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倭面上国考

ー師升の国はどこかー

1.はじめに

范曄の撰述した『後漢書』巻五安帝紀と巻八十五東夷列伝には安帝紀永初元年(107年)に、倭国が使いを遣わして奉献したと言う記録があります。 これまでにもこの時の朝貢の主体の倭国の中心がどこにあったかは、たびたび議論の対象になってきました。 それは中国史書による倭国の実質的な初見とみなされるため、倭国の形成史を考える際に重要な記録となるためです。 実はその前に『後漢書』巻五安帝紀と巻八十五東夷列伝には、建武中元二年(57年)に倭国の極南界とする倭奴国の朝貢の記録があります。 しかし朝貢主体は倭国ではなく倭奴国であることから、その時代に既に倭国の政治的まとまりがあったとは言えません。 『後漢書』が倭国の王が朝貢を行なっている五世紀成立のであることを考えると、倭人の住む領域を倭国としている可能性もあるからです。 確実な倭国の成立は、やはり倭国が朝貢してきたとする、安帝紀永初元年(107年)に求めることになるでしょう。 かっては文献を用いた比定が行われてきましたが、近年は考古学的な見地からその中心域を考察されることがほとんどになってきました。 その代表的なものが、西嶋定生氏の『後漢書』における倭国の登場に関する文献的研究を踏まえた(1)、寺沢薫氏のイト倭国論(2)となります。 この稿では西嶋定生氏の論文を含め、この問題をもう一度文献の観点から見直してみようと考えます。

2.『後漢書』安帝永初元年記事に見る倭国

范曄の撰述した『後漢書』巻五安帝紀永初元年(107年)条の倭国朝貢記録は、『後漢書』現行の中華書局版と同じく宋紹興本を底本とした、漢籍電子文献によると下記のようになっています。
  安帝紀永初元年:冬十月,倭国遣使奉献。【倭国去樂浪萬二千里,男子黥面文身,以其文左右大小別尊卑之差。見本伝。】
  冬十月、倭国が使いを遣わして奉献した。
  【唐 章懐太子註:倭国は樂浪を去ること一万二千里,男子は顔や体に入れ墨をし,模様が左右大小違うを以て尊卑の差を別る。東夷伝を見よ。】

范曄『後漢書』よりも凡そ50年早く、袁宏の撰述した『後漢紀』巻十六孝安皇帝紀上にも、ほぼ同様の記述があります。
  安帝紀永初元年:十月,倭国遣使奉献。
  冬十月、倭国が使いを遣わして奉献した。

また范曄『後漢書』巻八十五東夷伝にも関連した記事があります。
  建武中元二年,倭奴国奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭国之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭国王帥升等献生口百六十人,願請見。
  建武中元二年(57年)、倭の奴国が貢物を奉じて朝賀した。使いの人は自ら大夫と称した。倭国の極南界である。光武帝は賜うに印綬を以てす。
  安帝永初元年(107年)、倭国王帥升たちは、奴隷百六十人を献じ、謁見を請い願った。

この記録には帥升と言う人名と思しき者が書かれており、もしそうなら倭人つまり日本人の人名に関する最古の記録となります。 これについては以前一文(倭面上國王師升)を書いており、重複しますがこの稿でも重要な部分となりますので、繰り返します。 上記朝貢記事の後半の、この人名を含む安帝永初元年(107年)の朝貢に付いて、朝貢主体が史書により様々に記録されていますので、その該当する『後漢書』帝紀、『通典』、『後漢紀』の表記を時代順に整理してみます。 年代は成立年と刊刻年が混ざっていますがご容赦ください。

各史書の倭国朝貢記事の関連記述(青字は日本に伝わったもの)
書名成立/刊刻年代出典朝貢主体備考
『翰苑』太宰府残巻・蕃夷部・倭国9世紀頃の写本後漢書曰倭面上国王師升引用元は『後漢書』東夷伝か
『日本書記私記』丁本936年成立〇面国残存文面は途中から「面国遣使奉献」で引用元は『後漢書』安帝紀
『通典』巻百八十五・辺防一・倭北宋刊本(1101年?)倭面土国王師升引用元は『後漢書』東夷伝か
『後漢書』巻五・安帝紀・永初元年慶元刊本(1195年~1200年)倭国以後『後漢書』刊本では同一文面
『後漢書』巻八十五・東夷伝・倭倭国王帥升以後『後漢書』刊本では同一文面
『釈日本紀』第一 解題1275年~1301年頃成立後漢書伝倭面国引用元は『後漢書』安帝紀か
『日本書紀纂疏』一1455年~1457年成立東漢書伝曰倭面国引用元は『後漢書』安帝紀か
東漢書曰倭面上国王師升引用元は『後漢書』東夷伝か
『後漢紀』巻十六・安帝紀・永初元年明刊本(1548年)倭国『後漢紀』は『後漢書』よりも50年程早く成立。『後漢書』安帝紀とほぼ同文
『通典』巻百八十五・辺防一・倭元刊本(1297年~1307年)倭面土地王師升
『唐類函』百十六巻・辺塞部一・倭明刊本(1573年~1620年)『通典』倭国土地王師升
『異称日本伝』上之一・後漢書一百一十五東夷列伝第七十五1688年成立『後漢書』倭国王帥升
『異称日本伝』上之二・通典巻第一百八十五邉防一東夷上倭『通典』倭面土地王師升
『通典』巻百八十五・辺防一・倭清刊本(1878年)倭国王帥升中華書局版の底本

人名部分は帥升ないし師升でそれほどの揺れではありませんが、朝貢国名の揺れは尋常ではありません。 漢籍には誤写誤刻はつきものとは言うものの、この表記の乱れは単なる誤写誤刻ではないと思われます。 漢籍は書写されるときや、写本から版木による印刷をおこなうとき、もしくは類書と言う辞書的書物に引用される際などに、複数の史料をもとに内容の正誤を考察し、より正しい文面と考えられるものに変更されることがあり、この国名の揺れはこの時の朝貢国名として、複数の記録があったことを伺わせます。 明代以降の書物には倭国土地王師升のような表記がありますが、これは北宋版通典ーの倭面土国王師升から、異称日本伝に引く通典の倭面土地王師升の形を経て、『後漢書』の倭国を折衷したものと思われます。 中国史書では朝貢国名が次第に倭国に統一されていったことが分かります。 清刊本の通典では倭国王帥升になっているほか、建武中元二年(57年)の朝貢国名まで倭奴国ではなく倭国になっています。

上記の表に見るように、内藤虎次郎氏は(3)より古く作成された写本や刊本に、このときの朝貢国名を倭面土国王師升もしくは倭面上国王師升と見えることから、北宋の時代には倭面土国王師升とする『後漢書』古写本が有ったとしました。 しかし西嶋定生氏(4)(5)は、『後漢書』古写本の論拠になった史料を批判し、朝貢国名は最初から倭国であったとしました。 まずこの西嶋氏の批判について順次検討してみます。

古写本説の論拠となった北宋版『通典』について、『後漢書』によると思われる文面を、詳細に現存『後漢書』の文面と比較し、文の構成など大部分が一致するが、細かな用語に違いがあり、『後漢書』の文面をもとにしているが、『魏略』など他の史書を参照して、校勘を行っていると指摘しました。 したがって倭面土国王師升の部分も、何らかの史書にあった情報による修正であり、本来の『後漢書』の文面を示すものではないというのです。 しかしそもそも『通典』は類書であり、時代の知識を集めた辞書的な書物である以上、『後漢書』のみに基づくわけではないことは自明であり、『通典』の場合には出典を示す記述さえもありません。 とはいえ『通典』は多くの歴史家が信頼を寄せている書物であり、同時に表記の内容が誤写誤刻とは考え難いものであるため、何らかの典拠があったと考えられ、『後漢書』ではないとしたら、何が出典だったのかということが問題になります。 西嶋氏の論文を見た中国の王仲殊氏は、倭面土国に相当する国名が『三国志』に見当たらないため、このような国が存在しなかったとしました。 そうして倭面土国は、史料上もっとも早い『翰苑』に見える、倭面上国が本来の形であり、『漢書』巻二十八下地理志燕地に見える、に対する如淳の註如墨委面,在帶方東南萬里委面の影響で、『釈日本紀』や『日本書紀纂疏』に見える、『後漢書』安帝紀の倭面国の表記が生まれ、そこから倭面上国(大国の意)として倭面上国の表記が生まれたとしました。 一方西嶋氏は、王氏の説は漢籍の例として、蛮夷の国の国名表記の例から外れるとして否定し、唐代に「倭」の表記が揺れた際に、「ヤマト」の音にあてて倭面土の表記が現れたとしました。

これについて、山尾幸久氏(6)や依藤勝彦氏(7)の反論があり、王氏の説に対しては、西嶋氏同様に否定され、西嶋説に関しては、当時の漢字音や倭国に対する漢字表記の有り様から、否定されました。 私見では両氏の主張に加えて、国名に関する倭面の表記は、ことごとく安帝永初元年の倭の朝貢に関して現われ、他に例をみないことが、西嶋説や王氏説のような、国名表記の混乱説では説明できないと考えます。 情報の源は『後漢書』原史料の『東観漢記』以下八家後漢書などの、『後漢書』系史料しか考えられないでしょう。 以下の節で倭面上国王師升の出典を『後漢書』とする『翰苑』について検証してみましょう。

3.『翰苑』の証言

引用書を明示しない『通典』と異なり、『翰苑』では倭面上国王師升の出典を『後漢書』としています。 西嶋氏は『翰苑』について、記述が『後漢書』の記録を外れて、『三国志』相当の内容に及んでいるため、引用書名が誤っていて、『後漢書』からの引用ではないとしました。 しかし『翰苑』は非常に誤字脱字衍字に加え、欠文や衍文等が多くあるため、極めて注意深い扱いが必要です。 西嶋氏の利用した『翰苑』の文面は下記のようなものです。
  本文:卑弥妖惑,翻叶群情,台与幼歯,方諧衆望
  註前半:後漢書曰,安帝永初元年,有倭面上国王師升至,桓遷之間,倭国大乱,更相攻伐,暦年無主,有一女子,名曰卑弥呼,
  註後半:死,更立男王,国中不服,更相誅煞,復立卑弥呼宗女台与,年十三,為王,国中遂定,其国官有伊支馬,次曰弥馬升,次曰弥馬獲,次曰奴佳鞮之也。

註文は説明のために、前半と後半に分けましたが、本体は一続きになっています。 この註文に欠文があることが、湯浅幸孫氏により指摘されています。(8) 本文前半の卑弥妖惑、翻叶群情に対応する註がありません。 『後漢書』巻八十五東夷列伝の該当する文は下記のように続きます。
  桓、霊間,倭国大乱,更相攻伐,歴年無主。有一女子名曰卑弥呼,年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑衆,於是共立為王。

すなわち註前半のあとにかなりの長さの欠文があると思われます。 この欠文ですが、面白いのは前半の終わりが名曰卑弥呼、後半はから始まるのですが、これは卑弥呼死と繋がるはずなので、卑弥呼と言う語を前半と後半で共有しているのです。 おそらくこの欠文は、名曰卑弥呼までを書き写したのちに、続きを書き写す際にどこまで書き写したか確認しようとしたとき、文のずっと後のほうの卑弥呼と取り違えたことで起こったものでしょう。 この欠文は註として欠陥となっていますから、現存の『翰苑』が書き写されるときに発生したもので、本来の『翰苑』には必要な内容が書かれていたと思われます。

欠文は前半と後半の間にあり、前半は明らかに『後漢書』からの引用と思われますが、後半は『三国志』から二か所を引いて合わせたものになっています。 後半は『三国志』で離れた所にあった文が一緒になっていますが、引用文では原文の途中省略や、順序の入れ替えが起こることはあり得ます。 例えば太平御覧に魏志に曰くとして引用された『三国志』の引用は、省略と用語や文の構成の変更がおこなわれています。 つまり本来この欠文の中に魏志曰とあったのが、欠文もろとも落ちてしまっている可能性があるわけです。

西嶋氏の『後漢書』の記述範囲から逸脱しているから、引用書名が誤っているという結論には従い難いものが有ります。 もちろん引用が『後漢書』からと言うことも、断言はできません。 『翰苑』のような類書は、同じく類書から又引きすることが多いのです。 しかしそうだとしても、何らかの書物に『後漢書』からの引用と称して、安帝永初元年に倭面上国王師升が朝貢してきたとしていたことが明らかで、『通典』の倭面土国王師升の典拠に関して、重要な情報を与えてくれるものと言えるでしょう。 それにしても西嶋氏は論文中で、湯浅幸孫氏の『翰苑』に関する著作を読んでいるはずで、ここに欠文があると言う指摘に気づいていたはずですが、なぜ言及していないのでしょう。

西嶋氏は『翰苑』の中で、他にも『後漢書』のほぼ同一部分を引いている文をもとに、それが范曄の『後漢書』であり、やはり朝貢国は「倭国」となっていたとしました。 そこで氏の論拠とした部分を引用しつつ、范曄の『後漢書』と比較してみましょう。

『翰苑』太宰府残巻・蕃夷部・倭国の一文と現行の『後漢書』巻八十五東夷列伝倭条の該当する文の比較
書名文面
翰苑光武中元二 倭 国奉貢朝賀使人自称大夫       光武賜以印綬安帝 初元年倭 王師升等献主口百六十
後漢書建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭国王帥升等献生口百六十人願請見

両者を比較すれば明らかなように、『翰苑』は多くの脱落を伴っているのです。 このような脱落の多い文面において、『翰苑』の倭王倭国王からの脱落か、倭面上国王からの脱落かは判断できません。 影印をみると『翰苑』のこの部分は、狭い部分に押し込んだように見え、文字の配分を誤ったため多く省略しているのではないでしょうか。 ちなみに『翰苑』ではここで倭王に続いて師升となっていますが、これは現行『後漢書』の帥升と相違していて、ここが師升となるものは、『冊府元亀』巻九百六十八 外臣部 朝貢第一を除けば、国名を倭面土国ないし倭面上国としている史料ばかりです。 太宰府残巻はあまりにも書写の状態がひどい上に、類書を経由している可能性が高い以上、ここから議論するのは慎重であるべきなのです。

なお『翰苑』の言う『後漢書』が八家後漢書など、『後漢書』と呼ばれうる他の書物でなく、范曄の撰述した『後漢書』である可能性が高いことが、『翰苑』の引用書名の傾向より明らかになっています。(9)

4.『日本書紀纂疏』の証言

一条兼良により『日本書紀纂疏』には下記のように、東漢書には安帝永初元年の朝貢が倭面上国王師升によって行われたとの記述があります。
  『日本書紀纂疏』一:二伝倭面国,此方男女,皆點面文身,故加面字呼之,東漢書曰,安帝永初元年,倭面上国王師升等,献生口百六十人

東漢書とは范曄『後漢書』を指すもので、ここでも倭面上国王師升の出典を范曄『後漢書』としています。 西嶋氏はこれに関して、当時の状況では著述に際して、一条兼良の手元に『後漢書』は無かったとして、『翰苑』等に註した際の手抄本からの記入であるとしましたが、東漢書と書いているものを、なぜ『後漢書』からの手抄本でないと言えるのか、余りにも無理があると思います。 ここに見える倭面国については、それより先に卜部兼方により撰述された『釈日本紀』に下記のようにあります。
  『釈日本紀』第一 解題:後漢書伝,孝安帝永初元年,倭面国遣使奉献,注曰,倭国去楽浪万二千里,男子点面文身,以其文左右大小別尊卑之差

この文面は明らかに、『後漢書』安帝紀の記事をもとにしたもので、卜部兼方の手元に現行『後漢書』安帝紀で倭国としている所を、倭面国とする『後漢書』写本があったことを裏付けるものです。 一条兼良が日本の国名として倭面国を挙げるのは、卜部兼方と同系統の『後漢書』写本を用いたと考えるのが妥当でしょう。 西嶋氏は卜部兼方の用いた写本を、俗本に依ったとしていますが、是も何の根拠も示されていません。 西嶋氏は同時代の『後漢書』には、このときの朝貢国として帝紀、列伝とも倭国となっているため、このような『後漢書』写本の存在を認めないか、または俗本としているのでしょうが、強引な結論と言わなければなりません。 西嶋氏は『後漢書』の全ての刊本、『冊府元亀』・『玉海』等の類書にも朝貢国名は倭国となっているとして、正統性を強調しようとしますが、それらは強力な影響力を持つ『後漢書』の最初の刊刻以降のもので、それ以前の写本の文面に対する論拠になりません。 刊本の時代になってから、中国では刊本中心となりましたが、日本では江戸期に至るまで写本の文化が残り、卜部兼方や一条兼良の用いた『後漢書』写本は、古く日本に伝わって、書き写されてきた写本の系統であると考えるのが自然でしょう。

依藤勝彦氏は(10)『釈日本紀』の記述が基にした、『日本書紀私注』丁本の記述に、冒頭を欠損した面国遣使奉献以下李賢註と同じ記述があることを指摘しました。 『日本書紀私注』丁本の成立は、范曄『後漢書』の最初の刊刻である淳化五年(994)に先立つもので、ここに見える『後漢書』安帝紀永初元年条の一部は、多くの人物が関わった日本紀講筵で用いられた物で、いい加減な引用とは考えられないとしました。 このことから『釈日本紀』や『日本書紀纂疏』に見える、帝紀の国名を倭面国、列伝の記載を倭面上(土)国とする古写本の存在は疑いないものとなりました。 漢書地理志の倭人の記事に対して付けられた、魏の如淳の註如墨委面、在帶方東南萬里を見ると、倭国委面は既に魏の時代に関連づけられていることが分かります。 『後漢書』はもとより八家後漢書も、如淳の時代においては、敵対する呉において成立したものしかなく、倭面を含む倭面上(土)国の記載もまた、『東漢観記』ないしは別の後漢代史料に遡ると思われます。 現存するもっとも古い写本史料である『翰苑』や、『通典』の最古の版本の『後漢書』列伝相当の記事にある、倭面上(土)国の国名記述は、『東漢観記』ないしは後漢同時代の史料を源流とするものと考えるしかないと思われます。 『後漢書』古写本の列伝記事に倭面上(土)国とあったことは、疑いないものと思われます。

ところで『釈日本紀』や『日本書紀纂疏』から言えることは、この日本に伝写した写本では、安帝紀永初元年の朝貢国名が倭面国となっていたことになります。 しかしもしも『後漢書』古写本の帝紀に倭面国、列伝に倭面上国とあったとすると、『後漢書』古写本には安帝永初元年(107年)に朝貢した国名として倭国は無かったことになります。 もしそうならさすがに後の『後漢書』刊本の文面が、倭国に統一されることは無く、倭面国倭面上国になってゆくでしょう。 この朝貢に触れる文献史料の中で、『後漢紀』は史書としての成立は『後漢書』よりも早く、その文面が『後漢書』帝紀と同じであることは重要です。 『後漢紀』の倭人朝貢に関する記事は確かに『後漢書』帝紀に似ていますが、別の史書として伝わっている以上、独立の情報と見なして問題ないと思えます。 おそらく『後漢書』や『後漢紀』の共通の原史料である、『東漢観記』帝紀に朝貢国名として倭国とあったのでしょう。 『後漢書』帝紀もそれを受けて、倭国遣使奉献としていたと思われます。

西嶋氏や王氏は、日本に伝わった『釈日本紀』に残る倭面国の表記を、漢書地理志の倭人の記事に対して付けられた、魏の如淳の註如墨委面,在帶方東南萬里に起因する錯誤によるものとしました。 しかし両者の主張するところは、『釈日本紀』においては明らかに帝紀に対する唐の章懐太子の註の一部を引いていますが、その後漢書本来の文面には末尾に見本伝となっており、東夷列伝の倭を意識するものです。 そして『日本書紀纂疏』ではまさに東夷列伝倭を引いています。 そこには『漢書』の註の話しは全く出てきません。 意識しているのは東夷列伝の倭面上国です。 つまり両者の倭面倭面上国から導かれたもので、これは上国を形容的ににとらえたことで派生したと考えられます。 西嶋氏をはじめ山尾氏・依藤氏も同じく主張するように、このような理解が中国では考え難いことを考慮すると、この倭面国の出所は、日本において代々書写されるうちに、倭国倭面国からの脱字であるとした、校勘によるものと考えられます。

つまり『後漢書』は、安帝永初元年の朝貢国名として、帝紀では倭国、東夷列伝では倭面上国ないし倭面土国となっていたのでしょう。 朝貢国名は朝貢記事で最も重要な要素ですから、『後漢書』は早くからこの文面に関して、写本の際に校勘を行う動機を提供していたと思われます。 通常は刊本化事業や、大規模な類書作成の時にしか起こらない、語句の校勘の動機が、『後漢書』の場合は個別の写本のたびに発生することになり、結果中国では早々に東夷列伝が倭国に収斂し、一方日本に伝わった写本では、帝紀が倭面国に収斂したと考えるのが合理的であると思います。 一方で『通典』では『後漢書』の東夷列伝の内容だけが引用されたため、このような校勘動機の生ずる機会が少なく、比較的後世まで倭面土国王の表記が残り、さらに誤刻を重ねて倭面土地王倭国土地王の表記が生まれたのでしょう。

現存『後漢書』の帝紀と東夷伝の記事について、前回(倭面上國王師升)は安帝永初元年の記事は、元々東観漢記の帝紀の一本の記事だったのではないかとしましたが、その後の調査で東観漢記には、後漢王朝と東夷諸族の交渉に関しての記録があった可能性が浮上ました。 このため帝紀と東夷伝の原史料は別であったと想定します。 参照:東夷列伝烏桓鮮卑列伝 前稿では汚損した史料などから書写した際に、白を靣に誤まったという可能性に触れましたが、今回はこの誤写説を取らずに、倭面上(土)を地名ととらえ、その現在地を比定してゆくことにします。

5.『後漢書』安帝永初元年記事に見る倭国

ここで現行『後漢書』の記述の矛盾点を指摘しておきます。 これは西嶋氏も指摘していたことですが(12)、現行『後漢書』では帝紀には、安帝永初元年に倭国の王が使者を遣わして献上品を奉じたとしています。 一方の東夷列伝では、倭国の王が生口百六十人を献上して、謁見を臨んだとしています。 これは内容が明らかに食い違っています。 このことからも、現行『後漢書』の文面には誤りがあると思われます。

それでは『後漢書』東夷列伝の倭に見える、安帝永初元年の朝貢国名が、倭面上(土)国である場合には、どのように考えられるでしょうか。 このときの朝貢の状況について考察しみましょう。 前節ではこの朝貢記録で、恐らく校勘をおこなった人びとを混乱させたのは、朝貢国名の違いだったと推定しました。 前節に述べたように『後漢書』帝紀の記事と、東夷伝の記事が別の原史料をもとにしているとすると、両者の違いはこの時の朝貢に対する、異なる記録者の観点を表している可能性があります。 そこで両者の記述内容を比較してみましょう。
『後漢書』安帝永初元朝貢記録の比較(カッコ内は異伝)
項目帝紀東夷列伝
年月安帝永初元年十月安帝永初元年
国名倭国倭面上(土)国
朝貢者について遣使
朝貢の様子奉献献生口百十六人願請見
倭国の様子
朝貢の結果

比較のために建武中元二年(57年)の朝貢に関しても確認してみます。

『後漢書』建武中元二年朝貢記録の比較
項目帝紀東夷列伝
年月建武中元二年春正月建武中元二年
国名東夷倭奴国倭奴国
朝貢者について王遣使使人自称大夫
朝貢の様子奉献奉貢朝賀
倭国の様子倭国之極南界也
朝貢の結果光武賜以印綬

安帝永初元年のケースでは、両者が本来別史料であったとすれば、極論すれば別の出来事と言う可能性もあるわけです。 つまり倭国の朝貢と倭面上(土)国の朝貢が、たまさか同じ年に起こったという可能性です。 帝紀と列伝が食い違うことは驚くべきことではなく、『宋書』では実際に帝紀にあって蛮夷伝にない朝貢や、蛮異伝に有って帝紀にない朝貢が見えます。 しかし安帝永初元年が重なっている以上、私は同一事件であったと考えます。

ここには、倭国という倭人社会を一つの単位で見ようとする見方と、その中にある国を認める立場が見えます。 このような違いは『三国志』の魏志倭人伝にも見えるものです。 つまりどうもこの時代の倭人社会に対して、『三国志』同様の二様の認識があったと考えられるのです。 安帝永初元年の朝貢に対して東夷伝では、倭面上(土)国王という朝貢者が現れて謁見を求めたところまでしか書かれていません。 一方帝紀では倭国が使者を遣わして献上品持ってきたと書かれています。 ここで重要なことは国名が異なるだけでなく、朝貢した人物が倭国の遣した使者と倭面上(土)国の王で異なっていることです。

私は東夷伝の記録は皇帝に取り次ぐ前に、使者に対応した実務者の残したもののような気がします。 例えば『三国志』東夷伝には倭国の朝貢について紋切り型の朝貢記録ではなく、その経緯が細かく書かれています。 その卑弥呼の最初の朝貢の記録は、下記のように始まります。
  景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻

この後帯方太守劉夏が洛陽に送り届けるのですが、その記録が残らずにここで終わっていれば、『後漢書』東夷列伝の記事に類似します。 実際には帝紀にはこの時の記録はないのですが、次の正始四年の朝貢について下記のように記録されます。
  冬十二月,倭国女王俾弥呼遣使奉献

『後漢書』の安帝永初元年の倭国の朝貢記録は、このような経緯での記録ではないでしょうか。 後漢王朝は永初元年九月に、太尉の徐防・司空の尹勤が免職されており、このような政争が辺境での記録環境に影響を与えたのではないでしょうか。

一方帝紀は後の時代には、原史料として起居注が用いられました。(12) この時代に起居注があったかどうか判然としませんが、『隋書』巻三十三 史 起居中には漢献帝起居注五巻がみえることから、後漢末には存在したようです。 起居注としてまとめられるのは時代が下るとしても、皇帝周辺の実録として何か残されていて、それが一次史料として用いられた可能性は高いと思われます。 つまり帝紀の記録は、皇帝の周辺で倭国の奉献が認められるような状況になったことを示し、朝貢主体が倭国という認識もその時の後漢王朝の公式のものであると考えられます。 何らかの聞き取りの結果倭面上(土)国王は、倭国の使者としてやってきたという認識を示すものでしょう。 素直に解釈すると後漢王朝は朝貢主体が倭国と言う政治的まとまりであり、倭面上(土)国王はその使者であると認識したということでしょう。 列伝記事では、あくまで謁見を求めたとと言うことなので、この時点でまだ後漢王朝に認められた王というわけではなく、あくまで自称の王と言うことになります。 『三国志』では伊都国や狗奴国には王がいるとしていますから、倭国の中の倭面上(土)国の統治者が、王を自称しても不思議ではありませんが、ここには大きな問題があります。 しばしば倭面上(土)国王は倭国の代表者であるように解釈されますが、素直に読む限りそう断定できないことになります。

この時の朝貢において倭国の王が直々にやってきたのかどうかについては、三木太郎氏は否定的な指摘をしています。(13) それによると夫余王が直接やってきた際には、『後漢書』巻十順帝紀永和元年条では,夫餘王來朝と記録しており、東夷伝では其王来朝京師,帝作黄門鼓吹、角抵戯以遣之と歓待しているとのことです。 これと倭面上(土)国王の待遇の差を見ると、とても倭国の王としてやってきたとは考えられないとし、中華書局版後漢書の倭国王帥升 倭国主帥升 の誤りであろうとされました。 しかしこれは、建武中元二年(57年)の使者が大夫を名のり、卑弥呼の使者も大夫を名乗ったことからすると、いきなり出てくる主帥に戸惑いを感じるのです。 また冒頭の表を見れば、の表記は倭国の場合にしか出てきません。 倭面上国など倭国以外の表記に対しては、としか出てきませんから、本稿の検証結果からはと言うことになります。 私の推測では、面上(土)国 王はかって朝貢した奴国内の一領主である大夫のような存在ではなく、自ら一つの小国の王であると主張したのではないでしょうか。 またこの段階ではまだ朝貢できていないわけですから、この王号は自称した僭称であり、後漢王朝から認められたわけではないですが、国王号については、建武中元二年に倭奴国王が認められていますから、それにならって自称したものと思います。

ちなみに此の文面では国王が複数来たように見えますが、下記のように卑弥呼の景初の朝貢では、大夫難升米次使都市牛利の朝貢に対して大夫難升米等となっていることから、必ずしも王が複数いたとは言えません。 代表者の地位のみが書かれていると考えられます。

  景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所献男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。

これはうがった見方をすれば、倭国の政治的成長を物語るものである可能性があります。 つまり建武中元二年(57年)の時には、倭人社会の中の多くの国の一つ、奴国の配下にある大夫が使者として遣されたのに対し、安帝永初元年(107年)には実態はともかく、少なくとも後漢は倭国というまとまりを認め、その中から使者として倭面上(土)国の王が遣されたとしているということで、国々のまとまりができ始めたことを示すものでしょう。 そして卑弥呼の時代に下ると、依然として伊都国や狗奴国に王がいるものの、他に王がいるとはなっておらず、使者としては卑弥呼配下の大夫が遣されたのです。

ここで再度確認しておきたいことは、倭面上(土)国王は二世紀初頭の倭国において、朝貢主体でもなく、卑弥呼の時代の邪馬台国のように都を置かれたとも書かれておらず、ただ国々の連合に遣わされた使者とされているだけだということです。 生口百六十人を渡海させたということは、それなりに大きな国を想定することもできますが、実は多くの国々が提供した人と舟を率いるだけの存在であるかもしれないのです。 少なくとも海運に通じた、地理的に大陸への使者を務める事の出来る人物と思われます。

6.倭面土/倭面上の比定

倭面土倭面上を地名と捉える際、多くの場合は倭面土を採用するようです。 恐らくこのほうが地名っぽい響きがあるためでしょう。
比定地一覧
提唱者後漢書対象表記読み比定対象現在地備考参照文献
内藤湖南倭面土ヤマト記紀の大和奈良県(14)
白鳥庫吉面土イト三国志の伊都国福岡県前原近郊面土を回土の誤写とする(15)
橋本増吉面土メヅ三国志の末盧国佐賀県唐津近郊『日本書記』巻九神功紀の梅豆羅にあてる(16)
七田忠昭面土メタ和名類聚抄の肥前国三根郡米多郷佐賀県上峰町一帯『先代旧事本紀』巻十 国造本紀の筑志米多国造(17)

比定を行う前にまず字に関して考察します。 この文字は切韻では陽類とされる文字で、音節末に子音のnが来ます。 これはあまり日本語の音節を表すのに適切ではなく、『三国志』や『隋書』または『日本書紀』アルファ群のように、外国人の音訳者は余り用いない文字です。 しかし稲荷山鉄剣銘文には半弖比のような用例があります。 森博達氏(18)は倭人伝の倭語の音訳文字について、濁音の前に鼻濁音的子音を末尾に持つ文字を用いていると指摘しています。 沖森卓也氏(19)はこのの終わりの子音nを、次に来るの鼻濁音的音価を表すために用いているとします。 このようなことから、に続く音は濁音が想定されます。 は、両方とも切韻で全濁音でこの条件を満たします。

七田忠昭説の米多郷は、近くに吉野ケ里遺跡があり、また『先代旧事本紀』国造本紀に筑志米多国造の名が見えるためなかなか興味深い説となります。 米多郷については天平風土記の『肥前風土記』に地名説話があり、そこでも米多井となっていて、メは奈良朝のメ乙であることになりますが、面の字は万葉仮名ではメ甲となり合いません。 ただこれについては『万葉集』巻5 802に宇利波米婆(瓜食めば)『万葉集』巻5 871に麻通良佐用比米(松浦佐用姫)のような用例があり、九州地方の訛でメ甲をメ乙に訛っていた可能性があります。 またについては、二世紀初頭を考えると母音音価は、日本語のオ列甲類に適切な音価になっていた可能性があります。 つまり読みとしてはメドが適切となり、七田忠昭説のメタとずれが出てきます。 音としては橋本増吉説のメヅのほうが近いのですが、梅豆羅の場合のメも乙類となり面と合いません。 この場合は日本書記なので、訛とするのは難しいですね。 しかも同時に『三国志』の末盧国に比定されていて、の一等韻との三等韻で母音がうまくないです。 または次声という有気子音の文字であり、森博達氏(20)によると倭人伝でも『隋書』でもこの種の文字はあまり使われていないとします。 は日本語地名の語尾として、一見すると妥当のようにみえて、難しい要素も多いのです。

七田忠昭氏以外の論者は、倭面土国を三国志の国名に結びつけようとしています。 それはこの国が倭国の中心として、漢王朝に使者を立てたのだから、『三国志』の時代になってもその国名が残っているだろうと考えるからでしょう。 実際に倭奴国は『三国志』にも、奴国という人口で第三位の大国として現れるのです。 七田忠昭氏の比定地はその点が難点であり、また博多湾岸に比べて考古学的に見て見劣りのする点も納得のいかないものが有ります。 しかし倭面土が必ずしも倭国の中心ではなくむしろ小国であったとすると、これらは問題にならなくなります。 寺澤イト倭国論に立って、前原を二世紀初頭の倭国の中心とし、米多郷にいた王を使者として遣わしたという想定も可能になるのです。

もう一つの候補倭面上について検討してみましょう。 は現在ジョウと伸ばして発音されますが、原音は音節末尾が鼻濁音(ng)で終わる音となり、あまり日本語的な響きではないです。 実は日本漢字音となるときこの末尾子音がウのように聞こえたらしいことが分かっています。 例えば等がそうで、後の時代に入ってきた語の場合、それぞれワン・ヤン・トン等と発音されることがあります。 しかし森博達氏(21)によると、中国人が記録したとする『日本書記』アルファ群でもこのような文字が、日本語の音節に割り当てられているケースがあるとのことです。 倭人伝でも難升米弥馬升、『後漢書』の帥升などに用いられている、のような文字がこれに当たり、主母音を取って日本語のソの乙類を表しているとされます。 したがっては末尾子音を無視して、ジのような音を表している可能性があります。

『後漢書』巻二光武帝紀建武中元二年(57年)にみえる倭奴国を、を切り離して奴国として評価する例に倣えば、地名として面上=メジが考えられます。 しかしメジと言う地名は、『古事記』・『日本書記』・『風土記』・『万葉集』のような奈良朝文献でも、『先代旧事本紀』・『和名類聚抄』・『延喜式』のような平安期文献でも発見できません。 地名の変遷を考えると、さらに新しい地名を比定するのは躊躇します。 そこで比較的メジに近い地名を捜すと、『延喜式』および『和名類聚抄』高山寺本駅名に面治駅という律令制の駅名が発見できます。 面治駅の推定地の近くには、字(アザ)米持(メヂ)に面沼神社があり、これも『延喜式』の式内社となり、大化の改新に遡るとされます。 面沼は本来は面治であったものを、『延喜式』が誤写したとの説もあり、中世には面沼神社を、米持(メジ)大明神としていたこともあり、説得力があります。(22) (現地を見てみたところこれにはやや疑問が生じました。) 同じ字なので言うまでもないですが、奈良朝以前での文字化であれば、面治のメは甲類となってあいます。

しかし問題は面治はメヂであり、奈良朝ではジとヂは区別されていたということです。 ただ面上と繋げた時、これが倭語のメジにあてたものかは微妙なところがあります。 ローマ字表記するならジはziで、ヂはdiとなります。 ジの子音は舌を上顎にあてず息を出す摩擦音で、ヂの子音は舌を上顎にあてた破裂音です。 一方の末尾子音はnで、舌を上顎に付ける音です。 そこで面治をローマ字で表記するならmendiとなり、一方の面上はmenzi(ng)となり、二番目の音節をあらわす子音はndとnzとなり、接近してくると思われます。 実際には中国語のwa(ng)が日本語のwauに変換されるような、言語間の音素認識のずれもあるので、面上がメヂを表現しようとしたものである可能性はありそうです。

面治駅の推定地は現在の兵庫県美方郡温泉町井土にあたり、近くの美方郡香美町香住区米地字にある佐受神社も中世には米持(メヂ)大明神と呼ばれていたらしいので、この周辺にふるくメヂの地名が存在した可能性があります。 ちなみに中世まで下れば、メの甲乙の区別はありません。 両者は古代の二方郡と美含郡にあたる地域で、古代の二方国造りの領域で但馬の国の西部になります。 ただこのあたりには弥生の大遺跡がありません。 同じ『和名類聚抄』に見える米多郷に比べても大変に見劣りします。 しかし 面上国倭国の中心でないのなら検討の価値はあります。

森岡秀人氏の原倭国論による比定地の評価

森岡秀人氏(23)は近江を中心とした弥生後期の土器や青銅器の動きから、氏が「原倭国」とよぶ政治的なまとまりが近江を中心として成立したとされました。 その時期は一世紀末から二世紀末とされ、近江南部の野洲川下流域にある伊勢遺跡がなにも無い所に突如現れて巨大化することから、その中核であると推定しました。 考古学的な考察からの仮説ですが、正にその時期が安帝永初元年(107年)の倭国の朝貢に重なることから、この時に朝貢したと言う帥升は、北近畿にいた可能性があるとされました。 面上国の面治への比定は、近畿周辺への比定と言う意味で、森岡原倭国論によって評価することができそうです。

面治駅は山城を発する古代の山陰道の、但馬最後の駅となっています。 面治駅から山陰道を離れ、岸田川を下ると諸寄という中世の日本海航路の有力な寄港地があり、このあたりは中世の交通の要衝と言えます。 今のところ問題となる二世紀初頭にあたる弥生後期後半のものとしては、大遺跡も首長墓と言う規模の墓も見つかっていませんが、面治から岸田川沿いに6kmほど下ったあたりにある初瀬谷・柏谷古墳群(24)は、弥生後期後葉から古墳前期の墳墓群とされていて、古墳時代の墓からは国産のものではない原料を用いたガラス玉や、内行花文鏡の破片が発見されています。 北に数百メートル離れて、和泉谷・津原古墳群(25)に引き続く古墳前期中頃から古墳後期中頃の墳墓が築かれ、さらに北に1Km程度の場所に六世紀の二方古墳(26)が築かれるなど、おそらく古代二方国造の中心地であったと考えられます。 この地域の土器からは西の稲葉との交流が伺え、隣町の香美町の弥生後期後半から古墳前期のトチ三田遺跡(27)では、北陸方面から影響を受けた製塩土器も見つかっています。 つまりこのあたりは弥生後期後半以降、山陰から北陸の日本海側の文化圏に属すると思われ、西方は稲葉の国の四隅突出墓祭祀圏に隣接します。

一方この地域は東方では但馬国造に属する領域に隣接します。 但馬国造は但馬の国の東半分に当たり、その豊岡市九日市上町女代に弥生後期の近畿式銅鐸(突線鈕2式)が見つかっています。 つまり比定地は二世紀初頭の、近畿式銅鐸圏と四隅突出墓祭祀圏の境界領域にあることが分かります。 この時期には湖南の近畿式銅鐸の中心地に、伊勢遺跡が建設されており、伊勢遺跡との関係を考える場合には、この地理的条件を考慮する必要があります。

弥生後期後半に入って日本海側に鉄器が増加し、鉄器や鉄素材が日本海ルートで本州に流れた形跡が指摘されています。(28) 対馬から何らかのルートで、出雲など山陰方面に直接つながることも想定できるのではないでしょうか。 森岡原倭国の王が漢王朝への使者を依頼するとしたら、この時代に有力になっていたこのルートを使った可能性が高く、そのためには西の有力な祭祀圏である、四隅突出墓の築かれた地域の協力が必要になるでしょう。 つまり実質的には四隅突出墓祭祀圏と近畿式銅鐸祭祀圏の、共同での朝貢となると思われます。

二世紀初頭に近畿式銅鐸祭祀圏と、四隅突出墓祭祀圏が合同で使者を送るとしたら、その代表はどのように選ばれるでしょうか。 代表者をどちらか一方の祭祀圏からから選ぶことは難しく、両者の中間に位置し両者に通ずる国が選ばれるのではないでしょうか。 またあまり有力な国では、その後の主導権を握られるなど不都合があるかもしれません。 両者の境界上にあり、小さな国で御しやすい国が選ばれるのではないでしょうか。 小さな国であるため、配下の大夫ではなく王そのものが使いに立ったということになるでしょう。 北陸・北近畿・山陰の日本海側の国々が連帯し、多くの生口と舟を集め、中立的な小国の王が代表として使者に立ったとすれば、面上国の面治への比定には、それなりの合理性があると思います。

ここで師升と言う名前に注目してみます。 という文字は、倭人伝でも難升米弥馬升に用いられています。 弥馬升は邪馬台国の官名の第二位に当たるもので、第三位に弥馬獲支が現れます。 この官名は古音を用いて読むとミマワキとなり、おそらく弥馬升に次ぐものであることからミマに対するワキ、つまりミマの副官と理解できます。 そうすると弥馬升はミマの長官と言うほどの意味にとれそうです。 師升は人名でなく、この時の倭国のまとまりの中での役割、官名に相当するものであったのではないでしょうか。

上記の仮説に立つと、二世紀初頭の倭国の朝貢は、日本海側の諸国が幅広く団結し、中華王朝へのルートを開いた大事件であることになります。 時代は弥生後期中葉と言ったところではないでしょうか。 弥生後期後半になると、原の辻交易が独占的地位を低下させ、楽浪土器が北部九州一帯に広がり、吉備にも模倣した土器が現れると言います。(29) この時期になって山陰方面からの鉄器発見事例が多くなるのも、このときの朝貢が大きな突破口になったと考えることもできそうです。

下記に面治の位置を示します(NPO法人 守山弥生遺跡研究会のサイト野洲川下流の弥生遺跡弥生後期の祭祀の地域性の図に加筆)

参考文献

  1. [戻る](1) 西嶋定生 1999.05 「倭国出現の時期について」 『倭国の出現』第一章 東京大学出版会 p3
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  3. [戻る](3) 内藤虎次郎 1929 「倭面土国」 『読史叢録』弘文堂書房
  4. [戻る](4) 西嶋定生 1999.05 「「倭面土国」出典考」 『倭国の出現』第二章 東京大学出版会 p23
  5. [戻る](5) 西嶋定生 1999.05 「「倭面土国」出典続考」 『倭国の出現』第三章 東京大学出版会 p89
  6. [戻る](6) 山尾幸久 2005/03 「倭国」と「倭王」との出現.-西嶋定生氏の「倭面土国」説批判 『青丘学術論集』 25 韓国文化研究振興財団 p5
  7. [戻る](7) 依藤勝彦 2006.春 「倭面土国論--特に西嶋定生説の批判的検討から」『東アジアの古代文化』 古代学研究所 編 (127)
  8. [戻る](8) 湯浅幸孫 1983.2『翰苑校釈』 張楚金 [著] 国書刊行会 p115
  9. [戻る](9) hyenanopapa  2021.3 『翰苑』所引『後漢書』は謝承『後漢書』か
  10. [戻る](10) 前掲(7)
  11. [戻る](11) 西嶋定生 1999.05 「倭国出現の時期について」 『倭国の出現』第一章 東京大学出版会 p22
  12. [戻る](12) 安部総一郎 2000.06 「後漢時代關係史料の再檢討--先行研究の檢討を中心に」 『史料批判研究 / 史料批判研究会 [編] (通号 4)』 p.1~43
  13. [戻る](13) 三木太郎 1984.1 「「倭国王帥升等」について」 『倭人伝の用語の研究』 多賀出版 p124
  14. [戻る](14) 前掲(3)
  15. [戻る](15) 白鳥庫吉 1981.12 「卑弥呼問題の解決」 佐伯有清編 『邪馬台国基本論文集Ⅱ』 創元社 p67
  16. [戻る](16) 橋本増吉 1982.5 「翰苑記事内容の考察」 『東洋史上より見たる日本上古史研究』 原書房 p180
  17. [戻る](17) 七田忠昭 2021.9 『上峰町史』上巻 上峰町
  18. [戻る](18) 森博達 1985.11 「「倭人伝」の地名と人名」 森浩一編 『日本の古代1』 中央公論社 p181
  19. [戻る](19) 沖森卓也 2017.4 『日本語全史』 筑摩書房
  20. [戻る](20) 前掲(17)
  21. [戻る](21) 前掲(17)
  22. [戻る](22) 井上通泰 1941.4 「南海道山陽道山陰道北陸道 但馬国」『上代歴史地理新考』 三省堂
  23. [戻る](23) 森岡秀人 2015.03 「倭国成立過程における 「原倭国」 の形成―近江の果たした役割とヤマトへの収斂―」 寺沢薫 ・ 橋本輝彦編 『纒向学研究センター研究紀要 纒向学研究』 3:39-55
  24. [戻る](24) 情報初瀬谷・柏谷古墳群 兵庫県町づくり技術センター・埋蔵文化財発掘調査
  25. [戻る](25) 和泉谷・津原古墳群 兵庫県町づくり技術センター・埋蔵文化財発掘調査情報
  26. [戻る](26) 
  27. [戻る](27) 『香住町誌』1980.11 香住町教育委員会 p282
  28. [戻る](28) 会下和宏 2019.12 「弥生時代の山陰地域における鉄器普及の様相」『山陰研究』(第 12 号) 島根大学法文学部山陰研究センター  p1~p12
  29. [戻る](29) 白井克也 2001 「勒島貿易と原の辻貿易―粘土帯土器・三韓土器・楽浪土器からみた弥生時代の交易―」『第49回埋蔵文化財研究集会 弥生時代の交易―モノの動きとその担い手―』埋蔵文化財研究会第49回研究集会実行委員会,pp.157-176


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