難升米考
-三国志東夷伝の倭人名について-
概要
三世紀の中国史書三国志の東夷伝には、同時代の日本列島に住んでいた「倭人の人名と思われるものが記録されている。 三国志など中国史書の、その当時の倭人の言語の、固有名詞を表したと思われる漢字表記については、長い研究の歴史があるが、いまだにその意味が明らかになっていないものが多い。 人名については、吉田孝氏がその著作日本の誕生の中で、師升や都市牛利について触れたものが比較的新しいが、それでもすでに20年以上が経過している。 本稿では、それ以前に三木太郎氏がその著作倭人伝の用語の研究に納められた、伊聲耆掖邪狗についてをもとに、三国志東夷伝の倭人の人名には、職掌と思われるものが含まれているとの仮説を立てた。 この仮説に基づき、職掌とした部分を、同じく三国志東夷伝中に現れる、官名を表したと思われる表記や、記紀に残る人名や職掌と思われるものと比較することで、その意味を推定した。 その結果、各使者の職掌と三国志東夷伝中に記載された、魏と倭の外交経緯の間に、思いがけなく良い対応関係があることをみつけた。 そればかりでなく、これまでその理由が判然としなかった外交経緯に関しても、解釈可能になることが分かった。
目次
1.はじめに^
三国志東夷伝倭人条(以下倭人伝)には、幾人かの倭国の使者の人名と思われる記載がある。 これは後漢書東夷伝に現れる、帥升を除けば、記紀等の文献記録に残される以前の、日本列島に住んでいた人々(以下倭人)の人名記録としては最古のものである。 しかしながらこれら倭人の人名については、音韻を表したと思われる漢字表記以外に何の記録もなく、その意味を探るのは非常に困難を極めた。 固有名詞の音価に関しては、有坂秀世氏以来多くの言及があり、比較的近年では、森博達氏がその音韻体系が、上代日本語に近いものであることを明らかにされた。(1) この事実は、倭人伝の固有名詞を解読するに当たり、極めて強力なヒントである。 しかしながら倭人伝の時代と、まとまった文献史料がある記紀の時代とは、五百年に及ぶ時間差があり、いまだ意味のわからない語が多い。 三木太郎氏はその著作の中で(2)、倭人伝に現れる伊聲耆掖邪狗は一人分の人名であるとされた。 現在伊聲耆掖邪狗は伊聲耆,掖邪狗の二人の使者の人名であるとされることが多いが、次使と見なされる掖邪狗には、率善中郎將印綬が与えられたにもかかわらず、正使と見なされる伊聲耆に対しては何の官位も与えられないことや、 冒頭に一度記載されただけで、二度と現れないこと等から、本来伊聲耆掖邪狗は一人分の名前で、前半部分の伊聲耆は二度目以降の記述では省略されたとされた。(補足1) 都市牛利についても、一度目だけ都市牛利二度目以降は単に牛利として、都市を省略していることや、中国人使者の張政に対して、二度目以降の記述では姓の張を省略して、名の政のみで記載されているのと同じことであると言う。 これは一見伊聲耆掖邪狗が、文中で伊聲耆掖邪狗等と、複数であることを示していることに矛盾するようではあるが、倭人伝が景初二年とする(補足2)最初の倭国の使者についても、引用された詔書の中では難升米と都市牛利の二人であるのに、下記のように地の文では、正使の名前だけを挙げて難升米等と複数であることを表している。
東夷伝倭人条:景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。
しかしそうであれば、その当時の倭人の人名には、中国人が姓として扱う様な部分と、名として扱う部分があったことになる。
一方この問題には強力な反論がある。 もしも倭人の名前に、性質の異なる二つの部分があり、中国人が前半部分を名を修飾するものと考えて省略したとするならば、何故難升米は二度目以降省略されないのか。 吉田孝氏は、倭人伝の中でも詔書を引用した部分はもっとも信頼性の高い部分であるとして、その中では難升米は省略されず、都市牛利は二度目以降牛利となっていることから、都市は大夫に相当する、中国の官名であると考えられた。(3) すなはち、初回の大夫難升米は二回目以降難升米に、都市牛利は牛利に省略されたとするのである。 吉田氏は実際に都市の印が存在したことも示され、これは現在もっとも有力な仮説であろう。 ただし、慎重な吉田氏は都市が、史料にほとんど現れない、地方の下級官であり、倭人伝中の大夫とのバランスが悪いことを指摘されている。 また確かに引用された詔書のみを見れば吉田説は強力であるが、本当に地の文は詔書に比べて、それほどに信頼性が劣るのだろうか。
倭人伝の問題の外交記事は、景初二年以下年次ごとの記述になっている。(以下年次記事) この記事の中の其四年,其六年等について、其○年(○には漢数字が入る)で三国志全体を検索してみると、東夷伝の中にしか見つからないことが分かる。 つまりこの年次記事は東夷伝の原史料の一つからまとめて取られている可能性がある。 ところで詔書の直前の年次記事である前掲の記事では、倭国王を倭女王と呼び、詔書中では親魏倭王卑彌呼としている。 以降正始八年の記事で、倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和と、狗奴國男王と対比する形で倭女王と記されるまで、倭王として記載されている。 すなはち、卑弥呼の称号については、年次記事では一連の流れの中で、矛盾なく使用されていることが分かる。 このことは、詔書がもともと年次記事の中に取り込まれた状態で、倭人伝に取り込まれたことを想像させ、年次記事と詔書の信頼性に、それほどの大きな差を考えうるのか疑問を感じさせるのである。 詔書については、詳細に転写しながら、伊聲耆に関しては一読して分かる不自然さを放置したのだろうか。 難升米に関しては、実は省略されなかった別の理由があるのではないだろうか。
2.難升米考^
難升米の名前に修飾的な部分があり、それにもかかわらず他の人名と異なって省略されなかった理由は何が考えられるだろうか。 省略された都市牛利,伊聲耆掖邪狗と比べた場合、難升米はもっとも短い名前である。 これだけが理由ではないだろうが、何か関係がないだろうか。 難升米が省略されるとすると、升米ないし米が考えられる。 米の場合名前が一文字となる。 漢書王莽伝によれば、王莽は二名の禁で漢人に一字名を強制したと言う。 その後漢人の名前は次第に一文字になってゆき、魏晋期はそれがもっとも浸透した時期であるという。 異民族に対してこのような強制は行われなかった。 王莽の時代、匈奴の嚢知牙斯が自主的に名前を知に改めたり、韓人の鑡や、高句麗侯の騊など、異民族にも一文字名が多くなるが、異民族は基本的に二文字以上の名前が普通であった。 異民族に対して一文字名が禁止されたわけではないが、漢人の名前がわずかな例外を除いて一文字名になった魏晋期、中国人が名前の字数をもって漢人か否かを判断する様になっていた可能性は高い。 一般に文章を作成する場合、重複を避け省略するのは、記述を簡潔にし読みやすくするためである。 省略によって余計な誤解が生じる場合は、省略を避けることになる。 難升米は中国での地位を表す大夫を自称していたのであり、この人物の名前を一字名にすることは、あらぬ誤解を生む恐れがあったのではないだろうか。 最初は詔書中でそのような配慮が行われ、それが年次記事にも反映されたのではないだろうか。 このことは倭人名の省略が、機械的に長さを省略したのではなく、その意味を理解して行われたことを物語る。 果たして倭人の名前の前半部分には、修飾的な部分があったのであろうか。
その前にまず難升米の名(な)の部分が、米のみとするのは不自然でないかどうか確認しよう。 もしも名前が米であるとすると、それはどのような発音を表しているのだろうか。 森博達氏をはじめ先学の研究によると、(1)倭人伝に現れる固有名詞は、上代日本語の持っている性質と共通の性格をもっていると言う。 そこで、米が上代特殊仮名遣いで、どのような音を表すか確認すると、それはめ(乙)(甲乙は上代特殊仮名遣いの甲類乙類)であることが分かる。 め(乙)一音で表される代表的な単語が、目である。 果たして古代人の名前として目は妥当であろうか。 日本書紀雄略紀には、物部連目と言う人物が登場する。 物部は氏(うぢ)、連は姓(かばね)、目が名(な)である。 もちろん仮に実在したとしても、雄略の時代五世紀の人物と想像される物部連目と難升米は、別人であることは言うまでもない。
はたして難升米は、何らかの修飾詞難升に、名(な)の米が続く構造になっていたのだろうか。 もしそうだとすれば、先行する修飾詞難升はいったい何であろうか。 吉田氏によれば姓と名を連称する制度は、古代中国とローマという特定の社会で発生したものであり、それが周辺民族に波及したものであると言う。 倭国において姓名の連称が始まるのは、五世紀のいわゆる倭の五王以降だとするのである。(4) しかし三世紀倭人の人名の構造について、ほとんど知見の無い中で、先入観をもって見ることは危険であろう。
ここで古い人名の例として、稲荷山鉄剣銘文に見える名前を検討してみよう。 そこには下記の様な人名と思われるものが並ぶ。 諸説あるが五世紀ないし六世紀に書かれたとされる、今のところ日本に残された、最古の人名の可能性のある記録である。
- 意富比垝
- 多加利足尼
- 弖已加利獲居
- 多加披次獲居
- 多沙鬼獲居
- 半弖比
- 加差披余
- 乎獲居
これを見る限り、修飾詞+名前の構造は見えない。 ここにみえる接尾する修飾詞、比垝,足尼,獲居はどのような性格のものだろうか。 これらはそれぞれ上代の比垝=ひ(甲)こ(甲),足尼=すくね,獲居=わけ(乙)であろう。 足尼=すくね,獲居=わけ(乙)はそれぞれ、日本書紀では宿禰,別のように表記される。 日本書紀に置いて、別がどのように用いられているかを調べると、名前の前に出ることが全くないことが分かる。 宿禰についても、八色の姓に制定される以前には、決して名前の前に出ない。 臣=お(乙)み(甲),連=むらじが、平群臣眞鳥,物部連目のように、名前の前に出ることがあるのとは根本的に違いがある。 臣=お(乙)み(甲),連=むらじは王権の定めた職掌である。 物部連目,平群臣眞鳥は、雄略即位前紀の任命の段で現れるだけで、以降は目連,眞鳥臣の表記となる。 職掌は本来は名前の前に出るのであるが、しばしば名前に接尾して尊称となっていると考えられる。 一方稲荷山鉄剣銘文に現れる比垝,足尼,獲居は、単に名前を構成する尊称である事が分かる。(補論:乎獲居臣を何と読むか参照) 宿禰が八色の姓に制定されてから、名前の前に出始めるのがそれを端的に示している。 この古い一連の人名に、職掌は冠せられていない。 しかしながら乎獲居臣の臣が後世の姓(かばね)の原型となるものであれば、平群臣眞鳥の氏(うぢ)を欠いた形ではあるが、正式名として臣乎獲居=お(乙)み(甲)をわけ(乙)でもありえたのではないだろうか。 またこの鉄剣が杖刀人首としての奉事の根源を示すものであれば、倭語で何と読むのかはわからないが杖刀人首乎獲居と名のった可能性もある。
三世紀に置いては、倭人伝の官名の卑狗,多模,彌彌のように、おそらく後世の彦、玉、耳につながると思われるものが現れる。 これらは官名であり、本来職掌であるはずであるが、上代文献では大彦、太玉、八井耳のように多くは人名に接尾しているように見える。 しかし彦については日子座=ひ(甲)こ(甲)ゐます,彦國葺=ひ(甲)こ(甲)くにぶくのように、名前の前に出る場合も多い。 これは古い時代に、彦が職掌を表した名残ではないだろうか。 倭人伝の官名には狗古智卑狗のように、卑狗に修飾詞を冠したものがある。 このような修飾詞+彦+名(な)の形式に該当する例は、御間城入+彦+五十瓊殖、活目入+彦+五十狹茅等、記紀には数多く見出すことができる。 この様な職掌の例は他に縣主,國造,稲置等数多くあり、それぞれ春日+縣主+大日諸、大倭+國造+吾子篭宿禰、闘鷄+稻置+大山主等、修飾詞+職掌+名(な)の例証に困らない。 三世紀に置いても、このような修飾詞+職掌+名(な)の形式が、一般的であったと考えてよいのではないだろうか。
3.三世紀の職掌^
では難升が職掌であるとすると、それはどのような意味なのだろうか。 これを考えるに際し、倭人伝の官名を参考にすべきである。 邪馬臺国の官名には彌馬升,彌馬獲支が見える。 この二つの官名から単語として彌馬,升,獲支が抽出できる。 彌馬や難は、升という職掌を修飾していることが分かる。 そうすると、官名の順からして彌馬升は彌馬と言う何かの長の地位にある官であることになる。 同様に難升は難と言う何かの長であることになる。(補足3)
森博達氏によると、難は子音終わりの音節で、日本語を表すのに適切ではないという。(1) 倭人伝の卑弥呼は、三国志帝紀では俾弥呼となっている。
三少帝紀齊王:冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。
倭人伝では人編がはずされていることが分かる。 これは後漢書に置ける倭奴國が、志賀島で発見された金印では委奴國となっているのに似た事情と考えられる。 卑弥呼や難升米は、最初俾弥呼や儺升米などと表記されたが、理由は分からないが詔書中で人編がはずされ、倭人伝の表記は詔書に合わせたのではないだろうか。(補足4) この難に関して、森博達氏は倭人伝の奴國との関連を指摘されている。(1)(補足5) 北部九州の地名には、倭人伝と日本書紀地名に文字の共通性がある。
倭人伝:対馬
日本書紀:対馬
倭人伝:一支
日本書紀:壱岐
倭人伝:末盧
日本書紀:末羅
倭人伝:伊都
日本書紀:伊覩
森博達氏はかっての奴國の奴=なが、魏の時代には妥当な表記ではなくなっていたとする。 もしもかっての奴國の奴=なに代わって、詔書中において儺=な字があてられたとすれば、それが日本書紀に古伝として伝わった可能性がある。 北部九州では弥生期から、漢字を利用したと思われる考古学的な証拠があり(5)、三世紀までに確立した表記が、後世に伝えられた可能性は十分にある。 もしもこの森博達氏の洞察が正しければ、難升は、儺の長官、すなわち儺の領主を表すのであろう。 もしもそうだとしたら、難升米が周代の領主を意味する大夫を自称したことには、それなりの意味があったことになる。(補足6)
ここで当然次の様な疑問がわく。 難升米が奴國の首長であるのなら、なぜその職掌が奴國の官名の兕馬觚,卑奴母離に関連しないのであろうか。 理由の一つは、官名の記された状況と人名の記された状況の違いにあるのではないだろうか。 倭人伝の官名は、帯方郡から倭國に至る里呈に現れるそれぞれの國の説明として現れる。 一方人名は、倭國との外交記事の中に現れる。
三世紀倭國の王卑弥呼は、共立によって王位についた。 國々は自主的に倭王権の祭祀に従ったのであろうが、倭國が全体として秩序をもって動くために、それぞれの國の首長は倭國内部の職掌を分担することになったと思われる。 それは倭國全体の職掌であって、それぞれの國々の官制とは直接結びつかないものになったであろう。
そのような倭國全体の職掌が、倭王が都した邪馬臺国の官制の影響を受けるのは自然なことであろう。 邪馬臺国の官制の第二位が彌馬升であり、その修飾部分の、彌馬を除く職掌名が升である。 このことから難升米は、倭國全体についての第二位の職位にあったことが想像される。
4.上代職掌との比較^
もしも難升,彌馬升が地名+升で、ある地位を表したものであるなら、上代の記録にそれが残っていないものだろうか。 まず倭人伝の升字については、日本書紀神功紀に魏志云として引かれた難斗米を根拠に、本来斗の字であったとする意見がある。 しかし升字は同じ倭人伝の彌馬升のみならず、後漢書東夷伝にも帥升として知られる、固有名詞とおぼしきものの表記に残っている。 おそらく升字が正しいであろう。 升字が日本語を表した場合に想定される音節として、森博達氏はそ(乙)を挙げられている。(1) そ(乙)一音節の単語としては、十、衣、麻、背などがあげられる。 ここで背に注目してみると、これの母音交替形にせがある。 上代日本語に置いて、夫を背=せと呼んだことはよく知られているが、その母音交替形である背=そ(乙)にも類似した意味があったのではないだろうか。 升=そ(乙)とすると、地名+升にはその地域の、男性首長の意味があったのではないかと考えうる。 ここから難升米を、儺と言う地域の男性首長で、名(な)を目と言ったと言う解釈が生まれる。
ここで思い起こされるのが、古事記のヤマトタケル伝承に現れる、男性首長の熊曽建=くまそ(乙)たけ(甲)るである。 熊曽建=くまそ(乙)たけ(甲)るは古事記では、西方のまつろわぬ民熊曽=くまそ(乙)の族長であり、建=たけるはその名前である。 もちろん熊曽建=くまそ(乙)たけ(甲)るは伝説上の人物であり、建=たけ(甲)るはしばしば八十建=やそ(乙)たけ(甲)るなどとしてあらわれる一般表現で、実在性が疑わしいのはもちろんである。 しかし建=たけ(甲)るが、ヤマトタケル伝承で名(な)として扱われるのは、伝承の中核的部分であり軽視できない。 もしも熊曽建=くまそ(乙)たけ(甲)るが、本来は熊=くまと言う地域の男性首長建=たけ(甲)るの意であるとすると、難升米との非常に良い一致となる。 儺も熊も、日本書紀にそれぞれ儺縣、熊縣として現れる古い地名でなのである。 難升米は日本書紀風に書けば、儺襲目ということになろうか。 熊曽=くまそ(乙)が民族名を表すのは、本来地名+曽でその地域の男性首長を意味したものが、次第に意味を転じ、その地域にすむ人々を表すようになっていった可能性がある。(補足7)
ここでもう一つ関連すると思われるのが、古事記に葛城長江曾都毘古、葛城之曾都毘古、日本書紀に葛城襲津彦、日向襲津彦として現れる、曾都毘古=そ(乙)つび(甲)こ(甲)である。 曾都毘古=そ(乙)つび(甲)こ(甲)のつを、上代の格助詞とすると、その前に来る曾=そ(乙)は場所、時間、属性である。 曾=そ(乙)が、男性族長を表すなら、曾都毘古=そ(乙)つび(甲)こ(甲)は族長である男の意味になる。 曾=そ(乙)は本来は男性首長であるから、曾都毘古=そ(乙)つび(甲)こ(甲)は重複表現になるが、曾=そ(乙)の原義が失われ、単に族長あるいは熊曾の場合のように、一族の意味となったことによって生じた名(な)であろう。 曾都毘古の前に葛城長江あるいは日向のように、地名が先行することも熊曽や難升に共通する。
5.帥升考^
後漢書には下記の様な倭に対する記述がある。
後漢書東夷伝:安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
翰苑に引く後漢書:安帝永初元年、有倭面上國王師升至
通典:安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人
北宋版通典:安帝永初元年、倭面土國王師升獻生口
日本書紀纂疏に引く後漢書:安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人
これらに対応して帝紀にも記述があり。
後漢書帝紀:冬十月、倭國遣使奉獻
釈日本紀に引く後漢書帝紀:冬十月、倭面國遣使奉獻
後漢紀:十月,倭國遣使奉獻
ここまでに議論してきた内容で、ここにみえる帥升ないし師升と言う、人名とおぼしき固有名詞は解けるであろうか。 吉田孝氏は師升を正とし、師は中国に置いて例のある姓で、これは漢人の名前であるとされた。 しかし本稿の論旨からすると、升が倭人伝の人名や官名にも使用されている事を、見過ごすことはできない。 すなはち升を有る地域の領主を表すと考えるなら、帥升ないし師升は、帥ないし師で表される領地の領主を表すことになるからである。 しかし難升米の場合と違って、名(な)に相当する部分が無いのはなぜだろうか。 まず考えられるのが、職掌部分のみが記録されて、名(な)がぬけおちた可能性である。 もうひとつの可能性は、上代文献にみるように、本来職掌であったものを、尊称のように名(な)に接尾させていた可能性である。 この場合は帥ないし師は名前を表すことになる。
実はもう一つ可能性がある。 これは、三木太郎氏の説によるもので、氏は後漢書帝紀には倭國遣使奉獻と記されていることから、倭國の王がやってきたわけではなく使者を送ってきたはずであるとする。 その根拠として氏は、実際に夫餘の王がやってきた出来事を記録した、順帝紀の記述では夫餘王來朝となっている事実を挙げる。 氏は王は主の誤りで倭國主帥升であろうとしている。 遣使奉獻は後漢紀や、南宋本を本にした中華書局本の後漢書だけでなく、釈日本紀に引く後漢書でも倭面國遣使奉獻とあって、私も王でなく使者がきたことは動かないと考える。 もしも倭國主帥升であれば、まさに修飾なしの職掌だけが記録されたことになる。(補足8) もしも三木太郎説が正しければ、升は倭國における主帥の様な地位にあり、外交のみならず戦争も行ったことになる。 そうなれば先に挙げた曾都毘古の、日本書紀における活躍の印象にも合ってくる。
いずれにしても使者として海を渡るような升は、おそらく神託を受けるようなタイプの統率者ではなく、俗権を統べる存在であったのだろう。
6.都市牛利考^
多く受け入れられている説では、倭人伝の使者は常に正副二人の名が記されているとされている。 しかし隋唐以前の中国史書では、使いを出した王の名が記されることはあっても、異民族の使者の名前がこれほどに丁寧に記録されることは珍しい。 近いところでは隋書の東夷伝の百済の条には、使者の名前が丁寧に記されているが、それも正使までである。 次使については名が書かれていない。 倭人伝に、明確に二人の使者の人名が現れると断定できるのは、詔書を引用した部分だけである。 都市牛利は詔書が引用されなければ、史書に残ら無かったはずの人名である。
都市牛利は二度目以降の登場では、牛利と省略される。 本論では牛利は名(な)と考える。 森博達氏によると、魏時の音価は中古音に近いとされ、詔書中に現れる牛利も中古音ベースで考えればよいだろう。 牛利が表した倭人語は、こ(甲)り,ご(甲)り,くり,ぐり等が考えられよう。 牛は鼻濁音で始まる音で、上代日本語の濁音で始まる単語がないという性質に矛盾する。 倭人伝にはほかにも濁音始まりの漢字が語頭に使われたケースがあるのだが、それらはすべて鼻濁音ではない。 森博達氏の分析によると、この時代の倭人の濁音が鼻濁音であった可能性があり、単なる濁音に関しては本来の倭人後の濁音を表したものではない可能性があるという。 しかし牛は鼻濁音であり、このケースにはあたらない。 語頭のい,うなどの聞き落としやすい狭母音が抜けている可能性がある。 であれば牛利はいこ(甲)り等となるのだろうか。
ここで難字に関して考えたように、字の一部が略された可能性を考えてみよう。 例えば許である。 許が表しているとすればこ(乙)となるが、実は許は暁母字であって、もしも当時の漢人が表記したとしたら、日本語に当てることはないはずである。(1) ところが倭人伝にはほかにも暁母字が使用されている。 卑弥呼の呼や好古都國の好が該当する。 これは大きな謎ではあるが暁母字が使われていることは事実であり、牛利が本来は許利であり、こ(乙)りをあらわしていた可能性はある。(6) こ(乙)りであれば、上代文献には由碁理=ゆご(乙)り,伊斯許理度売=いしこ(乙)りと(甲)め(甲)などこ(乙)りに関連する人名が現れていて、古代人の名(な)として不自然ではない。
職掌の都市は何を表したのだろうか。 牛利同様にこの表記の表した倭語を考えると、と(甲)じないしと(甲)しとなる。 と(甲)じであれば、上代文献に現れる刀自と同音になる。 上代文献ではこれは女性の役割を表している。
都市牛利の性別に関しては何の情報もない。 海を渡った旅であれば男性がふさわしいとも思えるが、豊後国風土記の土蜘蛛八十女の伝説などにみるように、古代において女性の役割が幅広かったことを考えると断定しがたい。 また男性社会の中国では女性の使者は珍しがられたはずで、その形跡がないことから女性の可能性を否定できるようにも思えるが、そもそも倭国に女王を認めている以上、これも断定に至らない。 そもそも刀自は夫に代わって一家を切り盛りする存在であり、(7)語源は戸主ともいわれる。 三世紀には日本の戦国時代の家宰のように、男性が行っていた、あるいは男女を問わない職掌であった可能性もある。
私は最初の遣使の状況から、都市牛利は倭国の使者として難升米を補佐するためにつけられた存在ではなく、もともと難升米の身近にいて補佐する人物だったと考える。 最初の遣使においては、獻上されたのは男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈にすぎず、帥升の生口百六十人、二回目遣使の生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢。、三回目遣使の男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。 と比較してあまりにも簡素でありすぎる。半島交易の窓口である、儺の首長であった難升米は、公孫氏の滅亡に伴う半島の激動とその倭国にとっての重要性を、他の誰よりも先に感じ取ることができたであろう。 最初の遣使は、難升米の献策による急使で、卑弥呼の裁可が下るや、難升米の裁量下で迅速に行われたのではないだろうか。 その副使となったのは、王権中枢による人選をまたず、常日頃から難升米を支えてきた人物が選ばれたと考えるのである。
7.伊聲耆掖邪狗考^
三木太郎氏の考察によれば、伊聲耆掖邪狗は伊聲耆+掖邪狗と分解される一人の人物名を表す。 本稿の考察により、この人物の名(な)の部分は掖邪狗と考える。 掖邪狗は魏時の音価に近い中古音をベースに考えると、やくやくもしくはややくであろうか。 私は類する上代人名を知らない。 非常に古い名前の類型なのであろう。
職掌の伊聲耆はどのように考えられるだろうか。 本稿の論旨に沿うならば、それは邪馬台国の官名と何らかの関係があるはずである。 難升米の職掌が難+升と分解できたのであれば、伊聲耆も何らかの複合語であるのかもしれない。 中古音ベースで読むならば、伊聲耆はいせぎ(甲)のように読みうる。 日本語においてしばしばみられる、複合語における連濁の現象からすると、伊聲耆はいせ+き(甲)のように分解できるのではないだろうか。 難升の例においては、難升の升が邪馬台国の官名彌馬升から、修飾詞彌馬を外した升と関連づいた。 難升と同様に考えるならば、難に相当するものが伊聲であり、伊聲耆が関連する邪馬台国の官名は、耆=ぎ(甲)から連濁を除いた、き(甲)を含むものであろう。 邪馬台国の官名で、き(甲)を含む官名は伊支馬と彌馬獲支である。(補足3)
伊支馬=いき(甲)ま
彌馬獲支=み(甲)まわき(甲)
き(甲)を含む官名としては邪馬台国以外に、伊都国の爾支=にき(甲)が挙げられる。 倭人伝の官名については、王がいると明示された伊都国、邪馬台国、狗奴国においてはその構成が違うことが知られている。 それ以外の国々がすべて、正副の二官を挙げているが、王のある国においてはそれぞれ伊都国は三官、邪馬台国は四官、狗奴国は一官のみとなっている。 女王の勢力下に属さない狗奴国に関しては、その距離も人口も記載されておらず、なんらかの情報不足で一官のみが伝わった可能性がある。 すなはち王の存在する国においては、その他の国には無い官があったと考えることができる。 邪馬台国においては彌馬升,彌馬獲支が、伊都国においては泄謨觚,柄渠觚が他の国における正副の組み合わせをなしていると見なせる。 邪馬台国では伊都国に比べてさらに官の数が多いが、共通点は正副の官の組み合わせの上に、もう一つの官が置かれていることである。 しかもその二つの官がともに、き(甲)を含むことは見逃せない。 一見すると難しい対応ではあるが、伊聲耆は伊支馬に対応するのではないだろうか。 伊支馬からき(甲)を分離するとなると、必然的に伊=い+支=き(甲)+馬=まのように分解することになる。 支=き(甲)に対して前後から修飾がなされていることになる。 後ろからの修飾の例を記紀において捜してみると、味耜高彦根神、天津彦根神に見られる彦根が、彦に対して根が後接して修飾している例として挙げられる。 語頭のいは、上代日本語においては強調の意味を持つ。 彌馬升の修飾を外した地位をあらわす部分が升であるように、伊支馬の該当部分は支=き(甲)である可能性を指摘する。
き(甲)は記紀や風土記において、いざなぎ,おきなのような例で知られるように、男性を表す接尾辞として知られる。 難升=なそ(乙)がなの男性首長を表すように、伊聲耆=いせぎ(甲)はいせの男性首長を表すのだろうか。 升=そ(乙)と支=き(甲)の違いは、後者が王と密接なかかわりがあることである。
倭人伝によれば、倭女王卑弥呼は王になって以来、その姿を見たものは少なく、ただ一人の男子が出入りし飲食を給し言葉を伝え、その男弟が国を治めたという。 この時代の王が他者の助けなしに、政治的な指示を出すことが難しかったことを物語る。 ただ一人出入りする男子か、男弟であるかは別として、この王から切り離すことのできない官が支=き(甲)であるのではないだろうか。 本稿ではこの最上位の官を、男性最高祭祀官としておく。
さて伊聲耆はどのような立場にいたであろうか。 伊支馬は邪馬台国の官として、女王のもとを離れることはできない存在であろう。 一方倭人伝における伊聲耆は使者として魏に赴き、また大夫と名なることから領主、すなはちある地域の首長であるであることを思わせるのである。 おそらく倭国における首長間の役割分担としての伊聲耆は、いせという支配地を背景にした首長が、邪馬台国における最高位である男性最高祭祀官に擬せられたものではなかったか。
倭人伝に記載された魏との外交記録には、謎めいた部分がある。 最初の使者難升米は、親魏倭王の称号と金印をもたらす大成果を上げたにもかかわらず、次回の使者は伊聲耆掖邪狗となっている。 しかも伊聲耆掖邪狗の使いの後、魏は難升米に対して黄幢をわたそうとしている。 使者とそれに対する応答が微妙にずれている。
この謎は伊聲耆掖邪狗が倭国最上位の祭祀官であったことで説明できる。 卑弥呼は最初の遣使によって、改めて魏との外交の重要性に気付いたのであろう。 倭国の最高官位であり、自らにもっとも近い伊聲耆掖邪狗を、本来名目の上では祭祀官であるにもかかわらず、外交の場に差し向けたのであろう。 黄幢についても次のように考えられる。 おそらく黄幢は正始六年に帯方郡に預けられたまま、韓族の反乱のため難升米の手には渡らずにいたようである。 倭人伝に記された最後の遣使である、正始八年の載斯烏越の狗奴國との争いに関する報告に対して、張政が倭国に派遣され、難升米に黄幢が渡され、檄告諭された。 このことから、本来黄幢には軍事的な意味があったと思われ、最高位といえども祭祀官である伊聲耆掖邪狗の手には渡されず、武官である難升米に渡されたのであろう。
さてここでもう一度伊聲耆掖邪狗の名(な)掖邪狗について考えてみたい。 都市牛利の名(な)がこ(乙)りであれば、木こり、石こりのような、切ることに関連した名(な)かもしれない。 それはある種の職業的な熟練者を意味している可能性がある。 都市の職掌が首長の補佐役だとしたら、名(な)は職掌に見合ったものである可能性がある。 難升米が儺の首長であり、倭国の軍権の長であったなら、その名(な)の目は、軍事氏族である物部連の目に通ずるものがある。 すなはち本稿で名(な)と呼んできたものは、実は成人して職掌についてのち、それにふさわしいものをつけたものである可能性が出てくる。 ここから掖邪狗は祭祀官にふさわしい名(な)であった可能性を指摘できる。 掖邪狗はやくやくとでも読むのであろうか。 これを見たときに私は日本書紀に南方諸島の呼び名としてあらわれる、掖玖を思い起こしたのである。 これら西南諸島の名産は貝殻であり、弥生遺跡からもごぼうら貝製の装身具をつけた人骨が見つかっている。 古墳時代に至っても装飾品として見られる、(8)語源は戸主やこう貝の語源は夜久貝とも言われている。 私は掖邪狗とは、三世紀には存在したが上代には廃れてしまった南方産貝製の装身具で、その時代の祭祀官のみが身に着ける特殊な品ではなかったかと想像するのである。
8.載斯烏越考^
これまでの人名に対する本稿の考察に沿うならば、載斯烏越は一人の使者の人名であり、おそらくは職掌を含むであろう。 載斯烏越を二語に分けるとすればどのような可能性があるだろうか。 載斯烏越を倭語として読むとすると、魏時代の音価であればさしうをちであろうか。 もしそうであれば、烏=うは語中の単独母音であって、上代日本語の特徴に合わない。 森博達氏は三世紀倭人語は、上代日本語の特徴を持っていることを指摘されている。 もしもこの語が載斯=さし+烏越=うをちと二語にはっきり区切って発音されるならば、問題は少ない。 烏越=うをち/うをつ/うをのような名(な)は、上代文献ではあまり見慣れないものであるが、不自然と言うほどでもないだろう。(補足9) 載斯=さしが職掌だとすればそれはどのような意味なのだろうか。
記紀においてさしという名前を捜すと、日本書記の刺領巾=さしひれと言う名前に思い当たる。 刺領巾は住吉仲皇子の近習隼人である。 古事記においては曽婆訶理=そばかりとする。 井上辰雄氏によれば、訶理=かりは刀であり、領巾とともに古代において霊力のある品と見られていたもので、近習の名前としたと言う。(9) そうだとすれば、名前の前半曽婆=そば、刺=さしは何を意味するのだろうか。 曽婆=そばはこの人物の職掌である、近習と合わせて考えるとき、後世の側(そば)を意味するのではなかろうか。 そばが側の意味を持つ最初の事例は、10世紀の宇津保物語まで下るが、おそらく近い意味の言葉ではないだろうか。 そこから刺領巾=さしひれの刺=さしについて考えると、これは近習でありおそらく記紀の物語の内容からすると、身辺警護を行う武人の意味ではないかと思われる。
載斯烏越の職掌が近習であったとしたら、どのようなことが見えてくるであろうか。 まずそれまでの使者の地位が首長であったことを考えると、載斯烏越の地位は全く異なることになる。 このことは、倭人伝の記述と矛盾がない。 載斯烏越は倭人伝正始八年の使者であるが、この度の使者はそれ以前と全く異なる。 まず前二者が大夫と名のり、魏の都に向かっているのに、載斯烏越は大夫とは記されておらず、向かった先は新任の帯方太守王頎のもとである。 それまでの使者が獻上物を持って行って、使者に対しても称号を得、多くの賜物を持ち帰っているのに対し、載斯烏越は何も持って行かず、何も賜らず、何の称号も得ていない。 明らかに様相の異なる使者である。 さらに、前二者が倭王の使者と明記されているのに対し、載斯烏越には遣使の主体が書かれていないのである。
載斯烏越を遣わしたのは誰なのだろうか。 それはこの遣使の結果を見てみればわかる。 この遣使に対し、太守王頎は帯方郡にとどまっていた黄幢を張政に託し、難升米に授けて檄告諭しているのである。 おそらく、狗奴國との抗争激化の状況で、難升米が太守王頎に遣わした急使であったのだろう。 難升米自身は倭国を離れられない緊迫した情勢のもと、倭国のみならず、半島にも韓族反乱の余燼のくすぶる不穏な情勢のもと、使命を達成することができる腕の立つ、しかも気心の知れて信頼できる人物に、倭国の命運を託したのではないだろうか。
9.臺與考^
本稿の最後に臺與について考えてみたい。 今までの人名と違い非常に短いことに気付く。 この中に職掌までも含まれているとは思えない。 なぜ職掌が含まれないのだろうか。 臺與同様王位にあった卑弥呼について考えると、敵対国の卑弥弓呼とあまりにも似た名前であり、おそらくはこの時代の王権祭祀にかかわりのある称号に近いものであると思われる。 しかしながら臺與が同じように王権祭祀にかかわりのある称号であるとすると、その名称があまりにも異なる。 臺與は卑弥呼の宗族であり、その祭祀を継承したものと考えられるので、臺與は王の称号とは思えないのである。
私は臺與即位の前後にわたって立ち会った魏人がいたのではないかと考える。 その人物は即位前の臺與の名(な)を聞く機会があったのではないだろうか。 王位に就いてのちの職掌は、王号の卑弥呼であろう。 その名(な)は二度と呼ばれることはなかったであろう。 臺與は七歳にして王位に就いた。 魏人がその名(な)を聞いたとき、臺與はまだ職掌を持っておらず、親につけられた名(な)を使っていたのだろう。 臺與はいわば奇跡的に後世に伝わった、倭王の実名、すなはち中国風に言えば諱だったのではなかろうか。(補足10)
10.おわりに^
補足1^
伊聲耆掖邪狗に関しては、それ以前に内藤湖南も、伊聲耆,掖邪狗は実は同じ名前の繰り返しであると言う説を立てられていて、そのため二度目以降は省略されたとしていた。 文章の読みからは、伊聲耆掖邪狗を一人分の名前と考えることは、自然なことである。
補足2^
日本書紀に引かれた三国志などから、最初の遣使は景初三年が極めて有力であるが、本稿の論点には直接の関係がないため、中華書局本記載に基づいて議論する。
補足3^ ^^
倭人伝の所謂里呈の固有名詞については、上古音系の音価が現れることが知られている。(1) 獲支の支は、一支を壱岐とすることで分かる通り、き(甲)の音を想定でき、獲支は稲荷山鉄剣の獲居=わけ(乙)、獲加多支鹵=わかたけ(甲)る/わかたき(甲)るから考えるにわき(甲)と読めるであろう。 奈良朝文献には分別の意味でのわき(甲)の用例が見る。 わきが傍、側の意味に用いられる最古の例は、九世紀の霊異記に下るが、官名の順序からして副の地位にある意味と考えてよいだろう。 官位の順からその上位にくる升はおそらく、獲支に対して上位の地位であると考えられる。 他の官名に関しても森博達氏の見解を参考に読むと下記のように想像される。 伊支馬=いき(甲)ま、彌馬升=み(甲)まそ(乙)、奴佳鞮=なかて/なけて
補足4^
倭人伝の音訳文字は80%以上が小韻の主字であると言う。 小韻の主字とは、六世紀末に成立した切韻という韻書(漢字の発音を分類した辞書)において、同音の文字を集めたグループの最初に記載された文字である。 小韻の文字は、概ねよく使われる文字から順に並んでいると考えられている。 小韻の主字の割合が多いということは、ある音に漢字を当てようとしたときに、卑字を選ぶなどと言うような作為をせず、最初に思いつく文字を当てたということである。 もちろん最初に思いつく文字には個人差があるであろうし、とうぜん音訳者が置かれた状況にもよってくるであろう。 全てが小韻の主字ではないのは、韻書を見て書いたわけではない以上、当然のばらつきである。 ここでなの音に最初に当てられたと想定した、音訳文字儺と同じ小韻の文字は那㔮𤘟挪儺𠹈𡖔𩴓臡である。 儺は小韻の五番目で頻出字とは言えないであろう。 儺の字義は驅疫であり、宮中でも年末に儺の儀式が行われたという。 倭人伝によると詔書が出されたのは十二月であるという。 この十二月に関しては諸説はあるが、詔書の下書きがなされたのは、年末の儺の儀式に絡む時期であった可能性がある。 なの音を聞いたとき、音訳者の脳裏に儺の儀式が浮かんだのかもしれない。
補足5^
氏の指摘は、奴國の奴をなと読めるのは上古音系の音価によるもので、魏の時代の漢字音では妥当ではないため、難字を当てたとする。 氏は既に北部九州で、日本書紀の儺縣に通ずる儺の用字が成立しており、儺に通ずる難字が使用されたとするのである。
補足6^
もしも難が地名を表すならば、彌馬も地名を表すのだろうか。 彌馬は素直に読めばみ(甲)まのようになるであろう。 古事記には下記の様な人名が現れる。
御真津日子訶恵志泥命
御真津比売命
津が上代の格助詞であるとすると、その前に来る語は、場所、時、属性のいづれかである。 このことから御真=み(甲)まと言う地名が想定できる。 このほか御真木入日子印恵命、日本書紀雄略紀の御馬皇子など、み(甲)まと言う地名があったことを想像させる人名がある。 日本書紀雄略紀には他にも、御馬瀬のような地名があらわれ、み(甲)まが古くからある地名であることが分かる。 和名類聚抄にはこのほかにも、阿波の国美馬郡、伊予の国宇和郡三間郷、美作の国、加賀の国石川郡三馬郷など、多くのみ(甲)ま地名がある。 語源的には、み(甲)まは水間を起源とする、比較的一般的な地名であると言われる。 彌馬が地名を表す可能性はかなりあると思われる。
補足7^
<要更新>そのくに。日本書紀伝承と風土記について。補足8^
このときの遣使の特徴は、生口の数が160人と異様に多いことである。 倭人伝に記載された遣使において、生口の人数は最初は10人、二回目は不明、最後でも30人である。 最後の遣使は使者20人に対して、生口30人であるから、もしも同じ比率なら安帝への使者は100人に達することになる。 おそらく一人の大夫ではなく、複数の大夫が使者として訪れたのではないだろうか。 それらの大夫はそれぞれそ(乙)を含む名前を名乗っただろう。 原記録には升を含む名前が数多く記録されたであろう。 史書にはそれをして倭國主帥升等と記されたのではないか。
この安帝永初元年の遣使は、倭奴國の遣使以来50年、安帝永初元年という区切りの年に行われた。 後漢王朝側が主導した可能性もある。 この時倭の側は、これに答えて多くの国が使者を送り、想定と違って数多くの使者がそれぞれに謁見を願ったとすれば、それが叶わなかった可能性もあるのではないか。 それが 願請見にあらわれていると考えるのである。
補足9^
古代人が鳥や魚など自然物を名(な)にしたケースは多い。 万葉集など上代文献において、魚はいをと呼ばれ、うをの初出は時代が下るが、いとうのような狭母音の交替は比較的例が多い。 三世紀においてうをのような語形があったとしても不思議はない。 また(補足3)に述べたように、倭人伝には魏時よりも古い音価の表記が現れている。 日本書紀百済系文書には、あきらかに非常に古い漢字音が現れており、それの源流として帯方など東方の方言音を考えることができるなら、洛陽でなく帯方までにしか行かなかった、載斯烏越はそ(乙)しあをのように読める可能性がある。 その場合名(な)はあをとなり、雄略が呉に遣わした身狭村主青=むさのすぐりあをを連想する。 この場合職掌がそ(乙)しのようになるが、百済系文書における沙至比跪=さちひこが曾都毘古=そ(乙)つひ(甲)こに当たるなら、同様に音訳に於て日本語の母音あとお(乙)の混乱があった可能性がある。
補足10^
魏時の音価であれば、だよ(乙)のような音になるが、(補足3)(補足9)に述べたように、倭人伝には東方の帯方に残された方言音が反映されている可能性がある。 正始八年以降の魏との外交は帯方との間で行われていた可能性もあり、そのような古音によるならば、ど(乙)やのようになる。(補足9)に述べたように、音訳に於て日本語の母音あとお(乙)の混乱があった可能性を考えるならば、ど(乙)よ(乙),だやも候補に入れられる。 第一音節は森博達氏の濁音に関する分析から清音を想定すると、古代の人名としてはと(乙)よ(乙)が相応しいであろう。 豊=と(乙)よ(乙)は近世に至るまで、しばしば女性の名前として使用されたが、記紀に於ては万幡豊秋津師比売や豊葦原などに見られるように、極めて神聖な用語と思われる。 倭人伝では臺與は卑弥呼の宗族とされるが、生まれながらにこのような名を付けられるとすれば、貴種であり多くの期待を追う人物であったと思われる。
補論:乎獲居臣を何と読むか^
稲荷山鉄剣銘文に見える乎獲居臣について、これををわけ(乙)のお(乙)み(甲)と読む立場と、をわけ(乙)しんと読む立場がある。 埼玉県教育委員会編『稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報』に見える原文は
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(表)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
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下記は、同書による訓読を仮名の甲乙を区別し、沖森卓也氏や、森博達氏、宮崎市定の読みを参考に修正したものである。
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辛亥の年七月中、記す。をわけ(乙)の臣。上祖、名はお(乙)ほひ(甲)こ。其の児、(名は)たかりすくね。其の児、名はと(乙)よかりわけ(乙)。其の児、名はたかはしわけ(乙)。其の児、名はたさき(乙)わけ(乙)。其の児、名ははてひ(甲)。
其の児、名はかさはや。其の児、名はをわけ(乙)の臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来りて、今のわかたけ(甲)る大王に至る。侍してしき(乙)の宮に在りし時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
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この文自体は五世紀に漢文として書かれたものであるので、正しい読みは五世紀中国語によるものであるのだが、ここで問題にされているのは、訓読時に臣という文字に、お(乙)み(甲)という訓を充てられるのかどうかという点である。 臣をお(乙)み(甲)と読む場合、雄略即位前紀に圓大臣と見える人物が、安康記に都夫良意富美あるいは都夫良意美と記されることがその根拠となる。 この場合の問題点は、記紀の成立した八世紀の文献の読みを使用してよいかという点にある。 八世紀にはすでに姓(かばね)が成立しており、このような訓読は八世紀の姓(かばね)の概念を無批判に五世紀に適用してしまう誤解を招く可能性があるのである。
銘文を振り返ってみると、人名等の固有名詞に関しては、漢字の音を利用する借音で書かれたことが分かる。 八世紀であれば訓読みを利用して、高橋別と書かれたことが予想できる多加披次獲居などの表記が、ことごとく借音表記になっていることから、この時代にはまだ訓読みが確立していなかったと考えるのが一般的である。 では借音で書かれた部分以外は、すべて五世紀中国語で理解されるべきなのだろうか。
この時代当然まだ日本語での書き言葉は成立していないので、おそらく書き手は中国語で文面を発想していったであろう。 結果として漢文を書き起こすにあたって、五世紀倭語にはない単語が使用される可能性はある。 しかし五世紀倭語にあった概念を、漢語にできるものは漢語に翻訳していった可能性もあるのである。 漢語に翻訳できるものと、できないものの差は漢語に対応するものがあるか無いかの差であると思われる。 例えば上祖,名,児,宮,天下などの一般名詞は、伝えようとする文意に対して、容易に対応する漢語を見つけられたであろう。 漢語表記だからといって、それらに対応する和語がなかったことにはならない。 これらは臣,杖刀人,首,大王などの倭国内での政治的地位を表す語に関しても同じことである。
臣をしんと音読みする根拠は、同銘文中に見えるほかの姓(かばね)と思われる、獲居、足尼、比垝が借音表記であるためである。 しかし、もしも臣が文面を考えた人物が漢文を書くにあたり、五世紀倭語の対応物でなく、中国語の臣を使用したのであるならば、語順は臣乎獲居になるはずである。 一方でもしお(乙)みのような五世紀倭語を翻訳したのであれば、はたして臣という漢語を思いつくだろうか。 もしも思いつくのならば、なぜ獲居、足尼、比垝は借音表記のままなのだろうか。 臣と獲居、足尼、比垝には何か質的な差があるのではないだろうか。
八世紀の記紀には、允恭帝の時代に氏姓を改めたとの記事があり、九世紀初頭の新選氏姓録には允恭天皇之世,行臣連制,定君、臣、連、直、首、史、村主等姓,以大臣、大連執權力之牛耳。の記事がある。 稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王にまつわる伝承が、記紀の雄略帝の記述に反映されているとするならば、鉄剣銘文はその父の代である允恭帝の記述に関する、同時代の検証を与えるものとみなせる。 銘文中で大王のもと認められた、王権内の地位を表す語臣,首が、いずれも新選氏姓録に現れることは注目されるべきである。 記紀の氏姓改革や、新選氏姓録に現れる姓(かばね)が、そのまま五世紀に遡るわけではないにせよ、鉄剣が作成される直前の時代に、何らかの王権による制度改革があった可能性は高いと思われる。 すなはち、銘文中で漢語であらわされる地位や王号、職掌である、臣,首,大王,杖刀人等は鉄剣成立からそれほど遡らない時期に、王権によって定められた語なのではないだろうか。
獲加多支鹵大王が通説どおり、倭王武であったとすると、鉄剣銘文に先立つ時期からの倭王権の外交上の大きな目標は、朝鮮半島南部における権益の確保であったと思われる。 高句麗や新羅、百済がその競合相手であり、南朝の朝廷を巻き込んだ外交が行われていた時代である。 倭王武は流麗な上表文を劉宋に送っている。 王権が新たに王権内の地位を表す語を定めたときに、あらかじめ外交文書上に記載する、漢語の対語を決めていたとしても不思議はない。 これは対中国のみならず、対朝鮮半島でも意味のあることではなかったか。 同時代の朝鮮半島の官制について述べた中国資料は見当たらないが、六世紀の北周時代に関して書かれたと思われる周書には、官有十六品として、漢語を含む官名が記されている。 すでに三国志夫餘伝には皆以六畜名官,有馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者。濊伝には、侯邑君、三老、統主下戸等の漢語を含む官名がある。 倭国の漢字文化が朝鮮半島からの大きな影響のもとにあったことは、銘文と日本書紀に引かれる百済系文書の使用漢字の共通性をみても明らかであり、これらの漢語表記の起源が朝鮮半島にあった可能性がある。
それでは何故獲居、足尼、比垝の漢語の対語は用意されなかったのか。 允恭紀の記述では、氏姓を正すとなっているが、獲居、足尼、比垝は後世の姓(かばね)に相当するものだったのだろうか。 このうち足尼を例にとってみよう。 足尼は記紀には宿禰としてあらわれるもので、天武朝の八色姓に含まれるものである。 姓(かばね)は氏(うぢ)姓(かばね)名(な)の順で、基本的に名(な)に対して前に出る。 日本書紀における宿禰がこの順で現れるのは、天武天皇十三年(六八四)十月己卯朔の八色姓制定後の、天武天皇十四年(六八五)九月戊午の佐伯宿禰廣足が初めてである。 これ以前に対する記述は古事記を含めて、すべて名(な)+宿禰の順で現れる。 これは獲居、記紀における別,和氣についても同様である。 一方臣は名前の前に出る場合も、後ろにくる場合もある。 新選氏姓録に允恭朝に定められたという、君、連、直、首、使、村主でも同様である。
また一度でも名(な)+宿禰で現れた人物は、宿禰を切り離した形で現れることがほとんどない。 日本書紀における蘇我馬子の登場回数についてみてみると、全体で44回の内訳は下記のようになる。
- 馬子宿禰 31回
- 大臣馬子宿禰 2回
- 馬子宿禰大臣 6回
- 馬子大臣 4回
- 馬子 1回
馬子はほぼ常に馬子宿禰としてあらわれてきて、少数のケースで馬子大臣であり、単に馬子は一回のみである。 日本書紀における蘇我稲目についてみると、全体で17回登場し内訳は下記のようになる。
- 稲目宿禰 6回
- 大臣稲目宿禰 9回
- 稲目宿禰大臣 2回
- 稲目大臣 0回
- 稲目 0回
他に六丈光背に巷哥名伊奈米大臣之子名有明子大臣とあり、続日本紀のような九世紀以降の史料に単独に現れることはあるものの、基本は宿禰を名(な)から切り離すことはない。 切り離すケースでもほぼ大臣が後接する。 このような状況は別,和氣についても確認できる。
これらの事実を総合すると、別,宿禰と臣とは、人名を構成するうえでそもそも異なる機能を持っていたと考えざるを得ない。 別,宿禰は名(な)を構成する修飾語であり、本来は後接して修飾しその一部をなすものである。 臣や首は王権により定められた地位であり、名(な)とは独立な、広い意味での職掌と思われる。 職掌は正式には、名(な)に冠せられるものであるが、多くの場合名(な)の後ろにきて、名(な)を修飾する尊称のように扱われる。 その際にもともとの修飾語であった別や宿禰が、省略されることがあるのであろう。 乎獲居のような名(な)から、獲居を切り離すことは無意味であることもそこから理解できる。
比垝については、やや事情が異なる。 記紀においてしばしば彦,日子は名(な)に先行する。 日子坐王,日子国夫玖命,日子穂穂手見命等その例は多い。 一方五世紀の銘文では、意富比垝に見るように明らかに名(な)の一部である。 比垝については、三世紀の魏書東夷伝に、卑狗という官名が見え、非常に古い時代にはやはり広い意味での職掌を意味していたと思われる。 記紀における彦,日子の位置はその名残であると考えられる。 意富比垝はそれが後接して名(な)を修飾する尊称として定着してのち生じた人名であろう。 同書には狗古智卑狗なる官名も見え、すでに三世紀において名(な)に後接して修飾しているようにも見えるが、官名として記述していることを尊重するならば、これは卑狗に修飾語を冠したものであると考えるのが正しいであろう。 修飾語+日子+名(な)の形式に関しては、我々は記紀において多くの例を知っている。 御真木入+日子+印恵、伊久米伊理+毘古+伊佐知、大帯+日子+淤斯呂和氣、等がその例になる。 三番目の例は、和氣が名(な)の構成要素であるとをよく示している。
このように、獲居、足尼、比垝と臣とは同等に考えることはできず、前者は太郎,次郎の郎のように名(な)の一部をなし、後者は王権によって与えられた地位であると思われる。 前者が借音表記であるのは、それがまったくの固有名詞である、個人の名(な)の一部をなすためであり、一方後者は王権によって漢語の対語さえも定められた、より一般性を持つ名詞の可能性があるのである。 このような事情は七世紀にさかのぼると思われる上宮記逸文系図、上の山碑碑文系図においても認められる。 上宮記逸文系図においては、和希,比古,比彌がいずれも借音表記であるのに君,臣は漢表記である。 上の山碑碑文系図においては、足尼が借音表記であるのに臣は漢表記になっている。 八世紀の記紀においても宿禰ついては最後まで借音表記、古事記においては別も相当数和気の借音表記を交えており、借音表記を捜さねばならない臣,君等とは大きく異なるのである。
臣をどう訓ずるかは、つまるところ五世紀の日本語が分からない限り確定できないが、八世紀の知識から敷衍して、臣を(お(乙)み)と読むことには一定の合理性がある。 ただし、もちろんそれは氏(うぢ)を伴う八世紀の姓(かばね)の制が、そのまま五世紀にさかのぼることを意味するものではない。 銘文はいまだ氏(うぢ)の成立以前であることを強く示唆しているのである。
参考文献と参照リンク
- ^森博達 倭人伝の地名と人名『日本の古代1、倭人の登場』中央公論社、1985年
- ^三木太郎 伊聲耆掖邪狗について倭人伝の用語の研究』多賀出版、 1984年
- ^吉田孝 日本の誕生『倭の女王と交易-都市牛利と都市』岩波書店、1997年
- ^吉田孝 日本の誕生『大王(天皇)にも姓があった-東アジア世界の姓』
岩波書店、1997年 - ^近年北部九州での弥生期にさかのぼる硯の発見が相次いでいる。
野村 大輔 本郷(124):2016.7東京 : 吉川弘文館 p14-p16
〈文化財〉取材日記 アジアの中で見つめる九州 :
伊都国の遺跡で出土した硯から 2016年 - ^shiroi-shakunage 卑弥呼は何と呼ばれたか2006年
- ^義江明子 刀自からみた日本古代社会のジェン ダ ー ――村と宮廷における婚姻
- ^木下尚子 南島貝文化の研究―貝の道の考古学
法政大学出版局 1996年 - ^井上辰雄 熊襲と隼人 教育社歴史新書 日本史 8 新書、 1978年
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