Blog 論考雑論一覧

倭人伝における倭国概念

−三国志魏書東夷伝倭人条に見える倭国−

はじめに

本稿は2005年1月27日にYahoo BBSへ投稿した内容を、HTML化したものである。



三国志魏書倭人条に関しては、古くから景初二年より前の部分とそれ以後の部分が異なる原資料によったとの説があります。 景初二年より前の部分を仮に前半、それ以後を後半とすると、前半と後半では以下のような誰の目にも留まる違いがあります。

@卑弥呼(もしくは台與)を指すと思われる言葉が、前半では女王、後半では倭王/倭女王しかも詔書より前では倭女王、それ以後は倭王と使い分けられています。 詔書以後でも倭女王が一箇所に現れるがそれは、狗奴国男王卑彌弓呼との対比であり、かつ素よりとあって、本来詔書より前からの関係を書いているのかもしれません。 後半部分の称号は、親魏倭王の金印を意識した、厳密なものになっている可能性がありますが、前半部分はそのような事実を気に留めていません。 この称号に関する態度の違いは非常に大きいと考えます。

@前半部分では、一箇所を除いてほとんど人名が現れないが、後半部分では主要な登場人物は必ず人名が現れる

前半部分で人名が現れるのは卑弥呼のみ、伊都国王や狗奴国王を始め、さまざまな官名が現れるが全く人名は現れません。 前半部分では名前の分からなかった狗奴国王もあっさり名前が分かります。 卑弥呼や卑弥弓呼がかりに職掌名としても、文章中では人名と思って書かれていると思われるので、この態度の違いは大きいと考えます。

@前半部分では、年次が全く分からないが、後半部分はそれが分かるように書き入れられている。

これは書かれた内容の違いによると思われるが、東夷伝全体では、外交記録以外にも年次の分かる記述が現れることがあるので、やはり態度に違いがありそうです。

@前半部分には魏使の名や魏使が何かをしたなどとは全く書いてなく、魏と倭の外交関係についても全く触れていないが、後半は魏との外交中心。

これも書かれた内容の違いによると思われますが、魏も魏使も影も形も無いのはさすがに不自然です。

これらの事実を総合すれば、前半部分と後半部分がもともと異なる原資料に基づくと考えるのが自然であろうと思います。 前半部分の原資料としては、魏略もしくは共通の先行史書が想定されることが多いようです。 後半部分はより魏使の残した記録に近い資料で、魏の公式文書として残されたものを、陳寿が立場を利用して入手したという説を採る場合が多いようです。

ただこのように考えた場合大きな疑問が涌いてきます。 陳寿は魏の公式文書を入手したのではなかったのか。 ならばその公式文書には、外交記録のみが書かれていて、倭国の地理や風俗、社会に関しては何も触れられていなかったのだろうか。 もしも公式文書の中に倭国の地理や風俗、社会に関して触れられていれば、それは先行史書よりもずっと直接資料な訳で、陳寿が採用しない理由があるだろうか。 そもそも前半部分にも、魏の公式文書から抜きがかれた部分があるのではなかろうか。

ここで後半部分を見ていると、今まで挙げていない一つの特徴が見えてきます。 それは国があまり出てこないことです。 前半部分には、数多くの国々に加えて、倭国や女王国などが現れてきますが、後半部分では狗奴国と倭国のみが現れてきます。 しかもそこでは、倭女王と狗奴国男王が不仲と記されており、倭国と狗奴国が対置されているようにも見えます。 つまり

前半部分

女王に属する29カ国 VS 女王に属さない狗奴国

後半部分

倭女王 VS狗奴国男王

これをみると、後半部分の原資料では、前半部分の原資料と全く異なる倭国観のあった可能性がありそうです。 つまり後半部分の原資料であろうと思われる、魏の公式文書中では、国々の集まりとしての倭国観ではなく、卑弥呼以下一つの倭国観というべきものがあったのではないでしょうか。 ではこれを裏付ける記述はあるでしょうか。 そうとれる部分があります。

更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。

ここでは卑弥呼以後の政治的混乱について述べられています。 ところがここでは、国々という表記は存在しません。 不服を持ったのも、壹與が立ってついに定まったのも、いづれも国々ではなく、国中なのです。 さらにここでは国々の争いによって人が死んだとはされておらず、相誅殺という表現が使われているのです。 あくまでもこの乱は、倭国という一つの国の中の争いであるとしている訳です。 これが現実であったかどうかはともかく、これが魏使または公式文書をまとめた魏の、「公式見解」であろうと考えます。

それではこのような、一つの倭国観によった記述は前半部分には存在しないのでしょうか。 最初に目に付くのが次の一文です。

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。

ここでは其國などという代名詞が突然登場し、読み手は一瞬当惑しやがて其國が倭国であることに気がつきます。 これはもともと倭国に関して書かれた文脈の中から抜き出された可能性があると古くから指摘されてきた部分です。 この一文中を見ると、其國には長く王がいたことになっており、その後乱れて卑弥呼を共立したことになります。 ここにも倭国を構成する国々の姿はありません。 常に一人の王に治められていた国であり、卑弥呼の共立前も国々が争ったのではなく、倭国の「乱」な訳です。 この文章は、一つの倭国観によって書かれていると考えます。 しかもこの文章は、前半部分で唯一「人名」の現れる文であり、後半部分に特徴が似ています。

私はこの一文は、本来魏の公式記録の中にあったと考えます。 ではなぜこの一文だけ切り離されて、前半のこの部分に置かれたのでしょうか。 前半部分の記述を見ると以下のようになっています。

陳寿はこのような文章に加えて、魏との外交の書かれた魏の公式記録を合わせて倭人条を作り上げたと考える訳ですが、魏の公式記録には、外交記録のみならず、倭国の歴史なども書かれていたのでしょう。 この歴史記録を挿入するとしたら、構成上前半部分の2に引き続くのが自然と考えたのではないでしょうか。

この結果全体の構成が

となったのでしょう。

ところで魏の公式記録には、外交と歴史の記述しかなかったのでしょうか。 倭人条をみるともう一つ倭国の現れる場所があります。

自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

ここで問題となるのが国中の意味するところです。 これを伊都国と採るのは、わざわざ特に女王国以北に置くと言っている一大率の表現としてはうまくないように感じます。 他に中国説もありますが、東夷伝を見渡した限りでは、そのような用例はありません。 国中を倭国と採るのも、特に女王国以北に置くと言っている一大率の表現としてはうまくないように思います。

ここはやはり国中を倭国と採り、如刺史は一大率とは別と考えるのが妥当のように思います。 また王遣使以下を一続きに捉えると、「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國」と「傳送文書賜遺之物詣女王」がどうもしっくりきません。 まず「王」で始まって「女王」で終わることになります。 漢籍に詳しくないので分かりませんが、このような日本語感覚ではねじれた表現を、漢籍では好んで使うことがあるのだそうですが、そのように切って捨ててもよいのでしょうか。 また「傳送文書賜遺之物詣女王」が「遣使詣京都、帶方郡、諸韓國」にかかるのはそのままでは不自然との、那珂通世氏の指摘もあるようです。 私はここでは一旦佐伯さんの「魏志倭人伝を読む」の解釈に従います。

佐伯さんは以下のように区切って読まれるようです。

以下は私の適当な理解ですが

ただこのような理解でもどうもしっくりきません。 まず、国中が倭国の前に来ています。 また2の説明は、いかにも一大率の説明として読まれそうであり、文章的には何か関係付けられているように思えます。 また「於國中有如刺史」を「国中において刺史の如きあり」と読むのは、この時代においては無理との指摘もあります。

私は2.の部分はもともと倭国に関して書かれた、魏の公式文書の文脈の中にあったものと考えます。 つまり前半部分の原資料である、魏略もしくは何がしかの先行史書には

自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

(女王国より北には、特にひとりの大率を置き、諸国を検察させている。諸国はこれを恐れている。(一大率は)常に伊都国で治めていて、文書・賜物を女王に伝送して、誤ることがない。)

魏の公式文書には

(倭国のある官に関する説明)+ 於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露。

((倭国のある官に関する説明)+(この官は)国中において刺史の如しである。王が洛陽や、帶方郡、諸韓國に使いを遣わしたり、郡が倭国に使いを送る場合に、皆津に臨んで検閲する。)

と有ったのではないかと思います。

(倭国のある官に関する説明)としては例えば(倭国の大きな津には、それを検察する役人が置かれている。)というような内容を考えます。

陳寿は公式文書中の一文の示す官を、先行史書の一大率と同じものであると考え、公式文書中から一字一句変えずに抜粋して、一大率の文中に置いて、その説明として一続きに読める絶妙の位置に挿入したのではないでしょうか。 ところがいかに絶妙の位置に置かれても、もともと異なるコンテキストの中にある文を挿入したために、この部分は難解な文章になったと考えます。

前半部分における魏の公式文書からの挿入はこれだけでしょうか。 少なくとも倭国が現れる部分は他にありません。 先行史書にはもしかしたら、倭国という概念は無かったかもしれません。

では前半部分における里程の記述はどうでしょうか。 公式文書には倭国の地理的記述はなかったのでしょうか。

もしもここまでの推論が正しければ、公式文書中に倭国の地理的記述があったとしても、それは一つの倭国観に基づくものであったでしょう。 とすればそれは同じ東夷伝中でも、夫餘や高句麗の記述のように、一つの国の地理として書かれていたのではないでしょうか。

陳寿の時代すでに漢書において、南海中の国々としての倭人観があり、陳寿の参照した先行史書により、山島によって国邑をなすイメージができていたと思われます。 この倭国観は、隋書にも引き継がれ、一部には明代まで引き継がれます。 仮に公式文書中に倭国の地理的記述があったとしても、陳寿は常識から外れたそのような記述を選録しなかったのかもしれません。

前半部分の里程は、そこに置いて王の称号など魏との政治的関係を気に留める風の無いこともあり、おそらく本来全く魏使とはかかわり無く書かれたものと考えます。

里程自体、記述がつぎはぎで、一貫した経路として不自然なことも、このことを裏付けると考えます。

変更履歴

shiroi-shakunage記す


shiroi-shakunage