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卑弥呼はなんと呼ばれたか

−漢字音からみた倭人伝−

概要

倭人伝の音訳漢字を、群分けすることによりその性格を分類し、各群の音訳者像にせまった。また音訳者像をもとに、倭人伝の成立プロセスに関して簡単に論じた。



目次

 

1.はじめに

倭人伝の音訳文字に関しては、その音価を推定するに当たって多くの困難が指摘されている。その根本は音訳者像と音訳対象の言語(ここでは三世紀倭人語)が不明であることであろう。音訳者像を限定し、適当な音価を推定して倭人伝中の漢字を読むケースがほとんどであるが、音訳はさまざまな時代に渡って行なわれたことが確実視されている。地名などでは考古学的見地などから、ある程度音価の推定できるケースがあり、音訳された時代が古く遡ると推定されているものもある。例えば、「對馬」「一支」等は倭人伝の記述からまず間違いの無いところであろうが、これに続く「末盧」「伊都」「奴」等、北部九州の博多湾岸の国々に関しても、日本書紀に遡る「松浦県」(まつらのあがた)、「伊覩県」(いとのあがた)、「儺県」(なのあがた)等の類似する古地名や、宇木汲田、桜馬場、三雲、須久などの遺跡との対応から、まず間違いの無いところと思われる。伊都に関しては代々の王がいたことや、群使の常にとどまるところとされること、奴に関しては北部九州最大の人口を擁していた事実も、考古学的知見と一致する。地名の類似を一致と捉えると、「末盧」をマツラ、「伊都」をイト、「奴」をナなどとすることになる。「伊都」は中国の古漢字音で三世紀の音で読めるが、「末盧」「奴」等は前漢以前に想定される音となり、音訳漢字成立の背景の複雑さの一端を知ることとなる。この論考では、倭人伝の音訳漢字が広い時代の方言を含むさまざまな漢字音によると言う前提を置き、音訳漢字を幾つかの群に分類して、各群の対比からその性質を割り出すアプローチをとる。このアプローチの場合、音訳文字の性格を知るためには、的確な分類が必要で、的確な分類のためには音訳文字の性格が必要とされるという根本的問題がある。本稿では、記事から読み取れる一次近似的な群分けから始め、性格付けと群分けを順次精密化する方法をとった。また音訳漢字が極めて僅少なため、各群の性格付けにはおのずと限界がある。ある地点から先は、残された音訳文字から分かる解像度を超える恐れがあるが、虚像を描き出すことを恐れず、思い切ってその限界に近づこうとした。各群の性格の違いには音訳者側と倭人側の両方の違いの可能性が含まれるため、そこから導き出される結論には任意性がある。本稿ではもっとも蓋然性のある可能性を提示することを心がけた。

2.森博達氏による音訳文字の分類(人名群)

本稿の出発点は森博達氏の「日本の古代1 倭人の登場」第5章「倭人伝の地名と人名」である。この本には文庫本とハードカバーがあり、中公文庫に収録されたものは内容が修正されている。本稿は文庫本の内容に基づいている。この本の中で氏は音訳漢字を幾つかのグループに分けておられるが、その中でもっとも信頼性の高い音訳漢字として、「人名」のグループが挙げられている。このグループに属する単語は以下のとおりである。

人名群(延べ24文字:魏の洛陽音を想定し、概ね中古音的に読む。)

これらの音訳漢字は魏の詔書中に現れる「卑彌呼」「難升米」「牛利」をはじめとして、魏への使者である「伊聲耆」「掖邪狗」なども、全て魏の時代の洛陽で音訳されたことは確実と思われる。また「卑彌弓呼」「載斯」「烏越」は、帯方郡太守、王[斤頁]への報告の際に音訳されたと思われる。当時の帯方郡は魏の傘下に入ってまもなく、中央からの意を汲む官僚が派遣されてきていた蓋然性は高い。実際この報告の直前、官僚の意思疎通のミスで韓族の反乱が起こっていることは、現地の実情に疎い中央官僚の存在を思わせる。魏の中央政府のある洛陽を意識する報告書の中で音訳されたものであれば、洛陽音を話す官僚によって音訳されたものであろうと考えられる。そして「卑彌呼」同様、魏の都へ使者を立てた倭国の王である「臺與」も、おそらく音訳には魏の洛陽音が用いられた可能性が高いと考えられる。このように人名群は、倭人伝の音訳漢字の中で、音訳者像が限定できる唯一のグループである。森博達氏もこのグループをもっとも信頼性の置けるグループとしており、倭人伝の音訳漢字を考える上で、いわば定点となる部分である。森氏は「倭人伝の地名と人名」で、音訳漢字を四つに分けておられるが、本稿ではまず確実なグループのみを取り出すこととする。

3.森博達氏による音訳文字の分類(「傍21国」群)

人名群に続くグループは「其餘旁國遠絶、不可得詳。」とする傍21国の音訳漢字である。まずこのグループは倭人伝の文中で一つのかたまりをなしている。森博達氏の分析により、この一群が他に比べて、漢字音的に著しい特徴があることが示された。倭人伝音訳漢字の中には、中古音で模韻に属する漢字が多く含まれている。以下に倭人伝中の模韻字を示す。

「謨」「模」「觚」「古」「吾」「烏」「呼」「都」「奴」「盧」「蘇」

倭人伝の音訳文字は全部で延べ144 文字ある(森氏の計算から「都市」を抜いた数。以下同じ)。一方模韻字は延べ36文字あり全体の四分の一を占める。傍21国の漢字は全部で44文字あり、模韻字は18文字でその四割を占める。傍21国以外では二割を切る値である。傍21国の模韻字を中古音で読むと、それは現代日本語のオ列に近い音となり、奈良朝の音で言えばオ列甲類の音に該当する。森氏は「倭人伝の地名と人名」の中で、中古音で傍21国の国名の音訳漢字を評価すると、上代日本語ではオ列甲類の割合が僅少であることや、オ列甲類が語幹で連続しないなどの法則に著しく反するとし、この漢字群を上古音的に読むべきであるとされた。倭人伝中の言語が上代日本語とは異なると考えたとしても、オ列甲類のような円唇性の高い母音が全体の四割を占め、ア列のような自然な母音をはるかに上回るとすれば、これは言語として尋常ではなく、森氏の言うように、傍21国の模韻字は上古音的に読むのが妥当であろう。森氏はこの事実をもとに、傍21国の音訳漢字の成立を上古音の優勢な前漢時代に設定されたが、なんらかの中国方言音の関与の可能性もあり、結論は保留したい。ここに倭人伝中で割合に一体感のある漢字群が、漢字音的にも特徴のある群として分離できた。

傍21国群(延べ44文字:音訳者像不詳。模韻字を上古音的に読む。)

4.残余群

残りのグループをとりあえず残余群とする。このグループは倭人伝のいわゆる「里程」の中に分布し、その記述様式のばらつきなどから考えて、おそらく一群として捉えることは出来ない。はじめにでも述べたように、このグループには模韻が上古音的な音価を取っていたと思われるケースと、中古音的な音価を取っていたと考えられるケースが混在している。

残余群 (延べ76文字:詳細不明)

5.曉母の謎

倭人伝の音訳漢字に関する最大級の謎は、その音訳漢字群に曉母の文字が現れることである。倭人伝中の音訳漢字の曉母字とは以下の二種である。

「好」「呼」

これらの字は以下の語に現れる。

人名群

傍21国群

残余群 無

曉母は頭子音がh音であることを示す。

森氏の「古代の音韻と日本書紀の成立」によると、α群と氏が呼ばれる唐代の中国原音によるとされる音訳文字から、奈良朝の時代には日本語にはh子音が無かったことが分かっている。残された資料によって日本語の歴史を見ると、現代日本語のハ行音にあたるhの子音はp音から変化してきたことがわかる。すると何故それよりも古い時代の資料にh音が残っているのだろうか。実は他にもh音的な子音である匣母(hの濁音)が使用されている。

「獲」「華」

ただしこちらはいずれも合口と呼ばれる音で、森氏によれば日本の仮名に置いてもワ行音を表す文字として使われている。このことからワ行音を表したものと考えて問題はないだろう。一方残された曉母はいずれも合口などではなく、日本書紀α群に置いては類例の見えない文字である。「卑彌呼」は果たしてなんと呼ばれたのだろうか。

同じ日本書紀でも、β群と氏が呼ばれる日本人による音訳漢字には、曉母の文字が現れる。これは同時代の日本語にはh音がなく、日本人にはその当時の中国人のh音をk音に聞いてしまい、この結果カ行の音に曉母の漢字を当ててしまった為であるとされている。つまり残された曉母字の存在の意味するところは、以下の二つの可能性のうちいずれかである。

a.倭人伝の音訳漢字の音訳は倭人(ないし h音と他の子音を区別できない民族)が行なった。

b.三世紀の倭人語にはh音と聞きなせる音が有った。

a.に関して森氏は「倭人伝の地名と人名」の中で、倭人伝に現れる音訳漢字には次清音が現れないことを示されている。次清音とは有気子音を伴うことを意味するので、ここに次清音が現れないことは、当時の倭人語に有気子音が存在しなかったことを示している。次清音を使わなかったということは、この音訳者は当時の中国の漢字音の有気子音と無気子音を聞き分けたであろうから、倭人が音訳者とは考えられないことになる。魏の洛陽音と想定できる「人名」群にも曉母字が存在するということから、他の民族の介入も考えがたく、それが当時の倭人語の何らかの音声現象を表現している可能性が指摘できる。そこで曉母は一体どのように現れているか検討してみよう。

現れる群は、「人名」群と「傍21国」群である。「傍21国」群中では模韻を上古音的に取る。「呼」と「好」の音訳文字の対立のあることや、日本語の音節構造を考慮した場合ha、hoのような音を表していると考えられる。また「人名」群では、中古音的に評価してhoのような音を表していると考えられる。残された音訳漢字は僅少なので、果たして他の母音と結びつかなかったか保障は無いが、とりあえず残された曉母を説明できる音声現象はないだろうか。それは特定グループの奥舌母音の/a /、/o/の前だけに現れる。

6.琉球語でのカ行音摩擦音化現象

日本語の祖形を考える際に、文献資料の他に重要な資料となるのが方言の研究である。とくに琉球方言はしばしば琉球語といわれるほどに、日本語から離れている。現時点で日本語と親族関係にある唯一の言語と考えることが出来る。音韻対応のある親族言語が存在すると、共通の祖語を構成することが出来、言語の理解が深まることが多い。さて琉球語にもいろいろな方言があるが、その中で一部の方言(今帰仁方言など)では、日本語の「カ」「ケ」「コ」に対応した音が「ハ」「ヒ」「フ」に変化している例が見られる。(服部四郎「日本語の起源」)下記に今帰仁方言に関するサイトをあげる。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/nkjn/outline.html

なおこの変化は

タフー (たこ)

のように語頭のみならず語中でも起きている。またこれらの方言ではカ行音のハ行音への摩擦音化現象が、母音のe、oがi、uに変化する現象とほぼ前後して起こっているとされている。参考としたサイトをあげる。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~kinsui/kokugo03/maeda.pdf

したがってこれらの方言のh音がそのまま三世紀の日本語の生き残りであるとは言えない。しかし上代日本語の特徴を数多く残すこれら琉球語の方言と、日本語の共通の祖語を考えることは、比較言語学的に自然な行為である。すなはち、これらの方言でh音化した子音と、その他の日本語、琉球語でk音化した子音の共通の祖形を考えることが出来る。この子音の対応関係が「カ」「ケ」「コ」、すなはち、母音のa、e、oに見られることから、共通祖語のカ行として、以下のような形を考えることが出来るだろう。

xa ki ku xe xo

本来上代日本語には母音の甲乙があるがここでは簡単のため無視した。ここで子音のxは後にhとkに分かれる祖形で、常識的にはkとhの中間のある発音であろう。このような日本琉球祖語のカ行を考えると、倭人伝音訳漢字中の曉母を説明できそうである。特定の母音の前で/k/音が変化していたとするので、これをK音条件異音説とする。

7.K音条件異音説

もしも倭人伝音訳漢字中の曉母が、/k/音の条件異音に基づくとするとどのようなことが言えるのだろう。まず残余の群に全く曉母が現れないのはどうしてだろう。残された曉母と「カ」「ケ」「コ」音にはどんな関係があるだろうか。そこで「カ」「ケ」「コ」に注目しそのような音を音訳したと思われる漢字を各群から選んできた。

人名群

傍21国群

残余群

「カ」「ケ」「コ」を表す可能性のある漢字を括弧でくくった。これを見ると、残余群では「カ」「ケ」「コ」が曉母(h音)ではなく見母(k音)で表されている可能性が見えてくる。それでは「人名」群と「傍21国」群の例外は何か。まず人名群の「狗」を検証してみよう。この字は読みとしては、「ク」「コ乙」「コ甲」の可能性がある。つまり必ずしも「カ」「ケ」「コ」を表しているとは言えない。「狗」を「コ」と読む可能性は、「卑狗」を「ピコ甲」と読みたいが為ではあるが、この可能性は一番低いだろう。むしろ母音の/u/と/o/の交代の可能性を考えると、「ピク」で十分ではないだろうか。また「掖邪狗」の「狗」には重大な疑惑がある。現在残されている紹熙本、紹興本の印影を見ると、「掖邪狗」は最初の登場が「掖邪拘」で残りの二回が「掖邪狗」となっている。この部分は九世紀写本と言われる翰苑にも、同じく「掖邪拘」となっており、本来はこちらの字が本当かもしれない。「拘」には日本書紀α群で、ウ列音を表すために多く用いられた、虞韻の読みがある。とりあえず「狗」を「コ」の候補から外してみる。

人名群 無

傍21国群

残余群

残された「傍21国」群の古をどう考えればよいだろうか。今帰仁方言には次のような語が発見される

(表1)方言比較表
今帰仁方言首里方言日本語
ハクーミンカクーミンかこむ
ハカイシガイカカイシガイかかりすがり

最初の例では語幹「かこ」が

今帰仁:xako →  hako → haku

日本語:xako →  kako

のように、

二番目の例では「かかり」が

今帰仁:xakari → hakari → hakai

日本語:xakari → kakari

のように変化したと思われる。つまり祖語にはxoxaのようなxの連続する組み合わせは無かった可能性がある

実際祖形に遡ってxaxa、 xaxe、xaxo、xexa、xexe、xexo、xoxa、xoxe、xoxoになるような例は見出せなかった。

検索した今帰仁方言のデータベースをあげる

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/nkjn/index.html

この結果から、倭人伝の「人名」群と「傍21国」群の音訳者においては、その時代の倭人語のk音の条件異音を聞き分け、kとhの中間的な音であるx音を、/h/音のように聞きなして曉母字を当てはめた可能性が高いことが示せた。卑彌呼は上代日本語では、ピミコないしフィミコに対応し、現代日本語にまで引き寄せて考えるならば、ヒミコのように読みなす言葉であったと考えられる。それでは残余群は一体どのように考えればよいのだろうか。

8.K群、疑K群

残余群の性格は依然不明で、ひとつの漢字群と捉えてよいかどうかの心証もない。ここで残余群の中から比較的一体として考えられる漢字群を抜き出すことを考える。残余群の内k音の条件異音を記録しなかった語群をK群として分離する。さらにK群と同じ国の官名は同時に音訳された可能性が高いと考えてK群に含める。この結果、「伊都」「奴」「邪馬臺」「狗奴」の官名がK群に属する。するとK群には「奴」の官名「卑奴母離」が含まれてくるので、この官名を含むほかの国「對馬」「一支」「不彌」の官名もまたK群に含める。このように「投馬」を除く国々の官名がK群に含まれることになった。(この結果は偶然ではあるが、狗をコととっても同じである。)それではこれらの官名の属する国名はどうであろうか。常識的に考えれば、国名も同じグループと考えたいところではある。しかし残余群の国名の内「末盧」には官名が無く、官名と国名が果たして同時に成立したかどうか若干の疑問がのこる。音訳表記は、いったん成立したものが使いまわされるという特徴があるため、国名のように継続性の高いものについては、そもそも官名と同一と捉えるのは不安がある。そこで残余群の「投馬」を除く国々の国名表記の漢字を、別のグループとして疑K群とする。

K群 (延べ51文字)

疑K群 (延べ16文字)

K群の音韻的特徴はなんであろうか。このグループにはK音の条件異音の聞き分けの痕跡がない。この原因は二つ考えられる。

a.このグループの音訳者は倭人語のK音の条件異音を聞き分けられなかった。

b.このグループの音訳者は「人名」群や「傍21国」群とは異なる倭人語の方言を音訳した。

この二つの原因は原理的に音訳文字だけからは決められない。しかし仮にa.が正しいとしても、音訳者がk音とh音を聞き分けられなかったという訳ではない。もしそうなら上代日本語の話者と同じで、中国語の曉母(h音)と見母(k音)も聞き分けられず、結果として曉母字が現れたであろう。a.が正しいとした場合には、音訳者の音声に対しての音素としての判断に違いがあり、中間的な音のxをK群では/k/音、「人名」群や「傍21国」群では/h/音として聞いたことになる。

9.K群、疑K群の表記の性格

K群の音韻的特性にせまるためには、音価の推定が必要である。K群には「卑奴母離」という官名があり、この読みに関しては有坂秀世氏などの多くの議論があるが、現時点での最有力候補は、日本書紀にみえる鄙守(ひなもり)であろう。もし「卑奴母離」をヒナモリのように読みなすとすれば、「奴」の音価はナであったことになる。一方同じK群には「多模」という官名があるが、ここで注目すべきは歌韻字の「多」が現れることである。「末盧」が後に「末羅」に、「奴」が後に「儺」に書かれるケースをみると、歌韻字は模韻字の音価がaからoへ移っていった後に、その代役を務めていることが分かる。「多」と同じ声母の模韻字「都」は果たしてどのような音価だったのだろう。「卑奴母離」にしても「多模」にしても、音価を決定するには十分な根拠とは言えないが、K群において「奴」がナ、「都」がトのような音価を持っていたことを「暗示」させるものである。次に疑K群の音価を見てみよう。ここにははじめにで見たように、地名比定のうまく行っている国名があり、音訳漢字の音価を決めやすい。「對馬」ツシマ「一支」イキ「末盧」マツラ「伊都」イト「奴」ナ等の例でかなりの音価が推定できるが、そのほかに「狗奴」国の「奴」もナと読むのが妥当であると考えられる。なぜなら、上古音的な模韻の音価を想定した「傍21国」群には「奴」で終わる国名が頻出しており、これらをナで終わる国名と読むのなら、「狗奴」もナで終わっていた蓋然性が高いからである。これら国名に上古音的な音価が現れることから、国名に関しては古い音訳であるとする説が有力であった。しかしながらそうした説では、倭地の奥深くにあったと思われる「狗奴」ですら上古音的な音価を持っているのにもかかわらず、最も早くから漢王朝と交渉を持っていたと思われる「伊都」の音価が中古音的であることが説明しがたい。これら疑K群の国名から得られる模韻字「盧」「都」「奴」の音価はそれぞれラ、ト、ナとなるが、「都」「奴」の音価がK群において暗示される音価に等しいことは、K群、疑K群が同時に音訳された可能性を強く疑わせる。もともとある一文の中で出てくる、国名とその官名が、大きく時期の違う音訳であるとするほうが不自然であろう。少なくとも疑K群の内、「伊都」「奴」「狗奴」は官名と同時もしくは、同様の言語的背景を持つ音訳者に音訳されたとして十分であろう。

10.K群、疑K群の音訳者像

K群、疑K群の音訳者はどのような人々だろうか。このグループでは中古音の同韻、同声調の漢字の音価が異なる可能性がある。これは魏の洛陽音などではありえない。三國志 魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳(宋 裴松之 註)に現れる漢字音をみてみると、魏略、魏書などの註を含めて、東夷伝の部分に魏の洛陽音とは思えない音訳漢字が目立つ。例えば韓伝の国名のうち、「斯盧」は後の「新羅」であろうが、すると「盧」はラと読まれることになる。(長田夏樹「邪馬台国の言語」)これは上古音である。また高句麗伝では、「涓奴」、「絶奴」、「順奴」、「灌奴」等の音訳が現れるが、三国史記を見れば「貫那」、「藻那」、「朱那」、「桓那」などとなっており、これらの音訳文字に現れる「奴」はナのように読まれることが分かる。(同じく長田夏樹「邪馬台国の言語」)これもまた上古音である。ここで現れる「盧」と「奴」の音価は、疑K群での音価に等しい。これと対照的に「鳥丸」「鮮卑」の記述や、魏略西域伝には「盧」に対応する歌韻字が現れる。「阿羅槃」「扶羅韓」「于羅」の「羅」である。どうやらこの奇妙な音訳者は、少なくとも東夷伝に亘って影響を与えている可能性がある。ただし東夷伝中にも、傍21国のように、K群とも魏の洛陽音とも異なる音訳者の介在している可能性もある。また魏との政治関係など語られる部分はあるので、当然魏の洛陽音が現れてくる可能性もある。もうすこし慎重に見てゆこう。

韓伝の辰韓の国名「冉奚國」には、同じ魏誌の帝紀に見える「那奚國」が対応するようで、この国名リストも魏の中央官僚の手によるものとは異なるようである。その辰韓の国名リストにまさに問題の「斯盧」が現れ、同じリスト中に現れる「古資彌凍國」の比定地が、後の古自であることからすると、同じ音訳者の模韻の音価が、字によって異なるという特徴もありそうである。

実は東夷伝には、いくつか曉母(h 音)および匣母(hの濁音)の現れてくるところがある。匣母の合口字は、日本の仮名ではワ行音を表したことを考えて、それに似た音を表したとして除外しても、東夷伝中の特に韓伝の国名リストに、いくつかh音的な候補が残る。問題の辰韓の国名リストについて見ても、「冉奚國」の「奚」が匣母(hの濁音)で合口ではない。これは辰韓の国名リストにK群の音訳者の関与を認めることが出来ない理由になるだろうか。K群の音訳者は、h音とk音を全く区別できない人たちではなかったろうと推論した。ただ単に、倭人の条件異音の評価が異なっていただけであろうから、当時の韓人がk音とh音を、K群の音訳者にとってもはっきり分かるように話していれば、そのような文字が現れてきて不思議は無い。

一方、高句麗伝には「溝[シ婁]」という漢字音で、城を表すとする記事がある。三国史記より高句麗語で城は「忽」という漢字音で表されたと思われ、これに対して李基文氏は著書のなかで、これにxorのような音価を与えている。ちなみに中古音で「忽」は曉母(h音)で始まる音価があり、朝鮮漢字音ではhor(李基文氏「韓国語の歴史」)とされている。いっぽう「溝[シ婁]」は見母(k音)の「溝」で始まる。この結果は、K群と同様の現象が、高句麗伝の音訳にも現れていることを示すと思われる。(注1)

K群に曉母(h音)が現れないのは、音訳者に原因があるのか、音訳した対象の言語の方言差なのか、倭人伝だけでは結論できなかった。しかし異なる言語の音訳で、同様の現象が起こっているとすれば、原因は音訳者の側にあったことになる。

これをただの方言と考えることは不自然である。そもそも「奴」と「都」は同韻、同声調で、子音のtとnはいずれも舌先に調音点があり、この二つの字の主母音が大きく異なってしまう原因は想定できない。K群、疑K群の音訳を行なったのは、中華帝国の周辺にあって上古音時代以来の漢字文化を受容してきた、ある異民族ではなかったか。そして、その民族はおそらく有気子音と無気子音を使い分け、その当時の中国人とはやや異なる喉頭摩擦音を持っていた。

11.投馬国表記の性格

さて残りの音訳文字の内、漢書に遡る音訳文字の「倭」を除けば「投馬」国の官名、国名が残る。この音訳文字はK群とどのような関係にあるのだろうか。ここには「彌彌那利」という重要な音訳文字が現れる。ここに現れる「那」は歌韻字でありナの音価が推定され、K群、疑K群で現れる延べ7文字の模韻字の「奴」ナと対立する。もしここでも「奴」がナの音価を持っていたら、なぜ「投馬」国でのみ「那」が現れるのだろう。「投馬」国の音訳文字はK群、疑K群とは一線を引いたほうがよい。このグループを「投馬」群と名づける。

投馬群 (延べ8文字)

このグループはあまりにも小さくその性格を論ずることが難しい。しかしながら「彌彌那利」の「利」は、「傍21国」群の「巴利」、人名群の「牛利」と共通し、「卑奴母離」の「離」と対照をなす。森氏の「古代の音韻と日本書紀の成立」によると、「利」の音訳字は日本書紀α群β群の両方に現れるが、「離」は日本人の音訳とされるβ群のみに現れる。「投馬」群の音訳者像は、「那」同様に歌韻の読みを持つ字である「難」(ナ)が現れる、人名群にもっとも近いと思われる。

12.濁音の考察

森氏の「倭人伝の地名と人名」には、上代日本語と倭人伝中の音訳部分の比較が語られているが、この中で語頭の濁音について議論されている。倭人伝の音訳単語にはそもそも語頭の濁音字は少ないのだか、森氏は例外として三例をあげられた。最近の研究で「都市牛利」の前半の「都市」は音訳ではなく、中国名の官名であるとの説が現れたので、これを採用すると、森氏のあげられたものの他に「牛利」を入れて四例となる。これらの理由として森氏は、誤写や脱落の可能性のほかに、その当時の中国の全濁漢字の濁音があまり強くなく、倭人語の清音を表した可能性をあげられている。その根拠として、全濁音の前にng のような音で終わる字を用いて、gで始まる濁音を強めているとされる例を二例あげている。そこで全ての音訳語の中から、全濁音字を含むものを全て抜き出してみる。

(表2)濁音一覧
単語備考
K群<柄>(渠)觚強め
K群([凹/儿])馬觚語頭
「投馬」群(投)馬語頭
疑K群邪馬(臺)
K群彌馬(獲)支
「傍21国」群(華)奴蘇奴語頭
「傍21国」群爲(吾)
「傍21国」群<躬>(臣)
「人名」群(牛)利語頭
「人名」群伊<聲>(耆)強め
「人名」群(臺)與語頭

ここで全濁音は()で、ng終わりは<>で囲んだ。語頭の場合備考に語頭と付けた。森氏の指摘している「強め」のケースは備考に強めと付けた。その時代の中国の全濁音が弱いとする説に異議は無いとしても、強めのあるものは全部で二例しかなく、濁音が非常に少ない印象を受ける。強めとは受け取れないケースの「< 躬>(臣)」などを見ていると、この時代の濁音は鼻濁音だった可能性が見えてくる。そこで中古漢字音とその連なり具合から、鼻濁音だった可能性のあるものを残すと下記のようになる。

(表3)鼻濁音一覧
単語備考
K群<柄>(渠)觚強め
「傍21国」群爲(吾)
「傍21国」群<躬>(臣)
「人名」群(牛)利語頭
「人名」群伊<聲>(耆)強め

また鼻濁音と取れないものは下記のようになる。

(表2)濁音一覧
単語備考
K群([凹/儿])馬觚語頭
「投馬」群(投)馬語頭
疑K群邪馬(臺)
K群彌馬(獲)支
「傍21国」群(華)奴蘇奴語頭
「人名」群(臺)與語頭

「華」と「獲」は、森氏によれば、ワ行音を表したそうであるから除外するとしても、鼻濁音と取れないものの中に語頭にくるものが多く、単なる全濁音は倭人語の清音を表した可能性はある。鼻濁音でありながら語頭に来るものが一例あるが、音訳者が聞き取りにくいような初音が有ったのかも知れない。実は単なる全濁音が倭人語の清音を表した可能性を強める事実がある。鼻濁音と受け取れない四例についてそのあらわす子音を見ると、上から順にz、d、d、dとなる。(ただし「華」と「獲」は除いた)この内特に「人名」群とそれに近縁と思われる「投馬」群の合計32文字について見ると、上に現れる全濁音字の定母(d音)に対応する、清音子音端母(t音)は全く現れない。一方K群、疑K群67文字には端母(t音)が四例、「傍21国」群には同じく44文字中三例現れる。具体的には、双方ともツを表していた可能性のある「投馬」群の「投」と疑K群の「対」の対応が目に付く。「人名」群、「投馬」群では定母(d 音)が端母(t音)の代わりに使われている様子が分かる。

邪母(z音)の([凹/儿]) 馬觚に関してはどうだろうか。この[凹/儿]を清音にとるとこれは、シマコないしシマカのように読めるが、これは「傍21国」群の「斯馬」と対応していると思われる。また「人名」群では「載斯」の「斯」が現れるので、心母(s音)がK群では邪母(z音)で表されている様子が分かる。同じK群の「泄謨觚」をシマコのように読む説があるが、入声字の「泄」をシの様に読むだろうか。ここはセ、セツないし、去声ではあるがイェまたはヤの様に読むほうが、分がありそうに思う。

さてもう一つ気がつくのは、濁音の候補として上がったものはほとんどガ行音であるという事実である。唯一の例外「躬臣」も「躬巨」などの誤写を疑うべきかも知れない。ガ行音以外の濁音が無かったのかどうかまでは分からないが、ここで「傍21国」群の「吾」のような模韻字を見ると、ガ行音にはカ行音に見られた条件異音が見られなかった可能性がある。今帰仁方言でもカ行濁音には、摩擦音化現象が見られないことから、想定する祖語のカ行濁音はすべて破裂音であったと考えられる。

最後に疑K群の「邪馬臺」を考えてみたい。ここには定母(d音)の「臺」が出てくる。しかしK群、疑K群ではタ行を表すのに端母(t音)を多く用いている。確かなことは言えないが、「邪馬臺」がもしも清音を表したものであれば、「邪馬臺」は「人名」群に近い「投馬」群に入れるべきかも知れない。

13.傍21国表記の成立時期

さて「傍21国」群の成立時期を推理してみたい。これが中国の方言音であるとすると、その成立時期を推定する手がかりはない。他の音訳文字とは独立に、何時の時代か、どこかで音訳されたとするよりない。さてこれが中原音であるとすると、古漢字音の研究成果を適用できる。「傍21国」群は森氏によれば、前漢時代に遡る漢字音となる。上古音的音韻から中古音的音韻への変化はじょじょに起こって行くのだが、前漢、後漢の間にかなり大きな音韻変化があるらしい。この音韻変化は何によるものだろうか。音韻変化は、異民族の流入など時代の変化によるとされるが、大きな異民族流入はその後の五胡十六国時代に起こっている。この音韻変化は長安から洛陽への都の移動が大きな要因となったのではないだろうか。実際後の唐の時代、隋から唐への交代によって、都が洛陽から長安に移り、音韻が大きく変わったことがある。唐初から音韻が変わってゆくプロセスが知られている。音韻の変化が都の移動が原因とすると、前漢、後漢の間の変化は洛陽遷都後に起こったことになる。さて奴国の朝貢した57年は初代光武帝の最末期で、洛陽遷都後ようやく一世代経とうかと言う時期である。当然古音はまだ残っていただろう。音訳者が、保守的な人物であれば、上古音的な音で音訳した可能性がある。実際奴国のもらった金印には「奴」となっていたのであるから、その時代の音訳が「奴」=ナである可能性は十分ある。とすれば傍21国の漢字表記が、中国語の方言で行われたのでなくとも、57年の奴国朝貢時までは成立の可能性があるであろう。残念ながら、「傍21国」群には、その来歴を語る部分がない。ただまさにその傍21国の最末尾に「奴」国が現れることは、この国名リストが奴国朝貢に関わりのあることを期待させてくれる。

14.K群、疑K群の成立時期

K群、疑K群は何時頃成立したのであろうか。倭人伝の狗奴国の節には、狗奴国が女王に属せずとなっている。この政治状況は、魏との外交を書いた部分の記事と整合しており、狗奴国の節が書かれた時代が魏の時代から、そう離れた時代ではないことを示している。では魏の使者とこのグループの成立の前後関係はどうであろうか。「人名」群の音訳文字は、倭人伝中の歴史外交の記事に現れるが、このなかで倭の女王「卑彌呼」と「狗奴」国の男王「卑彌弓呼」がもとから不仲となっている。すでに説明したとおり、「狗奴」の「奴」は「傍21国」群との比較から、ナと読まれる可能性が高い。これは魏の洛陽音とは考えられないので、魏政府はなんらかの文書により、この情報を入手したと思われる。そのような文書の最大の候補はK 群、疑K群の属する、「狗奴」国を含む国々の記述であろう。すなはち、K群、疑K群は少なくとも、正始八年には成立していたと思われる。また女王と「狗奴」国の不仲がもとよりとは、おそらく魏と倭国の国交が始まる前を意味しており、もとの文章に年次が入っていないことを考えれば、魏政府はK群、疑K群を含む記事が、魏と倭国の国交が始まる前に成立していた事を知っていたのであろう。おそらくK群、疑K群を含む記事が成立したのは、公孫氏が極東に割拠していた時代であろう。公孫氏自体は生粋の中国人と思われるので、そのような政治状況で、なぜ異民族と思われる特異な漢字音を持つグループが大きな役割を果たすことになったのか興味深い。

15.漢字音からみた倭人伝の成立プロセス

漢字音からみた倭人伝の形成プロセスをまとめてみる。

記事を音訳文字から下記のように分類する。

a.「對馬」国から「狗奴」国にいたる記述のうち、「投馬」国と傍21国を除く部分

ここはK群、疑K群の属する部分である。

b.「投馬」国の部分

ここは「投馬」群の属する部分である。場合によっては「邪馬臺」の国名のみを含むべきかもしれない。

c.傍21国グループ

d.外交歴史の記述

ここは「人名」群の属する部分である。

さきに見たように成立時期をみると(a)は(d)よりも早い。(c)は(a)に取り込まれるようになっていることを考えると、(a)より早い。(b)の音訳文字は「人名」群に近いので、魏と倭国の外交成立後と考えられ、(d)とほぼ同時期。

これらをまとめると

第一段階:

傍21国の記事が成立。時期不詳であるが、音訳者が中央官僚なら57年の「奴」国朝貢時の洛陽、もしくはそれ以前の長安での成立の可能性がある。

第二段階:

「對馬」国から「狗奴」国にいたる記述のうち、「投馬」国を除いた部分が成立。公孫氏の勢力下の極東で成立した可能性を疑う。

第三段階A:

「投馬」国の国名官名の記述が追加される。場合によっては「邪馬臺」の国名のみはこのときに追加された可能性もある。魏使の時代とほぼ同じ。

第三段階B:

魏使の外交記録が成立。

第四段階:

第三段階のAとBで成立した記事が合わせられる。

陳寿は第四段階に関与したものと考える。

16.まとめ

本稿では倭人伝の音訳漢字を、主に漢字音と今帰仁方言を基に、記事内容の助けを借りて分類し、各群の性格と成立時期を議論した。結果として倭人伝の音訳漢字は大きく分けて三つの群に分けられることを示した。一つは魏の洛陽音に属すると思われるグループで、倭人伝中の「人名」漢字と「投馬」国の官名国名、場合によっては「邪馬臺」の国名もこのグループに属する。もう一つは傍21国の国名漢字で、詳細は不詳であるが、場合によっては57年の洛陽音またはそれ以前の長安音によると思われる。最後の一つは「對馬」国から「狗奴」国にいたる記述のうち、「投馬」国と傍21国を除く部分に現れる音訳漢字で、これらは特異な漢字音を持つと想定される。最後のグループは極東における何らかの異民族の関与が疑われる。その成立環境として、極東における公孫氏の割拠状態が疑われる。

これは現時点ではあくまで想像であるが、公孫氏勢力下において何らかの原東夷伝が成立していたのではないだろうか。倭人伝の場合をみればその内容は、歴史や外交を含まず、何らかの地理書のようなものを想起せざるを得ない。東夷伝においてしばしば、魏代の記事にも古い漢字音が現れるのは、倭人伝において「狗奴」が魏と倭の外交記録に現れることと共通する。東夷伝書稱にあるとおり、東夷の世界は公孫氏下では、中国中央政府と切り離されていた。おそらく公孫氏打倒後、魏政府が現地の情報として、積極的に公孫氏下で成立した地理書を参照したのであろう。現在我々が「英」「米」「独」などと本来音訳文字であったものを符号化して使うように、文書から入った情報の中にあった固有名詞の音訳漢字は、そのまま使いまわされたのであろう。歴史には残されていないが、おそらくこの地理書は魏誌、魏略が出る前にすでに一部にその内容が流布していたと思われる。魏略もこの情報を利用し、その結果一部の記述が似てしまったものであろう。

注1

「忽」の頭子音の音価に関して、kのように評価する場合もある。しかしその理由は、一つは論考中に挙げた「溝[シ婁]」の例、もう一つは高句麗語の口を表すと推測される二つの漢字表記「忽次」と「古次」の例と思われる。李基文氏は「韓国語の歴史」第三章 韓国語の形成の高句麗語の項で、「忽」の高句麗音価に関して下記のように述べられている。

『「忽」は中古中国音ではxuәtであり、東音(引用注:李基文氏曰く「新羅の系統を引く我国の伝統的字音」)ではhorであるから、語頭音としては*xまたは*hを再構成することができそうである。ところでこの単語は「溝[シ婁]」(*ku ru)とも現われ、口を意味する高句麗語が「忽次」(*xurc)または「古次」(*kuc)と現れるので、高句麗語では語頭の*xと*kは互いに関連のあるものと考えられる。』

「忽次」と「古次」に関しては、李基文氏は本来方言差とされ、それぞれ「忽次」xolcと「古次」kocとされているようである。(韓国語の形成 W  高句麗の言語とその特徴)つまり「溝[シ婁]」を除いて「忽」の頭子音をk音と考える理由はみあたらない。中古音、朝鮮漢字音から推定される頭子音x(李基文氏の推定音)が本来の形であろう。

一方金芳観氏は「韓国語の系統」 V.1.7「忽」と「夫里・火」のなかで、「忽」は高句麗人男生と唐人李[責カ]が、鴨緑江以北の要衝の新地名に古地名を付したものが始まりで、その音価は中国式命名法によるものであり、中古音のχuәtとされている。金芳観氏はこれを基に「忽」はツングース系のχotonであるとし、同じくW.4.2で「溝[シ婁]」(küu-lüu)については別物として議論されている。しかし「忽」意外にも鴨緑以北の地名には「チ城本乃勿忽」から「乃勿」(推定:鉛)のような例が現れ、この意味の前期中世語が(namɔr)となることから、「勿」の中古音miuәtに対して、子音韻尾tに対する高句麗語音節rの対応が予想される。おそらく鴨緑江以北の地名のケースに対しても、高句麗語音節rに対して入声韻尾tを当てたとしてよいのではないか。このようなことから、「忽」はせいぜいχuәrのような音価であろう。とすれば同じ城を意味する単語に類似した二語を考えるまでも無いのではないか。

本稿は同じ城をあらわすと思われる、魏誌韓伝の「溝[シ婁]」と三国史記の「忽」の、語頭子音に関する食い違いに新たな説明を与えるものと考える。

参考文献

  1. 「日本の古代1 倭人の登場」中公文庫
    第5章「倭人伝の地名と人名」 森博達
  2. 「日本の古代1 倭人の登場」中公文庫
    第4章「『魏志』倭人伝を通読する」 杉本憲司・森博達
  3. 「古代の音韻と日本書紀の成立」 森博達
  4. 「日本語の起源」 服部四郎
  5. 「琉球語方言データベース」
  6. 「生成音韻論・最適性理論による日本語史研究」 前田広幸
  7. 「漢籍の書棚」 ALEX
  8. 「翰苑」 竹内理三校訂・解説
  9. 「韓国語の歴史」 李基文、村山七郎監修・藤本幸夫訳
  10. 「韓国語の形成」 李基文
  11. 「韓国語の系統」 金芳観、大林直樹訳
  12. 「邪馬台国の言語」 長田夏樹
  13. 「高句麗語地名データ」
  14. 「大論争」基礎資料


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