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東夷列伝烏桓鮮卑列伝

―後漢書を裴松之註三国志と比較する―

1.はじめに

三国志東夷伝に記載された邪馬台国については、我が国の国の始まりに関する関心から、取り上げられることの多い話題となってきました。 特に邪馬台国の位置に関しては、それが国家の発展段階に直結する意味があるところから、九州説や大和説などに関して、しばしば激しい議論も繰り広げられてきました。 そこでは邪馬台国に関して最古の記録である、三国志東夷伝の文面に対する解釈論が長々と続けられましたが、後漢書東夷列伝にも記録があります。

後漢書東夷列伝に対しては、史書として先行する三国志東夷伝の二次史料であるとの見解と、なんらかの独自情報に基づくものであるとの立場があります。 三国志東夷伝の二次史料であるとの立場では、独自の情報は無く後漢書で勝手な改変が行われているとする見解があり、一方で東夷列伝の中にある独自記事から、何らかの後漢代史料に基づくとする見解もあります。

これらの史書の原史料に関しては、すでに現存しないものがあり、断定的な判断は難しいところがあります。 ここで大きな意味を持つのが、三国志烏丸鮮卑東夷伝の冒頭の記述、「烏丸・鮮卑即古所謂東胡也。其習俗、前事,撰漢記者已錄而載之矣。故但舉漢末魏初以來,以備四夷之變云。」と、東夷伝冒頭の「故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。」です。 すなはち烏丸鮮卑については、その習俗や以前の事は、漢記を撰した者が已に記録して載せているとし、一方東夷については。前史の未だ備わっていない事を補うとしているところです。 漢記とは後漢の官撰史書である東漢漢記のことで、そこには烏丸と鮮卑については、習俗や歴史の記録があるが、東夷に関してはそこに書かれていないことがあると言っているわけです。

本稿では後漢書東夷列伝および烏桓鮮卑列伝の文面を、逐一三国志烏桓鮮卑東夷伝および、そこに引用された裴松之註の王沈魏書や魏略と比較することにより、その原史料に関して考察し、三国志が述べていることの意味を確認しようと思います。

2.後漢書東夷列伝と裴松之註三国志東夷伝の比較

夫餘伝比較表(クリックで開く)

挹婁伝比較表(クリックで開く)

高句麗伝比較表(クリックで開く)

東沃祖伝比較表(クリックで開く)

濊伝比較表(クリックで開く)

韓伝比較表(クリックで開く)

倭伝比較表(クリックで開く)

後漢書東夷列伝の各民族伝に対する比較表は、項目をクリックすると表示されます。 民族毎の比較表の最後に、記述内容を地理・言語・生業・政治・社会・風習等の記述を民族的記述とし、歴史に関する記述を、前漢時代、桓帝までの後漢時代、霊帝の時代、に分けてまとめました。 まず民族的記述について、全体をまとめてみることにします。

夫餘伝から濊伝までを見ると、一二の例外はあるものの、後漢書東夷列伝の記述に対応するものが、三国志や魏略にあります。 しかし両者の記載順はひどく違っているため、比較表は三国志の記述順を後漢書に合わせて比較しています。 後漢書固有の記述としては、東沃祖伝の比較表の通番12の女国の神井の話と、濊伝の通番5と6に漢書地理志を引いた記述があります。 濊伝のケースをみると、漢書地理志と三国志に同様の記述がある場合には、漢書地理志の記述が引かれていることが分かります。 倭伝においても、内容的に三国志と異なり、漢書地理志の記述に合うものがあります。 後漢書と三国志の記述が共通している場合に、ほぼ全てのケースで、三国志の記述の一部が後漢書になかったり、後漢書の記述が略記になっています。 裴松之の魏略からの註に相当するものが、三国志東夷伝の各伝にそこそこありますが、後漢書に対応する記述のあるものは、夫餘伝の始祖伝説だけです。

韓伝と倭伝については、濊伝までと同様の傾向はあるものの、後漢書独自の記述がかなり見えるようになります。 韓伝については三韓に別れていますが、後漢書と三国志では記述順が変わっているため、三韓のどちらに対する記述であるかも違いがあり、内容自体に大きな変化があります。 倭伝においても、用語の対応があっても、文意が変わっている場合があります。 また韓伝には、裴松之の魏略からの註が多く入っていますが、後漢書の記述でそれにあたるものはありません。 これはわずかに一か所ではありますが、倭伝にも言えることです。

つぎに歴史記述について見てみます。 時代順のため、記載順には大きな違いはありませんが、記載内容に大きな違いがあります。 まず前漢時代について見てみますと、記述は夫餘伝・高句麗伝・東沃祖伝・濊伝・韓伝・倭伝にあります。

東沃祖伝通番7等に見える玄菟郡治に関する話題や、濊伝の通番7の箕子が朝鮮に来て以来の話、通番23の漢の時代の葬送の話は漢書・史記になく、両書における独自の記述となっています。 記述内容は三国志がやや詳しくなっています。 韓伝通番49の朝鮮侯の名が準であるのは、濊伝の記述を前提とするものです。

その他は両者とも史記・漢書とほぼ同内容となりますが、倭伝の通番1にみえる百餘國の通じてきた時代と、高句麗伝の通番6の高句麗県の成立した時代を、武帝の朝鮮討伐に絡めているのが目を引きます。 三国志では武帝の朝鮮討伐の後に四郡設置あったことだけを伝えており、史記・漢書の内容を出ません。 特に注目するのは、高句麗伝の王莽時代の記述で、漢書では高句麗の名を下句麗に変えたとなっているものが、高句麗王を下句麗侯に格下げしたことになっている点です。 文面的には漢書と並行的ですが、重要な文面の変更となっています。 三国志がほぼ漢書の記述を出ない内容になっているのとは異なっています。

次に後漢時代桓帝の時代までについてみると、高句麗伝では後漢書の記述が三国志に比べてはるかに詳細です。 後漢書に見える高句麗王遂成の記述が、三国志ではごっそり抜け落ちていて、王統譜自体が異なっています。 また後漢王朝とのやり取りにおいて、後漢側の勝利の記録や、高句麗の降伏の記録などが欠けています。 他に後漢書には夫餘伝・東沃祖伝・濊伝・韓伝・倭伝にこの時期の記録があり、東沃祖を除いて後漢書に固有の記事があるか、後漢書のほうが詳細な記述となっています。

後漢時代霊帝の時代までについてみると、桓帝の時代までに比べると、後漢書の記述が全体に少なく、三国志にない固有の記述もほとんどなくなり、あっても後漢書帝紀に同様のものがあります。 このあたりの変化をもっともよく見ることができるのは高句麗伝の通番33から34になります。 そこまで後漢書が詳細だった記述が、三国志と内容が類似している上に簡略な記述になり、記述の末尾に「伝」がつくなど、原史料に変化のあったことを伺わせます。 霊帝時代の記事は、夫餘伝・高句麗伝・倭伝のみです。 夫餘伝の記事は帝紀に、高句麗伝・倭伝の記事は三国志に類似記事があります。

献帝の時代については、夫餘伝にわずかな記事がありますが、三国志に類似の記事があり、かつ文末に「伝」がついています。 公孫氏の遼東割拠以降の記事は後漢書になく、それは民族的記事においても同じで、高句麗の都が丸都であることも記述されていません。

3.後漢書東夷列伝についての考察(1) -夫餘伝から濊伝まで-

韓伝倭伝については様相の異なるところがあるため、まず夫餘伝から濊伝までについて考察します。

まず民族的記述を見ると、前節でみたように後漢書の東沃祖と濊伝にわずかに独自記事が見えるほかは、ほぼ完全に三国志に対応記事があります。 このことはこれらの記事が、共通の原史料をもとに書かれていることを推測させます。 濊伝については前節でみたように、原史料が漢書地理志で、その優先度は共通の原史料より高かったと思われます。 倭伝にも同様の状況が見えます。 東沃祖伝の独自記事である神井については、山海経などに類似する記事がある神話的な話であり、情報源は不明ですが確度の高い史料によったとは思えません。

両者の記述順が著しく異なっていることから、いずれか一方が原史料に対して、大きな改変を行った事になります。 この場合どちらがより大きな改変を行ったかは、その編纂姿勢によると思われます。 三国志東夷伝の編纂姿勢に関しては、文面の用語や文体のばらつきから、原史料をそのまま写したという見方が以前からありました。 一方の後漢書東夷列伝には、そのような不自然さは少なく、原史料に対して一語一語吟味を行ったうえで書いていると思われます。 文面の情報的には三国志のほうが多く、後漢書が原史料から情報を落としたか、三国志が原史料に情報を追加したと言うことになりますが、同一内容に関しても、後漢書の略記が目立ち、後漢書東夷列伝は原史料をより縮約していると思われます。 このような見立てだけから見れば、三国志のほうが共通の原史料に近い文面であると思われます。

つぎに前漢時代までの歴史記述を見てみます。 両者の編纂姿勢の違いを物語るのが、前節で触れた高句麗伝の王莽時代の記事で、文面から明らかに漢書王莽伝を下敷きにしているのですが、文面を改変しています。 対応する三国志においては、少なくとも前漢時代に関しては、漢書の内容を変更していません。 このことは民族的記述に関して述べた、原史料により忠実なのは三国志であるという推定と整合します。

続いて桓帝までの時代についてみると、記述は夫餘伝・高句麗伝・東沃祖・濊伝にあり、後漢書が詳細で具体性があります。 三国志と内容的にも差があるため、何らかの固有の原史料があったことを物語ります。 特に前節でみたように、三国志の高句麗伝の内容と比較すると王統に差があり、全く異なる原史料を用いていると思われます。 後漢書の高句麗王統を見ると、宮・遂成・伯固とつながりますが、三国志では宮・伯固・伊夷模・位宮と続き、位宮の曾祖の名が宮となっています。 三国志では遂成が抜けてしまっているのですが、よく見ると三国志では後漢書に見える宮王の敗北については一切触れていないのです。 伯固以下については、敗北や降伏にも触れていますが、宮王については勝利の記録しか残していません。 このことは三国志の記録では、宮王が神格化されているように見えるのです。

この事情は三国志が今の王とする、位宮に対する記述から、その原因が分かってきます。 位宮は宮王に似ているとしていますが、おそらくそれは位宮が伝統に反して灌奴部を母に持ち、はじめて桂婁部から選ばれた王であるという、正統性に対する引け目を補おうとしているのであると思われます。 すなはち三国志の記述は、位宮の言い分を入れた記録であり、宮との類似点や血統の繋がりを強調し、同時に宮王について業績の汚点を記録しないものであったということができます。 遂成が抜けているのは、この王が宮王の夫餘への敗北の結果を受けて、後漢に降伏したため、存在自体が宮王の汚点にふれるものであったためと思われます。

高句麗伝の末尾近くに、今の王位宮という記述があり、正史年間の魏との抗争については簡単に記述したうえで、詳述は毌丘儉伝にありとしていて、三国志高句麗伝の歴史記述自体は、本来魏との抗争が始まる前までに作成されていた、原史料によるものと思われます。 高句麗は司馬宣王の公孫淵討伐に加勢しており、景初年間までに作成された記録であれば、そのような高句麗の言い分を載せたような史料の成立する可能性は、十分にあると思われます。

宮王が生まれながらに目が見えたことに対しては、国人はこれを憎み、長じて国を滅ぼしたとありますが、同じ特性を持った位宮に対する、乗馬や弓に対する良い評価がそれに続いており、文脈的におかしくなっています。 後漢書の同じ部分の記述では、国人は宮王に懐いたとなっており、これが後漢当時の評価だったのでしょう。 おそらく原史料では宮王に対する評価も、後漢書と同じく良いものだったのを、三国志が編纂される時代までに、魏と対立し北沃祖までに逃げることになった位宮に対する評価を、祖先の宮にまで遡及させたものだったと思われます。

後漢書の歴史が後漢王朝側の視点で書かれているところを見ると、その原史料は後漢の政府記録をもとにしたものと想定できます。 一方で三国志はそれとは別に、高句麗側に伝わった話を記録したものとみてよいと思います。

次に霊帝の時代までを見てみます。 するとここで大きな変化があります。 後漢書で桓帝末に起こったように書かれている、帯方県令殺害と楽浪太守の妻子拉致の話は、三国志では桓帝時代の話と「又」で結んであり、後漢書李陳龐陳橋列傳に橋玄が伯固等を討ち、度遼將軍を退く霊帝初年まで平安であったという記事からすると、事件は本来霊帝の建寧年間になって起こったことであったと思われます。 この記事は後漢書が三国志を写したような内容になっており、しかも文末に「伝」とあって、それ以前とは様相が違います。 しかもこの後の建寧二年に、伯固を討伐した玄菟太守耿臨については、他の記録が全くありません。 かなりの事件であると思われますから、後漢側の記録環境に変化があったことがわかります。

前節でみたようにこの時代に関する後漢書の記録は、夫餘伝・高句麗伝のみになり、しかも後漢書帝紀や三国志に関連記事があり、後漢書東夷列伝固有の記事が無くなります。 夫餘伝の獻帝時とする記述も、三国志の略記になっており、同じく文末に「伝」とあります。 このことは桓帝の時代まではあった後漢書東夷列伝の歴史の原史料が、霊帝の時代にはなかったことを示唆します。

後漢代の官撰史書として東観漢記があります。 この史書は長い期間にわたって何度も編纂が行われてきたのですが、後漢書盧植伝の熹平中の記事に「歲餘,復徵拜議郎,與諫議大夫馬日磾、議郎蔡邕、楊彪、韓說等並在東觀,校中書五經記傳,補續漢記。」とあって、熹平中に東観漢記の編纂があったことが分かります。 熹平中というのは霊帝の在位年中ですから、このとき帝紀は桓帝紀まで撰述されたと思われます。

さらに後漢書に「邕前在東觀,與盧植、韓說等撰補後漢記,會遭事流離,不及得成,因上書自陳,奏其所著十意,分別首目,連置章左。」、また「其撰集漢事,未見錄以繼後史。適作靈紀及十意,又補諸列傳四十二篇,因李傕之亂,湮沒多不存。」とあって、霊帝没後に蔡邕らがまとめていた、霊帝紀および十志や列伝四十二編を補った史料は、後漢末の混乱で散逸していたとわかります。 つまり熹平中の撰述において完成していたのは、列伝を含めて桓帝までと考えられます。 唐代の劉知幾によって著された史通には、「史臣廢棄,舊文散佚。」「及在許都,楊彪頗存註紀。」とあって、蔡邕らが獄死して後の建安初年に許都に移って、楊彪が散逸した史料を収集してまとめたらしいのですが、列伝の中には遂に、桓帝以降の記述を欠いたままのものもあったはずです。

以上の状況からすると、後漢書東夷列伝の歴史記事は、東観漢記を原史料としていたもので、そこには桓帝の時代までしか書かれていなかったのでしょう。 後漢書の東夷に関する歴史記述については、帝紀との間に記述内容に差があり、東夷伝という名がついていたかどうかはともかく、東観漢記には後漢代の東夷諸国に関する、歴史をまとめたものを含む巻があったことが推測されます。

3.後漢書東夷列伝についての考察(2) -韓伝と倭伝-

韓伝と倭伝については、民族的記述にも後漢書固有の記述が多く、夫餘伝から濊伝までとは様相が違います。 問題は濊伝までには後漢書と三国志には、共通の原史料が存在したことです。 その原史料は韓や倭にもあったとみるのが妥当で、内容的に差はあるものの、記事の項目的には一致するところからもそれはうかがえます。

前節でみたように、後漢書東夷列伝は三国志東夷伝に比べて、編纂方針として原史料に修正を加える傾向があることから、この差分は何らかの追加情報による修正であるとみることができます。 また夫餘伝から濊伝までの歴史記述に関しては、東観漢記を原史料としている可能性が高いものの、民族的記述に関してはほぼ共通の原史料によっているとみられることから、韓伝と倭伝についてもこの追加情報の全てが東観漢記に依存している可能性は小さいと思われます。 もしもそれほどに東観漢記に、独自の民族的記事があったのなら、夫餘伝から濊伝の歴史記述が三国志と大きな差があったように、全体の項目的一致がこれほどにはならなかったと思われるからです。

では何が韓伝倭伝の追加情報であったのでしょうか。 その差分に注目するしてみましょう。 たとえば韓伝においては、三国志に七十九国挙げられている国名について、七十八国として伯濟のみがその一国として取り上げられています。 共通の原史料から伯濟のみが取り上げられているとすると、情報源は伯濟に関連すると思われます。 唐代における推定漢字音では、伯濟と百濟は完全に同音価であり、この情報源が百濟に関連することを伺わせます。

韓伝におけるもう一つの大きな差異が、辰王に対する扱いです。 辰王は三国志では、馬韓に都し辰韓の十二国を治めるとしか書かれていませんが、後漢書では三韓の王となっていて、諸国の王は馬韓人の子孫であるとしています。 三国志では辰韓が古の辰國となっているのに対して、後漢書では韓の全てが古の辰國としているのは、これに対応したものでしょう。

つまり後漢書では韓の全ての国がもとは辰國であり、今も辰王が治める土地なのです。 そしてそこで特記すべき国が百濟と同音の伯濟なのです。 これは百濟の朝鮮半島南部における先有権を主張するものと思われます。 百済は南朝に対して四世紀から朝貢を行っており、後漢書が書かれた時代においても、たびたび朝貢を行っています。 韓伝の追加情報は、百済の南朝朝貢使によるものとみて間違いないでしょう。

たとえば三国志では、辰韓と弁辰は単に雑居となっていますが、後漢書ではそれ以外に、弁辰は辰韓の南にあると言っています。 これは辰韓の後継である新羅と、弁辰の後継である加耶の、五世紀ごろの位置関係を反映したものでしょう。

こう見ていくと倭伝における差異も、その原因が百済や倭の南朝朝貢にあると思われます。 例えば三国志では、倭は大海中にあるとし、その大海中の倭の北岸に狗邪韓国があるとして、明瞭に倭が海中の存在で、韓がその対岸にあるとの認識を示しています。 韓伝における南接倭の記述は、漢籍の用例を見れば地続きを意味するものではないことが明らかなので、実態はともかく三国志における地理的認識では、半島側に倭地は存在しません。 ところが後漢書倭伝では、現在の金海地域と思われる狗邪韓国を、倭の北の境界であるとしているのです。 これは五世紀の倭国の影響が、半島南部に及んでいたことの反映であろうと思われるのです。 三国志に見えない馬韓が倭と南で接するとの表現は、百済と倭の密接な関係を反映したものでしょう。

続いて歴史記述を見ると、前漢時代については記述はわずかで、後漢桓帝までの歴史は、韓伝の建武二十年と倭伝の中元二年と永初元年の朝貢記のように、漢書固有の情報があります。 これらの朝貢記事は後漢書帝紀にもあり、倭伝のものは後漢紀にもあるうえ、東夷伝には帝紀にない情報も書かれており、前節の結論からすると帝紀とは別に、東漢観記の東夷の歴史記述にあったものでしょう。 倭伝にある卑弥呼の即位記事については、霊帝の末年におよびますが、この即位記事には対応する朝貢記事がなく、即位記事のみがあることに不自然さがあります。 また前節で考察したように、東観漢記の東夷に関する歴史記事が、桓帝の時代で終わっていたことを考えると、このような即位の事情を伝える、東観漢記の情報があったとは考え難いと思います。

4.後漢書東夷列伝についての考察(3) -三国志との共通の原史料-

後漢書東夷列伝と三国志東夷伝の、共通の原史料に関して考える際に、後漢書東夷列伝と三国志東夷伝の裴松之註にひく魏略との関係が鍵になります。 後漢書東夷列伝と、裴松之註三国志東夷伝を見比べた場合、後漢書の記事で魏略の引用文に当たるものがほとんどないことに気づきます。 唯一後漢書夫餘伝において、夫餘の始祖伝説に当たるものが、三国志に引用された魏略にあります。 ただ詳細に見ると北方の国名が索離國と高離之國で異なり、侍兒の言葉も意味的には同じでも、言い回しに差があるなど、用語や言い回しの差をみると、直接魏略を引用したものではないと思われます。 実際詳細さでは後漢書が勝る場合もあり、両者が共通の情報源に遡り、それぞれ別の展開を経たことが伺われます。 この伝説はすでに一世紀の論衡に見えるものであり、著名な伝説として広まっていたものを、それぞれ独立に採録したものと考えるべきであろうと思われます。

有力な説では、魏略の逸文と三国志東夷伝の比較から、魏略と三国志の関係として、魏略が三国志の原史料の一つであるか、少なくとも共通の原史料があったと考えられています。 するとここまでの結論として、後漢書と三国志の東夷伝と、魏略の三者に共通の原史料があったことになります。 三国志には韓伝を中心に、かなりの数の裴松之註の魏略の文がかなりあります。 そこから個別に三者に編纂されたとすると、当然それぞれの間に差異があると同時に、共通する記事があると思われます。 しかし三国志と魏略・後漢書に共通記事があり、魏略と後漢書に共通項がありません。 この事実を説明するには、後漢書が三国志を引いたとするしかないと思います。 実際すでに述べたように、夫餘伝や高句麗伝の歴史では、ほぼ三国志と同じ記事を書いて、末尾で「伝」としているものがあり、三国志を引いたことを暗示しています。 また高句麗伝では、三国志が順・桓の間とする伯固の侵犯を、記述形式としては引いたうえで、質・桓の間と訂正しています。

ここまでの議論をまとめると、東観漢記には東夷の民族記事はほとんどなく、一方東夷の歴史記事については、後漢桓帝の時代まではあったと考えられます。 これが東夷伝の冒頭で、前史にない記述を補うとした意味であることが分かります。

ここであらためて東夷伝における、三国志と後漢書の記事の差を見ていくと、後漢書は三国志の記述順を大きく変えていることが分かります。 これは全文を分解し、一文一文吟味しながら、一見した文章の見栄えを変えているものであると思われます。 さらに省略された情報を追ってゆくと、例えば高句麗伝では、都が丸都であることを落としています。 建安年間に公孫康が高句麗を破り、伊夷模が都を丸都に移したとする記事から、丸都が高句麗の都になったのはまだ後漢の時代の話です。 歴史の記述では、桓帝以降は東観漢記に参照できる記事がなかったとは思われますが、これは民族記事であり、かつ後漢の時代の話なので、後漢書が省略する必要はありません。 また同じく帯方という用語も、成立は後漢末ですが後漢書では高句麗伝に一例あるのみで、それも時代的に霊帝の時代なので、帯方郡ではなく帯方県と考えられ、注意深く公孫氏が遼東に独立して後の記事を省略していると思われます。 また軍事上の理由で重要だったはずの、人口に関する記述も全て落とされていますが、これは原史料とした三国志が三世紀の文献で、その人口をそのまま後漢代の人口とすることができなかったためと思われます。

本来後漢末に関しては、後漢書の記述範囲に含まれるべきもので、このような態度は三国志との分担範囲を、公孫氏が遼東に独立するまでとみなしているものと考えられます。 ちなみに実質独立を果たした公孫度は、明らかに後漢の時代の人物ですが、後漢書に公孫度伝はありません。

後漢書東夷列伝は編纂時に三国志東夷伝を強く意識し、三国東夷伝書稱に、公孫淵と父祖三世が遼東有して後、東夷が天子の絶域となったとの記述に従っているのであろうと思われます。 東観漢記には実際霊帝以降の、東夷の歴史記述はなかった可能性が高いわけですが、それでも霊帝以降の出来事を、三国志の記述をもとに記載しようとしています。

韓伝と倭伝では、このような観点により、帯方郡の用語の使用が避けられています。 また卑弥呼の即位記事などは、三国志の記事を吟味したうえで、東観漢記にあった永初元年の記事を、三国志の男王に当て、卑弥呼即位前の混乱を、桓帝と霊帝の間として、その即位を公孫氏の遼東割拠前において、記述を試みたのでしょう。

そうまでして韓や倭の記事を書きたかった理由は、百済や倭の南朝朝貢による新情報が、刺激になったものでしょう。 特に倭に関しては、王沈の魏書の鮮卑伝にある、汗人を倭人に変えるなど、倭人に関しての関心が非常に高かったと思われるのです。 漢書地理志にある東鯷人の話や、三国志呉書にある夷洲と亶洲の話などを、倭伝の末尾に持ってきています。

5.後漢書烏桓鮮卑列伝と裴松之註三国志烏丸鮮卑伝の比較

烏桓伝比較表(クリックで開く)

鮮卑伝比較表(クリックで開く)

後漢書烏桓鮮卑列伝の両族伝に対する比較表は、項目をクリックすると表示されます。 両民族の比較表の最後に、記述内容を地理・生業・風俗・言語等の記述を民族的記述とし、歴史に関する記述を、前漢時代、桓帝までの後漢時代、霊帝の時代、に分けてまとめました。 まず民族的記述について、全体をまとめてみることにします。

民族的記述については、後漢書烏桓鮮卑列伝の記述に対応するものは、王沈魏書にあります。 後漢書固有の記述はなく、王沈魏書にあって後漢書にない情報があります。 両者の記載順もほとんど一致していますが、比較表は王沈魏書の記述順を後漢書に合わせて比較しています。 後漢書と王沈魏書の記述が共通している場合には、後漢書の記述が略記になっています。

つぎに歴史記述について見てみます。 前漢時代について見てみますと、後漢書には史記・漢書にも見えない記事が見えます。 後漢桓帝時代までは、三国志に記事はなく、魏書との比較では後漢書の歴史記述が詳細ですが、内容的に出入りがあります。 霊帝までについては烏桓伝と鮮卑伝に差があり、烏桓伝では魏書になく三国志との比較では後漢書がやや詳しいです。 鮮卑伝については魏書に霊帝までの引用があり、後漢書と比較すると後漢書が圧倒的に詳細ですが、一部の記述に出入りがあり、檀石槐が捕らえた民族名に倭人と汗人の違いがあります。 これについては、王沈の魏書が原型に近いと考えます。 東擊倭人國

献帝以降は両伝とも魏書からの引用はなく、後漢書鮮卑伝には記述がありません。 また後漢書烏桓伝と三国志烏桓伝では、建安十一年より前では後漢書がやや詳しいですが、登場人物やその記載方法などに差があります。 後漢書の建安十二年の記事だけ三国志が詳細で、文末に「伝」がついています。

6.後漢書烏桓鮮卑列伝についての考察

両伝の民族的記述を見ると、ほぼ用語的に対応することから、共通の原史料があると思われます。 内容的には魏書が詳しいことから、魏書が後漢書の原史料とも言えるわけですが、ここで烏桓鮮卑列伝の冒頭に、東観漢記に習俗や前史が記録されていると書かれていることを考慮すると、この民族記事も東観漢記を共通の原史料としていると考えられます。 なぜ裴松之註は東観漢記を用いなかったか不思議ですが、裴松之註には一か所も東観漢記が引かれておらず、理由は不明ですが方針によるものと思われます。 このことは、なぜ范曄が東観漢記を主な原史料とし、すでに多く存在している後漢の史書を編纂しようとしたのかに関連する可能性があります。 范曄が後漢書の編纂を思い立ったという元嘉9年は、裴松之が皇帝の命をうけ三国志に註を付けた元嘉6年の、わずかに三年後のことになります。

前漢時代の歴史記述を見ると、後漢書には史記・漢書に見えない記述が見えます。 後漢時代の桓帝までは、両伝とも後漢書が大いに詳しいですが、情報的には出入りがあり、用語的な対応もあるため、やはり共通の原史料に基づき、それぞれ別に編纂を受けたものと思われます。 霊帝の時代については、烏桓は三国志との比較になりますが、両者とも桓帝の時代と同じように、同じ原史料からの別編纂と思われます。 三国志と魏書の引用が、時代的に重ならないのは、三国志が記載しなかった部分を、魏書で補ったためであるとおもわれます。

献帝の時代については、後漢書鮮卑伝には記事がありません。 烏桓伝については建安十二年までは、霊帝までと同じ状況ですが、建安十二年の曹操による蹋頓討伐の記事では三国志の記述が詳細で、後漢書には文末に「伝」とあります。 東夷伝の状況と比べると、少なくとも建安十二年の前までの歴史については、両伝とも東観漢記に原史料があった可能性があります。

東観漢記について調べると、隋書經籍に「東観漢記一百四十三卷起光武記注至霊帝,長水校尉劉珍等撰。」とあって、東観漢記はそもそも霊帝までとなっています。 しかし清の四庫全書総目提要に、「隋志又稱是書起光武。訖靈帝。今考列傳之文。閒紀及獻帝時事。蓋楊彪所補也。」とあり、列伝には楊彪が献帝の時代まで記録したものがあったようです。 このことから東観漢記の両伝に、献帝の建安十二年の前までの歴史記録があったとしてもよいと思われます。

三国志は東観漢記との記述の重複を避け、鮮卑伝ではそれ以降の歩度根の記事から記述を始めたのでしょう。 しかし烏丸については、早くから袁紹と通じて後漢の政争に関わり、ついに曹操の討伐を受けることになった蹋頓に触れる必要があったため、その前史として霊帝の時代の記事から書き写したと思われます。

三国志烏丸鮮卑伝冒頭に、漢記に習俗や前史が書かれているとするのは、上述したような東観漢記烏丸鮮卑列伝の状況をあらわしたものであると考えられます。 東夷列伝と烏桓鮮卑列伝のこの違いの原因は、東夷諸族は楊彪が関わった建安年間には、すでに公孫氏の割拠で絶域になっていたのに対して、烏桓や鮮卑は後漢の政治中枢とずっと交渉を保っていたことが原因であると思われます。

7.後漢書東夷列伝および烏桓鮮卑列伝の史料的価値

後漢書烏桓鮮卑列伝については、現存しない同時代史書の東観漢記を引いており、民族的記述や後漢代の建安年間初期の歴史などについては、大きな史料的価値があると思います。 後漢書東夷列伝においては、後漢代の桓帝までの歴史に関しては、同じく東観漢記を引いており、史料的価値は高いと思われます。

ただそれ以外については、高句麗伝の王莽時代の歴史記述や、東夷伝における三国志の民族記事の取り扱いなどをみると、三国志や史記・漢書などとの整合性をよく見る必要があると思われます。 後漢書は原史料を改変したり、原史料にない記事を作文している可能性があるのです。

ここではまず烏桓伝の前漢時代の記事に見える、霍去病が匈奴の左地を破った際に、烏桓を五郡の塞外に置いて、匈奴の動静を探らせた話を取り上げます。 霍去病のこの勝利は、紀元前119年の話ですが、烏桓の話は史記・漢書に見えないものなのです。

烏桓の行動が史書に最初に現れるのは、漢書にみえる紀元前78年の范明友による討伐の話になります。 しかもこの話は、烏桓が匈奴の単于の墓をあばき、それに対して匈奴が報復したことが発端とされています。 匈奴の単于の墓をあばいたのは、匈奴の支配下にあった烏桓が、独立を試みた事であると思われますから、烏桓の民族名が広く認識されるのは、そこからそれほど遡らない時期であると思われます。

烏桓については史記貨殖列傳に見える、燕にたいする記述「北鄰烏桓、夫餘,東綰穢貉、朝鮮、真番之利。」が、史書における初見です。 これをもってしばしば烏桓が戦国時代から知られていたとされることがありますが、貨殖列傳は戦国時代から書き起こしているものの、この文章は「漢興,海內為一」という一文のあとにくるもので、明らかに漢代の話です。 史記は司馬遷の父の代から編纂が始まっているのですが、歴代富豪の話を集めた貨殖列傳がそれほど古くから編纂されていたとは思われず、また内容的に今風に言えば自由経済礼賛で、当時の武帝の政策に対して批判的な内容となります。 父の事業を引き継いだという段階ではなく、司馬遷が武帝の怒りにふれて宮刑に処せられ、発覚すれば殺害される事を覚悟で、史書編纂に人生を賭けた時期に書かれたと考えるのが妥当でしょう。 すなはち烏桓という民族名が、歴史上に浮上してくるのは紀元前一世紀のことなのです。

後漢書の記事が根も葉もない話であるとは断定できません。 漢代史書から記録に漏れた出来事である可能性はあります。 しかしおそらくアヴァール(紀元前の烏桓の音価)という民族名を持つ、匈奴の支族が降伏した程度の認識であったでしょう。 ましてや後漢書に見えるように、護烏桓校尉などという役人が置かれたとは考えられないのです。 実際に漢書百官志にはその名がありますが、続漢書百官志にはないのです。 後漢書にはその後光武帝の時代に、再び護烏桓校尉をおいたとの記録があり、その記録が紛れ込んだのでしょう。

もう一つの例をみてみましょう。 後漢書には王莽が匈奴を討つため十二部の軍を興し,東域将の厳尤に烏桓・丁令の兵を率いて代郡に駐屯させたとあります。 しかし漢書では、厳尤は十二部の内の一つ討穢将軍で、漁陽から出発しており、代郡から出発したのは振武将軍王嘉と平狄将軍王萌です。 明らかな食い違いがあり、しかも全体の話の筋に、王莽伝の高句麗の話題に似たところがあります。

王莽が匈奴を討つために、三十万の軍を動かしたとすると、その中に烏桓が含まれていたことは当然ありうると思います。 しかし王莽伝に登場する厳尤に関連して食い違いがあるところから、本来の出来事では烏桓は厳尤の配下では無かったのでしょう。 この話は漢王朝の記録にあったのではなく、口伝されたものを後の時代に文書化したものと思います。 口伝は文書化されたものよりも変容しやすく、一方に文書化された王莽伝があったため、それに引きずられたものだと思います。 烏桓が動員され、逃げ出したという事件はあったかもしれませんが、後漢書のこの記述の細部については、信頼性に劣る物であると思います。

もう一つが高句麗伝の前漢時代の記事に見える、高句麗県の成立した時代を、武帝の朝鮮討伐に絡めているう記述です。 高句麗県が武帝の時代に成立したことは、後漢書にのみ見える記事ですので、これを一端保留するとどのようなことが言えるかを考えてみます。 すでに述べたように史記貨殖列傳には、燕にたいする記述「北鄰烏桓、夫餘,東綰穢貉、朝鮮、真番之利。」があります。 ここに見える夫餘は、三国志には古の亡命者としてあり、濊城があってかっては濊貊地であるとしています。 しかも濊王之印という印を持っているというのですが、王朝名を伴わない印面の特徴から、これは前漢時代の印で、濊が王印をもらうような出来事は、薉君南閭が投降して、そのあとに蒼海郡が立てられた事件ぐらいです。 蒼海郡は紀元前126年に廃止され、そのあとに夫餘が国を建てたとすると、建国はそれ以降となります。 同じ記事に見える烏桓の独立も、仮にすでに批判した後漢書の記事を正しいとしても、紀元前119年以降になることにも整合します。 実際には史記貨殖列傳は、おそらく司馬遷の晩年の記述でしょうから、紀元前一世紀の初めごろには、まだ高句麗という民族名は一般的ではなく、穢貉として扱われているのです。

ここで三国志の東沃祖伝をみると、武帝が四郡を置いた時には、沃沮城を玄菟郡としたとあり、その後三世紀の高句麗丸都城の西北に移動し、そこもまた以前の玄菟府であるとしています。 つまり玄菟府は最初沃沮城にあり、その後移動したが三国志の時代には、そこからまた移動しているということです。 そして前漢末ごろの状況を示すとされる漢書地理志、および後漢順帝の時代の状況を示すとされる、続漢書郡国志によれば、高句麗県を郡治とし、双方とも「高句驪遼山,遼水出。」とありますから、漢代には同じ位置にあったことが分かります。

ここで玄菟郡治がいつ沃沮城から高句麗県に移動したのかを見ると、漢書昭帝紀元鳳六年(紀元前75年)に、遼東玄菟城を築いたという記事があるのです。 これは漢書地理志の高句麗県であることになり、高句麗県はこの時に作られた可能性が高いのです。 それ以前に高句麗県があり、移設されたとする根拠は後漢書だけで、しかももし高句麗県ができたのが、紀元前75年なら、史記に高句麗の名が出てこないことが自然に理解できるのです。 東沃祖伝には玄菟郡治を移動した理由として、夷貊が侵したためであるとします。 この夷貊は高句麗のことであるとの説がありましたが、同一文内で高句麗と使い分けていることから無理な解釈で、むしろその時代にはまだ高句麗という民族名が成立していなかったことの現れであると考えられます。 高句麗は穢貉の一部の人びとが、新たな玄菟郡治設置に伴って、その属民として政治的に結集したものが起源であると思われます。

このように見ていくと、前漢時代の歴史に関しては後漢書はあくまで後世史料として扱うべきものと思います。 後漢書東夷伝の記述を歴史書として評価する場合は、おそらく東観漢記の記述によって書かれた、後漢代の桓帝までの歴史に限るのが安全で、それ以外に関しては、事実無根とは言わないまでも、注意深く扱うべきものと考えます。

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