倭奴國考(本稿の内容は過去の考察です)
ー後漢代倭国の政治構造ー
倭奴國朝貢に付いての疑問
漢籍に残る最も早い倭人の朝貢の記録は、後漢光武帝の建武中元二年(57年)の倭奴國によるものです。 この朝貢記録を通して、後漢代の倭国の政治構造に関して考察してみたいと思います。 この時代、一世紀の日本の状況を考古学的に見ると、対漢外交の中心は福岡県の旧怡土郡、日本書紀伊覩縣であり、三国志の伊都國と思われます。 ここには弥生中期末の三雲遺跡の王墓や、一世紀頃の井原鑓溝遺跡の王墓、そして古墳時代直前の平原遺跡の王墓と、連綿と圧倒的な漢系遺物を誇る王墓遺跡が続きます。 三国志の時代に下ると、伊都國は郡使のとどまるところとされ、邪馬壹國に都する女王や、対抗する狗奴國を除くと、唯一王がいるとされています。 しかもその時代の倭国は一大率と言う特別の官を置いて、中国や韓との交流を管理させています。 三国志は三世紀の状況を伝えているとしても、この様な扱いの背景には、それ以前の政治状況が反映されていると考えて良いと思われます。 つまり文献的にも考古学的にも、古墳時代以前の日本列島の政治外交の中心は、伊都國であったと思われるのです。
しかるに57年の朝貢国は倭奴國で、このような国名は三世紀の三国志には既に見えないのです。 倭奴國を通説のようにワのナ国と読めば、三国志では戸数ニ万の大国で、その有力な位置は日本書紀の儺縣、すなはち博多湾岸付近となります。 確かにこの地域には、福岡県の旧怡土郡に匹敵する須玖岡本遺跡の王墓がありますが、この王墓遺跡は弥生中期末に遡り、それ以降これを継続するような王墓が見当たらないのです。 弥生中期末は紀元前一世紀末から50年頃までを想定され、須玖岡本遺跡の王墓は57年の朝貢者の王墓としては古すぎます。
考古学的な発見はたぶんに偶発的なもので、三雲遺跡の王墓や、井原鑓溝遺跡の王墓は江戸時代に発見され、文献記録に載せられなければその存在は知られていなかったでしょう。 須玖岡本遺跡の王墓も明治期の発見で、発掘によるものではなかったのです。 古い時代に発見され、記録に残らずに消えてしまったものや、未だ未発見の物もあると思われます。 従って57年に奴國に王がいなかったとは言えないでしょう。
しかし確認できるのは三基のみとしても、弥生中期から後期にかけて連綿として王墓があり、楽浪漢人の居住の痕跡もある福岡県の旧怡土郡は、三世紀の記述ではあるものの三国志の記録と概ね並行的です。 弥生後期以降の王墓が見つからない博多湾岸付近を奴國とするならば、三国志には伊都國のような特記事項もなく、わずかに官名のみが記載されている事と符合するのです。 倭奴國をワのナ国と読んだとしても、いまひとつ腑に落ちない部分が残るのです。
史書に最初に見える倭人の朝貢国と思われる倭奴國に相当する国が、三世紀の三国志には既に見えないと言う事実は、我々古代史愛好家の間では常に問題となってきました。 果たして後漢の時代の倭国の政治状況はどうなっていたのでしょうか。
倭奴國に対する様々な解釈
前節で見たように、三国志には57年に朝貢を行った倭奴國の国名は見えず、伊都國に代々の王がいて、北部九州における政治の中心であったように見えることは、私達を当惑させます。
一部の人達は方言音を想定してまで倭奴をイトと読もうとしましたが、これは政権中央で音写されたと想定されることから、全く無理なことです。 中国では広大な国土の多くの方言域を支配するために、日常会話で使用される言葉とは別に、行政の場では都の方言が共通語として使われていました。 これは実際に明の時代に訪れた、宣教師によって目撃されている事ですし、歴代の中央政権が共通語の普及に力を入れたことは記録に残っています。 多くの場合、詩文等の文献記録に残るのは、この共通語なのです。 方言音が存在したことは確実ではあるけれども、文献を基にそれが再建された例はほとんどないでしょう。
また当然朝見の場で音写されたとすれば、都の音韻が現れているはずです。 漢字音韻史的に、中央音でイトを倭奴と音写するような時代は想定できません。 一方倭奴をワのナと読むとしたら、政権中央でそのような発音を取るのは紀元前に遡ることから、奴國の朝貢は史料に残っていない前史があることになります。
またある人びとは、倭奴とはすなはち倭の事であり、奴は異民族を卑しめる為の接尾であると考えました。 異民族名等に対して中国人が、卑しめるために相応しい文字を当てたと言うのです。 しかしこの所謂卑字説は昔からありますが、全く根拠がありません。 古代の辞書は卑しい文字を区別していませんから、ある文字が卑しいかどうかは、現代人が自分の感性だけで決めているので、古代人がどう思っていたかの判断に客観性がありません。 卑字説論者は異民族の名詞には卑字が当てられるとしながら、三国志の倭の国名でいえば、伊都や好古都のように、卑字とみなせないものが現れると、その都度理由を考えるばかりで、体系的な説明を与えません。
卑字説の根拠の一つは、漢書に王莽が異民族の高句麗などの文字を、卑しめるために改めたという記録にあるようですが、王莽は王朝の簒奪者で、その様な行為は悪政の一つとして挙げられているのです。 逆に言えば普通はそんなことはしないのです。 王莽が高句麗を下句麗に改めたとすれば、取りも直さずそれはその時代には高は良い字だと、思われていたという証拠になります。
問題になっている奴と言う字について考えるならば、現代人にとって確かにこの字は奴隷を連想させ、良い印象はありませんが、それは現代の人権感覚でものを見ているからかもしれないのです。 古代に於て奴隷的労働は、都市文明を維持するために必須のもので、著作を行うような階級の人びとにとっては、無くては生活できないような存在だったでしょう。 金銭で売り買いされる奴隷は、言わば高級家畜の様な存在で、奴と言う字自体に、われわれの持っている様な感覚は無かったかもしれません。
実際に漢代の県名には、高奴県、盧奴県、狐奴県、雍奴県があり、人名にも浞野侯の趙破奴や、漢高祖曾孫管侯の劉戎奴があります。 時代が下れば、そのものずばり北魏時代の魯陽王倭奴や、北周の叱奴太后、唐代に下って玄宗皇帝の趙麗妃の兄である趙常奴、宰相李林甫の幼名である哥奴なんてのもあります。 これらの奴を卑字であると見做すのは無理があります。
倭奴國考
倭奴國は通説によれば倭の奴國とされますが、それは後漢書において倭伝の中に置かれているからであると思われます。 後漢書は東観漢記を主な原史料としていると考えられていますが、三国志以前に書かれた国選史書である東観漢記には東夷伝は無かったと思われます。 それは三国志東夷伝の冒頭に、前史に欠ける部分を補うと宣言されているからです。 倭奴國朝貢記事が、東夷伝の倭伝と言う枠組に無く、東観漢記帝紀にこの朝貢に関する記事だけが孤立してあったとすると、国名を倭奴と考えるのが自然になります。 一世紀の倭奴國と三世紀の三国志の国々はどのような関係にあるのでしょうか。
ここで三国志の倭国記事に見える、倭人の国名の特徴に関して調べてみましょう。
1.對馬國
2.一大國
3.末盧國
4.伊都國
5.奴國
6.不彌國
7.投馬國
8.邪馬壹國
9.斯馬國
10.已百支國
11.伊邪國
12.都支國
13.彌奴國
14.好古都國
15.不呼國
16.姐奴國
17.對蘇國
18.蘇奴國
19.呼邑國
20.華奴蘇奴國
21.鬼國
22.爲吾國
23.鬼奴國
24.邪馬國
25.躬臣國
26.巴利國
27.支惟國
28.烏奴國
29.奴國
30.狗奴國
奴を含む国名が三十ヶ国中九ヶ国、全体の30%に達します。 その内特に奴の前に文字を冠した国が七ヶ国で23%程になります。 ざっくり全体の四分の一が倭奴國と良く似た形式になり、倭奴國と言う国名自体は見えないものの、三世紀におけるありふれたパターンであることがわかります。 このような傾向が一世紀まで遡るなら、倭奴と言う国名は極く自然なものであっただろうと思われます。 もしもそうであったとしたら、先ずはこの類型が何を意味しているのか、それを解くことが重要になると思われます。
残念なことにこの形式の国名は、多くが国名しか記載されていない国々のものであり、詳細を知ることができません。 唯一国名のみを基に、何らかの議論を行うとしたら、有力な方法は後世の地名との対応を考えることですが、これも地名だけを頼りにすると容易ではありません。 一つの手がかりは、単独の奴で著される最初の奴國で、ナ国と読んで日本書紀の儺縣、那津に比定するのが定説です。 この地名は和名抄の那珂郡、また河川名の那珂川にも残っています。 ナカ郡やナカ郷と言う地名は、和名抄に非常に多く現れる地名で、奴のつく国名が多く現れることとも関連しそうです。 奴すなはちナの意味については、日本書記継体紀に三國坂中井の註として、中、此云那とあり、中=ナカがナに場所を著す接尾カ(何処かのカ)が付いたものである可能性を示唆します。 内もしくは中心を表す意味であり、それ自身が国をあらわしている可能性があります。
しかし奴に何かを冠した国名に関しては、前に冠されたものがなんであるのか、そのような国を後世の具体的地名に比定する必要があるでしょう。 国名のみの国を比定する場合重要なのは、何よりも国名のユニークさです。 例えば邪馬國は、ヤマ国と読むならば地形に基づくありふれた名前で、該当しそうな所は非常に多くなります。 ユニークさの一つの基準は国名の長さです。 長ければ長い程対応する地名は絞り込みやすくなるでしょう。
華奴蘇奴國の比定
そこで倭人伝の国名のうち最も長い、華奴蘇奴を取り上げてみたいと思います。 森博達氏は日本の古代(1)倭人の登場に収録された倭人伝の地名と人名の中で、倭人伝の音訳文字に関して分析し、その性質に上代日本語と共通するものが多いことを示しました。 華奴蘇奴については奴と蘇を中古音的に評価すると、上代日本語のオ列甲類に相当することになり、オ列甲類が連続しないと言う上代日本語の特徴に反することになります。 このためこの二字はより古い上古音的に評価し、それぞれナとサと考えられるでしょう。 これは奴國をナ国と読む方法に従うことにもなります。
問題となるのが華ですが、これは和と頭子音などの分類が同じになります。 主母音は二等韻で和の一等韻とは違いますが、加や麻も二等韻ですから、華はワと読むのが自然でしょう。 そうすると華奴蘇奴は、ワナサナと読むことになります。 問題の奴國の前に冠される語は、ワナサと言うことになります。
古代地名大辞典や大日本地名辞書によって調べると、ワナサに関しては下記の候補が挙げらます。
1.播磨国風土記の美嚢郡志深里の由来伝承
朕於阿波国和那散所食之貝哉
2.出雲国風土記の意宇郡来待川条
和奈佐山
3.出雲国風土記の大原郡船岡山条
阿波枳閉委奈佐比古命。曳來船則化是也。故云船岡
4. 丹後国風土記
和奈佐翁、和奈佐嫗
1のワナサは阿波の国の海産物の産地を指しています。 2と3の出雲のワナサは阿波枳閉(阿波きへ)とあるように、本来阿波が起源と思われます。 最後の風土記のワナサに関しては、折口信夫氏や谷川健一氏によれば、本来は阿波にその起源があるとされます。
徳島県南部に式内社和奈佐意富曽神社があります。 萬葉集註釋に引く阿波国風土記にある奈佐の浦は現在の那佐湾にあたると言い、阿波学会研究紀要によれば、和奈佐意富曽神社も慶長九年以前には那佐湾近くにあったとされます。 和名抄の阿波国那賀郡和射(わさ)郷もおそらくその遺称地であり、阿波国那賀郡南部、後の海部郡一帯でしょう。
ワナサを阿波南部に比定することに関して、三世紀倭国を代表する三十ヶ国のひとつにしては、その地名があまり知られていない事に疑問を抱かれるかもしれません。しかしワナサは現存するものだけでも三つの風土記に登場します。 播磨国風土記も出雲国風土記も海産物や船のように海に関する地名として取り上げていることは、この地名が古代において海に関連してよく知られた地名であったことを物語っているのでしょう。 ワナサが有名でないのは古事記や日本書紀に取り上げられていないからであり、それは二書が中央の歴史書であることに理由を求められるのではないでしょうか。 倭国がまだ数多くの国々の集まりであった時代の構成国の国名リストに載る地名が、中央集権を成し遂げて後の中央の史書に記されておらず、地方に関して記した書に表れるのは考えてみれば不思議なことではないと思います。
ただワナサの和名抄における遺称地を阿波国那賀郡和射郷とした場合、ワナサの想定地は阿波南部の阿南海岸沿いに求められ、このことが別の疑問を引き起こします。 すなはちこの地域はあまり弥生遺跡/前期古墳時代遺跡が豊富ではなく、やはり三十ヶ国のひとつとしては不足なのではないかと考えられるのです。 ここでまさにこの地域が古代の那賀郡の一部であったことを指摘できます。 徳島県南部の古代の那賀郡にあたる那賀川流域には弥生を含む古代遺跡が多くあり、有数の銅鐸出土地域です。 この地域は日本書紀允恭紀に長邑として表れ、平城宮出土木簡にも阿波国長郡坂野里百済部伎弥麻呂と表れるように、長字をもって表記された地域です。 上代語に付いては、清濁はしばしば入れ替わるため、これはナカ地名でしょう。 北部九州の奴國に関して考察したように、これはもともとナ地名だったのではないでしょうか。
つまり華奴蘇奴國とは、ワナサと言う海産物の産地、ないしは海人族のナカの国、さらに言えばワナサのナカツ国ではないかという事になります。 ここから倭奴國に付いては、中国側が倭の奴國としたという可能性の他に、倭奴國の使者がワのナカツ国の意味で、ワナと名宣った可能性があると思われます。
この国名からして倭人社会では、早くから傑出した強国だった可能性があるのではないかと思います。
伊都國と奴國
最初の節で見たように、三世紀には伊都國が対漢外交の中心であった筈です。 そしてそれは考古学的な状況からして、弥生後期に遡るものであったと思われます。 何故建武中元二年の朝貢国は伊都國ではないのでしょう。
ここで三国志に見える国々の戸数に関して考えてみたいとおもいます。
對馬國:千餘戸
一大國:三千許家
末盧國:四千餘戸
伊都國:千餘戸
奴國:二萬餘戸
不彌國:千餘戸
投馬國:五萬餘戸
邪馬壹國:七萬餘戸
奴國の戸数は、北部九州の国々と思われる不彌國までの国々の中では、突出して大きいことがわかります。 二番目に大きい末盧國の五倍に達します。 奴國の二萬餘戸と言う戸数は、晋書地理志に見える平州の戸数より多いのです。
晋書地理志平州
咸寧二年十月、分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。統縣二十六、戸一萬八千一百。
三国志の民族で言えば楽浪郡帯方郡の日本海側を占めていた濊が二万戸です。
三国志東夷伝東濊条
今朝鮮之東皆其地也。戸二萬。
奴國は到底博多湾岸に収まる規模ではありません。 環濠集落を中心とした弥生の国のイメージでとらえてはダメで、三世紀には既に領域国家として多数の集落を束ねていたと考えざるを得ません。 恐らく有明海側に達する規模で、九州北半の主要地域を占めていたでしょう。
一方伊都國は三国志では特記される国であるのに、その人口は奴國のニ十分の一にすぎません。 翰苑には伊都國の戸数を一万戸としますが、異本倭人伝 ー伊都國の戸数と太伯伝説ーで述べたように、これは誤写によるものでしょう。
この状況は恐らく三世紀以前に遡るもので、隣接する地域にこの規模の領域国家が並立するとは思えず、伊都國と奴國の間には、独立な国と国の関係以上のものがあったと思います。 女王国の支配の及ぶ前の弥生後期には、既にこの二国は役割を分かって北部九州社会の秩序を作っていたと考えられます。
弥生後期の伊都國の役割は対漢外交で、三国志に郡使のとどまるところとされているように、楽浪郡の漢人が常駐していたでしょう。 その遺跡は三雲地域で発見され、弥生中期に遡ると言う見解もあるようです。 ここには漢語と倭語を通訳できる人材がいて、漢文を操り文書外交を担うことができたと思われます。 三世紀になって卑弥呼の上表文を作成したのも、使者の通訳を行ったのも伊都國人で、そのような特殊技能によって、漢系威信財の入手と再配布の中心となり、北部九州社会の最高決裁者である祭祀王を戴くことができたのでしょう。
一方の奴國は韓や日本列島各地との交易を担い、弥生後期には日本列島最大の金属工業の集積地となっていたと思われます。 弥生中期に日本列島最初の青銅器生産集団は、有明海側に現れましたが、後期には春日地域などに集積されていきます。 また西南諸島の貝の交易のルートが、弥生中期以前には、主に沖縄から西北九州を回り、日本海側へ入っていましたが、紀元前後には沖縄から北上し有明海に入り、そこから上陸して博多湾に抜けるルートになっていました。 つまり、奴国はその当時の貝の道の直上にあったのです。 このように弥生後期には、奴國は対漢外交や祭祀王などは伊都國に譲る一方で、九州北半の相当部分を抑える商工業の大国として、両国で北部九州社会の秩序を形成していたのではないかと考えるのです。
さてそれでは、倭奴國とは両国の連合を意味していたのでしょうか。 倭奴國王はどこにいたのでしょうか。
この疑問を解くためには、私はまず57年朝貢の持つ意味を考えるべきだと思います。 漢字音のところで触れましたが、恐らくこの朝貢には前史があります。
倭奴國朝貢の実態
前漢末期、王莽は自分の政策の正当性を示すため、東西南北の民族の朝貢を望んでいました。 そのため東方を代表して、東方海上の人びとを呼び寄せようとし、それに応えてやって来た人びとが居たという記録があります。 王莽伝に東夷王度大海奉國珍、すなはち東夷の王が大海を渡って国の宝物を捧げたと言う一文がこれです。 しかし三国志呉書や後漢書にも見える通り、そこは遥かに遠く中国側から意図して行き来できる場所では無かったため、會稽東冶之東 ー倭国地理観の源流ーでは、楽浪郡の海中に居るという倭人に、その南にいる人びとを呼び寄せさせ、嚮導して連れて来させたと考えました。
王莽にとってはこの民族は、既に以前から朝貢していて、しかも北方の燕地に属するとされていた倭ではなく、東方海上の人びとでなければならなかったのです。 このため漢書ではこの民族を東夷とは呼んでも、同じく海中にいて漢書地理志にも見え、考古学的にも確実に前漢王朝に出入りしていた倭人とは区別しているのです。 すなはちそれが東鯷人であろうと考えるのです。 それは王莽伝で南北西を代表する民族については漢書地理志に記載があり、東夷の王に付いても記載があるはずであるとの推測によるものでした。
會稽東冶之東 ー倭国地理観の源流ーでは、この平帝の元始年間の朝貢を先例としたセレモニーが、後漢光武帝の時代の57年の倭奴國の朝貢と考えました。 57年の朝貢は光武帝の末年で、時間に追われ遠方の東鯷人を嚮導してくる時間がなかったため、やむなく倭奴國の朝貢としたと考えたのです。
王莽が東方の民族を呼び寄せようとした時、実際の奥地の異民族嚮導は、日本列島内につてを持つ奴國でなければ果たせなかったのではないでしょうか。 伊都國人はあくまで通訳や、外交文書の読解と作成に徹したのではないでしょうか。 王莽の時代の弥生中期末には、まだ奴國にも王がいて、嚮導国とその王として記録されたでしょう。 北部九州の倭人社会において、王莽の作り出したこの機会は、後の遣唐使が蝦夷を連れて行ったように、漢王朝に対して自らの存在感を示す場でもあったのでしょう。 しかし王莽政権の意図を理解し、遠方の異俗の民を呼び寄せ、嚮導して漢に朝貢するという事業は、伊都國と奴國がより緊密に連携することで初めて成し遂げられるものであったと思います。
岡村秀典氏の三角縁神獣鏡の時代を参考に、前漢鏡の配布状況などを見ると、恐らく紀元前ニ世紀末に漢の四郡が成立し、漢系威信財の入手と再配布を通して、北部九州での卓越した地位を確立した時から、この二国は既にある程度の協業を行っていたと思われます。 しかし遠方の異民族嚮導と言う大事業に於ける緊密な連携により、伊都國と奴國それぞれに祭祀王がいる弥生中期社会から、対漢外交を担う伊都國の祭祀王権と、九州北半の世俗支配を担う奴國の分業という、弥生後期北部九州社会の秩序へと進むことになったのではないかと思うのです。
再び弥生後期にもどり、57年の朝貢時には既に奴國には、俗権を担う支配者はいても祭祀王はいなかったでしょう。 光武帝下の漢王朝が、先例に従い奴國に東鯷人を嚮導してくるように要請したにもかかわらず、それを果す時間のないままに倭人を代役にセレモニーは進められ、その使者は倭奴國と名宣って、後漢は形式的に倭奴國に印を賜ったと思われるのです。
これには恐らく後漢側の思惑もあったと思われます。 44年に後漢王朝は、韓人廉斯人蘇馬諟の樂浪貢獻に対し、韓廉斯邑君の印を与えて直接的影響力を行使しようとします。 それは王莽政権下の廉斯の投降を先例にした、月支國の祭祀王を中心とした既存の韓社会の秩序に対する、分断支配であったと思われます。 57年の倭奴國への印授も、本来は東鯷人に対して行う予定であったのかもしれません。 東鯷人の代わりとしては、本来は対漢外交の中心であり、最高決裁権を持つ伊都國に対して行うのが自然であるにもかかわらず、敢えて倭奴國としたのは、漢王朝側の分断支配の意図によるものではないでしょうか。
ワのナカツ国と名宣ったこの国は、倭人社会では単にナと呼ばれていたのではないでしょうか。 すなはち三国志里程の最初の大国奴國でしょう。 何故この時わざわざワのナカツ国と名宣ったのかですが、恐らく後漢側は前史の嚮導國である奴國を、当初期待されていた東鯷人と見なそうとし、これに対して奴國側が倭の代表国としての主張を行ったという事ではないかと思います。
通説に従うとこの時授けられた印が、志賀島で見つかった漢委奴國王の印面を持つ金印であると思われます。 奴國は三世紀に下れば戸数ニ萬に達する大国となっていました。 57年においても金印を受けるに充分な勢力であったのではないでしょうか。 しかし俗権を担う首長を祭祀王を差しおいて王として刻まれた金印は、弥生後期北部九州社会の秩序に禍をもたらすものであったと思います。 このため分断支配を目指す漢王朝の力に対する結界として、志賀島に埋納されることになったのでしょう。
変更履歴
- 2019年06月29日
白石南花の随想