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倭の五王

―大仙陵古墳の被葬者―

1.はじめに

宋書に見える倭国の朝貢主体、いわゆる倭の五王について、倭国側の史料である日本書紀記述との対応や、倭の五王の陵墓についてながらく多くの議論が行われてきました。 本稿の目的は、日本書紀には本当に倭の五王の記述がないのか、また史上最大の前方後円墳である、大仙陵古墳と倭の五王の関係はどうなっているのかについて、文献的に検討することです。

私は隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文を非常に重要なものであると考え、その結論を継体欽明朝の秘密に日本書紀再編纂仮設としてまとめました。 そこでは最高位の天皇は夜に神意を聞く存在で、それとは別に昼の間政務をとる存在があったとしました。 日本書紀α群の欽明紀ぐらいまでは、編纂時に各氏族から集めた史料には、即位前の治績が即位後のように書かれており、そのまま編纂すれば天皇の在位が並行することになったため、治績の記録を差し替え、並行在位を回避したと考えました。 その結果百済系史料の干支などを除いて、国内系史料の干支は無視され、全体に治績期間を短縮する方向で調整された考えられます。

雄略紀の分析ではこの仮説に基づき、雄略紀の記事を分析した結果、雄略紀は前後十三年短縮されており、もとの原史料では雄略のモデルとなったのは、宋書に見える倭王武であり、安康のモデルになったのが倭国王世子興であると結論しました。 果たして上記の日本書紀再編纂仮設は、残る倭の五王、讃珍済に関する疑問を解決できるのでしょうか。

2.宋書について

倭の五王の原点は宋書の記述にあります。 まず宋書について確認して置くことが重要であると思います。

宋書の帝紀と夷蛮伝を見比べると、夷蛮伝では高句驪もしくは高驪、帝紀では一か所だけ高句驪で残りは高麗となっています。 このような表記の違いは、使用された原史料の少なくとも一部は異なるということで、帝紀と夷蛮伝を別の史書のように扱えるということを意味します。 倭の五王について夷蛮伝と帝紀を比較すると下記のようなことが分かります。

王名のない朝貢は帝紀にのみある。
   讃の朝貢は夷蛮伝にしかない。

このことから可能性としては下記が予想されます。

帝紀にも夷蛮伝にもない朝貢がある。

つまり当たり前の話ですが、宋書を倭の五王に関する完全な記録とみなすことはできないのです。 また朝貢による冊封にしても、劉宋側ではそう望んでいても、朝貢する側は爵位による権威のみを求めていて、必ずしもそのお作法に従ったとはいえない可能性があります。 すなはち新王が立ってすぐに朝貢したとは限らず、朝貢による爵位がどの程度国内支配において重要であったかもわかりません。 倭国よりも劉宋からの爵位に依存する度合いが高く、かつ五世紀については日本書紀よりはあてになる三国史記をもとに調べてみれば、即位後すぐに朝貢していないケースがあります。 すなはち、朝貢年からその王の即位年を求めることはできないということです。

劉宋に対しての報告の内容にも疑問があります。 有名な倭王武の上表文では、十数年も前に亡くなっていると報告した父の済が、にわかに亡くなったので喪が明ければその遺志を継ぎたいと言っています。 劉宋側から見ても明らかに矛盾しているのですから、話を劇的にして爵位を引き出すための脚色が行われていると考えられ、そのまま受け取るわけにはいかないのです。

さらに雄略紀分析で分かったことは、倭国側の一回の使者が劉宋側の二回の朝貢にあたることもわかりました。 劉宋が歴代王朝の中で例外的に、皇帝の出御しない客館での文書や献上品や賜物の受け渡しを行っていたこともあり、その朝貢記録は必ずしも全幅の信頼を寄せるものではないと思われます。

実際宋書の記録には不審な点があります。 438年の帝紀の記録には、以倭国王珍為安東将軍是歲、武都王、河南国、高麗国、倭国、扶南国、林邑国並遣使獻方物の二回の記録があります。 通常であればまとめて繰り返しただけのように見えますが、宋書帝紀で繰り返しているのはこの倭国のケースだけです。 この年には、倭国の使者が客館にとどまり、皇帝から見ると二回の朝貢を行っている可能性があります。 また帝紀451年の朝貢では、倭王済は安東大将軍に進号したと書いてあるのに、夷蛮伝では安東将軍はもとのままと書いてあります。 これも同年に朝貢が二回あり、二回目に進号を果たした可能性があるのです。 この点については坂元義種氏がかって述べられていますが、今のところ一般的には受け入れられていないようです。

私は本来宋書の記録をもって、記紀の系図を考証してみたいと思っているものですが、これらを考えてみるに、宋書の記録で倭国の王の即位や没年や系図を決定するのは簡単ではないということが分かります。 それはまるで明史日本伝をもって、織豊政権に関して議論するようなものです。

3.古事記崩年干支について

倭の五王について、古事記にはわずかに雄略記に、呉に関する記事があるのを除いて、関連すると思われる記述はほとんどありません。 ただ在位年を日本側史料と比較する場合に、日本書紀と並んで古事記崩年干支が利用されることがあります。 しかし古事記崩年干支は古事記に対する註であるうえ、付された天皇と付されない天皇があり、体系的な情報ではないと思われます。 また古事記本文については、仮名遣いから見て奈良朝とみてよいと思われますが、崩年干支はいつの時代に付けられたものか分からないという問題があります。

古事記はもともといつの時代の話か、年代のわからない口承文学的内容で、歴史書とは言えない代物ですが、おそらくそこに様々な氏族の伝えた史料をもとに、没年についての情報を追加したものでしょう。 その内容は一つ一つ個別にみてゆくと、信頼できるものもできないものもあったでしょう。 百済系漢人による記録の始まった、五世紀以降であれば、金石文の状況などからある程度あてになるかもしれませんが、四世紀に関してはその正体に不安があります。 百済との交流が四世紀第四四半期あたりからとすると、一体だれがそれ以前の記録を残したのでしょう。 前原にあった楽浪郡出張所の子孫でしょうか。 最近日本の広い範囲から、弥生期に遡る硯と思われるものが見つかっていますが、文字は複数まとまって意味を成すような使い方をされるだけではありません。 単なる記号として使われることは現代でも多く、もともと原初的な文字は言語を表すものではなく記号であったことと、四世紀以前に日本列島内で作成された、文をなすような文字史料が見つかっていないことを考えると疑問です。

また五世紀でももちろんどの程度信頼できるものかはわかりません。 α群の分析でも、安閑の崩年干支は同じ墓に合葬された、安閑皇后のものである可能性をみました。 継体の崩年干支は没年ではなく、譲位年を示したものと思われます。 ただ古事記に註された崩年干支と、同根と思われる史料が、日本書紀の当初編纂においても利用された可能性が高いこともまた見てきました。

古事記については、仮名遣いを擬古的にしているだけなどの批判がありますが、旧事本紀や古語拾遺では成功しているように見えず、奈良朝成立は疑いないと思われます。 神話など内容的に日本書紀より新しい形態が見えるのは、口承文学として練られてきたためであって、日本書紀の特に神話において明らかに古形のものが見えるのは、日本書紀には様々な氏族の提出した文字史料が利用されているためであると思われます。 口承で伝えたとしても、氏族ごとに伝えに違いがあるのでしょう。 古形を伝えたものがあるとしても一向に不思議ではありません。

口承文学的な史書と、広範に史料を集め、何とかして漢籍に対抗できるような史書を編もうとしたものが残っていることは、成立プロセスを考察するうえで、大変に幸運なことだと思います。

4.日本書紀β群について

はじめにで述べたように、私見では日本書紀α群については原史料の構造とその再編纂に関してある程度目途がつき、それをもとに倭国王世子興と倭王武についての朝貢記録を比定出来たと考えています。 それ以前の讃珍済については、古くから宋書の記録と日本書紀紀年や古事記崩年干支との比較をもとに考えられてきました。 しかししばしば宋書の記録のみ、もしくは考古学的な記録のみから考察することが行われてきました。 それは年代まで含めて、日本書紀の記録に明確に宋書の記録と照合できるものがないことが、理由であったと思われます。 しかし2節で述べたように、宋書の記録だけでは日本側の情報を再建することは無理があり、考古学的にも何らかの金石文の発見がない限り、倭の五王との関連は難しいと思われます。 本稿の主題は日本側史料に、宋書の記録と比較できるものを捜すことです。

日本書紀再編纂仮説は日本書紀α群にたいするもので、β群には適用できるのかが、一つの課題になります。 ここで注目するのが允恭紀で、允恭五年に反正の喪の話が出てきます。 これは従来謎とされていたのですが、古事記崩年干支を見ると反正の在位は五年であり、允恭紀のこの五年間は反正との並行期間であったことが分かります。 つまりα群で発生した天皇在位の並行は、当たり前の話ですがβ群でも発生していたということです。 β群では並列をどのように解消しようとしたのかが、允恭紀と允恭記の記述の比較からわかります。 允恭記では允恭没後に木梨軽の立太子がありますが、允恭紀では在位中のことになっています。 允恭紀は即位四十二年まであるのですが、即位二十三年の木梨軽立太子以降は、引き延ばされていると思われます。 これから反正との並行期間五年を引くと、允恭在位期間は十七年となり、古事記古事記崩年干支から見た在位期間にあってきます。 允恭二十四年を最後に崩御年までは無治績期間となっていて、紀年論でも本来の在位期間ではないとされてきたものです。

日本書紀紀年では没年が二十年延ばされ、反正並行期間の五年が足され、反正空位年一年と履中が五年から六年に延ばされていることを加え、全部で二十八年繰り上げられ、仁徳の没年は古事記崩年干支から示される427年から、日本書紀では399年になっています。 α群では治績期間の短縮があり、β群では治績期間の引き延ばしがあるということは、おそらく有名な神功紀の干支二運引き上げと関係があるでしょう。 おそらく二運引き上げによりできた年次の余裕によって、天皇在位年を解消していると思われます。 このためα群ほどの無理やりな記事の繰り替えは行われていないのでしょう。

5.陵墓伝承について

考古学者の白石氏が指摘するように、ざっくりとですが陵墓伝承地は、考古学的に大古墳の作られる古墳群の移動にあっています。 陵墓伝承は全幅の信頼を寄せるようなものではないとしても、同時代文字記録のない時代に対する手掛かりを与えてくれる可能性は秘めていると思われます。 時に日々目にするモニュメントは、それにまつわる話を親から子へ語り継ぐきっかけを与え、民族の記憶装置として機能することがあると思われるからです。

仁徳紀の即位六十七年の陵墓選定の記事について考えてみましょう。 まずこの記事がなぜ即位六十七年にあるのかを考察してみるに、記事の中身は百舌鳥耳原の地名説話を含んでおり、口承伝承の特徴を持っていることが分かります。 おそらくそもそも何時の事なのか分からない話だったのでしょう。 このようないつのことだったか分からない話を、史書のどこかに書き込もうとしたとき、選者にはある種の緊張感があったと思います。 年次を打った記述のどこかに差し込んだ場合、選者がその年次を決めたことになってしまうからです。 したがって年次のわかった関連する記事があった場合、その近くに置こうとするでしょう。 雄略紀分析でも、同種の記事の集まる傾向が見えました。

この仁徳紀の記事が面白いのは、仁徳の陵墓が寿稜であったことを物語るものと思いますが、その選定地が石津原となっているところも興味深いものです。 石津原が倭名抄の石津郷であるとすれば、現在の石津町に近いわけで、もっとも近い大古墳は、上石津ミサンザイ古墳となります。 そしてそれがこの百舌鳥古墳群の、大古墳としては一番早いものであることは、この仁徳紀の記事が説話的なものでありながら、一定の事実を含んでいることを物語ります。

このような説話的な、何時のことか分からなかった記事を、ある人物の一代記に置く場合、選者には迷いが生じるでしょう。 特定の年次に配当してしまえば、出来事の起こった年次を選者が決めてしまうことになるからです。 選者にとっては途中のどこかでなく末年というのは、その一代の何処かで起こったこととして、特別記事の起きやすい場所です。 ましてや陵墓選定であれば末年がふさわしいことになるでしょう。 陵墓選定記事の即位六十七年から、没年の即位八十年までは治績記事がなく、β群の天皇在位並列解消のための、在位引き延ばしの可能性があります。 おそらく末年が六十七年になったため、この位置に陵墓選定の記事が置かれ、その後在位並列を解消するため末年を二十年引き延ばしたため、末年からずれてしまったのでしょう。

6.応神紀と仁徳紀について

ここで応神紀と仁徳紀に注目してみましょう。 応神紀では、百済王の即位が三国史記の干支とほぼあっています。 久爾辛王の即位が六年ほど早くなっていますが、これはおそらく書記には木滿致による執政期間を、三国史記では前王の即位期間に含めたからでしょう。 また応神即位二十五年に亡くなったとしている直支王が、即位三十九年に再び現れてきますが、これは雄略紀の分析で触れたように、百済系史料において腆支王(直支王)と毗有王の混乱があったことによるもので、即位三十九年戊辰の年の新齊都媛の記事は、三国史記毗有王二年戊辰の年の倭国の使節団に対する返礼だったのでしょう。

このように応神紀は全体が四十一年で、かならずしも不自然に長いとは言えない事も合わせて考えると、記事は引き延ばしたりせず、その干支は原史料のものをそのまま利用して二運引き上げている可能性があります。 これはその前の神功紀が海外史料の干支と、一部を除いてちょうど二運引き上げたようになっていることからも伺えます。 そこで注目するのが、応神三十七年に呉に遣わされ、応神四十一年に帰国した阿知使主一行の記事です。 この記事には、往復に四年もかかっていることや、敵対していた高麗(高句麗)に支援を求めていたことなど不審な点がありますが、ひとまず受け入れてみます。 すると宋書に見る430年の倭国朝貢と、帰国年の干支が庚午で一致していることが分かります。 応神四十一年は崩御年なので、これをもとに応神は430年に崩御したとする説は以前からありました。 ただ帰国は四十一年の二月是月条で、430年1月の朝貢の帰国としては早すぎます。 しかし実は仁徳紀の即位五十八年庚午の年の十月条に、呉国と高麗国の朝貢記事があるのです。 しかも応神紀には帰国したところ応神はすでに亡くなっていたので、連れ帰った女人等を仁徳に献上したとまで書いてあるのです。 おそらく応神四十一年是月条は是年条の誤りで、仁徳紀の十月が正しく、この庚午の年の朝貢には相当の信ぴょう性があると思われます。 宋書によればこの時期高句麗長寿王は、連年南朝文帝に使者を出していたとされますが、文帝即位十二年に至るまで爵位を得た記録がありません。

ここからは私の想像ですが、長寿王は倭国の426年の南朝への使者を捕らえ足止めしていたのではないでしょうか。 しかし宋書によれば、長寿王は連年の朝貢にもかかわらず、太祖文帝の時代に入ってから、劉宋からの爵位を得ることができなかったようなのです。 そのため劉宋の関心を引き、爵位を得るための方便として倭国の使者を開放し、南朝への嚮導を行ったのではないかと思うのです。

もしこの記録が正しいとすれば、430年の朝貢は応神のモデルになった人物の最後の朝貢となり、おそらく倭讃の最後の朝貢ということになります。 そしてそれを引き継いだ珍は仁徳のモデルになった人物ということです。 宋書では讃と珍は兄弟ですが、実は応神紀には崩御が明宮と大隅宮の二つの伝承があり、日本書紀には即位時の宮も陵墓の記録もありません。 古事記と日本書紀では、相互の伝承が入り乱れています。 またごの四世紀末から五世紀前半には、大王墓級の古墳が天皇の数を超えてあります。 したがって応神仁徳は、複数の王をモデルに始祖王として造形されたものと思われます。 その中に兄弟で王位を分けたものがあり、それが讃と珍で、応神仁徳伝承の一部を構成しているのであろうと思います。

応神紀の一部をなす讃の没年は430年となります。 そして珍はその後を継いだ存在であり、仁徳伝承の一部をなしていると思われます。 前節の結果によって呉と高麗の使者のあった、即位五十八年を430年とすると、陵墓選定記事は439年となります。 5節でみたように、仁徳紀の没年が本来の位置である陵墓選定記事の年次から、二十年引き延ばされているとすると、その没年は本来439年と伝えられていた可能性があります。 この没年はおそらく珍の没年を伝えるものでしょう。 日本書紀のβ群引き延ばしの前には、讃珍の没年干支がそれぞれ応神仁徳のものとなっていたと考えられます。

3節で述べたように古事記崩年干支については、必ずしも全面的に信頼できるものではないと思われますが、何らかの伝承があったと思われます。 4節で述べたように、履中、反正、允恭の崩年干支はどうもあてになりそうです。 そこで各天皇の没年を推定すると下記になります。

応神:430年
   仁徳:439年
   履中:432年
   反正:437年
   允恭:454年

つまり仁徳よりも子供の履中や反正が先に亡くなっているのです。

倭の五王関連対照表
数字は日本書紀の記事の年次
ここでは応神の紀年を干支の二運引き下げ、仁徳の紀年を干支の一運引き下げ、允恭、履中、反正の崩御年を古事記崩年干支とした
ただし仁徳の崩御を陵墓地選定記事の67年、允恭の崩御を古事記に合わせて木梨軽の問題の前年の22年とした
西暦干支応神仁徳履中反正允恭中国史書古事記崩年
373癸酉1
374甲戌2
375乙亥3
376丙子4
377丁丑5
378戊寅6
379己卯7
380庚辰8
381辛巳9
382壬午10
383癸未11
384甲申12
385乙酉13
386丙戌14
387丁亥15
388戊子16
389己丑17
390庚寅118
391辛卯219
392壬辰320
393癸巳421
394甲午522応神
395乙未623
396丙申724
397丁酉825
398戊戌926
399己亥1027
400庚子1128
401辛丑1229
402壬寅1330
403癸卯1431正月、立太子
404甲辰1532
405乙巳1633
406丙午1734
407丁未1835
408戊申1936
409己酉20:九月、阿知使主等来朝37
410庚戌2138
411辛亥2239
412壬子2340
413癸丑2441晋書帝紀:倭国遣使
414甲寅2542
415乙卯2643
416丙辰2744
417丁巳2845
418戊午2946
419己未3047
420庚申3148
421辛酉3249宋書夷蛮伝:倭讃朝貢
422壬戌3350
423癸亥3451
424甲子3552
425乙丑3653宋書夷蛮伝:倭讃が司馬曹達を遣す
426丙寅37:二月、阿知使主等呉へ向かうが道に迷う
(高麗人の案内で朝貢)
54正月、阿知使主等に助けられる
427丁卯38551仁徳
428戊辰39562
429己巳40573
430庚午41:(二月)是月、阿知使主等帰国58:十月、呉と高麗の使者4宋書帝紀:正月、倭国遣使
431辛未595
432壬申606:正月、藏職を建て蔵部を定める
(古事記に阿知直を藏官)
履中
433癸酉6111
434甲戌6222
435乙亥6333
436丙子6444
437丁丑6555:反正の喪反正
438戊寅666宋書:四月、讃の弟倭国王珍朝貢
439己卯67:十月、陵墓地選定記事7:十二月、新室の祝い
440庚辰688
441辛巳699
442壬午7010
443癸未7111宋書:倭国王濟朝貢
444甲申7212
445乙酉7313
446丙戌7414
447丁亥7515
448戊子7616
449己丑7717
450庚寅7818
451辛卯7919宋書:七月、倭王倭濟朝貢
452壬辰8020
453癸巳8121
454甲午8222允恭
455乙未8323:三月、木梨軽の近親相関記事
456丙申8424
457丁酉8525
458戊戌8626
459己亥8727
460庚子28宋書帝紀:十二月、倭国遣使
461辛丑29
462壬寅30宋書夷蛮伝:三月倭国王世子興朝貢
463癸卯31
464甲辰32
465乙巳33
466丙午34
467丁未35
468戊申36
469己酉37
470庚戌38
471辛亥39
472壬子40
473癸丑41
474甲寅42
475乙卯
476丙辰
477丁巳宋書帝紀:十一月、倭国遣使
478戊午宋書帝紀:五月、倭国王武朝貢
479己未南済書東夷伝:倭王武朝貢
480庚申
481辛酉
482壬戌
483癸亥
484甲子
485乙丑
486丙寅
487丁卯
488戊辰
489己巳雄略

7.讃と珍の陵墓について

讃と珍の陵墓について考えてみます。 この節では便宜的に、讃珍と応神仁徳を同一視して話します。

百舌鳥古墳群は地図で見ると、明らかに二つのグループに分かれます。 丘陵の尾根上に有って大阪湾から見通せる一にあるグループと、その東側の河谷沿いのグループです。 大型古墳のみについてみると、その造成方位も違います。 上町台地に続く台地の西側の低い背梁部に上石津ミサンザイ古墳から、方位をそろえて北へ向かって順次作られた大仙陵古墳や田出井山古墳は、そのなかに規模第一と第三位を含むことから特別な一族の墓群であろうことが理解できます。

日本書紀において自らの陵墓地を選んだという伝承は、仁徳のものだけです。 つまり時の大王が何かのこだわりを持って陵墓地を選んだという伝承です。 仁徳は大阪湾に臨んだ難波に都を作ったと伝わっており、瀬戸内海がこの王権の権力基盤だったのではないでしょうか。 そのため大阪湾方面に自分の威を示すためにこの陵墓地を選び、かつ築稜の方位も選んだのではないかと考えます。 履中と反正が仁徳の子であるとすると、この一族は同じ立地と築稜基準が適用されたと私は思います。 一方延喜式では南から順に、履中、仁徳、反正となっています。 寿稜の可能性もあり、発掘が許されていないため絶対的年代にはまだ揺れる可能性がありますが、作成順は揺るがないとして、陵墓伝承と考古学の矛盾する例として多く取り上げられてきました。 しかし履中、反正と仁徳の没年が逆転するならば、新たな可能性が出てきます。

以下私の想像ですが、仁徳紀に見るように百舌鳥の陵墓地は仁徳が決めたものでしょう。 そして寿稜として五世紀初頭に史上最大規模な上石津ミサンザイ古墳を作成したと考えるのです。 その後仁徳と王位を分け合っていた応神は、ややおくれて古市にそれを上回る誉田御廟山古墳をやはり寿稜として築きます。 ところが履中が急死してしまい、仁徳は早くから築いていた上石津ミサンザイ古墳を我が子履中の陵墓とします。 そして誉田御廟山古墳を上回る規模の大仙陵古墳を寿稜として築き始めたのです。 ところがさらに反正が先に亡くなってしまい、また仁徳も大仙陵古墳が完成する前に亡くなったのでしょう。 そこで田出井山古墳の築稜をおそらく計画段階で中断して、大仙陵古墳の完成を優先させたのでしょう。 432年が履中の没年で、それからわずか7年後に仁徳が亡くなったとすると、大仙陵の築稜は仁徳の死に間に合わなかった可能性があります。

履中と反正は仁徳のもとで、昼の王を務め天皇即位の前に亡くなってしまいました。 日本書紀の記述からすると、允恭は反正の臣下であっても実権を握っており、仁徳の子であったがゆえに昼の王についていただけの反正の陵墓は、倭国王珍として権威をもった仁徳が、次々に作った二つの寿稜に比べて、著しく小さなものになったと考えるのです。

8.倭の五王まとめ

雄略紀の分析では、倭国王世子興と倭王武が、それぞれ日本書紀の安康天皇と雄略天皇のモデルとなったと考えられました。 本節の結論として、倭讃と倭国王珍は、それぞれ日本書紀の応神天皇と仁徳天皇の、モデルとなった実在の王の一人と考えられました。 そして讃の陵墓は誉田御廟山古墳、珍の陵墓は大仙陵古墳であり、仁徳天皇陵応神天皇陵の伝承には、一定の真実があると考えられることが分かりました。 倭の五王の内残る一人は、倭王済となりますが、日本書紀系図を信ずるならば、これは日本書紀の允恭のモデルということになります。 残念ながら允恭紀には、呉との外交記録がなく、直接の証拠はありませんが、この原因は外交記録を伝えた氏族に原因があると思われます。

雄略紀の分析では、479年の朝貢は加羅王の朝貢の嚮導として、実際にあったとしました。 ただそれを実際に行ったのは、朝鮮半島南部に権益を持っていて雄略朝と争うことになった、吉備の首長につながる人々であったため、記録を伝える後継氏族がいなかったと考えました。 つまり全ての朝貢に関して、実際に日本書紀に記録が残る訳ではなかったと思われるのです。

430年の朝貢に際しては、阿知使主と都加使主が派遣されたとされていますが、阿知使主は東漢氏の祖とされ、後世に有力な後継氏族を残しています。 倭讃の425年の朝貢に関しては、司馬曹達の名が見えますが、新選氏姓碌に阿知使主の率いてきたとされる、七姓漢人には曹氏は含まれていません。 都加使主は東漢掬直として、雄略朝でも有力な存在であり、前述の吉備首長の反乱に際しても、首謀者にされた星川皇子を滅ぼす存在です。 そして雄略紀において、呉への使者となった身狭村主青は、新選氏姓碌では阿知使主の連れてきた一族とされ、檜隈民使博徳の檜隈は東漢氏の本拠地であり、いずれも東漢氏つながりなのです。

倭讃の使者として最後に阿知使主と都加使主が選ばれたのは、おそらく履中天皇が、この朝貢の実際に関わっていたためであると思われます。 古事記崩年干支では、履中の崩御干支の壬申は432年と思われ、おそらく遡って426年の呉への遣使の時には、既に第一皇子として王権の中で重要な地位にあったと思われます。 履中即位前記には、阿知使主が仲皇子に包囲された宮から助け出す話があり、阿知使主は履中と関係が深かったと考えられるのです。 その後438年の倭国王珍の朝貢の際には、既に履中は亡くなっており、東漢氏とは別の渡来系一族が、南朝朝貢の実務を担ったのでしょう。

倭王済の朝貢に関して、もしそれが允恭に相当するとすれば、允恭五年に反正の喪の話から以降、允恭紀から政治的な話が途絶えることから、これ以降の外交実務は、第一皇太子の木梨軽が担ったと思われます。 そして安康紀にみるような失脚に伴い、関連の一族も失脚し、日本書紀に記録を残せなかったのでしょう。 史書に全ての記録が残っていると考えるのは、無理があるのは当然の事なのです。

日本書紀の記録が宋書の記録とうまく合わないのは、双方に問題があると考えられます。 特に日本書紀に関しては、八世紀の天皇制とは著しく異なった王政であったこと、各氏族の伝えた記録が、視野狭窄的な問題のあるものであったことに加えて、それを八世紀の天皇観に合うように編纂したことが、歴史記録として謎の多いものになった原因であると思われます。

允恭以降の古墳時代後期のあり方としては、即位前の皇子が実務を担い、天皇即位した人物は主に祭祀を行う形態であると思われますが、古墳時代中期には異なる様相があるようです。 今後神功紀の分析に関して、論稿を書く予定ですが、中期古墳時代の状況はそこで明らかになると思われます。 また神功紀からは、日本書紀原史料の別の問題点も見えてきます。 すなはち各氏族の伝承が持ち寄られたとき、八世紀時点での無名な存在に関する祖先の奉仕の記録は、著名な人物の記録にすり替えられている可能性です。 先代旧事本紀や古語拾遺の存在が示すように、八世紀以降の天皇制の中では、どのように祖先が八世紀における天皇系図上の有力者に関わるかが、その氏族の地位に大きな影響を与えたため、本来は別人の記録が既存の天皇紀に流れ込んでいるのです。

応神紀仁徳紀もそのようにして成立している可能性があります。 特に仁徳紀は没年が二十年引き延ばされていることは説明しましたが、それを除いても在位六十七年と長く、しかも即位五十八年庚午年の呉使の記録が、応神四十一年庚午年の呉使の記録と同じものであるとすると、この間に一運六十年の期間があり、仁徳紀に何らかの年次操作が加えられたと考えられます。 単純な治績空白期間ではなく、何らかの記録が差しはさまれていると思われますが、今のところ判然としません。 これも神功紀分析に際して改めて考えてみたいと思います。

参考文献

  1. 日本書紀 岩波文庫(三)
  2. 全現代語訳 日本書紀 宇治谷孟 講談社学術文庫
  3. 維基文庫 三国史記
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白石南花の随想




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