東擊倭人國
ー烏侯秦水の倭人ー
王沈魏書と後漢書
五世紀中国の史書、後漢書には中国大陸の奥地に倭人がいたように受け取れる記事があります。
後漢書烏桓鮮卑列傳鮮卑:
種眾日多、田畜射獵不足給食、檀石槐乃自徇行、見烏侯秦水、廣從數百里、水停不流、其中有魚不能得之。聞倭人善網捕、於是東擊倭人國、得千餘家、徙置秦水上、令捕魚以助糧食。
(古代史獺祭氏サイトの訳)種衆は日に多く、田畜・射獵するも食を給するに足らず。 檀石槐すなわち自ら徇行(じゅんこう)し、烏侯秦水(うしゅうしんすい)の廣從(こうじゅう)數百里に、水の停(とど)まり流れざるを見る。 その中に魚有るも、これを得ること能(あた)わず。 倭人は善く網もて捕うと聞く。 ここに東に倭人國を擊ち、千餘家を得て、秦水の上(ほと)りに徙(うつ)し置き、魚を捕らえ以って糧食を助けしむ。
この記事は光和元年(178年)の記事に続いて現れ、次の檀石槐の死亡記事に繋がります。
光和中、檀石槐死、時年四十五
この記事とそっくりの記事が、三国志魏書の裴松之註に引く、王沈の魏書にあります。
三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳鮮卑:
鮮卑眾日多、田畜射獵不足給食。後檀石槐乃案行烏侯秦水、廣袤數百里、停不流、中有魚而不能得。聞汗人善捕魚、於是檀石槐東擊汗國、得千餘家、徙置烏侯秦水上、使捕魚以助糧。至于今、烏侯秦水上有汗人數百戶。
この記事は熹平六年(177年)の記事に続いて現れ、次の檀石槐の死亡記事に繋がります。
檀石槐年四十五死
二つの文の内容的な差は、後漢書が倭人とするところが、王沈魏書では汗人としていることと、末尾の今に至るも烏侯秦水には、汗人が数百戸住んでいると言う部分だけです。 果たして倭人と汗人、どちらが正しいのでしょうか。
一般的には王沈の魏書のほうが成立が早く、後漢書の著者范曄が何らかの意図もしくは情報で書き換えたと思われているようです。 しかしこれは後漢書と王沈の魏書の文面の比較によって、検証してみる必要があります。 後漢書烏桓鮮卑列伝の鮮卑条に付いて、王沈の魏書の鮮卑条と比較すると、王沈の魏書は後漢書の内容をかなり略したような記述になっています。 文面的に極めて良く似たものが散見されるため、両書は同じ原史料に基づくものであると思われます。 但し省略されていると思われる王沈の魏書には、後漢書に無い記述も見られるため、両者の原史料は完全にはオーバーラップしない可能性もあります。 烏丸に関しては王沈の魏書に有って、後漢書にない記述がさらに多くなり、やはり同一の文面も散見されることから、原史料の少なくとも一部分が共通し、そこから別別の撰述を行ったものと思われます。 ここで原史料として有力な東観漢記の逸文を見ると、外国伝と思われるものに下記があります。
東観漢記逸文に見える外国伝:
莋都夷
西羌
西域
匈奴南單于
一方後漢書には下記の外国伝があります。
後漢書に見える外国伝:
東夷列伝
南蛮西南夷列伝 (莋都を含む)
西羌伝
西域伝
南匈奴列伝
烏桓鮮卑列伝
このうち東夷列伝に対応するものが無かったのは、三国志東夷伝の前書きから分かります。 逸文にはありませんが、三国志の烏桓鮮卑伝の前書きには、その習俗や前の事は、漢記を撰した者が已に記録して載せているとの記述があり、東観漢記には烏桓鮮卑列伝があったものと考えてよいと思います。 後漢書烏桓鮮卑列伝は、東観漢記をベースに、幾つかの史料を集めて撰じたものでしょう。
ここで最初に挙げた倭人に関する一文が、東観漢記等の漢代史料に遡るのかどうかを考えてみたいと思います。 後漢書は王沈魏書の末尾にある、魏の同時代の状況を除いた部分以外同一内容になっていますので、その内容を前後と合わせて検証してみましょう。 まずこの檀石槐が、魚を捉える民族を捕獲したのはいつでしょうか。
王沈魏書も後漢書も、年次別の記述になっていますから、普通に考えるとその直前に出て来る年次が、出来事の起こった年次となります。 しかしその年次は、後漢書では光和元年(178年)、王沈魏書では熹平六年(177年)となり、異なっています。 両者が同一の原史料から切り出されたとすると、これら直前の出来事と漁民捕獲の出来事は、一連の記述にはなっていなかったことが分かります。 もしも本来年次を伴っていたのなら、その年次が切り離されることは無いでしょう。 従って漁民捕獲は、本来年次のはっきりしない出来事であったと思われます。 それは後漢書と王沈魏書の両方で、この記事の差し挟まれたのが、檀石槐の死亡記事の直前であることからも伺えます。 もしも年次のはっきりしない記事を、年次順に記載された檀石槐の事績の記事に挿入するとしたら、登場前や死亡後に差し込むわけにいかず、途中に差し込めばあたかもその年次を指定したかのようになってしまうので、死亡記事の直前しか有り得ないでしょう。
このことから漁民捕獲は歴史的事実というより、何らかの伝承のようなものであった可能性が浮上します。 もしもこの事件が漢代史料に記録されていたとすれば、それは年次のはっきりしたもっと歴史的な記事になったでしょう。 したがってこの記事は、出来事が起こってから充分な時間が経過して後、記録されたものでしょう。 おそらく後漢書の記事は、王沈魏書を基に記述されたものであろうと思われます。 王沈魏書の書かれた時代であれば、檀石槐の生前に生きて居た人びとは殆どが亡くなっており、伝説化が始まっていてもおかしくないと思われます。
口誦伝承の痕跡
前節の議論が正しければ、范曄が汗を倭に書き換えている事になります。 この汗は倭に発音の似ている汙の誤写/誤刻であるとする説があります。 それはこの書き換えが、発音の類似によるものであると考えるためです。 しかし発音が似ているだけで書き換えてしまうものでしょうか。 もしかしたら王沈の魏書以外にも、同じ内容の民族名だけ倭人とした記録があったのでしょうか。
この伝承の本来の形について考えてみたいと思います。 今王沈魏書の汗人は汙人の誤として話を進めます。 この汙という文字を調べると。
説文解字:
穢也
さらにこの字に良く似た汚と言う文字があります。
説文解字:
濁水不流者
この二字には同音の読みがあり、ほぼ同一語といってもいいでしょう。 さらに面白いのはこの二字の読みは烏とも同じなのです。 烏侯秦水は読み的には、汙侯秦水でもよいのです。 汙には溜水の意味があるので、王沈魏書の汙人の記事は簡単に言うと、汙侯秦水の汙(水の溜まった所)に汙人が住んでいると言う話になります。 口誦伝承はしばしば、地名などを基に語呂合わせや連想により記憶していることが多いのですが、そう言う意味でこの記事は口誦伝承臭いのです。 もともとは烏侯秦水に住んでいる人々とかかわりの深かった、北方の漢人集団の間に伝えられた伝承が、檀石槐と結び付いたものではなかったかと思います。 王沈にとって鮮卑の軍事力となる戸数は、重要関心事であったことでしょう。 それを記録する際に、烏侯秦水に関連の深かった漢人の話を記録したものではなかったのでしょうか。 こう考えると、伝承の本来の記述に於ける民族名は汙人でなければならなかったと思われます。
汙人と倭人
范曄が基にしたのは、王沈魏書の汙人に付いての記事だったのでしょう。 何故范曄は倭人としたのでしょうか。 後漢書と王沈魏書のこの伝説部分を見ると、情報には何も更新がありません。 つまり誰かがもう一度、烏侯秦水へ行って確認してきたわけではないようです。 そもそも范曄は南朝劉宋の人物で、烏侯秦水は鮮卑に係ることから、北朝の領域にあったと思われ、情報はそもそも不足していたはずです。 新規情報があるとしても、おそらく南朝への朝貢使からの情報に限られていたでしょう。
そこで北朝との関係を持ち、かつ倭人との接点を持つ劉宋への朝貢国を探してみると、高句麗が浮かび上がります。 ここで義熈九年(413年)の倭国の朝貢記録を見てみましょう。
晋書安帝紀義熈九年:
是歳、高句驪、倭國、及西南夷、銅頭大帥、並獻方物。
大平御覧に引く義熙起居注:
倭國獻貂皮、人參等,詔賜細笙、麝香。
この年の倭国の朝貢に関しては、献じたのが貂皮、人參とあって、日本の産物とは思われないこと、同時に朝貢した高句麗の産物と思われることから、倭国の朝貢を装った高句麗の朝貢であるとの見解があります。 ところで日本書記には、初の呉国への朝貢の記録があります。
日本書紀応神紀:
卅七年春二月戊午朔、遣阿知使主・都加使主於吳、令求縫工女。爰阿知使主等、渡高麗國、欲達于吳。則至高麗、更不知道路、乞知道者於高麗。高麗王、乃副久禮波・久禮志二人爲導者、由是得通吳。吳王於是、與工女兄媛・弟媛・吳織・穴織四婦女。
呉国への使いはまず高麗、つまり高句麗に行き、道に迷っているところを、高麗王すなはち高句麗王に道案内を付けてもらって、呉国にたどり着けます。 倭国の南朝への使者は、初期には高句麗の嚮導によって朝貢していたのでは無いでしょうか。 倭と高句麗は敵対しますが、漢書朝鮮伝を見ると中国王朝は、遠路の朝貢使を妨害したのが発覚すると怒るようです。 逆に遠方の異民族を嚮導すると、評価が上がるようで、遣唐使も蝦夷を連れて行っています。 おそらく義熈九年(413年)の朝貢は、献上品までも高句麗に差し替えられ、高句麗の属国のように扱われたのでは無いでしょうか。 後に倭国が朝鮮半島南部の黄海沿岸から、山東半島へ直接大海を渡るルートを開発するまで、基本的に朝鮮半島西岸から遼東半島ヘ北上し、遼東半島から島伝いに山東半島に渡るしかなかったと思われるため、高句麗の影響は免れなかったと思われます。
南朝の朝廷では倭は高句麗と関係があると思われても不思議なく、また高句麗も倭は自国の統属下にあると思わせていたかもしれないのです。 すなはち最初は倭人は高句麗の庇護下にあり、その勢力の及ぶ地域にもいると考えられた可能性があるのです。 伝説のように、鮮卑が東から汙人を連れてきたとすれば、それは当時の高句麗の領域に居たことになります。 すなはち良く似た発音で、同じように魚を捉えることがうまく、想定される地域に住んでいる民族と言う事になります。 このことが後漢書において、汙人を倭人に置き換える動機になったのではないでしょうか。
変更履歴
- 2019年07月13日 初版
白石南花の随想