鯷壑の東
ー東鯷人とは何者かー
東鯷人と倭人
中国の後漢の時代、一世紀末に成立した漢書には東鯷人と言う民族が記述されています。
漢書地理志呉地:
會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歲時來獻見云。
(拙訳)會稽の大海の向こうに東鯷人が居る。二十餘の国に分かれていて、季節ごとに朝廷にやって来て献上を行ったと伝えられる。
漢書は班固によって著された、前漢から新の時代について書かれた史書で、この記述はその時代の地理について書かれた地理志の、揚子江河口付近を指す呉地の条に書かれています。 ここに現れる東鯷人とは何者でしょうか。 この後の正史に於ける東鯷人に関する記述は後漢書のみで、その内容は漢書の記述をそのまま引き、三国志呉書に見える記述に継げたものです。
後漢書東夷伝東鯷人:
會稽海外有東鯷人,分為二十餘國、以歲時來獻見云。
(拙訳)會稽の大海の向こうに東鯷人が居て、二十餘の国に分かれていて、季節ごとに朝廷にやって来て献上を行ったと伝えられる。
続いて三国志呉書の文を引き一連の記述になっています。
後漢書東夷伝夷洲及澶洲:
又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠,不可往來。
(拙訳)また夷洲と澶洲がある。伝えられるところによれば、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、童男女数千人をひきいて海を渡り、蓬萊神仙を求めさせたが得ることが出来なかった。徐福は罰せられるのを恐れてあえて帰らず、遂にこの洲に留まった。幾世代続いて数萬家有り、人びとは時に會稽の市場にやって来る。會稽東冶縣人で海を行く時に嵐に遭い、漂流して澶洲に至る者がある。所在は遥かに遠く、行き来する事はできない。
すなはち東鯷人については、漢書に現れたのが最初で最期で、その起源もその後も全く分からないのです。 地理志には朝貢したとありますが、帝紀にも列伝にも全く記載がありません。 倭人に付いて、下記の我々日本の古代史ファンにとって有名な記録があり、その後継続して中国との交流の記録があるのと対照的です。
漢書地理志燕地:
樂浪海中有倭人、分為百餘國、以歲時來獻見云。
(拙訳)樂浪の海の中に倭人が居る。百餘の国に分かれていて、季節ごとに朝廷にやって来て献上を行ったと伝えられる。
多くの人がこの漢書地理志の東鯷人と倭人二つの文に共通点が多いことから、東鯷人と倭人が同じではないかと疑っています。 五世紀の後漢書東夷伝では、各民族について民族名から書き始めますが、東鯷人に付いては漢書地理志の記述で始めています。 後漢書の文は、いずれも前史の引用のみで新情報はありませんが、繋がり具合からすると倭人と東鯷人を同一視している様に見えます。 後漢書が書かれた劉宋の時代、三国志では倭人は會稽東冶の東、漢書では東鯷人は會稽海外ですから、そう考えるのは無理も無いでしょう。
鯷壑の東
唐の時代に成立した翰苑とその註には下記のようにあります。
翰苑三韓条:
境連鯷壑、地接鼇波。魏略曰:韓在帶方南。東西以海爲限、地方四千里。(中略)鯷壑、東鯷人居、海中州、鼇波、俱海中有也
注意:中は原文也
(拙訳)境は鯷壑に連なり、地は鼇波に接する。魏略は言う。韓は帯方の南にあり。東西は海によって限られ、その地は四千里四方。(中略)鯷壑は東鯷人の住む所、海中の洲。鼇波は倶に海中にある。
上記の鯷壑は東鯷人の住む所に関連する記述が、隋代の類書である北堂書鈔にあります。
北堂書鈔の鯷壑の項:
漢書云會稽海外有東鯷壑分為二十餘國以歲時來獻
(拙訳)漢書に言う。會稽海外に東鯷壑があり、二十餘の国に分かれていて、季節ごとに朝廷にやって来て献上を行った。
これは前掲漢書地理志とは文面に違いがあり、東鯷人が東鯷壑になっています。 つまり東鯷壑と言う場所が有って、二十餘の国に別れていると言う事になっているのです。 これが翰苑三韓条の註に見える、鯷壑は東鯷人の住む所、海中の洲という記述に繋がると思われます。
壑とは溝の意味で、大壑、巨壑は大海の意味です。 史記に見える徐巿の記事から分かるように、中国の東方海上に神仙の世界があるとの観念があり、想像ですがその間に横たわる溝と言う程の意味ではないでしょうか。 後漢書郡国志には會稽は洛陽の東とあり、中国の東方とは會稽の東となります。 前漢時代の戦国策には呉人の風習として下記のようにあります。
戦国策、趙策、趙二、武靈王平晝間居:
黑齒雕題,鯷冠秫縫,大吳之國也
(拙訳)大吳の国では、鉄漿と入れ墨をし、鯷皮を用いた冠をかぶり、粗い縫い目の服を着る。
鯷を現代の辞書で調べると、片口鰯の意味が出てきますが、清の時代の康熙字典にはそのような意味は載っておらず、古代以来ナマズの意味となります。 呉は揚子江の河口域にあり、周辺は河川や湖などの淡水魚を産する場所が多く、鯷すなはちナマズは呉を象徴するものであったと思われます。 梁時代の沈約の詩では、呉の東の海を鯷海と呼んでいます。 したがって鯷壑とは呉の東の海を意味すると思われます。
後漢書郡国志によれば楽浪郡は洛陽の東北五千里、三国志によればその南の韓は四千里四方とありますから、韓の南部は概ね洛陽の東に当たると考えられていたと思います。 そうすると會稽は洛陽の東ですから、韓の南部は凡そ會稽すなはち呉の東となり、まさに鯷壑の東に当たります。 翰苑三韓条の境は鯷壑に連なりとは、まさにそのような地理観をあらわしているのでしょう。 また地は鼇波に接するの鼇とは康熙字典には下記のようにあります。
玉篇傳曰:
有神靈之鼇,背負蓬萊之山,在海中
(拙訳)神靈の鼇が有り、蓬萊の山を背負って海の中に在る。
従ってその意味は、三韓の地は蓬萊の山のある海に接するということでしょう。 前段の鯷壑は東鯷人の住む所、海中の洲と合わせて、三国志韓の条に見える南は倭に接すると比較すると、やはり東鯷人と倭人の関係を疑っているようです。
西晋の時代に書かれた、左思の魏都賦にも東鯷が現れます。 これは西晋によって統一された、三世紀魏呉蜀の都を礼賛する文章です。
西晋左思の魏都賦:
於時東鯷即序,西傾順軌。荊南懷憓,朔北思韙。
(拙訳)時に東鯷海の人々は秩序に即し、西傾山の人々は決められた道に従う。荊州の南の人びとは従順に懐き、北の辺地の人びとも正しいことを考える。
左思はその時代に朝貢していた倭国を、東鯷と呼んでいるとする見解があります。 恐らく三世紀後半には東鯷と倭は同一視されていたとするのです。 しかしこれは西傾山が伝統的な中国の西の境界を表している所から、東鯷は東鯷海を意味し単に呉の東の海、中国の伝統的領域の東の境界を表しているとも取れます。 既に漢の時代に、中国の影響力は西傾山を超てゆきますから、東鯷も海を渡るほどの遠方を意味せず、西晋王朝により国内が治められたと言っているだけかもしれません。
以上の様に正史の漢書、後漢書を始め、様々な書物で東鯷人と倭人を同じものではないかと疑っているようです。 但し同じだと明言しているわけでは有りません。 漢書の中で明瞭に区別されている以上、覆すような史料が無い限り当然の事なのです。
恐らく独立な東鯷人に関する情報は、漢書地理志呉地の条のみにあり、他の史書はそれを基に様々に想像しているように見え、鯷字のみが東鯷人の手がかりである様に思えます。 しかし東鯷は、會稽すなはち漢書の呉地、鯷冠を被る呉人の東方海外にいる東夷を、一語で著した表記と言ってもいいのです。 従って鯷字から、東鯷人に関する情報を得ることはできないのかもしれません。
東鯷人と東夷王
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変更履歴
- 2019年07月06日 初版
- 2021年09月02日 二版
白石南花の随想