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神功紀分析

―古墳中期の王政について―

1.はじめに

私は継体欽明朝の秘密において、隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文をもとに日本書紀再編纂仮説という仮説をまとめました。さらにその仮説に基づき雄略紀の分析と、倭の五王によって、宋書に記録された倭の五王を比定しました。ここ仮説は日本書紀紀年論に一つの視点を開くものと思います。すなはち古代日本の天皇制について、祭祀を司る夜の王と実務を行う昼の王があり、多くの場合昼の王についたのち、最高位の夜の王につく様式があったとしました。この夜の王が後の天皇位につながるものです。そして日本書紀原史料となった、各氏族の伝承において、昼の王に即位してのちの記録を天皇位に就いて後のことのように伝え、このことが紀年の混乱になっていると考えました。 ただ昼の王夜の王という仮説的制度については、概ね允恭紀以降には妥当であると思われるものの、それ以前に関してはいまだ検証が不十分であると考えます。 そこで本稿では、中期古墳時代の王政に関してこの仮説を検証するために、ここまで見てきた応神仁徳から允恭までの考察に、神功紀を加えてみようと考えます。

2.神功紀について

神功紀は概ね二つの部分に分解できるようです。
   前半.摂政前紀から摂政十三年
   後半.摂政三十九年以降

前後半の間には二十六年の空白がある上に、三十九年、四十年、四十三年は三国志の引用で実質的な後半の始まりは、四十六年の斯摩宿祢を卓淳国に遣わした話になります。 以降は百済記をもとに立たと思われる、百済との交流の話があり、基本的に百済記の干支を二運、一部三運引き上げてはありますが、暦年を追うことが可能であり、七枝刀の話など、倭国の半島進出の歴史的端緒を記したものとして、歴史的議論の的になる部分です。 途中新羅や任那が話題になることはありますが主線ではありません。

一方の前半部分はほぼ古事記の仲哀記の記述に重なり、神功伝説のコアの部分であるといえます。 半島との関わりという意味では、新羅を攻撃する三韓征伐をメーントピックの一つとしたもので、後半部分との間に大きな落差があります。 つまり神功紀は半島との関わりの始まりとして、伝説的な前半部分と、百済記を史料として何らかの歴史的事件を語ったと思われる後半部分の二重の語りになっているわけです。

そこでまずあまり歴史議論の対象になっていない、前半部分に注目します。 前半部分にも古事記との異同がありますが、おおむね羽白熊鷲の話題など日本書紀固有の話題が追加されている構造になっています。 この追加された情報の中には、古事記の神話的な三韓征伐に、追加された情報もあります。 この中にいくつか新羅の人名が含まれており、三国史記の登場人物と比較できるものがあります。 本文および別伝に下記のような人物があげられています。

神功紀三国史記人名対照表
日本書紀三国史記
波沙寐錦婆娑尼師今
微叱己知波珍干岐/微叱許智伐旱未斯欣
汙禮斯伐于老?
毛麻利叱智堤上
宇流助富利智干(別伝)于老

また別伝では、倭軍が新羅の王を殺したところ、その妻が倭国の役人を殺して復習した話が出てきますが、三国史記に于老にまつわる話として、同様の話が出てきます。 この中では、三国史記に堤上が倭国の人質であった未斯欣を救い出す話があり、日本書紀にも毛麻利叱智が微叱許智伐旱を救い出す話が有って、食い違う部分もありますが、何らかの背景になる事件があったことをうかがわせます。 微叱許智伐旱と同一人物と思われる微叱己知波珍干岐は、前半部分の神功の新羅攻撃の際に、波沙寐錦が人質に出した人物です。

三国史記の年表では、婆娑尼師今は一世紀末から二世紀初、未斯欣は四世紀後半から五世紀初に在位した奈勿尼師今の子、于老は二世紀末から三世紀初に在位した奈解尼師今の子、堤上は五世紀初に活躍した人物で、時代的にバラバラになっています。 しかし注意すべきは、一番古い婆娑尼師今は朴氏、二番目に古い奈解尼師今と于老は昔氏、一番新しい未斯欣と堤上は金氏なのです。 この三氏は本来は同時平行で存在したとの説があり、もしかしたら年代的な矛盾はないかもしれません。

そこで三国史記と伝承的に一致度の高い、未斯欣の伝承に注目すると、この話の時代は五世紀初めとなり、高寛敏氏によれば三国史記の記述に歴史性を認めることができる時代であることになります。 微叱許智伐旱の帰国に関して、葛城襲津彦が新羅を攻撃し、四邑漢人を連れ帰った伝承があり、この人々の子孫が干支を含む史料を残した可能性があります。 その年代をみると、418年戊午の年であることがわかります。

ここで三国史記新羅本紀の紀年について注意すべきことがあります。 好太王碑の紀年における干支と、三国史記の同じ出来事を記録した干支が、一年ずれていることは良く知られています。  すなはち、好太王の即位年は、碑文では辛卯年ですが、三国史記ではその次の壬辰となっているのです。

干支というのは、本来は天空上の木星の位置に基づくもので、木星の周期は十二年弱ですから、次第にずれてきます。 そのため一定の期間で干支は一つずらす必要があります。 しかし前漢の太始二年に、現在の干支にずらして以降は、そのような調整は行われなくなり、現在に至っています。 そのため古い暦をそのまま使っている場合には、干支がずれる現象が発生します。

好太王碑の紀年はそのような古い暦をそのまま使用しているため、一年のずれがあることを、友田吉之助氏が見出しました。 実はずれがあるのは、好太王碑だけではなく、古い碑文類や一部の日本の文献にもみられるということです。

三国史記については、中国史書との突合せを行ったのか、干支の記録は概ね現在のものとあっています。 例えば三国史記の百済本紀をみると、腆支王十二年に東晉安帝遣使とあり、これは三国史記年表によると丙辰の年であり、晋書に見える義熙十二年丙辰の朝貢記事にあっています。 日本書紀に見える、百済記、百済新選、百済本記などの干支も、概ねあっているようです。 しかし何かのはずみで、一年ずれの記録が入ってきていることも、予期しておくべきでしょう。

特に注意すべきは、四~五世紀の新羅本紀の干支です。 例えば新羅本紀、奈勿尼師今二十六年の辛巳の年に、前秦の苻堅に朝貢した話が書かれていますが、これは太平御覧に見える秦書には、辛巳の次の壬午年のこととなっています。 また新羅本紀慈悲麻立干十七年、三国史記年表で甲寅年に百済漢城落城の記事がありますが、高句麗本紀では長寿王六十三年、百済本紀では蓋鹵王二十一年、三国志記年表ではいずれも甲寅年の次の乙卯年となり、日本書紀に引く百済記でも同じく乙卯年です。

このように、四~五世紀の新羅本紀の紀年は注意することが必要で、この時期の新羅本紀紀年については、干支を一つ後ろにずらして考えないといけないようです。 そのため418年戊午の年は、419年己未の歳と見なすのが良いでしょう。

3.神功紀の成り立ち

ここで前半部分の最後の年である摂政十三年をみると、この宴の記録は仲哀記の最後に見える、皇太子応神の成人の宴と内容的に共通するものであることがわかります。 そして前節でみたように、摂政五年の微叱許智伐旱の帰国を新羅本紀の未斯欣の帰国に対応するとすると、摂政十三年は427年丁卯の年となります。 古事記崩年干支では仁徳崩年が丁卯です。 倭の五王では、履中と反正の崩年干支はある程度信頼できるのではないかという見通しを述べましたが、仁徳の崩年は何らかの権力移譲の伝承であった可能性があり、履中の何らかの地位への即位に関連するものであった可能性があるのです。 実際履中の古事記崩年干支に従って、日本書紀履中紀の在位年六年を遡ると、その即位年の干支は丁卯となり、三者が一致することになります。 つまり氏族史料にあったこの摂政十三年の成人の宴は、応神のものでなく履中のものものであったと思われます。 実際神功紀摂政三年の応神立太子記事の磐余宮に若櫻の宮とする註があり、神功紀摂政六十九年の崩御記事には本文に若櫻の宮とあります。 履中の宮は記に伊波礼若桜宮、紀に磐余稚櫻宮となっており、記紀に数多くの宮が表れても、宮伝承についてついてこれほどに一致する例はほかに見えません。

日本書紀神功紀元年から十三年に記録された、氏族の伝えた四世紀末から五世紀初めの新羅攻撃の伝承は、時代的に好太王碑に見える、391年辛卯の年以来倭が海を渡って攻めてきたという記述にも合致するので、何らかの背景があるものと思われます。 一方古事記の神功と皇太子の話は、おそらく日本書紀編纂時には確立しており、日本書紀編纂者のもとには、すくなくともそれと似通った本来履中に関連する伝えがあったと思われます。 その氏族の伝承に、皇太子の名まえが伝えられていなかったため、同一視されたのでしょう。

応神の崩年が阿知使主の呉からの帰国、430年庚午の年であり仁徳紀即位五十八年と同じ時であるとすると、この時期応神仁徳と別に王的存在がいたことになります。 実際のところ上述四邑漢人について、新撰姓氏録では仁徳朝の来朝となっているのです。 古代の天皇制の形態は、かなり複雑なものであり、神功紀後半の王的存在と合わせて、記紀の王統譜に当てはまらない存在が多数あったことを思わせます。 そしてそれは、この古墳中期に天皇の数を超える大古墳があることとも合致するのです。 伝承を伝えた氏族の立場に立てば、自分たちの祖先の伝承は、八世紀段階で出来るだけ著名な存在の伝承として伝えたほうが、朝廷内で有利な立場を得ることができるでしょう。 山尾幸久氏によれば、神功紀には那珂通世以来通説となっている、干支の二運百二十年引き上げられた記事だけでなく、三運百八十年引き上げられた記事が存在するとします。 すなはち氏族の伝えた、祖先の女王的存在に仕えた複数の記録が、神功紀に流れ込んでいると思われます。

仁徳五十八年と応神四十一年は同じ庚午の年ですが、このようになるためには両者の間隔が一運離れることが必要です。 仁徳の五十八年までには、空位年二年を含めて六十年になるように調整されているはずですが、事績空白期間などの明白な引き延ばしの痕跡は今のところ見えず、何らかの別の王的存在の伝承の挿入があると思われます。 神功紀は古代の日本の王政に、多頭的性格があった事を暗示すると思に、日本書紀の天皇紀に、どのように複数の王的存在の記録が流れ込んだかの、一例を示しているのではないでしょうか。

関連する年表をまとめたものを下記に示します。 神功/仲哀の欄には、赤字で書いた部分と青字で書いた部分があります。 全体に日本書紀の紀年を二運百二十年引き下げてあるのですが、青字の部分はさらに一運引き下げたところにも、同じ内容を書いてあります。 また神功即位元年から十三年までは、事績を赤字で表記してあり、新羅本紀の未斯欣の記事から求められた位置にも、記事を重複して書いてあります。

倭の五王関連対照表
数字は日本書紀の記事の即位年
ここでは神功応神の紀年を干支の二運引き下げ、仁徳の紀年を干支の一運引き下げ、履中の崩御年を古事記崩年干支とした
ただし仁徳の崩御を陵墓地選定記事の67年とした
西暦干支仲哀/神功応神(讃)仁徳(?+珍)履中/允恭三国史記
百済本紀
三国史記
新羅本紀
古事記崩年
310庚午成務崩御比流王
7
訖觧尼師今
1
311辛未空位年82
312壬申仲哀
1
93
313癸酉2104
314甲戌3115
315乙亥4126
316丙子5137
317丁丑6148
318戊寅7159崇神
319己卯81610
320庚辰
9
二月、仲哀崩御
十月、新羅征伐
十二月、応神誕生

17
11
321辛巳神功
1
十月、摂政になる
1812
322壬午21913
323癸未3
正月、譽田別立太子
磐余(若櫻宮)に都する
2014
324甲申42115
325乙酉5
三月、新羅が朝貢
その後使者が襲津彦を欺く
略微叱許智伐旱逃げ帰る
襲津彦が新羅を攻撃
2216
326丙戌62317
327丁亥72418
328戊子82519
329己丑92620
330庚寅102721
331辛卯112822
332壬辰122923
333癸巳13
二月、角鹿笥飯大神に行く
帰って宴を催す
3024
334甲午14Λ






































V
3125
335乙未153226
336丙申163327
337丁酉173428
338戊戌183529
339己亥193630
340庚子203731
341辛丑213832
342壬寅223933
343癸卯234034
344甲辰2441
契王
1
35
二月、倭國遣使請婚
345乙巳25236
二月、倭王移書絶交
346丙午263
近肖古
1
37
倭兵猝至風島
347丁未27238
348戊申28339
349己酉29440
350庚戌30541
351辛亥31642
352壬子32743
353癸丑33844
354甲寅34945
355乙卯351046三月、成務
356丙辰361147
奈勿尼師今
1
357丁巳37122
358戊午38133
359己未39
魏志云、景初三年
144
360庚申40
魏志云、正始元年
155
361辛酉41166
362壬戌42177六月、仲哀
363癸亥43
魏志云、正始四年
188
364甲子44199
四月、倭兵大至
王聞之恐不可敵
365乙丑452010
366丙寅46
斯摩宿禰が卓淳で
百済の倭国朝貢希望を聞く
肖古王の使者賀来る
2111
367丁卯47
百済と新羅の使者
新羅が百済の朝貢品を奪う
千熊長彥新羅を譴責
2212
368戊辰482313
369己巳49
三月、荒田別と鹿我別
木羅斤資と共に任那七国平定

肖古王と貴須王子来る
四邑が降る
百済王父子意流村で
荒田別と木羅斤資に合う

辟支山と古沙山で
千熊長彥と誓い
2414
370庚午50
二月、荒田別等が帰る
五月、千熊長彥百済に
2515
371辛未51
三月、百済使者
千熊長彥百済に
2616
372壬申52
千熊長彥等七支刀献上
2717
373癸酉5312818
374甲戌5422919
375乙亥55
肖古王薨
330
近仇首王
1
20
376丙子56
貴須王立
4221
377丁丑575322
378戊寅586423
379己卯597524
380庚辰608625
381辛巳619726
382壬午62
新羅不朝
襲津彥に新羅を討たせる
10827
383癸未6311
新羅人朝貢
928
384甲申64
貴須王薨、枕流王立
12
七月、高麗国鉄盾と鉄的を献上
29
枕流王
1
29
385乙酉65
枕流王薨
王子阿花年少
叔父辰斯、王位を奪う
132
辰斯王
1
30
386丙戌6614231
387丁亥6715332
388戊子6816433
389己丑69
四月、稚櫻宮で崩御
17
新羅不朝貢
九月、砥田宿祢等が詰問
その後新羅朝貢
534
390庚寅118635
391辛卯219736
392壬辰3
辰斯王に礼なく
殺害して阿花王立てる
208
阿莘王
1
37
393癸巳421238
五月、倭人來圍金城
394甲午522
正月、八田皇女を妃に
339九月、応神
395乙未623440
396丙申7
九月、高麗百済任那新羅來朝
24541
397丁酉8
三月、百済使者
百済記:直支を質に
256
五月、太子腆支を倭国の質に
42
398戊戌926743
399己亥1027844
400庚子1128945
401辛丑12291046
402壬寅133011
五月、倭国へ遣使
47
實聖尼師今
1
三月、未斯欣を倭の人質に
403癸卯14
二月、百済王縫衣工女を献上
葛城襲津彥を加羅に
三年帰らず
31
正月、履中立太子
12
二月、倭国から使者
2
404甲辰15
八月、百済王阿直伎と馬献上
32133
405乙巳16
二月、王仁來
阿花王薨、直支王を立てる
木菟宿禰等新羅を討つ
葛城襲津彥帰る
3314
腆支王
1
倭王が兵士五百人で送還
4
四月、倭兵來攻明活城
406丙午173425
407丁未183536
三月、倭人侵東邊
408戊申193647
二月、対馬攻撃を計画
409己酉20
九月、阿知使主等来朝
375
倭国へ遣使
8
410庚戌213869
411辛亥2239710
412壬子2340811
413癸丑2441
三月、百済王
酒君を襲津彥に渡す
912
414甲寅25
直支王薨、久爾辛立
木滿致が國政を執る
(蓋鹵王時代の記録の誤)
421013
415乙卯1
十月、摂政になる
2643
百舌鳥野の地名説話
(酒君の話)
1114
遣使倭国
八月、與倭人戦於風島
416丙辰227441215
417丁巳3
正月、譽田別立太子
磐余(若櫻宮)に都する
28
九月、高麗王遣使朝貢
451316
訥祗麻立干
1
418戊午42946142
秋、未斯欣が堤上の計略で
倭國より逃げ還る
419己未5
三月、新羅が朝貢
その後使者が襲津彦を欺く
略微叱許智伐旱逃げ帰る
襲津彦が新羅を攻撃
3047153
420庚申631
新羅使者の船から失火
五百艘の船が焼ける
新羅王が工人を送る
4816
乆厼辛王
1
4
421辛酉7324925
422壬戌8335036
423癸亥9345147
424甲子10355258
425乙丑113653
新羅不朝貢
五月、竹葉瀬に討たせる
69
426丙寅426年正月の政変で讃が倭国王になる?正月、難波の宮炎上
阿知使主等に助けられる
711
1237
二月、阿知使主等呉へ向かう
道に迷い高麗人の案内で朝貢
54
427丁卯13
二月、角鹿笥飯大神に行く
(磐余若櫻宮に)帰って宴を催す
38551
二月、磐余稚桜宮で即位
四月、阿曇連浜子に罰
七月、黒媛を皇妃に
8
毗有王
1
12八月、仁徳
428戊辰39
直支王(毗有王の誤)の妹
新齊都媛来る
562
十月、磐余に都
重臣を指名する
(阿知使主不在)
2
二月、倭國使至、從者五十人
13
429己巳49
三月、荒田別と鹿我別
木羅斤資と共に任那七国平定
百済王父子意流村で
荒田別と木羅斤資に合う
40573314
430庚午50
二月、荒田別等が帰る
41
二月、崩御
是月、阿知使主等帰国
58
五月、荒陵の話題
十月、呉と高麗の使者
4
八月、諸国に国史を置く
414
431辛未51
595515
四月、倭兵来侵東辺
432壬申52
60
十月、白鳥陵の話題
空陵の墓守について
6
正月、蔵職を建て蔵部を定める
(古事記に阿知直を蔵官)
三月、崩御
616正月、履中
433癸酉53
61允恭
1
717
434甲戌54
622818
435乙亥55
633919
436丙子56
644
九月、盟神探湯で氏姓を正す
1020
437丁丑57
655
七月、反正の喪
1121七月、反正
438戊寅58
6661222
439己卯59
67
十月、陵墓地選定記事
7
十二月、新室の祝い
衣通郎姫を妃にする
1323
440庚辰60
6881424
倭人侵南辺
441辛巳61
6991525
442壬午62
新羅不朝、襲津彥に新羅に派遣
百済記:新羅でなく加羅を滅ぼす
木羅斤資により回復
70101626

4.仲哀即位年について

前節で述べたように、神功紀摂政即位年以下十三年までは、本来五世紀初頭に下る、何らかの氏族の伝えた、履中の摂政を務めたような女王的人物に対する奉仕の記録を、八世紀における著名な女王である、神功の記録としたものであると思われます。 問題は何故この記録が現在の紀年に配当されたかです。 三国史記の未斯欣の記事と、神功紀即位五年の略微叱許智伐旱の記事からは、新羅本紀の紀年のずれを考慮すれば己未となります。 これからすると、即位年の干支は乙卯となるはずですが、現日本書紀では辛巳年に配当されているのです。 本来の位置とは三十四年ずれていることになります。 そして即位十三年から三国志関連記事を除けば、三十二年も実質事績のない期間があります。 神功摂政即位年は、干支ではない何か別の理由で、配当されたことが分かります。

その理由として明確にわかるものはありません。 しかし日本書紀神功紀以前の、天崩御年と在位年には、明らかな作為の形跡があります。 もちろんこれまで見てきたように雄略以後のα群も、神功紀までのβ群にも操作はされています。 両者とも氏族伝承に現れた記録から、天皇の並列在位の問題を解消するために、α群は百済系史料の干支以外を無視し、β群では干支を一周60年一運の単位でずらして対応していました。  しかし神功紀より前になると、下記の表のようにもっと観念的な設定があった可能性を疑わせます。

天皇即位年没年在位年
天皇名即位年干支没年干支在位年
神武辛酉丙子76
空位丁丑己卯3
綏靖庚辰壬子33
安寧癸丑庚寅38
懿徳辛卯甲子34
空位乙丑乙丑1
孝昭丙寅戊子83
孝安己丑庚午102
孝霊辛未丙戌76
孝元丁亥癸未57
開化甲申癸未60
崇神甲申辛卯68
垂仁壬辰庚午99
景行辛未庚午60
成務辛未庚午60
空位辛未辛未
仲哀壬申庚辰
神功辛巳己丑69
応神庚寅庚午41
空位辛未壬申
仁徳癸酉己亥87
履中庚子乙巳
反正丙午庚戌
空位辛亥辛亥
允恭壬子癸巳42
安康甲午丙申

垂仁から応神までの六代の内、四人の没年の干支が庚午であり、開化から成務までの五代の内三人の在位年が、干支の一運にあたる六十年になっています。 何らかの作為があったと思われます。 仲哀の即位前に一年の空位がありますが、これは仲哀の崩御の年の年齢と合わないとされており、一年の空位がないとするとあってくることが分かっています。 これは干支を壬申に調整したためであると思われ、仲哀末年に起こった政変を、壬申の乱にかけたものではないでしょうか。

仲哀紀以降の紀年のあり方の変化は、ここまで大いに頼りにしてきたと思われる、百済系史料がこれより古いところで使用できなくなったことが主な原因と思われます。 百済系史料はおそらく七世紀後半以降に、亡命してきた百済人貴族たちが、日本書紀編纂期までの内に作成したものでしょうが、日本に関する記述は当然、百済と倭の関係が成立して以降に限られたはずです。 百済との交流開始は、神功紀四十六年が端緒なわけですから、それ以前はないのです。 また日本書紀にはこれ以降百済系の漢人の渡来の話が多く出てきて、それらの人々が王朝の記録を残していたと思われますが、それも百済との交流が生まれて以降の話となります。 阿直岐、阿知使主、王仁などの人々です。 その他やはり時期的に、弓月君のように百済系以外という人々の伝承もありますし、それ以前の崇神紀垂仁紀にも、意富加羅國王子の都怒我阿羅斯等(于斯岐阿利叱智干岐)や、任那使者の蘇那曷叱知、新羅王子の天日槍の来日の話はありますが、その子孫が文書作成などの行政にかかわったという伝承はありません。 つまり文字で歴史を伝える人々が、日本書紀の記録上現れたのは、神功応神以降と言うことなのです。

ではそれ以前に日本列島には、文字記録を残す人々がいなかったのかというと、魏志倭人伝には卑弥呼が上表文を作成したという記事があり、近年の各地での弥生期に遡る硯の発見などを考慮すると、いたことは間違いないであろうと思います。 特に伊都国の故地と思われる福岡県前原には、楽浪郡の出先機関のようなものがあった可能性があり、卑弥呼の上表文のような高度な漢籍に対する知識の必要なものは、ここの人々が請け負ったのではないかと思います。 では何故三世紀には重要な役割を果たしていた、前原の漢人は記録を残さなかったかですが、魏志倭人伝の一大卒記事にも見えるように、倭王はこの人々を警戒し監視下に置いていたと思われます。 そして対外的な倭国の窓口は四世紀には穴門に移動していると思われます。 これは考古学的にみた博多湾岸の衰退の状況や、文献的には仲哀紀に穴門が拠点として現れること、垂仁紀に都怒我阿羅斯等が最初に穴門に現れることなどから推定されます。 都怒我阿羅斯等の伝承に見える、倭王を騙った伊都都比古などは、語義的には伊都の男ですから、もともとは伊都に対する倭王権の猜疑心の伝承でしょう。 仲哀紀に見える伊覩縣主祖五十迹手の降伏伝承のように、彼らは日本書紀編纂時期に、文字記録を提供する立場になかったと思われます。 実際のところ日本列島内で発見された文字記録で、文章をなすものは五世紀以降となり、それ以前の文字の利用は記号的な用法のもの以外に見つかっておらず、文字で文章を記録することは、ほとんど定着していなかったと思われます。

朝鮮半島に目を転ずると、百済と高句麗は楽浪帯方郡の漢人集団を受け継ぎ、四世紀の初めごろには歴史時代に突入します。 一方新羅については梁書に次のような記載があります。

無文字,刻木為信。語言待百済而後通焉。

文字がなく木に刻み、言葉は百済通訳によるというのですが、時代的にさすがにおかしいとは思います。 ただ新羅は百済や高句麗よりも文字記録が遅れたことは間違いなかろうと思われます。 倭はそのさらに後塵を拝したことは確実でしょう。

仲哀より古い干支の記録として、古事記の崩年干支がありますが、これについては倭の五王でも触れたように、体系的なものではないようです。 その正体は不明ですが、前節の表で見るように、仁徳紀に並行する応神の没年や、履中の没年のあたりに、陵に関する話題が出てくることが気になります。 雄略紀分析でも、自説でおそらく安康の没年とする年に、田辺史伯孫が馬と埴輪を交換した話題が出てくるのです。 つまり何らかの葬送祭祀の行われた年に、陵に関する説話が載せられています。 このことから、土師氏のような葬送儀礼に関する一族が、干支を含んだ記録を残していて、それが古事記に註されたのではないかと思います。 一般に土師氏が絡んだと思われる記録は、日葉酢媛の葬送に関する埴輪の話題のように説話的であり、ほぼ口承によるものであったと思われます。 干支自体は十と十二の組み合わせなので比較的簡単で、土師氏のように出雲に起源をもつ氏族には、何らかの記録方法を持っていたのかもしれませんが、それに結びつく出来事には、口承でかなり抽象的な伝わり方になっていたのではないでしょうか。 そのため葬儀の対象の出来事もあいまいとなっていたのではないかと考えます。 例えば反正天皇の崩年に関しては、古事記註は七月となっていて、日本書紀の伝えと異なりますが、日本書紀允恭五年の七月に喪の話が有り、葬送にかかわった人びとが、何らかの儀礼に関して伝えたものが残っているのではないかと推察できます。 またしばしば有力な王の退位や譲位、継体欽明朝の秘密で触れたのですが、皇后の没年や王の退位年などを伝えている場合もあるのではないかと思います。 とはいえ古事記崩年はそれなりの、何かの出来事を伝えるものとして期待できそうに思います。

5.神功伝承の起源

ここでもう一度神功伝承の成立に関して考えてみます。 記紀に対しては多くの史料批判があり、神功は後の斉明天皇や持統天皇の記録から創作されたという直木孝次郎氏説もあります。 しかし関係のない氏族の伝承が、神功の記録に帰着されている状況からすると、日本書紀編纂時期において、すでに神功の伝承は成立していたものと思われます。 氏族伝承が付加される前の伝承の状況は、概ね古事記が伝えるものと類似したものであると思われます。 仲哀記の前半部分は、熊曾征伐に来た天皇に付き従う皇后が、海の向こうの新羅を攻めとる神託を受けますが、天皇はそれを信ぜず神罰により亡くなってしまいます。 そしてこの国は皇后の腹の中の子供の治める国であるとして、懐妊した状態で新羅へ渡り、新羅王を馬飼いに百済を半島の出先にするという話です。

この話は古事記における朝鮮半島とのかかわりの起源をなすもので、他には応神記に昔の話として、新羅王子の天之日矛があるだけです。 日本書紀において百済記などの干支を含む史料で追跡できるもっとも古いものは、卓淳国で斯摩宿祢が百済人久氐・彌州流・莫古の朝貢希望を聞く話です。 倭王権の半島進出は、それ以前に始まっていたのでしょう。

ここで3節の年表をみると、百済人久氐らの話の年代は紀年を二運引き下げた、366年丙寅の年となります。 三国史記新羅本記のその前前年の甲子年に下記の記述があります。

(奈勿尼師今)九年、夏四月、倭兵大至。王聞之、恐不可敵、造草偶人數千、衣衣持兵、列立吐含山下、伏勇士一千於斧峴東原。倭人恃衆直進、伏發擊其不意、倭人大敗走、追擊殺之幾盡。

注目すべきは前半の、「倭の兵が大いに至り、王がこれを聞いて恐れて敵さず」の部分です。 後半部分では謀略で倭兵を撃退したことになっていますが、新羅側の記録であることを考えると、倭兵の大規模な侵攻があったと考えられます。 新羅本紀の紀年が一年ずれていることを考慮すると、これは百済人久氐の初見の前年にあたります。 しかも仲哀の古事記崩年はその四年前の壬戌年で、神功記の役者がそろってきます。 つまり神功の新羅征伐の伝承にも、歴史的事実の核があった可能性が出てくるのです。

ここで興味深いのが、仲哀古事記崩御年干支の示す年次が、3節の年表では三国史記の倭人侵攻年の3年前、新羅本紀紀年のずれを考慮すると4年前になっていることです。 品陀和気命誕生が新羅侵攻の後であるとすると、帯中日子と呼ばれる王の死後4年ほど後になり、先王との血縁は無かったことになります。 胎中天皇の伝説は血統の継続を主張している意味で、いかにも怪しいものではありますが、このようにみていくと実際に品陀和気は帯中日子の子ではなかったことが見えてきます。

倭人の朝鮮半島とのかかわりは古く、三国史記を見る限り新羅への略奪行為も、常態化していた可能性はあります。 神功の新羅侵攻には、津波のような自然現象が絡んでいるとの俗説もありますが、実際に津波であったかどうかはともかく、この時の新羅侵攻が大規模なもので、大和の政権が初めて直接関与し、かつ印象深いものであったことが、このような伝説を残したのであろうと思います。

この後すぐに百済人久氐らの朝貢希望の話になるのですが、百済や新羅は晋書の記録から、三世紀の前半頃は高句麗の支配下にあったと考えられます。 その百済の国家形成は三世紀中ごろから始まり、百済が倭の新羅への大規模な攻撃の後、即座に交流を求めてきたのは当然のことだったでしょう。

この新羅侵攻の伝説に何らかの史実の核があったとしても、胎中天皇の話もそうですが、記紀に見える仲哀死後の政変についての話との関連は、前後関係を含めて明瞭にするのは文献では難しいと思います。 ナイーブに考えれば、半島政策をめぐって王権を支える豪族グループの間に対立があり、倭王権の半島進出に積極的なグループによる政変であったと見ることは出来るかもしれません。 今後何らかの考古学的な裏付けが取れるのを期待しています。

しかし神功伝説はもう一つ重要な事実を示唆していると考えます。 それは倭国の最高位である祭祀王と、女王的性格の皇后や妃の王権における役割です。 記紀の記述には女性の役割が非常に大きく現れてくると考えます。 倭迹迹日百襲姫や、豊鍬入姫、狭穂姫、日葉酢媛命などの多くの女性が登場してきますが、特に古墳中期相当期には、磐之媛命や忍坂大中姫のように、時に天皇にすら逆らう皇后の嫉妬の話が目立ってきます。 忍坂大中姫等などは、允恭の即位にもかかわってきますし、磐之媛命の筒城宮は継体紀にも登場し、忍坂大中姫は雄略紀に太后として登場するほか、隅田八幡人物画像鏡にも意柴沙加宮が登場します。 神功紀に代表されるように、この時期の皇后などは王に逆らうこともある、重要な存在となっています。 これら皇后の嫉妬の物語が書かれている、允恭や仁徳は自説の区分では外交や戦争に関する話題が相対的に少なく、祭祀王と考えています。

皇后の嫉妬の話は、実は後宮内での支持豪族の政権争いを反映しているのではないかと思います。 特に注目されるのが允恭紀七年十二月条の、新室の祝いで衣通郎姫を妃にする話です。 倭の五王の議論を受けて、本稿では3節の年表に見るように、倭王珍の没年を439年の己卯の年であるとし、允恭没年を古事記崩年干支の甲午を454年としますが、この時允恭七年は439年の己卯年となり、この新室の祝いは祭祀王即位をあらわしていると考えます。 すると祭祀王即位にあたり、あらたに妃を取った事になるのですが、祭祀王にとって重要なのは政治よりも、神聖性と血統の維持であるとすれば、これは理にかなったことです。

そこであらためて注目されるのが、3節の表で応神の崩年干支が394年となっていて、これに対応する仁徳紀二十二年条に、八田皇女を妃にする話が出てくることです。 忍坂大中姫の衣通郎姫に対する嫉妬の話は、允恭紀の多くの部分を占める主題の一つですが、仁徳紀における磐之媛の八田皇女に対する嫉妬も、仁徳紀の主な話題の一つとなります。 つまり恐らくですが、古事記の応神崩年干支は何らかの王的存在の死と、仁徳の祭祀王継承に関わるものであると考えられます。 本稿では応神紀をほぼに対応すると考えていますが、応神の崩御地伝承には輕の明の宮と大隅の宮の二つがあり、記紀全体としての応神伝承には、二人の王的存在の伝承が重なっていると考えられます。

これら多くの女王的性格の皇后には、あまり外交などの話題は出てこないのは、特に古事記のような口承の伝承が、おそらく祭祀王の後宮的な場所で伝えられてきたことによるものでしょう。 神功の伝説には、例外的に対外戦争の話が出てきますが、後宮内の勢力争いの伝承の性格を持っている一方で、王自らが皇后を連れて遠征に行き、皇后が政変に巻き込まれたためなのでしょう。 結果八世紀時点では、対外戦争や外交などの伝承を負った女性の伝承が、神功のものに限られ、これが女王的人物がからんだ対外交渉や戦争などの伝承が、神功紀に集まってきた原因でもあると思われます。

6.倭讃について

倭の五王の一人とされる倭讃は、宋書帝紀には現れておらず、宋書蛮夷伝のみに現れます。


   讃:倭讃(蛮異伝)
   珍:倭國王珍為安東将軍(帝紀)
   珍:安東将軍倭国王(蛮異伝)
   隋:倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國将軍号(蛮異伝)
   済:安東将軍倭国王(蛮異伝)
   済:安東将軍倭王倭済進号安東大将軍(帝紀)
   興:倭国王世子興為安東将軍(帝紀)
   興:倭王世子興(蛮異伝)
   興:安東将軍倭国王(蛮異伝)
   武:倭國王武遣使獻方物以武為安東大将軍(帝紀)
   武:安東大将軍倭王(蛮異伝)

倭王と呼ばれるのは、大将軍に進号することができただけで、将軍にとどまったは倭国王です。 宋書の記録は完全ではないと思われますが、称号に関しては結構厳密に見えます。 ここで倭讃という呼び方は、安東将軍より一枚低い倭隋と同じです。 倭王倭済と比べるとはっきり違います。 このため倭讃は王ではなかったのではないかという説がありました。

ここで倭王という地位に関して考えてみたいと思います。 継体欽明朝の秘密雄略紀の分析で述べたように、古代天皇制は夜間に神意を聞く神聖王と、昼の実務をこなす俗権の王の二重体制であったようです。 そこでは一応は昼の王から夜の王という王位継承のルールがありました。 本稿で見えてきた多頭制は、実態は良くわかりませんが多くの王的な存在があったことを示していると思われます。 そのような状況は、この時期の劉宋朝貢の記録に見える、倭国王珍の朝貢にその一部が見て取れます。 そこではの安東将軍倭国王だけでなく、倭隋ら十三人に平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号を求め許されています。 多く論じられているところによれば、の安東将軍と、倭隋の平西将軍には、劉宋からの地位としての大きな差はなく、倭国内に多くの有力者がいたことを示しています。

倭隋はその当時の倭国の情勢を考えて、おそらく畿内に次ぐ勢力として、規模で第四位の造山古墳のある吉備勢力が有力と思います。 中期古墳時代は、日向、吉備、河内、葛城、毛野に大古墳ができる時代であり、その重心は大和を離れ、瀬戸内にあると考えています。 瀬戸内政権の時代であるがゆえに、畿内の勢力も河内に王墓を作り、難波の宮や大隅の宮のような、大阪湾岸に宮が出来たのでしょう。 瀬戸内政権の象徴が、大阪湾に威容を誇る、百舌鳥古墳群の大古墳であると思われます。

吉備と大和の関係は、宋書が倭隋として同姓としているところからも、そもそも同じ王族でありながら、異なる地域首長グループの支持を受けた人々であったと思います。 吉備の王族の伝承は、允恭と葛城玉田宿祢の娘の子であるとする磐城皇子の記録が、唯一残されていますが、おそらく日本書紀に見るよりも大きな存在で、一度は最高位の祭祀王にもなっていると思います。

この吉備の首長の、吉備上道臣田狹が任那へ赴任させられ、そこから新羅を頼った話から、吉備は朝鮮半島南部や新羅とつながりがあったと考えられます。 近年の史料発見により、479年の南済朝貢は、加羅王の南朝朝貢を嚮導した可能性が出てきたのですが、この朝貢は倭王権の中でも吉備グループが担ったものではないかと考えます。 この479年の朝貢も、允恭朝になると思われる、倭王倭済の朝貢も記録がありません。 もしかしたら、宋書に見える使者の司馬曹達も、本来瀬戸内政権に属する大隅の宮の応神=のもとで、このグループに属していたのではないでしょうか。 結局、大和と吉備は協調したり主導権を争ったりしていて、雄略朝にいたって吉備王統が叩き潰されたとき、司馬曹達以後の朝貢担当のグループもその巻き添えを食ったのかもしれません。

神功紀の分析と宋書のの朝貢記録から見えることは、雄略紀以降とは少々ことなり、各地域の有力首長の支持を得た、複数の王的孫字があったと言えそうなことでしょうか。 推測ですがその中で、全体の調停を行うのが聖王としての夜の王で、俗権に携わらず神意を聞く存在であるのは、多頭制の中での超越性と公平性を演出する意味があったのではないかと思われます。 応神紀即位二十五年には、新羅攻撃を命じられた葛城襲津彦が、新羅でなく加羅を責めた話があり、上述の田狭の子の弟君も本来新羅討伐を命じられながら、新羅を討たずに帰ってきます。 どうも倭国は一枚岩ではなく、各地の首長は対外的にも独自の動きを行う状況で、倭王はそのような王たちを統率するためにも、神聖な存在であるべきだったのではないかと思うのです。

自説ではは応神のモデルの一部となった人物で、応神は仁徳と比べて伝承的に、外交実務を担っていたのではないかというところから、私見での昼の王と考えています。 つまり倭の五王の内、だけは最高位の祭祀王ではなかった可能性があり、このことが宋書の呼び名に反映されているのではないかと思うのです。 そう考えると、百済や高句麗の使者が、府官の最高位の長史を使者に立てているのに、倭だけが軍事官の司馬を使者に立てている理由もわかります。 つまりは軍事外交の最高位ではあっても、倭の最高位ではなかったということです。 そうすると宋書帝紀になぜの朝貢が記録されなかったのかの理由も見えてきます。 の使者は倭国の朝貢使ではなく、倭国の軍事最高官の使者と考えられたのではないかということです。

7.426年の政変と二人の仁徳

3節の年表をみると、426年に難波の宮が焼かれ、翌年427年には履中が即位し、同年に仁徳の古事記崩御年が来ています。 そして倭の五王で述べたように、この年に宋書帝紀の430年の倭国王の朝貢に対応する、阿知使主等の使者が出発しています。 阿知使主は履中の側近であり、おそらくこの朝貢の実務は履中が指揮したものでしょう。 これは何らかの政変を意味するもので、倭国の政治体制に大きな変動があり、が最高位の祭祀王につき、履中が俗権の王となったのではないかと考えるのです。 宋書430年の朝貢は、宋書帝紀に現れる最初の朝貢で、王名は現れていないものの、倭の五王ではの朝貢とし、を応神のモデルとしました。 これは政変によりが倭国の最高位につき、その時初めて倭国王と呼ばれ、帝紀に記載されたということであると考えます。

倭の五王では、古事記の仁徳崩年干支については、王の即位順に考慮した調整が入っている可能性があるとしましたが、これは実際に仁徳のモデルになった人物が亡くなっている可能性があります。 すでに何度か指摘してきたところですが、仁徳紀には複数の王の伝承が流れ込んでいることは確実と思われます。 つまり仁徳紀にはこの時に亡くなった王の伝承と、の伝承が重なっているのでしょう。 この時に亡くなった王を、仮に先の仁徳と呼ぶことにします。 先の仁徳の死後に履中即位前紀の反乱が起こり、落ち着きを取り戻した一年半後に葬送儀礼が行われたため、その干支が仁徳崩年として伝わったのではないかと思うのです。

ただこのような仮説を立てると、倭の五王で述べた陵墓地の推定には、さらに考慮が必要になります。 前稿では仁徳紀に伝わる陵墓地選定伝承はのもので、先に子供の履中が亡くなったため、寿陵として構築された陵墓を転用したとしました。 3節の年表に基づいて先の仁徳が亡くなったのが426年で、その後にが祭祀王に即位し、の死後弟のが祭祀王に立ったのが430年とすると、現履中陵となっている上石津ミサンザイ古墳の築稜開始が、応神陵と逆転してしまいます。 古墳の年代としては、絶対年代については諸説あり、かなりの幅を持って捉えざるを得ませんが、築稜順についてはほぼ一致しています。

上石津ミサンザイ古墳がもっとも古いとすれば、これはの寿陵ではなく先の仁徳の寿陵となります。 先の仁徳は自らの寿陵に葬られることはなく、別の墓に埋葬されたことになります。 この際には下記の三点が問題になります。
   1.何故先の仁徳は自分の寿陵に葬られなかったのか。
   2.その陵墓はどこになるか。
   3.先の仁徳と珍、履中、反正との関係はどのようなものか。

最初の疑問に関しては、この政変の規模と経過時間が問題になります。 どの程度信頼できるかは分かりませんが、日本書紀の記述に従えば、政変は仁徳崩御の正月に起こり、葬儀はその年の十月となっています。 この稿の仮説では、先の仁徳との記録はダブっていますから、崩御の月はもどちらのものか分かりません。 反乱の規模については、履中は大和まで逃げ、途中の現在の羽曳野市飛鳥とされる大阪の山口にも敵がいたと言うのですから、河内一帯に及んだのでしょう。 大和に入ってからも安曇連浜子の差し向けた追っ手が現われ、これを破っても倭直吾子籠の兵が、現在の御所市のあたりで待ち構えていたのですから、履中の側が少なくともこの辺りまでは劣勢にあったと思われ、石上の神域に逃げ込こもうとしていたのでしょう。 書記には反乱首謀者の住吉仲皇子は、履中が逃げたので反撃の準備をしていなかったとあり、事実上決着した状態であったと思われます。 到底仁徳の殯や葬儀などを悠長に行えなかったばかりか、仁徳の遺骸すら手に入れられなかったと思われます。 そもそも仁徳の崩御の月に黒姫を妃に迎えるというのが、なにか急ぎの事情があったように思えます。 すでに反乱の予兆があり、事を急いだのではないでしょうか。

しかし日本書紀に従えば、大和に入ってからの情勢は少し変化して、安曇連浜子の追っ手は撃退され、倭直吾子籠の兵も履中側に投降します。 反乱の継続時間については、日本書紀では全てが即位前紀となっていますが、おそらく反乱軍の住吉仲皇子の近くにいたと思われる反正を味方に付けて、住吉仲皇子の側近に裏切らせて暗殺してようやく終息していることから、簡単には収束しなかったのではないかと思われます。 古事記によれば反正は墨江中津王を殺した側近の隼人を、大阪の山口の宮で殺害したとありますが、ここは履中が逃げる際に伏兵がいた場所です。 同時にここは允恭が都したという伝説のある近つ飛鳥でもあり、持論で允恭が反正の実務を任されていた可能性を考えると、仁徳朝と允恭朝の関りを考えるうえでも重要です。

反正は履中に寝返りますが、履中は当初信用していなかったところを見ると、反乱はほとんど成功し河内には履中の勢力が及ばなかった可能性があります。 反正の裏切りによってかろうじて収束したと考えてよいでしょう。 そして追っ手であった安曇連浜子が罰せられるのが、翌年即位元年の四月、黒姫を妃に迎えるのが七月ですから、反乱が完全に平定されるのは、反乱発生から一年余り経ってからのことだったのではないでしょうか。 仁徳の葬儀は反乱がまだ完全に平定されていない段階で、石上等の大和の勢力により河内でなく大和で行われたと思われます。 遺体が手に入り埋葬されたのは平定後ですが、平定前に履中を支持する首長の手によって、その勢力圏に陵墓地が選定されたのではないでしょうか。 前節の表を見ていただくと、古事記の仁徳崩年は反乱平定後の、葬送儀礼に対応していると思われます。

阿知使主等が呉へ向かったのは、まだ反乱平定前のこととなります。 両者は対外交渉においても、激しくつばぜり合いを行っていたのでしょう。 司馬曹達のグループが使者に立てず、急遽阿知使主の一行が使者に選ばれたのではないでしょうか。 高句麗で四年も足止めを食らったのも、高句麗への根回しなどの事前の準備が、不足したからかもしれません。

二番目の問題ですが、有力な候補としては仁徳皇后たちの埋葬されたという奈良坂にある、ウワナベ古墳を上げておきます。 この古墳は同時期の古墳の中では規模の面でやや小さいですが、近年の調査で佐紀古墳群の中では最大の規模であることが分かって来ました。 おそらく寿陵ではなく、死後に建設されたことで、築稜に限界があったのでしょう。 この古墳の倍塚である大和6号墳には、大量の鉄鋌が埋葬されており、国産であるとの見方もあります。 この時代の先進的な技術を持った集団が背景にあるとされますが、河内を本貫とし渡来人を使って、難波を開拓した仁徳には相応しいと思います。 一方古墳で見つかる埴輪は比較的古風な形式のものであり、河内の造墓集団とは異なる人々が携わった可能性があるのではないでしょうか。

仁徳の寿陵は結局空陵のままとなりました。 そして履中が亡くなったとき、この空陵が再利用されたと考えます。 は430年以降先の仁徳を継承する様な、政治的性格を帯びていたとは思います。 そうでなければ伝承が融合することはなかったでしょう。 おそらくは432年履中が亡くなると、いわば仁徳政権の実務の継承者として、先の仁徳の寿陵に葬ったのでしょう。 そしてその事が、葬送儀礼に関わる氏族の祖先によって伝えられ、前節の表に見えるように同じ干支に、白鳥陵の空陵伝承とクロスして伝えられたのであろうと思います。 この時代には政変によって空陵となった陵墓が、少なくなかったのではないでしょうか。

は仁徳の継承者として、その寿陵を仁徳の選定した王墓地に造ったのでしょう。 この陵墓地を継承したことが、の伝承が仁徳伝承に合流した最大の理由だったのかもしれません。

古墳の年代については諸説あり、順番は一致していても、絶対年代には大きな開きがある場合が多いです。 実際寿陵の場合は、築稜開始と葬送年代に大きな差が出てくることが考えられます。 下記に三説上げておきますが、絶対年代は最低でも20年程度の誤差は見込むべきでしょう。

藤井寺市掲載古墳編年

百舌鳥御廟山古墳の被葬者像(2014年 十河 良和氏)

古墳編年(2008年 白石 太一郎氏)

仁徳の寿陵ですが、仁徳紀六十七年条は地名説話であり、年次についてはあまり期待できないことは倭の五王で説明しました。 ただ仁徳紀四十三年条乙卯年(前節表の415年)に、百済からやってきたという酒君の話題があり、そこに百舌鳥野の地名が出てきます。 これは鷹狩りの説話であり、陵墓とは関わりありませんが、百舌鳥の地名の初出として注目されます。 これは渡来系氏族が噛んでおり、干支による記述であると思われ、仁徳の陵墓地選定の目安はこれ以前としておきます。 この年は3節の表では西暦415年以前となりますが、応神の古事記崩年干支が同じ表で394年にあります。 これが何らかの王的存在の崩御を伝えるとすれば、が引き継いだのはこの年となり、寿陵構築開始は394年から415年の間となります。

の陵墓は、この仁徳に対応する昼の王として、次期聖王即位が見込まれていたでしょうから、それ以降の何処かの時期に、陵墓地選定は始まっていたでしょう。 一応仁徳紀における、履中立太子記事が、実はの立太子であるとすれば、その年次は403年以降となります。

下表に該当時の巨大古墳と、想定される被葬者をまとめました。 土師二サンザイ古墳の被葬者としては、雄略紀の分析で恐らく天皇位についたと思われた、顕宗紀に見える磐城王を当てました。 顕宗紀によれば磐城王は允恭の子となっていて、これが雄略紀の磐城皇子と同一人物であるとすれば、玉田宿祢の娘毛媛の子であり、葛城氏や吉備との関係が深く、同様の性格を持つ仁徳の選定した、百舌鳥野に葬られる理由もあります。 ただしこの人物は雄略清寧朝の吉備反乱の余波で、実際にはこの古墳に葬られていない可能性がありますので、古墳の年代は純粋に築陵年ということになります。 反征については倭の五王で述べたように、実際の政務は殆ど執らず、実権は允恭が握っていた形式的な存在であったため、墳丘の規模が小さくなったと考えました。 反正は仁徳履中と関わる人物ですから、墳丘の位置や築造の構想などから見て、田出井古墳以外にはありえないと思います。

中期古墳で下表以外の巨大なものとして、他に造山古墳と作山古墳が知られていますが、おそらく吉備にも倭王がいたと思います。 最大級の古墳が河内にあるのは、政権の地理的重心が瀬戸内にあったからでしょうが、吉備はその後大和王権との争いに負けて、王の伝承を残さなかったと思われます。 宋書に見える平征将軍倭隋などはそのような存在であると見なしてよいのではないでしょうか。 また安康については、その宋書における記述が、倭王世子であるところからして、事実上即位に失敗したか取り消されたと考えます。 日本書紀によれば埋葬は死後三年たってからで、しかも穴穂という宮の名以外伝わっておらず、尋常ではありません。 したがって何らかの理由で王としての形式すらとらず、未発見の小墓に葬られていると思われます。 雄略紀には安康が後継者を市辺押磐皇子にしたことを恨んでいたような記述もあり、復権は穴穂部を立てる話題が雄略末年近くにあることから、かなり後のことであると思われます。

藤井寺市掲載古墳推定年と本稿の被葬者および推定年
古墳名須恵器編年
藤井寺市掲載
埴輪編年
十河氏論文
本稿推定
被葬者築陵開始葬送備考
津堂城山361-3803期一段階仲哀355年頃?362年頃
五神社361-380最初の神功362年以降?389年頃?
仲ツ山381-4003期二段階先の応神389年以降?394年
上石津ミサンザイ381-4003期二段階履中394年から415年頃427年先の仁徳の寿陵を転用
誉田御廟山401-4204期一段階応神(讃)403年から426年頃430年
ウワナベ421-440先の仁徳426年頃427年死後築陵
大仙稜441-4604期二段階仁徳(珍)432年439年完成は439年以降?
田出井古墳4期二段階反正大仙稜完成後大仙稜完成後
市野山461-4804期三段階允恭(済)大仙稜完成後454年
未発見(恐らく小さい)安康(興)463年463年倭王世子(未即位?)
土師二サンザイ441-4604期三段階磐城王460年から476年頃葬送されず?顕宗紀詳述(天皇即位?)
岡ミサンザイ481-5005期一段階雄略(武)460年頃489年

三番目の問題ですが、神功紀についてみたように、応神仁徳の伝承は本来複数の王の伝承の丸めたもので、その系図もこの辺りから信用できなくなってくると思われます。 讃珍は宋書の記録から兄弟であるとわかりますが、応神仁徳履中反正との関係ははっきりしません。 王族の中には吉備の大王墓を残した、倭隋のような人々もいて、本来の系図には含まれていたはずですが、後世の記録には伝えられていないのです。 4節で述べたように、応神仁徳神功といった人々の記録は、日本書紀における歴史的記録の上限と言えるものであるようです。

日本の歴史記録という意味では、426年の政変の持つ意味は非常に大きいと思われます。 神功紀四十六年条の百済との接触は、七世紀以降に来朝した百済人貴族の残した記録によって、その時代の日本に関する歴史記録の始まりともいえるものですが、国内記録については、その後の応神紀等に見える渡来人が、重要な役割を果たしたと思われます。 そして426年の政変では、阿知使主が倭国政権の中枢に入ったことが分かります。 すなはちこの履中紀こそが、国内記録の始まりを告げる出来事であったのでしょう。 履中紀四年八月条の諸国に国史を置いた記事は、まさにその事実を記録したものでしょう。 もちろんそれはまだ始まったばかりであり、歴史時代の始まりとしては、全く不十分なものであったと言えます。 しかし神功応神仁徳が、複数の王的存在の記録をまとめた、半ば神話伝承の世界の存在であるのに比べて、私は履中以降の天皇については、おぼろげながらその姿が見えてくるような気がするのです。

8.古墳中期の王政について

神功紀は日本書紀において、複数の王の伝承が纏められる状況を、あらわにしていると思われます。 同時に神功紀は概ね古墳中期の王政の状況を示唆していて、地域首長の支持を得た複数の王族が、多頭的に存在していた状況をよく示していると思われます。 そして神功紀の状況を通じて、このような異なる豪族グループの支持を受けた、複数の王的存在の間の政争が、仲哀記や神功即位前紀に見える戦乱や、倭の五王でみた、426年の政変と考えてよいと思います。

そのような政治闘争は、祭祀王の後宮でも続けられていて、この時代はそのような女王的存在の比重が高まった時代であるということが出来そうです。 推古以降の女性天皇のあり方が、王位継承の問題の発生した時の、いわば緊急避難的な処置であったとする考え方があります。 古くは卑弥呼や壹與が、混乱の収拾のために立ったとみられることも考えると、この時代は実は王の権威やその継承が危機に落ちいった時代であったと考えられるのではないでしょうか。 中期古墳時代は、古墳の規模が最大化した時代であり、しばしば王の権威が飛躍的に伸びたと考えられていますが、実は継承の危機が深刻化したことを示している可能性があります。

実際日本書紀には、神功紀の政変に続き、本稿で426年の政変と呼ぶ履中即位前紀の政変、安康即位前紀の政変、雄略即位前紀の政変、雄略没後の政変と武力を伴う中央政権の政変が立て続けに起こります。 古墳の大きさは、允恭雄略のあたりで一旦小さくなり、百舌鳥古墳群も終焉しますが、古墳後期の継体欽明朝の血統断絶に伴い、再び巨大化します。 これらの事実は、古墳の規模に対する考え方に、多くの示唆を与えるものではないでしょうか。

参考文献

  1. 「三国史記」新羅関係記事の検討 東アジア研究 2016年 高寛敏
  2. 好太王碑文と顓頊暦紀年法 島医大紀要 1978年 友田吉之助
  3. 日本国家の形成 岩波新書 1977年 山尾幸久)
  4. 百舌鳥御廟山古墳の被葬者像 関西大学博物館紀要 2014年 十河 良和
  5. 日本書紀 岩波文庫(二)
  6. 全現代語訳 日本書紀 宇治谷孟 講談社学術文庫
  7. 古事記 全訳注
  8. 維基文庫 三国史記
  9. 漢籍電子文献資料庫
  10. 日本書紀検索
  11. 古事記検索

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