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1.金印考(1)

ー儋耳朱崖と極南界の倭奴國ー

偽印説について

「漢委奴國王」金印は、江戸時代の天明四年(1784年)に志賀島で発見されました。 発見直後に連絡を受けた亀井南冥は、後漢書東夷伝倭条の記事に見える光武によって授けられた印と考えました。 これは現在定説となっていて、実物は国宝とされ福岡市博物館に所蔵されています。

しかしこの印に関しては江戸時代より、発見の経緯や発見場所が海上の島であることから、偽印の噂が絶えなかったものです。 かっては蛇紐が漢の印制について記された漢旧儀記述にないことや、印面の文字が「漢倭奴國王」でなく「漢委奴國王」であることもその理由にされました。 近年も古事記研究家の三浦佑之氏が『金印偽造事件 「漢委奴國王」のまぼろし』を著わし、偽物である可能性を指摘しています。 これに対しては様々な反論がありますが、最近のものでは石川日出志氏の『金印真贋論争の考古学的再検証』による、蛇紐と印面の文字の形式学的分類をもとにしたものが最も有力であると思われます。 それによると蛇紐と文字の様式は、後漢初頭のものと考えられると言います。 石川日出志氏をはじめ、ネット上にも幾つか参考になる論文が上がっています。
「漢委奴國王」金印―真贋論争から璽印考古学へ―
金印と弥生時代研究-問題提起にかえて-

私見では後漢書帝紀に東夷倭奴國王遣使奉獻とある記事をもとにして、「漢委奴國王」の印面は考えられないこと、蛇紐の漢印は江戸期にはあまり知られておらず、そもそも日本列島の国にあたえられる印の紐が蛇紐になるとは誰も知りえなかったことから、この金印は真印もしくは真印をもとにした極めて精巧なレプリカであると考えます。 つまり万が一レプリカであるとしても、学術的価値があるということです。

発見場所と后土祭祀

金印に関する疑問の一つが、志賀島という発見場所が埋納場所として相応しくないというものです。 発見場所は海上の島の海際で、発見時の記録によれば大した施設もなかった様です。 しかもその位置は当時の写真と現状を見比べると、海食によってすでに失われていて、追調査もできない状況です。 当時の記録に対する疑問もあり、偽印説の消えない理由の一つでもあります。 しかしこの問題については、志野敏夫氏の『漢の礼制から見た金印「漢委奴国王」』に述べられた北郊説が説明しているかもしれません。 以下同論文により引用します。

后土を祀ることは、前漢武帝のときに始まり、3年、3年、2年、1年、4年という間隔で行われた。 武帝期の最後に行われたのは、天漢元年3月のことであったが、注目されるのは、その前年、李広利が大宛を下して汗血馬を手に入れ、武帝はそれを喜んで「西極天馬之歌」という歌を作ったということである。 この歌は、実は郊祀の際に奏される郊祀歌とされているのである。 当時の漢の人々は、もちろん大宛のさらに西にも国々があることは知っていた。それにもかかわらずそこを「西極」とし、翌年、その歌が北郊祀で奏されたのである。 この天漢元年の后土祀を最後に、武帝が死ぬまでの13年間、后土祀は行われない。 それまでは数年おきに行っていたことからすると、西の極まで帰服させたことで、天下に皇帝の徳が及びつくしたので、后土は以後祀る必要がなくなった、ということであったと考えられるであろう。 そうであるならば、「漢委奴国王」には、たんに遠方から来たので金印を授けた、のではなかった。まさに「南界」の「極からやってきたからこそ、賜与されたのではなかっただろうか。 竹内實氏は、金印の「関字の秀りが上と下とで切れていて、下が当時の他の「漢」字には見られない「火」字になっているのは、漢火徳説によるのではないかと述べられている。 火徳漢王朝にとって、火徳南方の極にまで皇帝の徳が及んだという事実は、きわめて重要なことであったに違いない。 与えられた金印に「火」字が入れられていることは、まさに火徳皇帝による天下支配を示したものにほかならず、「東夷」の国に対して「南界」を極めた所と言っていることも、それは地理的な意味ではなく、火徳に応じたことであったと考えることができるであろう。したがって東夷列伝の記事は、「倭国之極南界也」で止めて読むのではなく、「倭は国の極南界なれぱ、光武賜ふに印綬を以ってす」と続けて読むべきであろう。

すなはち後漢書の文面でしばしば難解とされる倭國之極南界也とは、光武帝の徳が南の果てに及びつくしたことを、北郊に置いて宣言するための演出であった可能性があると言うのです。 後漢書東夷伝倭条の記事倭國之極南界也光武賜以印綬をそのまま「倭は国の極南界なれぱ、光武賜ふに印綬を以ってす」と読み取れるのかについては、異論のあるところかもしれません。 しかし後漢書の原史料とされる東観漢記などに、倭奴國は漢の威令の届く南極であるとする記述があったならば、范曄がそれを受けて独自に解釈した文面が倭國之極南界也である可能性はあると思います。 この点については後ほど私見を述べます。

後漢紀には下記のようにあります。

二年春正月辛未初起北郊祀后土丁丑倭奴國王遣使奉獻
  (拙訳)二年春正月辛未、はじめて北郊を建て后土を祀る。丁丑倭奴國王が使いを遣わし奉獻した。

倭奴国の遣使は同月丁丑、すなはち北郊を立て、后土を祀ってから六日後のことであることが分かります。 使者はすでに北郊の儀式のときには洛陽に到着しており、漢朝は使者を控えさせて北郊の儀式を行い、使者はその儀式を見た可能性があるのです。 光武帝の崩御は二月戊戌ですから、后土を祀ってから僅かニ十七日後になります。 后土祀の時には、すでに状態も良くなかった可能性があります。 后土の儀式は皇帝が立ち会わないこともあったようで、光武帝は立ち会わず、儀式の終了後に使者謁見のみをおこなったのかもしれません。 本来后土(地)を祭る北郊は夏至にやるものであったようで、本来の后土の儀式の時期を待っていることは出来なかったのではないでしょうか。 ことによると倭奴国の遣使はその死に遭遇した可能性さえあります。

北郊祀の行われた北郊祠は漢旧儀に「澤中方丘也」とあり、水中の丘にあったとされます。 志野敏夫氏の論文によると、倭奴國の使者が大陸で目にした北郊の儀式をまねて、国の北側にある「海中の丘」を北郊祠に見立てて埋納したと考えられているようです。

同じく漢旧儀に「南郊焚犢北郊埋犢」とあって、南郊の儀式では仔牛を焼き、北郊の儀式では仔牛を埋めたとします。 印綬は受けた人物が亡くなったときには返納するのが本来ですが、倭奴國では返納せずに仔牛を埋める儀式の際に埋納したのかもしれません。

志野敏夫氏の論は金印の発見場所のみならず、これまで解釈が難解であった倭國之極南界也の一文の現れた背景を説明している可能性があるのです。

朱崖儋耳に相近し

前節でみた志野敏夫氏の説を間接的に支持するような重要な記事が、後漢書楊終列伝の上書の一節にあります。

秦築長城,功役繁興,胡亥不革,卒亡四海。故孝元弃珠崖之郡,光武絕西域之國,不以介鱗易我衣裳。
  (拙訳)秦は長城を築いて労役を頻繁に興しましたが、胡亥がこれを改めなかったため、ついに四海を失いました。前漢皇帝の故孝元は珠厓の郡を棄て、後漢の光武は西域の国を断ち、異民族の衣を我々の衣裳に換えませんでした

この上書は建初元年(西暦76年)のもので、これは建武中元二年(西暦57年)の倭奴國朝貢のわずかに19年後のことです。 この例では前漢の珠厓の放棄と、後漢光武帝の西域の放棄が対比されており、これは漢帝国の領域観を示していると思われます。 つまり南界としての珠厓と、西界としての西域です。 前漢武帝は西域の国を「西極」として、そこに威令が届いたと言う歌を北郊祀で奏し、それをもって最後の后土祀としたのです。 そこを放棄した後漢が、土地の祭祀である后土祀を行い、前漢時代に劣らぬことを示すためには、その代わりが必要になります。 前漢が放棄した珠厓に代わる倭奴國を、新たに後漢の威令が届いた「南極」として后土祀を行い、光武帝後の繫栄の継続を願ったと考えられないでしょうか。 前漢の朱崖儋耳は海南島と比定され、前漢の領土としては異例の海を渡った島の上にあります。 海中にあるという倭は、その意味でも倭奴國を朱崖儋耳に代わって、漢の威令の届く南極とみなす必然性があったと考えられます。 そしてこの楊終の証言から、後漢書や三国志において倭國の位置を指定するのに、珠厓という極端な地名が現れてきた理由も理解できるのです。

註:水經注に引く晋の王範の交廣春秋に次のようにあります。朱崖、儋耳二郡,與交州俱開,皆漢武帝所置。大海中,南極之外。 また57年の朝貢と同時代の著作である王充の論衡にもこのような地理観の影響が認められます。倭奴國朝貢と鬱林郡の倭人ー後漢代の倭國地理観ー

東観漢記における倭奴國

ほぼ同時代史料とも言える東観漢記には、倭奴國はどのように描かれていたのでしょうか。 残念ながら東観漢記は滅んでしまって、わずかな逸文しか残っていません。 三国志の書かれた時代、史記、漢書、東観漢記は三大史書とされ、編者の陳寿は対象読者である教養人が、当然それらを読んでいることを前提としていたでしょう。 また後漢書は東観漢記を主な原史料としたと考えられています。 このことから東観漢記の内容は、三国志と後漢書から推察することが可能です。

これまで後漢書東夷伝に見える、倭國の極南界の語の説明には、概ねつぎの二つが有力視されてきたと思います。 ひとつは後漢書を書いた范曄が、魏志倭人伝の女王国の南の境界とする倭奴國を、原史料にあった倭奴國と考えたという説です。 もうひとつは、後漢の時代の倭國は朝鮮半島から海峡を渡り、北部九州までの地域であったため、北部九州の倭奴國がその最南部であったとするものです。

しかし志野敏夫氏の説が正しいとすれば、それらの説とは次のふたつの点でまったく異なる結論に至ります。 倭奴國を極南界とする記述は、五世紀の後漢書に始まるのではなく、後漢代初頭の漢の威令の届く南極という認識に、その起源があるということです。 そして想定された倭奴國の地理的位置は、実際の地理には関係せず、後漢王朝側の政治的都合で考えられた事であるということです。

後漢書東夷伝倭人条には倭國の位置として下記のように記述されています。

倭在韓東南大海中(中略)樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與朱崖儋耳相近,(中略)倭奴國奉貢朝賀,(中略)倭國之極南界也
  (拙訳)倭は韓の東南大海中にあり。(中略)楽浪郡の境はその国から一万二千余里、その西北の境界拘邪韓國から七千余里離れている。その地はだいたい會稽東冶の東にあり、朱崖と儋耳に近い。

従来この後漢書の記述は、後漢書より先に成立していた三国志の魏書東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝の下記の記述をもとにしたものと考えられることが一般的でした。

倭人在帶方東南大海之中,(中略)到其北岸狗邪韓國,七千餘里,(中略)自郡至女王國萬二千餘里。(中略)計其道里,當在會稽、東冶之東。(中略)所有無與儋耳朱崖同。
  (拙訳)倭人は帯方の東南大海中にいる。(中略)その北の対岸狗邪韓國までは七千余里。(中略)郡から女王国に至るには一万二千余里。(中略)その道のりを計ると、ちょうど會稽東冶の東にある。(中略)(その風俗産物の)あるなしは儋耳、朱崖と同じである。

しかし志野敏夫氏の説に従うと、倭奴國は前漢時代の儋耳朱崖に相当すると言う地理観が、後漢時代に既に成立していたことになります。 同時に三国志の下記の記事から、倭奴國が倭人の國であるとの認識があったことがわかります。

自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫。
  (拙訳)昔からその使いが中国に詣でると、皆太夫を自称した。

これは後漢書の倭奴國朝貢に関する下記の記述と関連しています。 両者は東観漢記の同じ記事をもとにしているのでしょう。

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫。
  (拙訳)建武中元二年、倭奴國が貢物を奉じ朝賀した。使いの者は太夫を自称した。

つまり両書の先行史書である東観漢記にも、倭奴國は倭人の國であるとの認識があったのです。 後漢書や三国志の倭國に対する地理的記述は、実は後漢書の原史料であった東観漢記の記述を引いたものである可能性が出てくるのです。

そこで二つの史書の地理的記述を見比べてみると、中国との地理的関係を述べた部分で微妙な差があることに気づきます。 會稽東冶との関係に関しては、後漢書ではその位置をだいたいその東であるとしているのに対し、三国志では正に東としていて、位置をずっと絞っていることが分かります。 ところが朱崖と儋耳との関係に関しては、後漢書では近いとしているのに対して、三国志では風俗が似ているとなっているのです。 そもそも朱崖と儋耳は、海南島に比定されていて、福建省福州市のあたりとされる東冶県の東とは、方位も位置もまるで違うのです。 つまり三国志では後漢書に比べて、その位置をぐっと現実的で具体的なものにしていることが分かります。

もう一つ指摘するとすれば、東冶県は孫呉の永安三年(西暦260年)に建安郡の一部となっていて、三国志の書かれた時代には會稽郡ではありません。 會稽東冶の東という位置の指定自体が、少なくとも三国志の書かれた時代の、同時代的な表現とは言えないのです。 このことから、だいたい會稽東冶の東のあたりであるとか、朱崖と儋耳に近いという地理的記述は、後漢書の原史料である東観漢記にあったものであり、三国志もそれを引いたうえで、里程などの情報をもとにその位置を確定したと考えられることになります。 「まさに會稽東冶の東にある」という表現は、前史を引いたうえで、調べてみればまさにその通りであるというニュアンスであることになるのです。 このように後漢書と三国志の倭國に対する記述の比較からも、志野敏夫氏の論が正しいことが示唆されてきます。

孫呉の目指した倭

三国志呉書にも、志野敏夫氏の説を裏付ける証拠があります。 渡邉義浩氏は孫呉の国際秩序と亶州に於て三国志呉書吳主伝の例を挙げて、會稽東冶の東に徐福の到達した亶州があり、それが倭国であると考えられていたと指摘します。

外臣として、すでに後漢から王として金印を受けている倭国を朝貢させれば、孫呉の国際秩序において、倭国を「東夷」と位置づけることができる。となれば、孫権が、衛温・諸葛直に「甲士万人を将ゐて海に浮か」べた第一の目的は、人狩りではない。孫権が送った「甲士万人」は、孫呉の中華としての武威を示すためのものであった。衛温・諸葛直は、倭国を朝貢させるという第一の目的を果たせなかったが故に、罪を問われて獄死したと考えてよい。

呉書吳主伝の記述によると、夷州と亶州に派遣された衞溫、諸葛直は夷州までしか到達できなかったため処罰されます。 この遠征は會稽東縣の人が、嵐にあって亶州に至ったという話をもとにしたようで、會稽東縣とは會稽東冶縣をさすのでしょう。 その現在地である地福建省福州市の沖合には夷州と思われる台湾があり、三国志呉書陸遜伝の記述を見るとここには遠征軍は行きつけたようですが、その先の亶州と呼んだ地域にはたどり着けなかったようです。 記述を見る限り、亶州から人がやってきて商売することがあるが、中国側からは難破以外で行きついた者はいないようです。 そのような場所に軍勢を送ろうとしたということは、會稽東冶の東に倭國があるという情報があったからに他ならないでしょう。 渡邉義浩氏の言うように、孫権が夷州を取ろうとしたのは、本来その先の亶州を東夷として従えるという政治的な目的であり、亶州とはおそらく倭國を想定したものでしょう。

注目すべきはこの東征の時期が黄竜二年(西暦230年)で、曹魏への最初の倭人朝貢よりも前であることです。 すなはちもしも亶州を倭と考えていたとしたら、倭が會稽東冶の東にあるという地理観は、卑弥呼の朝貢以前に確立されていたはずであるということです。 しかも実に興味深いことに、三国志呉書陸遜伝には、孫権が最初夷州と朱崖に兵を送って取ろうとして、陸遜に無益であるとして諫められたが、結局遠征を行ったという話があります。 孫権は人口の不足に悩んでいたようなのですが、陸遜は孫権を諫めるに際し、珠崖は険しい土地で民は獣のようであり、兵力や人手の足しにはならないとしています。 陸遜伝に夷州と朱崖に兵を送ろうとしたとするのは、目的地が倭國であったとすれば、東観漢記に會稽東冶の東で朱崖と儋耳に近いと書かれていたことを裏付けます。 孫権は亶州攻略に失敗したものの、赤烏五年(西暦242年)には結局、珠崖儋耳にも兵を起こしています。 孫権が最初夷州と朱崖を目指したという記事は全琮伝にもあり、ここでも孫権は無益であると諫められています。 遠征しても無益であると再三諫められても実行したのは、占領することが目的ではなく、倭國に通じることが目的だったのでしょう。 孫権にしてみれば、倭國が全く方位の違う、會稽東冶の東で朱崖儋耳の近くという情報にさぞや当惑したことでしょう。 ここで述べた倭國に関する地理情報が、後漢代に遡るであろうという推論は、既に手塚隆義氏の 孫権の夷洲・亶洲遠征について でなされています。 しかし発表されたのが1969年で2014年の志野敏夫氏の論よりも前であるため、全体に慎重な言い回しになっています。

倭國の極南界

後漢書の選者范曄は、倭奴國についてどのように考えていたのでしょう。 范曄は少なくとも東観漢記と三国志を参照できたでしょう。 東観漢記は三国志成立時期の三大史書であり、三国志東夷伝の冒頭に前史に備わっていない部分であるとしているところから、そこには東夷伝がなかったとするのが一般的な理解でしょう。 すると倭奴國の朝貢は、帝紀の中に短い文章で書かれていたと思われます。 ここまでの話が正しければ、そこでは倭奴國を倭人の國であるとし、その位置を朱崖儋耳に比較し、漢の威令の届く南極であるとの記述があったはずです。 范曄は先行史書である三国志に倭奴國を探したでしょう。 しかしそこに倭奴國はなく、范曄は倭奴國を倭の奴国と判断することになったでしょう。

三国志には倭人の國として、二つの奴國が記載されており、その一つには下記のようにあったのです。

次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國(中略)不屬女王。
  (拙訳)次に奴國あり、ここは女王の境界のつきるところ。その南に狗奴國があり、(中略)女王に属しない。

これは女王に従う最後の国が奴國で、その南は女王には従っていないということです。 後漢の時代に朝貢してきた倭奴國は、漢の威令の届く南極にありました。 そして曹魏の時代に朝貢してきた、女王に従う南極は奴國だったのです。 范曄がこれを見て、倭奴國はこの女王に従う最南部の奴國であると考えて、倭國の極南界と書くことは自然なことであると思われます。

今回は志野敏夫氏の論文を手掛かりに、後漢書に見える、倭奴國が倭國の極南界であるとの記述と、三国志や後漢書に倭國の位置を朱崖儋耳に比較している理由を考察しました。 後漢代倭國の地理的認識に関して、王充の論稿に非常に興味深い記述があります。


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