韓伝謎の一文
ー古辞の語る三世紀の韓ー
三国志東夷伝韓の条の読めない文
三国志魏書東夷伝倭人の条、所謂魏志倭人伝(以下倭人伝)で有名な三国志魏書東夷伝には、倭人伝以外にも中国東方の多くの民族の記録があります。
三国志魏書東夷伝の韓の条(以下韓伝)には、三世紀の朝鮮半島南部、おおよそ現在の韓国の領域に住んでいた、古代の人びとである韓族の記録があります。
表題の韓伝謎の一文とは私の造語で、一般的では有りません。
韓伝にある、下記の赤線部分を指します。
辰王治月支國。臣智或加優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。其官有魏率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。
拙訳:辰王は月支國に治し、臣智は優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉の号を加う。その官に、魏率善邑君・歸義侯・中郎將・都尉・伯長あり。
ここで韓伝によれば、臣智は韓の国でも比較的大きな国の首長の称号(以下号)であるとされています。 最も素直な読み方をすれば、拙訳として挙げたように、臣智には長い長い別の号があったと考えることになります。 これは長い間三世紀の韓族に関して、重要な情報が書かれているのではないかと疑われてきた文ですが、何が書かれているのか未だに誰も解明していません。 読めないものはしょうがないと思うのですが、この中に臣雲、安邪、拘邪などの国名が見えるのです。 これが国名であると考えられるのは、韓伝にはその当時の韓の小国の名前の一覧が記載されているためです。 国名の数は79ヶ国に及びます。 韓の歴史に興味ある人は、この長い長い別号には、それら殆ど名前だけしかわからない国々の関係が記されていると考えたのです。 さらには後の時代の百済、新羅、伽耶などの国々の成立の謎も隠されているかもしれません。 それら三世紀の朝鮮半島南部の小国は、倭人伝に見える多くの小国と何かの関係があるかもしれません。 直接韓の歴史に関心がなくとも、三世紀の倭国、人気の邪馬台国に関心のある人にとっては、大いに気になるところです。
この文に関する私の興味は、だいたい下記の二点にまとめられます。
1.此の文(赤線部の文)はいったい何に関して書かれたものだろうか。韓全体か月支國に関するものか。
2.この文中に現れる濆臣は、国名の一覧に含まれる臣濆沽國の事なのか。
1番目の疑問点に関しては、武田 幸男氏の朝鮮史などを見ると、この文は月支國の臣智に関するものとしています。 同書によるとこの号の中に見える臣雲は、馬韓の国名一覧に見える、朝鮮半島西南部と想像される臣雲新國であるとして、朝鮮半島東南部と想像される安邪國、拘邪國から、朝鮮半島をぐるりと回って、一般に忠清北道北部から、京畿道南部と想像されている月支國までの通商ルートの存在した根拠としています。 でも上に挙げた文は、韓伝の中でも馬韓の国名の一覧と、韓全体の歴史に関して書かれた部分の中間にあって、この文がどちらに付いて書かれたかはっきりしないと思われます。 確かに韓の国名が幾つか現れていますが、もしもこの文が韓全体に付いて書かれたものとすると、この臣智についての長い長い号は、実はいくつかの国々の臣智の別号を合わせたものであると理解可能です。 つまり臣雲新國の遣支報、安邪國の踧支、拘邪國の秦支廉という具合です。
ここで2番目の疑問点が登場します。 間に挟まった濆臣離兒不例については、臣濆離兒不例の誤とし、韓伝の国名一覧に見える臣濆沽國の離兒不例とする説が古くから有力な説としてあるのです。 ただこれに関しては、そもそも濆臣になっているものを、わざわざひっくり返してまで国名として読む理由がありません。 この号の部分については様々な説があります。 例えば濆臣をひっくり返したりせず、安邪國の号を踧支濆とし、臣離國の兒不例とするものなどです。 この説では遣支報、踧支濆、兒不例、秦支廉と、号が揃ってくるのですが、問題は韓の国名の一覧には臣離國などと言う国は無いことです。 また拙訳では優呼を号の一部としていますが、これをどうするのかも問題です。 優呼を号から外して、優れた呼び名とする説もあり、実はそのほうが有力な説です。
さて上で挙げた二つの疑問点に関しては、韓国歴史学者の尹龍九氏は國史館論叢 第85輯 三韓の對中交涉とその性格と言う論文の中で、この一文を韓全体に関する可能性を否定できないとし、臣濆の倒置に関しても疑問を呈しています。 少なくともそれを前提とした歴史議論には否定的です。 本当にこの文は韓全体に対するものでしょうか、それとも月支國に対するものなのでしょうか。
なぜ歸義侯なのか
この文が何に付いて書かれたものか、この文と後に出て来る韓全体の歴史に関する記述の間にある、官名に関する記述が、それを検討する材料になると思います。
ここに実は予想外なことが書いてあるのです。
書いてある官名は魏率善邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長の順になっています。
しかし魏率善邑君は銅印レベル、歸義侯は金印レベルの官になります。
それ以降は記述順と官のレベルは一致しています。
なぜ魏率善邑君が最初に来ているかですが、これは魏の時代の記録であるからではないでしょうか。
韓伝には下記の様な記録があります。
諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。
拙訳:諸韓の国の臣智に邑君の印綬を加賜し、それに次ぐものを邑長とした。
韓の大国の首長である臣智には邑君を与え、それ以下には邑長を与えたと言うのです。 しかし問題の官名記述には邑長は見えません。 つまりこの官名は、韓全体に関する記述ではなく、臣智のいる、ある大国に関する記述であることになります。 そうすると此処の記述は、やはり月支国に関するものであると思われます。 この官名記述が月支国に関するものであるならば、その前にある謎の一文も月支国に関するものだということになります。
それにしても魏の与えた魏率善邑君を上回る、歸義侯、中郎將は一体誰が与えたものでしょうか。
魏はそれを継承しなかった事になります。
後漢書には下記の記録があります。
建武二十年、韓人廉斯人蘇馬諟等詣樂浪貢獻。光武封蘇馬諟為漢廉斯邑君,使屬樂浪郡,四時朝謁。
拙訳:建武二十年(44年)に韓人の廉斯の人蘇馬諟らが、樂浪に詣て貢物を献上した。光武帝は蘇馬諟を廉斯邑君として封じ、樂浪郡に所属させ、四季をもって朝謁させた。
後漢王朝もまた、韓の国には邑君しか与えていないようなのです。 魏は漢の処置を継承していると言えます。 そうするとこれから言えることは、歸義侯、中郎將を与えたのは、中央の王朝ではないと言うことです。 恐らく遼東に割拠した、公孫氏政権ではないでしょうか。 この文に対応する節略文が、翰苑に引く魏略にあることから、この文の原史料は魏略であると思われます。 魏に滅ぼされた公孫氏政権の与えた官が一応記録されているのは、魏略のこの部分の原史料が地方文献であったことが原因だろうと思います。 この点は私の論稿倭人伝の到と至を御参照下さい。
号を文字化したのは誰か
謎の一文が月支國のものであるであるとすると、含まれる長い長い号は月支國の臣智に対するものであるということになります。
優呼を号に含めず下記のように区切って、韓のそれぞれの国に関する複数の号があったとする説には既に触れました。
臣雲遣支報
安邪踧支濆
臣離兒不例
拘邪秦支廉
この号に付いて考えるとき、考えておくべき重要な点があります。 この号には韓伝の国名一覧にある国名が現れるわけですが、もしもこの号が韓語によって発音されたものを、 漢人が聞き取り文字化したとするなら、漢人は号の中の国名を聞き取り、国名一覧の国名の文字を割り当てたことになります。 普通は同じ発音を聞いても音写する人物によって、割り当てる漢字は変わってくるものだと思われます。 可能性としては国名一覧が成立する前に、一部の国名は文字化されていたか、国名一覧の文字を用いてこの号が作られたことが考えられます。 漢人がこの号の意味を理解したのでなければ、既存の国名の漢字を割り当てることは難しかったでしょう。
この号は韓人が文字化したものではないでしょうか。 韓伝の国名一覧の中にも、大石索國、小石索國の大小の様に、単純に音写とは思えないものがあり、韓伝の国名一覧の文字の一定の割合が、音写によらない可能性があります。 そのような漢語を含んだ国名は、意味を知らなければそのような表記をできませんから、そもそも韓人が文字化した可能性があります。 韓人への漢字の浸透度ですが、既に紀元前に朝鮮四郡が置かれ、その中でも真番郡は茂陵書の記述から見て、朝鮮南部に至るものであった可能性が指摘されています。 実際茶戸里遺跡では紀元前に遡る筆の出土があり、半島への漢字文化の浸透はかなり進んでいたと考えられます。 つまり韓伝の国名一覧の国名は、少なくとも一部は韓人が文字化し漢人に伝えたもので、この号も文字化したのは、韓人であった可能性を否定できないと思うのです。
日本語学者の森博達氏は日本の古代1 倭人の登場/第5章 倭人伝の地名と人名の中で、三世紀の倭人語と韓語を比較する際に、韓の首長号である臣智や邑借などを、韓語の音写に含めませんでした。 その理由は、文中に言語の異なるとされる、馬韓、辰韓、弁辰に対して、これら首長名が共通しているからです。 私達は中国史書を読む場合、無条件にそこに書かれた文字は、漢人によって選択されたものだと考えてしまいがちですが、三世紀朝鮮半島を考える場合に、上にあげたさまざまな点から、もっと慎重に取り扱うべきなのではないでしょうか。
この号は韓語の詩か
一行目、ニ行目、四行目が、韓伝の国名一覧に見える国名に続いて「〇支〇」の形になっています。 これを有力な説では臣雲新國、安邪國、拘邪國に関する号と見ます。 しかしすでに述べたように、文脈からするとこれらの号は全て、月支國の臣智に関するものと考えられます。 そうすると月支國の臣智は、一人で五つの号を持っていたことになります。 本当にそのように多くの号を持っていたのでしょうか。 元の文を見る限り、一つの号として扱っているようにも見えます。
韓国語のサイトでは、これを長い号であるとして、詩になっていると言っているところがあります。 どなたか専門家がそのような発言をしているのかもしれません。 しかしもしこれが韓人の書いた詩であるとしたら、これはこの号を理解するにあたって、大変に大きなポイントになりえます。
これは韓語の詩を万葉仮名の様に、漢字の音であらわしたものでしょうか。 ここのサイトに古代朝鮮語に関する解説があり、新羅時代の『処容歌』 という郷歌と呼ばれる詩に関しての解説があります。 以下引用です。
東京明期月良 夜入伊遊行如可(東京の明るき月に 夜更けまで遊びて)
東京 ―― 地名なので、おそらく「東京」をそのまま朝鮮語読みしたと思われる。
明期(明るき) ―― 「b@rg-yi パルグィ」か?「明」は形容詞「b@rg- (明るい)」と読んだか? ただし「b@rg-」という形は中期朝鮮語の形なので、古代朝鮮語は音が少し異なっていたかもしれない。あるいは「b@rg-」とは全然別の単語だったかも知れないが、「明」の部分は意味を表した部分であり音を表した部分でないため、どう読んだか全く分からない。2字めの「期」はおそらくこの漢字をそのまま音読みしたと思われる。この漢字を中期朝鮮語では「gyi グィ」と読んだので、とりあえずそう読んでおく。おそらく、「b@rg-」の末音「g」と語尾の「yi」が組み合わさった「gyi」を表記したものであろう。 ところで、この語尾と思われる「yi」が何者なのか、はっきりしない。意味的にはここは連体形「明るき」になるのだが、朝鮮語の連体形は「-n」である。ところが、ここは「-n」と読まれた形跡が見当たらない。古代朝鮮語の連体形は「-yi」だったのだろうか? だいいち、ここは本当に「gyi」と言ったのかどうかも分からない。あるいは母音調和のことを考えれば「g@i ガイ」と読んだ可能性もある。不明である。
月良(月に) ―― 「d@r-a タラ」か? 「月」は中期朝鮮語で「d@r タル」だが、この「月」の部分は表意部分なので、上の「明」同様に、本当に「d@r」と読んだかは定かでない。「良」は「…に」を表す部分と考えられる。吏読(りとう)という表記法では、「…に」という意味で「良中」という表記が用いられ、「a-@i アアイ」と読まれる。これに従って「a ア」と読んでおくが、吏読の読みと郷歌の読みが同一だった確証はない。
夜(夜) ―― 「bam パム」か? 表意部分なので、どう読んだか不明。
入伊(ふけまで) ―― 「dyr-i トゥリ」か? 「入る」は中期朝鮮語で「dyr- トゥル」だが、ここは表意部分なので、どう呼んだか不明。「夜入る」という表現は現代語では「夜がふける」という意味だが、古代語でも同じような表現方法だったようだ。「伊」はこの漢字を「i イ」とそのまま朝鮮語読みした部分と考えられる。「i」は副詞を作る語尾であろう。
遊行如可(遊びて) ―― 「no-ni-daga ノニダガ」か?「no-ni-」は現代語では「no-nir-」というが、中期朝鮮語では「no-ni- (遊び歩く)」といった。この単語は「nor- (遊ぶ)」と「ni- (行く)」の合成語である。「nor-」は現代語にもあるが「ni-」は現代語にない単語である。「遊行」という表記から、おそらくこの「no-ni-」であろうと推測される。ただし、中期語は「nor-」のr音が脱落しているが、古代語は脱落していなかったかも知れない。そうならば「nor-ni-daga ノルニダガ」と読んだかもしれない。「如可」は吏読で「daga ダガ」と読むことになっている。「…している途中で」という意味の語尾である。「可」の部分はこの漢字を「ga」とそのまま朝鮮語読みした部分であるが、「如」は漢字の朝鮮語読みでない。
ここで引用終わりです。
日本語に対して、一字一音の仮名が発達したのは、古代中国語の発音が、声母(子音)+介母音+主母音+韻尾(子音/半母音)の複雑な形式を持つ一方、日本語の発音が子音+母音の単純な形式になっている為です。 古代中国語の子音は、日本語の子音よりも多様で、主母音は基本的にニ種類しかないとは言うものの、介母音との組み合わせで、ほぼ日本語の音節をカバーできます。 ところが朝鮮語の構造は、初声(子音)+ 中声(母音)+ 終声(子音/半母音)の構造で、終声には中国語の韻尾にない音があるなど、漢字による一音一字が難しいのです。 この結果韓語の詩を漢字表記した場合、上記のように多くが韓訓を利用し、文法要素のみ漢字音を利用する形にならざるをえなかったと思われます。 日本の万葉集が、固有名詞や動詞に音仮名を多く使用するのとは状況が全く異なってきます。 下記は中公文庫/日本の古代14/4古代朝鮮の言語と文字文化に藤本幸夫氏が取り上げられた祭亡妹歌と言う郷歌の例です。
生死路隠 此矣有阿米次肹伊遣 (生死の道は ここにありて恐ろしく)
吾隠去内如辝叱都 毛如伝遺去内尼叱古 (吾は行くなる言葉も 言い切らずに行くのか)
於内秋察早隠風未 此矣彼矣浮良落尸葉如(何れの秋の早い風に ここかしこに落ちる葉のごとく)
一等隠枝良出古 去奴隠処毛冬乎丁 (ひとつの枝に出て 行く所を知らざるとても)
阿也弥陁刹良逢乎吾 道修良待是古如 (ああ弥陀の寺に逢う吾は 道を修めて待たん)
万葉集でも、訓仮名の使用例は大変多いとは言うものの、万葉集よりずっと訓読部分が多いのは確かです。
下記は万葉集の一例です。
烏梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 和我覇能曽能尓 阿利己世奴加毛
うめのはな いまさけるごと ちりすぎず わがへのそのに ありこせぬかも
実際上に挙げた号の分割を見ていると、五文字で分割した場合に、形式が揃っています。 韓人の発音を漢字を用いて表現したのであれば、こんなにきれいには行かないのではないかと思うのです。 もしかしたら、この号は韓人が漢詩をまねて書いたものではないでしょうか。
ある種の漢詩か
もしもこれが漢詩なら、偶数句の句末は押韻と言って、同じような響きの文字を配します。 ところが五言切れにした偶数句末は、濆、廉で陽類と言って子音終わりではありますが、それぞれnとm終わりで押韻しているとは言えません。 はたして漢詩と言えるのでしょうか。
漢詩の場合唐代に完成された厳密な韻を踏む詩型を近体詩と呼び、それ以前の比較的自由な詩型を古体詩と言います。
ここで古体詩の例を見てみましょう。
先ず典型的な例を挙げます。
下記は非常に有名な詩経と呼ばれる、紀元前の詩集にある桃夭と言う詩の一節です。
この詩は同じような内容を三回繰り返すので、最初の部分だけを見てみます。
桃夭:花嫁の歌(詩経国風:周南)
桃之夭夭 (桃の夭夭たる)
宵之宵宵
灼灼其華 (灼灼たり其の華)
藥藥之魚
之子于歸 (この子ここに歸がば)
之之魚微
宜其室家 (其の室家に宜しからん)
歌之質魚
詩文の下に青字で示したのは、王力による上古韻部です。
上古韻部とは広韻の発音分類を参考にしながら、詩経の詩の押韻をもとに考証された、紀元前5世紀以前の漢字の発音分類です。
広韻とは隋初6世紀末に成立した、切韻という漢字の発音分類表を基にした、唐代の発音辞書です。
各句が四字で揃っている、このような形式を四言詩と言います。
句の頭で韻を揃えることを頭韻、句末で韻を踏むことを脚韻と言います。
2句と4句の末の、赤下線で示した部分が脚韻を踏んでいます。
これを押韻と言います。
次に少々変わった形式の例を挙げます。
下記は詩経の木瓜の一節です。
桃夭同様三回繰り返す内の、最初の部分だけを見てみます。
木瓜:贈答の歌(詩経国風:衛風)
投我以木瓜 (我に投ずるに木瓜を以てす)
侯歌之屋魚
報之以瓊玉 (之に報ゆるに瓊玉を以てす)
幽之之耕屋
匪報也 (報ゆるに匪ざる也)
微幽歌
永以為好也 (永く以て好みを為さんとする也)
陽之歌幽歌
この詩の偶数句は押韻しているようには見えません。
その代わり、各句の句頭から三言目の、赤下線で示した以以也為が押韻している様に見えます。
またこれらの文字は全て、広韻では同じ声母です。
つまり頭子音がそろっています。
句の途中である種の韻を含んでいるように思えます。
このように途中で揃える事を腰韻と言います。
この詩の場合各句の言数も揃っていません。
このような形式を雑言と言います。
詩経の詩は殆どが四言で揃え、偶数句末で押韻しますから、この詩は例外中の例外です。
しかしこのような例もあるという事は押さえておくべきです。
古体詩の場合形式は自由で、全体としてリズムがあれば韻文として成立するようです。
そもそも詩の形式は、自然なリズムを形式として固定したものです。
はたして謎の一文は韻文かどうか、確かめるためにこの号の漢字の平仄を調べてみました。
平仄とは7世紀頃の唐代に成立した近体詩に置いて重視された文字の種類で、平声と仄声のニ種類があり、アクセントもしくは発音の長さに特徴があったとされます。
平仄の基になるのは四声と呼ばれる漢字の発音型です。
四声とは平声、上声、去声、入声の四種類の発音型の総称で、このような発音の種類を声調と言います。
四声の分類は6世紀の南朝梁の時代に始まったとされ、三国時代にはまだその存在は知られていませんでした。
しかし詩の形式は本来自然のリズムを基にしたものですから、形式以前にそのリズムは存在したはずです。
謎の一文の構成
臣雲遣支報
眞文獮支号
安邪踧支濆
寒麻屋支䰟
臣離兒不例
眞支支尤祭
拘邪秦支廉
虞麻眞支鹽
ここで詩文の下につけた青字は広韻による平声、赤字は仄声の韻です。
(注意:別読みとして離不には仄声の読みがあります。不は古い読みは平声と思われること、離はここでは一般的な読みを取りました。)
奇数句の末に仄声の文字が来ているのが分かります。
近体詩の五言絶句の平仄は複雑なものですが、奇数句末に仄声の文字が来るのは同様です。
三世紀にはどうだったのでしょうか。
一例として曹操の詩の一節を引用します。
却東西門行
鴻雁出塞北 (鴻雁塞北に出でて)
東諫術德德
乃在無人郷 (乃ち無人の郷に在り)
海海虞眞陽
挙翅萬餘里 (翅を挙ぐること萬餘里)
腫寘願魚止
行止自成行 (行止自ら行を成す)
庚止至淸唐
ここでは偶数句末の、赤下線で示した郷行が押韻していますが、奇数句末も仄声の韻になっている事がわかります。 紹介した部分はほんの一部ですが、全編を通してこの傾向が続きます。 平仄がその形式を完成する前でも、ある種の韻を含んでいたことが分かります。 私が韓伝の謎の号が、漢詩ではないかと考えたのも、奇数句末が去声という特徴的な声調であったことがきっかけでした。
なぜ意味不明なのか
さてもし漢詩であるとすると、各句は互いに韻を構成しているのですから、それらを切り離すことはできなくなり、謎の号は一つの号であることになります。 そして漢詩としてみた場合、この形式は唐代の五言絶句と同じ、五言四行の詩であることになります。 内容について見ると、1、2、4句は国名で始まり、良く似た形式をしており、3句のみが異なる形式になっていることに気づきます。 四行詩である五言絶句では、四行を起承転結で表現します。 1句で起し、2句で承け、3句で動きを作り、4句で締める形式です。 謎の号はおそらく3句がさびに当たるのではないでしょうか。 起承転結は唐代の五言絶句の形式で、魏代にはそのような詩作法が確立されていませんが、発想としては自然なものではないでしょうか。
しかし漢詩とみなすに際しては、大きな問題があります。 漢詩であればそれは漢文として読めるはずです。 ところがこの謎の号は、今迄に意味を取れたことがないのです。 幾多の先人がこの文を評価したことを考えると、この文は意味が取れないと考えるのが正しいでしょう。 なぜ漢文として意味が取れないのでしょうか。
私は下記のような複合要因があるのではないかと思います。
1.何らかの詩文を号として唱えるため、極端な省略をおこなった。
2.韓人が書いたため、文法や語法語義において誤用がある。
3.詩的な倒叙や、比喩表現が使われている。
1.については、これが詩であれば、口誦を前提にしていたと考えられます。 事あるごとに口誦されたとすると、あまり長いと支障があったと思われ、無理な省略が成されて、意味が不明になった可能性があります。
2.については、漢字は浸透していたとしても、中国語に関しては未だに心許無い状況だったと思われます。
それは韓伝の下記の文にも現れています。
部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。
拙訳:部従事の呉林は楽浪が本来は韓の國を統属していたので、辰韓の八国を分割して楽浪の所属としたところ、官吏の訳が転じて異同が有り、臣智が激して韓人が忿り、帯方郡の崎離営を攻めた。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂は兵を興してこれを伐ち、弓遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅ぼした。
ここで新羅時代に書かれた、漢文様の文について紹介しておきたいと思います。
壬申誓記と言って、石に刻まれた誓いの文です。
下記は壬申誓記の冒頭の部分です。(出典は祭亡妹歌に同じ)
壬申年六月十六日 二人并誓記 天前誓(壬申年六月十六日に 二人が共に誓って記す 天の前に誓う)
漢字を韓語の語順に並べたことがわかります。 もしも漢詩を真似ながら、その語順が正しくなければ、漢文としては読めない可能性があります。
3.は普通でも詩の解釈は、難しい要素があります。 韻を重んじたり強調のために、語順が入れ替えられている可能性があります。 詩文ですから言葉はそのままの意味ではなく、比喩によって文意をなしている可能性があるのです。
謎の一文を読む
謎の一文は文意が取れないとされてきましたが、1句目は実は漢文として読み始めることができます。
臣雲遣支報
「臣雲は支を遣わして報じる。」という意味でしょうか。
その場合報じる対象が2句目の安邪、報じた内容が踧支濆となります。
踧は踧踖で恭順な様子を表すことになりますが、「支を遣わして支に恭順であることを報じる。」では意味が通りません。
そもそも支はこの解釈では人物らしいですが、全文に三度も出てきて何を行っているのでしょうか。
またこの号は月支國の臣智の号だということですが、支とどのような関係にあるのでしょうか。
臣雲新國は臣雲に省略されています。 支は月支國の省略形ではないでしょうか。 しかしそうなると、月支國が遣わされたと言う変な文章になってしまします。
この文章は遣わされた人物など、重要な語を省略することで意味不明になっているのではないでしょうか。
そこで下記のように文字を補ってみます。
臣雲新國遣使至月支國報安邪國踧踖月支國
臣雲新國は使者を月支國に遣わして、安邪國が月支國に恭順であることを報じる。
これで一応文意は通りました。 しかし2句目最後の濆の処置に困ります。 これは水が吹き出す意味にしかとれませんが、明らかに場違いです。 そこでこれを3句に送り、昔からある濆臣を臣濆に引っくり返す説を採用してみましょうか。 しかしこれは尹龍九氏の指摘するとおり、そのような順になっている刊本は一つもなく、あまりにも節操の無いやり方に思えます。 またそもそも本説は、この号が五言四行にきれいにまとまることを論拠に、これを漢詩ではないかと見なしてきたわけですから、論拠を根底から覆すことになってしまいます。 はたして2句目最後の濆を3句目の冒頭に繰り入れた場合、もはや漢詩と見なすことは不可能なのでしょうか。
はたして謎の一文は韻を含んだ一つの号なのか、確認のためもう一度構成を見てみましょう。
謎の一文の構成(その2)
臣雲遣支報
眞文獮支号
安邪踧支
寒麻屋支
濆臣離兒不例
䰟眞寘支尤祭
拘邪秦支廉
虞麻眞支鹽
これを見ると、(注意:ここでは離の読みとして、去るの意味の去声の読みを採用した。)赤下線で示したように、第四言に同じ韻が続く事がわかります。 これは「木瓜:贈答の歌」で見た腰韻になっています。 五言のリズムは崩れましたが、「木瓜」同様雑言形式ではあるものの韻文の可能性は残ります。 さらに奇数句末だけではなく、4句を除く各句の三言目が、仄声になっています。 韻文であるという前提は捨てなくてすみそうです。
問題は3句の意味です。 濆臣が臣濆の倒置であることをどのように説明したら良いでしょうか。 馬韓には、臣濆沽國、臣釁國、臣蘇塗國、 臣雲新國などの臣で始まる国々があり、おそらくこの語頭の臣は単語として抽出できると思われます。 つまり臣濆沽國は臣+濆沽國であろうと思われます。 しかし二つの単語に分解したとしても、それを逆転させるには何かの理由が必要です。 京の都を都の京、山形を形山、東京を京東にするようなものです。 そこで臣以下を見てみます。 最後の不例は普通ではないの意味になります。 もしも、臣不例離兒であれば、「臣は普通は兒を離す事がない。」と言う程の意味になるでしょう。 不例が倒置され句末に置かれたのは、第四言に兒を持って来て、腰韻を通したいためと、句末に仄声の文字を持っていきたいためと思われます。 詩文であるからこその倒置でしょう。 ではなぜ臣と濆は逆転されたのでしょうか。
下記は漢の時代の民間歌謡とされる、楽府古辞の江南です。
江南可採蓮 江南にては蓮を取るべし
蓮葉何田田 蓮の葉は何ゆえかくも田田たる
魚戲蓮葉閒 魚は蓮の葉の閒に戲れる
魚戲蓮葉東 魚は蓮の葉の北に戲れる
魚戲蓮葉西 魚は蓮の葉の西に戲れる
魚戲蓮葉南 魚は蓮の葉の南に戲れる
魚戲蓮葉北 魚は蓮の葉の北に戲れる
この詩では魚と発音の似た吾に、蓮と発音の似た恋に比喩されています。
吾が恋しい人の回りで戯れている様を歌っているとも言われます。
件の号の3句目も、発音の似た単語がかけられているのではないでしょうか。
おそらく臣は頭子音のみ異なる親がかけられていて、親不例離兒で「親と兒が離れることは普通はない」と言っているのではないでしょうか。
臣離兒の三言を続けないと、臣が親にかけられているのが分からなくなります。
不例と濆臣を倒置したのはそのためでしょう。
では兒は何にかかっているのでしょうか。
これは詩の中で、四言目にそろっている、同じく子音のみ異なる支にかかっているのでしょう。
兒を四言目に揃えた効果がここで現れています。
この3句は意訳すれば次のような意味ではないでしょうか。
臣濆沽國は、親が兒を離すことが普通は無いように、月支國を去ることは無い。
この解釈は一見して違和感を感じるものになっています。 この号は月支國の臣智の優呼です。 恐らく何かの折に口誦されたものでしょう。 にもかかわらず、臣濆沽國を親に例えるということは、月支國は臣濆沽國の属国のようではありませんか。 この違和感は、臣濆沽國が韓伝の中で、国名一覧の中に一度でてくるだけであることにあります。
実は韓伝の中には、もう一箇所臣濆沽國が出てきている可能性のある場所があります。
次の赤下線の部分です。
部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。
拙訳:部従事の呉林は楽浪が本来は韓の國を統属していたので、辰韓の八国を分割して楽浪の所属としたところ、官吏の訳が転じて異同が有り、臣智が激して韓人が忿り、帯方郡の崎離営を攻めた。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂は兵を興してこれを伐ち、弓遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅ぼした。
この部分は、現存最古の三国志刊本である南宋紹興本では臣幘沾韓、また史書としての成立年代がそれと近い通志には臣濆沽韓となっています。
このため尹龍九氏は前述の國史館論叢 第85輯 三韓の對中交涉とその性格の中で、この部分は臣濆沽韓が正しいとされています。
するとこの文章は下記の様になります。
拙訳:部従事の呉林は楽浪が本来は韓の國を統属していたので、辰韓の八国を分割して楽浪の所属としたところ、官吏の訳が転じて異同が有り、臣濆沽韓が忿り、帯方郡の崎離営を攻めた。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂は兵を興してこれを伐ち、弓遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅ぼした。
そうすると臣濆沽國は単独で帶方太守弓遵、樂浪太守劉茂に戦いを挑み、弓遵を戦死させるような存在であったことになり、この違和感も解消するのではないでしょうか。 1句2句の内容も、臣雲新國が安邪國と月支國の盟約に際して、その仲介を行ったような内容になります。 3句によれば盟約成立の主役が臣濆沽國であるようです。
この号の中に出てくるのは、馬韓と弁辰の国ばかりで、辰韓の国は出てきません。
韓伝には下記のような記述があります。
其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立爲王。
拙訳:その十二国は辰王に属している。辰王には常に馬韓人を用いる事が、世々相い継いでいる。辰王は自ら立って王とはなれない。
この十二国は辰韓の国と考えるのが順当でしょう。 後漢書には、辰王は三韓の王と言う扱いになっていますが、実際には辰韓十二国の王という以上のものではなかったのではないでしょうか。 少なくとも三国志のトーンを見る限りは、そうみるよりほかありません。 一方この号は、朝鮮半島東南部の弁辰の国々から、朝鮮半島西南部と想定されている、臣雲新國や漢江流域の国と思われている臣濆沽國までを含む、韓全体を巻き込むような、国々の盟約の存在を示唆します。 「なぜ歸義侯なのか」で述べたように、おそらく公孫氏は月支國の臣智に、歸義侯のような重要な官位を与えて懐柔しています。 少なくとも公孫氏時代には、月支國は名目上は韓の盟主であったのでしょう。 しかしその実体は、馬韓や弁辰の大国に支えられたもので、その中心は臣濆沽國であったのでしょう。
ここまでの推論が正しければ、韓伝の謎の一文は韓人が漢詩を真似て作った、韓の諸国の盟約に関する叙事詩的な内容で、それを号としてまとめたものと言うことになります。 韓人が省略を行う際に、漢文として構造的に省略してはいけないような文字を省略し、そこに詩的な比喩や倒叙が加わったことで、漢文として本来の意味が不明になったのでしょう。 これは古体詩の一種でしょうから、号として口誦されたものでしょう。 元の文にある優呼の意味するところも、これが口誦詩であったことを言っている可能性があります。 しかし漢人はこの号をどのように知ったのでしょうか。 口誦を音写したのでは、このように文字化されなかったと思われます。 文字化されたものを見たのでしょう。 想像ですが、月支國の臣智が接見を行うような部屋の壁などに書いてあったのではないでしょうか。
結句の意味
最後に4句目、結句の意味を考えてみます。 この句には他の句に無い特徴があります。 ここまでの三句は冒頭二文字が国名を表し、三言目に遣離踧のような述語が来ていました。 ところが4句目は三言目が秦になっていて読めそうに有りません。 またここまでの三句は、三言目が仄声になっていましたが、4句目は平声になっています。 私はこの4句目の三言目は誤字ではないかと考えるのです。 現在存在する刊本は全て秦ですから、この間違いは非常に古い時代に起こったものであると思われます。
私はもともと韓人の書いた文字が、非常に紛らわしい形をしており、漢人がそれを間違った可能性があると思っています。 漢人にとって書かれた文言は、まったく意味不明であったと思われますから、何が正しいのか判断できなかったと思います。
もしも良く似た形の文字で候補を探すとすれば、奉または奏でしょうか。
両方共術語になりえると同時に仄声です。
ここで奉を採用して下記のように文字を補ってみます。
狗邪國奉月支國廉
狗邪國は月支國を奉じて廉と為す。
奏を採用した場合は下記の様になります。
狗邪國奏月支國廉
狗邪國は月支國に廉を奏上する。
ここで廉の意味が問題になります。
狗邪國は月支國を奉じて、いったい何をしようとしたのでしょうか。
または何を奏上しようとしたのでしょうか。
廉と言う文字で思い起こすのが、廉斯邑です。
後漢書には下記の記録があります
建武二十年、韓人廉斯人蘇馬諟等詣樂浪貢獻。光武封蘇馬諟爲漢廉斯邑君、使屬樂浪郡、四時朝謁。
拙訳:建武二十年(44年)に韓人の廉斯の人蘇馬諟らが、樂浪に詣て貢物を献上した。光武帝は蘇馬諟を廉斯邑君として封じ、樂浪郡に所属させ、四季をもって朝謁させた。
魏略によれば、王莽の新の時代に辰韓の廉斯邑が楽浪郡に投降し、後漢代には至安帝延光四年まで、後漢の保護を受けていたとあり、後漢代に於ける韓の盟主的存在と思われます。
しかし三国志には廉斯邑の名は見えません。
魏略の記述によれば、楽浪郡の兵が船で行っており、廉斯邑は辰韓と言うことですから、朝鮮半島東南部の海に近いところにあったと思われます。
もしもこの号の読みが正しく、かつ廉が廉斯邑を意味するならば、洛東江河口の金海周辺と想定される狗邪國と廉斯邑には、何らかの関係があった可能性があります。
狗邪國が廉斯邑に関する何らかの権利を、月支國に与えたのではないでしょうか。
もしも奉を取るとすれば、一例として下記のように文字を補いうると思います。
狗邪國奉月支國臣智為廉斯右渠帥
狗邪國は月支國の臣智を奉じて、廉斯の長と為した。
奏を取るとすれば、号の後ろにつく之号を優呼の内に含めて、下記のような補足もあり得るのではないでしょうか。
狗邪國奏月支國廉斯之號
狗邪國は月支國に廉斯之號を奏上した。
ここで謎の一文に関する、私の考えをまとめておきたいと思います。
原文:辰王治月支國。臣智或加優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。
謎の一文の構成(その3)秦を奉とした場合。
拙訳:辰王は月支國に治し、その臣智は時に優呼として臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉の号を加える。
臣雲遣支報 (臣雲新國は月支國に使者を遣わし伝えた)
眞文獮支号
安邪踧支 (安邪國は月支國に恭順であると)
寒麻屋支
濆臣離兒不例 (臣濆沽國は親が兒を離す事がないように、月支國を去ることは無く)
䰟眞寘支尤祭
拘邪奏支廉 (拘邪國は月支國を奉じて廉斯の長と為す)
虞麻候支鹽
謎の一文の構成(その4)秦を奏とした場合。
拙訳:辰王は月支國に治し、その臣智は時に優れて臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號と呼び加えられる。
臣雲遣支報 (臣雲新國は月支國に使者を遣わし伝えた)
眞文獮支号
安邪踧支 (安邪國は月支國に恭順であると)
寒麻屋支
濆臣離兒不例 (臣濆沽國は親が兒を離す事がないように、月支國を去ることは無く)
䰟眞寘支尤祭
拘邪奏支 (拘邪國は月支國に奏上する)
虞麻候支
廉之號 (廉斯の号を)
鹽之号
二番目の構成は少々強引ですが、五行に区切ることで、偶数句押韻、奇数句仄声となっています。 両構成とも平仄も押韻も単調で、リズミカルというよりは、重厚な韻を求めた様な印象です。 参考までに下記に五言絶句の平仄をまとめておきます。
五言絶句平起式
起句平平平仄仄
承句仄仄仄平平
転句仄仄平平仄
結句平平仄仄平
五言絶句仄起式
起句仄仄平平仄
承句平平仄仄平
転句平平平仄仄
結句仄仄仄平平
古辞の語る三世紀の韓
韓伝によれば、辰韓諸国が月支國に属することになったのは、辰韓成立時点に遡る古い時代のことです。
廉斯邑により朝鮮半島東南部に、漢王朝による直接的な影響力が行使されるようになりました。
廉斯邑が韓の盟主的立場になることにより、月支國による伝統的な影響力は形骸化したのではないでしょうか。
この背景には、王莽の時代の楽浪郡は漢書地理志によれば戸六萬二千八百一十二の人口を持ち、王莽政権の末期であっても、郡単独で武威を示せる事実があったのでしょう。
朝鮮半島東南部は鉄資源に恵まれ、韓濊倭がこれに依存していたため、ここを押えることは、これら諸族を郡に属させるためには重要な意味があったと思われます。
韓伝の辰韓の記述には下記のような文もあります。(かって鉄に関する記述が弁辰に対するものであるという説がありましたが、現在は誤読であったことが分かっています。)
國出鐵、韓濊倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。
拙訳:国は鉄を産出し、韓濊倭は皆なこれより取っている。中国で銭を用いる様に諸々の市買には皆な鉄を用い、又た二郡にも供給している。
朝鮮半島東南部にいつ頃から鉄精錬の技術があったかはわかりませんが、鉄鉱石が交易品としても重要であったことは、紀元前の茶戸里遺跡の墳墓から、鉄鉱石が見つかることでも分かります。
また三世紀には、楽浪郡帯方郡はこの鉄資源の供給を受けていたことがわかります。
しかし後漢末の混乱で、この統制は崩れます。
桓、靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。
拙訳:桓帝、靈帝之末、韓濊の勢いが盛んとなり、郡県は多くの民が韓の国に流れ込むのを、制することができなくなった。
代わってやってきた公孫氏時代には、すでに廉斯邑はなく、地方政権の公孫氏には後漢時代の秩序を完全には回復する力はなかったでしょう。
実際晋書地理志によれば、楽浪郡、帯方郡あわせてもその人口は八千六百戸、韓伝の馬韓の条には大國萬餘家とあり、その一ヵ国にも及びません。
臣濆沽國がこれに該当したとすると、その攻撃により帯方太守弓遵が戦死するような事態も起こりうることが分かります。
おおよそ公孫氏支配下にあったと思われる、平州の人口戸一萬八千一百を持ってしても、後漢書郡国志によれば後漢代の楽浪郡の戸数は、戸六萬一千四百九十二ですから、後漢代の楽浪郡一郡にも及ばなかったのです。
建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡、遣公孫模、張敞等、收集遺民、興兵伐韓濊。舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。
拙訳:建安中(196年から220年)、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模、張敞らを遣って遺民を収集させ、兵を興して韓濊を伐ち、舊民は少しづつ戻った。この後は倭韓は帯方に属すようになった。
韓濊を征伐したとありますが、軍事力だけで制圧することはできなかったと思われます。 実際兵を挙げて討ったのは韓濊、属したのは倭韓と差があります。 何らかの懐柔策で韓を制し、半島東南部の鉄資源を抑えることで、日本海側を北部からの鉄流通のある濊とは異り、半島東南部の鉄資源に対する依存度の高かった倭をも帰順せしめたのでしょう。 その懐柔方法は、韓に隣接し韓社会に詳しかったと思われる地域を帯方郡として分離し、そこを拠点により現実的に韓社会を統制することだったのではないでしょうか。 その結果三世紀の鉄器生産中心地である慶州の属する辰韓諸国に対して、古い祭祀的権威を有していた月支國の辰王に、歸義侯の地位を与えて利用することになったのでしょう。 漢王朝による分断支配とも言える廉斯邑による秩序に、不満を持っていた馬韓弁辰の大国がこれに協力して、月支國中心の盟約が結ばれたのではないでしょうか。 実態としては、帯方に近い大国の臣濆沽國が公孫氏と交渉し、名目的な盟主として古い権威である月支國を奉じ、韓の大国に働きかけて作り上げた盟約ではなかったでしょうか。 月支國にしてみれば、臣濆沽國の力で韓の海陸に渡る通商路の焦点となり、形骸化していた辰韓諸国に対する支配権も、回復することができたのです。
再び代わった魏王朝が、月支國に対して邑君の地位しか与えない一方で、他の韓の大国に対しても邑君を与えたのは、公孫氏時代に作られたこの体制の否定を意味するのではないでしょうか。 魏が漢時の秩序に戻そうとしていたことは明らかです。 この秩序の実質的な盟主であった臣濆沽國は、内心穏やかではなかったでしょう。 既に景初年間(237年から239年)から、のちの正始年間(240年から249年)の魏韓の紛争の種は蒔かれていたと考えられるのです。
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