」の語はひとつも存在しなかったことになる。 「女王國」に関して説明すべき里程の中に、「女王國」が現れていなかったなら、おそらく里程に「投馬國」が追加される以前には、倭人伝には「女王國」と言う語そのものが無かったのではあるまいか。

つまり、「女王國」とは、里程の完成段階に「投馬國」の記述を挿入した人物の造語だったのではあるまいか。

ではいったい「投馬國」を挿入したのは誰だったのか。 倭人伝の最初の部分に「舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國」の文がある。 このなかの「今」に着目すると、これは魏略逸文に特徴的な地の文の「今」として有名なものである。 この文章が魏略由来であるとすると、魏略の倭伝の里程には、すでに三十國が出揃っていたことになり、おそらく魏略には現倭人伝とほとんど変わらない里程が存在したことになる。

このように考えると、「投馬國」の挿入と里程の完成は、魚拳の手によるもので、「女王國」の造語も魚拳によるものと想像できるのではあるまいか。

ではこのような想像の下では、魚拳は何故「女王國」という造語を使ったと考えればよいだろうか。 文中で「女王國」は倭の盟主のいる国としての役割を果たしている。 倭人の政治的マップを描写するにあたり、「邪馬臺國」ではそこが盟主国である事を明示しにくい。 そのために、倭の盟主である、「女王」の国として「女王國」という造語を行ったのではないか。

では何故、倭国の都と言った表現をとらず、「女王國」なのか。

私はこの里程の完成が、倭と魏の外交関係が確立する前、おそらく難升米が洛陽にやってきて、いまだ詔書受ける前までの情報をもとに書かれたのでは無いかと思う。 眼前に倭の盟主が使者を送ってきたのを知っているが、まだ親魏倭王となしていない、ないしそのことを知らないがゆえに、「女王國」という造語を使わざるを得なかったのでは無いだろうか。

全海宗氏の「魏略および東夷伝に関する若干の見解」によると、魏略の記述の内、残されたものの多くは明帝までであり、それ以降は少なくなる。 また東夷伝などでは後漢代までの記述にとどまり、劉知機の「事止明帝」にも何らかの理由があるのではないかとされる。 魏略は明帝死後そう遠からざる時期に、一部の列伝を残してほとんど完成していたのでは無いだろうか。 魏略東夷伝の完成すなはち倭人伝里程の完成は、魏使の帰還を待たず、ないしその情報を知らずに行われたのでは無いだろうか。

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