東夷列伝烏桓鮮卑列伝
―後漢書を裴松之註三国志と比較する―
1.はじめに
三国志東夷伝に記載された邪馬台国については、我が国の国の始まりに関する関心から、取り上げられることの多い話題となってきました。
特に邪馬台国の位置に関しては、それが国家の発展段階に直結する意味があるところから、九州説や大和説などに関して、しばしば激しい議論も繰り広げられてきました。
そこでは邪馬台国に関して最古の記録である、三国志東夷伝の文面に対する解釈論が長々と続けられましたが、後漢書東夷列伝にも記録があります。
後漢書東夷列伝に対しては、史書として先行する三国志東夷伝の二次史料であるとの見解と、なんらかの独自情報に基づくものであるとの立場があります。
三国志東夷伝の二次史料であるとの立場では、独自の情報は無く後漢書で勝手な改変が行われているとする見解があり、一方で東夷列伝の中にある独自記事から、何らかの後漢代史料に基づくとする見解もあります。
これらの史書の原史料に関しては、すでに現存しないものがあり、断定的な判断は難しいところがあります。
ここで大きな意味を持つのが、三国志烏丸鮮卑東夷伝の冒頭の記述、「烏丸・鮮卑即古所謂東胡也。其習俗、前事,撰漢記者已錄而載之矣。故但舉漢末魏初以來,以備四夷之變云。」と、東夷伝冒頭の「故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。」です。
すなはち烏丸鮮卑については、その習俗や以前の事は、漢記を撰した者が已に記録して載せているとし、一方東夷については。前史の未だ備わっていない事を補うとしているところです。
漢記とは後漢の官撰史書である東漢漢記のことで、そこには烏丸と鮮卑については、習俗や歴史の記録があるが、東夷に関してはそこに書かれていないことがあると言っているわけです。
本稿では後漢書東夷列伝および烏桓鮮卑列伝の文面を、逐一三国志烏桓鮮卑東夷伝および、そこに引用された裴松之註の王沈魏書や魏略と比較することにより、その原史料に関して考察し、三国志が述べていることの意味を確認しようと思います。
2.後漢書東夷列伝と裴松之註三国志東夷伝の比較
後漢書夫餘伝と裴松之注三國志の比較表
通番 | 後漢書記事 | 三國志 | 差分と備考 |
記載順 | 記事 |
1 | 夫餘國,在玄菟北千里。南與高句驪,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水。地方二千里, | 1 | 夫餘在長城之北,去玄菟千里,南與高句麗,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水,方可二千里。戶八萬, | 後漢書は人口の記述を欠く。 |
2 | 本濊地也。 | 16 | 其印文言「濊王之印」,國有故城名濊城,蓋本濊貊之地,而夫餘王其中,自謂「亡人」,抑有似也。 | 後漢書はごく簡単に記述。 |
通番 | 後漢書記事 | 魏略 | 差分と備考 |
記載順 | 記事 |
3 | 初,北夷索離國王出行,其侍兒於後妊身,王還,欲殺之。 | 1 | 舊志又言,昔北方有高離之國者,其王者侍婢有身,王欲殺之, | 用語に差があるもののほぼ同一。 |
4 | 侍兒曰:「前見天上有氣,大如雞子,來降我,因以有身。」王囚之,後遂生男。 | 2 | 婢云:「有氣如鷄子來下,我故有身。」後生子, | 後漢書が詳しく、言い回しに差がある。 |
5 | 王令置於豕牢,豕以口氣噓之, | 3 | 王捐之於溷中,猪以喙噓之, | 用語に差があるもののほぼ同一。 |
6 | 不死。 | 5 | 不死。 | この語だけ位置が違う。 |
7 | 復徙於馬蘭,馬亦如之。王以為神,乃聽母收養,名曰東明。 | 4 | 徙至馬閑,馬以氣噓之,王疑以為天子也,乃令其母收畜之,名曰東明, | 用語に差があるもののほぼ同一。 |
8 | | 6 | 常令牧馬。 | 魏略のみ。 |
9 | 東明長而善射,王忌其猛,復欲殺之。東明奔走,南至掩箫水,以弓擊水, | 7 | 東明善射,王恐奪其國也,欲殺之。東明走,南至施掩水,以弓擊水, | ほぼ同一。川の名に違いがある。 |
10 | 魚鱉皆聚浮水上,東明乘之得度, | 8 | 魚鼈浮為橋,東明得渡,魚鼈乃解散, | 若干後漢書が詳しい。 |
11 | 因至夫餘而王之焉。 | 9 | 追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。 | 若干三国志が詳しい。 |
通番 | 後漢書記事 | 三國志 | 差分と備考 |
記載順 | 記事 |
12 | 於東夷之域,最為平敞,土宜五穀。 | 3 | 多山陵、廣澤,於東夷之域最平敞。土地宜五穀,不生五果。 | 後漢書は山や沢、五果の記述を欠く。 |
13 | 出名馬、赤玉、貂豽,大珠如酸棗。 | 7 | 出名馬、赤玉、貂狖、美珠。珠大者如酸棗。 | 後漢書は美珠の記述を欠く。 |
14 | 以員柵為城, | 9 | 作城柵皆員,有似牢獄。 | 後漢書は牢獄に似るを欠く。 |
15 | 有宮室、倉庫、牢獄。 | 2 | 其民土著,有宮室、倉庫、牢獄。 | 後漢書は土着を欠く。 |
16 | 其人麤大彊勇而謹厚,不為寇鈔。 | 4 | 其人麤大,性彊勇謹厚,不寇鈔。 | |
17 | 以弓矢刀矛為兵。 | 8 | 以弓矢刀矛為兵,家家自有鎧仗。國之耆老自說古之亡人。 | 後漢書は鎧仗や耆老の話を欠く。 |
18 | 以六畜名官,有馬加、牛加、狗加,其邑落皆主屬諸加。食飲用俎豆,會同拜爵洗爵,揖讓升降。以臘月祭天,大會連日,飲食歌舞,名曰「迎鼓」。是時斷刑獄,解囚徒。 | 5 | 國有君王,皆以六畜名官,有馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者。邑落有豪民,名下戶皆為奴僕。諸加別主四出,道大者主數千家,小者數百家。食飲皆用俎豆,會同、拜爵、洗爵,揖讓升降。以殷正月祭天,國中大會,連日飲食歌舞,名曰迎鼓,於是時斷刑獄,解囚徒。在國衣尚白,白布大袂,袍、袴,履革鞜。出國則尚繒繡錦𦋺,大人加狐狸、狖白、黑貂之裘,以金銀飾帽。譯人傳辭,皆跪,手據地竊語。 | 後漢書は著しく簡略。 |
19 | 有軍事亦祭天,殺牛,以蹄占其吉凶。 | 11 | 有軍事亦祭天,殺牛觀蹄以占吉凶,蹄解者為凶,合者為吉。有敵,諸加自戰,下戶俱擔糧飲食之。 | 後漢書は一部記述を欠く。 |
20 | 行人無晝夜,好歌吟,音聲不絕。 | 10 | 行道晝夜無老幼皆歌,通日聲不絕。 | |
21 | 其俗用刑嚴急,被誅者皆沒其家人為奴婢。盜一責十二。男女淫皆殺之,尤治惡妒婦,既殺,復尸於山上。兄死妻嫂。 | 6 | 用刑嚴急,殺人者死,沒其家人為奴婢。竊盜一責十二。男女淫,婦人妬,皆殺之。尤憎妬,已殺,尸之國南山上,至腐爛。女家欲得,輸牛馬乃與之。兄死妻嫂,與匈奴同俗。其國善養牲, | 後漢書は簡略にしてかつ一部記述を欠く。 |
22 | 死則有槨無棺。殺人殉葬,多者以百數。 | 12 | 其死,夏月皆用氷。殺人徇葬,多者百數。厚葬,有槨無棺。 | 後漢書は簡略にしてかつ一部記述を欠く。 |
23 | 其王葬用玉匣,漢朝常豫以玉匣付玄菟郡,王死則迎取以葬焉。 | 15 | 漢時,夫餘王葬用玉匣,常豫以付玄菟郡,王死則迎取以葬。公孫淵伏誅,玄菟庫猶有玉匣一具。今夫餘庫有玉璧、珪、瓚數代之物,傳世以為寶,耆老言先代之所賜也。 | 後漢書は簡略にしてかつ一部記述を欠く。 |
24 | 建武中,東夷諸國皆來獻見。二十五年,夫餘王遣使奉貢,光武厚荅報之,於是使命歲通。至安帝永初五年,夫餘王始將步騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。永寧元年,乃遣嗣子尉仇台印闕貢獻,天子賜尉仇台印綬金綵。順帝永和元年,其王來朝京師,帝作黃門鼓吹、角抵戲以遣之。桓帝延熹四年,遣使朝賀貢獻。永康元年,王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。 | | | 三国志に記述なし。 |
25 | 至靈帝熹平三年,復奉章貢獻。 | | | 三国志に記述なし。後漢書帝紀に同じ記述あり。 |
26 | 夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。 | 13 | 夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。 | 後漢書は簡略にしてかつ一部記述を欠く。公孫度時代の話であるが、公孫度には触れない。 |
27 | | 14 | 時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余。牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都貢獻。正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,遣玄菟太守王頎詣夫餘,位居遣大加郊迎,供軍糧。季父牛加有二心,位居殺季父父子,籍沒財物,遣使簿斂送官。舊夫餘俗,水旱不調,五糓不熟,輙歸咎於王,或言當易,或言當殺。麻余死,其子依慮年六歲,立以為王。 | 公孫度割拠後の歴史について後漢書は記述を欠く。 |
夫餘伝比較まとめ |
民族記述 | 比較表の通番1,2と12番から23番までは、夫餘の地理産物社会制度風俗など、民族に関することが書かれています。後漢書の記事は一見すると三国志との間に差があるように見えますが、記述順序を変えると、三国志の記事に対応するものがあります。そしてその全てにおいて、後漢書は簡略な表現になっていたり、一部の記事を欠くかたちになっています。 |
魏略との比較 | 通番3から12までは、三国志に引用された魏略との比較になっています。両者の記載順はほとんど同じで、後漢書の記述が詳細な場合も三国志の記述が詳細な場合もあります。三国志と後漢書の対比に比べると、性格に違いがあるようです。 |
前漢まで | 通番23は後漢書ではこれに続き、光武帝の時代の記述があるので、後漢書的には前漢時代の記述と思われます。三国志に同様の記述があり後漢書は略記となっています。 |
桓帝まで | 通番24は後漢代の歴史に関するもので、後漢書独自の記事です。 |
霊帝まで | 通番25は後漢代の歴史に関するもので、後漢書独自の記事です。同様の記事が後漢書霊帝紀にあります。 |
献帝以降 | 通番26は一部公孫度が遼東に割拠した時期にかかる記事ですが公孫度の名はありません。三国志の記述が詳しくなり、後漢書の記述は末尾に伝と記されています。通番27はそれ以降の歴史で、後漢書に記載はありません。 |
後漢書挹婁伝と三國志の比較表
通番 | 後漢書 | 三國志 | 差異 |
記載順 | 記事 |
1 | 挹婁,古肅慎之國也。 | 6 | 古之肅慎氏之國也。 | ほぼ対応。 |
2 | 在夫餘東北千餘里,東濱大海,南與北沃沮接,不知其北所極。土地多山險。人形似夫餘,而言語各異。有五穀、麻布, | 1 | 挹婁在夫餘東北千餘里,濵大海,南與北沃沮接,未知其北所極。其土地多山險。其人形似夫餘,言語不與夫餘、句麗同。有五糓、牛、馬、麻布。 | 後漢書は五糓、牛、馬、麻布の記述を欠く。 |
3 | 出赤玉、好貂。 | 9 | 出赤玉,好貂,今所謂挹婁貂是也。 | 後漢書は挹婁貂の記述を欠く。 |
4 | 無君長,其邑落各有大人。處於山林之閒,土氣極寒,常為穴居,以深為貴,大家至接九梯。 | 3 | 無大君長,邑落各有大人。處山林之間,常穴居,大家深九梯,以多為好。土氣寒,劇於夫餘。 | 後漢書の記述はやや簡潔である。 |
5 | 好養豕,食其肉,衣其皮。冬以豕膏塗身,厚數分,以禦風寒。夏則裸袒,以尺布蔽其前後。其人臭穢不絜,作廁於中,圜之而居。 | 4 | 其俗好養豬,食其肉,衣其皮。冬以豬膏塗身,厚數分,以禦風寒。夏則裸袒,以尺布隱其前後,以蔽形體。其人不絜,作溷在中央,人圍其表居。 | ほぼ同じ。 |
6 | 自漢興已後,臣屬夫餘。 | 10 | 自漢已來,臣屬夫餘, | ほぼ同じ。 |
7 | | 11 | 夫餘責其租賦重,以黃初中叛之。夫餘數伐之, | 後漢書に記述なし。 |
8 | 種眾雖少, | 12 | 其人衆雖少, | | ほぼ同じ。
9 | 而多勇力, | 2 | 人多勇力。 | ほぼ同じ。 |
10 | 處山險, | 13 | 所在山險, | ほぼ同じ。 |
11 | 又善射,發能入人目。 | 7 | 善射,射人皆入。 | 三国志には目に入るとの記述がないが、皆入では通じないためおそらく脱字と考えられる。 |
12 | 弓長四尺,力如弩。矢用楛,長一尺八寸,青石為鏃, | 5 | 其弓長四尺,力如弩,矢用楛,長尺八寸,青石為鏃, | ほぼ同じ。 |
13 | 鏃皆施毒,中人即死。 | 8 | 因矢施毒,人中皆死。 | ほぼ同じ。 |
14 | 便乘船,好寇盜,鄰國畏患, | 15 | 其國便乘船寇盜,鄰國患之。 | 後漢書がやや簡略。 |
15 | 而卒不能服。 | 14 | 鄰國人畏其弓矢,卒不能服也。 | 後漢書の記述は一部を欠く。 |
16 | 東夷夫餘飲食類此皆用俎豆,唯挹婁獨無,法俗最無綱紀者也。 | 16 | 東夷飲食類皆用俎豆,唯挹婁不,法俗最無綱紀也。 | ほぼ同じ。 |
挹婁伝比較まとめ |
民族記述 | 挹婁の地理産物社会制度風俗など、民族に関することが書かれています。後漢書の記事は一見すると三国志との間に差があるように見えますが、記述順序を変えると、三国志の記事に対応するものがあります。ただし後漢書は一部の記述を欠きます。 |
魏代まで | 夫餘に臣屬してきたがこの時代に反乱したとある。 |
後漢書高句麗伝と三國志の比較表
通番 | 後漢書記事 | 三國志 | 差分と備考 |
記載順 | 記事 |
1 | 高句驪,在遼東之東千里,南與朝鮮、濊貊,東與沃沮,北與夫餘接。地方二千里,多大山深谷,人隨而為居。少田業,力作不足以自資,故其俗節於飲食,而好修宮室。 | 1 | 高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、濊貊,東與沃沮,北與夫餘接。都於丸都之下,方可二千里,戶三萬。多大山深谷,無原澤。隨山谷以為居,食澗水。無良田,雖力佃作,不足以實口腹。其俗節食,好治宮室, | 後漢書は人口と、都が丸都の城下にあるという情報を欠いている。表の通番35の三国志記事によれば、建安年間に公孫康が高句麗を破り、伊夷模が都を丸都に移したとする。 |
2 | 東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同, | 6 | 東夷舊語以為夫餘別種,言語諸事,多與夫餘同,其性氣衣服有異。 | 後漢書は気性や衣服に差異があるとの記述を欠く。 |
3 | 而跪拜曳一腳,行步皆走。 | 12 | 跪拜申一脚,與夫餘異,行步皆走。 | 後漢書は夫餘と異なるという記述を欠く。 |
4 | 凡有五族,有消奴部,絕奴部,順奴部,灌奴部,桂婁部。本消奴部為王,稍微弱,後桂婁部代之。 | 7 | 本有五族,有涓奴部、絕奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部。本涓奴部為王,稍微弱,今桂婁部代之。 | 後漢書は五族を現在形で書き、桂婁部が中心となったのを後のこととする。三國志は五族を過去のこととして書き、桂婁部が中心となったのを今のこととする。 |
5 | 其置官,有相加、對盧、沛者、古鄒大加、主簿、優台、使者、帛衣先人。 | 5 | 其國有王,其官有相加、對盧、沛者、古雛加、主簿、優台丞、使者、皁衣先人,尊卑各有等級。 | 後漢書は王があることと、尊卑に差があることを記述していない。 |
6 | 武帝滅朝鮮,以高句驪為縣, | | | 高句麗伝前半の地理や民族性に関する記述の中で、この一文のみ後漢書にあり三国志にない。 |
7 | 使屬玄菟,賜鼓吹伎人。 | 8 | 漢時賜鼓吹伎人,常從玄菟郡受朝服衣幘,高句麗令主其名籍。後稍驕恣,不復詣郡,於東界築小城,置朝服衣幘其中,歲時來取之,今胡猶名此城為幘溝漊。溝漊者,句麗名城也。 | 後漢書は衣幘と、それを保管した幘溝漊の記述を欠く。 |
8 | | 9 | 其置官,有對盧則不置沛者,有沛者則不置對盧。王之宗族,其大加皆稱古雛加。涓奴部本國主,今雖不為王,適統大人,得稱古雛加,亦得立宗廟,祠靈星、社稷。絕奴部世與王婚,加古雛之號。諸大加亦自置使者、皁衣先人,名皆達於王,如卿大夫之家臣,會同坐起,不得與王家使者、皁衣先人同列。其國中大家不佃作,坐食者萬餘口,下戶遠擔米糧魚鹽供給之。 | 後漢書は高句麗の官制や社会制度に関する話題を欠く。 |
9 | 其俗淫, | 17 | 其俗淫。 | |
10 | 皆絜淨自憙, | 11 | 其人絜清自喜,善藏釀。無大倉庫,家家自有小倉,名之為桴京。 | 後漢書は藏釀と倉庫の記述を欠く。 |
11 | 暮夜輒男女群聚為倡樂。 | 10 | 其民喜歌舞,國中邑落,暮夜男女群聚,相就歌戲。 | 後漢書は簡略な記述になっている。 |
12 | 好祠鬼神、社稷、零星, | 2 | 於所居之左右立大屋,祭鬼神,又祠靈星、社稷。 | 後漢書は簡略な記述になっている。 |
13 | 以十月祭天大會,名曰「東盟」。 | 13 | 以十月祭天,國中大會,名曰東盟。 | ほぼ同じ。 |
14 | 其國東有大穴,號禭神,亦以十月迎而祭之。 | 15 | 其國東有大穴,名隧穴,十月國中大會,迎隧神還於國東上祭之,置木隧於神坐。 | 後漢書は簡略な記述になっている。 |
15 | 其公會衣服皆錦繡,金銀以自飾。大加、主簿皆著幘,如冠幘而無後;其小加著折風,形如弁。 | 14 | 其公會,衣服皆錦繡金銀以自飾。大加主簿頭著幘,如幘而無餘,其小加著折風,形如弁。 | |
16 | 無牢獄,有罪,諸加評議便殺之,沒入妻子為奴婢。其昏姻皆就婦家,生子長大,然後將還, | 16 | 無牢獄,有罪諸加評議,便殺之,沒入妻子為奴婢。其俗作婚姻,言語已定,女家作小屋於大屋後,名壻屋,壻暮至女家戶外,自名跪拜,乞得就女宿,如是者再三,女父母乃聽使就小屋中宿,傍頓錢帛,至生子已長大,乃將婦歸家。 | 後漢書は簡略な記述になっている。 |
17 | 便稍營送終之具。金銀財幣盡於厚葬,積石為封,亦種松柏。 | 18 | 男女已嫁娶,便稍作送終之衣。厚葬,金銀財幣,盡於送死,積石為封,列種松栢。 | 後漢書は簡略な記述になっている。 |
18 | 其人性凶急。 | 3 | 其人性凶急, | 同じ。 |
19 | 有氣力,習戰鬥, | 19 | 其馬皆小,便登山。國人有氣力,習戰鬪, | 馬の記述を欠く。 |
20 | 好寇鈔, | 4 | 善寇鈔。 | 言い換えのみ。 |
21 | 沃沮、東濊皆屬焉。 | 20 | 沃沮、東濊皆屬焉。 | 同じ。 |
22 | 句驪一名貊耳。有別種,依小水為居,因名曰小水貊。出好弓,所謂「貊弓」是也。 | 21 | 又有小水貊。句麗作國,依大水而居,西安平縣北有小水,南流入海,句麗別種依小水作國,因名之為小水貊,出好弓,所謂貊弓是也。 | 後漢書は簡略な記述になっている。 |
23 | 王莽初,發句驪兵以伐匈奴,其人不欲行,彊迫遣之,皆亡出塞為寇盜。遼西大尹田譚追擊,戰死。莽令其將嚴尤擊之,誘句驪侯騶入塞,斬之,傳首長安。莽大說,更名高句驪王為下句驪侯,於是貊人寇邊愈甚。 | 23 | 王莽初發高句麗兵以伐胡,欲不行,彊迫遣之,皆亡出塞為寇盜。遼西大尹田譚追擊之,為所殺。州郡縣歸咎於句麗侯騊,嚴尤奏言:「貊人犯法,罪不起於騊,且宜安慰。今猥被之大罪,恐其遂反。」莽不聽,詔尤擊之。尤誘期句麗侯騊至而斬之,傳送其首詣長安。莽大恱,布告天下,更名高句麗為下句麗。 | 後漢書は記述が若干簡略になっているほか、三国志に王莽が高句麗を下句麗に改称したとあるものを、高句麗王を下句麗侯に格下げしたことになっている。この記事の原史料と思われる、漢書においても高句麗を下句麗に改称したとあって、爵位の格下げは書いてない。後漢書独自の判断となっている。 |
24 | 建武八年,高句驪遣使朝貢,光武復其王號。 | 23 | 當此時為侯國,漢光武帝八年,高句麗王遣使朝貢,始見稱王。 | 後漢書では、23番でみたように格下げされた爵位を、王に戻したことになっている。三國志ではこの時高句麗は侯国であり、ここではじめて王号を見たとしている。後漢書独自の判断を継承している。 |
25 | 二十三年冬,句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪內屬。二十五年春,句驪寇右北平、漁陽、上谷、太原,而遼東太守祭肜以恩信招之,皆復款塞。 | | | この歴史の記述は三國志にはない。 |
26 | 後句驪王宮生而開目能視,國人懷之,及長勇壯,數犯邊境。 | 31 | 其曾祖名宮,生能開目視,其國人惡之,及長大,果凶虐,數寇鈔,國見殘破。 | 高句麗王宮に対する国人の評価が逆になっていて、三国志は宮の時代に高句麗が破綻したような記述となっている。 |
27 | 和帝元興元年春,復入遼東,寇略六縣,太守耿夔擊破之,斬其渠帥。安帝永初五年,宮遣使貢獻,求屬玄菟。 | 24 | 至殤、安之間,句麗王宮數寇遼東,更屬玄菟。 | 後漢書が詳細で、和帝の時代の記述から始まるが、三国志では殤帝と安帝の間の出来事となっていて、食い違っている。また太守耿夔がその渠帥を破った話が三国志にはない。 |
28 | 元初五年,復與濊貊寇玄菟,攻華麗城。建光元年春,幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等將兵出塞擊之,捕斬濊貊渠帥,獲兵馬財物。宮乃遣嗣子遂成將二千餘人逆光等,遣使詐降;光等信之,遂成因據險阨以遮大軍,而潛遣三千人攻玄菟、遼東,焚城郭,殺傷二千餘人。於是發廣陽、漁陽、右北平、涿郡屬國三千餘騎同救之,而貊人已去。夏,復與遼東鮮卑八千餘人攻遼隊,殺略吏人。蔡諷等追擊於新昌,戰歿,功曹耿耗、兵曹掾龍端、兵馬掾公孫酺以身扞諷,俱沒於陳,死者百餘人。 | 26 | 遼東太守蔡風、玄菟太守姚光以宮為二郡害,興師伐之。宮詐降請和,二郡不進。宮密遣軍攻玄菟,焚燒候城,入遼隧,殺吏民。後宮復犯遼東,蔡風輕將吏士追討之,軍敗沒。 | 後漢書が詳細に記述している。 |
29 | 秋,宮遂率馬韓、濊貊數千騎圍玄菟。夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人,與州郡并力討破之,斬首五百餘級。 | | | 三国志に記述がない。 |
30 | 是歲宮死,子遂成立。姚光上言欲因其喪發兵擊之,議者皆以為可許。尚書陳忠曰:「宮前桀黠,光不能討,死而擊之,非義也。宜遣弔問,因責讓前罪,赦不加誅,取其後善。」安帝從之。明年,遂成還漢生口,詣玄菟降。詔曰:「遂成等桀逆無狀,當斬斷葅醢,以示百姓,幸會赦令,乞罪請降。鮮卑、濊貊連年寇鈔,驅略小民,動以千數,而裁送數十百人,非向化之心也。自今已後,不與縣官戰鬥而自以親附送生口者,皆與贖直,縑人四十匹,小口半之。」 | 27 | 宮死, | 後漢書は宮のあとを遂成が継いだとしていて、その後漢との交渉を記録している。 |
31 | 遂成死, | | | 遂成は三国志に現われない。 |
32 | 子伯固立。其後濊貊率服,東垂少事。順帝陽嘉元年,置玄菟郡屯田六部。 | 27 | 子伯固立。 | 伯固の即位後比較的平穏であったことは、三国志にはない。屯田六部のことは帝紀にある。 |
33 | 質、桓之閒,復犯遼東 | 28 | 順、桓之間,復犯遼東,寇新安、居鄉, | 後漢書は伯固の侵犯は質帝と桓帝の間として、三国志の順帝と桓帝の間との記述と違いを見せる。32番で伯固の即位後順帝の時代にかけて、平穏であったような記述と関連するか。 |
34 | 西安平,殺帶方令,掠得樂浪太守妻子。建寧二年,玄菟太守耿臨討之,斬首數百級,伯固降服,乞屬玄菟云。 | 29 | 又攻西安平,於道上殺帶方令,略得樂浪太守妻子。靈帝建寧二年,玄菟太守耿臨討之,斬首虜數百級,伯固降,屬遼東。熹平中,伯固乞屬玄菟。 | この事件は後漢書では通番33の桓帝の時代の話の続きだが、決着したのは靈帝の時代になる。三国志では両者は又で結ばれており、帶方令攻撃は同一事件ではなく霊帝の時代の可能性がある。ここに現れる帯方令は、時代的に見て帯方郡とは関係なく、楽浪郡の帯方県令である。 |
35 | | 30 | 公孫度之雄海東也,伯固遣大加優居、主簿然人等助度擊富山賊,破之。伯固死,有二子,長子拔奇,小子伊夷模。拔奇不肖,國人便共立伊夷模為王。自伯固時,數寇遼東,又受亡胡五百餘家。建安中,公孫康出軍擊之,破其國,焚燒邑落。拔奇怨為兄而不得立,與涓奴加各將下戶三萬餘口詣康降,還住沸流水。降胡亦叛伊夷模,伊夷模更作新國,今日所在是也。拔奇遂往遼東,有子留句麗國,今古雛加駮位居是也。其後復擊玄菟,玄菟與遼東合擊,大破之。伊夷模無子,淫灌奴部,生子名位宮。伊夷模死,立以為王,今句麗王宮是也。 | 後漢書は公孫度割拠後の記事を欠く。 |
36 | | 32 | 今王生墯地,亦能開目視人。句麗呼相似為位,似其祖,故名之為位宮。位宮有力勇,便鞌馬,善獵射。景初二年,太尉司馬宣王率衆討公孫淵,宮遣主簿大加將數千人助軍。正始三年,宮寇西安平,其五年,為幽州刺吏毌丘儉所破。語在儉傳。 | 後漢書は公孫度割拠後の記事を欠く。 |
高句麗伝比較まとめ |
民族記述 | 通番6の記事を除き、比較表の通番22までは、高句麗の地理産物社会制度風俗など、民族に関することが書かれています。後漢書の記事は一見すると三国志との間に差があるように見えますが、記述順序を変えると、三国志の記事に対応するものがあります。そしてその全てにおいて、後漢書は簡略な表現になっていたり、一部の記事を欠くかたちになっています。 |
前漢まで | 通番6の記事はその中で、唯一歴史に関わることで、前漢の時代の話ですが、武帝が高句麗県を置いたという、史記・漢書にもない内容となっています。史記には玄菟郡の名さえ現れず、前漢末の状況を示すと思われる、漢書地理志が高句麗の名の見える初出となります。 |
通番23は王莽時代の記事で、漢書王莽伝が原史料と思われますが、漢書や三国志と異なる、後漢書独自の見解を示しています。通番24番は通番23の記述を受けて、三国志との間に記述の相違があります。 |
桓帝まで | 通番24からは32番は後漢時代の歴史記事となりますが、後漢書独自の記事が多くなり、同じ出来事に対しても、後漢書の記述が圧倒的に詳しく、内容的にも三国志と食い違いを見せるようになります。また後漢書にある高句麗が降伏したり敗北したりする記事は、三国志にはありません。 |
通番33では一転して三国志の記述が詳しくなります。 |
霊帝まで | 通番34でも三国志の記述が詳細です。この記事は桓帝の時代の記事の続きですが、通番33と又で結ばれていること、後漢の対応が霊帝建寧二年となっているところからすると、発端の帯方令を殺し樂浪太守の妻子を捕らえた事件も、すでに霊帝の時代に入っていた可能性があります。後漢書李陳龐陳橋列傳に、桓帝末の伯固が鮮卑・南匈奴とともに寇鈔した記事が見えますが、これは橋玄により破られ彼の度遼將軍在職中は平和であったようです。橋玄は霊帝の初めに河南尹となり、建寧三年には司空となりますから、少なくとも後漢の記録上は、帯方令殺害は霊帝時代に含まれているとみてよいと思います。後漢書の記述は末尾に伝と記されていて、ここに出てくる玄菟太守耿臨の名は他に史書中に見えず、何らかの理由でこの部分の後漢の政府記録などは残っていなかった可能性があります。 |
献帝以降 | 通番35と36は公孫度が遼東に割拠した後のことで、後漢書に記述が見えません。 |
後漢書東沃祖伝と三國志の比較表
通番 | 後漢書 | 三國志 | 差異 |
記載順 | 記事 |
1 | 東沃沮在高句驪蓋馬大山之東,東濱大海;北與挹婁、夫餘,南與濊貊接。其地東西夾,南北長,可折方千里。 | 1 | 東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濵大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與挹婁、夫餘,南與濊貊接。戶五千, | 記述順に差がある。後漢書は人口を欠く。 |
2 | 土肥美,背山向海,宜五穀,善田種, | 6 | 其土地肥美,背山向海,宜五糓,善田種。 | 同じ。 |
3 | 有邑落長帥。 | 2 | 無大君王,世世邑落,各有長帥。 | 後漢書は簡略。 |
4 | 人性質直彊勇,便持矛步戰。 | 7 | 人性質直彊勇,少牛馬,便持矛步戰。 | 後漢書は牛馬の記述を欠く。 |
5 | 言語、 | 3 | 其言語與句麗大同,時時小異。漢初,燕亡人衞滿王朝鮮,時沃沮皆屬焉。 | 後漢書は多くの記述を欠く。 |
6 | 食飲、居處、衣服有似句驪。其葬,作大木槨,長十餘丈,開一頭為戶,新死者先假埋之,令皮肉盡,乃取骨置槨中。家人皆共一槨,刻木如主,隨死者為數焉。 | 8 | 食飲居處,衣服禮節,有似句麗。其葬作大木槨,長十餘丈,開一頭作戶。新死者皆假埋之,才使覆形,皮肉盡,乃取骨置槨中。舉家皆共一槨,刻木如生形,隨死者為數。又有瓦䥶,置米其中,編縣之於槨戶邊。 | 後漢書は一部の記述を欠く。 |
7 | 武帝滅朝鮮,以沃沮地為玄菟郡。後為夷貊所侵,徙郡於高句驪西北, | 4 | 漢武帝元封二年,伐朝鮮,殺滿孫右渠,分其地為四郡,以沃沮城為玄菟郡。後為夷貊所侵,徙郡句麗西北,今所謂玄菟故府是也。 | 三国志が詳細。 |
8 | 更以沃沮為縣,屬樂浪東部都尉。至光武罷都尉官,後皆以封其渠帥,為沃沮侯。其土迫小,介於大國之閒,遂臣屬句驪。句驪復置其中大人遂為使者,以相監領,貴其租稅,貂布魚鹽,海中食物,發美女為婢妾焉。 | 5 | 沃沮還屬樂浪。漢以土地廣遠,在單單大領之東,分置東部都尉,治不耐城,別主領東七縣,時沃沮亦皆為縣。漢光武六年,省邊郡,都尉由此罷。其後皆以其縣中渠帥為縣侯,不耐、華麗、沃沮諸縣皆為侯國。夷狄更相攻伐,唯不耐濊侯至今猶置功曹、主簿諸曹,皆濊民作之。沃沮諸邑落渠帥,皆自稱三老,則故縣國之制也。國小,迫於大國之間,遂臣屬句麗。句麗復置其中大人為使者,使相主領,又使大加統責其租稅,貊布、魚、鹽、海中食物,千里擔負致之,又送其美女以為婢妾,遇之如奴僕。 | 三国志が詳細。 |
9 | | 9 | 毌丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進師擊之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。 | 後漢書に記述なし。 |
10 | 又有北沃沮,一名置溝婁,去南沃沮八百餘里。其俗皆與南同。界南接挹婁。挹婁人憙乘船寇抄,北沃沮畏之,每夏輒臧於巖穴,至冬船道不通,乃下居邑落。 | 10 | 北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恒在山巖深穴中為守備,冬月氷凍,船道不通,乃下居村落。 | 後漢書は簡略。 |
11 | | 11 | 王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不」?耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人, | 後漢書に記述なし。 |
12 | 其耆老言,嘗於海中得一布衣,其形如中人衣,而兩袖長三丈。又於岸際見一人乘破船,頂中復有面,與語不通,不食而死。 | 13 | 又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。 | 後漢書は簡略。三国志に「其身如中國人衣」とあるものが、後漢書では「其形如中人衣」とある。張華博物志:「又說得一布衣,從海浮出,其身如中國人衣,兩袖長二丈。」 |
13 | 又說海中有女國,無男人。或傳其國有神井,闚之輒生子云。 | 12 | 又言有一國亦在海中,純女無男。 | 神井の話は三国志にない。後漢書以前の他の史書にも見えない。<参考>山海経海外西經(晉の郭璞註): 「女子國在巫咸北,兩女子居,水周之。(有黄池婦人入浴出即懐姙矣)(若生男子三歳輒死周猶繞也離騷日水周於堂下也)一曰居一門中。」 |
東沃祖伝比較まとめ |
民族記述 | 通番の6までは、東沃祖の地理産物社会制度風俗など、民族に関することが書かれています。後漢書の記事は一見すると三国志との間に差があるように見えますが、記述順序を変えると、三国志の記事に対応するものがあります。そしてその全てにおいて、後漢書は簡略な表現になっていたり、一部の記事を欠くかたちになっています。 |
通番の10,11,12では、北沃祖の地理産物社会風俗など、民族に関することが書かれています。後漢書の記事は一見すると三国志との間に差があるように見えますが、記述順序を変えると、通番12の神井を除いて、三国志の記事に対応するものがあります。後漢書は簡略な表現になっていたり、一部の記事を欠くかたちになっています。 |
前漢まで | 通番7には前漢代についての歴史が記述されている。玄菟治にたいする記述は、両者固有のものであり三国志が詳細になっています。 |
桓帝まで | 通番8には後漢代の東沃祖と濊についての歴史が記述されています。記述は三国志が詳細になっています。 |
魏代歴史 | 通番9と11には魏代の東沃祖についての歴史が記述されています。この記述は後漢書にはありません。 |
後漢書濊伝と三國志の比較表
通番 | 後漢書記事 | 三國志 | 差分と備考 |
記載順 | 記事 |
1 | 濊北與高句驪、沃沮,南與辰韓接,東窮大海,西至樂浪。 | 1 | 濊南與辰韓,北與高句麗、沃沮接,東窮大海,今朝鮮之東皆其地也。 | 後漢書では西が楽浪となっているのに対し、三国志では朝鮮の東となっている。 |
2 | 濊及沃沮、句驪,本皆朝鮮之地也。 | | | 漢書地理志燕地: 「玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。」 |
3 | | 2 | 戶二萬。 | 後漢書は人口の記載がない。 |
4 | 昔武王封箕子於朝鮮, | | | 史記宋微子世家: 「於是武王乃封箕子於朝鮮而不臣也。」 |
5 | 箕子教以禮義田蠶,又制八條之教。 | 3 | 昔箕子旣適朝鮮,作八條之教以教之, | 漢書地理志燕地: 「殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。」 |
6 | 其人終不相盜,無門戶之閉。婦人貞信。飲食以籩豆。 | 4 | 無門戶之閉而民不為盜。 | 漢書地理志燕地: 「無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆」 |
7 | 其後四十餘世,至朝鮮侯準,自稱王。漢初大亂,燕、齊、趙人往避地者數萬口,而燕人衛滿擊破準而自王朝鮮, | 5 | 其後四十餘世,朝鮮侯準僭號稱王。陳勝等起,天下叛秦,燕、齊、趙民避地朝鮮數萬口。燕人衞滿,魋結夷服,復來王之。 | 後漢書は一部記事を欠く。この話は史記・漢書になく、三国志が初出になる。 |
8 | 傳國至孫右渠。元朔元年,濊君南閭等畔右渠,率二十八萬口詣遼東內屬,武帝以其地為蒼海郡,數年乃罷。 | | | 史記・漢書に記載あり。 |
9 | 至元封三年,滅朝鮮,分置樂浪、臨屯、玄菟、真番四部。 | 6 | 漢武帝伐滅朝鮮,分其地為四郡。自是之後,胡漢稍別。 | 史記・漢書に記載あり。 |
10 | 至昭帝始元五年,罷臨屯、真番,以并樂浪、玄菟。 | | | 漢書に記載あり。 |
11 | 玄菟復徙居句驪。 | | | 三国志東沃祖伝: 「以沃沮城為玄菟郡。後為夷貊所侵,徙郡句麗西北,今所謂玄菟故府是也。」 |
12 | 自單單大領已東,沃沮、濊貊悉屬樂浪。後以境土廣遠,復分領東七縣,置樂浪東部都尉。自內屬已後,風俗稍薄,法禁亦浸多,至有六十餘條。建武六年,省都尉官,遂棄領東地,悉封其渠帥為縣侯,皆歲時朝賀。 | 12 | 自單單大山領以西屬樂浪,自領以東七縣,都尉主之,皆以濊為民。後省都尉,封其渠帥為侯,今不耐濊皆其種也。 | 後漢書が詳細。 |
13 | 無大君長,其官有侯、邑君、三老。耆舊自謂與句驪同種, | 7 | 無大君長,自漢已來,其官有侯邑君、三老,統主下戶。其耆老舊自謂與句麗同種。 | 後漢書がやや簡略。 |
14 | 言語法俗大抵相類。 | 10 | 言語法俗大抵與句麗同, | |
15 | 其人性愚愨,少嗜欲, | 8 | 其人性愿愨,少嗜慾,有廉恥, | 後漢書は一部記述を欠いている。 |
16 | 不請饨。 | 9 | 不請句麗。 | 後漢書の記述は意味不明。 |
17 | 男女皆衣曲領。 | 11 | 衣服有異。男女衣皆著曲領,男子繫銀花廣數寸以為飾。 | 後漢書は一部記述を欠いている。 |
18 | | 13 | 漢末更屬句麗。 | 後漢書になし。 |
19 | 其俗重山川,山川各有部界,不得妄相干涉。同姓不昏。多所忌諱,疾病死亡,輒捐棄舊宅,更造新居。知種麻,養蠶,作綿布。曉候星宿,豫知年歲豐約。常用十月祭天,晝夜飲酒歌舞,名之為「舞天」。又祠虎以為神。邑落有相侵犯者,輒相罰,責生口牛馬,名之為「責禍」。殺人者償死。少寇盜。 | 14 | 其俗重山川,山川各有部分,不得妄相涉入。同姓不婚。多忌諱,疾病死亡輙捐棄舊宅,更作新居。有麻布,蠶桑作緜。曉候星宿,豫知年歲豐約。不以誅玉為寶。常用十月節祭天,晝夜飲酒歌舞,名之為舞天,又祭虎以為神。其邑落相侵犯,輙相罰責生口牛馬,名之為責禍。殺人者償死。少寇盜。 | 後漢書には欠けた記述がある。 |
22 | 能步戰, | 16 | 能步戰。 | 同じ。 |
23 | 作矛長三丈,或數人共持之。 | 15 | 作矛長三丈,或數人共持之, | 同じ。 |
24 | 樂浪檀弓出其地。 | 17 | 樂浪檀弓出其地。 | 同じ。 |
25 | 又多文豹,有果下馬, | 19 | 土地饒文豹,又出果下馬, | 同じ。 |
26 | 海出班魚,使來皆獻之。 | 18 | 其海出班魚皮,漢桓時獻之。 | 後漢書がやや簡略。 |
27 | | 20 | 正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。其八年,詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。 | 後漢書に記述なし。 |
濊伝比較まとめ |
民族記述 | 通番1,5,6,13,14から19,22から26までは、濊の地理産物社会制度風俗など、民族に関することが書かれています。後漢書の記事は一見すると三国志との間に差があるように見えますが、記述順序を変えると、通番5,6を除いて三国志の記事に対応するものがあります。そしてその全てにおいて、後漢書は簡略な表現になっていたり、一部の記事を欠くかたちになっています。通番5,6は漢書地理志からの引用で、三国志にも同様に記事はありますが、地理志の記述を優先しています。 |
前漢まで | 通番2,4,7,8,9,10,11は前漢時代以前の歴史に関するもので、史記・漢書などを引き、三国志より詳細な部分もあります。ただし通番11は三国志に同様の記事があります。 |
桓帝まで | 通番12,13後漢代の歴史で、後漢書のほうがやや詳細になっています。 |
献帝以降 | 通番18,27は漢末以降の記事で、後漢書にはありません。 |
後漢書韓伝と三國志の比較表
通番 | 後漢書記事 | 三國志 | 差分と備考 |
記載順 | 記事 |
1 | 韓有三種:一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁辰。 | 5 | 有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。 | 弁辰と弁韓の違い。 |
2 | 馬韓在西, | 7 | 馬韓在西。 | 同じ。 |
3 | 有五十四國, | 12 | 凡五十餘國。 | 後漢書は国の数を指定。 |
4 | 其北與樂浪, | 1 | 韓在帶方之南, | 後漢書は楽浪、三国志は帯方を基準とする。 |
5 | 南與倭接。 | 3 | 南與倭接, | 同じ。 |
6 | 辰韓在東, | 30 | 辰韓在馬韓之東, | 後漢書はやや略記。 |
7 | 十有二國, | 34 | 始有六國,稍分為十二國。 | 後漢書はやや略記。 |
8 | 其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南, | | | 三国志に記載なし。 |
9 | 亦十有二國, | 35 | 弁辰亦十二國, | 内容同じ。 |
10 | 其南亦與倭接。凡七十八國, | | | 三国志に記載なし。 |
11 | 伯濟是其一國焉。 | 11 | 有爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟盧國、素謂乾國、古爰國、莫盧國、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗盧國、卑彌國、監奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟盧國、內卑離國、感奚國、萬盧國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷盧國、牟盧卑離國、臣蘇塗國、莫盧國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國, | 後漢書は伯濟のみ記載。 |
12 | 大者萬餘戶,小者數千家, | 13 | 大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戶。 | 後漢書は総戸数を欠く。 |
13 | 各在山海閒, | 9 | 各有長帥,大者自名為臣智,其次為邑借,散在山海間, | 後漢書は首長名を欠く。 |
14 | 地合方四千餘里, | 4 | 方可四千里。 | 同じ。 |
15 | 東西以海為限, | 2 | 東西以海為限, | 同じ。 |
16 | 皆古之辰國也。 | 6 | 辰韓者,古之辰國也。 | 後漢書は三韓全部がもとは辰國とする。 |
17 | 馬韓最大, | | | 三国志に記載なし。 |
18 | 共立其種為辰王, | 38 | 辰王不得自立為王。 | 後漢書は共立したとあるが、三国志は自らなることはできないとする。 |
19 | 都目支國, | 14 | 辰王治月支國。臣智或加優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。其官有魏率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。 | 後漢書は官名など欠く。 |
20 | 盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。 | | | 三国志に記載なし。 |
21 | 馬韓人知田蠶,作綿布。 | 8 | 其民土著,種植,知蠶桑,作緜布。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
22 | 出大栗如梨。有長尾雞,尾長五尺。 | 28 | 出大栗,大如梨。又出細尾雞,其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
23 | 邑落雜居, | 18 | 其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
24 | 亦無城郭。 | 10 | 無城郭。 | |
25 | 作土室,形如冢,開戶在上。 | 21 | 土室,形如冢,其戶在上,舉家共在中, | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
26 | 不知跪拜。 | 19 | 無跪拜之禮。 | |
27 | 無長幼男女之別。 | 22 | 無長幼男女之別。 | |
28 | 不貴金寶錦罽, | 24 | 不以金銀錦繡為珍。 | 後漢書が略記。 |
29 | 不知騎乘牛馬,唯重瓔珠,以綴衣為飾,及縣頸垂耳。 | 23 | 其葬有棺無槨,不知乘牛馬,牛馬盡於送死。以瓔珠為財寶,或以綴衣為飾,或以縣頸垂耳, | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
30 | 大率皆魁頭露紒,布袍草履。 | 26 | 魁頭露紒,如炅兵,衣布袍,足履革蹻蹋。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
31 | 其人壯勇, | 25 | 其人性彊勇, | |
32 | 少年有築室作力者,輒以繩貫脊皮,縋以大木,嚾呼為健。常以五月田竟祭鬼神,晝夜酒會,群聚歌舞,舞輒數十人相隨蹋地為節。十月農功畢,亦復如之。諸國邑各以一人主祭天神,號為「天君」。又立蘇塗,建大木以縣鈴鼓,事鬼神。 | 27 | 其國中有所為及官家使築城郭,諸年少勇健者,皆鑿脊皮,以大繩貫之,又以丈許木鍤之,通日嚾呼作力,不以為痛,旣以勸作,且以為健。常以五月下種訖,祭鬼神,群聚歌舞,飲酒晝夜無休。其舞,數十人俱起相隨,踏地低昂,手足相應,節奏有似鐸舞。十月農功畢,亦復如之。信鬼神,國邑各立一人主祭天神,名之天君。又諸國各有別邑。名之為蘇塗。立大木,縣鈴鼓,事鬼神。諸亡逃至其中,皆不還之,好作賊。其立蘇塗之義,有似浮屠,而所行善惡有異。其北方近郡諸國差曉禮俗,其遠處直如囚徒奴婢相聚。無他珍寶。禽獸草木略與中國同。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
33 | 其南界近倭,亦有文身者。 | | | 三国志に記載なし。 |
34 | 辰韓,耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割東界地與之。 | 31 | 其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。 | |
35 | 其名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓。 | 33 | 其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
36 | 有城柵 | 32 | 有城柵。 | |
37 | 屋室。 | 20 | 居處作草屋 | |
38 | 諸小別邑,各有渠帥,大者名臣智,次有儉側,次有樊秖,次有殺奚,次有邑借。 | 36 | 又有諸小別邑,各有渠帥,大者名臣智,其次有險側,次有樊濊,次有殺奚,次有邑借。有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國、弁軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戶路國、州鮮國、馬延國、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國、弁辰瀆盧國、斯盧國、優中國。弁、辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戶。其十二國屬辰王。 | 後漢書は国名を欠く。 |
39 | 土地肥美,宜五穀。知蠶桑,作縑布。乘駕牛馬。嫁娶以禮。 | 39 | 土地肥美,宜種五糓及稻,曉蠶桑,作縑布,乘駕牛馬。嫁娶禮俗,男女有別。以大鳥羽送死,其意欲使死者飛揚。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
40 | 行者讓路。 | 42 | 其俗,行者相逢,皆住讓路。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
41 | 國出鐵,濊、倭、馬韓並從巿之。凡諸貨易,皆以鐵為貨。俗憙歌舞飲酒鼓瑟。兒生欲令其頭扁,皆押之以石。 | 40 | 國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。俗喜歌舞飲酒。有瑟,其形似筑,彈之亦有音曲。兒生,便以石厭其頭,欲其褊。今辰韓人皆褊頭。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
42 | 弁辰與辰韓雜居,城郭衣服皆同,言語風俗有異。 | 43 | 弁辰與辰韓雜居,亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似,祠祭鬼神有異,施竈皆在戶西。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
43 | 其人形皆長大, | 45 | 十二國亦有王,其人形皆大。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
44 | 美髮, | 47 | 長髮。 | |
45 | 衣服絜清。 | 46 | 衣服絜清, | |
46 | 而刑法嚴峻。 | 48 | 亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。 | 後漢書が一部記載を欠く。 |
47 | 其國近倭, | 44 | 其瀆盧國與倭接界。 | 後漢書が略記。 |
48 | 故頗有文身者。 | 41 | 男女近倭,亦文身。便步戰,兵仗與馬韓同。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
49 | 初,朝鮮王準為衛滿所破,乃將其餘眾數千人走入海,攻馬韓,破之,自立為韓王。準後滅絕, | 15 | 侯準旣僭號稱王,為燕亡人衞滿所攻奪,將其左右宮人走入海,居韓地,自號韓王。其後絕滅,今韓人猶有奉其祭祀者。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。関連記述は濊伝にある。 |
50 | 馬韓人復自立為辰王。 | 37 | 辰王常用馬韓人作之,世世相繼。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
51 | 建武二十年,韓人廉斯人蘇馬諟等詣樂浪貢獻。光武封蘇馬諟為漢廉斯邑君, | | | 三国志に記事なし。 |
52 | 使屬樂浪郡,四時朝謁。靈帝末,韓、濊並盛,郡縣不能制,百姓苦亂,多流亡入韓者。 | 16 | 漢時屬樂浪郡,四時朝謁。桓、靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。 | 時代指定に若干の違いがある。 |
53 | 馬韓之西,海島上有州胡國。其人短小,髡頭,衣韋衣,有上無下。好養牛豕。乘船往來,貨市韓中。 | 29 | 又有州胡在馬韓之西海中大島上,其人差短小,言語不與韓同,皆髠頭如鮮卑,但衣韋,好養牛及豬。其衣有上無下,略如裸勢。乘船往來,巿買韓中。 | 後漢書が略記、一部記載を欠く。 |
54 | | 17 | 建安中,公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡,遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓濊,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方。景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。其俗好衣幘,下戶詣郡朝謁,皆假衣幘,自服印綬衣幘千有餘人。部從事吳林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓。 | 後漢書に記載なし。 |
韓伝比較まとめ |
民族記述 | 通番49,51,52を除いて、韓の地理産物社会制度風俗など、民族に関することが書かれています。後漢書の記事は一見すると三国志との間に差があるように見えますが、記述順序を変えると、通番の8,10,17,20,33を除いて三国志の記事に対応するものがあります。そして該当する場合その記事は、後漢書では簡略な表現になっていたり、一部の記事を欠くかたちになっている場合がほとんどです。 |
民族に関する記事は、対応するものがある場合でも繰り替え言い換えが激しく、文意の変わっているものがあります。特に韓伝では三韓に分かれているため、それぞれの韓に関する記事が、入れ替わっている例があります。 |
通番の8,10,17,20,33に後漢書固有の記事があります。濊伝では漢書地理志に対応する記事がありましたが、韓伝の場合には対応するものが見当たりません。 |
前漢まで | 通番49は前漢代の歴史ですが、朝鮮侯準の話は濊伝の記事を前提とする内容です。史記・漢書にない独自情報で、後漢書がやや簡略で一部情報を欠きます。 |
桓帝まで | 通番51,52は後漢代の歴史で、後漢書に固有の記事があります。 |
献帝以降 | 通番54は漢末以降の記事で、後漢書にはありません。 |
後漢書倭伝と三國志の比較表
通番 | 後漢書記事 | 三國志 | 差分と備考 |
記載順 | 記事 |
1 | 倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百餘國。自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國, | 1 | 倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。 | 後漢書は起点が韓、三国志は起点が帯方。三十国が通じている時代は、後漢書が武帝の時代、 |
2 | 國皆稱王,世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。 | 3 | 東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。東南至奴國百里,官曰兕馬觚,副曰卑奴母離,有二萬餘戶。東行至不彌國百里,官曰多模,副曰卑奴母離,有千餘家。南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶。南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戶。自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳。次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有為吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。 | 後漢書は国々の全てに王がいるとしている。三国志は伊都国の記述の中に、王の話が書かれている。三国志には倭国内の国々の名や人口、地理的な順番などが書かれている。 |
3 | 樂浪郡徼,去其國萬二千里, | 6 | 自郡至女王國萬二千餘里。 | 後漢書は起点が楽浪郡、三国志は起点が帯方郡。 |
4 | 去其西北界拘邪韓國七千餘里。 | 2 | 從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里,始度一海,千餘里至對海國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。所居絕島,方可四百餘里,土地山險,多深林,道路如禽鹿徑。有千餘戶,無良田,食海物自活,乖船南北巿糴。又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離。方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴。又渡一海,千餘里至末盧國,有四千餘戶,濵山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沉沒取之。 | 後漢書は狗邪韓国を倭国の境界にあるとしている。三国志は狗邪韓国を、大海中の倭人に対するその北岸として、倭人の住む地域には含めていない。三国志は海峡を渡るまでの国々に関する、詳細な記述がある。 |
5 | 其地大較在會稽東冶之東, | 8 | 計其道里,當在會稽、東冶之東。 | 後漢書は大体会稽東冶の東とするのに対し、三国志はまさにぴったり東という書きぶり。 |
6 | 與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。 | 12 | 所有無與儋耳、朱崖同。 | 後漢書は朱崖、儋耳に近いので法俗が似ているとするのに対し、三国志は単に物の有り無しが似ているとしている。 |
7 | 土宜禾稻、麻紵、蠶桑,知織績為縑布。 | 10 | 種禾稻、紵麻,蠶桑、緝績,出細紵、縑緜。 | 後漢書は簡略な記述で、一部を欠く。 |
8 | 出白珠、青玉。其山有丹土。 | 21 | 出真珠、青玉。其山有丹,其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香,其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷,不知以為滋味。有獮猴、黑雉。 | 後漢書は多くを欠く。後漢書の白珠が三国志では真珠になっている。 |
9 | 氣溫鹏,冬夏生菜茹。 | 13 | 倭地溫暖,冬夏食生菜, | 用語は違うがほぼ同じ。 |
10 | 無牛馬虎豹羊鵲。其兵有矛、楯、木弓,竹矢或以骨為鏃。 | 11 | 其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上,竹箭或鐵鏃或骨鏃, | 後漢書は鉄鏃を欠く。 漢書地理志粵地:「兵則矛、盾、刀,木弓弩,竹矢,或骨為鏃。」 |
11 | 男子皆黥面文身,以其文左右大小別尊卑之差。 | 7 | 男子無大小皆黥面文身。自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沉沒捕魚蛤,文身亦以厭大魚水禽,後稍以為飾。諸國文身各異,或左或右,或大或小,尊卑有差。 | 後漢書は簡略な記述で、多くを欠く。 |
12 | 其男衣皆橫幅結束相連。女人被髮屈紒,衣如單被,貫頭而著之; | 9 | 其風俗不淫,男子皆露紒,以木緜招頭。其衣橫幅,但結束相連,略無縫。婦人被髮屈紒,作衣如單被,穿其中央,貫頭衣之。 | 後漢書は簡略な記述で、多くを欠く。 |
13 | 並以丹朱坋身,如中國之用粉也。 | 16 | 以朱丹塗其身體,如中國用粉也。 | ほぼ同じ。 |
14 | 有城柵 | | | 卑弥呼の即位記事に関連あり。 |
15 | 屋室。父母兄弟異處, | 15 | 有屋室,父母兄弟卧息異處, | ほぼ同じ。 |
16 | 唯會同男女無別。 | 19 | 其會同坐起,父子男女無別, | 後漢書が簡略ではあるが、ほぼ同じ。 |
17 | 飲食以手,而用籩豆。 | 17 | 食飲用籩豆,手食。其死,有棺無槨,封土作冢。 | 後漢書は墓に関する記述を欠く。 |
18 | 俗皆徒跣, | 14 | 皆徒跣。 | ほぼ同じ。 |
19 | | 24 | 見大人所敬,但搏手以當跪拜。 | 後漢書になし。 |
20 | 以蹲踞為恭敬。 | | | 三国志になし。 |
21 | 人性嗜酒。 | 20 | 人性嗜酒。 | 同じ。 |
22 | 多壽考,至百餘歲者甚眾。國多女子,大人皆有四五妻,其餘或兩或三。女人不淫不妒。又俗不盜竊,少爭訟。犯法者沒其妻子,重者滅其門族。 | 25 | 其人壽考,或百年,或八九十年。其俗,國大人皆四五婦,下戶或二三婦。婦人不淫,不妬忌。不盜竊,少諍訟。其犯法,輕者沒其妻子,重者沒其門戶。 | 後漢書の記述がやや簡略であるが、女性が多いという記述は三国志にはない。漢書地理志呉地の条:「初淮南王異國中民家有女者,以待游士而妻之,故至今多女而少男。」 |
23 | 其死停喪十餘日,家人哭泣,不進酒食,而等類就歌舞為樂。 | 18 | 始死停喪十餘日,當時不食肉,喪主哭泣,他人就歌舞飲酒。已葬,舉家詣水中澡浴,以如練沐。 | 後漢書は酒食をしないとなっているが、三国志は肉を食べないとなっている。後漢書の記述は簡略で一部を欠く。 |
24 | 灼骨以卜,用決吉凶。 | 22 | 其俗舉事行來,有所云為,輒灼骨而卜,以占吉凶,先告所卜,其辭如令龜法,視火坼占兆。 | 後漢書の記述は簡略で一部を欠く。 |
25 | 行來度海,令一人不櫛沐,不食肉,不近婦人,名曰「持衰」。若在塗吉利,則雇以財物;如病疾遭害,以為持衰不謹,便共殺之。 | 23 | 其行來渡海詣中國,恒使一人,不梳頭,不去蟣蝨,衣服垢污,不食肉,不近婦人,如喪人,名之為持衰。若行者吉善,共顧其生口財物;若有疾病,遭暴害,便欲殺之,謂其持衰不謹。 | 後漢書の記述は簡略で一部を欠く。 |
26 | 建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。 | | | 三国志に記述なし。 |
27 | 桓、靈閒,倭國大亂,更相攻伐,歷年無主。 | 26 | 其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歷年, | 後漢書は年代を明記。 |
28 | 有一女子名曰卑彌呼,年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑眾,於是共立為王。侍婢千人,少有見者,唯有男子一人給飲食,傳辭語。居處宮室樓觀城柵,皆持兵守衛。 | 27 | 乃共立一女子為王,名曰卑彌呼,事鬼道,能惑衆,年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞。 | 後漢書は簡略な記述。 |
29 | 自女王國東度海千餘里 | 28 | 女王國東渡海千餘里, | 対応している。 |
30 | 至拘奴國, | 4 | 其南有狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗, | 後漢書は王の性別や官名を欠く。 |
31 | 雖皆倭種, | 29 | 復有國,皆倭種。 | 対応している。 |
32 | 而不屬女王。 | 5 | 不屬女王。 | 対応している。 |
33 | 自女王國南四千餘里至朱儒國,人長三四尺。自朱儒東南行船一年,至裸國、黑齒國,使驛所傳,極於此矣。 | 30 | 又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南,船行一年可至。參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里。 | 後漢書はやや簡略で、倭国の地理情報を欠く。 |
34 | | 31 | 景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月,詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所獻男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到。汝所在踰遠,乃遣使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝。今以汝為親魏倭王,假金印紫綬,裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人,勉為孝順。汝來使難升米、牛利涉遠,道路勤勞,今以難升米為率善中郎將,牛利為率善校尉,假銀印青綬,引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟𦋺十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹,荅汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華𦋺五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鈆丹各五十斤,皆裝封付難升米、牛利還到錄受。悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物」正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦𦋺、刀、鏡、采物,倭王因使上表荅謝恩詔。其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。 | 後漢書になし。 |
倭伝比較まとめ |
民族記述 | 通番の33までは途中26から28に過去の話が有りますが、倭の地理産物社会制度風俗など、民族に関することが書かれています。記述順は大いに変わっていますが、一部を除いて三国志の記事に対応するものがあります。そして該当する場合その記事は、後漢書では簡略な表現になっていたり、一部の記事を欠くかたちになっている場合がほとんどです。 |
民族に関する記事は、対応するものがある場合でも繰り替え言い換えが激しく、用語も入れ変わり文意の変わっているものがあります。 |
通番10と22の記述は、三国志より漢書地理志の内容に近くなっています。 |
前漢まで | 通番1の百餘國は漢書地理志をひいたもの。後漢書は武帝の時代以来と特定。 |
桓帝まで | 通番26は後漢代の歴史で、後漢書に固有の記事があります。 |
霊帝まで | 通番27と28は後漢代の歴史で、三国志では時代を明記していません。 |
献帝以降 | 通番34は漢末以降の記事で、後漢書にはありません。 |
後漢書東夷列伝の各民族伝に対する比較表は、項目をクリックすると表示されます。
民族毎の比較表の最後に、記述内容を地理・言語・生業・政治・社会・風習等の記述を民族的記述とし、歴史に関する記述を、前漢時代、桓帝までの後漢時代、霊帝の時代、に分けてまとめました。
まず民族的記述について、全体をまとめてみることにします。
夫餘伝から濊伝までを見ると、一二の例外はあるものの、後漢書東夷列伝の記述に対応するものが、三国志や魏略にあります。
しかし両者の記載順はひどく違っているため、比較表は三国志の記述順を後漢書に合わせて比較しています。
後漢書固有の記述としては、東沃祖伝の比較表の通番12の女国の神井の話と、濊伝の通番5と6に漢書地理志を引いた記述があります。
濊伝のケースをみると、漢書地理志と三国志に同様の記述がある場合には、漢書地理志の記述が引かれていることが分かります。
倭伝においても、内容的に三国志と異なり、漢書地理志の記述に合うものがあります。
後漢書と三国志の記述が共通している場合に、ほぼ全てのケースで、三国志の記述の一部が後漢書になかったり、後漢書の記述が略記になっています。
裴松之の魏略からの註に相当するものが、三国志東夷伝の各伝にそこそこありますが、後漢書に対応する記述のあるものは、夫餘伝の始祖伝説だけです。
韓伝と倭伝については、濊伝までと同様の傾向はあるものの、後漢書独自の記述がかなり見えるようになります。
韓伝については三韓に別れていますが、後漢書と三国志では記述順が変わっているため、三韓のどちらに対する記述であるかも違いがあり、内容自体に大きな変化があります。
倭伝においても、用語の対応があっても、文意が変わっている場合があります。
また韓伝には、裴松之の魏略からの註が多く入っていますが、後漢書の記述でそれにあたるものはありません。
これはわずかに一か所ではありますが、倭伝にも言えることです。
つぎに歴史記述について見てみます。
時代順のため、記載順には大きな違いはありませんが、記載内容に大きな違いがあります。
まず前漢時代について見てみますと、記述は夫餘伝・高句麗伝・東沃祖伝・濊伝・韓伝・倭伝にあります。
東沃祖伝通番7等に見える玄菟郡治に関する話題や、濊伝の通番7の箕子が朝鮮に来て以来の話、通番23の漢の時代の葬送の話は漢書・史記になく、両書における独自の記述となっています。
記述内容は三国志がやや詳しくなっています。
韓伝通番49の朝鮮侯の名が準であるのは、濊伝の記述を前提とするものです。
その他は両者とも史記・漢書とほぼ同内容となりますが、倭伝の通番1にみえる百餘國の通じてきた時代と、高句麗伝の通番6の高句麗県の成立した時代を、武帝の朝鮮討伐に絡めているのが目を引きます。
三国志では武帝の朝鮮討伐の後に四郡設置あったことだけを伝えており、史記・漢書の内容を出ません。
特に注目するのは、高句麗伝の王莽時代の記述で、漢書では高句麗の名を下句麗に変えたとなっているものが、高句麗王を下句麗侯に格下げしたことになっている点です。
文面的には漢書と並行的ですが、重要な文面の変更となっています。
三国志がほぼ漢書の記述を出ない内容になっているのとは異なっています。
次に後漢時代桓帝の時代までについてみると、高句麗伝では後漢書の記述が三国志に比べてはるかに詳細です。
後漢書に見える高句麗王遂成の記述が、三国志ではごっそり抜け落ちていて、王統譜自体が異なっています。
また後漢王朝とのやり取りにおいて、後漢側の勝利の記録や、高句麗の降伏の記録などが欠けています。 他に後漢書には夫餘伝・東沃祖伝・濊伝・韓伝・倭伝にこの時期の記録があり、東沃祖を除いて後漢書に固有の記事があるか、後漢書のほうが詳細な記述となっています。
後漢時代霊帝の時代までについてみると、桓帝の時代までに比べると、後漢書の記述が全体に少なく、三国志にない固有の記述もほとんどなくなり、あっても後漢書帝紀に同様のものがあります。
このあたりの変化をもっともよく見ることができるのは高句麗伝の通番33から34になります。
そこまで後漢書が詳細だった記述が、三国志と内容が類似している上に簡略な記述になり、記述の末尾に「伝」がつくなど、原史料に変化のあったことを伺わせます。
霊帝時代の記事は、夫餘伝・高句麗伝・倭伝のみです。
夫餘伝の記事は帝紀に、高句麗伝・倭伝の記事は三国志に類似記事があります。
献帝の時代については、夫餘伝にわずかな記事がありますが、三国志に類似の記事があり、かつ文末に「伝」がついています。
公孫氏の遼東割拠以降の記事は後漢書になく、それは民族的記事においても同じで、高句麗の都が丸都であることも記述されていません。
3.後漢書東夷列伝についての考察(1) -夫餘伝から濊伝まで-
韓伝倭伝については様相の異なるところがあるため、まず夫餘伝から濊伝までについて考察します。
まず民族的記述を見ると、前節でみたように後漢書の東沃祖と濊伝にわずかに独自記事が見えるほかは、ほぼ完全に三国志に対応記事があります。
このことはこれらの記事が、共通の原史料をもとに書かれていることを推測させます。
濊伝については前節でみたように、原史料が漢書地理志で、その優先度は共通の原史料より高かったと思われます。
倭伝にも同様の状況が見えます。
東沃祖伝の独自記事である神井については、山海経などに類似する記事がある神話的な話であり、情報源は不明ですが確度の高い史料によったとは思えません。
両者の記述順が著しく異なっていることから、いずれか一方が原史料に対して、大きな改変を行った事になります。
この場合どちらがより大きな改変を行ったかは、その編纂姿勢によると思われます。
三国志東夷伝の編纂姿勢に関しては、文面の用語や文体のばらつきから、原史料をそのまま写したという見方が以前からありました。
一方の後漢書東夷列伝には、そのような不自然さは少なく、原史料に対して一語一語吟味を行ったうえで書いていると思われます。
文面の情報的には三国志のほうが多く、後漢書が原史料から情報を落としたか、三国志が原史料に情報を追加したと言うことになりますが、同一内容に関しても、後漢書の略記が目立ち、後漢書東夷列伝は原史料をより縮約していると思われます。
このような見立てだけから見れば、三国志のほうが共通の原史料に近い文面であると思われます。
つぎに前漢時代までの歴史記述を見てみます。
両者の編纂姿勢の違いを物語るのが、前節で触れた高句麗伝の王莽時代の記事で、文面から明らかに漢書王莽伝を下敷きにしているのですが、文面を改変しています。
対応する三国志においては、少なくとも前漢時代に関しては、漢書の内容を変更していません。
このことは民族的記述に関して述べた、原史料により忠実なのは三国志であるという推定と整合します。
続いて桓帝までの時代についてみると、記述は夫餘伝・高句麗伝・東沃祖・濊伝にあり、後漢書が詳細で具体性があります。
三国志と内容的にも差があるため、何らかの固有の原史料があったことを物語ります。
特に前節でみたように、三国志の高句麗伝の内容と比較すると王統に差があり、全く異なる原史料を用いていると思われます。
後漢書の高句麗王統を見ると、宮・遂成・伯固とつながりますが、三国志では宮・伯固・伊夷模・位宮と続き、位宮の曾祖の名が宮となっています。
三国志では遂成が抜けてしまっているのですが、よく見ると三国志では後漢書に見える宮王の敗北については一切触れていないのです。
伯固以下については、敗北や降伏にも触れていますが、宮王については勝利の記録しか残していません。
このことは三国志の記録では、宮王が神格化されているように見えるのです。
この事情は三国志が今の王とする、位宮に対する記述から、その原因が分かってきます。
位宮は宮王に似ているとしていますが、おそらくそれは位宮が伝統に反して灌奴部を母に持ち、はじめて桂婁部から選ばれた王であるという、正統性に対する引け目を補おうとしているのであると思われます。
すなはち三国志の記述は、位宮の言い分を入れた記録であり、宮との類似点や血統の繋がりを強調し、同時に宮王について業績の汚点を記録しないものであったということができます。
遂成が抜けているのは、この王が宮王の夫餘への敗北の結果を受けて、後漢に降伏したため、存在自体が宮王の汚点にふれるものであったためと思われます。
高句麗伝の末尾近くに、今の王位宮という記述があり、正史年間の魏との抗争については簡単に記述したうえで、詳述は毌丘儉伝にありとしていて、三国志高句麗伝の歴史記述自体は、本来魏との抗争が始まる前までに作成されていた、原史料によるものと思われます。
高句麗は司馬宣王の公孫淵討伐に加勢しており、景初年間までに作成された記録であれば、そのような高句麗の言い分を載せたような史料の成立する可能性は、十分にあると思われます。
宮王が生まれながらに目が見えたことに対しては、国人はこれを憎み、長じて国を滅ぼしたとありますが、同じ特性を持った位宮に対する、乗馬や弓に対する良い評価がそれに続いており、文脈的におかしくなっています。
後漢書の同じ部分の記述では、国人は宮王に懐いたとなっており、これが後漢当時の評価だったのでしょう。
おそらく原史料では宮王に対する評価も、後漢書と同じく良いものだったのを、三国志が編纂される時代までに、魏と対立し北沃祖までに逃げることになった位宮に対する評価を、祖先の宮にまで遡及させたものだったと思われます。
後漢書の歴史が後漢王朝側の視点で書かれているところを見ると、その原史料は後漢の政府記録をもとにしたものと想定できます。
一方で三国志はそれとは別に、高句麗側に伝わった話を記録したものとみてよいと思います。
次に霊帝の時代までを見てみます。
するとここで大きな変化があります。
後漢書で桓帝末に起こったように書かれている、帯方県令殺害と楽浪太守の妻子拉致の話は、三国志では桓帝時代の話と「又」で結んであり、後漢書李陳龐陳橋列傳に橋玄が伯固等を討ち、度遼將軍を退く霊帝初年まで平安であったという記事からすると、事件は本来霊帝の建寧年間になって起こったことであったと思われます。
この記事は後漢書が三国志を写したような内容になっており、しかも文末に「伝」とあって、それ以前とは様相が違います。
しかもこの後の建寧二年に、伯固を討伐した玄菟太守耿臨については、他の記録が全くありません。
かなりの事件であると思われますから、後漢側の記録環境に変化があったことがわかります。
前節でみたようにこの時代に関する後漢書の記録は、夫餘伝・高句麗伝のみになり、しかも後漢書帝紀や三国志に関連記事があり、後漢書東夷列伝固有の記事が無くなります。
夫餘伝の獻帝時とする記述も、三国志の略記になっており、同じく文末に「伝」とあります。
このことは桓帝の時代まではあった後漢書東夷列伝の歴史の原史料が、霊帝の時代にはなかったことを示唆します。
後漢代の官撰史書として東観漢記があります。
この史書は長い期間にわたって何度も編纂が行われてきたのですが、後漢書盧植伝の熹平中の記事に「歲餘,復徵拜議郎,與諫議大夫馬日磾、議郎蔡邕、楊彪、韓說等並在東觀,校中書五經記傳,補續漢記。」とあって、熹平中に東観漢記の編纂があったことが分かります。
熹平中というのは霊帝の在位年中ですから、このとき帝紀は桓帝紀まで撰述されたと思われます。
さらに後漢書に「邕前在東觀,與盧植、韓說等撰補後漢記,會遭事流離,不及得成,因上書自陳,奏其所著十意,分別首目,連置章左。」、また「其撰集漢事,未見錄以繼後史。適作靈紀及十意,又補諸列傳四十二篇,因李傕之亂,湮沒多不存。」とあって、霊帝没後に蔡邕らがまとめていた、霊帝紀および十志や列伝四十二編を補った史料は、後漢末の混乱で散逸していたとわかります。
つまり熹平中の撰述において完成していたのは、列伝を含めて桓帝までと考えられます。
唐代の劉知幾によって著された史通には、「史臣廢棄,舊文散佚。」「及在許都,楊彪頗存註紀。」とあって、蔡邕らが獄死して後の建安初年に許都に移って、楊彪が散逸した史料を収集してまとめたらしいのですが、列伝の中には遂に、桓帝以降の記述を欠いたままのものもあったはずです。
以上の状況からすると、後漢書東夷列伝の歴史記事は、東観漢記を原史料としていたもので、そこには桓帝の時代までしか書かれていなかったのでしょう。
後漢書の東夷に関する歴史記述については、帝紀との間に記述内容に差があり、東夷伝という名がついていたかどうかはともかく、東観漢記には後漢代の東夷諸国に関する、歴史をまとめたものを含む巻があったことが推測されます。
3.後漢書東夷列伝についての考察(2) -韓伝と倭伝-
韓伝と倭伝については、民族的記述にも後漢書固有の記述が多く、夫餘伝から濊伝までとは様相が違います。
問題は濊伝までには後漢書と三国志には、共通の原史料が存在したことです。
その原史料は韓や倭にもあったとみるのが妥当で、内容的に差はあるものの、記事の項目的には一致するところからもそれはうかがえます。
前節でみたように、後漢書東夷列伝は三国志東夷伝に比べて、編纂方針として原史料に修正を加える傾向があることから、この差分は何らかの追加情報による修正であるとみることができます。
また夫餘伝から濊伝までの歴史記述に関しては、東観漢記を原史料としている可能性が高いものの、民族的記述に関してはほぼ共通の原史料によっているとみられることから、韓伝と倭伝についてもこの追加情報の全てが東観漢記に依存している可能性は小さいと思われます。
もしもそれほどに東観漢記に、独自の民族的記事があったのなら、夫餘伝から濊伝の歴史記述が三国志と大きな差があったように、全体の項目的一致がこれほどにはならなかったと思われるからです。
では何が韓伝倭伝の追加情報であったのでしょうか。
その差分に注目するしてみましょう。
たとえば韓伝においては、三国志に七十九国挙げられている国名について、七十八国として伯濟のみがその一国として取り上げられています。
共通の原史料から伯濟のみが取り上げられているとすると、情報源は伯濟に関連すると思われます。
唐代における推定漢字音では、伯濟と百濟は完全に同音価であり、この情報源が百濟に関連することを伺わせます。
韓伝におけるもう一つの大きな差異が、辰王に対する扱いです。
辰王は三国志では、馬韓に都し辰韓の十二国を治めるとしか書かれていませんが、後漢書では三韓の王となっていて、諸国の王は馬韓人の子孫であるとしています。
三国志では辰韓が古の辰國となっているのに対して、後漢書では韓の全てが古の辰國としているのは、これに対応したものでしょう。
つまり後漢書では韓の全ての国がもとは辰國であり、今も辰王が治める土地なのです。
そしてそこで特記すべき国が百濟と同音の伯濟なのです。
これは百濟の朝鮮半島南部における先有権を主張するものと思われます。
百済は南朝に対して四世紀から朝貢を行っており、後漢書が書かれた時代においても、たびたび朝貢を行っています。
韓伝の追加情報は、百済の南朝朝貢使によるものとみて間違いないでしょう。
たとえば三国志では、辰韓と弁辰は単に雑居となっていますが、後漢書ではそれ以外に、弁辰は辰韓の南にあると言っています。
これは辰韓の後継である新羅と、弁辰の後継である加耶の、五世紀ごろの位置関係を反映したものでしょう。
こう見ていくと倭伝における差異も、その原因が百済や倭の南朝朝貢にあると思われます。
例えば三国志では、倭は大海中にあるとし、その大海中の倭の北岸に狗邪韓国があるとして、明瞭に倭が海中の存在で、韓がその対岸にあるとの認識を示しています。
韓伝における南接倭の記述は、漢籍の用例を見れば地続きを意味するものではないことが明らかなので、実態はともかく三国志における地理的認識では、半島側に倭地は存在しません。
ところが後漢書倭伝では、現在の金海地域と思われる狗邪韓国を、倭の北の境界であるとしているのです。
これは五世紀の倭国の影響が、半島南部に及んでいたことの反映であろうと思われるのです。
三国志に見えない馬韓が倭と南で接するとの表現は、百済と倭の密接な関係を反映したものでしょう。
続いて歴史記述を見ると、前漢時代については記述はわずかで、後漢桓帝までの歴史は、韓伝の建武二十年と倭伝の中元二年と永初元年の朝貢記のように、漢書固有の情報があります。
これらの朝貢記事は後漢書帝紀にもあり、倭伝のものは後漢紀にもあるうえ、東夷伝には帝紀にない情報も書かれており、前節の結論からすると帝紀とは別に、東漢観記の東夷の歴史記述にあったものでしょう。
倭伝にある卑弥呼の即位記事については、霊帝の末年におよびますが、この即位記事には対応する朝貢記事がなく、即位記事のみがあることに不自然さがあります。
また前節で考察したように、東観漢記の東夷に関する歴史記事が、桓帝の時代で終わっていたことを考えると、このような即位の事情を伝える、東観漢記の情報があったとは考え難いと思います。
4.後漢書東夷列伝についての考察(3) -三国志との共通の原史料-
後漢書東夷列伝と三国志東夷伝の、共通の原史料に関して考える際に、後漢書東夷列伝と三国志東夷伝の裴松之註にひく魏略との関係が鍵になります。
後漢書東夷列伝と、裴松之註三国志東夷伝を見比べた場合、後漢書の記事で魏略の引用文に当たるものがほとんどないことに気づきます。
唯一後漢書夫餘伝において、夫餘の始祖伝説に当たるものが、三国志に引用された魏略にあります。
ただ詳細に見ると北方の国名が索離國と高離之國で異なり、侍兒の言葉も意味的には同じでも、言い回しに差があるなど、用語や言い回しの差をみると、直接魏略を引用したものではないと思われます。
実際詳細さでは後漢書が勝る場合もあり、両者が共通の情報源に遡り、それぞれ別の展開を経たことが伺われます。
この伝説はすでに一世紀の論衡に見えるものであり、著名な伝説として広まっていたものを、それぞれ独立に採録したものと考えるべきであろうと思われます。
有力な説では、魏略の逸文と三国志東夷伝の比較から、魏略と三国志の関係として、魏略が三国志の原史料の一つであるか、少なくとも共通の原史料があったと考えられています。
するとここまでの結論として、後漢書と三国志の東夷伝と、魏略の三者に共通の原史料があったことになります。
三国志には韓伝を中心に、かなりの数の裴松之註の魏略の文がかなりあります。
そこから個別に三者に編纂されたとすると、当然それぞれの間に差異があると同時に、共通する記事があると思われます。
しかし三国志と魏略・後漢書に共通記事があり、魏略と後漢書に共通項がありません。
この事実を説明するには、後漢書が三国志を引いたとするしかないと思います。
実際すでに述べたように、夫餘伝や高句麗伝の歴史では、ほぼ三国志と同じ記事を書いて、末尾で「伝」としているものがあり、三国志を引いたことを暗示しています。
また高句麗伝では、三国志が順・桓の間とする伯固の侵犯を、記述形式としては引いたうえで、質・桓の間と訂正しています。
ここまでの議論をまとめると、東観漢記には東夷の民族記事はほとんどなく、一方東夷の歴史記事については、後漢桓帝の時代まではあったと考えられます。
これが東夷伝の冒頭で、前史にない記述を補うとした意味であることが分かります。
ここであらためて東夷伝における、三国志と後漢書の記事の差を見ていくと、後漢書は三国志の記述順を大きく変えていることが分かります。
これは全文を分解し、一文一文吟味しながら、一見した文章の見栄えを変えているものであると思われます。
さらに省略された情報を追ってゆくと、例えば高句麗伝では、都が丸都であることを落としています。
建安年間に公孫康が高句麗を破り、伊夷模が都を丸都に移したとする記事から、丸都が高句麗の都になったのはまだ後漢の時代の話です。
歴史の記述では、桓帝以降は東観漢記に参照できる記事がなかったとは思われますが、これは民族記事であり、かつ後漢の時代の話なので、後漢書が省略する必要はありません。
また同じく帯方という用語も、成立は後漢末ですが後漢書では高句麗伝に一例あるのみで、それも時代的に霊帝の時代なので、帯方郡ではなく帯方県と考えられ、注意深く公孫氏が遼東に独立して後の記事を省略していると思われます。
また軍事上の理由で重要だったはずの、人口に関する記述も全て落とされていますが、これは原史料とした三国志が三世紀の文献で、その人口をそのまま後漢代の人口とすることができなかったためと思われます。
本来後漢末に関しては、後漢書の記述範囲に含まれるべきもので、このような態度は三国志との分担範囲を、公孫氏が遼東に独立するまでとみなしているものと考えられます。
ちなみに実質独立を果たした公孫度は、明らかに後漢の時代の人物ですが、後漢書に公孫度伝はありません。
後漢書東夷列伝は編纂時に三国志東夷伝を強く意識し、三国東夷伝書稱に、公孫淵と父祖三世が遼東有して後、東夷が天子の絶域となったとの記述に従っているのであろうと思われます。
東観漢記には実際霊帝以降の、東夷の歴史記述はなかった可能性が高いわけですが、それでも霊帝以降の出来事を、三国志の記述をもとに記載しようとしています。
韓伝と倭伝では、このような観点により、帯方郡の用語の使用が避けられています。
また卑弥呼の即位記事などは、三国志の記事を吟味したうえで、東観漢記にあった永初元年の記事を、三国志の男王に当て、卑弥呼即位前の混乱を、桓帝と霊帝の間として、その即位を公孫氏の遼東割拠前において、記述を試みたのでしょう。
そうまでして韓や倭の記事を書きたかった理由は、百済や倭の南朝朝貢による新情報が、刺激になったものでしょう。
特に倭に関しては、王沈の魏書の鮮卑伝にある、汗人を倭人に変えるなど、倭人に関しての関心が非常に高かったと思われるのです。
漢書地理志にある東鯷人の話や、三国志呉書にある夷洲と亶洲の話などを、倭伝の末尾に持ってきています。
5.後漢書烏桓鮮卑列伝と裴松之註三国志烏丸鮮卑伝の比較
後漢書烏桓伝と裴松之注三國志の比較表
通番 | 後漢書記事 | 王沈魏書 | 差分と備考 |
記載順 | 記事 |
1 | 烏桓者,本東胡也。漢初,匈奴冒頓滅其國,餘類保烏桓山,因以為號焉。俗善騎射, | 1 | 烏丸者,東胡也。漢初,匈奴冒頓滅其國,餘類保烏丸山,因以為號焉。俗善騎射, | 用語レベルの対応がある。 |
2 | 弋獵禽獸為事。 | 3 | 日弋獵禽獸, | 用語レベルの対応がある。 |
3 | 隨水草放牧,居無常處。以穹廬為舍,東開向日。 | 2 | 隨水草放牧,居無常處,以穹廬為宅,皆東向。 | 用語レベルの対応がある。 |
4 | 食肉飲酪,以毛毳為衣。貴少而賤老,其性悍塞。怒則殺父兄,而終不害其母,以母有族類,父兄無相仇報故也。有勇健能理決鬥訟者,推為大人, | 4 | 食肉飲酪,以毛毳為衣。貴少賤老,其性悍驁,怒則殺父兄,而終不害其母,以母有族類,父兄以己為種,無復報者故也。常推募勇健能理決鬬訟相侵犯者為大人, | 用語レベルの対応がある。 |
5 | 無世業相繼。 | 6 | 不世繼也。 | 同様の内容。 |
6 | 邑落各有小帥, | 5 | 邑落各有小帥, | 用語レベルの対応がある。 |
7 | 數百千落自為一部。大人有所召呼,則刻木為信,雖無文字,而部眾不敢違犯。氏姓無常,以大人健者名字為姓。大人以下,各自畜牧營產,不相傜役。其嫁娶則先略女通情,或半歲百日,然後送牛馬羊畜,以為娉幣。婿隨妻還家,妻家無尊卑,旦旦拜之,而不拜其父母。為妻家僕役,一二年閒,妻家乃厚遣送女,居處財物一皆為辦。 | 7 | 數百千落自為一部,大人有所召呼,刻木為信,邑落傳行,無文字,而部衆莫敢違犯。氏姓無常,以大人健者名字為姓。大人已下,各自畜牧治產,不相徭役。其嫁娶皆先私通,畧將女去,或半歲百日,然後遣媒人送馬牛羊以為聘娶之禮。婿隨妻歸,見妻家無尊卑,旦起皆拜,而不自拜其父母。為妻家僕役二年,妻家乃厚遣送女,居處財物,一出妻家。 | 若干の違いはあるが用語レベルの対応がある。 |
8 | 其俗妻後母,報寡泽,死則歸其故夫。 | 9 | 父兄死,妻後母執嫂;若無執嫂者,則己子以親之次妻伯叔焉,死則歸其故夫。 | 魏書が詳しい。 |
9 | 計謀從用婦人,唯鬥戰之事乃自決之。父子男女相對踞蹲。以髡頭為輕便。婦人至嫁時乃養髮,分為髻,著句決,飾以金碧,猶中國有簂步搖。 | 8 | 故其俗從婦人計,至戰鬪時,乃自決之。父子男女,相對蹲踞,悉髠頭以為輕便。婦人至嫁時乃養髮,分為髻,著句決,飾以金碧,猶中國有冠步搖也。 | 用語レベルの対応がある。 |
10 | 婦人能刺韋作文繡,織氀毼。 | 13 | 能刺韋作文繡,織縷氊𣮷。有病,知以艾灸,或燒石自熨,燒地卧上,或隨痛病處,以刀決脉出血,及祝天地山川之神,無鍼藥。 | 魏書が詳しい。 |
11 | 男子能作弓矢鞍勒,鍛金鐵為兵器。 | 12 | 大人能作弓矢鞌勒,鍛金鐵為兵器, | 男子と大人の違い。 |
12 | 其土地宜穄及東牆。東牆似蓬草,實如穄子,至十月而熟。 | 11 | 地宜青穄、東牆,東牆似蓬草,實如葵子,至十月熟。能作白酒,而不知作麴糱。米常仰中國。 | 魏書が詳しい。 |
13 | 見鳥獸孕乳,以別四節。 | 10 | 俗識鳥獸孕乳,時以四節,耕種常用布穀鳴為候。 | 魏書が詳しい。 |
14 | 俗貴兵死,斂屍以棺,有哭泣之哀,至葬則歌舞相送。肥養一犬,以彩繩纓牽,并取死者所乘馬衣物,皆燒而送之,言以屬累犬,使護死者神靈歸赤山。赤山在遼東西北數千里,如中國人死者魂神歸岱山也。敬鬼神,祠天地日月星辰山川及先大人有健名者。祠用牛羊,畢皆燒之。其約法:違大人言者,罪至死;若相賊殺者,令部落自相報,不止,詣大人告之,聽出馬牛羊以贖死;其自殺父兄則無罪;若亡畔為大人所捕者,邑落不得受之,皆徙逐於雍狂之地,沙漠之中。其土多蝮蛇,在丁令西南,烏孫東北焉。 | 14 | 貴兵死,斂屍有棺,始死則哭,葬則歌舞相送。肥養犬,以采繩嬰牽,并取亡者所乘馬、衣物、生時服飾,皆燒以送之。特屬累犬,使護死者神靈歸乎赤山。赤山在遼東西北數千里,如中國人以死之魂神歸泰山也。至葬日,夜聚親舊員坐,牽犬馬歷位,或歌哭者,擲肉與之。使二人口誦呪文,使死者魂神徑至,歷嶮阻,勿令橫鬼遮護,達其赤山,然後殺犬馬衣物燒之。敬鬼神,祠天地日月星辰山川,及先大人有健名者,亦同祠以牛羊,祠畢皆燒之。飲食必先祭。其約法,違大人言死,盜不止死。其相殘殺,令都落自相報,相報不止,詣大人平之,有罪者出其牛羊以贖死命,乃止。自殺其父兄無罪。其亡叛為大人所捕者,諸邑落不肯受,皆逐使至雍狂地。地無山,有沙漠、流水、草木,多蝮虵,在丁令之西南,烏孫之東北,以窮困之。 | 魏書が詳しく、後漢書にない記述が目立つ。 |
15 | 烏桓自為冒頓所破,眾遂孤弱,常臣伏匈奴,歲輸牛馬羊皮,過時不具,輒沒其妻子。 | 15 | 自其先為匈奴所破之後,人衆孤弱,為匈奴臣服,常歲輸牛馬羊,過時不具,輒虜其妻子。 | 用語レベルの対応がある。 |
16 | 及武帝遣驃騎將軍霍去病擊破匈奴左地,因徙烏桓於上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東五郡塞外,為漢偵察匈奴動靜。其大人歲一朝見,於是始置護烏桓校尉,秩二千石,擁節監領之,使不得與匈奴交通。 | | | 漢書・史記・魏書になし。 |
17 | 昭帝時,烏桓漸強,乃發匈奴單于冢墓,以報冒頓之怨。匈奴大怒,乃東擊破烏桓。大將軍霍光聞之,因遣度遼將軍范明友將二萬騎出遼東邀匈奴,而虜已引去。明友乘烏桓新敗,遂進擊之,斬首六千餘級,獲其三王首而還。由是烏桓復寇幽州,明友輒破之。 | 16 | 至匈奴壹衍鞮單于時,烏丸轉彊,發掘匈奴單于冢,將以報冒頓所破之恥。壹衍鞮單于大怒,發二萬騎以擊烏丸。大將軍霍光聞之,遣度遼將軍范明友將三萬騎出遼東追擊匈奴。比明友兵至,匈奴已引去。烏丸新被匈奴兵,乘其衰弊,遂進擊烏丸,斬首六千餘級,獲三王首還。後數復犯塞,明友輒征破之。 | 漢書匈奴伝に記載あり。范明友の兵数が魏書は三万となっているが、漢書・後漢書ともに二万となっている。語順用語などには違いがあるが、対応している語も多い。 |
18 | 宣帝時,乃稍保塞降附。 | | | 魏書になし。漢書趙充國辛慶忌傳に関連記述あり。 |
19 | 及王莽篡位,欲擊匈奴,興十二部軍,使東域將嚴尤領烏桓、丁令兵屯代郡,皆質其妻子於郡縣。烏桓不便水土,懼久屯不休,數求謁去。莽不肯遣,遂自亡畔,還為抄盜,而諸郡盡殺其質,由是結怨於莽。匈奴因誘其豪帥以為吏,餘者皆羈縻屬之。 | | | 魏書・漢書に記載なし。 |
20 | | 17 | 至王莽末,並與匈奴為寇。 | 漢書匈奴伝:「烏桓與匈奴無狀黠民共為寇入塞」 |
21 | 光武初,烏桓與匈奴連兵為寇,代郡以東尤被其害。居止近塞,朝發穹廬,暮至城郭,五郡民庶,家受其辜,至於郡縣損壞,百姓流亡。其在上谷塞外白山者,最為強富。 | | | 魏書になし。 |
22 | 建武二十一年,遣伏波將軍馬援將三千騎出五阮關掩擊之。烏桓逆知,悉相率逃走,追斬百級而還。烏桓復尾擊援後,援遂晨夜奔歸,比入塞,馬死者千餘匹。 | 18 | 光武定天下,遣伏波將軍馬援將三千騎,從五原關出塞征之,無利,而殺馬千餘匹。 | 後漢書が詳しい。 |
23 | 二十二年,匈奴國亂,烏桓乘弱擊破之,匈奴轉北徙數千里,漠南地空,帝乃以幣帛賂烏桓。 | 19 | 烏丸遂盛,鈔擊匈奴,匈奴轉徙千里,漠南地空。 | 後漢書が詳しい。 |
24 | 二十五年,遼西烏桓大人郝旦等九百二十二人率眾向化,詣闕朝貢,獻奴婢牛馬及弓虎豹貂皮。是時四夷朝賀,絡驛而至,天子乃命大會勞饗,賜以珍寶。烏桓或願留宿衛,於是封其渠帥為侯王君長者八十一人,皆居塞內,布於緣邊諸郡,令招來種人,給其衣食,遂為漢偵候,助擊匈奴、鮮卑。時司徒掾班彪上言:「烏桓天性輕黠,好為寇賊,若久放縱而無總領者,必復侵掠居人,但委主降掾史,恐非所能制。臣愚以為宜復置烏桓校尉,誠有益於附集,省國家之邊慮。」帝從之。於是始復置校尉於上谷甯城,開營府,并領鮮卑,賞賜質子,歲時互市焉。 | 20 | 建武二十五年,烏丸大人郝且等九千餘人率衆詣闕,封其渠帥為侯王者八十餘人,使居塞內,布列遼東屬國、遼西、右北平、漁陽、廣陽、上谷、代郡、鴈門、太原、朔方諸郡界,招來種人,給其衣食,置校尉以領護之,遂為漢偵備,擊匈奴、鮮卑。 | 後漢書が大いに詳細。 |
25 | | 21 | 至永平中,漁陽烏丸大人欽志賁帥種人叛,鮮卑還為寇害,遼東太守祭肜募殺志賁,遂破其衆。 | 後漢書明帝紀:「是歲,遼東太守祭肜使鮮卑擊赤山烏桓,大破之,斬其渠帥。」 後漢書鮮卑伝:「時漁陽赤山烏桓歆志賁等數寇上谷。永平元年,祭肜復賂偏何擊歆志賁,破斬之,」 |
26 | 及明、章、和三世,皆保塞無事。 | | | 魏書になし。 |
27 | 安帝永初三年夏,漁陽烏桓與右北平胡千餘寇代郡、上谷。秋,鴈門烏桓率眾王無何允,與鮮卑大人丘倫等,及南匈奴骨都侯,合七千騎寇五原,與太守戰於九原高渠谷,漢兵大敗,殺郡長吏。乃遣車騎將軍何熙、度遼將軍梁慬等擊,大破之。無何乞降,鮮卑走還塞外。是後烏桓稍復親附,拜其大人戎朱廆為親漢都尉。 | 22 | 至安帝時,漁陽、右北平、鴈門烏丸率衆王無何等復與鮮卑、匈奴合,鈔畧代郡、上谷、涿郡、五原,乃以大司農何熈行車騎將軍,左右羽林五營士,發緣邊七郡黎陽營兵合二萬人擊之。匈奴降,鮮卑、烏丸各還塞外。是後,烏丸稍復親附,拜其大人戎末廆為都尉。 | 後漢書が詳しい。 |
28 | 順帝陽嘉四年冬,烏桓寇雲中,遮截道上商賈車牛千餘兩,度遼將軍耿曄率二千餘人追擊,不利,又戰於沙南,斬首五百級。烏桓遂圍曄於蘭池城,於是發積射士二千人,度遼營千人,配上郡屯,以討烏桓,烏桓乃退。 | 23 | 至順帝時,戎末廆率將王侯咄歸、去延等從烏丸校尉耿曄出塞擊鮮卑有功,還皆拜為率衆王,賜束帛。 | 後漢書が詳細。 |
29 | 永和五年,烏桓大人阿堅、羌渠等與南匈奴左部句龍吾斯反畔,中郎將張耽擊破斬之,餘眾悉降。桓帝永壽中,朔方烏桓與休著屠各並畔,中郎將張奐搫平之。延熹九年夏,烏桓復與鮮卑及南匈奴鮮卑寇緣邊九郡,俱反,張奐討之,皆出塞去。 | | | 魏書になし。 |
通番 | 後漢書記事 | 三國志 | 差分と備考 |
記載順 | 記事 |
30 | 靈帝初,烏桓大人上谷有難樓者,眾九千餘落,遼西有丘力居者,眾五千餘落,皆自稱王;又遼東蘇僕延,眾千餘落,自稱峭王;右北平烏延,眾八百餘落,自稱汗魯王:並勇建而多計策。中平四年,前中山太守張純畔,入丘力居眾中,自號彌天安定王,遂為諸郡烏桓元帥,寇掠青、徐、幽、冀四州。五年,以劉虞為幽州牧,虞購募斬純首,北州乃定。 | 1 | 漢末,遼西烏丸大人丘力居,衆五千餘落,上谷烏丸大人難樓,衆九千餘落,各稱王,而遼東屬國烏丸大人蘇僕延,衆千餘落,自稱峭王,右北平烏丸大人烏延,衆八百餘落,自稱汗魯王,皆有計策勇健。中山太守張純叛入丘力居衆中,自號彌天安定王,為三郡烏丸元帥,寇略青、徐、幽、兾四州,殺略吏民。靈帝末,以劉虞為幽州牧,募胡斬純首,北州乃定。 | 記述には若干の違いがあり後漢書がやや詳細。用語レベルの対応あり。 |
31 | 獻帝初平中,丘力居死,子樓班年少,從子蹋頓有武略,代立,總攝三郡,眾皆從其號令。建安初,冀州牧袁紹與前將軍公孫瓚相持不決,蹋頓遣使詣紹求和親,遂遣兵助擊瓚,破之。紹矯制賜蹋頓、難樓、蘇僕延、烏延等,皆以單于印綬。 | 2 | 後丘力居死,子樓班年小,從子蹋頓有武略,代立,總攝三王部,衆皆從其教令。袁紹與公孫瓚連戰不決,蹋頓遣使詣紹求和親,助紹擊瓚,破之。紹矯制賜蹋頓、峭王、汗魯王印綬,皆以為單于。 | 用語レベルの対応があるが、後半印綬に関する記載で、後漢書は難樓・蘇僕延・烏延、三国志は峭王、汗魯王と記載する。内容は後漢書がやや詳細。 |
32 | 後難樓、蘇僕延率其部眾奉樓班為單于,蹋頓為王,然蹋頓猶秉計策。廣陽人閻柔,少沒烏桓、鮮卑中,為其種人所歸信,柔乃因鮮卑眾,殺烏桓校尉邢舉而代之。袁紹因寵慰柔,以安北邊。及紹子尚敗,奔蹋頓。時幽、冀吏人奔烏桓者十萬餘戶,尚欲憑其兵力,復圖中國。會曹操平河北,閻柔率鮮卑、烏桓歸附,操即以柔為校尉。 | 3 | 後樓班大,峭王率其部衆奉樓班為單于,蹋頓為王。然蹋頓多畫計策。廣陽閻柔,少沒烏丸、鮮卑中,為其種所歸信。柔乃因鮮卑衆,殺烏丸校尉邢舉代之,紹因寵慰以安北邊。後袁尚敗奔蹋頓,憑其勢,復圖兾州。會太祖平河北,柔帥鮮卑、烏丸歸附,遂因以柔為校尉,猶持漢使節,治廣寗如舊。 | 一部に違いがあるが、概ね用語レベルの対応がある。内容は後漢書が詳細。 |
33 | 建安十二年,曹操自征烏桓,大破蹋頓於柳城,斬之,首虜二十餘萬人。袁尚與樓班、烏延等皆走遼東,遼東太守公孫康並斬送之。其餘眾萬餘落,悉徙居中國云。 | 4 | 建安十一年,太祖自征蹋頓於柳城,潛軍詭道,未至百餘里,虜乃覺。尚與蹋頓將衆逆戰於凡城,兵馬甚盛。太祖登高望虜陣,柳軍未進,觀其小動,乃擊破其衆,臨陣斬蹋頓首,死者被野。速附丸、樓班、烏延等走遼東,遼東悉斬,傳送其首。其餘遺迸皆降。及幽州、并州柔所統烏丸萬餘落,悉徙其族居中國,帥從其侯王大人種衆與征伐。由是三郡烏丸為天下名騎。 | 年次に違いがあり、三国志が詳しい。三国志武帝紀に詳述あり、年次は十二年となっている。後漢書の記述は文末に「伝」とある。 |
烏桓伝比較まとめ |
民族記述 | 通番15まで烏桓の地理産物社会制度風俗など、民族に関することが書かれています。後漢書の記事は一見すると魏書との間に差があるように見えますが、記述順序を変えると、魏書の記事に対応するものがあります。そして該当する場合その記事は、後漢書では簡略な表現になっていたり、一部の記事を欠くかたちになっている場合がほとんどです。三国志に記事はありません。 |
前漢末まで | 後漢書が魏書より詳細。通番16の烏桓が武帝時代に前漢の支配下にはいり、護烏桓校尉を置かれた話は史記・漢書に見えません。通番19の王莽時代に烏桓が嚴尤の支配下にはいり反乱した話は、漢書に見えません。三国志に記事はありません。 |
桓帝まで | 通番25を除き後漢書が魏書より詳細。通番25は三国志鮮卑伝、後漢書帝紀、後漢書鮮卑伝に関連記事があります。三国志に記事はありません。 |
霊帝まで | 魏書の引用はありません。三国志にほぼ同等の記事ありますが、若干後漢書が詳細です。 |
献帝以降 | 魏書の引用はありません。通番33を除き三国志と内容的に同等ですが、やや後漢書が詳細になっています。33は三国志が詳細で文末に「伝」がついています。 |
後漢書鮮卑伝と裴松之注三國志の比較表
通番 | 後漢書記事 | 王沈魏書 | 差分と備考 |
記載順 | 記事 |
1 | 鮮卑者,亦東胡之支也,別依鮮卑山,故因號焉。其言語習俗與烏桓同。 | 1 | 鮮卑亦東胡之餘也,別保鮮卑山,因號焉。其言語習俗與烏丸同。 | 用語レベルで一致 |
2 | 唯婚姻先髡頭, | 4 | 嫁女娶婦,髠頭 | ここと通番5を合わせたものが内容的に一致する。 |
3 | | 2 | 其地東接遼水,西當西城。 | 後漢書に対応する記事なし。 |
4 | 以季春月大會於饒樂水上, | 3 | 常以季春大會,作樂水上, | 記述は一致しているが、後漢書ではこの通番4の内容が、通番2と5の間に入り込んだような形になっている。 |
5 | 飲讌畢,然後配合。 | 5 | 飲宴。 | ここと通番5を合わせたものが内容的に一致する。 |
6 | 又禽獸異於中國者,野馬、原羊、角端牛,以角為弓,俗謂之角端弓者。又有貂、豽、鼲子,皮毛柔蝡,故天下以為名裘。 | 6 | 其獸異於中國者,野馬、羱羊、端牛。端牛角為弓,世謂之角端者也。又有貂、豽、鼲子,皮毛柔蠕,故天下以為名裘。 | 用語レベルで一致 |
7 | 漢初,亦為冒頓所破,遠竄遼東塞外,與烏桓相接,未常通中國焉。光武初,匈奴強盛,率鮮卑與烏桓寇抄北邊,殺略吏人,無有寧歲。建武二十一年,鮮卑與匈奴入遼東,遼東太守祭肜擊破之,斬獲殆盡,事已具肜傳,由是震怖。及南單于附漢,北虜孤弱,二十五年,鮮卑始通驛使。 | 7 | 鮮卑自為冒頓所破,遠竄遼東塞外,不與餘國爭衡,未有名通於漢,而自與烏丸相接。至光武時,南北單于更相攻伐,匈奴損耗,而鮮卑遂盛。 | 後漢書が詳細。 |
8 | 其後都護偏何等詣祭肜求自效功,因令擊北匈奴左伊育訾部,斬首二千餘級。其後偏何連歲出兵擊北虜,還輒持首級詣遼東受賞賜。三十年,鮮卑大人於仇賁、滿頭等率種人詣闕朝賀,慕義內屬。帝封於仇賁為王,滿頭為侯。時漁陽赤山烏桓歆志賁等數寇上谷。永平元年,祭肜復賂偏何擊歆志賁,破斬之,於是鮮卑大人皆來歸附,並詣遼東受賞賜,青徐二州給錢歲二億七千萬為常。明章二世,保塞無事。 | 8 | 建武三十年,鮮卑大人於仇賁率種人詣闕朝貢,封於仇賁為王。永平中,祭肜為遼東太守,誘賂鮮卑,使斬叛烏丸欽志賁等首,於是鮮卑自燉煌、酒泉以東邑落大人,皆詣遼東受賞賜,青、徐二州給錢,歲二億七千萬以為常。 | 後漢書が詳細。 三国志烏丸伝:「至永平中,漁陽烏丸大人欽志賁帥種人叛,鮮卑還為寇害,遼東太守祭肜募殺志賁,遂破其衆。」 |
9 | 和帝永元中,大將軍竇憲遣右校尉耿夔擊破匈奴,北單于逃走,鮮卑因此轉徙據其地。匈奴餘種留者尚有十餘萬落,皆自號鮮卑,鮮卑由此漸盛。九年,遼東鮮卑攻肥如縣,太守祭參坐沮敗,下獄死。十三年,遼東鮮卑寇右北平,因入漁陽,漁陽太守擊破之。延平元年,鮮卑復寇漁陽,太守張顯率數百人出塞追之。兵馬掾嚴授諫曰:「前道險阻,賊埶難量,宜且結營,先令輕騎偵視之。」顯意甚銳,怒欲斬之。因復進兵,遇虜伏發,士卒悉走,唯授力戰,身被十創,手殺數人而死。顯中流矢,主簿衛福、功曹徐咸皆自投赴顯,俱歿於陣。鄧太后策書褒歎,賜顯錢六十萬,以家二人為郎;授、福、咸各錢十萬,除一子為郎。 | 9 | 和帝時,鮮卑大都護校尉廆帥部衆從烏丸校尉任常擊叛者,封校尉廆為率衆王。殤帝延平中,鮮卑乃東入塞,殺漁陽太守張顯。 | 後漢書が詳細。 |
10 | 安帝永初中,鮮卑大人燕荔陽詣闕朝賀,鄧太后賜燕荔陽王印綬,赤車參駕,令止烏桓校尉所居甯城下,通胡市,因築南北兩部質館。鮮卑邑落百二十部,各遣入質。是後或降或畔,與匈奴、烏桓更相攻擊。 | 10 | 安帝時,鮮卑大人燕荔陽入朝,漢賜鮮卑王印綬,赤車參駕,止烏丸校尉所治寗下。通胡市,築南北兩部質宮,受邑落質者二十部。是後或反或降,或與匈奴、烏丸相攻擊。 | 後漢書がやや詳細。 |
11 | 元初二年秋,遼東鮮卑圍無慮縣,州郡合兵固保清野,鮮卑無所得。復攻扶黎營,殺長吏。四年,遼西鮮卑連休等遂燒塞門,寇百姓。烏桓大人於秩居等與連休有宿怨,共郡兵奔擊,大破之,斬首千三百級,悉獲其生口牛馬財物。五年秋,代郡鮮卑萬餘騎遂穿塞入寇,分攻城邑,燒官寺,殺長吏而去。乃發緣邊甲卒、黎陽營兵,屯上谷以備之。冬,鮮卑入上谷,攻居庸關,復發緣邊諸郡、黎陽營兵、積射士步騎二萬人,屯列衝要。六年秋,鮮卑入馬城塞,殺長吏,度遼將軍鄧遵發積射士三千人,及中郎將馬續率南單于,與遼西、右北平兵馬會,出塞追擊鮮卑,大破之,獲生口及牛羊財物甚眾。又發積射士三千人,馬三千匹,詣度遼營屯守。永寧元年,遼西鮮卑大人烏倫、其至鞬率眾詣鄧遵降,奉貢獻。詔封烏倫為率眾王,其至鞬為率眾侯,賜綵繒各有差。 | | | 魏書になし。 |
12 | 建光元年秋,其至鞬復畔,寇居庸,雲中太守成嚴擊之,兵敗,功曹楊穆以身捍嚴,與俱戰歿。鮮卑於是圍烏桓校尉徐常於馬城。度遼將軍耿夔與幽州刺史龐參發廣陽、漁陽、涿郡甲卒,分為兩道救之;常夜得潛出,與夔等并力並進,攻賊圍,解之。鮮卑既累殺郡守,膽意轉盛,控弦數萬騎。延光元年冬,復寇鴈門、定襄,遂攻太原,掠殺百姓。二年冬,其至鞬自將萬餘騎入東領候,分為數道,攻南匈奴於曼柏,薁鞬日逐王戰死,殺千餘人。三年秋,復寇高柳,擊破南匈奴,殺漸將王。 | 11 | 安帝末,發緣邊步騎二萬餘人,屯列衝要。後鮮卑八九千騎穿代郡及馬城塞入害長吏,漢遣度遼將軍鄧遵、中郎將馬續出塞追破之。鮮卑大人烏倫、其至鞬等七千餘人詣遵降,封烏倫為王,其至鞬為侯,賜采帛。遵去後,其至鞬復反,圍烏丸校尉於馬城,度遼將軍耿夔及幽州刺史救解之。其至鞬遂盛,控弦數萬騎,數道入塞,趣五原寧貊,攻匈奴南單于,殺左奧鞬日逐王。 | 後漢書がやや詳細。 |
13 | 順帝永建元年秋,鮮卑其至鞬寇代郡,太守李超戰死。明年春,中郎將張國遣從事將南單于兵步騎萬餘人出塞,擊破之,獲其資重二千餘種。時遼東鮮卑六千餘騎亦寇遼東玄菟,烏桓校尉耿曄發緣邊諸郡兵及烏桓率眾王出塞擊之,斬首數百級,大獲其生口牛馬什物,鮮卑乃率種眾三萬人詣遼東乞降。三年,四年,鮮卑頻寇漁陽、朔方。六年秋,耿曄遣司馬將胡兵數千人,出塞擊破之。冬,漁陽太守又遣烏桓兵擊之,斬首八百級,獲牛馬生口。烏桓豪人扶漱官勇健,每與鮮卑戰,輒陷敵,詔賜號「率眾君」。陽嘉元年冬,耿曄遣烏桓親漢都尉戎朱廆率眾王侯咄歸等,出塞抄擊鮮卑,大斬獲而還,賜咄歸等已下為率眾王、侯、長,賜綵繒各有差。鮮卑後寇遼東屬國,於是耿曄乃移屯遼東無慮城拒之。二年春,匈奴中郎將趙稠遣從事將南匈奴骨都侯夫沈等,出塞擊鮮卑,破之,斬獲甚眾,詔賜夫沈金印紫綬及縑綵各有差。秋,鮮卑穿塞入馬城,代郡太守擊之,不能克。後其至鞬死,鮮卑抄盜差稀。 | 12 | 順帝時,復入塞,殺代郡太守。漢遣黎陽營兵屯中山,緣邊郡兵屯塞下,調五營弩帥令教戰射,南單于將步騎萬餘人助漢擊却之。後烏丸校尉耿曄將率衆王出塞擊鮮卑,多斬首虜,於是鮮卑三萬餘落詣遼東降。匈奴及北單于遁逃後,餘種十餘萬落詣遼東雜處,皆自號鮮卑兵。 | 後漢書が詳細。 |
14 | 桓帝時,鮮卑檀石槐者,其父投鹿侯、初從匈奴軍三年,其妻在家生子。投鹿侯歸,怪欲殺之。妻言嘗晝行聞雷震,仰天視而雹入其口,因吞之,遂妊身,十月而產,此子必有奇異,且宜長視。投鹿侯不聽,遂棄之。妻私語家令收養焉,名檀石槐。年十四五,勇健有智略。異部大人抄取其外家牛羊,檀石槐單騎追擊之,所向無前,悉還得所亡者,由是部落畏服。乃施法禁,平曲直,無敢犯者,遂推以為大人。檀石槐乃立庭於彈汗山歠仇水上,去高柳北三百餘里,兵馬甚盛,東西部大人皆歸焉。因南抄緣邊,北拒丁零,東卻夫餘,西擊烏孫,盡據匈奴故地,東西萬四千餘里,南北七千餘里,網羅山川水澤鹽池。 | 13 | 投鹿侯從匈奴軍三年,其妻在家,有子。投鹿侯歸,怪欲殺之。妻言:「嘗晝行聞雷震,仰天視而雹入其口,因吞之,遂姙身,十月而產,此子必有奇異,且長之。」投鹿侯固不信。妻乃語家,令收養焉,號檀石槐,長大勇健,智畧絕衆。年十四五,異部大人卜賁邑鈔取其外家牛羊,檀石槐策騎追擊,所向無前,悉還得所亡。由是部落畏服,施法禁,平曲直,莫敢犯者,遂推以為大人。檀石槐旣立,乃為庭於高柳北三百餘里彈汗山啜仇水上,東西部大人皆歸焉。兵馬甚盛,南鈔漢邊,北拒丁令,東却夫餘,西擊烏孫,盡據匈奴故地,東西萬二千餘里,南北七千餘里,罔羅山川、水澤、鹽池甚廣。 | 記述内容にわずかに出入りがあるほか、記述順に若干差があるが、用語レベルで一致。 |
15 | 永壽二年秋,檀石槐遂將三四千騎寇雲中。延熹元年,鮮卑寇北邊。冬,使匈奴中郎將張奐率南單于出塞擊之,斬首二百級。二年,復入鴈門,殺數百人,大抄掠而去。六年夏,千餘騎寇遼東屬國。九年夏,遂分騎數萬人入緣邊九郡,並殺掠吏人,於是復遣張奐擊之,鮮卑乃出塞去。朝廷積患之,而不能制,遂遣使持印綬封檀石槐為王,欲與和親。檀石槐不肯受,而寇抄滋甚。乃自分其地為三部,從右北平以東至遼東,接夫餘、濊貊二十餘邑為東部,從右北平以西至上谷十餘邑為中部,從上谷以西至敦煌、烏孫二十餘邑為西部,各置大人主領之,皆屬檀石槐。 | 14 | 漢患之,桓帝時使匈奴中郎將張奐征之,不克。乃更遣使者齎印綬,即封檀石槐為王,欲與和親。檀石槐拒不肯受,寇鈔滋甚。乃分其地為中東西三部。從右北平以東至遼,東接夫餘、濊貊為東部,二十餘邑,其大人曰彌加、闕機、素利、槐頭。從右北平以西至上谷為中部,十餘邑,其大人曰柯最、闕居、慕容等,為大帥。從上谷以西至燉煌,西接烏孫為西部,二十餘邑,其大人曰置鞬落羅、曰律推演、宴荔游等,皆為大帥,而制屬檀石槐。 | 後漢書には年次などが入りやや詳細であるが、魏書には大人の名前など固有の情報がある。 |
16 | 靈帝立,幽、并、涼三州緣邊諸郡無歲不被鮮卑寇抄,殺略不可勝數。熹平三年冬,鮮卑入北地,太守夏育率休著屠各追擊破之。遷育為護烏桓校尉。五年,鮮卑寇幽州。六年夏,鮮卑寇三邊。秋,夏育上言:「鮮卑寇邊,自春以來,三十餘發,請徵幽州諸郡兵出塞擊之,一冬二春,必能禽滅。」朝廷未許。先是護羌校尉田晏坐事論刑被原,欲立功自效,乃請中常侍王甫求得為將,甫因此議遣兵與育并力討賊。帝乃拜晏為破鮮卑中郎將。大臣多有不同,乃召百官議朝堂。議郎蔡邕議曰:書戒猾夏,易伐鬼方,周有獫狁、蠻荊之師,漢有闐顏、瀚海之事。征討殊類,所由尚矣。然而時有同異,埶有可否,故謀有得失,事有成敗,不可齊也。武帝情存遠略,志闢四方,南誅百越,北討強胡,西伐大宛,東并朝鮮。因文、景之蓄,藉天下之饒,數十年閒,官民俱匱。乃興鹽鐵酒榷之利,設告緡重稅之令,民不堪命,起為盜賊,關東紛擾,道路不通。繡衣直指之使,奮鈇鉞而並出。既而覺悟,乃息兵罷役,丞相為富人侯。故主父偃曰:「夫務戰勝,窮武事,未有不悔者也。」夫以世宗神武,將相良猛,財賦充實,所拓廣遠,猶有悔焉。況今人財並乏,事劣昔時乎!自匈奴遁逃,鮮卑強盛,據其故地,稱兵十萬,才力勁健,意智益生。加以關塞不嚴,禁網多漏,精金良鐵,皆為賊有;漢人逋逃,為之謀主,兵利馬疾,過於匈奴。昔段熲良將,習兵善戰,有事西羌,猶十餘年。今育、晏才策,未必過熲,鮮卑種眾,不弱于曩時。而虛計二載,自許有成,若禍結兵連,豈得中休?當復徵發眾人,轉運無已,是為耗竭諸夏,并力蠻夷。夫邊垂之患,手足之蚧搔;中國之困,胸背之瘭疽。方今郡縣盜賊尚不能禁,況此醜虜而可伏乎!昔高祖忍平城之恥,呂后棄慢書之詬,方之於今,何者為甚?天設山河,秦築長城,漢起塞垣,所以別內外,異殊俗也。苟無瞩國內侮之患則可矣,豈與蟲螘校寇計爭往來哉!雖或破之,豈可殄盡,而方今本朝為之旰食乎?夫專勝者未必克,挾疑者未必敗,眾所謂危,聖人不任,朝議有嫌,明主不行也。昔淮南王安諫伐越曰:「天子之兵,有征無戰。言其莫敢校也。如使越人蒙死以逆執事廝輿之卒,有一不備而歸者,雖得越王之首,而猶為大漢羞之。」而欲以齊民易醜虜,皇威辱外夷,就如其言,猶已危矣,況乎得失不可量邪!昔珠崖郡反,孝元皇帝納賈捐之言,而下詔曰:「珠崖背畔,今議者或曰可討,或曰棄之。朕日夜惟思,羞威不行,則欲誅之;通于時變,復憂萬民。夫萬民之飢與遠蠻之不討,何者為大?宗廟之祭,凶年猶有不備,況避不嫌之辱哉!今關東大困,無以相贍,又當動兵,非但勞民而已。其罷珠崖郡。」此元帝所以發德音也。夫卹民救急,雖成郡列縣,尚猶棄之,況障塞之外,未嘗為民居者乎!守邊之術,李牧善其略,保塞之論,嚴尤申其要,遺業猶在,文章具存,循二子之策,守先帝之規,臣曰可矣。帝不從。遂遣夏育出高柳,田晏出雲中,匈奴中郎將臧旻率南單于出鴈門,各將萬騎,三道出塞二千餘里。檀石槐命三部大人各帥眾逆戰,育等大敗,喪其節傳輜重,各將數十騎奔還,死者十七八。三將檻車徵下獄,贖為庶人。 | 15 | 至靈帝時,大鈔畧幽、并二州。緣邊諸郡無歲不被其毒。熹平六年,遣護烏丸校尉夏育,破鮮卑中郎將田晏,匈奴中郎將臧旻與南單于出鴈門塞,三道並進,徑二千餘里征之。檀石槐帥部衆逆擊,旻等敗走,兵馬還者什一而己。 | 後漢書が大いに詳細。 |
17 | 冬,鮮卑寇遼西。光和元年冬,又寇酒泉,緣邊莫不被毒。 | | | 魏書になし。 |
18 | 種眾日多,田畜射獵不足給食,檀石槐乃自徇行,見烏侯秦水廣從數百里,水停不流,其中有魚,不能得之。聞倭人善網捕,於是東擊倭人國,得千餘家,徙置秦水上,令捕魚以助糧食。 | 16 | 鮮卑衆日多,田畜射獵,不足給食。後檀石槐乃案行烏侯秦水,廣袤數百里,停不流,中有魚而不能得。聞汗人善捕魚,於是檀石槐東擊汗國,得千餘家,徙置烏侯秦水上,使捕魚以助糧。至于今,烏侯秦水上有汗人數百戶。 | 後漢書は倭人、魏書は汗人となる。内容的に類似。 |
19 | 光和中,檀石槐死,時年四十五,子和連代立。和連才力不及父,亦數為寇抄,性貪淫,斷法不平,眾畔者半。後出攻北地,廉人善弩射者射中和連,即死。其子騫曼年小,兄子魁頭立。後騫曼長大,與魁頭爭國,眾遂離散。魁頭死,弟步度根立。自檀石槐後,諸大人遂世相傳襲。 | 17 | 檀石槐年四十五死,子和連代立。和連材力不及父,而貪淫,斷法不平,衆叛者半。靈帝末年數為寇鈔,攻北地,北地庶人善弩射者射中和連,和連即死。其子騫曼小,兄子魁頭代立。魁頭旣立後,騫曼長大,與魁頭爭國,衆遂離散。魁頭死,弟步度根代立。自檀石槐死後,諸大人遂世相襲也。 | 記述内容にわずかに出入りがあるほか、記述順に若干差があるが、用語レベルで一致。 |
通番 | 後漢書記事 | 三國志 | 差分と備考 |
記載順 | 記事 |
20 | | 1 | 步度根旣立,衆稍衰弱,中兄扶羅韓亦別擁衆數萬為大人。建安中,太祖定幽州,步度根與軻比能等因烏丸校尉閻柔上貢獻。後代郡烏丸能臣氐等叛,求屬扶羅韓,扶羅韓將萬餘騎迎之。到桑乾,氏等議,以為扶羅韓部威禁寬緩,恐不見濟,更遣人呼軻比能。比能即將萬餘騎到,當共盟誓。比能便於會上殺扶羅韓,扶羅韓子泄歸泥及部衆悉屬比能。比能自以殺歸泥父,特又善遇之。步度根由是怨比能。文帝踐阼,田豫為烏丸校尉,持節并護鮮卑,屯昌平。步度根遣使獻馬,帝拜為王。後數與軻比能更相攻擊,步度根部衆稍寡弱,將其衆萬餘落保太原、鴈門郡。步度根乃使人招呼泄歸泥曰:「汝父為比能所殺,不念報仇,反屬怨家。今雖厚待汝,是欲殺汝計也。不如還我,我與汝是骨肉至親,豈與仇等?」由是歸泥將其部落逃歸步度根,比能追之弗及。至黃初五年,步度根詣闕貢獻,厚加賞賜,是後一心守邊,不為寇害,而軻比能衆遂彊盛。明帝即位,務欲綏和戎狄,以息征伐,羈縻兩部而已。至青龍元年,比能誘步度根深結和親,於是步度根將泄歸泥及部衆悉保比能,寇鈔并州,殺略吏民。帝遣驍騎將軍秦朗征之,歸泥叛比能,將其部衆降,拜歸義王,賜幢麾、曲蓋、鼓吹,居并州如故。步度根為比能所殺。 | 後漢書になし。 |
鮮卑伝比較まとめ |
民族記述 | 通番1から6は鮮卑の地理産物社会制度風俗など、民族に関することが書かれています。後漢書の記事と魏書の記述を比較すると、記述順に差がありますが、ほぼ用語レベルの対応があります。後漢書の内容に対応する記述が魏書にありますが、後漢書は地理の情報を欠きます。三国志には対応する記述はありません。 |
桓帝まで | 後漢書が詳細ですが、通番15の魏書に大人の名前があるなど、多少の情報の出入りがあります。三国志には対応する記述はありません。 |
霊帝まで | 後漢書が圧倒的に詳細です。通番13では後漢書は倭人、魏書は汗人とします。三国志には対応する記述はありません。 |
献帝以降 | 後漢書にありません。魏書の引用はありません。三国志にのみ記事があります。 |
後漢書烏桓鮮卑列伝の両族伝に対する比較表は、項目をクリックすると表示されます。
両民族の比較表の最後に、記述内容を地理・生業・風俗・言語等の記述を民族的記述とし、歴史に関する記述を、前漢時代、桓帝までの後漢時代、霊帝の時代、に分けてまとめました。
まず民族的記述について、全体をまとめてみることにします。
民族的記述については、後漢書烏桓鮮卑列伝の記述に対応するものは、王沈魏書にあります。
後漢書固有の記述はなく、王沈魏書にあって後漢書にない情報があります。
両者の記載順もほとんど一致していますが、比較表は王沈魏書の記述順を後漢書に合わせて比較しています。
後漢書と王沈魏書の記述が共通している場合には、後漢書の記述が略記になっています。
つぎに歴史記述について見てみます。
前漢時代について見てみますと、後漢書には史記・漢書にも見えない記事が見えます。
後漢桓帝時代までは、三国志に記事はなく、魏書との比較では後漢書の歴史記述が詳細ですが、内容的に出入りがあります。
霊帝までについては烏桓伝と鮮卑伝に差があり、烏桓伝では魏書になく三国志との比較では後漢書がやや詳しいです。
鮮卑伝については魏書に霊帝までの引用があり、後漢書と比較すると後漢書が圧倒的に詳細ですが、一部の記述に出入りがあり、檀石槐が捕らえた民族名に倭人と汗人の違いがあります。
これについては、王沈の魏書が原型に近いと考えます。
東擊倭人國
献帝以降は両伝とも魏書からの引用はなく、後漢書鮮卑伝には記述がありません。
また後漢書烏桓伝と三国志烏桓伝では、建安十一年より前では後漢書がやや詳しいですが、登場人物やその記載方法などに差があります。
後漢書の建安十二年の記事だけ三国志が詳細で、文末に「伝」がついています。
6.後漢書烏桓鮮卑列伝についての考察
両伝の民族的記述を見ると、ほぼ用語的に対応することから、共通の原史料があると思われます。
内容的には魏書が詳しいことから、魏書が後漢書の原史料とも言えるわけですが、ここで烏桓鮮卑列伝の冒頭に、東観漢記に習俗や前史が記録されていると書かれていることを考慮すると、この民族記事も東観漢記を共通の原史料としていると考えられます。
なぜ裴松之註は東観漢記を用いなかったか不思議ですが、裴松之註には一か所も東観漢記が引かれておらず、理由は不明ですが方針によるものと思われます。
このことは、なぜ范曄が東観漢記を主な原史料とし、すでに多く存在している後漢の史書を編纂しようとしたのかに関連する可能性があります。
范曄が後漢書の編纂を思い立ったという元嘉9年は、裴松之が皇帝の命をうけ三国志に註を付けた元嘉6年の、わずかに三年後のことになります。
前漢時代の歴史記述を見ると、後漢書には史記・漢書に見えない記述が見えます。
後漢時代の桓帝までは、両伝とも後漢書が大いに詳しいですが、情報的には出入りがあり、用語的な対応もあるため、やはり共通の原史料に基づき、それぞれ別に編纂を受けたものと思われます。
霊帝の時代については、烏桓は三国志との比較になりますが、両者とも桓帝の時代と同じように、同じ原史料からの別編纂と思われます。
三国志と魏書の引用が、時代的に重ならないのは、三国志が記載しなかった部分を、魏書で補ったためであるとおもわれます。
献帝の時代については、後漢書鮮卑伝には記事がありません。
烏桓伝については建安十二年までは、霊帝までと同じ状況ですが、建安十二年の曹操による蹋頓討伐の記事では三国志の記述が詳細で、後漢書には文末に「伝」とあります。
東夷伝の状況と比べると、少なくとも建安十二年の前までの歴史については、両伝とも東観漢記に原史料があった可能性があります。
東観漢記について調べると、隋書經籍に「東観漢記一百四十三卷起光武記注至霊帝,長水校尉劉珍等撰。」とあって、東観漢記はそもそも霊帝までとなっています。
しかし清の四庫全書総目提要に、「隋志又稱是書起光武。訖靈帝。今考列傳之文。閒紀及獻帝時事。蓋楊彪所補也。」とあり、列伝には楊彪が献帝の時代まで記録したものがあったようです。
このことから東観漢記の両伝に、献帝の建安十二年の前までの歴史記録があったとしてもよいと思われます。
三国志は東観漢記との記述の重複を避け、鮮卑伝ではそれ以降の歩度根の記事から記述を始めたのでしょう。
しかし烏丸については、早くから袁紹と通じて後漢の政争に関わり、ついに曹操の討伐を受けることになった蹋頓に触れる必要があったため、その前史として霊帝の時代の記事から書き写したと思われます。
三国志烏丸鮮卑伝冒頭に、漢記に習俗や前史が書かれているとするのは、上述したような東観漢記烏丸鮮卑列伝の状況をあらわしたものであると考えられます。
東夷列伝と烏桓鮮卑列伝のこの違いの原因は、東夷諸族は楊彪が関わった建安年間には、すでに公孫氏の割拠で絶域になっていたのに対して、烏桓や鮮卑は後漢の政治中枢とずっと交渉を保っていたことが原因であると思われます。
7.後漢書東夷列伝および烏桓鮮卑列伝の史料的価値
後漢書烏桓鮮卑列伝については、現存しない同時代史書の東観漢記を引いており、民族的記述や後漢代の建安年間初期の歴史などについては、大きな史料的価値があると思います。
後漢書東夷列伝においては、後漢代の桓帝までの歴史に関しては、同じく東観漢記を引いており、史料的価値は高いと思われます。
ただそれ以外については、高句麗伝の王莽時代の歴史記述や、東夷伝における三国志の民族記事の取り扱いなどをみると、三国志や史記・漢書などとの整合性をよく見る必要があると思われます。
後漢書は原史料を改変したり、原史料にない記事を作文している可能性があるのです。
ここではまず烏桓伝の前漢時代の記事に見える、霍去病が匈奴の左地を破った際に、烏桓を五郡の塞外に置いて、匈奴の動静を探らせた話を取り上げます。
霍去病のこの勝利は、紀元前119年の話ですが、烏桓の話は史記・漢書に見えないものなのです。
烏桓の行動が史書に最初に現れるのは、漢書にみえる紀元前78年の范明友による討伐の話になります。
しかもこの話は、烏桓が匈奴の単于の墓をあばき、それに対して匈奴が報復したことが発端とされています。
匈奴の単于の墓をあばいたのは、匈奴の支配下にあった烏桓が、独立を試みた事であると思われますから、烏桓の民族名が広く認識されるのは、そこからそれほど遡らない時期であると思われます。
烏桓については史記貨殖列傳に見える、燕にたいする記述「北鄰烏桓、夫餘,東綰穢貉、朝鮮、真番之利。」が、史書における初見です。
これをもってしばしば烏桓が戦国時代から知られていたとされることがありますが、貨殖列傳は戦国時代から書き起こしているものの、この文章は「漢興,海內為一」という一文のあとにくるもので、明らかに漢代の話です。
史記は司馬遷の父の代から編纂が始まっているのですが、歴代富豪の話を集めた貨殖列傳がそれほど古くから編纂されていたとは思われず、また内容的に今風に言えば自由経済礼賛で、当時の武帝の政策に対して批判的な内容となります。
父の事業を引き継いだという段階ではなく、司馬遷が武帝の怒りにふれて宮刑に処せられ、発覚すれば殺害される事を覚悟で、史書編纂に人生を賭けた時期に書かれたと考えるのが妥当でしょう。
すなはち烏桓という民族名が、歴史上に浮上してくるのは紀元前一世紀のことなのです。
後漢書の記事が根も葉もない話であるとは断定できません。
漢代史書から記録に漏れた出来事である可能性はあります。
しかしおそらくアヴァール(紀元前の烏桓の音価)という民族名を持つ、匈奴の支族が降伏した程度の認識であったでしょう。
ましてや後漢書に見えるように、護烏桓校尉などという役人が置かれたとは考えられないのです。
実際に漢書百官志にはその名がありますが、続漢書百官志にはないのです。
後漢書にはその後光武帝の時代に、再び護烏桓校尉をおいたとの記録があり、その記録が紛れ込んだのでしょう。
もう一つの例をみてみましょう。
後漢書には王莽が匈奴を討つため十二部の軍を興し,東域将の厳尤に烏桓・丁令の兵を率いて代郡に駐屯させたとあります。
しかし漢書では、厳尤は十二部の内の一つ討穢将軍で、漁陽から出発しており、代郡から出発したのは振武将軍王嘉と平狄将軍王萌です。
明らかな食い違いがあり、しかも全体の話の筋に、王莽伝の高句麗の話題に似たところがあります。
王莽が匈奴を討つために、三十万の軍を動かしたとすると、その中に烏桓が含まれていたことは当然ありうると思います。
しかし王莽伝に登場する厳尤に関連して食い違いがあるところから、本来の出来事では烏桓は厳尤の配下では無かったのでしょう。
この話は漢王朝の記録にあったのではなく、口伝されたものを後の時代に文書化したものと思います。
口伝は文書化されたものよりも変容しやすく、一方に文書化された王莽伝があったため、それに引きずられたものだと思います。
烏桓が動員され、逃げ出したという事件はあったかもしれませんが、後漢書のこの記述の細部については、信頼性に劣る物であると思います。
もう一つが高句麗伝の前漢時代の記事に見える、高句麗県の成立した時代を、武帝の朝鮮討伐に絡めているう記述です。
高句麗県が武帝の時代に成立したことは、後漢書にのみ見える記事ですので、これを一端保留するとどのようなことが言えるかを考えてみます。
すでに述べたように史記貨殖列傳には、燕にたいする記述「北鄰烏桓、夫餘,東綰穢貉、朝鮮、真番之利。」があります。
ここに見える夫餘は、三国志には古の亡命者としてあり、濊城があってかっては濊貊地であるとしています。
しかも濊王之印という印を持っているというのですが、王朝名を伴わない印面の特徴から、これは前漢時代の印で、濊が王印をもらうような出来事は、薉君南閭が投降して、そのあとに蒼海郡が立てられた事件ぐらいです。
蒼海郡は紀元前126年に廃止され、そのあとに夫餘が国を建てたとすると、建国はそれ以降となります。
同じ記事に見える烏桓の独立も、仮にすでに批判した後漢書の記事を正しいとしても、紀元前119年以降になることにも整合します。
実際には史記貨殖列傳は、おそらく司馬遷の晩年の記述でしょうから、紀元前一世紀の初めごろには、まだ高句麗という民族名は一般的ではなく、穢貉として扱われているのです。
ここで三国志の東沃祖伝をみると、武帝が四郡を置いた時には、沃沮城を玄菟郡としたとあり、その後三世紀の高句麗丸都城の西北に移動し、そこもまた以前の玄菟府であるとしています。
つまり玄菟府は最初沃沮城にあり、その後移動したが三国志の時代には、そこからまた移動しているということです。
そして前漢末ごろの状況を示すとされる漢書地理志、および後漢順帝の時代の状況を示すとされる、続漢書郡国志によれば、高句麗県を郡治とし、双方とも「高句驪遼山,遼水出。」とありますから、漢代には同じ位置にあったことが分かります。
ここで玄菟郡治がいつ沃沮城から高句麗県に移動したのかを見ると、漢書昭帝紀元鳳六年(紀元前75年)に、遼東玄菟城を築いたという記事があるのです。
これは漢書地理志の高句麗県であることになり、高句麗県はこの時に作られた可能性が高いのです。
それ以前に高句麗県があり、移設されたとする根拠は後漢書だけで、しかももし高句麗県ができたのが、紀元前75年なら、史記に高句麗の名が出てこないことが自然に理解できるのです。
東沃祖伝には玄菟郡治を移動した理由として、夷貊が侵したためであるとします。
この夷貊は高句麗のことであるとの説がありましたが、同一文内で高句麗と使い分けていることから無理な解釈で、むしろその時代にはまだ高句麗という民族名が成立していなかったことの現れであると考えられます。
高句麗は穢貉の一部の人びとが、新たな玄菟郡治設置に伴って、その属民として政治的に結集したものが起源であると思われます。
このように見ていくと、前漢時代の歴史に関しては後漢書はあくまで後世史料として扱うべきものと思います。
後漢書東夷伝の記述を歴史書として評価する場合は、おそらく東観漢記の記述によって書かれた、後漢代の桓帝までの歴史に限るのが安全で、それ以外に関しては、事実無根とは言わないまでも、注意深く扱うべきものと考えます。
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