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倭面上国考

ー帥升の国はどこかー

はじめに

『後漢書』巻五安帝紀と巻八十五東夷列伝には安帝紀永初元年(107年)に、倭国が使いを遣わして奉献したと言う記録があります。 これまでにもこの時の朝貢の主体の倭国の中心がどこにあったかは、たびたび議論の対象になってきました。 それは中国史書による倭国の実質的な初見とみなされるため、倭国の形成史を考える際に重要な記録とみなされたためです。 実はその前に『後漢書』巻五安帝紀と巻八十五東夷列伝には、建武中元二年に倭国の極南界とする倭奴国の朝貢の記録があります。 しかし朝貢主体は倭国ではなく倭奴国であることから、その時代に既に倭国の政治的まとまりがあったのではなく、すでに倭国の王が朝貢を行なっている五世紀成立の『後漢書』において倭人の領域を示す言葉として用いられているに過ぎないと考えうるからです。 確実な倭国の成立は、やはり倭国が朝貢してきたとする、安帝紀永初元年(107年)に求めることになるでしょう。 かっては文献を用いた比定が行われてきましたが、近年は考古学的な見地からその中心域を考察されることがほとんどになってきました。 その代表的なものが、寺沢薫氏のイト倭国論(1)となります。 この稿ではこの問題をもう一度文献の観点から見直してみようと考えます。

『後漢書』安帝永初元年記事に見る倭国

安帝紀永初元年(107年)の倭国朝貢の記録は、宋紹興本を底本とする、漢籍電子文献によると下記のようになっています。

  安帝紀永初元年:冬十月、倭国遣使奉獻。【倭国去樂浪萬二千里、男子黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。見本傳。】
  冬十月、倭国が使いを遣わして奉献した。
  【唐 章懐太子註:倭国は樂浪を去ること一万二千里、男子は顔や体に入れ墨をし、模様が左右大小違うを以て尊卑の差を別る。東夷伝を見よ。】

『後漢書』よりも凡そ50年早く成立した『後漢紀』巻十六孝安皇帝紀上にも、ほぼ同様の記述があります。

  安帝紀永初元年:十月,倭国遣使奉獻。
  冬十月、倭国が使いを遣わして奉献した。

また『後漢書』巻八十五東夷伝にも関連した記事があります。
  建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭国王帥升等獻生口百六十人、願請見。
  建武中元二年(紀元57年)、倭の奴国が貢物を奉じて朝賀した。使いの人は自ら大夫と称した。倭国の極南界である。光武帝は賜うに印綬を以てす。
  安帝永初元年(紀元107年)、倭国王帥升たちは、奴隷百六十人を献じ、謁見を請い願った。

この記録には帥升と言う人名と思しき者が書かれており、もしそうなら倭人つまり日本人の人名に関する最古の記録となります。 これについては以前一文(倭面上國王帥升)を書いており、重複しますがこの稿でも重要な部分となりますので、繰り返します。 上記朝貢記事の後半の、この人名を含む安帝永初元年(紀元107年)の朝貢に付いて、赤下線部が史書により様々に記録されていますので、その該当する『後漢書』帝紀、通典、『後漢紀』の表記を時代順に整理してみます。 年代は成立年と刊刻年が混ざっていますがご容赦ください。

各史書の倭国朝貢記事の関連記述(青字は日本に伝わったもの)
成立/刊刻年代『後漢書』東夷伝赤下線該当部分通典対応部分『後漢書』帝紀の国名『後漢紀』の国名備考
9世紀頃の写本倭面上国王師升太宰府『翰苑』残巻に引く『後漢書』東夷伝
北宋刊本(1101年?)倭面土国王師升通典は『後漢書』を写したと思われる
慶元刊本(1195年~1200年)倭国王帥升倭国以後『後漢書』刊本では同一文面
1275年~1301年頃成立倭面国釈日本紀に引く『後漢書』
1455年~1457年成立倭面上国王師升倭面国日本書紀纂疏に引く『後漢書』
明刊本(1522年~1566年)倭面土国王師升
明刊本(1548年)倭国『後漢紀』は『後漢書』よりも50年程早く成立
明刊本(1573年~1620年)成立倭国土地王師升唐類函に引く通典
1688年成立倭国王帥升倭面土地王師升異称日本伝に引く『後漢書』と通典
清刊本(1878年)倭国王帥升通典中華書局版のもと

人名部分は帥升ないし師升でそれほどの揺れではありませんが、朝貢国名の揺れは尋常ではありません。 漢籍には誤写誤刻はつきものとは言うものの、この表記の乱れは単なる誤写誤刻ではなく、史書編纂者や写本刊本の作成者を混ー乱させる要因があったと考えられます。 明代以降の書物には倭国土地王師升のような表記がありますが、これは北宋版通典ーの倭面土国王師升から、異称日本伝に引く通典の倭面土地王師升の形を経て、『後漢書』の倭国を折衷したものと思われます。 中国史書では朝貢国名が次第に倭国に統一されていったことが分かります。 清刊本の通典では倭国王帥升になっているほか、建武中元二年(57年)の朝貢国名まで倭奴国ではなく倭国になっています。

釈日本紀や日本書紀纂疏の文面からすると、日本に伝わった『後漢書』古写本には、帝紀の国名倭面国、東夷伝の国名倭面上国となっていたようです。 現存するもっとも古い写本史料である、『翰苑』に引く東夷伝にも倭面上国とありますから、唐時代の『後漢書』の東夷伝には倭面上国となっていたと考えて良いと思われます。

では帝紀はどうだったのでしょう。 『後漢書』帝紀の倭国の遣使記事に対する唐の章懐太子の註を見ると、帝紀の倭国に対して強く黥面を意識しているようで、ここの古写本での記載が、日本に伝わった古写本にあったように倭面国であった可能性を疑わせます。 しかしもしも日本の古写本にあるように、帝紀にも倭面国とあったとすると、唐時代の『後漢書』には107年に朝貢した国名の倭国は無かったことになります。 もしそうなら、さすがに後の刊本の文面が次第に倭国に統一されていくことは無いと思われます。 倭面国倭面上国になってゆくでしょう。

この朝貢に触れる文献史料の中で、『後漢紀』は史書としての成立は『後漢書』よりも早く、その文面が『後漢書』帝紀と同じであることは重要です。 『後漢紀』の倭人朝貢に関する記事は確かに『後漢書』帝紀に似ていますが、建武中元二年の朝貢記事には独自情報もあり同じ年次の記事全体を見れば、『後漢紀』の記事が欠損してのちの時代に『後漢書』から補ったとは考えられず、独立の情報と見なして問題ないと思えます。 おそらく『後漢書』や『後漢紀』の共通の原史料である、『東漢観記』に朝貢国名として倭国とあったのでしょう。 現存『後漢書』の帝紀と『後漢紀』に残る、107年朝貢記事が殆ど同じであることを考えると、おそらく『後漢書』帝紀の国名は倭国であったでしょう。 漢書地理志の倭人の記事に対して付けられた、魏の如淳の註如墨委面、在帶方東南萬里を見ると、倭国倭面は既に魏の時代に関連づけられていることが分かります。 魏の時代にはまだ『後漢書』は成立しておらず、このことから倭面の記載はその原史料のおそらく『東漢観記』に遡ると思われます。

現存『後漢書』の帝紀と東夷伝の記事について、前回(倭面上國王帥升)は安帝永初元年の記事は、元々東観漢記の帝紀の一本の記事だったのではないかとしましたが、その後の調査で東観漢記には、後漢王朝と東夷諸族の交渉に関しての記録があった可能性が浮上ました。 このため帝紀と東夷伝の原史料は別であったと想定します。 参照:東夷列伝烏桓鮮卑列伝

とはいえ同一年の朝貢に関する国名が、『後漢書』の帝紀と東夷伝で異なっていたため、後世の写本や刊本の作成者が混乱したものと思います。 当然二つの方向性が出てきます。 関連記事の推移でみたように、帝紀の倭国を正しいものとして、記事が倭国に収斂していくものと、東夷伝の異表記をみて校勘をこころみたものです。 西嶋定生氏は(2)『後漢紀』の記述を重視して、倭国を正しいものとしました。 倭に対して入れ墨系の注を付けた魏の如淳や唐の章懐太子は、東夷伝の倭面上(土)国は倭国に対する別称、ないし説明と考えたのではないでしょうか。 倭面上(土)国倭面上(土)国と考え、ここから倭人に対し倭面が結びつくことになったのでしょう。 一方最初の倭国倭面国からの脱字と考えた人物が、『後漢書』帝紀の国名を倭面国とし、その系列の写本が日本に伝わったのではないでしょうか。 前稿では汚損した史料などから書写した際に、白を靣に誤まったという可能性に触れましたが、今回はこの誤写説を取らずに、倭面上(土)を地名ととらえ、その現在地を比定してゆくことにします。

『後漢書』安帝永初元年記事に見る倭国

地名比定を始める前に、『後漢書』にしるされた倭国の状況を考察します。 前節ではこの朝貢記録で、『後漢書』の書写や刊本化およびその文面を『通典』等に引用する際、恐らく校勘をおこなった人びとを混乱させたのは、朝貢国名の違いだったと推定しました。 前節に述べたように『後漢書』の帝紀の記事と、東夷伝の記事が別の原史料をもとにしているとすると、両者の違いはこの時の朝貢に対する、異なる記録者の観点を表している可能性があります。 そこで両者の記述内容を比較してみましょう。
『後漢書』安帝永初元朝貢記録の比較(カッコ内は異伝)
項目帝紀東夷伝
年月安帝永初元年十月安帝永初元年
国名倭国倭面上(土)国
朝貢者について遣使
朝貢の様子奉献献生口百十六人願請見
朝貢の結果

比較のために建武中元二年の朝貢に関しても確認してみます。

『後漢書』建武中元二年朝貢記録の比較
項目帝紀東夷伝
年月建武中元二年春正月建武中元二年
国名東夷倭奴国倭奴国
朝貢者について王遣使使人自称大夫
朝貢の様子奉献奉貢朝賀
朝貢の結果光武賜以印綬

安帝永初元年のケースでは、両者が本来別史料であったとすれば、極論すれば別の出来事と言う可能性もあるわけですが、安帝永初元年が重なっている以上、同一事件であったと考えるべきでしょう。 すくなくともここには、倭国という倭人社会を一つの単位で見ようとする見方と、その中にある国を認める立場が見えます。 このような違いは『三国志』の魏志倭人伝にも見えるものです。 つまりどうもこの時代の倭人社会に対して、『三国志』同様の二様の認識があったと考えられるのです。 両者の立場の違いは、朝貢の様子に現れています。 東夷伝では、朝貢者が現れてどのような要求をしたかまでしか書かれていません。 つまり朝貢が実現する前までしか記録されていないように見えます。 帝紀では結果として献上品は受け取られたように見えますが、謁見が実現したかどうかは分かりません。 東夷伝の記録の原史料は、倭面上(土)国王に対応した実務者の記録のような気がします。 一方の帝紀ですが、後の時代には起居注が原史料として用いられました。(3) この時代に起居注があったかどうか判然としませんが、『隋書』巻三十三 史 起居中には漢献帝起居注五巻がみえることから、後漢末には存在したようです。 起居注としてまとめられるのは時代が下るとしても、皇帝の実録として何か残されていて、それが帝紀の一次史料として用いられた可能性は高いと思われます。 つまり帝紀の記録は、皇帝の周辺で倭国の奉献が認められるような状況になったことを示し、倭国という認識もその時の後漢王朝の公式のものであると考えられます。 一方東夷伝の記録は、あくまで倭面上(土)国王が使者としてやってきたという認識を示すものでしょう。 結果について書かれていないのは、受付対応した記録者がそこに立ち会わなかったか、もしくは史書撰述に際してあえて触れるような内容ではなかったということでしょう。

ここで重要なことは国名が異なるだけでなく、朝貢した人物が倭国の遣した使者と王で異なっていることです。 この両者が同じ事件であるとすると、素直に解釈すると倭国の朝貢主体が、倭面上(土)国王を遣したことになります。 『三国志』では伊都国や狗奴国には王がいるとしていますから、倭国の中の倭面上(土)国に王がいても不思議ではありませんが、ここには大きな問題があります。 しばしば倭面上(土)国王は倭国の代表者であるように解釈されますが、素直に読む限りそうではないことになります。

倭面上(土)国王がやってきたという記事に対して、倭国の王が直々にやってくるなどと言うことがあるのかについては、三木太郎氏の指摘があります。(4) それによると夫余王が直接やってきた際には、『後漢書』巻十順帝紀永和元年条では,夫餘王來朝と記録しており、東夷伝では其王来朝京師,帝作黄門鼓吹、角抵戯以遣之と歓待していることを指摘されています。 これと倭面上(土)国王の待遇の差を見ると、とても倭国の王がやってきたとは考えられないとし、中華書局版後漢書の倭国王帥升 倭国主帥升 の誤りであろうとされました。 しかしこれは、建武中元二年の使者が大夫を名のり、卑弥呼の使者も大夫を名乗ったことからすると、いきなり出てくる主帥に戸惑いを感じるのです。 私の推測では、面上(土)国 王はかって朝貢した奴国内の一領主である大夫のような存在ではなく、自ら一つの小国の王であると訴えたのではないでしょうか。

ちなみに此の文面では国王が複数来たように見えますが、下記のように景初の卑弥呼の最初の朝貢では、大夫難升米次使都市牛利の朝貢に対して大夫難升米等となっていることから、必ずしも王が複数いたとは言えません。 代表者の地位のみが書かれていると考えられます。

  景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。

これはうがった見方をすれば、倭国の政治的成長を物語るものである可能性があります。 つまり建武中元二年(57年)の時には、倭人社会の中の多くの国の一つ、奴国の配下にある大夫が使者として遣されたのに対し、永初元年(107年)には倭国というまとまりができ、その中から使者として倭面上(土)国の王が遣されたということで、国々のまとまりができ始めたことを示すものでしょう。 そして卑弥呼の時代には、依然として伊都国や狗奴国に王がいるものの、他に王がいるとはなっておらず、使者としては卑弥呼配下の大夫が遣されたのです。

ここで再度確認しておきたいことは、倭面上(土)国王は二世紀初頭の倭国において、朝貢主体でもなく、卑弥呼の時代のように都を置かれた国でもなく、むしろ国々の連合に遣わされた使者に過ぎないということです。 生口百六十人を渡海させたということは、それなりに大きな国を想定することもできますが、多くの国々が提供した人と舟を率いるだけの存在であるかもしれません。 少なくとも海運に通じた、地理的に大陸への使者を務める事の出来る人物と思われます。

倭面土/倭面上の比定

倭面土倭面上を地名と捉える際、多くの場合は倭面土を採用するようです。 恐らくこのほうが地名っぽい響きがあるためでしょう。
比定地一覧
提唱者後漢書対象表記読み比定対象現在地備考参照文献
内藤湖南倭面土ヤマト記紀の大和奈良県(5)
白鳥庫吉面土イト三国志の伊都国福岡県前原近郊面土を回土の誤写とする(6)
橋本増吉面土メヅ三国志の末盧国佐賀県唐津近郊『日本書記』巻九神功紀の梅豆羅にあてる(7)
七田忠昭面土メタ和名類聚抄の肥前国三根郡米多郷佐賀県上峰町一帯『先代旧事本紀』巻十 国造本紀の筑志米多国造(8)

比定を行う前にまず字に関して考察します。 この文字は切韻では陽類とされる文字で、音節末に子音のnが来ます。 これはあまり日本語の音節を表すのに適切ではなく、『三国志』や『隋書』または『日本書紀』アルファ群のように、外国人の音訳者は余り用いない文字です。 しかし稲荷山鉄剣銘文には半弖比のような用例があります。 森博達氏(9)は倭人伝の倭語の音訳文字について、濁音の前に鼻濁音的子音を末尾に持つ文字を用いていると指摘しています。 沖森卓也氏(10)はこのの終わりの子音nを、次に来るの鼻濁音的音価を表すために用いているとします。 このようなことから、に続く音は濁音が想定されます。 倭面土倭面上は、両方とも切韻で全濁音でこの条件を満たします。

七田忠昭説の米多郷は、近くに吉野ケ里遺跡があり、また『先代旧事本紀』国造本紀に筑志米多国造の名が見えるためなかなか興味深い説となります。 ただについては、二世紀初頭を考えると母音音価は、日本語のオ列甲類に適切な音価になっていた可能性があります。 つまり読みとしてはメドが適切となり、七田忠昭説のメタとずれが出てきます。 また次声という有気子音の文字であり、森博達氏(11)によると倭人伝でも『隋書』でもこの種の文字はあまり使われていないとします。 は日本語地名の語尾として、一見すると妥当のようにみえて、難しい要素も多いのです。 ただこの比定地の難点である、博多湾岸に比べて考古学的に見て見劣りのする点は、倭面土が必ずしも倭国の中心ではないとすると問題にならなくなります。

倭面上について検討してみましょう。 は現在ジョウと伸ばして発音されますが、原音は音節末尾が鼻濁音(ng)で終わる音となり、あまり日本語的な響きではないです。 実は日本漢字音となるときこの末尾子音がウのように聞こえたらしいことが分かっています。 例えば等がそうで、後の時代に入ってきた語の場合、それぞれワン・ヤン・トン等と発音されることがあります。 しかし森博達氏(12)によると、中国人が記録したとする『日本書記』アルファ群でもこのような文字が、日本語の音節に割り当てられているケースがあるとのことです。 倭人伝でも難升米弥馬升、『後漢書』の帥升などに用いられている、のような文字がこれに当たり、日本語のソの乙類を表しているとされます。 したがっては末尾子音を無視して、ジのような音を表している可能性があります。

『後漢書』巻二光武帝紀中元二年にみえる倭奴国を、を切り離して奴国として評価する例に倣えば、地名として面上=メジが考えられます。 しかしメジと言う地名は、『古事記』・『日本書記』・『風土記』・『万葉集』のような奈良朝文献でも、『先代旧事本紀』・『和名類聚抄』・『延喜式』のような平安期文献でも発見できません。 地名の変遷を考えると、さらに新しい地名を比定するのは躊躇します。 そこで比較的メジに近い地名を捜すと、『延喜式』および『和名類聚抄』高山寺本駅名に面治駅という律令制の駅名が発見できます。 面治駅の推定地の近くには、字(アザ)米持(メヂ)に面沼神社があり、これも『延喜式』の式内社となり、大化の改新に遡るとされます。 面沼は本来は面治であったものを、『延喜式』が誤写したとの説もあり、中世には面沼神社を、米持(メジ)大明神としていたこともあり、説得力があります。

しかし問題は面治はメヂであり、奈良朝ではジとヂは区別されていたということです。 ただ面上と繋げた時、これが倭語のメジにあてたものかは微妙なところがあります。 ローマ字表記するならジはziで、ヂはdiとなります。 ジの子音は舌を上顎にあてず息を出す摩擦音で、ヂの子音は舌を上顎にあてた破裂音です。 一方の末尾子音はnで、舌を上顎に付ける音です。 そこで面治をローマ字で表記するならmendiとなり、一方の面上はmenzi(ng)となり、二番目の音節をあらわす子音はndとnzとなり、接近してくると思われます。 実際には中国語のwa(ng)が日本語のwauに変換されるような、言語間の音素認識のずれもあるので、面上がメヂを表現しようとしたものである可能性はありそうです。 また倭面上国倭面土国の表記の揺れから、書写もとの表記が怪しかった可能性もあり、倭面士国が誤写された可能性もあるのではないでしょうか。 誤写を仮定するのは躊躇するところではありますが、は全濁で舌音であるため、メジにはぴったりです。 しかも面士と繋げると、の末尾子音との頭子音が重なり、連合仮名的用法になります。 まさにその用例に当てはまるのが面治です。

面治駅の推定地は現在の兵庫県美方郡温泉町井土にあたり、近くの美方郡香美町香住区米地字にある佐受神社もかって米持(メヂ)大明神と呼ばれていたらしいのでこの周辺に、ふるくメヂの地名が存在した可能性があります。 ここは古代の二方郡と美含郡にあたる地域で、古代の二方国造りの領域で但馬の国の西部になります。 ただこのあたりには弥生の大遺跡がありません。 同じ『和名類聚抄』に見える米多郷に比べてもどうも見劣りします。 しかし 面上国が倭国の中心でないのなら可能性が出てきます。

森岡秀人氏の原倭国論による比定地の評価

森岡秀人氏(13)は近江を中心とした弥生後期の土器や青銅器の動きから、氏が「原倭国」とよぶ政治的なまとまりが近江を中心として成立したとされました。 その時期は一世紀末から二世紀末とされ、近江南部の野洲川下流域にある伊勢遺跡がなにも無い所に突如現れて巨大化することから、その中核であると推定しました。 考古学的な考察からの仮説ですが、正にその時期が安帝永初元年(107年)の倭国の朝貢に重なることから、この時に朝貢したと言う帥升は、北近畿にいた可能性があるとされました。 面上国の面治への比定は、近畿周辺への比定と言う意味で、森岡原倭国論によって評価することができそうです。

面治駅は山城を発する古代の山陰道の、但馬最後の駅となっています。 面治駅から山陰道を離れ、岸田川を下ると諸寄という中世の日本海航路の有力な寄港地があり、このあたりは中世の交通の要衝と言えます。 原倭国の中心は湖南の伊勢遺跡で、考古学的には見る銅鐸時代の、突線鈕式銅鐸の中心地となります。 伊勢遺跡の時代の終わり近くにあたる突線鈕5式の破砕された銅鐸が、豊岡から面治に向かうルートの入り口に見つかっています。 但馬は見る銅鐸時代の、突線鈕式銅鐸圏の西のはずれ近くにあります。

原倭国の王が漢王朝への使者を依頼するとしたら、突線鈕式の文化の及ぶ地域にあり、おそらく多くの国から集めた百六十人もの生口を大陸に送る事の出来る、海運に深く通じた国の王に依頼するしかなかったでしょう。 森岡原倭国は突線鈕式銅鐸圏に加え、山陰北陸の四隅突出墓圏を含むものであったとされるようですが、面治は伊勢遺跡からは山城経由で後の山陰道で繋がり、岸田川沿いに下ると弥生時代後期に重要性のました日本海航路に出ることができます。 この地域の土器からは稲葉との交流が伺えるうえ、隣町の香美町には北陸方面から影響を受けた製塩土器も見つかっています。 つまり面上国の面治への比定には、それなりの合理性があると思います。

ではその場合面上国は、原倭国の内部的にでどのような地位を与えられていたのでしょうか。 しかしおそらく各地から集められた、生口百六十人を率きつれて楽浪に渡るとしたら、原倭国内でそれなりに重用されていたはずです。 ここで帥升と言う名前に注目してみます。 という文字は、倭人伝でも難升米弥馬升に用いられています。 弥馬升は邪馬台国の官名の第二位に当たるもので、第三位に弥馬獲支が現れます。 この官名は古音を用いて読むとミマワキとなり、おそらく弥馬升に次ぐものであることからミマに対するワキ、つまりミマの副官と理解できます。 そうすると弥馬升はミマの長官と言うほどの意味にとれそうです。 森博達氏は(14)同じく難升米に関して、は北部九州のであると推定されていますが、の使われ方が、〇+の形であることが注目されます。 ミマについては『日本書記』巻五崇神紀における御間城入彥や御間城姫、同じく巻十四雄略紀の御馬皇子、御馬瀬などから、大和王権の近くにミマという地名があった可能性が指摘でき、邪馬台国纏向説に立つならば、このミマは王権直轄地の地名の可能性が出てきます。 つまり弥馬升は王権直轄地の重要な官であると想像できるわけです。

ここから帥升ないし師升に関して考察するならば、ないしは地名で、その地域を治める官位を与えられていた可能性があると思われます。 つまり湖南の伊勢遺跡を中心とした、王権の直轄地に拠点が与えられていた可能性があると言うことです。 文字を比較する場合はもし和語にあてるならばス、であれば万葉仮名に用例がありシにあたるでしょう。 後者をとれば伊勢遺跡の対岸に、『日本書記』巻七景行紀に見える志賀が候補地になるでしょう。 シガの語源として、シに地名接尾のガが接続したと言う説があります。 師升が面治を中心とする日本海沿岸の小国を本貫とし、大津近郊に根拠地を与えられていたならば、大津近郊の通常の弥生遺跡が師升に関連する可能性が出てきます。 ここまでの仮説では面上国は但馬の日本海側の小国に過ぎないため、その遺跡も大きなものは期待できないことになります。 またその墓は本貫の面治に帰った可能性がありますが、通常の弥生首長墓の規模を超えないものでしょう。 今のところ首長墓と言う規模の墓は見つかっていませんが、面治から岸田川沿いに6kmほど下ったあたりにある初瀬谷・柏谷古墳群は、弥生後期後葉から古墳前期の墳墓群とされていて、国産のものではない原料を用いたガラス玉や、内行花文鏡の破片が発見されています。 このあたりは、北に数百メートル離れて引き続き和泉谷・津原古墳群に古墳前期中頃から古墳後期中頃の墳墓が築かれ、その後北に一キロ程度の場所に二方古墳が築かれるなど、おそらく古代二方国造の中心地であったと考えられます。

参考文献

  1. [戻る](1) 寺沢薫 2000 『王権誕生』日本の歴史02 講談社
  2. [戻る](2) 西嶋定生 1999/05 『倭国の出現 東京大学出版会
  3. [戻る](3)安部総一郎 2000.06 「後漢時代關係史料の再檢討--先行研究の檢討を中心に」 『史料批判研究 / 史料批判研究会 [編] (通号 4)』 p.1~43
  4. [戻る](4) 三木太郎 1984.1 「「倭国王帥升裸」について」 『倭人伝の用語の研究』 多賀出版 p123
  5. [戻る](5) 内藤虎次郎 1929 「倭面土国」 『読史叢録』弘文堂書房
  6. [戻る](6) 白鳥庫吉 1981.12 「卑弥呼問題の解決」 佐伯有清編 『邪馬台国基本論文集Ⅱ』 創元社 p67
  7. [戻る](7) 橋本増吉 1982.5 「翰苑記事内容の考察」 『東洋史上より見たる日本上古史研究』 原書房 p180
  8. [戻る](8) 七田忠昭 2021.9 『上峰町史』上巻 上峰町
  9. [戻る](9) 森博達 1985.11 「「倭人伝」の地名と人名」 森浩一編 『日本の古代1』 中央公論社 p181
  10. [戻る](10) 沖森卓也 2017.4 『日本語全史』 筑摩書房
  11. [戻る](11) 前掲(9)
  12. [戻る](12) 前掲(9)
  13. [戻る](13) 森岡秀人 2015/03 「倭国成立過程における 「原倭国」 の形成―近江の果たした役割とヤマトへの収斂―」 寺沢薫 ・ 橋本輝彦編 『纒向学研究センター研究紀要 纒向学研究』 3:39-55
  14. [戻る](14) 前掲(9)


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