継体欽明朝の秘密
ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文を端緒としてー
概要
日本書紀継体欽明朝に関しては、さまざまな問題点が指摘されてきた。
- 継体は何故即位後二十年も大和入り出来なかったのか
- 継体七年の百済からの己汶・帶沙の割譲願いから、継体九年まの記述と、継体二十三年三月条冒頭の記述が重複しているように見える。
- 継体崩御は531年で、本文中安閑に譲位してすぐに崩御したとするのに、安閑の即位年は534年で矛盾がある。
- 仏教伝来は欽明紀では十三年であるが、上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起には戊午年とあって、欽明在位年には戊午年はない。さらに元興寺伽藍縁起ではこの年を欽明七年とする。
- 欽明在位年数は三十二年であるが、上宮聖徳法王帝説では「志帰島天皇治天下卌一年」(欽明天皇治天下四十一年)となっている。
- 欽明紀には敏達立太子を欽明十五年とするが、敏達紀では欽明二十九年とする。
これらの矛盾を説明するために、様々な説が唱えられてきた。著名なのは平子鐸嶺氏や喜田貞吉氏の二朝並立説である。これをさらにすすめ、林屋辰三郎氏はいわば辛亥の変説ともいうべき、継体・欽明朝の内乱説を唱えた。 一方三品彰英氏はこれらの混乱は、朝鮮系史料の混乱に基づくものとして、二朝並立説自体を批判された。(0.1)(0.2)本稿の立場は、日本書紀は基本的に百済三書の干支を重視して編年されたもので、多少のずれはあるものの、三国史記の編年に会っていると考える。 しかし本稿では、隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文をきっかけとして、日本書紀文面を再検証したところ、これらの矛盾は限られた時間の中で、日本書紀が大規模に再編年されたことによるものと結論した。ただしそのような混乱が起こった背景には、すでに日本書紀編纂時において過去のものとなっていた、古代天皇制の特殊な政治形態があることを指摘した。 そしてそのような新しい視点で、継体欽明朝をとらえると、基本的には日本書紀に書かれたことだけをもとに、十分なリアリティーのある歴史の再建がなされることを示した。
目次
1.はじめに
隅田八幡神社人物画像鏡銘文は、日本書記に関わる金石文として重要なものである。 数年前石和田秀幸氏は、この銘文とその解釈について重要な論文を発表された。 (1.1)(1.2)(1.3)
私はこの解釈は、日本書紀や日本の古代天皇のあり方を考えるうえで、大変に重要なものであると考えている。 この研究については、一時は歴史雑誌などにも紹介されたが、その後あまり聞かれない。 その理由は石和田氏自身が論文の中でも語っている通り、国語学者からの反論があったためと思われる。 論文では銘文中の「日十大王」を、「曰十大王」(曰はイワク)であるとし、「曰」を(ヲ)と読み、「十」を「計」の略字として、「曰十大王」を(ヲケ)(ケは乙類)と読んでいる。 「曰」を「ヲ」と読む例として石和田氏は、「曰佐」(ヲサ)を挙げている。 しかし有力な日本語学者が、「曰」は呉音(ヲチ)漢音 (ヱツ)となっていて、中古音では末尾に子音のtを伴う読みであるため、(ヲ)と読むのは末尾子音省略の略音仮名的な読みとなって、時代的には新しいもので鏡の年代とは合わないとした。 石和田論文は基本的には国語学の論文であるため、このような反論は大きな痛手になった可能性がある。
正直最初にこの論に触れたときには、私も同じような印象を受けた。 しかし、その後魏志韓伝や三国史記の地名や人名表記を見ているうちに、次第に略音仮名は新しいとする見解に疑問を持つようになった。 日本に入ってきた古い漢字音は、朝鮮半島経由であることが知られており、韓語は日本語と違い音節構造が複雑なため、漢字の音で固有名詞を表現するのが難しく、必然的に漢字をあてる際には、多少の無理が生ずる。略音仮名的表現は、むしろ半島的であり、古形の表現としておかしくないと考えるようになった。 石和田氏は魏志倭人伝の、「一支」を(イチキ)ではなく(イキ)と読む例を挙げているが、魏志倭人伝の表音表記には、私見では古韓音と呼ばれる、古い半島系の漢字音に類似した特徴がある。 例えば魏志倭人伝には、「載斯烏越」のような人名も出てくるが、これを日本語を表したものとすると、末尾の「曰」と同音の「越」は(ヲ)とでも読むしかない。 「一支」は隋書にも表れ、隋時代の標準的な音価では(イキ)とは読めないことから、これも推古朝の外交に百済系の人物が関与した結果とみることもできる。 また古韓音系の読みで読む必要があると思われる稲荷山鉄剣銘文にも、「半弖比」のような人名が登場し、これも(ハンテヒ)ではなく(ハテヒ)と読むべきであろう。 人物画像鏡銘文には「穢人今州利」とあるように、半島系の人物が絡んだことは間違いないのである。 この銘文に関する現在もっとも有力な説は、「男弟王」を継体とし、「斯麻」を百済の武寧王とするものであるが、石和田論文に述べられている通り、「男弟」を(ヲホド)と継体の名にあてるのは、国語学的に無理である。また「斯麻」を武寧王とするとこの鏡は百済から送られたものとなるが、百済王の贈り物にしては鏡の銘文が反時計回りであったり、模様が省略されたり、文字が一部だけ鏡映反転していたりと、あまりにも粗雑な作りである。 石和田論文に引かれた車崎正彦氏や川西宏幸氏の論文にあるように、これは5世紀後半から6世紀初めの国産の鏡と考えられる。
これらのことから、現在では私は石和田氏によるこの読みは正しいとみている。「曰(イワク)」を(ヲ)と読むと「曰十大王」に相当するのは、「ヲ」で始まる人物になるが、そのような名前をもつ天皇で、(シマ)という弟がいる天皇は弘計天皇しかいない。 このことから「十」は「計」の略体ではないかと考えられる。 「十」が「計」の略体というのは多くの人が違和感を覚えると思われるが、金石文で「倭」を「委」に略したようなケースはよく知られており、また朝鮮半島で音を表すために用いられた口訣を知れば、ありがちなことであると了解できる。 日本の古い時代の漢字表記は、古韓音と呼ばれる半島系の用字であると考えられているのである。
石和田氏は「男弟」の「男」は、「予」の異字体であるとし、また「開中費直」の「開」は「歸」、「旱」は「畢」の異字体であるとして下記のように読まれた。
原文:
「癸未年八月曰十大王年予弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣歸中費直穢人今州利二人等取白上同二百畢作此竟」
読み下し:
癸未の年八月、曰十(ヲケ)大王の年、予(わ)が弟王の意柴沙加の宮に在(い)ます時、斯麻長く奉(つか)へんことを念(ねが)ひ、歸中(キ)の費直と穢人今州利を遣はす。二人等の白(まう)す所は、銅二百を上(たてまつ)ること畢(をは)り、此の鏡を取(とりも)てりとまうす。
ここでは「斯麻」とは日本書紀の嶋郎(しまのいらつこ)、つまり弘計天皇=顕宗天皇の兄の仁賢天皇となる。
石和田説がなかなか広まらないもう一つの理由がここにあると思われる。 これは顕宗天皇の治世が「癸未」年、つまり503年まであったことになり、日本書紀のいわゆる紀年とは合わない。 また日本書紀にの内的分析に基づく批判によれば、顕宗や仁賢の実在自体を認めないので、いずれの立場にせよ日本書紀研究の主流からは外れてしまう。 しかし金石文史料は、文献史料とは独自の資料として、本来文献史料の検証に役立てるべきもので、合わないことはそれほど問題であるとは思われない。 そこでこの銘文に対する石和田解釈を正として、日本書紀記述を検討してみたのが本稿である。
2.武烈紀の検証
日本書紀と石和田解釈との矛盾が最も端的に表れるのが、武烈紀である。 そこには即位四年のこととして、百済新選を引いて百済の末多王に代わって斯麻王、すなはち武寧王が立った記事がある。 これは日本書紀の紀年では顕宗帝末年から十五年後の、即位四年の502年となり、503年が顕宗の在位年となる石和田解釈とは合わない。(補註2.1.三国史記と百済新選における武寧王即位年の違い) ところがこれを注意深く見るとおかしなことに気づく。 この前年即位三年十一月の記事に、大伴室屋大連に対して指示する話が出てくるのである。
森博達氏によれば、日本書紀の中でも巻十四から巻二十一および巻二十三から巻二十七までは、α群と呼ばれ中国系渡来人が記述したとされている。その中でも雄略紀から崇峻紀までの、巻十四から巻二十一までは用語や記述形式も一貫しており、内容を比較しやすい。そこで即位直後の記事で任命された重臣が、誰であったかを各天皇についてみてみると下記のようになる。
天皇 | 即位時重臣名 |
---|---|
雄略 | 平群眞鳥大臣、大伴室谷大連、物部目大連 |
清寧 | 平群眞鳥大臣、大伴室屋大連 |
顯宗 | 記載なし |
仁賢 | 記載なし |
武烈 | 大伴金村大連 |
継体 | 大伴金村大連、許勢男人大臣爲大臣、物部麁鹿火大連 |
安閑 | 大伴金村大連、物部麁鹿火大連 |
宣化 | 大伴金村大連、物部麁鹿火大連、蘇我稻目宿禰大臣、阿倍大麻呂臣大夫 |
欽明 | 大伴金村大連、物部尾輿大連、蘇我稻目宿禰大臣 |
敏達 | 物部弓削守屋大連、蘇我馬子宿禰大臣 |
用明 | 蘇我馬子宿禰大臣、物部弓削守屋大連 |
崇峻 | 蘇我馬子宿禰大臣 |
各氏族が大連や大臣となっているが、きれいに世代交代していることが分かる。 途中平群氏が消えているのは、武烈即位前紀に大伴氏により誅されているからであるし、大伴氏が消えているのは欽明朝での失脚、物部氏が消えているのは用明朝での仏教をめぐる争での失脚によるものである。 これをみると武烈即位時にすでに大伴の大連は、金村になっており、武烈三年条に大伴室屋大連が出てくるのは不自然である。 三年十一月条は本来武烈以前の誰かの記事であったものが、ここに移されていると考えられる。 石和田説によって、武寧王即位年の502年が顕宗治世であるとすると、その前年の大伴室屋大連が出てくる三年十一月条は、四年夏四月是歲条の武寧即位記事とあわせて、もとは顕宗紀の記事だったのではないかという疑問が生じるのである。
3.3.顕宗紀の検証
ここで顕宗の末年をみてみると、顕宗三年四月の記事に続いて、実に不思議な記事が見える。 紀生磐宿禰が任那から高麗(高句麗)に通じ、三韓の王になろうとして官府を整え、神と自称したとの記事である。 この記事によれば、さらに任那の左魯と那奇他甲背たちの策を用いて、百済の適莫爾解を爾林で殺し、帶山城を築いたところ、港からの兵糧が絶えて(百済の)軍隊が飢えたとある。 これは尋常な事態ではない。
まず帶山とは現泰任で、百済時代の古沙夫里、現井邑市古阜面の東方に位置する。 古沙夫里は百済南部の要衝で、神功紀摂政四十九年条において、古沙の山に同盟の誓いを立て場所である。 この築城が倭王権の意志によるものなら、百済との同盟の破棄になる、由々しき事態である。 紀生磐宿禰はまさに倭王権の後ろ盾なしに、百済の敵国である高句麗に通じ、百済勢力圏の要地に侵入して城を作ったのである。
彼は雄略紀に見える、紀大磐宿禰と同一人物とみられ、雄略九年に新羅戦のさなかに病死した大将軍の父に代わって戦場に立ち、兵の統制権を奪って同僚に妬まれ、殺されかけた人物であるが、結局刺客を返り討ちにしている。 おそらく若いころから相当の軍事的才能と、人を動かすカリスマ性を持っていたのであろうが、それにしても百済乗っ取りはあまりにも大胆であり、平時では考え難い。
この時殺された適莫爾解は、百済王が怒って派遣した、古爾解や內頭莫古解に名前が類似していて、百済の軍事官僚と思われる。 紀生磐宿禰は百済王権に逆らう人々、言わば反乱軍と通じたと思われる。しかも百済王が軍を派遣する前に軍が飢えたとあるが、もしも平時であれば駐屯地にはそれなりの蓄えがあるはずで、簡単に飢えるはずがなく、すでに百済は軍隊を動員していたと思われる。つまり百済国内は軍事的緊張状態にあり、紀生磐宿禰はそれに乗じて百済乗っ取りをたくらんだのだ。
この記事は左魯や那奇他甲背などの人名からして、おそらく百済系史料をもとにしたものであろう。 日本書紀編纂者の勝手な想像ではあるまい。 であれば三国史記にもそれなりの記事があってもよさそうである。 しかし現日本書紀の紀年では、この事件は東城王の八年で、前後を見てもそのような気配がないのである。
そこで石和田説に従って、503年が顕宗の在位年であったとすると、東城王の末年501年に、衛士佐平の苩加が刺客を差し向けて王を暗殺し、王都熊津の至近の地である、加林城に立てこもった記事が見えるのである。 もしもこの事件が501年であれば、紀生磐宿禰の暴走もありえない話ではない。 そうすると、顕宗三年は501年となる。 三国史記百済本記では、501年11月に始まった混乱を、502年正月に鎮圧し武寧王の即位となる。(前節の補注2.1を参照) 顕宗三年四月条に続く紀生磐宿禰の記事は、501年の東城王の暗殺後の混乱状態での出来事とみてよいであろう。 このことから武烈三年十月条の大伴室屋大連の出てくる記事は、本来顕宗三年四月条に続くものであったとみることができる。 もしもこの想定が正しければ、現日本書紀にはもとになった文面があり、そこでは顕宗紀は四年以上あったことになる。 いま古事記では顕宗は八年在位したことになっていることを信ずるならば、顕宗紀はもとは八年あったものを、一部を武烈紀に移し短縮した可能性が浮かび上がるのである。
4.継体紀の検証
この改変の事情を調べるために引き続く継体紀を調べてみる。 前節でみたように顕宗三年を501年とし、古事記によって八年継続したとすると、顕宗の崩年は506年となる。 現日本書紀の継体即位年の前年である。つまり改変前の顕宗紀と継体紀はつながっていたことになる。
では仁賢紀や武烈紀はどうなるのか。 そこでひとまず改変前の顕宗紀に続けて仁賢紀を置き、継体紀に並行させてみよう。 すると仁賢の没年の仁賢十一年は、継体十一年に並行することになるが、現継体紀では翌継体十二年に、弟国に遷都している。 顕宗仁賢の崩御と、継体の即位遷都が連動しているのだ。 さらに続く武烈紀を、仁賢紀に引き続き継体紀に並列させると、武烈崩御年の武烈八年は、継体十九年と並行し、その翌年継体は磐余玉穂の宮に遷都しているのである。 武烈の崩御もまた継体の遷都と連動していることになる。
この連動はさらに細かいところまで確認することができる。 仁賢四年に的臣蚊嶋と穗瓮君に罪があり獄死する記事が見え、何らかの政変を思わせるが、翌継体五年に山背の筒城への遷都の記事が見えるのである。 また武烈紀には顕宗紀から三年条と四年条が移されていると思われるが、六年秋九月条に小泊瀬舍人を置いた記事があり、おそらくこの後は本来の武烈紀の記事であろうと思われる。 武烈紀を継体紀の十二年から十九年に並列させると、そこに見える六年冬十月条の百濟國が麻那君を遣した記事と、七年夏四月条の百濟王が期我君を遣した記事は、それぞれ武寧王没五か月後と、聖王明の即位三か月後となるのである。 継体紀に書かれた百済王の交代と、武烈紀に書かれた百済の使者の記録が連動するのである。
このような連動はただ事ではない。 現在の日本書紀に記載された内容とは異なり、もともとは継体紀と仁賢紀、武烈紀が並行していて、何らかの理由があって改変されたのではないかと推理できる。
継体紀 | 仁賢武烈紀 | ||
---|---|---|---|
継体元年 | 二月、樟葉即位 | 仁賢元年 | |
二年 | 二年 | ||
三年 | 三年 | ||
四年 | 四年 | 夏五月、的臣蚊嶋と穗瓮君に罪があり獄に下り皆死す | |
五年 | 冬十月、筒城遷都 | 五年 | |
六年 | 六年 | ||
七年 | 七年 | ||
八年 | 八年 | ||
九年 | 九年 | ||
十年 | 十年 | ||
十一年 | 十一年 | 秋八月崩御 | |
十二年 | 春三月、弟国遷都 | 武烈元年 | |
十三年 | 二年 | ||
十四年 | 三年 | ||
十五年 | 四年 | ||
十六年 | 五年 | ||
十七年 | 夏五月、百濟国王武寧薨 | 六年 | 冬十月、百濟國が麻那君を遣した |
十八年 | 春正月、百濟太子明卽位 | 七年 | 夏四月、百濟王が期我君を遣した |
十九年 | 八年 | 冬十二月崩御 | |
二十年 | 秋九月、玉穂遷都(一本云、七年) |
5.安閑、宣化紀の検証
実は安閑、宣化紀にも、重要な手がかりが残されている。 それは安閑即位一年に、物部尾輿大連の記事が現れ、宣化即位一年に物部麁鹿火大連の死亡記事が現れることである。 先の重臣表をみればわかるように、安閑、宣化の即位後の重臣の任命では、物部麁鹿火が大連になっている。 それはいいのであるが、本来先に来るはずの安閑紀の即位元年閏十二月に、先に物部尾輿大連の記事が現れ、そのあとに来る宣化即位元年七月に物部麁鹿火大連の死亡記事が現れるのはいかにもおかしなことである。 つまり安閑紀と宣化紀が、改変の前には現在のようなつながり方にはなっていなかったと思われる。 安閑即位に関しては、継体よりの譲位があったとされることから、両者の在位が逆になっていたということは考えにくい。 継体紀の状況から考えて、両者は少なくとも一部は並列になっていたのではないだろうか。 日本書紀には継体の崩御年を辛亥としたのは、百済系文書によったとしている。 そこには辛亥年に、天皇と二人の皇子が同じ年に亡くなったと書かれてあったという。 百済系文書によっても、継体と安閑、宣化は同時に在位したということが示唆されるのである。
古事記には継体の崩御年を丁未としているが、これは辛亥年の4年前の527年であり、この年は安閑への譲位年であったのではないか。 少なくとも記紀の記述においては、天皇の譲位はこれが最初であり、古事記崩年の伝承では譲位と崩御の混乱があったと考えられる。 続日本紀には継体紀で即位二十三年に亡くなったとされる巨勢男人が、磐余玉穂宮の天皇と勾金椅宮の天皇に仕えたとする記事がある。
「続日本紀天平勝宝三年二月条:磐余玉穂宮。勾金椅宮御宇天皇御世。雀部朝臣男人為大臣供奉。而誤記巨勢男人大臣。」
百済本記と合わせて考えるに、その後辛亥年にいたるまで、三者の在位は並列していたことになる。
6.継体から欽明までの即位崩年記事
継体紀以降の紀年および古事記の崩年干支をみてみよう。
日本書紀
継体没年:本文531年(即位二十五年辛亥)、或本534年(即位二十八年甲寅)
安閑元年:534年(甲寅)
安閑没年:535年(即位二年)
宣化即位:535年(安閑二年)
宣化元年:536年(丙辰)
宣化没年:539年(即位四年)
欽明即位:539年(宣化四年)
欽明元年:540年(庚申)
古事記
継体没年:527年(丁未)
安閑没年:535年(乙卯)
継体没年は三説あり、本文の説では安閑元年までに空きができ、譲位により即位直後に継体が亡くなったという記述に矛盾する。
古事記の継体没年は日本書紀よりだいぶ早い。 一方安閑没年=宣化即位年は日本書紀と一致している。 さらに仏教伝来に関して、上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起には戊午とあるが、現在の紀年では宣化三年の538年になり、欽明朝に仏教伝来の記述に合わない。 とくに元興寺伽藍縁起ではその年が欽明七年としているのである。 また日本書紀紀年によれば、欽明在位年数は三十二年であるが、上宮聖徳法王帝説では「志帰島天皇治天下卌一年」(欽明天皇治天下四十一年)となっている。 (補註6.1.当年称元法と越年称元法) ここでも何らかの事実の改変がなされているとして、二朝並立説や継体欽明朝の内乱説などの論がなされてきた。
顕宗紀や武烈紀の状況からすると、複数の天皇の在位が並列するような文面から、それを解消するような改変が行われたということである。 継体末年から欽明即位にかけての紀年の混乱は、継体朝末年の三者並立を解消する際の混乱が原因であると考えてよいであろう。 もしも継体安閑宣化の並立と、辛亥年同時崩御をみとめて、欽明即位年が531年であったとすると、上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起との矛盾もなくなるのである。
日本書紀の安閑元年の干支は、古事記安閑没年の干支からの逆算であると考えられるし、日本書紀或本の継体没年534年は、やはり古事記安閑没年の干支からの逆算、譲位による当年称元法を考慮して決められたものであったであろう。 古事記安閑の崩年535年(乙卯)はどこから出てきた伝承だろうか。
ここに欽明即位前紀の記述が意味を持ってくる。 欽明は自分は幼いので、安閑皇后に天皇即位を依頼している。 おそらく安閑皇后は神功紀における神功のように欽明を補佐したのであろう。 のちの女性天皇がすべて皇后であったことを考えると、実質天皇の地位を代行していたとも考えられる。 そしてその没年、もしくは欽明への実質的な天皇位譲位年が、535年(乙卯)なのであろうと思う。
7.欽明紀の三つの即位年
欽明紀には三種類の即位年があるようである。 ひとつは現日本書紀の539年即位、540年即位元年である。 もう一つは、すでに述べたように上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起の示唆するところの、辛亥年531年の即位、532年即位元年である。 みっつめは、敏達紀にあるもので、欽明紀では敏達の立太子は欽明十五年とあるのに対して、敏達紀には欽明二十九年とあり、これは十四年の差がある。
今仮にみっつめの最も長いものを敏達欽明年、二つ目を元興寺欽明年と呼んで日本書紀欽明年と区別しておこう。 欽明年の元年は540年、元興寺欽明年の元年は532年、敏達欽明年の元年は526年になる。 即位年として日本書紀の539年の他に、辛亥年の531年があることは古代史好きには良く知られたことであるが、526年を元年とする525年の即位年はおそらく初耳ではないだろうか。
実は仏教伝来は現日本書紀では欽明十三年壬申の542年であるが、上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起では戊牛の538年となっていて、十四年の差がある。 おそらくは欽明紀の記述は敏達欽明年に基づいてなされていたのであろう。 本来の伝承は戊牛の538年であったものが、欽明紀が改変され、干支の戊牛が欽明在位年からはずれ宙に浮いたため、元記事の十三年をそのまま用いたのであろう。
欽明二十三年、大伴狭手彦が高麗と戦い、王宮に侵入して宝物を持ち帰った記事が見える。 しかしこの記事には、やはり異伝として欽明十一年の出来事であるとするものがあったことが記されている。 欽明二十三年は562年にあたるが、すでに十年前の十三年是歲条において、百済は前年に得た漢城と平壌を放棄しており、三国史記によればこの年552年には十郡を高句麗から奪い、554年には百済東北部に新州を置いたとする。 この結果対高句麗同盟を結んでいた百済と新羅の関係は悪化した。 すなはち漢江流域は敵対する新羅領になり、欽明二十三年に狭手彦がその向こう側の高句麗の奥深く進攻することができたはずはない。
欽明十二年条には、百済が高句麗を攻め、漢城を落とし平城に攻め込んだ記事があり、狭手彦が百済王宮から宝物を奪ったのはその時のことと考えられる。 百済からの救援要請を受けて、この時の高句麗戦役の始まったのが、551年欽明十一年のことであり、日本書紀の言う「或本」の記述が正しいことになる。 ではなぜその記述が欽明二十三年になったのだろうか。
欽明十五年には、高句麗遠征を行った百済聖王は、漢城領域を奪われたため関係の悪化した新羅に進攻して戦死してしまう。 つまり高句麗戦役は終了していたのであり、狭手彦も倭国に帰還していたと思われる。 この欽明十五年が元興寺欽明年では二十三年になるのである。欽明二十三年の記事は、狭手彦の出征の記事ではなく、本来帰還した記事だということになる。記事の中身的にも宝物を天皇に献じた話に重点がある。
ではなぜこの記事は、もとの敏達欽明年でもなく、日本書紀にとっては異例の元興寺欽明年なのだろうか。 おそらくはこの出来事は本来、元興寺欽明年を用いる史料にあったのであろうと考える。 もともと狭手彦の出征は550年から553年にわたるものであり、干支が確定できなかったのであろう。 実際、平安期成立の三代実録に引かれた、狭手彦の子孫のと言われる伴大田宿禰の家諜には、狭手彦の帰還を敏達天皇のときとしている。 それでは狭手彦の出征から帰還までは、二十年以上の時間がかかっていることになり、不自然なのである。 編纂者としては、用いた原史料にあった欽明即位二十三年という年次だけををもとに現位置に配したのであろう。
一方で註文で「或本」と呼ぶ史料では、出征の干支のみを記した簡単な記述があったと考えられ、それが欽明紀の十一年の干支と一致したため、「或本」に十一年と記載されていると書いていると思われる。
欽明紀の改変前の敏達欽明年における即位年の525年は、欽明紀の磐余玉穂の宮への遷都の前年にあたり、並行する武烈紀の崩年にあたる。 この敏達欽明年では継体、安閑、宣化、欽明の、実に四者が並列していたことになる。
西暦 | 干支 | 日本書紀欽明年 | 元興寺伽藍縁起欽明年 | 敏達紀欽明年 | 三国史記 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
526 | 丙午 | 継体二十年 | 玉穂遷都 | 元年 | ||||
527 | 丁未 | 二十一年 | 二年 | |||||
528 | 戊申 | 二十二年 | 三年 | |||||
529 | 己酉 | 二十三年 | 四年 | |||||
530 | 庚戌 | 二十四年 | 五年 | |||||
531 | 辛亥 | 二十五年 | 六年 | |||||
532 | 壬子 | 元年 | 七年 | |||||
533 | 癸丑 | 二年 | 八年 | |||||
534 | 甲寅 | 安閑元年 | 安閑即位 | 三年 | 九年 | |||
535 | 乙卯 | 二年 | 宣化即位 | 四年 | 十年 | |||
536 | 丙辰 | 宣化元年 | 五年 | 十一年 | ||||
537 | 丁巳 | 二年 | 六年 | 十二年 | ||||
538 | 戊午 | 三年 | 七年 | 仏教伝来 | 十三年 | 改変前の仏教伝来? | ||
539 | 己未 | 四年 | 欽明即位 | 八年 | 十四年 | |||
540 | 庚申 | 欽明元年 | 九年 | 十五年 | ||||
541 | 辛酉 | 二年 | 十年 | 十六年 | ||||
542 | 壬戌 | 三年 | 十一年 | 十七年 | ||||
543 | 癸亥 | 四年 | 十二年 | 十八年 | ||||
544 | 甲子 | 五年 | 十三年 | 十九年 | ||||
545 | 乙丑 | 六年 | 十四年 | 二十年 | ||||
546 | 丙寅 | 七年 | 十五年 | 二十一年 | ||||
547 | 丁卯 | 八年 | 百済が高句麗戦の救援軍を乞う | 十六年 | 二十二年 | |||
548 | 戊辰 | 九年 | 十七年 | 二十三年 | ||||
549 | 己巳 | 十年 | 十八年 | 二十四年 | ||||
550 | 庚午 | 十一年 | (或る本の狭手彦出征) | 十九年 | 二十五年 | 正月百済攻取高句麗道薩城 三月高句麗兵が金峴城を包 両軍の疲弊をみて新羅が二城取る | ||
551 | 辛未 | 十二年 | 百済が高句麗を攻め、漢城を落とし平城に攻め込んだ | 二十年 | 二十六年 | |||
552 | 壬申 | 十三年 | 仏教伝来 百済は前年に得た漢城と平壌を放棄 | 二十一年 | 二十七年 | |||
553 | 癸酉 | 十四年 | 二十二年 | 二十八年 | 秋七月新羅が百濟東北鄙を取り新州を置く | |||
554 | 甲戌 | 十五年 | 敏達立太子 百済が新羅高句麗戦の援軍要請 聖明王敗死 | 二十三年 | 原史料の狭手彦の記事? | 二十九年 | 敏達立太子 | 新羅が急襲して聖明王敗死 |
555 | 乙亥 | 十六年 | 二十四年 | 三十年 | ||||
556 | 丙子 | 十七年 | 二十五年 | 三十一年 | ||||
557 | 丁丑 | 十八年 | 二十六年 | 三十二年 | ||||
558 | 戊寅 | 十九年 | 二十七年 | 三十三年 | ||||
559 | 己卯 | 二十年 | 二十八年 | 三十四年 | ||||
560 | 庚辰 | 二十一年 | 二十九年 | 三十五年 | ||||
561 | 辛巳 | 二十二年 | 三十年 | 三十六年 | ||||
562 | 壬午 | 二十三年 | 大伴狭手彦が高麗と戦い、王宮に侵入して宝物を持ち帰った | 三十一年 | 三十七年 | |||
563 | 癸未 | 二十四年 | 三十二年 | 三十八年 | ||||
564 | 甲申 | 二十五年 | 三十三年 | 三十九年 | ||||
565 | 乙酉 | 二十六年 | 三十四年 | 四十年 | ||||
566 | 丙戌 | 二十七年 | 三十五年 | 四十一年 | ||||
567 | 丁亥 | 二十八年 | 三十六年 | 四十二年 | ||||
568 | 戊子 | 二十九年 | 三十七年 | 四十三年 | ||||
569 | 己丑 | 三十年 | 三十八年 | 四十四年 | ||||
570 | 庚寅 | 三十一年 | 三十九年 | 四十五年 | ||||
571 | 辛卯 | 三十二年 | 四十年 | 四十六年 |
西暦 | 干支 | 継体紀 | 三国史記関連記述 | 二十三年条冒頭の範囲 | |
---|---|---|---|---|---|
507 | 丁亥 | 継体元年 | 三月、樟葉即位 | ||
508 | 戊子 | 二年 | |||
509 | 己丑 | 三年 | 春二月、百済に使者を立て、百姓を百済に戻す | < | /Tr> |
510 | 庚寅 | 四年 | |||
511 | 辛卯 | 五年 | 冬十月、筒城遷都 | ||
512 | 壬辰 | 六年 | 冬十二月、任那四県の割譲の要請 | ||
513 | 癸巳 | 七年 | 夏六月、百済が伴跛国による己汶侵略を訴える 冬十一月、己汶・帶沙を百済に与える | 百済が多沙津を要求するが 加羅王が拒否 | |
514 | 甲午 | 八年 | 三月、伴跛が戦争をはじめる | ||
515 | 乙未 | 九年 | 春二月、帶沙江に行った物部連が伴跛に襲われて逃げ帰る | ||
516 | 丙申 | 十年 | 夏五月、百済は己汶において物部連をねぎらう 秋九月、百済が使者を立て己汶の地を賜ったことを感謝する | 多沙津を百済に渡し、 加羅王は日本を恨む | |
517 | 丁酉 | 十一年 | |||
518 | 戊戌 | 十二年 | 春三月、弟国遷都 | ||
519 | 己亥 | 十三年 | |||
520 | 庚子 | 十四年 | |||
521 | 辛丑 | 十五年 | |||
522 | 壬寅 | 十六年 | 春三月、加耶国王が新羅国に婚姻を申し込む、 新羅は比助夫の妹を送る | 加羅王は新羅王女を娶るが、 付き添った人々が新羅の服を着る | |
523 | 癸卯 | 十七年 | 夏五月、百濟国王武寧薨 | ||
524 | 甲辰 | 十八年 | 春正月、百濟太子明卽位 | 秋九月、新羅王は南境の地を開き 加耶国王と合う | 加羅王が新羅人を追い返し、 新羅は加羅の北の境界の城を奪う |
525 | 乙巳 | 十九年 | |||
526 | 丙午 | 二十年 | 秋九月、玉穂遷都(一本云、七年) | ||
527 | 丁未 | 二十一年 | 夏六月、毛野臣を新羅に派遣し南加羅・喙己呑を取り返そうとするが磐井に阻まれる 秋八月、磐井征討開始 | ||
528 | 戊申 | 二十二年 | 冬十一月、物部大連麁鹿火が磐井を討った | ||
529 | 己酉 | 二十三年 | 春三月、南加羅・喙己呑を取り戻すため、近江毛野臣を安羅に派遣 夏四月、任那王己能末多干岐、來朝 | ||
530 | 庚戌 | 二十四年 | 冬十月、調吉士は任那から帰って毛野臣の失敗を報告 毛野臣は呼び戻されて対馬で亡くなる | ||
531 | 辛亥 | 二十五年 | 継体崩御 | ||
532 | 壬子 | 金官國主金仇亥と妃及三子が、 国家財産と宝物をもって新羅に來降 |
10.並列する天皇の謎
再編纂前の天皇の同時並列は、史料編纂上の虚像なのであろうか。 本稿の議論は、隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田解釈をきっかけとしている。 つまり石和田解釈が正しい限り、日本書紀の再編纂前の編年には、同時代史料の裏付けがあり、歴史のリアリティーがあると考えられる。 では天皇の並列は何を意味しているのだろうか。
継体紀については継体の大和入りが、即位後二十年も遅れたことなどから、古くから二朝並立説があった。
しかし継体紀での重臣の名と、武烈紀での重臣の名は重複しており、日本書紀に書かれた内容的には、ただちに対立する二つの朝廷があったようには見えない。
継体欽明朝の内乱説はどうだろうか。特に辛亥年の継体とその二人の死は、何らかの政変によるものなのだろか。
少なくとも記紀にはそのような記述はなく、変事による死なのか、疫病などによるものか分からない。
これを再び重臣でみると下記のようになる。
安閑:大伴金村大連、物部麁鹿火大連
宣化:大伴金村大連、物部麁鹿火大連、蘇我稻目宿禰大臣、阿倍大麻呂臣大夫
欽明:大伴金村大連、物部尾輿大連、蘇我稻目宿禰大臣
物部麁鹿火大連は宣化紀で亡くなっているので、重臣は完全に引き継いでいる。 少なくともこれでみる限りは、大規模な政変はなかったように見える。 日本書紀は内乱などに関しては、特に隠す気配が見えない。 複数の天皇が並立していたとしても、対立する複数の王朝があったとは思えない。 それでは並行する天皇の役割は何であろうか。
そのヒントが継体紀にある。 前節でみたように、継体紀の外交記録は継体十年で一旦途絶している。 継体紀にはその記事に時期的な偏りが見えるのである。すなはち弟国宮に遷都して以降記事の量が減り、磐井の乱以降再び増えるのである。 この間の外交的出来事は、継体二十三年三月条冒頭のダイジェストをみると、多沙津の百済への割譲以降は、新羅と加羅の関係に関するものであり、継体紀にその間の記述がないのは、百済系史料を大きなよりどころとしているためであるとも考えうる。 しかしこの間には、十七年夏五月条と十八年春正月条に、百済王の消息に関する記事がある。 これは百済王の消息についてのみ述べたもので、おそらく百済系史料からの引き抜きであり、本来の継体一代記にあったものではないであろう。 一方本稿の仮説ではこの期間はちょうど武烈紀に並列する期間である。すでに指摘しているように、武烈紀には継体紀の百済王の崩御と即位に対応する、百済の使者の記録がある。 つまりこの間の外交は継体ではなく武烈が行っていたことになる。(補註10.1.聖明王の即位年について)
並列する天皇には何らかの役割分担があったのではないだろうか。 古事記継体記の崩年記事は、丁未の年の四月であり、527年の四月である。 すでに推測したように、これは崩御の年ではなく、継体から安閑への譲位の誤伝であろう。 一方磐井の乱など継体紀の記事の増えるのは、継体二十一年527年の六月からである。 つまり継体紀の記事は、継体の譲位以後再び増えることになる。 また継体の磐余の玉穂宮への遷都に関しては、日本書紀に或る本に継体即位七年との記事がある。 玉穂の宮への遷都が継体二十年、その七年前は継体十三年であり、弟国宮への遷都の翌年になる。 つまり継体は弟国宮への遷都の翌年に天皇に即位し、継体二十一年の四月に譲位したのではないだろうか。 すると継体紀には天皇即位期間の外交記事がなく、その間の外交記事は武烈紀にあることになる。 このことから、記紀において天皇とされる存在には、外交を行わないものと行うものの二種類あったように見える。 古い時代の日本の王権では、複数の王がいて役割を分ける仕組みがあり、日本書紀にはその痕跡だけが残されたのではないだろうか。
実は欽明紀にもその痕跡が残されている。 それはすでに述べた三代実録貞観三年八月十九日条である。 そこには狭手彦が宣化欽明両朝で活躍したこと、欽明朝に高麗と戦い宝物を持帰ったことが記されているのだが、問題はその帰還が珠敷天皇の世となっているのである。 すでにみたように実際には欽明十五年には帰還していたと思われるため、この伝承には無理があることになる。 三代実録に引く子孫の伴大田宿祢常雄の家諜には、下記のようにある。
「宣化天皇世。奉使任那。征新羅。復任那。兼助百濟。欽明天皇世。百濟以高麗之冦。遣使乞救。狹手彦復爲大將軍。伐高麗。其王踰城而遁。乘勝入宮。盡得珠寳貨賂。以獻之。珠敷天皇世。還來獻高麗之囚。今山城國狛人是也。」
この珠敷天皇世を礒城嶋天皇世の誤とする説もあるが、文脈からして宣化天皇世、欽明天皇世と続けて、ここで再び礒城嶋天皇世が出てくるのは不自然である。
また宮の名を使う例では下記が挙げられ、礒城嶋天皇世という書き方には違和感がある。
「斯歸嶋宮治天下天皇」 (元興寺伽藍縁起)
「磯城島宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
「磯城嶋宮御宇天皇」 (舒明即位前紀、孝徳紀大化元年八月)
「志紀嶋宮御宇天皇」 (出雲風土記神門郡)
「志貴島宮御宇天皇」 (出雲風土記意宇郡、山城風土記逸文)
「嶋宮御宇天皇」 (播磨風土記餝磨郡)
「磯城嶋金刺宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
ここはやはり珠敷天皇世が本来の伝承であろう。 実は欽明紀によればこの年に敏達が皇太子になっているのである。つまり継体紀に見た如く天皇であった欽明ではなく、皇太子が外交を行っていたのではないか。そのことが三代実録の誤伝となったのであろう。
さらにα群ではないが、允恭紀にもその痕跡がある。允恭の崩御の後、新羅の使者に対応したのは、允恭の後を継いだ安閑ではなく、後の雄略天皇の大泊瀬皇子である。また允恭五年に反正天皇の喪の話題が出てくるが、允恭紀において政務に関連する話題があるのはこの年までである。古事記の反正崩年干支と履中崩年干支から読み取れる、反正在位年は五年であり、允恭紀の五年までは即位前の、皇太子時代の記述であったのではないか。
天皇が実質の政務を皇太子を摂政として任せた例としては、推古紀の厩戸皇子の例が有名である。 そして敏達紀以前の日本書紀の原史料では、各天皇の一代記として、即位前の事績も含まれていたのではないかと考えるのである。
11.夜の王と昼の王
前節でみたように、並列する天皇は並行王朝ではなく、皇太子のように後に即位する人物が、天皇の職務の一部を担う仕組みがあり、そのような即位前の事績が天皇即位後の事績として記録されたことによるものであろうと考える。 この結果政務を代行していた期間については、あたかも在位年が並行するように見えたのであろう。 では天皇の職務のどのような部分が代行されたのであろうか。 今まで見てきた中では、どうも天皇は外交については直接関与しなかったように見える。 これは記紀だけでは判然としないが、天皇の政務のあり方に関する情報は、中国史書にある程度の実態が残されている。 開皇二十年(600年)の倭国の使者についての隋書の記録には倭国の政治に関して不可思議な記述が見える。
「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」
拙訳
「開皇二十年、倭王の姓はアメ、字はタリシヒコでオホキミと号する。 (倭王は)使者を遣わして帝に詣らせた。上は役人を通じそのありようを聞いた。 使者の言葉によると「倭王は天が兄であり日が弟である。 まだ夜が明けない時に、跏趺して坐り訴えを聴く。 日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねる。」。 高祖は「それは甚だ義理にかなっていないから改めるように命じる。」と言った。」
すなはち、倭王とは夜に訴えを聞く存在で、昼間は政務を行わないというのである。 夜だけ政務を取るということを、日本書紀の崇神紀崇神記等に照らして考えるに、神のお告げを夢に聞くという記述があることに気づく。 軍事も外交も内政も通常は昼間に動いているのであるから、倭王は政治の実務を行わず、諸問題に対する最高決済として神意を聞く存在だったということになる。 ただし隋書の記述だけでは、昼の政務がどのような形態で行われていたのか判然としない。
この形態は魏志倭人伝にみる卑弥呼の政治形態を思わせる。 卑弥呼は人前に出ず、男弟が政務を助けていたとされる。 実際には厩戸皇子と蘇我馬子のように、政務は複数の人間が行っていたのであろうが、全体を統括する存在があったと考えたほうが分かりやすい。 夜の王に神意を問う前に、一旦は裁定できる人がいなければ実務は回らないであろう。 昼の王とでも言うべき存在があったと考える。 つまり古代天皇制は、祭祀を司る夜の王と、俗事を司る昼の王で行われていたと考えられるのである。
しかし隋の皇帝からは、理にかなわない奇習とみなされた。 これは国際社会で未開の国とみなされたも同然であり、東アジア社会の中での地位確立のために、隋への朝貢を求める倭王権にとって恥辱的出来事であったであろう。 隋の朝廷には、新羅や高句麗百済など、倭王権が外交を行う国々の関係者もいたであろうし、それらの国の一部の使者は、隋に留まって国際外交上の働きかけを行うものもあったであろう。 つまり倭王権はその当時の東アジア国際外交の表舞台で恥をかいたのである。 この事件は律令政権にとって、恥ずべき事件としてトラウマになっていたと考える。 このため日本書紀には、このような政務の形態も開皇二十年の遣隋使も記録されず、また天皇の政務形態も改められていったのであろう。 あるいは推古朝は倭の五王のように、隋からの爵位を求めたのかもしれないが、この事件での外交的ダメージを回復するために、あえて対等外交を目指し、対高句麗戦に力を入れていた隋も、倭国を高句麗の背後の大国とみなし、敵対的にはあつかわなかったと考える。
古代の政務の実態については、中国の制度を取り入れた律令政治の時代に編纂された、記紀だけではなかなか判明しない。 夜の王昼の王という考えは過激であるかもしれないが、金石文と漢籍により記紀研究の限界を超えることができたと考える。 推古紀の内容からすると、厩戸皇子が蘇我馬子のような重臣に諮り、実際の政務を行い、重大な案件については推古天皇が夜、宮殿で神意を問うという政務形態であったのであろう。 昼の王になるのは、推古紀の厩戸皇子や、欽明紀や三代実録から見える、珠敷太子の例からは、次期天皇になる皇太子が一般的と思われる。 しかし允恭紀の大泊瀬皇子のように、皇子の内有力な人物やがその地位にあることもあり、また継体のように、昼の王となった人物が次期天皇になることもあったのであろう。 一般に天皇に即位した人物は、その前に昼の王として政務を取ることが多く、その周辺の人物が残した一代記には、天皇即位前の事績が区別されず記録されていたことが、日本書紀編纂当初において、あたかも複数の天皇が並立していたかのような状況を、引き起こしたのであると思われる。
朝鮮半島では、524年と思われる蔚珍鳳坪碑に、寐錦王と葛文王の二人の王名が刻まれており、六世紀新羅王権が複数の王によって治められていたことが分かっている。 同様に日本においては、503年の隅田八幡神社人物画像鏡銘文とその石和田解釈をてがかりに、日本書紀を再検証することによって、王と呼べるような存在が複数あったことが推察できるのである。 以下の節ではここまで見てきた議論を前提として、継体朝から欽明朝を見たとき、どのような歴史観が得られるのかを見ていきたい。
12.前継体政権の存在について
まずは継体朝の謎の一つ、継体即位に至る経緯を検証してみたい。しかし実は今まで見てきた議論の延長上に、継体政権の前にその前段階の政権の存在が推察できるのである。
継体紀の検証のところでみたように、継体紀に並行すると考える仁賢紀に気になる記述がある。仁賢四年条の的臣蚊嶋と穗瓮君に罪があり獄死する記事である。並行する継体紀では、その翌年にあたる継体五年に山背の筒城の宮へ遷都している。この政変と継体朝に何らかの関連があったと考えられる。
私は継体の前任者は仁賢紀の四年に現れる穗瓮君で、的臣蚊嶋がその執政を助けたとみている。この政権はこのとき失脚し皆獄死となっているから、一族皆殺しにあったのである。 日本書紀で獄死というのはここ一か所であり、異様な印象を受けるうえ、日本書紀にも他の史書中にも、この二人の名は全くみえない。実に不気味なことであるが、この政権に関する一代記を残すような人々がいなかったため、日本書紀には何ら事績が伝わらなかったためと考えられる。
的臣というのは、応神紀に的戸田宿禰として朝鮮半島へ派遣されたという記事が日本書紀の初出で、特に欽明紀の半島での軍事外交の局面によく登場し、平安宮大内裏の東面南門にその名を残す。軍事氏族であったとみられ、直木幸次郎氏などの研究では、、河内・和泉・山城・近江・播磨に足跡があるとされる。応神紀仁徳紀での活躍は、いまだ氏族形成前のことで、仁徳紀に的臣祖盾人宿禰とあるように、後の的臣氏の祖先伝承中の人物であろう。その意味では的臣蚊嶋も同様であると思われる。
日本列島は日本海側の水運と太平洋側の水運に横たわる、長大な障害物とも言え、北から若狭湾、南から大阪湾・伊勢湾が入り込み、真ん中に琵琶湖のある近畿濃尾地域は、東西南北の流通路の交差する。的臣の足跡のある地域は、その西半分にあたり、半島情勢に詳しいことを含めて、昼の王の外交軍事をサポートするのにうってつけの存在だったと思われる。
穗瓮君については、何一つ情報がない。しかし筑紫君や下毛野君など地方豪族には地域の名を冠した「君」が何人か見えることから、この穗瓮は何かの地名であろうと思われる。私は穗瓮(ほべ)というのはさげすんだ書き方で、本来は穂部ではなかったかと考える。とすると穂という有力豪族もしくは、皇統につながる一族がいたということになる。
古事記の日子坐系図の中に、三川之穗別之祖という名が見える。また國造本紀には、生江臣の祖の葛城襲津彦の四世孫の菟上宿祢を穂国造に定めたとある。生江臣とさきの的臣は古事記には、葛城襲津彦の後裔として並べて書かれており、生江(いくえ)と的(いくは)で名前も似通っている。ただし、的臣は日本書紀には六世紀までの記録しかなく、文献上十世紀までにわずかに末裔の名が見えるだけである。そして氏族の成立する六世紀後半以降の本貫は不明である。
一方の生江氏はもっとも古い文献が七世紀後半の木簡で、主に奈良朝以降、続日本紀以降の氏族で、その本貫は越前足羽郡である。生江氏の新しさと、平安期に下る旧事本紀の成立時期から考えて、國造本紀にどれだけ信を置いていいのかの疑問はあるが、生江氏には三河国境に近い尾張山田郡にいた記録があり、何らかの伝承があったと思われる。
生江氏と的氏は、時代的にも地域的にも全くかぶらない。そのため全くの別物であると考えてしまいそうだが、これほどきれいに排他的なのは、逆にこの二つの氏族が密接な関係にあって、時代と共に名のりを変えたのではないかという疑いがでてくる。文献的には生江氏は七世紀以降の新しい氏族であるが、本貫とされる越前足羽には古墳中期以来の古墳群があり、族(やから)としては古くから続く人々であると考えられる。私は的氏の本貫が不明であることも併せて、この二氏は同根ではないかと考える。
的臣と生江氏の関連する地域を合わせると、この政権はほぼ継体と同じ地域基盤をもっていたと考えられる。この時期の朝鮮半島情勢からして、このような交易水運と朝鮮半島情勢に詳しい勢力の助けなしでは、昼の王の責務は果たせない情勢であったのであろう。
おそらく顕宗の崩御までは、日本書紀に皇太子とする仁賢が昼の王だったのであろう。仁賢の外交記録がないのは、外交の実務は穗瓮君の政権が担っていたのかもしれない。顕宗の崩御により、仁賢が順当に即位したが、そもそも血統断絶の中で、ようやく見出した後継者の二人のうち、一人が子を残さず崩御したのであるから、たちまち後継者不足に陥り、血統的にはあまり順当とは言えなかったであろう穗瓮君が昼の王になったと考えられる。
この政権の事績は全く残されていないが、継体が昼の王となったのが筒城の宮に入った後であれば、それ以前はこの政権の担当する期間であったはずである。継体紀にはこの期間の外交事績として、即位二年十二月条に、耽羅人が百済に通じたことと、三年春二月条で百済に使者を立てて、任那にいる百済から逃げた百姓を、百済に戻したことがある。耽羅の記事は南海中耽羅人とあって、明らかに百済視線であり、百済系文書にあったものであろう。また三年条も百濟本記云として、使者の名前を久羅麻致支彌とするが名前が分からないとする。つまり百済本記の記事をもとにした書き入れであり、対応する日本側の記述は無かったのであろう。これは恐らく穗瓮君政権の政策が、百済本記に残されたものであると考える。注目すべきはこの政策が、継体の行った任那四県割譲等と同じく、親百済的な政策であることである。すなはち継体は前政権の政策を継承したと思われる。
これは前政権の失脚が、政策によるものではなかったか、失脚させたが政策転換を起こすことのできるような、後継政権が作れなかった事を意味している。もしかしたら失脚の原因は、穗瓮君の血統的な問題であったのかもしれない。
日本書紀仁徳紀即位三十年冬十月条には、的臣の祖先の口持臣を筒城宮に派遣して、仁徳のもとを離れた磐之媛皇后を呼び寄せた話が出てくる。 そこでは口持臣の妹の国依媛が、皇后に仕えていたとの話がある。つまり少なくとも日本書紀の伝承では、的臣と筒城宮にはつながりがあるのである。私は穗瓮君の政権は、筒城宮で政務を行っていたのではないかと考える。 そうだとすると、継体は前政権の地域的勢力基盤と政策と政庁を引き継いだことになるのである。継体は前政権の一翼を担う存在だったのではないだろうか。
13.継体朝の歴史像
継体の即位の事情に関しては、実は二重の構造になっていることが分かる。一段目は金村が三国に迎えに来た時で、二段目は樟葉での即位である。
一段目については継体は金村の言を疑い即位をためらうが、河内の馬飼の助言によってうけることを決意する。記紀における天皇即位の話には、允恭の場合のように群臣の即位の願いにかかわらず重ねて辞退する話や、仁徳の場合のように他の候補がいて譲り合ってなかなか決まらない話などがある。しかし継体の場合のように、即位を勧める言葉を疑うというケースは他にない。またその直前に金村が倭彥王に即位を勧めようとしたところ、その兵を遠望した倭彥王は、顔色を失い逃亡したという。他の即位説話にない、実に不穏な空気が満ちているのである。しかも継体は三国にいたのに、身分の低い河内の馬飼の助言を受けているのである。
本稿の議論では、継体は前政権の一翼をなし、金村がやってきたときには、すでに樟葉いたことになる。身近にいた河内の馬飼の助言を受けるのは自然なことになる。さらに前政権は失脚し、関係者はみな獄死しているのであるから、不穏な空気も当然なこととなる。倭彥王もまた前政権の一翼を担っていたのであろう。彼は自分も前政権の失脚に連座し、金村の軍勢が捕縛に来たと勘違いしたのではないだろうか。結局継体は昼の王になることを決意し、前政権の政庁のあった筒城の宮に向かったのであろう。継体即位の二段目は、通常の推挙と辞退の話であり、後の継体十二年に筒城の宮にいた継体に、天皇即位の推挙を行った話が元なのであろう。
継体の天皇即位に関しては、大和入りが遅れたことから、大和の勢力の抵抗があったとされることが多いが、実際にその状況を、日本書紀に沿って説明した説については、少なくとも私は知らない。
しかし本稿の説では、継体の天皇即位は仁賢没後となるのである。ここで武烈即位前記が俄然意味を持ってくる。そこでは平群臣真鳥が、専横を行い王になろうとしたとある。血統的に真鳥が天皇にはなれないのだから、王になろうとしたという意味が問われる。
このとき大和には武烈がいた。武烈は仁賢の唯一の男子であり、仁徳の血を引くものとして、血統を重視する人々にとっては希望の星であったことであろう。実際その名のワカサザキはオホサザキと対をなしている。真鳥がその地位を奪おうとしたというのは、さすがに無理がある。
武烈は手白香の弟にあたり、手白香と継体の間に欽明があることから、この当時の出産状況を考えるに、継体の皇后になったとき手白香は遅くとも二十代前半、おそらく十代後半。皇后認ったのが継体の弟國での即位後なら、武烈はまだ少年であったことであろう。真鳥は血統正しい少年を天皇位につけ、自らは昼の王になろうとしたのではないだろうか。しかし武烈に何かあれば、昼の王が天皇位に付く可能性も残る。
真鳥は雄略紀にはすでに大臣として見えており、この時には既に高齢であったと思われるので、少年武烈が先に亡くなることはないように見えるが、このとき真鳥は自分の権勢を子孫の鮪に引き継ごうとしていたようである。鮪と大豪族の物部麁鹿火の娘である影姫との婚姻を謀っていたようなのである。物部は大伴金村の任那四県の百済割譲の際にも、金村と距離を取っていたようであるし、真鳥は物部を自分の勢力に引き入れようとしていたのであろう。 物部と姻戚関係を結べば、鮪の権勢は安泰となる。
しかし若い鮪が真鳥の後を継ぐことになれば、当然真鳥の子孫が天皇位につく可能性が出てくる。このため真鳥の専横もあって、武烈周辺の人々の人心は真鳥を離れることになったのではないか。
金村はそのすきを突き、武烈周辺に取り入り、真鳥とは異なる提案を行った。すなはち、自分の擁する継体を天皇に即位させ、武烈を昼の王にするのである。血筋の劣る継体が天皇になるとはいえ、壮年の継体とまだ若い武烈を比べれば、やがて武烈に天皇位が返ってくる。すなはち、武烈がまだ未熟なうちは、継体がいわば天皇位をあずかり、武烈の昼の王としての政務は金村が助けるのである。
金村はこの提案で武烈周辺の人心をつかむと、鮪と影姫の婚姻に割って入り、影姫を武烈に合わせようとする。しかし日本書紀の影姫の歌に、わが夫とあるように、影姫と鮪の婚姻は既になっていたのであろう。このため鮪は影姫を渡すことを拒む。金村は武烈をけしかけ、ついに鮪を討つ命令をうける。
金村は大伴の名の通り、自らは表に立たず、権威者に命じさせて自分の意を通してゆく。ついに鮪を討ち果たすと、真鳥の支持者は将来に対する期待も持てなくなり、真鳥は手足をもがれたも同然となる。そしてついに金村は武烈に対し、真鳥を討つ命令を出させるのである。
ここで平群氏について補足すると、平群の古墳の様相から、平群を本貫とする氏族は六世紀後半を遡らないとされる。しかしここに現れる真鳥や鮪は、稲荷山点検銘文に現れる祖先名のような、伝承上の人物であろうと思われる。仁徳紀に見る、「木菟宿禰、是平群臣之始祖」や古事記にみる「平群臣之祖名志毘臣」等というのが本来の形であろう。真鳥が討たれたのが、書記の継体十二年518年となるので、この時失脚した族(やから)の残党が平群に落ち着き、半世紀ほどした六世紀後半に平群氏として成立したと考えればよい。
継体はこのとき、大和に近い筒城から弟国に退いたのは、反継体派を刺激しないためであろう。反継体派の中心人物かなくなっても、物部には遺恨がのこったであろうし、安心できる情勢ではなかったと思われる。継体の得た神意は金村が武烈に伝え、武烈が同じ大和で継体の下についているような形を避けたのかもしれない。継体の天皇位は名目上は武烈からの預かりものだからである。
しかしここで想定外な事が起こった。武烈の方が先に亡くなったのである。なぜ早死にしたのかは書いてないのでわからないが、これは反継体派には打撃であったろう。継体はついに大和入りし磐余の玉穂に宮を構える。このとき継体の正当性は、手白香の生んだ欽明にあったと思われる。欽明は当時の風習として、大和の手白香のもとにいたのであろうが、525年の継体の大和入りとともに、王宮に入り名目上の昼の王になった。これが敏達欽明年の元年になったと思われる。同時にまだ幼い欽明を安閑が実質の昼の王として支えた。これにより、継体朝は盤石となったのである。
14.磐井の乱
継体を擁する大伴氏の権勢は絶頂に近づく。527年四月金村は継体を退位させ、安閑を天皇に即位させる。そして宣化を実質の昼の王として、欽明につける。これは自らの擁する継体朝の継承を確定するためである。しかしそれ以外にも目的があった。527年六月、筑紫の君磐井を攻める大戦争が起こる。これは日本書紀によれば磐井の乱であるが、筑後国風土記では大和側が突然攻め寄せたように書かれている。私は事実は金村による磐井の打倒であると考える。
敏達紀十二年秋七月条によると、天皇は復興任那のため、百済に仕える火葦北國造の阿利斯登の子、達率日羅を呼び戻そうとする話が出てくる。このとき日羅は宣化天皇の時代のことを述べるに際して、金村を我君大伴金村大連と呼んでいる。このことから金村は南九州の火の国に大きな勢力を持ち、そこを拠点に百済と関係を結んでいたことが分かる。
一方磐井は北部九州を中心に新羅と関係を結んでいたのであろう。大和政権内にはずっと、親百済派と親新羅派の対立があったと思われるところがあるが、親百済派の大伴金村にとって、北部九州の親新羅派の磐井は邪魔な存在であったのであろう。この百済派の政敵をねじ伏せようとしたのが、磐井の乱の真相であろう。
磐井の乱において継体を退位させたのは、総指揮官として経験が深く諸豪族を従える力を持つ継体を必要としたためである。金村は常にそうあったように、ここでも自分が前に出ず、権威の裏付けで動く形を取りたかったのであろう。継体に夜の間の政務でなく、実際に諸豪族の前に姿をあらわして指示させることが目的であったと思う。これにより大和政権は大軍を動員できた。実質は総指揮は大伴金村であるが、総大将として物部麁鹿火を現地に差し向けた。すでに政権内で物部麁鹿火と大伴金村の力の差は決定的であったのであろう。書記によれば、物部麁鹿火は出征にあたって、大伴氏を顕彰するような言辞を残したとされる。
15.欽明紀の再検証
絶対的な権力を握った金村であったが、常に継体を権威として利用し、自らは表に立つことはなかった。また実際に天皇家に自らの血筋を入れようなどという気もなかったのかもしれない。しかし531年辛亥の年に、金村が後ろ盾としていた継体だけでなく、安閑、宣化までもが亡くなったのである。これをして辛亥の変などと呼ぶ人もいるが、既に述べたように、日本書紀には変事は書かれていることが多い。重臣の名をみても、欽明即位時に金村の名があり、なんらかの変事により三人が亡くなったとすると不自然である。実際欽明即位後も、金村は難波祝津宮に伴われて行っている。そこで任那四県割譲の非を問われているのである。
権力者が同時に亡くなったケースとしては、奈良朝の聖武天皇の時に、藤原四兄弟が疫病でなくなった事があり、変事と決めつけることはできない。書かれていない以上は分からないとしか言いようがない。
ただ金村にとっては痛手であったことは間違いなく、大伴は大連からは外れてしまう。だたし欽明朝にはいっても、狭手彦の活躍などはあり、大伴氏は姿を消したわけではない。
では欽明はいつ天皇に即位したのか。天皇に即位した後では外交記事が少なくなるという傾向があるのであれば、外交記事であふれている欽明紀はどうなるのであろうか。しかし欽明紀の前半は、欽明紀というより百済聖明王紀と言った方がようように思えるほど、百済記事が多く、おそらく百済本記などが多く採用されていると思われる。
すでに述べたように欽明は辛亥年に天皇即位していると思われる。おそらくそれ以前に継体二十年の磐余玉穂の宮への遷都いらい、名目上の昼の王であったのであろう。先に見たように、敏達紀あたりからは、古事記崩年干支と日本書紀が年レベルではあってくる。これから敏達紀あたりからは、編年された史料がそろそろ存在した可能性があると考えたが、欽明紀は各天皇の一代記からそのような編年された史書への、ちょうど過渡期にあたると思われる。そのため三種の即位年があるなどの混乱もあるが、敏達の立太子あたりからは、次第に政権に関する記録としての性格が現れてきていると思われる。
天皇系図については、既に五世紀に文字化が始まっていたと思われるが、最初の系図は稲荷山鉄剣銘文の系図のように、即位した王の名を父子継承で列記しただけの物であったと思われる。しかし六世紀にはいると、顕宗紀に引かれる譜第のような、血縁関係を含む系図に変わって行ったと思われる。そして通説によれば、欽明朝に欽明紀に見える帝王本紀が作成されたとする。津田左右吉によれば、古事記序文に見える旧辞もこのころとされる。まさに欽明の時代は日本の歴史記録の転換点だったのである。このため、欽明紀以前の原史料にたいして考えた、天皇一代記的な観点だけでは、欽明紀は評価できなくなっていると思われる。
16.残る課題と展望-まとめに代えて-
本稿では隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文を端緒として、日本書紀の編纂プロセスに関して考察してきた。その結果として、日本書紀継体紀から欽明紀にかけての、編年上の矛盾がほとんど編纂プロセスによって引き起こされたことを主張する。同時に古代日本の天皇制の形態についても、新たな仮説を提示した。
この仮説では、特に継体の大和入りが遅れた経緯について、日本書紀に記述にそって理解できることを示した。また磐井の乱に関しても、新しい観点を与えることができたと思う。
しかしまだ全てが理解できたわけではない。特に継体安閑宣化欽明の並立する、527年から531年までの、各天皇の役割が明らかとは言えない。既に述べたように、 安閑紀の即位元年閏十二月に、先に物部尾輿大連の記事が現れ、宣化即位元年七月に物部麁鹿火大連の死亡記事が現れる。両者とも即位時には物部麁鹿火を大連としているのであるから、二人の即位元年は同じ年であるか宣化元年の方が先でなければならない。
安閑に関しては譲位記事があるのと、安閑皇后が天皇即位した若い欽明の補佐を行ったと思われることから、天皇になっていたと思われる。安閑皇后が実質的な天皇位にあったとすれば、後の女性天皇が皆皇后であったこととも整合する。
しかし宣化については果たして天皇位についたかどうかも今のところ分からない。実のところ武烈については、本稿の結論は天皇になるべき存在であったが、天皇にはなっていないと考える。宣化については、後の欽明皇后である石姫がその娘であることから、後の天皇家にとっては武列と並んで、天皇であったとして欲しい存在であろうとは言える。
この並行期間の権力構造は、単純ではなかったのかもしれない。後の時代にも、複数の皇子の並立する時代があり、支持する豪族の権力闘争のもとになっている。
もうひとつ物部麁鹿火大連は、継体二十二年の冬十一月に磐井の乱を収束させていることになるので、宣化紀と継体紀が並行するとしても、少なくとも宣化元年は継体二十二年以降となる。もしも辛亥年の同時崩御を採用するなら、宣化の在位年は三年までになるはずであり、日本書紀の四年と異なってくる。
このような課題がまだ残っていることも事実であるが、本稿の仮説は日本書紀を読み解く上で、重要な意味を持ってくると考える。本稿のスコープは顕宗紀から敏達紀までであるが、日本書紀α群の性格のよく似た部分としては、雄略紀と清寧紀がある。本稿の仮説に基づき分析した結果、倭王武と興の朝貢について、あらたな視点が開けることを報告して、本稿を終わる。
17.補註
★補註2.1.三国史記と百済新選における武寧王即位年の違い[戻る]三国史記年表では、東城王が暗殺されたその年に武寧王が即位したことになっているため、その干支の対応するのは501年であるが、三国史記百済本紀では、東城王は十二月に亡くなり、武寧王即位は春正月となっているため、即位年は502年で日本書紀の記述にあっている。日本書紀は百済本記の干支を利用したのだろう。
★補註6.1.当年称元法と越年称元法[戻る]日本書紀では天皇即位年の翌年を元年とする、越年称元法が取られている。 ただし年が改まって即位した場合や、譲位の場合には即位した年が元年になる。 ほかに三国史記年表のように、当年称元法という方式もあって、即位年を元年とすることもある。 この二つがしばしば混在して混乱を招くが、一年だけずれた場合はその原因が称元法の違いに起因する可能性がある。 上宮聖徳法王帝説は当年称元法での、在位を言っていると思われる。 一方元興寺伽藍縁起では越年称元法を取り、仏教伝来の戊午を欽明の七年としている。
★補註8.1.日本旧記について[戻る]雄略紀に引く日本旧記のような、旧伝を記した書物もあったことは確かであるが、おそらく古事記のように、ずっとのちの時代に口承伝承をまとめた史料であったであろう。
★補註8.2.推古天皇の年齢について[戻る]推古紀には敏達崩御の年齢は三十四歳となっていて、推古が皇后迎えられた年齢十八歳と敏達の在位十四年に矛盾する。 しかし崩御年や宝算などとは相互に矛盾が無く、また古事記崩年干支とも矛盾がない。 おそらく敏達崩御の際の年齢ではなく、用明崩御の際の年齢を誤って伝えたものであろう。
★補註10.1.聖明王即位について[戻る]日本書紀継体紀には十七年夏五月に百濟國王武寧の薨、十八年春正月に百濟太子明卽位の記事が見える。三国史記では武寧王の崩御と聖王明の即位は同年となるが、百済系史料によったとみられる日本書紀には時間差があることが分かる。継体紀十二年から十九年を武烈紀に並行させると、この百済王の薨と即位に対応して、それぞれ百済の使者麻那君と期我君の記事が見える。武烈紀では麻那君に対してはしばらく朝貢がなかったとして拘束し、後から来た期我君は麻那君は百済王の族(やから)ではないとして、自分が仕えるとしている。明記していないので憶測になるが、武寧王没後半年以上即位できなかったのは、王位継承が必ずしも順調でなかったことを示すのかもしれない。武寧王が即位するまえに、何者かが倭国の関与を求めてやってきて、倭国に拒否され、明の使者によって置き換えられたと解釈できる。麻那君を遣したのが百濟國であり、期我君を遣したのが百濟王であるのは、単純な言い換えなどではないのではないか。
18.参考文献
- [戻る](0.1)『福井県史』通史編1 原始・古代 第二章 若越地域の形成 第二節 継体王権の出現
- [戻る](0.2)日本書紀 岩波文庫(三)補注17-21
- [戻る](1.1) 石和田秀幸 隅田八幡神社人物画像鏡における「開中」字考
- [戻る](1.2) 石和田秀幸 上代表記史より見た隅田八幡神社人物画象鏡銘:「男弟王」と「斯麻」は誰か
- [戻る](1.3) 石和田秀幸 隅田八幡神社人物画象鏡銘釈読考
- 日本書紀 岩波文庫(三)(四)
- 全現代語訳 日本書紀 宇治谷孟 講談社学術文庫
変更履歴
- 2021年07月10日 ドラフト版
白石南花記
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