4.倭奴國考
ーなぜ金印は奴國に与えられたかー
倭奴國朝貢に付いての疑問
金印考(2)で述べたように、志賀島でみつかった漢委奴國王の金印は、「漢(カン)の倭(ワ)の奴(ナ)の国王」と読め、建武中元二年(西暦57年)の倭奴國の受けたもの、もしくはその精巧なレプリカです。 この時の朝貢国は魏志倭人伝に見える、三世紀の戸数ニ万の大国奴國と同一と思われ、その有力な位置は日本書紀の儺縣、すなはち博多湾岸付近となります。 この倭奴國の朝貢記録は、漢籍に残る倭人の国が中華王朝に認められた、確実な最も早い記録と言えます。 これ以前にも倭人記事は認められるものの、それが本当に倭人によるものなのか、ただ単に楽浪郡などの辺郡を訪れただけなのか、実際に朝貢にまで至ったのか、判然としない記録しかありません。
この時代、一世紀の日本の状況を考古学的に見ると、対漢外交の中心は福岡県の旧怡土郡、日本書紀伊覩縣であり、三国志の伊都國と思われます。 ここには弥生中期末の三雲遺跡の王墓や、一世紀頃の井原鑓溝遺跡の王墓、そして古墳時代直前の平原遺跡の王墓と、連綿と圧倒的な漢系遺物を誇る王墓遺跡が続きます。 魏志倭人伝によると、伊都國は郡使のとどまるところとされ、邪馬臺國に都する女王や、対抗する狗奴國を除くと、唯一王がいるとされています。 しかもその時代の倭国は一大率と言う特別の官を置いて、中国や韓との交流を管理させています。 魏志倭人伝は三世紀の状況を伝えているとしても、この様な扱いの背景には、それ以前の政治状況が反映されていると考えて良いと思われます。 つまり文献的にも考古学的にも、後漢代の日本列島の政治外交の中心は、伊都國であったと思われるのです。
魏志倭人伝の奴國に相当する地域には、福岡県の旧怡土郡に匹敵する須玖岡本遺跡の王墓がありますが、この王墓遺跡は弥生中期末に遡り、それ以降これを継続するような王墓が見当たらないのです。 弥生中期末は紀元前一世紀末から下っても西暦50年頃までを想定され、後漢の西暦57年の朝貢者の王墓としては古すぎます。 何よりも須玖岡本遺跡の王墓からは、前漢鏡しか見つからなかったのです。
たしかに考古学的な発見はたぶんに偶発的なもので、三雲遺跡の王墓や、井原鑓溝遺跡の王墓は江戸時代に発見され、文献記録に載せられなければその存在は知られていなかったでしょう。 須玖岡本遺跡の王墓も明治期の発見で、発掘によるものではなかったのです。 古い時代に発見され、記録に残らずに消えてしまったものや、未だ未発見の物もあると思われます。 従って西暦57年に奴國に王がいなかったとは言えないでしょう。
しかし確認できるのは三基のみとしても、弥生中期から後期にかけて連綿として王墓があり、楽浪漢人の居住の痕跡もある福岡県の旧怡土郡は、三世紀の記述ではあるものの魏志倭人伝の記録と概ね並行的です。 弥生後期以降の王墓が見つからない博多湾岸付近を奴國とするならば、伊都國のような特記事項もなく、わずかに官名のみが記載されている事と符合するのです。
このような状況は定説となっている「漢(カン)の倭(ワ)の奴(ナ)の国王」という読みに対する不信感となり、金印の委奴をイドと読んで伊都國にあてたり、倭奴を匈奴と比較して、倭国の意にとるような見解が絶えません。 これが妥当でないことは金印考(2)で説明した通りです。 なぜ朝貢記録に残ったのは、奴國であって伊都國では無かったのでしょうか。
倭奴國朝貢の実態
従来倭奴國の後漢に対する朝貢に対しては、倭人の国の中で最も有力になった国が、後漢に対してそれを伝え、後漢がそれに応えて金印を与えたと言う解釈が一般的でした。
しかし金印考(1)でみた朝貢の実態はまるで違ったものです。 その朝貢が行われたのは、死期の近い光武帝の最初で最後の土地神の祭祀を行うまさにそのタイミングだったのです。 そしてその祭祀の目的は、光武帝の領土が過去に負けないものであることを示すことにあり、倭奴國はその重要なアイテムだったのです。 つまり倭奴國は、後漢の政治的セレモニーの一環として呼び寄せられたのです。
ここから直ちに重要なことが結論されます。 すなはち倭奴國の朝貢はこれが最初ではなかったということです。 重要な国家祭祀にちょうど間に合わせる必要があるのに、未見の国を呼び寄せるわけがありません。 このタイミングで呼び寄せる以上は、すでに以前から連絡を取れる状況にあったということです。 このことは金印考(1)の最後で述べたように、奴をナと読むのであれば、その音価は後漢よりも前の時代の中国の中央音になる事からも推察されます。 国名の文字奴は後漢より前の時代に当てられ、慣用されていたということなのです。
では奴國の後漢より前の朝貢はいつ行われたのでしょうか。 後漢が重要な国家祭祀に、先例をたどって呼び寄せたとすれば、前回の朝貢もまたその時の王朝にとって、重要な意味を持つ物であったと考えられます。 とすればその朝貢は史書に残されている蓋然性が高いはずです。 そこで後漢以前の倭人の朝貢にどのようなものがあったか見ていきましょう。 時代的に前史にあたる記録は下記の五つです。
No | 史書名 | 成立年代 | 時代 | 民族/国 | 地域別 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 論衡 | 一世紀 | 西周 | 倭人 | 宛(鬱林) |
2 | 山海経 | 前漢 | 戦国 | 倭 | 海内北経/属燕 |
3 | 漢書地理志燕地の条 | 一世紀 | 前漢 | 倭人 | 漢書地理志燕地 |
4 | 漢書地理志呉地の条 | 一世紀 | 前漢 | 東鯷人 | 漢書地理志呉地 |
5 | 漢書王莽伝 | 一世紀 | 前漢末 | 東夷王 | 中国東方海上 |
4と5は倭ではありませんが、大海を渡ってきた、或いは海外と言う表現から、倭の可能性のあるものです。 1は倭奴國朝貢と鬱林郡の倭人ー後漢代の倭國地理観ーで述べたように、倭奴國の朝貢に触発された記録と考えてよいと思われます。 2は燕の時代の話になっており、後漢王朝が先例とするには、対象外でよいでしょう。 3,4は以歲時來獻見云となっていて、季節ごとに献上品をもってやってきたと言っているわけですが、多数の国がやってきたことになっており、特定の国が代表してやってきたようには見えませんし、都まで行っているようにも見えません。 伝聞であることも含めて、おそらくは郡治への獻見なのではないでしょうか。 すると後漢の前に奴國がやってきたのは、5の前漢平帝時代の王莽によるものしかなくなります。
実はこのときの朝貢には類例があります。 韓人の朝貢記録です。 まず魏略によれば、王莽の地皇時(紀元20年〜23年)に廉斯の鑡が投降してきたと伝えます。 続いて後漢書によれば建武二十年(紀元44年)に韓人廉斯人の蘇馬諟が朝貢してきたと伝え、さらに魏略によれば延光四年(紀元125年)に再び除を受けると続きます。 倭人の朝貢の記録は、建武中元二年(紀元57年)の倭奴国に続いて永初元年(紀元107年)の倭国朝貢と続きますから、韓人の二回目と三回目の記録と並行的です。 韓人の例との平行関係を見るならば、それ以前の王莽の時代に倭人の朝貢が有っても良さそうです。 5の王莽伝に見える東夷王の大海を渡っての朝貢は、下表に見るように王莽伝の記事から恐らく元始二年から四年(紀元2年〜4年)の事と思われます。
民族 | 王奔伝元始五年 | その他王奔伝 | 平帝紀 | 正史初見 | |
---|---|---|---|---|---|
帰順 | 王奔の策 | ||||
越裳氏 | 1 | 風益州令塞外 | 始 | 元始元年春正月 | 漢書平帝紀(ただし竹書紀年などに見える) |
黄支 | 2 | 南懷黄支 | ― | 元始二年春 | 漢書地理志越地:自日南障塞 |
東夷王 | 3 | 東致海外 | ― | ― | 漢書平帝紀 |
匈奴 | 4 | 北化匈奴 | 皇帝三年皇后記事の前 | 元始三年春皇后記事 | 史記 |
羌 | 5 | 誘塞外羌 | ― | 元始四年夏西海郡置 | 史記 |
いまだ前漢の時代ではあるけれども、既に王莽の実権下にあった点でも、韓人廉斯鑡の投降と平行関係があります。 この王莽の時代の朝貢は、越裳氏の白雉献上に始まり、北方の匈奴、南方の黄支國、西方の羌族と共に東夷の王が呼ばれたと言うもので、王莽が自分の権力の正当性をアピールするためのセレモニーであったと思われます。 特に越裳氏の白雉献上は、儒教の理想とする周の時代の先例に基づくもので、儒教的な秩序を打ち立てようとする王莽にとっては特別な意味があったでしょう。 しかしこれは名目上前漢平帝の時代に行われたもので、王莽による簒奪の前、漢王朝のセレモニーでもあったわけです。 後漢王朝が先例とするに相応しいものであると思われます。
朝貢してきたのは東夷の王で倭人となっていませんが、その理由は漢書王莽伝から伺えます。
漢書王莽伝: 莽既致太平、北化匈奴、東致海外、南懷黄支 、唯西方未有加。
(小竹武夫氏訳)奔は国内を太平にした後、北方に匈奴を教化し、東方に海外の民を招致し、南方に黄支国を手なずけたが、ただ西方にはまだ何ら手を差し伸べていなかった。
王莽は方位に非常に固執していることが分かります。 従って東夷の王は何が何でも東の方位であるべきでした。 しかし倭人に関する現存する最も古い記録である山海経では、倭は燕に属する事になっています。 つまり倭人は伝統的に中国の北方に属すると考えられていたわけです。 それを受けて漢書地理志では、倭人は燕地に属する事になっています。 公式の記録ではそれと区別するため、あえて東夷の王としたのでしょう。
さてそれでは奴國は王莽政権下にはじめてやってきたのでしょうか。 呼び寄せた他の民族、越裳氏、匈奴、黄支國、羌族はいずれも王莽時代以前から知られていたのです。 おそらく東夷王もすでに知られていたはずです。 奴國はすでに、紀元前には知られていたはずなのです。
5に先行する記録となると2,3,4となりますが、いずれも漢王朝などの中央政権への朝貢と言うよりは、各地方での異民族との交渉の伝承と考えられます。 その詳細は全く分かりません。 この時期つまり紀元前一世紀以前については、考古学的資料によるしかないでしょう。
紀元前一世紀の漢系遺物を豊富に伴う遺跡は、福岡県春日市須久岡本遺跡D地点と、福岡県前原市三雲南小路遺跡一号墓が双璧です。 これらは弥生中期末頃の王墓とされ、副葬された鏡から年代を推定されています。 これらは魏志倭人伝に見える、奴國と伊都國の首長莫と思われます。 岡村秀典氏の三角縁神獣鏡の時代の「奴」と「伊都」の首長墓によると、確認された副葬物を評価して、この二つの王墓はほぼ同時期で、王としての待遇ではないけれども、海を超えてはるばるやってきた倭人に対する破格の待遇をあらわすとされました。 また同書の楽浪郡の設置によれば、この二つの王墓にみられるやや時代が古く、王侯のみが持つことができたと思われる大型鏡などは、本来楽浪郡に先立つ衛氏朝鮮が漢から受けたもので、その滅亡とともに伝わったものであろうとされます。
同書の百余国の実態によれば、漢鏡の数と大きさをもとに、同時期の北部九州の甕棺墓を最上位のA群からC群まで階層分けして、次のように述べられています。
A群の須久岡本D地点墓と三雲南小路遺跡一号墓とは、副葬品の品目がきわめて相似し、優劣つけがたい双璧をなしている。 漢の楽浪郡まで定期的に朝貢し、鏡やガラス制などの文物を贈与されたのは、この「奴」と「伊都」の両首長であり、B群以下の首長たちは、この両首長から漢鏡などの文物を間接的に配分されたのであろう。
このように前漢代楽浪郡において、奴國と伊都國は特別な存在であったと考えられるのです。 では何故後に後漢は奴國に金印を与えたのか。 それにもかかわらず、後漢並行期の奴國には、紀元前一世紀のような漢鏡を伴う王墓が築かれず、伊都國の領域には築かれ続けるのはなぜなのでしょうか。 そして三世紀に魏志倭人伝に記録された、伊都國の別格感の理由はなぜなのでしょうか。
それを理解するには、王莽政権以降の漢王朝の外交政策を理解する必要があるのです。
王莽の改革と後漢の外交政策
私はかって楽浪郡の県の地理的配置について論稿を書きましたが、そこでは王莽が楽浪郡の県にあるグループフォーメーションをもたらしたと推測しました。 そしてそのむすびにおいて次のように考察しました。
紀元14年には王莽により大規模な地方行政の改革が行われ、多くの郡県の名前が変えられたり、都尉の役職名が変えられたりした。 楽浪郡においても、郡名が楽鮮郡にかえられ、浿水県は楽鮮亭に改名されている。 楽鮮亭が何を意味するのか分からないが、郡名と同じであるということは、郡行政において何か重要な役割を果たしたのではなかろうか。 この「浿水」が南北フォーメーションにおいて、郡治のある「朝鮮」と同じ中央グループにあって、かつもっとも漢に近い県として、対韓フロンティアの「含資」と組を作っていることは大変に面白い。 後に楽鮮亭とされる浿水県は、紀元2年には王莽の下ですでに郡内で特殊な地位にあり、対韓外交の中心であったのかもしれない。 そしてその「含資」に、王莽の地皇年間に韓人廉斯鑡が投降してくるのも、無関係ではないのだろう。 このように考えると、南北フォーメーションは郡の内政だけでなく、中央による対外政策にも関係してくるものであったことになる。 このフォーメーションが後漢に入っても継続されていることは、王莽の対外政策が朝鮮半島では継承されていることを示すのであろうと思う。 まさに韓廉斯との外交は、建武二十年(紀元44年)、安帝延光四年(紀元125年)と後漢によって継承される。 また、倭人といわれる元始五年(紀元5年)の東夷王につづいて、建武中元二年(紀元57年)、安帝永初元年(紀元107年)の倭人の朝貢が続くのである。 この南北フォーメーションは、公孫氏による南部帯方郡分離による対韓政策と対照的な政策であるように思う。
ここで推察したことは、王莽が東夷外交において、中央政府が直接関与するような改革を行ったのではないかということです。 後漢以降東夷の朝貢記事が目立つようになるのは、そのような直接東夷とコンタクトを結ぼうとする、王朝の外交政策の変更があったからではないかと思われるのです。 金印考(2)で、外臣にたいする印の例が、新の時代以降急増してくるのもそのせいではないかと思います。 印というのは、泥封によって書簡や賜物が、途中で略取されたりすり替えられたりするのを、防ぐのが本来の役割です。 王朝が東夷のような異民族との外交を、辺郡に任せず直接介入しようとしたことの表れであるとも考えられるのです。
韓の廉斯邑についていえば、この邑は朝鮮半島東南部の辰韓エリアにあったようなのですが、魏志韓伝にひく魏略の伝説などをみると、辰韓の成立時期以来、その人々は辰王に従っていたようです。 辰王は歴史的経緯で馬韓におりましたけれども、そのような経緯を無視して後漢が直接韓廉斯邑君の称号を与えるというのは、いわば韓人社会に対する分断作であるとも言えます。 伝説によれば王莽の地皇年間の韓人廉斯鑡の投降は、楽浪が豊かであると聞いてのこととなっていますが、王莽の行っていた四夷誘引の状況を見れば、漢王朝側の仕掛けたことである可能性があります。 後漢は王莽の外交政策を継承しているのです。
この廉斯邑は魏志韓伝の韓の国名には見えませんから、後漢末に韓濊が彊盛となり、郡縣が統制出来なくなった時期に滅んでしまったのでしょう。 代わって遼東の支配者となった公孫氏政権は、帯方群に倭韓を従えますが、それはどのような方策だったのでしょうか。 後漢書の郡国志によれば、後漢代の楽浪郡の戸数は戸六萬一千四百九十二ですから、おおよそ公孫氏支配下にあったと思われる、平州の人口戸一萬八千一百を持ってしても、後漢時代の楽浪郡一郡にも及びません。 魏志韓伝によれば、韓の大国は戸数一万、総戸数は十五万ですから、後の魏韓の争いで帯方太守が戦死してしまうのも不思議なことではないのです。 そのときには魏は幽州刺史毌丘倹の大軍を派遣して、韓を滅ぼしていますが、地方政権である公孫氏にはそのような大軍の派遣は不可能だったでしょう。
公孫氏は楽浪郡を二つに分け、その南部に帯方郡を置きますが、これは韓と接する地域に裁量権を与えたということでしょう。 つまり王莽の政策の逆を行ったわけです。 対東夷外交を変更し、古来からの楽浪郡と韓族の王、辰王との関係をもとに韓の統制を計ったものと思われます。
このことを物語る事があります。 後漢書によれば後漢は韓に韓廉斯邑君の称号を与え、魏志韓伝によれば魏は邑君を最高位とした官位を与えます。 ところが魏志韓伝の月氏國の記事には、官名として歸義侯が見えるのです。 歸義侯は明らかに邑君よりは上位の官で、後漢も魏もそのような地位を認めていないところからすると、これは公孫氏が辰王のいる月氏國を懐柔した痕跡と思われます。
つまり後漢の対東夷外交政策は、強大な後漢の軍事的後ろ盾あってのもので、後漢の衰退とともにその成果は崩壊し、地方政権に過ぎない公孫氏は、恐らくそれ以前の韓の秩序を利用するよりなかったということです。 これらの事から推察されるのは、王莽の改革以前の楽浪郡も、辰王と密接な関係を持ち、韓の統制を行っていたであろうということです。
王莽政権下の韓人廉斯鑡の投降から、後漢が韓廉斯邑君の称号を与えるに至る経緯は、楽浪郡と辰王の関係に介入し、中央政権による辰韓への直接介入を目指すものだったのでしょう。 ※下記参照 このことから、王莽政権下の東夷王の朝貢を継承し、後漢が倭奴國王に金印を与えたのは、楽浪郡と倭人の有力勢力との関係に介入し、中央政権による倭人社会への直接介入を目指すものだったということになります。 あえて伊都國ではなく奴國をセレモニーに呼び寄せたのは、王莽以前に楽浪郡が伊都國とも密接な関係を持っていて、そのような郡と外夷とのいわば癒着を許さないためであったということになります。
直接の武力の及ぶ朝鮮半島ですら、そのような外力による秩序が王朝の弱体化によって失われたことからもわかる通り、そのような秩序は漢王朝の威力が届かない限り、持続可能なものではなかったでしょう。 王莽も後漢も奴國を重視したにもかかわらず、その後も漢鏡の分布が伊都國の領域に偏るのは、海を隔てた北部九州では、漢王朝の威力は十分なものではなく、身近な楽浪郡との関係が漢鏡の配布秩序を規定していたからだと考えられます。
※魏が辰韓八國を楽浪郡に属させようとしたというのも、後漢以来の辰韓への直接介入の継承という見方もできる。
伊都國と奴國
ここで三国志に見える国々の戸数に関して考えてみたいとおもいます。
對馬國:千餘戸
一大國:三千許家
末盧國:四千餘戸
伊都國:千餘戸
奴國:二萬餘戸
不彌國:千餘戸
投馬國:五萬餘戸
邪馬壹國:七萬餘戸
奴國の戸数は、北部九州の国々と思われる不彌國までの国々の中では、突出して大きいことがわかります。 二番目に大きい末盧國の五倍に達します。 奴國の二萬餘戸と言う戸数は、晋書地理志に見える平州の戸数より多いのです。
晋書地理志平州
咸寧二年十月、分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。統縣二十六、戸一萬八千一百。
三国志の民族で言えば楽浪郡帯方郡の日本海側を占めていた濊が二万戸です。
三国志東夷伝東濊条
今朝鮮之東皆其地也。戸二萬。
奴國は到底博多湾岸に収まる規模ではありません。 環濠集落を中心とした弥生の国のイメージでとらえてはダメで、三世紀には既に領域国家として多数の集落を束ねていたと考えざるを得ません。 恐らく有明海側に達する規模で、九州北半の主要地域を占めていたでしょう。
一方伊都國は三国志では特記される国であるのに、その人口は奴國のニ十分の一にすぎません。 翰苑には伊都國の戸数を一万戸としますが、異本倭人伝 ー伊都國の戸数と太伯伝説ーで述べたように、これは誤写によるものでしょう。
隣接する地域に奴國の規模の領域国家が並立するとは思えず、伊都國と奴國の間には、少なくとも三世紀に入る前には、独立な国と国の関係以上のものがあったと思います。 漢鏡の配布状況をみても、女王国の支配の及ぶ前の弥生後期には、既にこの二国は役割を分かって北部九州社会の秩序を作っていたと考えられます。
弥生後期の伊都國の役割は対漢外交で、三国志に郡使のとどまるところとされているように、楽浪郡の漢人が常駐していたでしょう。 その遺跡は三雲地域で発見され、弥生中期に遡ると言う見解もあるようです。 ここには漢語と倭語を通訳できる人材がいて、漢文を操り文書外交を担うことができたと思われます。 三世紀になって卑弥呼の上表文を作成したのも、使者の通訳を行ったのも伊都國人で、そのような特殊技能によって、漢系威信財の入手と再配布の中心となり、北部九州社会の最高決裁者である祭祀王を戴くことができたのでしょう。
一方の奴國は韓や日本列島各地との交易を担い、弥生後期には日本列島最大の金属工業の集積地となっていたと思われます。 弥生中期に日本列島最初の青銅器生産集団は、有明海側に現れましたが、後期には春日地域などに集積されていきます。 また西南諸島の貝の交易のルートが、弥生中期以前には、主に沖縄から西北九州を回り、日本海側へ入っていましたが、紀元前後には沖縄から北上し有明海に入り、そこから上陸して博多湾に抜けるルートになっていました。 つまり、奴国はその当時の貝の道の直上にあったのです。 このように弥生後期には、奴國は対漢外交や祭祀王などは伊都國に譲る一方で、九州北半の相当部分を抑える商工業の大国として、両国で北部九州社会の秩序を形成していたのではないかと考えるのです。
しかし伊都國と奴國によるこのような北部九州政権は、東方の卑弥呼を中心とした祭祀王権が、広大な交易ネットワークの安定を担保させると、実利をとった奴國はそのネットワークに加わり、実態を失った政権はあっけなく崩壊してしまったのでしょう。
我々が魏志倭人伝における三世紀の北部九州の記事をみて、奴國が後漢代に金印を授かったとする説に対して感じる違和感は、おそらく二つの理由によると思われます。 それは卑弥呼が魏に朝貢したのは、公孫氏が滅んですぐのことで、公孫氏はおそらくは伊都國との関係を重視していたと思われることです。 つまり魏志倭人伝には、公孫氏時代の残像が残っているのです。
もうひとつは我々がずっと倭奴國の朝貢を、倭人社会の成長の一段階を表すものとして、倭人側の視点で見ていたことです。 倭奴國の朝貢は、中国の正史に残るものですから、そこには中国の中央政府の視点で見ないと理解できないことがあったのです。
例えば魏志倭人伝の伊都國は郡使の常に留まるところという記述は、一部の論者により、魏の使いは伊都國までしか行っていないなどと解釈されてきましたが、これはあり得ません。 なぜなら親魏倭王の印の目的は、文書や賜ものが正しく相手に渡り、献上品などが正しい相手からやってきたことを担保するためのものなのです。 使者が直接相手に渡さなければ用が足せないのです。
また郡使という言葉は、史書にはあまり出てこないのですが、用例をみると戦場の使い走りのようなことをさせられていたりする存在で、国家外交を任せるような存在ではありません。 魏志倭人伝では、倭へ渡るのは帯方太守が差し向けた使いですが、それは現地に詳しい人間を選任するためであって、王朝の意思を伝える使者は勅使であって郡使などではありません。 郡使はあくまでも郡の使いなのです。
郡使の常に留まるところが伊都國であるとは、伊都國が郡との深いつながりを持っていたことのあらわれで、王莽の改革を受けた後漢や魏は、むしろそのような関係性は敬遠していたはずなのです。
とはいえ三世紀においても、伊都國の文書外交能力は倭国にとって必須のものであったと思われます。 伊都國にそのような重大な任務を任せざるをえない倭国は、最大限の警戒を行います。 それが一大率です。
自女王國以北,特置一大率,檢察諸國,諸國畏憚之。常治伊都國(中略)傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。
(拙訳)女王国より北には、特に一大率を置く。諸國を檢察し、諸國はこれを恐れる。常に伊都國にいる。(中略)文書や賜りものを、間違いなく女王に届くように伝送する。
一大率の任務は文書や賜りものを、間違いなく女王に届くように伝送することです。 つまり伊都國から女王国に至るまで、文書や賜りものが盗まれたりすり替えられたりしないように見張ることです。 その際にもっとも猜疑の目が向けられていたのが伊都國なのでしょう。 日本書紀に見える伊都都比古は、そのような大和政権の猜疑心の生み出した伝承であるのかもしれません。
このような伊都國の外交上の独占的地位は、やがて四世紀に倭王権が百済と同盟を結び、百済系漢人を文書外交に活用できるようになって崩れます。 このため四世紀から五世紀、博多湾岸の外交交易上の地位は衰えることになるのです。 このことは伊都都比古の伝承でも、すでに伝承の舞台である倭国の表玄関は、 穴門(現在の山口県)に変わっていることに見て取れます。
3.金印考(2)ー委奴國をどう読むかー <前へ 次へ> 5.鯷壑の東 ー東鯷人とは何者かー
変更履歴
- 2019年06月29日 初版
- 2021年09月07日 全面改定
- 2021年10月29日 三版 倭奴國と漢代の倭人観シリーズ化
白石南花の随想