二郡遂滅韓
ー魏韓戦争の実態と北部馬韓の情勢ー
韓初の大事件
朝鮮に関するまとまった最初の記録は、紀元前1世紀に成立した中国史書である史記に記録された、現在の北朝鮮領域に存在したとする古朝鮮に関するものであろうと思われます。
しかし朝鮮半島北部は、前漢王朝(紀元前206年から8年)の一部となり、楽浪郡等の行政機関が置かれ、その後四世紀に至るまで中国の王朝の支配下にありました。
一方三世紀の中国史書である三国志の、魏書東夷伝の韓の条(以下韓伝)には、三世紀の朝鮮半島南部、おおよそ現在の韓国の領域に住んでいた、古代の人びとである韓族(以下韓人または韓)の貴重な記録があります。
これは現在の韓国に相当する朝鮮半島南部に関しては、現在さかのぼれるまとまった最古の記録であると思われます。
ここには朝鮮半島南部の、後の朝鮮の歴史に繋がる基点が記録されているはずです。
実は韓伝には文献上の朝鮮史の起点を求める場合、避けて通れない重大な記述があります。
韓伝には韓の歴史上の大事件が記載されているのです。
これは韓に関する大きな出来こととしては、歴史記録といえる最古のものでしょう。
部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、臣濆沽韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。
拙訳:部従事の呉林は楽浪が本来は韓の國を統属していたので、辰韓の八国を分割して楽浪の所属としたところ、官吏の訳が転じて異同が有り、臣智が激して韓人が忿り、帯方郡の崎離営を攻めた。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂は兵を興してこれを伐ち、弓遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅ぼした。
ここに辰韓とは韓を馬韓、辰韓、弁辰に分割したうちの一つになります。 赤下縁部は広く流布しているテキストでは臣智激韓忿ですが、現存最古の三国志刊本である南宋の紹興年間(1131年から1162年)に作成されたという紹興本では臣幘沾韓忿、また史書としての成立年代が紹興31年(1161年)とそれに近い通志には臣濆沽韓忿となっています。 おそらく紹興本の臣幘沾韓忿が、その元になった北宋咸平五年(1002)の咸平本の内容に最も近いものと思われます。 韓伝には全部で七十九ヶ国にも及ぶ小国名が一覧されているのですが、文面の臣幘沾韓忿はそこに見えず、この重要な文面で国名とおぼしき新な固有名詞が現れることになり不自然です。 そのため後続刊本では、臣智激韓忿の誤と校勘したのでしょう。 一方通志の著者は、臣幘沾を国名一覧に現れる臣濆沽の誤と校勘し、臣濆沽韓忿としたのでしょう。 韓国歴史学者の尹龍九氏は國史館論叢 第85輯 三韓の對中交涉とその性格の中で、この部分は臣濆沽韓忿が正しいとされていますので、この随想ではそれに従います。
三国志に韓の記録が残ったのは、遼東に割拠していた公孫氏政権(189年から239年)が、黄河流域の中原と呼ばれる中国の中枢部を勢力圏としていた、魏(220年から265年)によって滅ぼされたことがきっかけでした。 その結果中国東方の情報が、中原に入って来たのです。 しかし上記の文には、韓がその朝鮮半島における魏王朝に属していた、地方行政組織の楽浪郡や帯方郡と対立して、滅ぼされたと書いてあるのです。 はたしてこの対立はどのようにして起こったのでしょうか。 また魏が公孫氏を破ったのは、景初二年(238年)であるのに対し、上記の戦いで戦死した帯方郡の長である太守の弓遵の後任として、玄菟太守であった王頎がやってきたのは正始八年(247年)となり、戦いの起こったのはそれからそれ程遡らないと思われます。 魏はその間なぜ行動を起こさなかったのか、また何故数年後になって行動を起こしたのか、また韓を滅ぼしたとするその戦争の実態はどうだったのか、そしてその後はどうなったのか、それを考察するのが今回の目的です。 そもそもこの記事に現れ、単独で帶方太守弓遵、樂浪太守劉茂に戦いを挑み、弓遵を戦死させるような存在であった臣濆沽韓とは一体どのような存在なのでしょうか。 これは五世紀の中国南朝から、八世紀中国唐時代までの記録を残した中国史書や、八世紀日本の史書である古事記や日本書紀に見える、百濟、伽耶、新羅の文献上の源流を尋ねる作業でもあります。 また時代は下るもものの、朝鮮半島の王朝である高麗王朝時代の1145年にまとめられた史書である、三国史記の記述を補強又は修正する作業ともなるでしょう。
紛争の発端と経緯
前回私は韓伝に残された謎の一文に関して考察し、三世紀の韓の国々の間にあった盟約について推理しました。 そこでの推理は次のようなものでした。 後漢王朝の衰退と共に、廉斯邑を中心とした韓の秩序が崩壊し、遼東に割拠した公孫氏は古くからある辰王の権威を利用しようとしました。 それに応えるように、臣濆沽國を中心とする馬韓の大国が、歴史的に辰王の治所であった月支國を、名目上の盟主にして韓の国々をまとめました。 この秩序は朝鮮半島東南部の鉄資源を抑えることで、東夷の諸族を公孫氏に従わせることが目的だったようです。 しかし魏はこの公孫氏時代の秩序を継承せず、後漢(23年から220年)の時代の廉斯邑を拠点とした朝鮮半島東南部に対する、より直接的な影響力の行使を望んだようなのです。 これが魏韓の対立の原因であったと思います。
臣濆沽國は単独で二郡に戦いを挑むような、強力な存在でした。
二郡は魏の支配下に入って直に、公孫氏時代の秩序の否定をはじめましたが、既に廉斯邑はなく、一国で二郡の人口を上回る臣濆沽國に対して、簡単には手出しをできなかったと思われます。
韓の総戸数十五万戸の内の何割かは、実質的盟主国である臣濆沽國に従う可能性もあったのでしょう。
しかし正始七年(246年)事態は一変します。
三国志の毌丘倹伝によると、正始年中(240年から249年)中国東北部の複数の郡を統べる幽州の吏刺の毌丘倹は、中国東北部を勢力圏としていた高句麗を征討して、その本拠地を覆しました。
この時の征討は三国志東夷伝の高句麗の条によると、正始五年(244年)であることが分かります。
さらに毌丘倹伝には正始六年(245年)にも征討して、逃げた高句麗王の宮を玄菟郡太守王頎に、沿海州の奥地まで追わせたことが記載されています。
同様の記事は当時朝鮮半島北部から沿海州方面に居た、東沃沮に関して述べた、同書の東沃沮の条にもあります。
同書の濊の条によれば、同年樂浪太守劉茂と帶方太守弓遵も、この作戦の一環として二郡の東の、朝鮮半島北部の日本海側にいた濊を、高句麗に従ったことを理由に征討しています。
そして三国志の帝紀によると毌丘倹の軍は正始七年(246年)二月にも高句麗を征討し、続いて五月には濊貊を討ちます。
七年春二月、幽州刺史毌丘儉討高句驪、夏五月、討濊貊、皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。
拙訳:七年(246)春二月、幽州刺史毌丘倹は高句驪を討った。夏五月には濊貊を討ちこれを皆な破った。韓の那奚ら数十ヵ国が各々一族の集落を率いて降伏した。
有力な説では、ここに現れる韓那奚は、韓伝の国名一覧に見える冉奚國とされます。 冉奚國については、日本の歴史学者である末松保和氏による、有力な比定地があります。 三国史記の巻34~巻37にある地理志には、新羅の第35代王景徳王(742年から765年)時代に、地名を漢風に改めた記録があり、改名前の地名も伝わっています。 末松氏の比定地は、三国史記地理志の本熱兮縣或云泥兮(本の熱兮縣、ある伝では泥兮)で、新羅時代の日谿縣です。 現在の慶尚北道義城郡玉山面と推定され、迎日湾の西北約60Km程の山中です。 この時前回の征討で王頎が沿海州の奥地まで及んだのと同様、毌丘倹軍は朝鮮半島日本海側の濊と貊を討って、濊貊の分布する朝鮮半島南部の迎日湾付近まで及んだと思われます。 実際慶尚北道迎日郡神光面で晉率善穢佰長銅印が発見されていて、これは魏に続く晋(265年から306年)の王朝の官位を示すものですが、穢佰長となっていることから、この地域がかっては穢の地であったことが分かります。 冉奚國の比定地は、日本海からは山岳地を隔てて40Km余り離れていますが、魏の大軍が日本海側を南下した場合、濊貊に混じってその武威を惧れ、投降してくることは十分にありそうです。
迎日湾の南は三世紀半島東南部の鉄器生産の中心地慶州です。 魏は正始五年の高句麗征討開始いらい、古くから高句麗と通じていた、日本海沿岸を中心に広がる民族を制圧し、遂に問題の朝鮮半島東南部に達したのです。 これに力を得た魏の幽州部従事の呉林は、当初よりの方針に従って、後漢代の秩序回復を目指したのでしょう。 半島東南部の八ヵ国を帯方の所属から離し、新たに勢力下に入った朝鮮半島日本海側の陸路を経由して、楽浪郡に直属させることを計画したと思います。 おそらく韓の戸数十五万、真番郡の経営失敗などを知っている魏は、当初は外交的に問題を解決しようとしたのでしょう。 しかし半島南部の韓地域と、二郡の間の交易の利権を独占していた可能性のある臣濆沽國は、到底受け入れられず帯方郡の崎離営攻撃となったのでしょう。 攻撃を予想していなかった魏は急遽二郡の兵力だけて反撃し、思いがけない苦戦の末に弓遵の戦死となったのではないでしょうか。 魏がこの戦争に勝利するためには、毌丘倹軍の助けが必要だったと思われます。 帯方太守弓遵の後任となったのが、毌丘倹の下で高句麗王宮の追撃を行った、もとの玄菟郡太守王頎であったことがそれを物語ます。 しかしこの戦闘の経緯は史書には全く残されていません。 それは以前に書いた論稿幻の曹爽建郡に著した様に、この戦争を遂行した曹爽政権の政治的成果を、政敵であった司馬氏がすべて封印してしまった結果だと私は考えています。 それではこの戦争の後の韓の情勢はどのようになったのでしょうか。
戦後処理と馬韓北部の情勢
この戦争により二郡は遂に韓を滅ぼしたとなっていますが、このとき滅んだのはどこなのでしょうか。
直接戦ったとの記録のある臣濆沽國は当然として、韓を滅ぼしたと言う以上、おそらく名目上の盟主であった月支國もその対象であったと考えていいのではないかと思います。
臣濆沽國は馬韓の国名一覧の最初に近い部分に出て来て、私の韓の国名のグループでは、馬韓七分の一区分に入り、漢江流域と推定しました。
月支國については、韓国の歴史学者李丙燾氏や日本の歴史学者武田氏など、多くの専門家は漢江流域の南、天安周辺を想定されていますので、少なくとも漢江流域は魏の支配下に入ったと思われます。
韓を滅ぼして後魏は戦後処理をどうしたのでしょうか。
幻の曹爽建郡に書きましたが、私はこの地域に残る三世紀に遡る可能性のある、三つの土城がこのときの魏による郡域拡大の痕跡であると考えています。
1.六渓土城(坡州市)
2.風納土城(ソウル市)
3.井北洞土城(清州市)
これら土城に共通する特徴はその立地にあります。 平地に孤立するその形態は、漢の郡治県治の立地と共通しますが、百濟の城の立地とは異なります。 私はこれらの土城は、魏がこの地域を統治するために作ろうとしたと考えています。 しかし正始十年(249年)政変によって時の権力者曹爽は失脚し、魏の東夷外交もおおきく変化します。 この後西晋(265年から316年)の咸寧年間(275年から280年)に至るまで、東夷外交は殆ど停止します。 上記土城は建設途中で放棄されたと考えます。 実際2011年の調査では、井北洞土城の下部の上限年代は240年、風納土城の基礎の上限年代は230年とされていますのでこの年代観に立ならば、これらの土城が正始年間(240年から249年)の末年までに、計画され工事が始まっていた可能性はあります。 さらに同じ調査で風納土城については、土城の土塁の年代が上限310年とされているので、相当の期間基礎だけで放置されていた可能性があるのです。 ここから魏による建郡の開始、途中放棄、西晋の崩壊に伴って百濟による土塁の建築と言う経緯が考えられるのです。(下記注参照)
それではこれら三つの土城はどのような目的でこのような位置に造られたのでしょうか。 築城地を撰としたら、当然統治に役立つ立地を撰でしょうが、先ず敵対した勢力の本拠地を抑えるか、逆に協力的な勢力の本拠地に築造して、支配の拠点にするかではないでしょうか。
風納土城はその後は百濟の王城として発展していったことが知られています。 百濟に付いては、唐の時代の発音辞書である、広韻での発音が完全に伯濟と一致します。 後漢書には馬韓の辰王が韓全体の王であり、馬韓が三つに分た韓の内最大であるとした上で、その国名として五十四国の内唯一伯濟を挙げています。 後漢書は五世紀百濟が朝貢していた劉宋の時代に書かれた史書ですから、これはその当時北方の強国高句麗と争っていた百濟が、自らの朝鮮半島南部への先有権を主張した内容を情報源としたものでしょう。 明白に伯濟が百濟の前身であるとした史料はないのですが、少なくともそのように自称していたと考えられます。 梁書周書などのその後の史書も百濟を馬韓の後であるとしており、伯濟が百濟の前身であると言う説は現在最も有力な説であると思われます。
問題は残り二つの土城です。 おそらくこれは滅ぼした臣濆沽國と月支國の本拠地を抑える目的で立地されたのではないでしょうか。 井北洞土城は日本の歴史学者武田氏や韓国の歴史学者李丙燾氏の想定する月支國の位置に近いところにあります。 六渓土城はこの地域の北端近く、かっての帯方に近い臨津江に面してあります。 おそらく井北洞土城は月支國の中枢部の動きを牽制できる位置にあり、六渓土城は臣濆沽國の中枢部を押さえる意味があったのではないでしょうか。 このことからこの二つのの土城は、月支國や臣濆沽國の位置を比定するのに、重要な情報を与えてくれることが期待できるのです。
注:纒向学研究6号(2018年)より引用
風納土城は漢城百済期の王都である。1999 年に調査(国立文化財研究所 2002『風納土城Ⅱ』)された東城壁の増築最終段階にあたるⅤ土塁は、草本・樹皮・木葉を敷設する補強土壁工法が確認できる。報告では、城壁は建造年代の中心が1~2世紀頃であり、遅くとも3世紀以前には完了したとされたが、2011 年の調査(国立文化財研究所 2014『風納土城 XVI』)によって、地盤造成工事(紀元後 230 年~ 320 年)、盛土工事(紀元後 310 年~ 370 年)、第1次増築(紀元後340年~ 395年)、第2次増築(紀元後375年~ 460年)という築城工程と年代観が提示された。この年代観にしたがうと、1999年調査のⅤ土塁は2011年調査の第2次増築部に相当し、4世紀後半から5世紀中頃になる。
月支國と臣濆沽國の比定地
月支國の比定地を考察します。 月支國の位置については多くの説が現在の天安市以北を考えているようです。 しかし井北洞土城が月支國の中枢地を牽制できる位置にあったとすると、月支國はもっと南であったと考えることができます。 井北洞土城は錦江の支流である、美湖川のほとりにあります。 このことから月支國の中心地は、錦江もしくはその支流の流域にあったと推定できます。 月支國に付いては、後漢書には目支國。 翰苑と言う唐の時代の書物の本文とそこで参照される、魏略に目支、三国志に自支とあることから、目支國が正しいと思われます。
三国史記地理志の記録をもとに関連しそうな地名を探してみましょう。
先ず錦江及びその支流の流域で、先に挙げた井北洞土城との距離があまり遠くない地域を探します。
すると一つの候補として、百濟時代の大木岳郡、新羅時代の大麓郡、高麗時代の木州が浮かびます。
この地名の木が目支國の目と比較的似た音になります。
唐時代の発音辞書である広韻では、両方共同じ屋韻と呼ばれる分類で、頭子音を表す声母も両方共に明母と言われるものです。
木州の位置は忠清南道天安市東南区木川邑、現在の韓国の独立記念館のあたりとなります。
この位置は日本の歴史学者武田幸男氏の天安市説に近接し、牙山湾からそれ程高くない分水嶺を越えた位置になり、概ね妥当と思われます。
井北洞土城からは離れていますが、近くを美湖川の支流が南流して合流しており、遡上すれば井北洞土城を経由して鳥嶺方面に至ります。
また美湖川を下れば錦江に出、そのまま上流に遡れば秋風嶺に至ります。
両峠は牙山湾から洛東江流域へのルートです。
辰韓に付いては下記のような記述があります。
辰韓在馬韓之東。其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。
拙訳:辰韓は馬韓の東にあり、その耆老が自ら世に伝えるところによれば、昔亡命者として秦の役務を避けて韓の国にやってたとき、馬韓にその東界の地を割いて与えられたと言う。
名樂浪人爲阿殘。東方人名我爲阿、謂樂浪人本其殘餘人。
拙訳:樂浪人を阿殘と言う。東方人は我を阿と言うので、樂浪人はその残りの人であると言う意味である。
伝説の通り辰韓人が元の楽浪郡地域から洛東江流域に移動してきたとすると、そのルートは目支國の中心地を通り、その移動を扼すことができたと思われます。 辰王はその同じルートを通じて、目支國に治して以来、辰韓諸国と連絡していたのではないかと思います。 日本の歴史学者東潮氏の「倭と伽耶の国際環境」によると、目支國の中心地は牙山湾方面となりますが、辰王の居たのはそこから峠一つ越えたところにあった、ある種の聖地だったのではないでしょうか。 一方魏の置いた井北洞土城は、木川及び秋風嶺と鳥嶺の三方に睨みの効く地と言えるでしょう。
臣濆沽國の比定地を考察しましょう。 六渓土城が臨津江に面していることから、臣濆沽國は臨津江流域にあったのでしょう。 ところが臨津江流域の三国史記地理志に残る地名には、これに関連しそうなものが見当たりません。 謎の一文に関する議論で、臣濆沽は臣+濆沽に分解されることを考察しました。 また辰王を支えたのは、臣で始まる馬韓の国でした。 もしかしたらこの臣と言う語頭は、辰王を支える特別な立場にある国を表すものだったのではないでしょうか。 そう考えると臣濆沽國に関する本来の地名は濆沽であることになります。 臣濆沽國は明代の汲古閣本では臣濆活國、九世紀の写本と言われる太宰府に残る翰苑残巻では臣濆沾國、といくつかの表記が見えます。 前掲した韓の反乱記述には臣幘沾とありますが、国名一覧では最初の臣濆は共通しています。 このことから問題の地名の冒頭は濆であらわされたと考えます。 濆は頭子音の推定音が、pの有気子音つまり呼気の気音を含むp音であるので、それに近い子音で発音される地名を探すことになります。 三国史記地理志にはこれに該当する地名として、波害平史と平淮押県(一云う別史波衣。淮は一に唯に作る)が挙げられます。 三国史記地理志の漢字には、一部紀元前5世紀頃の漢字の発音とされる、上古音系が反映されていると言われています。 害の上古音系の発音は活に近似するため、濆活であれば、波害の上古音系の発音と近似します。 濆沽であれば、やはり波害の唐代発音辞書の広韻での発音で近似できると思われます。 濆沾の場合には、波害平史の平史、平淮押県の別伝である別史波衣の別史が近似します。 波害平史は全ての場合に該当し、現在の京畿道波州市波平面です。 ここは六渓土城から程近く、魏は正に本拠地を押えたことになります。
ところで私は臣濆沽國の幾つかの異表記のうち、臣濆沾國が本来の形に近いのではないかと考えています。 それはこの表記が現存するものでは一番古い、翰苑残巻によるものだからです。 翰苑残巻は非常に誤写が多いことで有名なのですが、現存最古の刊本である紹興本の韓の反乱の記述に、臣幘沾とあることが裏付けになると考えています。 濆沾であれば候補地は、波害平史と別史波衣の二箇所になるのですが、この平史と別史一伝平淮が共通するのではないかと思うのです。 別史の別伝平淮にはさらに別伝平唯があり、三国史記の表記が揺れています。 平淮はおそらく別史との比較から考えて、平准が正しいでしょう。 波害平史と別史波衣一伝平准押は、平史のような発音を含み、広韻レベルで濆沾と近似してきます。 別史波衣は現在の京畿道金浦市の通津と月串面の付近と言われ、江華島の対岸臨津江と漢江が合流して海に入るあたりです。 韓伝の語るように、臣濆沾國は単独で二郡と戦うような、韓の大国であったわけです。 韓の大国は戸数一万ですから、大同江流域の楽浪郡帯方郡二郡よりも大きな国です。 少なくとも臨津江流域は支配していたと思います。 もしかしたら礼成江方面まで及んでいたかもしれないでしょう。 従ってその国名が平史と言う大域地名として残り、小地名として波害や波衣と言った地名要素を付加されたのではと考えます。 波害平史には別伝額がありますが、波害とは額の意味で地形を表し、別史波衣の波衣は三国史記地理志の他の高句麗地名の例から岩をあらわしたのでしょう。
伯濟國の動静
この魏韓戦争における伯濟國の立場はどのようなものだったのでしょうか。
風納土城の土塁建設の年代に付いて、現在のところ上限310年、下限370年とされていますので、四世紀前半には土城は形を整えたと思われます。
後漢書の暗示するように、伯濟國が後の百濟であるとすると、およそ百年後には伯濟國は漢江流域を支配したと考えられます。
このような百濟への発展を考えると、伯濟國が魏韓戦争で滅ぼされたとは考えにくく、少なくともこの戦争では中立もしくは魏の側であった蓋然性が高いと考えられます。
風納土城が築かれたということは、そこが魏にとって敵対的であったか、もしくは魏がこの地域を支配するのに協力を得ようとしたかのいずれかであると考えます。
魏にとっては人口の多いこの地域を抑えるのは大変なことで、二郡の力だけでは足らず、現地人の協力が必要だったはずです。
韓伝には下記のような記述があります。
其國中有所為及官家使築城郭,諸年少勇健者,皆鑿脊皮,以大繩貫之,又以丈許木鍤之,通日嚾呼作力,不以為痛,既以勸作,且以為健。
拙訳:その国中で事業が有るか官家が城郭を築かせるとき、諸々の年少で勇健な者は皆な背の皮を鑿ち、以て大縄で貫き又た一丈許りの木で鍤き、一日通して嚾呼し作力するが痛みを言わず、かつ作業が進むと立派だとする。
魏は馬韓人の積極的な協力を得ていたと思われます。 おそらく伯濟國は魏の建郡作業の協力者で、それがゆえにその本拠地に支配の拠点としての、風納土城を置こうとしたのだと思います。 風納土城下層には、紀元前に遡る居住の痕跡があり、三重の環濠も発見されています。 これこそが伯濟國本来の遺跡でしょう。
魏韓戦争以前の伯濟國は、馬韓に置いてどのような立場であったのでしょうか。 魏に頼みにされる以上は、大国であったと思われます。 おそらく目支國は牙山湾から錦江中上流と支流の美湖川流域、臣濆沾國は臨津江流域から礼成江流域、伯濟國は漢江流域を勢力圏としたのでしょう。 臣濆沾國が漢江河口地域の、江華島付近までも勢力下においていたとすると、伯濟國は漢江を通じて海に出る道を塞がれていたことになります。 陸路二郡に至る道も臣濆沾國が立ち塞がっています。 三国史記の百濟本紀に、始祖の兄が弥鄒忽に都を置いたとする伝説があります。 別伝では始祖が最初に都を置いたのが弥鄒忽とします。 弥鄒忽は現在の仁川とされていますが、何故最初期の百濟は弥鄒忽と関係が深かったという伝説が伝わっているのでしょうか。 仁川は風納土城から海岸への最短距離にあります。 つまり古く伯濟國は仁川を海への出口としていて、弥鄒忽は非常に重要な役割を果たしていたのではないかと考えるのです。
伯濟國と臣濆沾國は、かなり利害の対立するところがあったはずです。 また伯濟國を南北で挟む臣濆沾國と目支國は、韓の盟主的な存在であったでしょう。 一方の伯濟國は、三国史記百濟本紀や中国史書の伝承では、高句麗と同じ扶餘の出となっていますから、濊貊の類でしょう。 伯濟國は民族的に違う大国に挟まれていたのです。
魏韓戦争で伯濟國がどのように動いたのか、史料が無いので分かりません。 しかし伯濟國にとっては、この戦争で臣濆沾國と目支國が滅んだことは、大きな発展のチャンスではあったことでしょう。
その後の伯濟國
伯濟國に付いては、韓伝に一度登場するだけで、その後の詳細は分かりません。 伯濟國の後の姿とされる百濟が、中国の王朝に初めて朝貢した記録は372年に下ります。 魏韓戦争が正始七年(246年)から八年(248年)の間、その後の魏の支配が249年の魏の政変のあたりまでとすると、それから約120年の間どのような進展があったのでしょう。 風納土城土塁の建設年代の上限310年下限370年と言う年代観に立つならば、伯濟國が百濟に向かって発展を遂げるには、まだ時間がかかった事がわかります。 おそらく四世紀初め、八王の乱で西晋が没落するまでは、土塁の建設等の国家形成は、強力な中華王朝の権威の前で制約を受けていたのだと思われます。 この間の朝貢の状況が魏の後に続く、晋の歴史を書いた晋書に見えます。
暦年 | 帝紀 | 四夷伝馬韓 | 四夷伝辰韓 | 備考 |
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276年 | 甲午。東夷八國歸化。秋七月癸丑、東夷十七國内附。 | 十月平州分割 | ||
277年 | 是歳、東夷三國前後千餘輩、各帥種人部落内附。 | 復來。 | ||
278年 | 辛酉、東夷六國來獻。是歳、東夷九國内附。 | 明年又請内附。 | ||
279年 | 十一月呉に対する攻撃を開始 | |||
280年 | 六月甲申、東夷十國歸化。秋七月東夷二十國朝獻。 | 其主頻遣使入貢方物。 | 其王遣使獻方物。 | 二月呉滅亡 |
281年 | 三月丙申、東夷五國朝獻。夏六月、東夷五國内附。 | 同上 | 復來朝貢。 | |
282年 | 九月、東夷二十九國歸化、獻其方物。 | |||
283年 | 後継者を巡る争い。司馬攸死す。 | |||
284年 | ||||
285年 | ||||
286年 | 八月、東夷十一國内附。是歳、馬韓等十一國、遣使來獻。 | 又頻至。 | 又來。 | |
287年 | 八月、東夷二國内附。 | 同上 | ||
288年 | 九月、東夷七國詣校尉内附。 | |||
289年 | 五月、東夷十一國内附。是歳、東夷絶遠三十餘國來獻。 | 同上 | ||
290年 | 二月辛丑、東夷七國朝貢。 | 詣東夷校尉何龕上獻。 | ||
291年 | 是歳、東夷十七國、竝詣校尉内附。 |
魏の時代には公孫氏を滅ぼして後、その拠点であった中国東部の遼東の襄平を中心に、平州を置き東夷校尉と言う役人を置いて東夷を統率していました。 しかし時の権力者であった曹爽が政変により失脚すると、東夷外交を転換し、平州は幽州に合され、拠点は現在の北京あたりまで後退しました。 曹爽政権が押し進めた東夷外交は一時全く停滞し、その成果も封印された状態に成ってしまいます。 魏王朝は曹爽失脚以来、実権を司馬氏に奪われ傀儡に近い状態でしたが、260年魏の皇帝曹髦が司馬昭に対して反旗を翻して殺され、魏最後の皇帝曹奐が即位すると、もはや魏の滅亡は時間の問題となりました。 このころ晋は再び東夷外交を活発化しはじめ、倭韓濊の朝貢が再開されます。
276年十月に晋は幽州を分割し、襄平を拠点に平州を置きます。 この前後から東夷の朝貢が目立つようになり、馬韓も連年の様に朝貢を行っています。 その様子は其主頻遣使入貢方物(その主は頻繁に使いを遣わし、その地の産物を貢ためやってきた。)とか、又頻至。(又頻繁にやってきた。)などと表現されています。 日本の歴史学者板元義種氏は古代東アジアの<大王>についての中で、朝貢主体が其主とあるところに注目し、馬韓の国々の朝貢は中心となる有力者が嚮導していた可能性を指摘しています。 日本の歴史学者武田幸朝貢の三韓社会における辰王と臣智(下)によれば、晋書の辰韓の条には辰韓常用馬韓人作主(辰韓は常に馬韓人を用いて主とする)との記事があり、三国志の辰王常用馬韓人作之(辰王は常に馬韓人をこれに用いる)とは異なって、王ではなく主としていることを指摘しています。 これらを合わせて考えると、もしかしたら辰王に相当する伝統的な地位は遺存して、伯濟國のような新な盟主国がその後ろ盾となっていた可能性はあるかもしれません。
しかし一方で286年の帝紀記事に馬韓等十一國、遣使來獻。(馬韓等十一国が使者を来させて献上した)とある事から分かるように、韓の多くの国々が朝貢してきたと言う状況があります。 おそらく帝紀記事に見える多数の国の大部分は韓の国であったと思われます。 このことから一つ言えそうな事は、仮に其主が伯濟國の首長であり、言わば韓の代表であったとしても、これほどに頻繁にこれほどに多くの国が朝貢する状態では、国家形成などは進まなかったと思われることです。 晋の顔色を伺わなければ、併合などもできない状況であったでしょう。
西晋が八王の乱で衰退し始める291年までは、伯濟國即ち百濟は決して領域国家としての成長はなかったであろうと思われます。
312年遂に高句麗が楽浪郡帯方郡を支配します。
塁壁の建築上限が310年ですから、百濟としての国家形成はおそらくそれ以降と言うことになります。
晋書の慕容皝伝には、中国史書での百濟の初見の記事があります。
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
拙訳:高句麗、百濟及び宇文部、段部の人は、皆軍勢が連れてこられたもので、中国の義を慕って至ったのではなく、ことごとく故郷に帰りたい気持ちが有ります。
宇文部、段部とは同じ鮮卑の、慕容皝とはしばしば対立した別の部族です。 この記事は咸康七年(342年)の慕容皝の高句麗討伐の記事の後に来る、封裕の諌言にあるもので、百濟の兵士は高句麗に動員され、敗戦によってそのまま連行されたものと思われます。 このことから百濟はこの時期今度は高句麗の配下にあったと思われます。 そしてこの攻撃で高句麗が王都を落とされ弱体化したことが端緒となって、漸く百濟の自立への動きが始まるのです。 三国史記の記事からの推定では、四世紀後葉から南の倭国と結ぶ一方で北の高句麗と自立の為の戦いを始めます。 そして晋書によれば咸安ニ年(372年)遂に百濟として、揚子江流域に成立した東晋王朝(317年から420年)に朝貢するのです。
変更履歴
- 2019年01月26日 ドラフト版
- 2019年02月02日 初版
白石南花の随想