獲加多支鹵
−稲荷山鉄剣銘文仮名を読む−
表音漢字を読むということ
稲荷山鉄剣の銘文中にある人名地名などの固有名詞はどう読めば良いのでしょうか。
ネット上ではしばしば、獲加多支鹵は[ワカタケル]とは読めない。
間違っているんじゃないか、記紀に合わせた恣意的な読みではないか、との議論が見受けられます。
これを[ワカタケ(キ)ル(ロ)]と読んだのは、調査に当たった岸俊夫氏のようです。
その読みの理由については、特に語られていないようなので、混乱が起こっているような気がします。
そこで本当に[ワカタケル]と読めないのか検討してみたいと思います。
下記に鉄剣銘文の読取の一例を示します。
(表)
辛亥年七月中記乎獲居1臣上祖名意富比垝2其児多加利足尼3其児名弖已加利獲居4其児名多加披次獲居5其児名多沙鬼獲居6其児名半弖比7
(裏)
其児名加差披余8其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵9大王寺在斯鬼10宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
この中で今回読み解きたいのは、漢文ではなく、文中に現れる下記の様な、固有名詞を著した部分です。
1.乎獲居
2.意富比垝
3.多加利足尼
4.弖已加利獲居
5.多加披次獲居
6.多沙鬼獲居
7.半弖比
8.加差披余
9.獲加多支鹵
10.斯鬼
漢字の字義に従うと、意味が取れないことから、おそらく漢字の音を利用して、その当時の倭人の単語に当てはめていったものでしょう。 このように漢字の音を日本語に割り当てていった代表的な例として、古事記、日本書紀、万葉集などに知られる所謂万葉仮名があります。 よく知られている一般的な万葉仮名の例で鉄剣銘文が読めれば問題はありませんが、獲や垝、鹵のように、ほかであまり見かけない文字がある上、一般的な万葉仮名の字音である、呉音漢音で読むと、耳なれない単語の連続になってしまいます。
ここでまずこのような漢字によって、固有名詞の音を表記したものを読むとはどういうことか考えてみましょう。
例えばこの漢字群が、当時どのような音で読まれていたかがわかれば、この表記は読めるのでしょうか。
万葉仮名の例を考えてみましょう。
麻等保久能 久毛為尓見由流 伊毛我敝尓 伊都可伊多良武 安由賣安我古麻
まとほくの くもゐにみゆる いもがへに いつかいたらむ あゆめあがこま
万葉集柿本人麻呂の歌です。この中で[ア]の音に安が当てられているのがわかります。 安は呉音漢音ともに[アン]ですから、普通に考えると[ア]とは読めません。 このように漢字の音の一部を省略して日本語の音に当てる方法を、略音仮名と言います。 そもそも漢字というものは、中国語を表現する文字ですから、それを日本語に当てるのは、多少なりとも無理があるわけです。
略音仮名の他に、連合仮名と呼ばれる手法もあります。
これは漢字の音の最後の、日本語に当てるのに余った音を、後ろの文字に付けて聞こえなくさせる方法です。
由古作枳尓 奈美奈等恵良比 志流敝尓波 古乎等都麻乎等 於枳弖等母枳奴
ゆこさきに なみなとゑらひ しるへには こをとつまをと おきてともきぬ
そのほか二合仮名と呼ばれる手法があります。
これは漢字の音の最後の子音でもう一音節表現する方法です。
宿祢
すくね
以上は漢字の音によって、日本語の音を表す方法ですが、漢字の音そのものを並べていっているのではなくて、日本語の特性に合わせて丸めて読んでいることがわかります。 これは一音一字の、全音仮名と呼ばれるものでも同じことで、呉音漢音そのままで読んでいるのではないことは、上に挙げた例でもわかると思います。 ましてや、その当時の中国の標準音についての仮説である、中古音などで読めば、その音価は非常に複雑で、日本語としては耳ざわりなものになるでしょう。
万葉集ですらそうなのですから、五世紀に遡る稲荷山鉄剣を、機械的に呉音漢音や中古音などで読んでも、違和感のある物にしかならないでしょう。 実際に稲荷山鉄剣を読んで、獲加多支鹵を[ワカタケル]とは読めないと言っている人の多くが、獲の連合仮名的用法を理解していないように思えます。 それは万葉仮名としては当たり前な用法ですから、それが腑に落ちないということは、そもそも記紀万葉の万葉仮名を読んだ経験が少ないということです。 実際の万葉仮名には、漢字音を利用する借音のみならず、訓を利用する訓仮名も用いられますから、原文のみを示されて読める人は少ないと思われます。 多くの問題が稲荷山鉄剣仮名を読む以前にあったと思われるのです。
稲荷山鉄剣銘文仮名の特徴
前節で見たように、音写文字を評価する際には、音写する漢字音と同時に、音写される言語の特徴を把握することが重要です。 つまり結果として残された音写文字には、少なくとも二つの定かならない要素があるということです。 これに加えて音写の方針も問題となると思われます。 中国語の音節は中古音を例に取ると、頭子音、介母音、主母音、韻尾などで構成された複雑なもので、これに四声と呼ばれるアクセントや、開合の別が加わります。 従ってそれと比較して単純な構成であったと思われる、倭人の言葉にあてはめる際には、何を取り何を捨てるかの判断が必要になるのです。
記紀や万葉集などの史料の多い八世紀の文献では、仮名が成立して以降の音読資料などもあるため、そこからその当時の日本語の特徴を抽出することができます。 そこから逆算してどのような音写の方法が取られたか、日本書紀α群の仮名の様にその音訳者の性格を議論し、より正確な当時の日本語の再建に進ことも可能になってきます。 しかし孤立した五世紀の稲荷山鉄剣では、五世紀の日本語がどのようなものであったか、そこに用いられた漢字音がどのようなものであったか、多くが未知数のまま残るのです。 稲荷山鉄剣仮名はこうすれば読めると言う簡単な方法など無く、分かるところから順次觧きほぐしていくしかないのです。
まず稲荷山鉄剣銘文仮名には、万葉仮名でもよく見かける文字も含まれていますから、そこから読み取っていくのが良いでしょう。 多加利足尼の多加利を[タカリ]と読む事に恐らく違和感はないでしょう。 足尼については、天寿國繍帳銘文の伊奈米足尼[イナメスクネ]=稲目宿禰など複数の文献で[スクネ]と読まれます。 足尼は七世紀の山ノ上碑文銘文にも見えることから、八世紀の宿禰の古い表記と思われます。 足尼は前節で述べた、二合仮名の例です。 多加利足尼を[タカリスクネ]と読めるならば、ここに現れている単語は、日本語の特徴で読めそうだと言うことになります。
八世紀の都の言葉については、上代日本語として知られていますが、稲荷山鉄剣仮名はそれよりも三百年以上前、しかも見つかったのが関東の古墳ですから、都とは異なる方言であったかもしれません。 しかし先ずは第一近似として、音訳された言語として上代日本語を取りましょう。 上代日本語には仮名表記が色々残されていますから、それらと比較することで音訳者の特徴に関して情報を得ることができます。
ここでは意富比垝を取り上げましょう。 意富については、古事記にこれを[オホ]と読んでいる例が多く見つかります。 ここで青字は上代特殊仮名使いの乙類を示します。 比垝についてはあまり見かけない表記ですが、日本書記に百濟記云として職麻那々加比跪、沙至比跪の名が見えます。 日本書紀はこの人名をそれぞれ、千熊長彥=[チクマナガヒコ]、襲津彥=[ソツヒコ]とみなしているようですから、比跪は[ヒコ]を表すと見て良いでしょう。 垝と跪は、中古音では頭子音が有気と無気の違いだけでほぼ同音です。 従って意富比垝は[オホヒコ]と読めそうです。
この例では稲荷山鉄剣銘文仮名と日本書紀に引く百濟記の間に何らかの関係がありそうです。 木下礼仁氏の「日本書紀と古代朝鮮」によると、稲荷山鉄剣銘文仮名は日本書紀に引く百済史料や、既に言及した天寿國繍帳銘文等の、所謂推古期遺文と言われて来たものに見える音写表記と関係が深そうです。 稲荷山鉄剣銘文仮名の音訳者側の特徴を調べるには、百済史料や推古朝遺文と言われてきたものの特徴を調べれば良いことになります。
万葉仮名の古層
木下氏が稲荷山鉄剣銘文仮名との関連を指摘する、百済史料や推古期遺文とはどんなものか少し触れて置きます。 推古期遺文とは、伊予道後温泉碑文、元興寺露盤銘、元興寺丈六光背銘、法興寺金堂釈迦佛光背銘、天寿國繍帳銘、法隆寺三尊佛光背銘、上宮記逸文、上宮太子系譜などが挙げられています。 百済史料とは日本書記に百濟記云、百濟新撰云、百濟本記伝として引かれた史料のことです。 推古期遺文と百済史料についてはその音写漢字の使用例に共通性があることが指摘されています。 百済史料については百済亡命貴族などが作成したとの説もありますが、特異な音写文字などから、百済漢字音が現れていると考えられています。 推古期遺文はかっては推古朝に遡る史料とされ、日本漢字音の古層に百済漢字音が大きな影響を与えていたと考えられれきました。 しかし推古期遺文は現存せず他の文章に引かれたものが多く、後世の作であるとの説もあります。 金石などに残されたものは、法興寺金堂釈迦佛光背銘、法隆寺三尊佛光背銘のニ例にとどまり、このニ例も銘文に記載された年代よりものちのものであるとする有力な説があります。 しかし日本の漢字文化の根底に百済を始めとした、朝鮮半島の漢字文化が深い影響を与えた事はますます確かなものとなってきています。 推古期遺文は一時期は否定的な論調が強かったのですが、近年は再び見直されてきています。
稲荷山鉄剣銘文仮名はこの日本の漢字文化の古層に関わりがあると思われます。 この古層の仮名がどのように日本語を表記しているか、またその特徴がわかれば、稲荷山鉄剣銘文仮名を読む大きな手がかりになるでしょう。
ではこの古層の仮名にはどのような特徴があるのでしょう。
天寿國繍帳銘に現れる人名を見てみましょう。
等已弥居加斯支移比弥[トヨミケカシキヤヒメ]
記紀では居は[コの乙類]を表しますが、ここでは[ケの乙類]を表しています。
また弥は等已弥居では[ミ]、比弥では[メ]を表します。
支、移は日本漢字音ではそれぞれ、[シ]、[イ]ですが、ここでは[キ]、[ヤ]を表します。
このような表記の違いは、音訳される側の時代差、方言差と音訳する側の漢字音などの言語的な差の両方が原因となります。 但し推古期遺文の場合八世紀とは最大でも200年の差で、また政治的中心の変化も少なく、方言の影響も限定されているでしょう。 このことからこれらの変化は多く音訳者側の漢字音や、言語的特徴によるものと考えられるでしょう。 日本漢字音は基本的には中古音と呼ばれる中国の漢字音を反映していると思われますが、支、移の音価はそれよりも古い上古音と呼ばれる漢字音を反映していると思われます。 この時代の中国の中央の音価は、中古音とされていますから、推古期遺文は何らかの方言音、おそらく百済漢字音を反映していると思われます。 また大変興味深いのが、弥が[ミ]と[メ]に用いられていることで、文字化した人びとが日本人ではなく、百済系の人物であったことが関係している可能性があります。 もちろん日本語の[エ列甲類音]が、もともとは[イ列音]であったとの説もあり、断定はできません。 ここでは[ミ]と[メ]が区別されていないことに着目しておきましょう。
職麻那々加比跪、沙至比跪に見るように、[ヒコ]の音訳にも特徴があります。
これも日本語の変化なのか、音訳者の性格なのかこれだけでは分かりません。
推古期と並行すると思われる隋書に下記の音訳があります。
倭王姓阿毎、字多利思北孤
王の姓を阿毎[アメ]、字を多利思北孤は恐らく多利思比孤の誤写で、[タリシヒコ]と読むのでしょう。 このことから恐らく比跪の跪は音訳者のなまりでしょう。 跪はどちらかというと[ク]に近い音なので、音訳者は日本語の[ク]と[コ甲類]を十分に区別していない可能性があります。
このように日本語を母国語としない人物が日本語を聞いた時に、日本人が区別している音を区別しない事があります。 逆に日本人が区別していない無意識の発音の変化を、異なる音として捉えることもあります。 ここで可能性を指摘できるのは、日本語の母音である[イ]と[エ甲類]、[ウ]と[コ甲類]が区別されていない可能性です。 もっとも日本語においても[ウ]と[オ甲類]は交代することがあるので、必ずしも百済人の問題とは言えないかもしれませんが、可能性としては考慮しておくべきことでしょう。
例えば高麗時代の史書である三国史記には、淵蓋蘇文/泉蓋蘇文と表記される人物があります。 この人物が日本書紀では伊梨柯須弥[イリカスミ]と表記されることから、泉を伊梨[イリ]、蓋蘇文を柯須弥[カスミ]に当てることができます。 このことから高句麗語の泉が[イリ]であると考えられるのですが、同時に蓋[カ]、蘇[ス]、文[ミ]と読むことになります。 蓋は去声調の文字で、古くは舌音系の韻尾があったとされ、このことからkazの様な音が構成されます。 しかし韻尾の音は続く蘇の頭子音と重なって聞こえなかったのでしょう。 蘇は日本漢字音[ソ]ですから、やはり[オ列甲類]と[ウ列音]の間の揺れがあります。 文[ミ]については、おそらくこの読み自体が百済人を経由したものと思われ、この時代の百済語の発音には、日本語の[イ]と[ウ]の中間的な母音があっったためと考えられます。 例えば三国志魏書東夷伝馬韓条には、卑離と言う地名要素が多く現れますが、これに対応する三国史記地理志の地名要素は夫里と表記されます。 また百済史料に見える蓋鹵王が日本書紀では加須利君[カスリノキミ]となることから、蓋[カス]、鹵[リ]が想定されます。 この場合は蓋の韻尾は続く鹵に重なりませんから、[カス]の様に聞こえたのでしょう。 鹵に付いては百済人が[リ]と[ロ]の中間的な音を表示したと思われ、これが日本人の耳には[リ]と聞こえたのでしょう。 このように言語間の母音の対応は微妙で、このことは英語の微妙な母音を、日本人は殆ど聞き分け発音し分けることができないことでもわかります。 銘文仮名を百済人が書いたとすれば、母音の評価はかなりの幅を以て捉えるべきでしょう。
銘文の仮名を読む
ネット上での稲荷山鉄剣銘文の読みに対する疑問は、銘文に於ける最頻出字であり、王名と思われる獲加多支鹵にも見える、獲字に集中しているようです。 獲は日本漢字音の呉音[ワク]、漢音[カク]となります。 この漢字の読みの最後にクの音が来るのは、中古音でこの文字が入声と呼ばれる字であり、読みの最後に本来はk音が来ていた為です。 そしてこの字は獲居と獲加の組み合わせで現れており、後続の居と加の頭子音がkであることから、連合仮名的用法であることが分かります。 従って日本漢字音で読むとしても、[ワ]か[カ]となるでしょう。
この文字の頭子音はkなのでしょうか。 中古音の枠組ではこの字は頭子音を表す声母を匣母とします。 また開合と言う区分では合口という分類に入ります。 これは和と同じです。 獲は[ワ]と読むのが最も妥当であると思われます。
さて順番に読んでいきましょう。
最初は乎獲居です。
乎は天寿國繍帳銘に乎沙多宮[ヲサダ]の宮=訳語田宮と見えることから[ヲ]で良いでしょう。
居は同じくケの乙類として読んだ例がありますから、下記のようになります。
乎獲居[ヲワケ]
次は意富比垝です。
既に[オホヒコ]と読んでいますが、注意点は意富です。
意富は日本漢字音では[イフ]になります。
古事記によく見られる表記ですが、意富を[オホ]と読むとしたら、実は上古音系の読みをしていることになります。
百済史料にも意斯移麻岐彌[オシヤマキミ]の表記があります。
八世紀の万葉仮名と言っても実は古層を含む重層的な構造があることがわかります。
意富比垝[オホヒコ]
次は多加利足尼です。
足尼が少々古い表記です。
多加利足尼[タカリスクネ]
次は弖已加利獲居です。
弖はかって国字とされていましたが、広開土王碑に見える事から、これも朝鮮半島から入って来た文字であることが分かります。
続日本紀の阿弖流為[アテルイ]などの、[テ]と読んだ例があります。
弖已加利獲居[テヨカリワケ]
次は多加披次獲居です。
披は[ヒ]と読んでしましそうですが、天寿國繍帳銘に移を[ヤ]と呼んだように、ここは[ハ]と読むべきでしょう。
披と移は上古音で同じグループに入るのです。
多加披次獲居[タカハシワケ]
次は多沙鬼獲居です。
キに鬼字が当てられているのが注目されます。
百済史料の弗知鬼などの用例があります。
[甲類のキ]には支岐などが用いられますから、かなり音価の違う鬼は[乙類のキ]と思われます。
多沙鬼獲居[タサキワケ]
次は半弖比です。
半が略音仮名的用法になっています。
沖森卓也氏はこの字の終わりの子音nを、次に来る弖の鼻濁音的音価を表しているとされています。
半弖比[ハデヒ]
次は加差披余です。
ここでも披は[ハ]と読むべきでしょう。
カザハヨでは日本語として不自然なため、大野晋氏は余を上古音系にとって[カザハヤ]、長田夏樹氏は[カザハエ(ヤ行のエ)]とします。
加差披余[カザハヤ]
次は問題の獲加多支鹵です。
支は天寿國繍帳銘では[キ]と読んでいました。
鹵は日本書紀に百済人の名前として麻鹵[マロ]と言う人名が現れます。
獲加多支鹵[ワカタキロ]
既に指摘したように、推古期遺文や百済史料では、日本語の[イ]と[エ甲類]、[ウ]と[オ甲類]は区別されていない可能性があります。
これを考慮すると下記のような評価が可能になります。
獲加多支鹵[ワカタケル]
組み合わせとしては他に、[ワカタキル]、[ワカタケロ]が有ります。
最後は斯鬼です。
斯鬼[シキ]
銘文の方言性を考える
ここまで稲荷山鉄剣銘文は、第一次近似的に上代日本語に繋がる中央の言語であると取り扱ってきましたが、大野晋氏等複数の研究者が、発見早々からこの銘文には東国方言の形跡があるとの指摘をしています。 方言性が指摘されているのは弖已加利獲居です。 前節ではこの人名を[テヨカリワケ]としましたが、日本語としては不自然です。 また八世紀の万葉集などにみられる東国方言には、オ列乙類音がしばしばエ列音に変化することが知られています。 この人名の最初の音がそのような訛りであるとすると、本来の読みは[トヨカリワケ]となり、上代日本語として自然な響きになります。 長田夏樹氏が加差披余を[カザハエ(ヤ行のエ)]としたのも同様の理由によるものかもしれません。 実際にどこで作成されたにせよ、東国の人物に与えられる鉄剣の銘文が、その人物もしくはその周辺の人物からの聞き取りを銘文化したとすれば、これはあり得ることでしょう。
しかし関東で発見された稲荷山鉄剣の銘文に東国方言の痕跡があるとしたら、これは鉄剣銘文仮名の性格に付いて重要な情報を与えてくれます。 獲加多支鹵と同じ表記と思われるものが、九州で発見された江田船山鉄刀銘文にも見えるためです。 治天下獲□□□鹵大王世に見える獲□□□鹵が相当すると思われるものです。 一般論として特定の日本語には、複数の漢字化の可能性があるため、同一の文字が使われたとすれば、模範となる仮名使いのテキストからそれを写し取ったと言うことになります。 稲荷山鉄剣銘文に東国方言という特殊性があるとしたら、そこには模範となる仮名使いのテキストから写し取られたものと、稲荷山鉄剣銘文のために漢字化された二種類の仮名があることになります。 ではどれが模範となる仮名使いの写しで、どれが鉄剣作成時の仮名なのでしょうか。
この問題に対して光を投げかけたのが、森博達氏によるアクセントの分析です。 銘文中の仮名表示の単語で、上代日本語のどのような単語に対応するかが判断できるものについて、平安期から鎌倉期のアクセント史料と、中古音の四声のアクセントを比較した状況は下記のようになっていました。
銘文からの抽出語 | 読みの推定 | 比較した上代語 | 一致/不一致 |
---|---|---|---|
獲居 | ワケ | 別 | 一致 |
比垝 | ヒコ | 彦 | 一致 |
足尼 | スクネ | 宿禰 | 一致 |
獲加 | ワカ | 若 | 一致 |
多支鹵 | タケル | 梟帥 | 一致 |
乎 | ヲ | 小 | 不一致 |
意富 | オホ | 大 | 不一致 |
斯鬼 | シキ | 磯城 | 不一致 |
一般論として、本来中国語を表す漢字で、異民族の言語を表現するのは難しいことでしょう。 日本語は比較的簡単な音節構造を持っているとはいえ、アクセントまで一致させるのは選択できる漢字に制限を受けることから難易度が上がります。 アクセントを重視したため、発音の類似性が落る可能性もあるでしょう。 日本書紀歌謡の仮名においては、巻別にアクセントが上代日本語と一致するものと、一致しないものがあるとされています。 アクセントを反映させるかどうかは、音訳者の音訳姿勢によるものと言えます。 比較できた単語がわずかに八語にすぎないことから、何らかの結論を出すのは厳しい状況ではあるものの、銘文の仮名には二つのタイプがある可能性が見て取れます。
獲加多支鹵は、九州と関東で発見されたことから、鉄剣や鉄刀がどこでつくられたにせよ、刻まれた銘文中の王名は、おそらく中央で漢字化されものをそのまま使用したのでしょう。 中央には漢字化された王名が確立していて、標準として参照されていたのでしょう。 もしも森氏の示唆するところが正しければ、その漢字テキストには獲加多支鹵以外にも、アクセントを重視するような仮名使いで記された仮名表記があったはずです。
五世紀王統譜
前節で見た音訳語のアクセントに関する扱いを見てみると、王名である獲加多支鹵と同じくアクセントを重視する表記の語は、[ワケ]、[ヒコ]、[スクネ]等の人名の一部に使用される語であることが分かります。 このことはこれらの語が、人名を列記したようなテキストであったことを思わせます。 人名を列記したようなテキストとして真っ先に思い起こすのは系図です。 おそらく獲加多支鹵を含む大王系図があったのでしょう。 そしてまさにそれを参照したと思われる、稲荷山鉄剣の銘文にも系図が書かれています。 稲荷山鉄剣の銘文に系図が書かれたのは、そのような大王系図に触発されたからではないでしょうか。
この系図に関して幾つか想定できることがあります。 もしも稲荷山鉄剣の銘文の系図が、その当時の大王系図をもとに真似されたものとすれば、恐らくその時の系図には、稲荷山鉄剣銘文の系図を上回る代数が書かれていたでしょう。 稲荷山鉄剣の銘文の系図は八代ですから、大王系図は八代以上あったと思われます。 また意富がアクセント重視でないことから、意富比垝は大王系図に無く、乎獲居の系図は大王には繋がらず、この時代の系図が記紀系図のように、多くの氏族の系図が天皇家に繋がるようなものではなかった可能性があります。
大王系図が漢字化されて存在したとすると、後世の天皇系図に影響を与えたと思われます。 口誦で伝わる伝承は、どうしても時代と共に変化しがちですが、文字化されて記録は時代を越えて伝わる力が強くなります。 従ってこの当時の系図に書かれた大王名は、後の記紀の系図に記録されている可能性が高くなります。 獲加多支鹵が[ワカタケ(キ)ル(ロ)]と読めることから、これに相当する天皇を記紀に記された天皇名から探すと、該当するのは日本書紀の大泊瀬幼武/大泊瀬幼武尊[オオハツセワカタケ]、古事記の大長谷若建命[オオハツセワカタケノミコト]が唯一の候補となります。 この比定には反論もありますが、銘文のみから見る限り他の選択肢は無く、銘文の辛亥年と記紀の朝鮮系記事から想定される[オオハツセワカタケ]の年代にも矛盾がありません。 記紀との比較から、[オオハツセ]は後に冠せられたものであること、幼武/若建は本来は[ワカタケル]と読まれたことが推定できます。 [オオハツセ]の様な修飾的な表現がこの王統譜に無かったことは、[ヲ]や[オホ]のような語が、アクセントを重視しない表記のグループにあることでも分かります。 また宮の斯鬼がアクセント重視でないことは、この系図中には宮の記載はなく、正に稲荷山鉄剣銘文の系図のように、王名のみが列記されたものであったと思われます。 おそらく鉄剣銘文同様に、其児で代々の王名が繋がれていても、必ずしも直接の親子関係を表すものではなく、後世の文献に伝えられたものは文字情報としては王名のみで、王の宮の名や血縁関係などは正確には伝わっていない可能性があります。 記紀の天皇も一代のうちにしばしば宮を変えますが、この時代においてもそのように考えられ、王と宮が風土記などに見るように結びつけられるのは、もう少し時代が下ると考えられます。
実はもう一人この王統譜に名前があったことが推測される天皇があります。 アクセントを重視する仮名書きに[スクネ]がありますが、記紀に記録された天皇名で[スクネ]を名前の一部に持つ天皇は、日本書紀の雄朝津間稚子宿禰尊、古事記の男浅津間若子宿禰王[ヲアサヅマワクゴノスクネノミコト]のみです。 この天皇は恐らくこの王統譜には[ワクゴスクネ]として記載されていたでしょう。 記紀の伝承ではこの天皇は[ワカタケル]の父にあたる人物で、探湯の儀式を行い氏族の系統を正し、臣や連などの姓(カバネ)を定めたとされています。 稲荷山鉄剣銘文にも、乎獲居臣として姓(カバネ)の存在が示唆されます。(乎獲居臣を何と読むかを参照) 正にこの天皇の時代から、中国風の血統を重視する継承が意識され、その一環として大王系譜が作成されたと思われます。 考古学的な発見が偶然性の強いものであるとしても、稲荷山鉄剣に加えて江田船山鉄刀がこの時代に現れるのは、このような時代性を反映していると思われます。 そこに現れる仮名が百済系であることは、日本書記における漢字伝来や史部の伝承とも合います。 この時代は倭の五王の時代で、血統に関して中国からの強い影響によって、このような時代の画期が生まれたのでしょう。 このように稲荷山鉄剣銘文は、代々の王名のみを列記した、五世紀王統譜の存在を強く示唆するものです。
終わりに ー五世紀をこえてー
ここまで稲荷山鉄剣銘文の仮名表記は、百済史料やそれと関連のある推古期遺文との関連があるとしてきました。 しかし実は他にも何らかの関係があると思われる表音漢字資料があるのです。 それは他ならぬ三国志魏書東夷伝倭人の条に見える倭人の語の漢字表記です。 例えば獲を倭人の発音の漢字表記に使用しているのは、この銘文を除いては倭人条しか有りません。 倭人条には彌馬獲支[ミマワキ]の表記が見えるのです。 ここでは獲の連合仮名的な用法から、支の音価は[キ]に近いものを想定できます。 これは一支[イキ]と言う表記からも分かります。 また卑句[ヒコ]と言う表記から百済史料の比垝を思わせるものがあります。 ただし違いもあって卑奴母離を[ヒナモリ]と読むならば、離は[リ]と読むことになりますが、離は上古音体系では移と同じグループに入り、百済史料と同じに読むならば[ラ]と読むべき事になります。
倭人条の書かれた時代は、音韻史的には中古音の時代にあたり、同時代の中国の中央音では彌馬獲支[ミマワキ]、一支[イキ]、卑奴母離[ヒナモリ]のような読みは難しくなります。 何らかの方言音が現れているはずなのですが、今のところ有力なのはその当時の楽浪郡や帯方郡の方言です。 もしかしたらそのような半島にあった方言漢字音が、その後の朝鮮半島の漢字音に影響を与えたのかもしれません。
変更履歴
- 2019年04月20日 初版
白いしゃくなげの随想