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東夷の王大海を渡る

−三国志魏書東夷伝倭人条国名比定の試み−

この小論を亡き父に捧ぐ

概要

三国志魏書東夷伝倭人条に現れる国名に関して考察し、特に其餘旁國の国名リストに関して比定を試みた。このような地名比定がこれまで定見を見なかった理由を考察し、比定の困難の内容を分析することからはじめた。地名比定に対する新しいアプローチとして数多く現われる「奴」字を含む国名に着目し、和名類聚抄の郷名との比較を行なった。其餘旁國の国名リストの時代性とその背景について考察し、三国志成立以前における中国人の倭国観に関しても論じた。個々の国名に関しても比定の信頼性の高いものを見出し、全体の国々の地理的配置プランに関して順次その性格を明らかにしながら比定案を作成した。



目次


初めに

三国志魏書東夷伝の倭人の条(以下倭人伝)に伝わる国々については、これまで有名無名あわせて様々な比定が行なわれてきた。 ある程度の地理的情報を含む九ヶ国に関しては様々な比定が行なわれてきた一方で、二十一ヶ国の比定に関しては、なんらの定見も無ければ説得力のある方針も示されてきたとは言いがたい。音韻による地名の当てはめや、配置に関する根拠の無い仮説に基づく比定のみと言っても良い状況である。それは傍二十一ヶ国の情報が、国名とその並び以外に無いことに原因がある。 また比定にあたって森博達氏をはじめとした先学により、傍二十一ヶ国を含めた倭人伝全体の倭人の単語の表記に使用された漢字音に関しての興味深い研究があるにもかかわらず、その成果が十分に生かされているとは言いがたい状況である。

本稿で試みるのは倭人伝の国名特に傍二十一ヶ国の比定に関して何らかの一貫性のある方法論を適用することにより、これまで行なわれていたより見通しの効く形での議論を行なうことである。 本稿に置いてはまず倭人伝の地名比定の困難さの原因に関して分析し、どのようにそのような困難を回避してゆくかを考察することとした。 その一つの方法として最初から個別の比定に立ち入らず、まず倭人伝地名集団の特徴を抽出する手法を選んだ。 そして比較しうる日本の地名集団の特徴と合わせて議論することで、倭人伝の地名からのマッピング法則を抽出する。 倭人伝の地名を比定することは、既知の日本の地名と倭人伝地名とのマッピングを行なうことに他ならないからである。 本稿ではまず倭人伝地名に関わった者であれば誰しもが感じている「奴」字を含む国名が非常に多いことに着目しこの様な地名の地域的偏差に関して考察した上で、比較しうる最も古い全国的な地名の一覧といえる和名類聚抄(以下和名抄)の地名との対応に関しての仮説を立てた。 その上で倭人伝地名特に傍二十一ヶ国の成立の歴史的背景に関して議論し、もっとも困難と思われる傍二十一ヶ国の比定に関してのこの仮説に基づく見通しを与えた。

最後に比定の困難さに関する分析をもとに倭人伝国名の個別の比定を行なう手順を考察し、その手順にのっとって主に現存する最古級の地名資料である奈良朝文献をもとに比定を行なった。

1.問題点の整理

これまで倭人伝国名に対した様々な比定が行なわれてきた。 しかしながら邪馬臺国論争に見られるように、地理的記述や風俗政治まで記載された国ですらその比定には困難が伴っていた。 傍二十一ヶ国のように国名以外に手がかりのない国に関しては、邪馬臺国の位置に関する仮説を前提としても、私見ではあるが説得力を持つものは見当たらない。 まずは比定が困難である理由を分析しておくことは意味があるであろう。

第一の困難:国名の記載方針が不明であること。

これらの国々の比定を行なうということは、倭人伝の国名と後の地名のマッピングを行なうということである。マッピングを行なうためには、倭人伝の国名の何と後の地名の何を比較するのかを明確にしなければいけない。そのためには倭人伝の国名がどのような方針によって漢字化されているのかを知らなければいけない。具体的には当時の漢字の音を借りて倭人の国名に当てたのか、それとも漢字の字義を持って国名を表記したのかを明らかにしなければいけない。特に傍二十一ヶ国については、これらの国名がまったく空想上のものとしている説さえもあるのである。これが第一の困難であろう。

第二の困難:使用された漢字音が分からないこと。

仮に当時の漢字の音を借りて倭人の国名に当てた事が分かったとして、当時の漢字の音がどうであったのかが問題になる。そもそも古い時代の漢字音はそれほど分かっておらず、特定の時代のしかも文献に残された漢字音しか分かっていない。おそらくそれは主にその時代の公用語的、文語的に用いられた漢字音であろう。たまたま東夷の果ての国々の名前を漢字化する際に、そのような中央の公的な漢字音が使われた保証も無いのである。また関連して音訳者の資質や音訳の精度、音訳の状況も不明である。これが第二の困難である。

第三の困難:倭人の言語が不明であること。

さらに問題は積み重なる。すなはちその当時倭人の国はそもそもどのように国名を名づけたのか、その言語は何であったのかそれが正確にはわからない。日本語系の言語であったとしても上代日本語とどれほどに違うのか、また上代日本語と直接繋がらない方言であるかもしれない。これが第三の困難である。

第四の困難:誤写誤刻を確定できないこと。

誤字の含まれる可能性のあることもきわめて重大な問題である。倭人伝は複数の文献をもって校勘されているが、特に傍二十一ヶ国に関しては十分な史料も無く校勘は不十分というより行なわれていないに近い。これが第四の困難である。

第五の困難:国名が単純で短いこと。

倭人伝の国名には長いものが少なく、ほとんどが漢字二文字で表現されている。もしもそれが音訳であるとすると、多くが二音節程度の国名になってしまう。なかには一文字で表される国名さえある。もしも後の地名とのマッピングを音によって行なうとすれば、このような短い国名は比較的長い後の時代の地名の一部にマップされることになり、偶発的な一致の排除が難しくなる。例えば「やま」のような自然地名は、日本国中どこにでもあり比定は困難であろう。これが第五の困難である。

第六の困難:古い地名が失われてしまう可能性が有ること。

マップされる後代地名にも問題がある。和名類聚抄郷名考證(1)によると、古代郷名集成の五十年ごとのくくりで、九世紀前半に和名抄の郷名との一致率が97.5%であったものが、およそ三百年後の十二世紀前半には43.8%とほぼ半減する。むろん和名抄の郷名の場合、おそらく律令の政治的地名であることがこれほど早く地名が変化する理由であろう。服部英雄氏による大和盆地の地名変遷の研究によると(2)、過去の地名と現代地名の一致率は

となっており、千年もすれば地名の半分は変わってしまうことが分かる。すなはち倭人伝の時代のようなはるかな昔に関しては、地名自体が失われている可能性があるのである。これが第六の困難である。

本稿においては、これらの困難をひとつひとつ解決してゆくことを試みる。

2.解決の手がかり

前節で述べたような絶望的な状況に対して唯一希望の光を与えてくれるものが、森博達氏ら先学による倭人伝の固有名詞を音訳とみなしての漢字音からの分析である。(3)

倭人伝の固有名詞に使用された漢字を中古音(隋初に成立した漢字音の分類書である、切韻などをもとにした隋から唐初の推定音。本稿では中古音として前期中古音の意味に用いる。)をもとにした分析を行なった結果、以下の様な特徴が明らかになっている。森博達氏著書(3)にしたがって特徴を列記する。

1.母音終わりの漢字が多い(全体の88%)

2.去声字の回避(全体の4%)

3.小韻の首字(切韻の同音の最初の文字)が多い(全体の80%)

4.合口字(頭子音と主母音の間にuのような母音が入る。)の割合が少く
日本語のワ行音として解釈可能なものだけに限られる(8%以下)

5.上代日本語同様の位置による音韻の制限が認められる

6.有気子音(日本語にない子音)を含む漢字がない

7.暁母(日本語のハの子音に相当する頭子音)を含む漢字がある

8.少なくとも一部に上古音(中古音をもとに、詩経の押韻などをもちいて
推定される、先秦時代の推定音)系の音価が用いられている

同著書では1から8までの特徴により、倭人伝の固有名詞は上代日本語と関連のある言語を中国原音に従って音訳したものであるとしている。特に特徴の6は上代日本語を漢字で表記した万葉仮名においては成立せず、森氏が中国人による音訳であるとしたα群の仮名においては成立している。(4)倭人伝の音訳文字は数が少なくかつ音訳の状況など不明な点が多く、資料としての取り扱いは非常に難しいものではあるが、この点だけから見ればかなり良質であると言えそうである。倭人伝の固有名詞は、比較的精度の良い音訳資料として取り扱うことが出来そうである。これは第一の困難をほぼ解消してくれる。

また音訳の対象が上代日本語と関連のある言語であることが分かったことで、第三の困難に関しても重要な手がかりを得たことになる。しかし倭人の言語に関しては、上代日本語と共通する特徴だけでなく異なる特徴も見られる。すなはち特徴の7、中国原音による上代日本語(ハ行子音がpないしphであったとされる。)の音訳としては不適当な暁母の文字が見られることである。これに関しては倭人伝の音訳は中国原音ではなく万葉仮名同様に倭人によるものであるとの説や、上代日本語に繋がらない方言による説などが有るが、森氏は特徴6より原音音訳を支持し方言ないし時代変化を示唆されているようである。

私は以前に倭人伝の音訳文字の暁母に関して論じた。(5)この際には音訳文字で倭人伝を区分することに主眼を置いていたが、暁母と見母(日本語のカの子音に相当する頭子音)が混在する状況、すなはち子音のkとhが混在する状況は率直に見ればやはり現在の琉球方言と関連付けて考えるのが妥当であると考える。前回の論考では球方言と上代日本語の共通の祖語を想定したが、評価を御願いした識者の方からはhからkへの変化は不自然とのご指摘を頂いた。また琉球方言のk音のh音化現象は、おそらくかなり時代が下ることも問題である。無論琉球方言で起こった変化が、三世紀北部九州で独立に起こっていた可能性もないではない。しかしこれに対しても現代本土方言には、琉球方言に見られるような形でのk音のh音化現象は見られず難しいということである。

しかしそれでも私はやはり琉球方言となんらかの関連のある、上代日本語に直接繋がらない方言が関係していると考えている。このことは直ちに邪馬臺国の位置論争に関連することではない。(補足1)音訳文字に音が固定されるに当たっては、その発音を伝えた人(インフォーマント)の存在が重要である。はたして当時中国との外交上どの地域の人々が前面に出て働いていたかが重要になる。倭人伝を見る限り外交上の重要拠点は伊都国にあり、伊都国の方言が記録された可能性も十分にあるわけである。あくまでも仮説であるが北部九州の三世紀方言が倭人伝に記録されたとすると、琉球方言との関係が生じることはありえないことではない。実際琉球方言は中世に差し掛かるころ本土から南下して行ったとする説が有力になっており、琉球方言に見られる古い特徴を考え合わせれば例えば、北九州など九州のどこかで古く分化をはじめていた方言が南下していった可能性が疑われる。そのような方言が三世紀北部九州方言に近接しいまだk音のh音化現象を起こしていなかったが、潜在的にその性格を保ったまま琉球へ南下していったと考えるのである。北部九州を含む本州日本語各方言は、古墳時代以降近畿方言の言語照射を受けて変容しk音のh音化現象を起こすような性格は失われてしまったが、中世以降離島に隔離された琉球方言のみが古い方言的性格を温存し、方言分化の進行とともにやがて近世に差し掛かるころk音のh音化現象を引き起こしたと考えるのである。(6)(7)(8)

以上の仮説はさておくとして、その起源理由はとにかくも倭人伝にのこされた音韻が上代日本語とは異なる方向性をもち、カ行の発音が暁母すなはちハ行音のような音で表されるように、ある意味で上代日本語よりも早く発音が軟化していた可能性はうかがえる。これは比定においても考慮に値する可能性である。

さらに第二の困難、漢字音に関しても重大な手がかりがつかめている。森氏の分析が中古音を用いて成功していることは、倭人伝の音訳漢字音が基本的には中古音の枠組みで理解できることを示している。しかしながら特徴の8のように上古音の音価も現れていて問題は簡単ではない。これについては森氏の著書では倭人伝の音訳文字の音訳された時代がかなりの期間にわたる可能性を指摘されている。森氏の指摘によれば「奴国」の「奴」、「末盧国」の「盧」がそれぞれ、ナ、ラのような音価を持つとしたら、それは上古音的音価を持っていることになる。「奴」「盧」のような文字は、中古音で模韻に属し、これが上古音的音価を持つとしたら前漢の時代に遡るとされる。音訳文字は古い時代に音訳されたものが、後の時代に継続使用されるケースが多い。例えば「匈奴」は前漢時代の史記にはすでに登場するが、この表記は南北朝の時代まで継続するようである。森氏は倭人伝の国名もこのようなケースであるとされる。一方倭人伝には魏との外交記事も現れ、その中に登場する人名は魏の時代より古く遡ることはできないであろう。このように倭人伝の音訳文字はその音訳時代を確定できない。森氏も著書の中で簡単に触れておられるが、時代差のみならず方言の可能性を考えると事態はさらに複雑になる。(5)倭人伝の音訳文字は孤立した比較対照のない少数資料である上に、このような問題があるためその取り扱いが難しいのである。

このような中で、其餘旁國二十一ヶ国の比定を行なうことは特別な意味がある。すなはち様々な時代の文献をもとに編纂されたと思われる倭人伝の中で、其餘旁國二十一ヶ国は状況から見ておそらく単一の原史料によっていると思われる。おそらく一括して音訳されたであろう。このことは漢字音に関しても、音訳の癖に関しても、一括して取り扱える二十一語四十四文字の音訳文字サンプルであるということを意味するのである。しかもこの史料は後世の何に対応するか確定できない人名や官名と異なって、後世の地名との間にマッピングされるべきものだということが推定されるものなのである。

3.其餘旁國二十一ヶ国の漢字音の性格

さて森氏はその著書(3)の中で、この二十一ヶ国に関して上代日本語との比較において、これらの国々の音訳は前漢時代に遡るものである可能性を指摘された。もちろん漢字音のみで時代を確定することはできず、それが方言音である可能性もある。しかし水谷真成氏によれば(9)王力による南北朝時代の詩の用韻研究の結果地方差よりも時代差の方が大きいとの結果が出ていて、おそらく文献に現れる様な漢字音に関しては実際の会話音とは異なり共通語的色彩が大きく、方言性はあまり表に出てこないと思われる。森氏の指摘はやはり無視しがたい重さがある。方言性が出てくるとしたら、それはそれで特殊な事情を考える必要があるのではないだろうか。

ともあれ、其餘旁國二十一ヶ国の国名の漢字に関してその特徴をみてみよう。(表記は森博達著『倭人伝の地名と人名』による。)

  1. 斯馬
  2. 已百支
  3. 伊邪
  4. 都支
  5. 彌奴
  6. 好古都
  7. 不呼
  8. 姐奴
  9. 對蘇
  10. 蘇奴
  11. 呼邑
  12. 華奴蘇奴
  13. 爲吾
  14. 鬼奴
  15. 邪馬
  16. 躬臣
  17. 巴利
  18. 支惟
  19. 烏奴

注:これらの表記は、版本間では都支が郡支になる例がある。また翰苑に引く魏志では已百支は巴百支となっている。

これらの文字のうち「都」「奴」「古」「呼」「蘇」「吾」「烏」など延べ44文字中18文字が模韻に属し、その割合は四割に達する。森氏は倭人伝音訳文字の全146文字中の37文字が模韻であるとされているので、割合的に其餘旁國二十一ヶ国には模韻字が集中していることが分かる。森氏は特に其餘旁國二十一ヶ国では模韻字の連続が多く、上代日本語にはオ列甲類の連続がまれであることからこれらの模韻は倭人語のア列に相当する音ではないかと推定された。これは上古音的な音価が其餘旁國二十一ヶ国の国名の記述に現れていることを意味する。森氏は中国語の上古音から中古音への変遷期の音韻に関する研究の成果から、このような音価が現れるのは前漢時代以前にあたるとされたのである。

ここで模韻以外の状況もみてみよう。倭人伝の音訳に現れる「支」の文字は、上古音的な音価を取っていると思われるケースがある。例えば「一支」は現在の壱岐であるというのが定見であろうが、このことから「支」の音価は日本語のキに近いものと想定される。これは「支」の上古音に関する一部の仮説に整合する。其餘旁國二十一ヶ国に関しては、「已百支」の用例において「支」が「百」に続いて現れていることが注目される。「百」の古代漢字音は末尾に「k」音を伴うとされ、日本語の子音+母音の音節を表すのには妥当とは言えない文字である。指摘されているように倭人伝の多くの文字が母音終わりの文字を採用しているとすると、ここで子音終わりの文字が使用されたのには理由があると考えられる。もしも「支」の音価が「k」音で始まっていれば「百支」は「百」の末尾の子音と、「支」の頭子音が重なって耳に付かなくなり妥当な用例であると言える(万葉仮名において連合仮名と呼ばれる用法である)。其餘旁國二十一ヶ国の「支」もやはり、上古音的音価をとっていると思われる。

ではこの「支」の音価は時代とともにどのように変化したであろうか。これを見るために他の音訳との比較を試みる。ここでは西域の「月氏」を取り上げる。戦国から前漢までの「月氏」の音訳はどのように行なわれたかを見てみる。(補足2)

「月」には末尾にt音が付随しこのような音の付随しない「牛」の文字と同様に使用されていることからすれば、「氏」の頭子音は「月」の末尾子音を耳だたなくさせるような音であろう。もっと直接に穆天子伝では「氏」に変わって「知」の文字が使用されていることからも、戦国から前漢時代の「氏」の頭子音は舌音系(「t」,「d」,「s」,「z」等のような音)であったと思われる。一方後漢後期以降は経典翻訳の「支婁迦讖」の名などから知られるように、「月支」の表記が現れてくると思われる。(補足3)このことから、少なくとも後漢後期以降は「支」の頭子音の音価は中古音で想定される音価に変化していたと考えられる。(補足4)一方で漢書地理志に見える「令支」に対して、後漢書注に「令音力定反支音巨移反」とある(これは令の音は力の頭子音と定の頭子音を除いた部分をあわせたもの、支の音は巨の頭子音と移の頭子音を除いた部分をあわせたものという意味である)。「令支」は「離枝」等として戦国時代から知られている。この古い地名の表記がなされた時代においては、「支」の音価は確かに上古音的であったことが推論できる。(補足5)このことは其餘旁國二十一ヶ国の音訳の漢字音が、方言音やインフォーマントの問題に目を瞑れば後漢中期以前に遡ることをしめし、森氏が模韻から出した結論と整合的である。

一方で「邪馬」のような表記において、「邪」を先秦の意味での上古音に取るのは上代日本語との関係から妥当ではないと思われる。Baxter等の音価に従えば、「邪」の上古音の頭子音は「l」のような音であったらしい。しかし倭人伝の音訳文字の5番目位置による音韻の制限には、上代日本語と同様の語頭にラ行音がこないという法則が含まれている。「邪」をまったく上古音的に取ることは出来ない。「邪」と同じ頭子音を持つ「弋」に関して、漢書西域伝には「烏弋山離」という音訳が現れる。これはアレキサンドリアを表すとされる。(アレキサンドリアはアレクサンダー大王によって各地に建設された。「烏弋山離」は中央アジアにあったアレクサンドリアとされる。)ここで「烏」は上古音でア、「弋」はレクのような音を表すとされる。これら西域の情報は紀元前126年に漢に帰還した張騫によってもたらされたと思われ、インフォーマントの問題を無視すれば「烏弋山離」は紀元前二世紀後半の音価を表すことになろう。倭人伝の「邪」の頭子音が中古音的音価を持っているとすると、其餘旁國二十一ヶ国の音訳時期も紀元前二世紀後半から十分に降ると想定される。

これらのことを合わせ考えると、其餘旁國二十一ヶ国の音訳時期は前漢末葉の可能性が高い。ただし再三の繰り返しになるが、音訳者の方言性やインフォーマントの問題を無視した上での話となる。其餘旁國二十一ヶ国の成立時期に関しては後に再び触れることにして、ここでは一旦、模韻字や「支」の音価に上古音的音価が表れていることを指摘するに留めることにする。

4.倭人伝国名の特徴

森氏を初めとした先人の研究によって、倭人伝国名比定の困難のうち大きな部分が解消されている。 しかしなお四番以降の問題が残っている。 第四の困難である誤写誤刻を確定できないことは、比定にあっての厳しい壁である。 他の史料に表れる国名はそれでも恵まれていて、旁國二十一ヶ国などは他の史料にほとんど現われないのだから、通常の校勘の手法すら使えないのである。 比定を試みた人の多くが誤写誤刻の問題から目をそむけ、むやみに類似した地名を追いかけることになるのはそのためである。 この困難を第六の困難である国名が単純で短いことと合わせて一旦回避するために、個々の地名の比定ではなく倭人伝国名の全体としての特徴を議論することからはじめたい。

倭人伝には倭の国名として全部で三十の国名が記載されている。下記にそれらの国名を倭人伝における出現順に表記する。(表記は森博達著『倭人伝の地名と人名』による)

  1. 對馬
  2. 一支
  3. 末盧
  4. 伊都
  5. 不彌
  6. 投馬
  7. 邪馬臺
  8. 斯馬
  9. 已百支
  10. 伊邪
  11. 都支
  12. 彌奴
  13. 好古都
  14. 不呼
  15. 姐奴
  16. 對蘇
  17. 蘇奴
  18. 呼邑
  19. 華奴蘇奴
  20. 爲吾
  21. 鬼奴
  22. 邪馬
  23. 躬臣
  24. 巴利
  25. 支惟
  26. 烏奴
  27. 狗奴

注:これらの表記は、版本間では都支が郡支になる例がある。また翰苑に引く魏志では已百支は巴百支となっている。

まず容易に目に付くのは「奴」字を含む国名が多いことである。三十ヶ国中実に九ヶ国に現われるのである。ここでこれら「奴」字を含む国名の現われ方に注目してみよう。倭人伝の国名はまず半島から邪馬臺国に至るルート上の国として、概ね南に向かって八ヶ国が現われ、邪馬臺国より南の詳細の分からない国として其餘旁國二十一ヶ国が続き、最後にその南として狗奴国が現われる。中国人の地理観によれば、倭国の三十ヶ国は概ね出現順に北から南に並んでいることになる。ここでこの地理観が正しいかどうかは度外視して、この国名リストを十ヶ国づつ三分割して「奴」字を含む国名の出現頻度をみてみよう。

(表1)倭人伝国名を三分割
区分国の数「奴」字を含む国の数
1番目−10番目10国1国
11番目−20番目10国4国
21番目−30番目10国4国

はっきりとは分からないが、どうも「南」の方に「奴」字を含む国が多そうである。

内容に関してもう少し検討してみよう。邪馬臺国は全体の八番目に現れるので、1番目−10番目の間に「奴」字を含む国が少ないのは倭国に入ってから邪馬臺国に着くまでの道順に、比較的「奴」字を含む国が少ないことが貢献している。11番目以降に「奴」字を含む国が多くなるのは、邪馬臺国より南とされる其餘旁國二十一ヶ国に「奴」字を含む国が多いことが寄与している。一見して「奴」字を含む国に地域的偏在があるように見えるが、これは其餘旁國二十一ヶ国の位置づけに大きく依存している。倭人伝においてこの二十一ヶ国の扱いは、「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」であって、実は邪馬臺国より南と言っても詳細は分からないのである。実際には「其餘旁國遠絶」とするように、北部九州からはるかに二ヶ月の行程の、邪馬臺国の周辺のあたりにあったと見ておいたほうが無難かもしれない。そこでためしにこの二十一ヶ国を三分してみると

  1. 斯馬
  2. 已百支
  3. 伊邪
  4. 都支
  5. 彌奴
  6. 好古都
  7. 不呼
  8. 姐奴
  9. 對蘇
  10. 蘇奴
  11. 呼邑
  12. 華奴蘇奴
  13. 爲吾
  14. 鬼奴
  15. 邪馬
  16. 躬臣
  17. 巴利
  18. 支惟
  19. 烏奴
(表2)其餘旁國二十一ヶ国を三分割
区分国の数「奴」字を含む国の数
1番目−7番目7国1国
8番目−14番目7国3国
15番目−21番目7国3国

やはり、リストの先のほうに「奴」字を含んだ国が多い。この二十一ヶ国がきっかり邪馬臺国の南になくとも、概ねその周辺にあって順序にある程度の意味があれば、倭国における「奴」国の分布の傾向は変わらないであろう。

ここでこのような傾向を、後の地名と比較するすることを考える。全体的な傾向であるので少数の誤字であれば影響を受けないであろう。また国名が単純であることもあまり影響しない。しかしながら比較する後の地名に対しては条件がある。すでに第六の困難として述べたように、比較する後世の地名は時代が下るほど変遷を経て古い特徴が失われ、新たな地名の割合が増えていくであろう。なるべく古い地名と比較することが必要であるが、一方で地名の傾向を比較するためには、全国的にある程度の均質さを保った地名の記録が必要である。風土記のように残されたものが一部地方に偏るものや、古事記日本書紀のように話の展開に応じて地名の現れるものは不適である。いま最も古く地名の一覧性を持つものとして和名抄を採用しよう。すでに述べたように森博達氏など先人の研究に従えば、この「奴」は倭人の言語の「ナ」を表音したものである可能性が高いことになる。現れる国名は「奴」単独二箇所と「奴」で終わる国名七箇所である。和名抄でこれに対応するものがあるとすれば、まず最初の候補は「ナ」で終わる地名であろう。(補足6)和名抄採録の地名のうち、粒度をそろえるため郷名に絞って表3にリストする。さらにその推定地を日本地図にマップしたものが図1である。ただし郷名の読み、および推定地はいずれも日本歴史地名大系による。(12)

(表3)和名抄の「ナ」終わり郷名
番号道名国名郡名郷名読み所在県
1畿内山城国宇治郡山科郷やましなごう京都市
2畿内和泉国大鳥郡塩穴郷しおあなごう大阪府
3畿内摂津国川辺郡為奈郷いなごう兵庫県
4山陽道備前国磐梨郡礒名郷いそなごう岡山県
5山陽道備中国小田郡魚渚郷いおすなごう岡山県
6西海道対馬国上県郡伊奈郷いなごう長崎県
7東海道三河国八名郡八名郷やなごう愛知県
8東海道常陸国茨城郡立花郷たちばなごう茨城県
9東海道常陸国河内郡島名郷しまなごう茨城県
10東海道常陸国信太郡朝夷郷あさひなごう茨城県
11東海道武蔵国秩父郡上科郷かみしなごう埼玉県
12東海道武蔵国入間郡高階郷たかしなごう埼玉県
13東海道伊勢国桑名郡桑名郷くわなごう三重県
14東海道相模国愛甲郡英那郷あきなごう神奈川県
15東海道武蔵国橘樹郡橘樹郷たちばなごう神奈川県
16東海道武蔵国久良郡洲名郷すなごう神奈川県
17東海道遠江国山名郡山名郷やまなごう静岡県
18東海道遠江国城飼郡朝夷郷あさひなごう静岡県
19東海道遠江国長下郡貫名郷ぬきなごう静岡県
20東海道駿河国益頭郡朝夷郷あさひなごう静岡県
21東海道駿河国富士郡姫名郷ひなごう静岡県
22東海道駿河国廬原郡河名郷かわなごう静岡県
23東海道駿河国廬原郡西奈郷せなごう静岡県
24東海道上総国海上郡島穴郷しまなごう千葉県
25東海道上総国周淮郡山名郷やまなごう千葉県
26東山道上野国群馬郡島名郷しまなごう群馬県
27東山道上野国佐位郡淵名郷ふちなごう群馬県
28東山道上野国多胡郡辛科郷からしなごう群馬県
29東山道上野国多胡郡山字郷やまなごう群馬県
30東山道上野国利根郡笠科郷かさしなごう群馬県
31東山道上野国利根郡男信郷なましなごう群馬県
32東山道近江国坂田郡阿那郷あなごう滋賀県
33東山道信濃国安曇郡前科郷さきしなごう長野県
34東山道信濃国更級郡小谷郷おうなごう長野県
35東山道信濃国更級郡更級郷さらしなごう長野県
36東山道信濃国更級郡当信郷たしなごう長野県
37東山道信濃国更級郡氷郷ひかなごう長野県
38東山道信濃国高井郡小内郷おうなごう長野県
39東山道信濃国高井郡穂科郷ほしなごう長野県
40東山道信濃国小県郡童女郷おうなごう長野県
41東山道信濃国埴科郡大穴郷おおなごう長野県
42東山道信濃国埴科郡倉科郷くらしなごう長野県
43東山道陸奥国宇多郡高階郷たかしなごう福島県
44東山道陸奥国行方郡吉名郷よしなごう福島県
45南海道伊予国越智郡立花郷たちばなごう愛媛県
46南海道伊予国温泉郡立花郷たちばなごう愛媛県
47南海道伊予国新居郡立花郷たちばなごう愛媛県
48南海道日向国那珂郡新名郷にいなごう宮崎県
49南海道淡路国津名郡津名郷つなごう兵庫県
日本地図

(図1)和名抄の「ナ」終わり郷名分布

分布は瀬戸内方面から始まってはいるが一見してその中心は中部以東にあり、静岡県から南関東と長野北部から群馬県の二つの地域に分かれる。長野北部から群馬県埼玉県には「シナ」終わりの郷名が多く特徴的である。いつの時代かはわからないが何がしかの文化要素で見たとき、内陸部と沿海部にそれぞれ個性を持った地域文化があったようである。しかし三世紀倭人伝と比較するには、あまりに東方に分布が偏っているように思われる。和名抄の成立は十世紀。郡郷名の載る国郡部については二十巻本にあり時代が下るとする説もあるが、和名類聚抄郷名考證(1)によると九世紀の地名との一致度が高いことから、九世紀ごろ成立の原史料に基づくとする。和名類聚抄郷名考證の説に従うとしても、倭人伝から600年は経過している。しかも一方は中国の正史に現れた東夷の小国の国名、一方は律令の行政区画名である。簡単な比較は難しくて当然であろう。もちろんだからといって比較自体に意味がないわけではない。倭人伝「對馬」が和名抄「対馬」、倭人伝「一支」が和名抄「壱岐」、倭人伝「末盧」が和名抄「松浦」、倭人伝「伊都」が和名抄「怡土」に対応し、少なくとも最初の四カ国に関しては、和名抄は良い対応を示しているからである。しかし肝心の「奴」に関しては、和名抄には期待される「那」のような地名は現れないことも事実である。そこで次節ではまず倭人伝などによってその位置が確実と思われる「奴」国に関して文献上その地名の遷移を追い、引き続いて「奴」終わり地名に関して考察する。

5.「奴」地名の変遷

歴史上もっとも早く現れる倭の国名は「奴」である。五世紀南北朝の劉宋時代に編纂された後漢書に、

「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。」

と現れる。倭人伝には北部九州の戸数二万の大国として表れ、その比定地は倭人伝の文面から見て北部九州であることは間違いない。また考古学的にも福岡県春日市の須玖岡本遺跡には、紀元前にさかのぼる王墓と思われるものも発見されている。地名の観点で言うと日本書紀仲哀紀に儺縣、宣化紀に那津、と表れることから、古く博多湾近くに「ナ」の地名があったことも分かり、「奴」が古代の「ナ」に対応することは疑いあるまい。しかしながら、和名抄にはこのあたりに「ナ」地名は存在しないのである。「奴」地名に関しては和名抄は時代が下がりすぎて、単純な比定には無理があると思われる。日本書紀斉明紀斉明天皇七年条には

「三月丙申朔庚申。御船還至于娜大津。居于磐瀬行宮。天皇改此名曰長津。」

とあり、斉明天皇七年(紀元661年)に娜大津が長津に改名されたとする。これからすると、「ナ」は「ナガ」に改名されたと思われるが、紀元前の王墓の発見された須玖岡本遺跡は和名抄の筑前国那珂郡にあたり、古代の「ナ」地名は(しばしば古代においては清濁が通音的に区別されないことを考慮すれば)和名抄の「ナカ」/「ナガ」地名に対応する可能性が出てくる。この地名の改名に関してよく似た例がほかにも存在する。日本書紀白雉元年(紀元650年)に

「二月庚午朔戊寅。穴戸國司草壁連醜經獻白雉曰。」

と表れる穴戸國は、日本書紀天智天皇四年(紀元665年)には

「秋八月。遣達率答、春初築城於長門國。」

とあって長門國となっている。いずれも「長」字を含む地名に変わっていて改名の時期も同じ可能性がある。「長」字は「大」字とともに美称としての意味もあるらしく、穴戸國の場合には「穴」を嫌って改名している可能性もある。(補足7)しかし何の根拠もなく地名が改名されたとも思われず、両者とも七世紀前半には格助詞「が」の浸潤を伴って、

「那津」:ナツ→ナがツ:「長津」

「穴戸」:アナト→アナがト:「長門」

のような変化を経たと考える。筑前国那珂郡あるいは那珂郷の場合は、ここからさらに和銅6年(713年)の諸国郡郷名著好字令(好字二字令)により、

「長」→「那珂」

の用字変化を起こしたのであろう。

倭人伝の単独の「奴」の場合は「ナガ」/「ナカ」地名に転じているとして、「奴」終わりの地名はどのように変化したであろうか。このようなことを考えるにあたって、「奴」字終わりの国に関してほとんど分からないことが障害となる。倭人伝の「奴」字終わりの国名について考察してみよう。倭人伝においては三十ヶ国の国の内、三割の九ヶ国が「奴」字を含み、七ヶ国が「奴」字終わりである。このように多くの国名が「奴」字で終わっていること、単独の「奴」国が現われることから、これらの国々のすべてではないにしろ大多数の国名においては「奴」が一語をなし、「奴」字終わりの国名は複合語であると考えられる。すなはち今「奴」字に先行する部分を「○」で表し、これら国名を「○奴」と表記することにすると

「○奴」=「○」+「奴」

のように単語分解できるであろう。ここで先行する部分は何を表しているのだろうか。このような国々のなかで倭人伝中比較的多くの情報を持つ「狗奴」国に関してみてみよう。

国名:狗奴

官名:狗古智卑狗

王名:卑彌弓呼

王名の「卑彌弓呼」を倭国王「卑彌呼」と比べてみれば、「弓」字が余分に入っているだけである。この「弓」はしばしば「ク」「コ」などと読まれ、国名「狗奴」官名「狗古智卑狗」の「狗」と同音をあらわしている可能性がある。王名を特徴付ける音節が、国名を特徴付ける音節や官名の頭音と同じであるとすれば、この音節は「狗奴」を特徴付ける何かをあらわしている可能性がある。ただ残念ながら「狗奴」には定説といえるほどの、後世地名との対応は求められていない。熊襲、熊本などの「クマ」に対応させる説や、遠江国山名郡久怒郷の「クノ」に対応させる説があるが決め手を欠く状況と言わざるをえない。「狗奴」以外の「○奴」国はすべて、其餘旁國二十一ヶ国に表れる。それら地名の中に後世地名と比較しうるものはあるであろうか。

第一節において倭人伝地名の比定を困難にしている原因のひとつとして、地名が単純で短いことを挙げた。これは特に其餘旁國二十一ヶ国に言える事である。したがって個別の国名比定を行うにあたっては、短い地名は避けたほうがよい。もちろん「ヤマ」「シマ」をあらわす様なありふれた地名も避けたほうが良い。このように考えると、比定の候補の筆頭に上がってくるのが「華奴蘇奴」である。この国名は四文字表記であり倭人伝地名の中でもっとも長い。しかも一見すると変わった地名のようである。さらに今必要としている「奴」字終わりの国名でもある。森氏の仮説に従うとこのうち「奴」「蘇」は上古音的音価をとることになるから、それぞれ倭人語の「ナ」「サ」を表したものと受け取れる。問題は「華」の音価であるが、上古推定音に従うと「グワ」のような音価になり日本語的ではない。「邪」に関してすでに議論したようにある程度の中古音化を想定すると、「ワ」を表したものと考えるのがもっともありそうである。実は「華」字は合口という特色を持った文字で、「華」字と同じ頭子音を持つ合口の文字は、万葉仮名では「ワ」行音を表すことが多い。「和」もそのひとつである。(補足8)以上の議論より「華奴蘇奴」は「ワナサナ」のように読まれるべきであろう。

では「ワナサナ」は後世のどのような地名に該当するであろうか。まず「ワナサナ」は

「ワナサ」+「ナ」

のように分解されるであろう。古代地名大辞典(13)や大日本地名辞書(14)によって調べると、「ワナサナ」に該当する地名は発見できず「ワナサ」に関しては下記の候補が挙げられた。

1.播磨国風土記の美嚢郡志深里の由来伝承に

「朕於阿波国和那散所食之貝哉」

として表れる和那散

2.出雲国風土記の意宇郡来待川条に表れる和奈佐

大原郡船岡山条に

阿波枳閉委奈佐比古命。曳來船則化是也。故云船岡

として表れる委奈佐

3. 丹後国風土記に表れる和奈佐翁、和奈佐

これら風土記の「ワナサ」に関しては、折口信夫氏(15)や谷川健一氏(16)によれば、本来は阿波にその起源があるとされる。徳島県南部に式内社和奈佐意富曽神社がある。萬葉集註釋に引く阿波国風土記にある奈佐の浦は現在の那佐湾にあたると言い、阿波学会研究紀要(17)によれば、和奈佐意富曽神社も慶長9年以前には那佐湾近くにあったとされる。和名抄の阿波国那賀郡和射(わさ)郷もおそらくその遺称地であり、阿波国那賀郡南部後の海部郡一帯であろう。

「ワナサ」を阿波南部に比定することに関して、三世紀倭国を代表する三十ヶ国のひとつにしては、その地名があまり知られていない事に疑問を抱かれるかもしれない。しかし「ワナサ」は現存するものだけでも三つの風土記に登場する。播磨国風土記も出雲国風土記も海産物や船のように海に関する地名として取り上げていることは、この地名が古代において海に関連してよく知られた地名であったことを物語っている。「ワナサ」が有名でないのは古事記や日本書紀に取り上げられていないからであり、それは二書が中央の歴史書であることに理由を求められるのではないか。倭国がまだ数多くの国々の集まりであった時代の構成国の国名リストに載る地名が、中央集権を成し遂げて後の中央の史書に記されておらず、地方に関して記した書に表れるのは考えてみれば不思議なことではない。

ただ「ワナサ」の和名抄における遺称地を阿波国那賀郡和射郷とした場合、「ワナサ」の想定地は阿波南部の阿南海岸沿いに求められ、このことが別の疑問を引き起こす。すなはちこの地域はあまり弥生遺跡/前期古墳時代遺跡が豊富ではなく、やはり三十ヶ国のひとつとしては不足なのではないかと考えられるのだ。ここでまさにこの地域が古代の那賀郡の一部であったことに思い当たる。徳島県南部の古代の那賀郡にあたる那賀川流域には弥生を含む古代遺跡が多くあり、有数の銅鐸出土地域である。(18)この地域は日本書紀允恭紀に「長邑」として表れ、平城宮出土木簡にも

「阿波国長郡坂野里百済部伎弥麻呂」

と表れるように、ここはかって「長」字をもって表記された地域である。北部九州の「奴」国に関して考察したようにこれはもともとの「ナ」地名であろう。「ナコホリ」から格助詞「が」の浸潤を伴って「ナがコホリ」として生じたものに、七世紀前半になって「長」の字が当てられたものであろう。「那賀」の用字はやはり好字二字令によると思われる。(補足9)

ここでひとつの仮説が浮かんでくる。「ワナサ」は古代社会にあってこの地域の地域性を象徴するような語であり、「ワナサナ」は一体の地名ではなく本来は単に「ナ」と呼ばれた国があったのではないか。すなはち弥生遺跡の豊富で多くの銅鐸の見つかっている那賀川流域が、古代の「ナ」国すなはち「奴」国の有った場所であり、朝見国のリスト上でそれを北部九州の「奴」国と区別するために、この地域を代表する「ワナサ」という地域性を表す語を冠したのが「ワナサナ」ではないか。そのように考えるとその他の「奴」字終わりの国々も、大多数は本来「ナ」と呼ばれた国々であって、倭人伝の基礎史料となった文献において倭人の朝貢国をリストする際に、同名の国名を区別するためにあえて何がしかの特徴を冠したものではないだろうか。たとえば「華奴蘇奴」と「狗奴」はそれぞれ「ワナサ」や「ク」ないし「コ」という、部族名、神名あるいは地域名を冠した「奴」国であったのではなかろうか。(補足10)これは直ちに、倭人伝においてなぜ「奴」国が重複するのかという疑問を引き起こすが、この疑問に関しては後の節において触れる。

このような観点に立ったとき、倭人伝の「奴」字を含む地名に対応する和名抄の地名は、「ナカ」/「ナガ」始まりの地名であるということになる。ただし、単一の「ナ」地名から、「長津」「長岡」「那珂」のように複数の地名が派生していると考えられる。倭人伝の地名は短くプリミティブなものであり、後世地名の多くはそれに他の地名要素が付加していると考えるのが妥当であると考える。次節では和名抄における「ナカ」/「ナガ」始まりの郷名の分布について考察する。

6.和名抄における「ナカ」/「ナガ」始まりの郷名分布

和名抄採録の地名のうち粒度をそろえるため郷名に絞って表4にリストする。さらにその推定地を日本地図にマップしたものが図2である。ただし郷名の読みおよび推定地はいずれも日本歴史地名大系による。(12)

(表4)和名抄の「ナカ」/「ナガ」始まりの郷名
番号道名国名郡名郷名読み所在県
1畿内山城国乙訓郡長岡郷ながおかごう京都府
2畿内山城国綴喜郡中村郷なかむらごう京都府
3畿内河内国志紀郡長野郷ながのごう大阪府
4畿内摂津国西成郡長溝郷ながみぞごう大阪府
5畿内大和国宇智郡那珂郷なかごう奈良県
6畿内大和国吉野郡那珂郷なかごう奈良県
7畿内大和国山辺郡長屋郷ながやごう奈良県
8畿内大和国忍海郡中村郷なかむらごう奈良県
9畿内大和国平群郡那珂郷なかごう奈良県
10畿内摂津国八部郡長田郷ながたごう兵庫県
11山陰道但馬国美含郡長井郷ながいごう兵庫県
12山陰道但馬国養父郡長田郷ながたごう兵庫県
13山陽道備前国邑久郡長沼郷ながぬごう岡山県
14山陽道備中国英賀郡中井郷なかついごう岡山県
15山陽道美作国久米郡長岡郷ながおかごう岡山県
16山陽道備後国深津郡中海郷なかうみごう広島県
17山陽道周防国吉敷郡仲河郷なかがわごう山口県
18山陽道播磨国加古郡長田郷ながたごう兵庫県
19山陽道播磨国佐用郡中川郷なかつがわごう兵庫県
20山陽道播磨国多可郡那珂郷なかごう兵庫県
21山陽道播磨国揖保郡中臣郷なかとみごう兵庫県
22西海道大隅国桑原郡仲川郷なかつがわごう鹿児島県
23西海道豊後国玖珠郡永野郷ながのごう大分県
24西海道壱岐国壱岐郡那賀郷なかごう長崎県
25西海道筑後国御原郡長栖郷ながすごう福岡県
26西海道筑後国竹野郡長栖郷ながすごう福岡県
27西海道筑前国御笠郡長岡郷ながおかごう福岡県
28西海道筑前国上座郡長渕郷ながふちごう福岡県
29西海道筑前国那珂郡那珂郷なかごう福岡県
30西海道筑前国那珂郡中嶋郷なかしまごう福岡県
31西海道筑前国夜須郡中屋郷なかつやごう福岡県
32西海道筑前国怡土郡長野郷ながのごう福岡県
33西海道豊前国企救郡長野郷ながのごう福岡県
34西海道豊前国仲津郡仲津郷なかつごう福岡県
35西海道豊前国仲津郡中臣郷なかとみごう福岡県
36東海道尾張国愛智郡中村郷なかむらごう愛知県
37東海道尾張国海部郡中島郷なかしまごう愛知県
38東海道常陸国鹿島郡中島郷なかしまごう茨城県
39東海道常陸国鹿島郡中村郷なかむらごう茨城県
40東海道常陸国信太郡中家郷なかべごう茨城県
41東海道常陸国真壁郡長貫郷ながぬきごう茨城県
42東海道常陸国那賀郡那珂郷なかごう茨城県
43東海道武蔵国賀美郡中村郷なかむらごう埼玉県
44東海道武蔵国男衾郡中村郷なかむらごう埼玉県
45東海道武蔵国秩父郡中村郷なかむらごう埼玉県
46東海道武蔵国那珂郡那珂郷なかごう埼玉県
47東海道武蔵国那珂郡中沢郷なかさわごう埼玉県
48東海道武蔵国幡羅郡那珂郷なかごう埼玉県
49東海道伊賀国伊賀郡長田郷ながたごう三重県
50東海道伊勢国安濃郡長屋郷ながやごう三重県
51東海道伊勢国河曲郡中跡郷なかとごう三重県
52東海道伊勢国多気郡流田郷ながれたごう三重県
53東海道伊勢国飯野郡長田郷ながたごう三重県
54東海道伊勢国鈴鹿郡長世郷ながせごう三重県
55東海道甲斐国八代郡長江郷ながえごう山梨県
56東海道相模国大住郡中島郷なかじまごう神奈川県
57東海道相模国余綾郡中村郷なかむらごう神奈川県
58東海道伊豆国那賀郡那賀郷なかごう静岡県
59東海道遠江国長下郡長野郷ながのごう静岡県
60東海道遠江国長上郡長田郷ながたごう静岡県
61東海道駿河国駿河郡永倉郷ながくらごう静岡県
62東海道安房国平群郡長門郷ながとごう千葉県
63東海道下総国印旛郡長隈郷ながくまごう千葉県
64東海道下総国匝瑳郡長尾郷ながおごう千葉県
65東海道下総国匝瑳郡中村郷なかむらごう千葉県
66東海道上総国夷隅郡長狭郷ながさごう千葉県
67東海道上総国天羽郡長津郷ながつごう千葉県
68東海道上総国武射郡長倉郷ながくらごう千葉県
69東山道陸奥国磐井郡仲村郷なかむらごう岩手県
70東山道美濃国安八郡那珂郷なかごう岐阜県
71東山道美濃国安八郡長友郷ながともごう岐阜県
72東山道美濃国賀茂郡中家郷なかついえごう岐阜県
73東山道美濃国各務郡那珂郷なかごう岐阜県
74東山道美濃国席田郡那珂郷なかごう岐阜県
75東山道陸奥国栗原郡仲村郷なかむらごう宮城県
76東山道陸奥国新田郡仲村郷なかむらごう宮城県
77東山道陸奥国長岡郡長岡郷ながおかごう宮城県
78東山道上野国群馬郡長野郷ながのごう群馬県
79東山道上野国吾妻郡長田郷なかたごう群馬県
80東山道上野国片岡郡長野郷ながのごう群馬県
81東山道上野国邑楽郡長柄郷ながらごう群馬県
82東山道出羽国村山郡長岡郷ながおかごう山形県
83東山道出羽国置賜郡長井郷ながいごう山形県
84東山道近江国愛知郡長野郷ながのごう滋賀県
85東山道近江国坂田郡長岡郷ながおかごう滋賀県
86東山道出羽国河辺郡中山郷なかやまごう秋田県
87東山道出羽国雄勝郡中村郷なかむらごう秋田県
88東山道信濃国水内郡中島郷なかしまごう長野県
89東山道陸奥国宇多郡長伴郷ながともごう福島県
90東山道陸奥国宇多郡仲村郷なかむらごう福島県
91東山道陸奥国会津郡長江郷ながえごう福島県
92東山道陸奥国白河郡長田郷ながたごう福島県
93南海道伊予国風早郡那賀郷なかごう愛媛県
94南海道讃岐国鵜足郡長尾郷ながおごう香川県
95南海道讃岐国寒川郡長尾郷ながおごう香川県
96南海道讃岐国香川郡中間郷なかつまごう香川県
97南海道讃岐国多度郡仲村郷なかむらごう香川県
98南海道土佐国吾川郡仲村郷なかむらごう高知県
99南海道阿波国名東郡名方郷なかたごう徳島県
100南海道紀伊国那賀郡那賀郷ながごう和歌山県
101北陸道越後国魚沼郡那珂郷なかごう新潟県
102北陸道加賀国江沼郡長江郷ながえごう石川県
103北陸道加賀国石川郡中村郷なかむらごう石川県
104北陸道能登国能登郡長浜郷ながはまごう石川県
105北陸道越中国礪波郡長岡郷なかおかごう富山県
106北陸道越前国今立郡中山郷なかつやまごう福井県
107北陸道越前国足羽郡中野郷なかのごう福井県
日本地図

(図2)「ナカ」/「ナガ」始まりの郷名分布

「ナカ」/「ナガ」始まりの郷名分布を見ると、密度の高い地域は三つに分かれていることがわかる。一番目は北部九州で二番目の地域は東部瀬戸内から濃尾平野西部地域である。そして三番目の地域は関東から東北である。一番目の地域が倭人伝で最初に登場する「奴」国、二番目の地域がそこから遠方の其餘旁國二十一ヶ国の地域とみなすことができそうである。一方関東から東北にかけての分布はあまりに東方によりすぎていて、特に東北地域の北部は、倭国の領域に入るのが律令時代まで下がりそうな地域であり、古代の「ナ」地名に関連付けるのは無理そうに見える。次節ではこの東方の分布域に関して考察する。

7.関東・東北の分布

ここで二番目の地域と三番目の地域の間にあるギャップに着目してみよう。このようなギャップが存在することは、西の古代の先進地域からの文化要素のある部分の伝播が阻害されたことを示すのではないだろうか。しかも分布はこのギャップを乗り越えて関東東北方面に広がっていっている。分布図をみると内陸部を避けて海岸部から回り込んでいるようにも見える。二番目の近畿周辺地域が古墳時代以降の倭国の中心地であることを考えると、古墳時代以降の関東・東北への人口移動により生じた二次的分布ではなかろうか。古墳時代以前の弥生後期までの関東は、西部が隣接する中部地域と深いかかわりを持っていたとされる。弥生後期には群馬西部は長野北部地域と、南関東は駿河湾方面とかかわりを持っていたようである。(19)(20)(21)ここで第4節の図1を見ていただきたい。「ナ」終わり地名の分布は長野北部から群馬と静岡から南関東にかけて密度が濃く、二つのそれぞれ個性を持った地域をなしていた。この地名分布は古墳時代以前の地域性になんらかの関係があるのではないか。またこれらの分布密度の濃い部分は近畿を中心とした「ナカ」/「ナガ」始まり地名の、密度の濃い地域の途切れた地域の東から始まる。「ナカ」/「ナガ」始まり地名と「ナ」終わり地名には対立的要素があったのではないか。

日本地図

(図3)「ナカ」/「ナガ」始まりと「ナ」/「シナ」終わり郷名分布

そこで両者の混在する関東地域をクローズアップしてみる。

日本地図

(図4)関東の「ナカ」/「ナガ」始まりと「ナ」終わり郷名分布

関東は両者の混在する状況ではあるが、「ナカ」/「ナガ」始まりの郷名は太平洋岸の神奈川、千葉、茨木の分布と、内陸の埼玉、群馬の分布に大別できる。内陸の分布に関しては、一部が利根川右岸に連なるようにみえる。「ナカ」/「ナガ」始まりの地名を伴う文化は濃尾平野東部のラインで一旦停止したあと、詳細な時代は分からないが古墳時代開始期以降に太平洋岸を東進し、南関東からやがて利根川をさかのぼる様に群馬県に至ったものだろうか。関東に至った後関東豪族の北上に伴って東北方面に展開して行ったのではなかろうか。

ここまで「ナカ」/「ナガ」始まりと「ナ」終わりに関して、対立する文化圏のごとく取り扱ってきた。はたしてこの対立はどの程度のものだったか。私はおそらく方言差程度のものではなかったかと思う。つまり同じように浸透してきた「ナ」地名に、他の地名要素(○で表記する)を加えて地名を派生させる際に

瀬戸内東部から濃尾西部:「ナ」+「○」→「ナ○」

遠江から南関東、信野から北西関東:「○」+「ナ」→「○ナ」

のように、その語順が逆になったのではないだろうか。やがて「ナ○」のような地名は七世紀までに格助詞の浸潤を伴って、「ナが○」のように発音されるようになり、七世紀中ごろに「長」字を用いて「長○」のように表記されるようになったのではないか。このような地名がもとになって、和名抄の時代に「長○郷」「中○郷」あるいは「ナ」単独のケースでは「那賀郷」「那珂郷」のような地名が生じたのではないだろうか。以下のような地名の対比を見てみると面白い。

長浜(ナがハマ):浜名(ハマナ)

中山(ナかヤマ):山名(ヤマナ)

那珂川(ナかカワ):河名(カワナ)

長淵(ナがフチ):淵名(フチナ)

中部から関東の内陸にある「シナ」終わりの地名に関しては、分布の中心である信濃「シナノ」に何らかのかかわりがあるかもしれないが、この地域においてまず「ナ」から「シナ」が派生しさらに多くの「シナ」終わり地名を派生させたのかもしれない。(補足11)

ここではすべての「ナカ」/「ナガ」始まり地名や「ナ」終わり地名が、古代の「ナ」地名に起源を持つとしているのではないことを指摘しておきたい。すでに見たように「長門」は「ナ」地名起源ではない。また関東・東北に後世になって「ナカ」/「ナガ」始まり地名が浸透してきたと主張することは、すなわちそれ以外の地域でも、かなりの地名が後世の成立である可能性を認めることになるのである。次節で「ナカ」/「ナガ」始まり地名のうち、どの程度が古代の「ナ」地名から派生したのか考察したい。

8.九州の分布

「ナカ」/「ナガ」始まり地名のうちどの程度が古代の「ナ」地名に遡りうるのかを考えるにあたって、参考になるのが九州における分布である。なぜなら確実に古代において「ナ」地名があったことが分かるのは、今のところ北部九州だけだからである。九州における「ナカ」/「ナガ」始まりと郷名分布に、「奴」国の境界祭祀とされる銅戈・銅矛の埋納遺跡の分布を重ねたものを下記に示す。

日本地図

(図5)九州の「ナカ」/「ナガ」始まり郷名分布と奴国の境界祭祀

図中で奴国の境界祭祀としたものは、寺沢氏の王権誕生(22)による。これらは銅戈・銅矛の集中埋納遺跡の一部であるが、同書において「奴」国とその周辺諸国が敵対者を呪詛する境界祭祀であったとして挙げられたものである。寺沢氏は弥生中期後半における「奴」国を中心とする緊張関係を示すものとされる。図5を見るとこれらの埋納遺跡は博多湾側から筑後平野北東部に向けて分布しており、同時にほぼそのあたりが「ナカ」/「ナガ」始まりの郷名の特に集中する地域でも或る。三世紀の倭人伝には「奴」国は戸数二万の大国として表れており、その地域は博多湾に収まりきらないとする見解がある。また同書によると北部九州の青銅器生産は筑後平野に始まり、弥生後期には「奴」国の中枢部である博多湾側に集約されてくるという。弥生中期後半に埋納遺跡の表れる地域は「奴」国との政治的緊張の後、次第にひとつにまとまっていったのではないだろうか。すなはち中期後半の「奴」国関連の境界祭祀遺跡としての埋納遺跡と、「ナカ」/「ナガ」始まりの郷名の集中する地域は、弥生後期の「奴」国の領域なのではないか。この地域の長岡、長淵などの地名の起源は斉明紀の長津「ナがツ」同様に、「ナがオカ」「ナがフチ」などに遡るのではないだろうか。

九州には全部で14の「ナカ」/「ナガ」始まりの郷名があり、上記の集中地域には全部でその半分の7つがある。これから「ナカ」/「ナガ」始まりの地名のうち、古代の「ナ」地名から派生したものは全体の半分以下であると見積もれる。北部九州の集中地域の周辺に比較的「ナカ」/「ナガ」始まりの地名が多いのは、中心地域からの流出の可能性がある。多くの氏族は地名を名乗り、他の土地へ移転するとしばしば地名も移るのである。宮崎県の「那珂郡」は中臣氏との関係が指摘される他、南九州の仲川郷も大分県の仲津郷からの転であるとされる。大分県の仲津郡には中臣郷の名が見え、九州西岸に見られる地名は中臣氏起源かもしれない。

もしも和名抄の郷名分布から倭人伝の時代に関する情報が得られるとしても、それははるかな昔から届けられたぼやけた残像に過ぎないであろう。だれもそれが真に600年以上の歳月を超えて、三世紀以前から九世紀にまで伝えられた情報であるかどうかその確証を得ることはできない。なぜなら八世紀初頭以前の文献資料はなく、地名がどのように変遷したか確認するすべがないからである。しかし地名比定が後世の地名とのマッピングを与えるものである限り、これは地名比定そのものの持つ原理的限界と考えられる。したがって私はこれから述べる地名比定に関する仮説について、ここに礎を置くことに躊躇する理由はないと考える。

9.古代「奴」地名に関する仮説

ここで本稿での古代「奴」地名に関する仮説を明示し、検討を進めよう。

1.倭人伝に見える「奴」字を含む国名の多くは本来単に「奴」国であり、国名リストにおいて区別するためにそれぞれの国の何らかの特徴を冠した物である。

2.和名抄に見える「ナカ」「ナガ」始まり「ナ」終わり地名の一部は、倭人伝に見える「奴」字を含む国名に関連する地名の「ナ」から派生したものであり、関東・東北地方の分布を除いて倭人伝に見える「奴」字を含む国名の分布に関連する。

すでに触れたように上記仮説の1.は直ちに、倭人伝においてなぜ「奴」国が重複するのかという疑問を引き起こす。また仮設の2.も「奴」国の多くが瀬戸内東部以東に存在し、北部九州の二万戸の大国である「奴」国が飛び離れて存在するという疑問がある。「奴」国が重出することに関しては古くから疑問とされていたが、「奴」国が二つあったという説や、北部九州からぐるりと一回りして「奴」国に戻っているという説もあった。しかしそもそも国名の重出を避けるためにそれぞれの国の特徴を冠したのであれば、そのような説は成立しない。また何らかの文字の脱落を想定する説もあるが、よりによって女王の南限を示す国の名前で脱落を起こすであろうか。倭人伝に関しては、その用語/文体の違いや内容の矛盾などから複数の史料をつなぎ合わせたとされており、重出を説明するには其餘旁國二十一ヶ国が今は失われた異なる史料から挿入されたと考えるのが最も妥当であると考える。

「奴」国の多くが北部九州の大国である「奴」国から離れて存在する理由は、これら遠方の「奴」国が成立したのは大国の「奴」国の政治的影響でなく文化的流行であると考えると納得がいく。下記は東京都における銀座地名の分布である。中心の銀座の周辺に銀座地名が存在しない領域がある。(23)

日本地図

(図6)東京都における銀座地名の分布

本家の銀座の隣には銀座地名は付けられない。同じように北部九州の大国「奴」国と文化的つながりの強い地域には、同じ国名を名乗る国々は現れなかったのではなかろうか。「ナカ」「ナガ」地名が高い密度を示すのは瀬戸内東部以東である。そして「ナ」地名の推定分布域は中部から関東西部の「ナ」終わり地名を含み、その領域は概ね弥生時代の東方の青銅器文化地域、たとえば出雲を除いた銅鐸を主な祭器とする地域に重なるように見える。

日本地図

(図7)和名抄郷名からみた「奴」国の推定分布地域

出雲に関しては全体に日本海側に密度の薄い地域があり、別の要因を考える必要がありそうである。

10.中国史からの視点

さて前節のような解釈を行うと次の疑問が引き起こされる。

1.其餘旁國二十一ヶ国が記録されたのは何時で、記録されたのはどのような文献か

2.其餘旁國二十一ヶ国を倭人伝に位置づけるにあたり、「邪馬臺」国の旁ないし以南と位置づけられたのはなぜか

3.其餘旁國二十一ヶ国が記録された際、北部九州の「奴」国はなぜ比較的よく似た地域性を示す北部九州ではなく、東方の異なる地域性を示す地域の国々と行動をともにしたのだろうか

これらは実はすべて関連しているのであるが、ここではまず三番目の疑問に関して考察してみる。まず身近なところで遣唐使の例を見ると、日本書紀によると何度か蝦夷をつれて行っているケースがある。倭国の意図としては大唐帝国に対して、みずからも小中華としてアピールしようとしたと言われている。これを考えると「奴」国が東方の異俗を持つ人々を、朝貢の場につれてゆくことはありうるのではないか。しかし遣唐使の例では蝦夷はまるで付けたしの様な存在であるが、其餘旁國二十一ヶ国の国名リストをみると、東方の国々のほうが主体であるように見える。末尾に付け加えられた「奴」国はむしろ脇役であるかのようである。

このようなことが起こった原因はむしろ、漢王朝の側にあったのではないだろうか。漢書王莽伝をみると王莽はみずからの政治の正当性をアピールするため、四囲の異民族に働きかけ朝貢を促している。(補足12)中国の王朝にとって遠方からの朝貢は、政治的な利用価値があったということである。考古学的には「奴」国の王墓とされる須玖岡本遺跡の甕棺からは紀元前一世紀中ごろの漢鏡が発見されていて、「奴」国が古くから漢王朝に知られていたことが分かる。一方で瀬戸内東部以東の地域には前漢時代の漢の遺物はほとんどなく、いまだ朝見することはなかったであろう。(24)ここで何かの理由があって漢王朝にとって既知の北部九州の倭人に対して、倭地の奥地の未見の異俗の人々の朝貢を求めたことがあったとすれば、「奴」国にとってそのような奥地の国々を嚮導することには漢王朝側の期待にこたえる意味があり、一方で瀬戸内東部以東の国々にとってはこれまでかなわなかった漢王朝への朝貢がはじめてかなうという格別の意味があったことになる。その理由と時期に関しては再び触れることになるが、遠方からの朝貢を求めた漢王朝を含め「奴」国と東方の国々の三者にとって、其餘旁國二十一ヶ国の国名が記録された際の朝貢は利の有るものであったと思われる。

このことから直ちに二番目の疑問に対する答えが出る。「邪馬臺」国は北部九州から水行、陸行二ヶ月の遠方にあると書かれている。其餘旁國二十一ヶ国の朝貢に関する記録が北部九州の倭人に嚮導されてはるか遠方の国々がやってきたものであると書かれていたら、この二者を関連付けしようとするのは不自然ではない。問題はなぜ両者ともはるか南とされたかであるが、これは北部九州の倭人の朝貢では足りず、そのはるかかなたの国々の朝貢を求めたことに関連するので後で触れよう。

ここまで考えてくると一番目の疑問にも回答が出る。もしこの朝貢の記録が現存中国史書にその一部の記録でも留められているとすると、倭人の朝貢とは書かれていないであろう。なぜなら漢王朝の求めたものが既知の北部九州倭人社会からの朝貢ではなく、あえてその遠方からの朝貢を求めたからである。その時点の漢王朝にとって、それは倭人朝貢とは区別されなければならなかったはずである。こうなるとすでに述べた王莽政権下の前漢末の朝貢がもっとも蓋然性が高かろう。すなはち平帝の元始二年〜三年(紀元2年〜3年)の、東夷王の朝貢である。(補足12)ここに見える

「東夷王度大海奉國珍」

は、その当時海を渡って朝貢してくるとすれば倭人であろうと言われているものである。北部九州倭人社会は考古学的に紀元前一世紀中ごろには、楽浪との外交を持っていたことは間違いない。岡村 秀典氏の言うように、(24)これは漢書地理志幽州屬に見える

「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。」

に該当するであろう。にもかかわらずそれより後の朝貢において「東夷王」と表現されるということは、このときの朝貢が地理志に見える倭人とは異なると言いたかったのであろう。倭人と同種であることが分かったとしても、王莽政権としては未見の人々であることを強調したかったのであろう。

其餘旁國二十一ヶ国の国名の記録が、王奔伝の元始五年条にある前漢末の朝貢の今は失われた記録の残された部分であれば、まさに3節において其餘旁國二十一ヶ国の漢字音の性格から求めた、漢字音からの記録時期の推定とも合致するのである。

ここで今までに出てきた残りの疑問に答えねばならない。なぜ王莽政権は北部九州の倭人では物足りずそのはるか遠方の国々の朝貢を求めたのか、またその国々の地域をなぜ九州の南であるとしたのか。その鍵は再び王莽伝にある。(補足12)

「莽既致太平,北化匈奴,東致海外,南懷黄支 ,唯西方未有加。」

王莽は四囲の蠻夷を招き、遠路の朝貢としてそれを政治的に利用しようとしたのである。引き続く朝貢の記事はそれに対応しているのである。

「越裳氏重譯獻白雉, 黄支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍,匈奴單于順制作,去二名,今西域良願等復舉地為臣妾,昔唐堯被四表,亦亡以加之。」

ちなみに「越裳氏」に関しては

「始,風益州令塞外蠻夷獻白雉, 元始元年正月,莽白太后下詔,以白雉薦宗廟。」

まさに招きよせて政治的なセレモニーとしているのである。

東に対しては東致海外であるから、東夷王は東の海の向こうからやってこなければまずいのである。漢書地理志に北の幽州の楽浪に結び付けられている、既知の倭人ではまずいのである。王莽は東の海の向こう(海外)からやってくる民族を探したはずである。そしてまさにうってつけの民族がいたのである。漢書地理志呉地の

「會稽海外有東人、分為二十餘國、以歳時來獻見云。」

である。果たして「東人」は會稽にやってきていたのであろうか。漢の時代を下る三国志の時代について書かれた、三国志呉書に下記のような記載がある。

「遣將軍温、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲.亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬來神山及仙藥,止此洲不還.世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者.所在絶遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還.」

孫権は徐福がたどり着いたとする亶洲へ軍を派遣したが、遠くてたどり着かなかった。また亶洲から會稽に人が来て貨布するとも會稽東縣の人が嵐にあって亶洲へたどり着くともされているが、東人の記載は見られない。この記事を見る限り漢書地理志の言うような定期的な朝貢ができる状況であるとも思われない。私は會稽から倭人が朝貢しそれが東人とみなされたと言う説を唱えたことがあるが、文献的にも考古学的にもどうも無理があるようである。(25)人はおそらく會稽には着ていないのではないか。ただ會稽東縣すなはち會稽東冶には、海の向こうから時に人がやってきていたのであろう。王莽はこれに目を付けたが、會稽から朝貢させることは出来なかったのではないか。

地理的に會稽海外にあたる地域の国々は、その当時の中国人の地理観から見て楽浪の南の海中にいる倭人のさらに南に当たるであろう。すなはち會稽海外にあたる地域の国々を朝貢させるために、楽浪の南にいる倭人にそのさらにはるか南の国々を引き連れて朝貢させることを思いついたのではないか。「奴」国の引き連れていったのは実際には東の国々であったが、王莽にとってはそれらの国々ははるか南にある會稽海外の国々であるべきだったのである。漢書地理志呉地の記録は、東人が會稽にやって来たと言っているのではなく、會稽海外にいる東人が定期的にやってきたと言っているのであろう。すなわちそれは東夷王であり「奴」国に嚮導された瀬戸内東部以東の、北部九州とは異俗の青銅器人であったのであろう。「分為二十餘國」とはまさに其餘旁國二十一ヶ国に他ならないのではないだろうか。(補足13)この王莽の時代に中国東方の島々が楽浪海中からはるか南の會稽東冶の沖にまで連なっていると言う中国人の地理観が出来上がり、倭国の奥地はすなわち南であると言う固定観念が成立したのであろう。

11.其餘旁國二十一ヶ国の比定

本節では其餘旁國二十一ヶ国の個別の国名の比定を行う。1節でみた比定にあたっての6の困難のうち、漢字音や倭人の言語および表記に関する1から3の困難はほぼ解消された。しかしながら4から6の困難、誤写、誤刻などを特定できない問題や、国名が単純で相似する地名が多いこと、対比する地名が変化していることなどの困難は残されている。地名が変化していることに対処する唯一の方法は、比定において出来るだけ古い文献を使用することである。すでにみたように、和名抄の地名では倭人伝地名との対応はうまくいかないケースがある。一方で日本書紀、古事記、風土記などの奈良朝文献では、対応する地名が残されていた。したがって比定対象を奈良朝文献に絞ることで、地名の変化に対応しよう。奈良朝文献は事実上最古の日本語文献であるから、これ以上の対処は難しい。誤写誤刻に対するのはもっと難しい。出てくる文献の極端に少ない其餘旁國二十一ヶ国に関しては、校勘の手法が使えないためまったく異なる方法を考案する。それはまず、誤字の可能性の高い文字を含む国名の比定を避けて比定をはじめることである。国名が単純である問題もよく似た手法をとる、字数が長く比較的特徴の或る国名を最初の比定の対象に選ぶのである。つまりまず比定の確実性の高いところから比定を始るのである。

韓伝国名の比定や(26)、楽浪郡県名の比定(27)において重要なポイントは、リストされた地名のパターンを見つけることであった。其餘旁國二十一ヶ国のような国名だけのリストにおいてまず重要なことは、リストの地理的パターンを見つけることである。すべての地名を比定対象とせず確実性の高いものからパターンを見出し、残る国名を補間してゆくのである。誤字を含む可能性の或る地名もおおよその地域が特定されれば、比定でき誤字も抽出できるであろう。これは文章中で文脈から誤字を見つけてゆくのに似ている。

残された方法論上の問題は、いかにして誤字の可能性の高い文字を特定するかである。これは倭人伝の音写文字に表れる特徴から逆算できる。すでに漢字の特徴に関しては2節で述べたが、ここで漢字の特徴だけを抜き出す。

1.母音終わりの漢字が多い(全体の88%)

2.去声字の回避(全体の4%)

3.小韻の首字(切韻の同音の最初の文字)が多い(全体の80%)

4.合口字(頭子音と主母音の間にuのような母音が入る。)の割合が少く
日本語のワ行音として解釈可能なものだけに限られる(8%以下)

すなはち倭人伝音訳文字は、漢字全体の中から上記特徴を持つものを選択的に使用していると言うことである。逆に上記特徴に合わない文字は誤字の可能性が高いということである。

1.子音終わりの漢字(閉音節)

2.去声字

3.小韻の非首字

4.日本語のワ行音として解釈不可能な合口字

以上の観点に該当する文字に加えて、長田夏樹氏が誤字と指摘する「姐」を加えて、其餘旁國二十一ヶ国の国名に使用された文字を赤字で抜き出すと。

  1. 斯馬
  2. 已(以)百(伯)
  3. 伊邪
  4. 都支
  5. 彌奴
  6. 好古都
  7. 蘇奴
  8. 華奴蘇奴
  9. 爲吾
  10. 邪馬
  11. 躬(弓)臣(辰)
  12. 支惟
  13. 烏奴

括弧つきで示したものは小韻の非首字に対して、同音の首字を示したものである。このうち「百」はk音終わりであるが、引き続く「支」が上古音的音価でk音で始まる。このような末尾子音と続く文字の頭子音が一致させる仮名を連合仮名という。「百」は小韻の非首字ではあるが、このようなことが偶然起こるとも思いがたいため、誤字とは思いがたい。「不」は森博達氏は子音終わりとするが、小韻の首字の母音終わりの読みがある。「對」は去声字であるが去声字が回避された理由として、森博達氏は上古音系では去声字の一部に子音で終わるものがあったためとされている。「對」に関しては、sやz,dのような舌音系の子音で終わっていたとされ、引き続く「蘇」がsで始まるため問題とする必要はないだろう。「鬼」は合口ではあるが、主母音が狭く日本語を音写するのに不都合さはない。実際稲荷山鉄剣銘文には「斯鬼宮」(シキ宮)のような用例がある。「利」も去声字であるが、去声字の中でもどうも子音で終わっていたものに含まれないようである。(28)

  1. 斯馬
  2. 已(以)百支
  3. 伊邪
  4. 都支
  5. 彌奴
  6. 好古都
  7. 對蘇
  8. 蘇奴
  9. 華奴蘇奴
  10. 爲吾
  11. 鬼奴
  12. 邪馬
  13. 躬(弓)臣(辰)
  14. 巴利
  15. 支惟
  16. 烏奴

結果、「已(以)百支」「奴」「呼」と「躬臣」の比定はあとにまわすほうが賢明であるとわかる。ただし「已百支」は翰苑に引く魏志では「巴百支」となっていて、「巴」は「巴利」にも用いられた小韻の首字であり検討の価値がある。版本によっては「都支」が「郡支」となるケースがあるが、「郡」はn終わりの音が想定され、あまり妥当ではない。

さて残る国々を、奈良朝の文献に見える地名と比定してゆくことになるが、まず最初に長くユニークな地名から取り掛かるべきである。もっとも長い「華奴蘇奴」に関してはすでに比定したので次に長い「已百支」と「好古都」を見てみよう。

「已百支」に関しては「已」に誤字の可能性がある。読みは上代日本語で「ハ」が「pa」ないし「pha」を考慮に入れれば「イハキ」が妥当であるが、上古音でみると「ヨハキ」に近い。これに該当する地名は東北地方に見えるが、其餘旁國二十一ヶ国としては北部九州からあまりに遠く妥当ではあるまい。其餘旁國二十一ヶ国の候補地としては、中期末葉の北部九州とはやや異質な文化圏でかつ環濠集落などの国の萌芽の見られる地域であろう。翰苑に引く魏志の「巴百支」を採用すると、読みは「ハハキ」となり、諸國名義考に引く伯耆國風土記に見える伯耆國號「母来」がぴったりになる。(補足14)漢字音との両面から考えて「巴百支」が正しいであろう。1節で其餘旁國二十一ヶ国を三分割した際、最初の七ヶ国には「奴」字を含む国名がひとつしかなく、其餘旁國二十一ヶ国の国名リストが和名抄「ナガ」/「ナカ」始まりの郷名の比較的少ない地域から始まっている可能性が有ることを見た。弥生中期末の銅鐸を主な祭器とする東方青銅器文化地域のうち、そのような地域は山陰地方である。「巴百支」はこのリストの二番目でありこれもまた伯耆説を支持するものである。

次に「好古都」に関して見てみよう。「好」は暁母の文字で2節で触れたようにおそらくはカ行音を表す。(5)その韻は万葉仮名ではオ列甲類となるので、「好」の読みは「コ」が妥当である。「古」「都」はどちらも模韻であるため、上古音的に評価して「カ」「タ」となる。すなはち「好古都」の読みは「コカタ」となる。古代地名大辞典(13)によると、該当地名は和名抄の常陸国信太郡子方郷と万葉集に見える下記地名である。

「紫乃 粉滷乃海尓 潜鳥 珠潜出者 吾玉尓将為」
むらさきの こかたのうみに かづくとり たまかづきでば わがたまにせむ

「吾妹兒乎 外耳哉将見 越懈乃 子難懈乃 嶋楢名君我」
わぎもこを よそのみやみむ こしのうみの こかたのうみの しまならなくに

和名抄の地名は時代も下る上に現茨城県となり、あまりにも東によりすぎている。弥生中期末の国には該当しないであろう。万葉集の「こがたのうみ」は詳細不明であるが、「こしのうみ」であり最南部は敦賀にまで下るのであるから可能性は有る。「好古都」は其餘旁國二十一ヶ国のリスト6番目であり、このリストが山陰方面に始まる可能性が高いことを考えに入れるとリストの始まりは日本海側を東に向かっている可能性を示唆する。

つぎに二文字表記の国名を順次見ていこう。

リスト一番目の「斯馬」はおそらく「シマ」であり、ありふれた地名要素で単独比定は難しい。

リスト三番目の「伊邪」は「イヤ」と読むべきであろう。「邪」を「ジャ」「ザ」のように読めるのは、中古音でも後期に入ってからである。奈良朝文献では万葉集に下記の歌がある。

伊夜彦 於能礼神佐備 青雲乃 田名引日須良 X曽保零 一云 安奈尓可武佐備
いやひこ おのれかむさび あをくもの たなびくひすら こさめそほふる あなにかむさび

伊夜彦 神乃布本 今日良毛加 鹿乃伏良武 皮服著而 角附奈我良
いやひこ かみのふもとに けふらもか しかのふすらむ かはころもきて つのつきながら

現在の弥彦神社で、新潟県の弥彦山にある。やはり東方によりすぎている。時代は下るが平安期の延喜式に能登國能登郡伊夜比盗_社が見える。いずれも日本海側であり、其餘旁國二十一ヶ国のリストの最初の部分に日本海側につながる地名の多いことは興味深い。これら「イヤ」神社は日本海側にあった本来の地名から転じていったものではないだろうか。ちなみに、出雲に揖屋(イヤ)という地名があるが、これは古代の「伊賦夜(イフヤ)」から転じたものであり該当しない。

リスト四番目の「都支」は「タキ」と読むべきであろう。出雲の国風土記に多伎郷が見えるが、下記文面からみるにこれは本来「多伎吉(タキキ)」であり「タキ」は好字二字令の結果であろう。

「郡家南西二十里。所造天下大神之 御子 "阿陀加夜努志多伎吉比賣命" 坐之。故、云多吉」

平安初期の続日本紀に「多藝連」が見え、関連は和名抄の多藝郡である。ただし延喜式の多伎神社等平安期に下ると多数の候補があり単独比定は難しい。

リスト五番目の「彌奴」は「ミナ」と読むのであろう。最初の「奴」字終わりの国である。「ミナ」と言う地名に妥当な上代日本語は見当たらず、「奴」を分離して「ミ」の「奴」国であるとすると、一音節の「ミ」の単独比定は困難であろう。以下二文字の「奴」終わりの国名の比定は省略する。

リスト七番目の「不呼」は「フカ」でよいであろう。「深」は一般的な地名要素で単独比定は難しいと思われる。

リスト八番目の「姐奴」は「サナ」か。長田夏樹氏は頭子音を問題にして誤字とされたが、「姐」は拗音を含み直感的にもおかしいと感じられたのかもしれない。(29)

リスト九番目の「對蘇」は「トサ」か「ツサ」であろう。古代地名で該当するものはほぼ「土佐」に限定される。極めて有力な比定地である。しかも二つ飛ばして十二番目に阿波南部に比定した「華奴蘇奴」が表れる。リストが四国方面を辿っているのであろう。

リスト十番目の「蘇奴」は「奴」字終わりのため省略。

リスト十一番目の「呼邑」の「邑」字は誤字の可能性が高い。

リスト十四番目の「爲吾」は「ワガ」/「ヱガ」/「ヰガ」のいずれかであろう。「爲」は「華」と同じ頭子音を持ち、合口だから「ワ」行音となるのである。母音の開口度は上古音から中古音までことなる。比定地としては日本書紀の「餌香川」「餌香市」、古事記の「恵賀」など、大阪市の恵我が有力である。この地名の興味深いところは、かなりの範囲の地名であるにもかかわらず、奈良朝史書にその名を負う有力な勢力が見当たらないことである。地名がある広がりを持つには通常はそれを担う勢力があるものであるが、「ヱガ」の場合にはそれが先史に遡ることを暗示する。他の候補として和名抄に三河国額田郡位賀郷が見えるが、平安期史料である上小地名であり比較にならない。リストが四国に引き続いて、大阪湾岸に来ていると思われる。

リスト十五番目の「鬼奴」は「奴」字終わりのため省略。

リスト十六番目の「邪馬」は「ヤマ」と読むのであろうが、ありふれた地名要素で単独比定は困難。

リスト十七番目の「躬臣」は二字とも誤字の可能性が有る。

リスト十八番目の「巴利」は「ハリ」と読むのであろう。「ハリ」はありふれた地名要素であり、「播磨」「尾張」「名張」など、多くの候補が挙がり単独比定は困難である。

リスト十九番目の「支惟」は「惟」が合口で「ワ」行音か、主母音が狭いので「イ」または「ユ」の可能性も有る。上代日本語では二音節目に「ア」行はこないので、先人の研究に従えば「イ」はなさそうである。「キヰ」ないし「キユ」か。該当地名は見当たらないが、すでに触れたように倭人伝に表れた倭人語は先行軟化している可能性があるため「キヰ」をもって「キビ」のなまったものであるとも思われる。

リスト二十番目の「烏奴」は「奴」字終わりでもあるが、「アナ」と読むとありふれた地名要素の「穴」を表すともとれいずれにせよ単独比定は困難。

最後に一文字国名であるが基本的に比定は困難であろう。しかしリスト末尾の「奴」に関しては、すでに論じたように北部九州の「奴」国であるとみなされる。

ここまでの比定地をまとめてみる。

日本地図

(図8)其餘旁國二十一ヶ国単独比定地

12.瀬戸内沿岸の補間

ここまでの比定を通して、其餘旁國二十一ヶ国はある種の地理的連続性を持ってリストされている可能性が分かる。地名をリストしようとする際にこれは極めて自然なことである。地名が連続しているとした場合には、近接した二つの地名比定によりその間の比定地を補間できる。ここで注目するのは十二番目「華奴蘇奴」と十四番目「爲吾」である。それぞれ徳島県南部と大阪府に比定したが、この二つの間に入ってくる十三番「鬼」は地理的にもその中間がふさわしいのではなかろうか。ここで「鬼」は古い漢字音を反映したとされる稲荷山鉄剣の銘文における「斯鬼宮」の用例から「キ」乙類の可能性が高く、まさしく注目する地域に「キ」乙類一音節の地名「紀伊」を見出すのである。「紀伊」は奈良朝文献にも見える国名である。ここで十四番目「爲吾」の次十五番目を見ると「鬼奴」となっている。これは「奴」字終わりであるから、「鬼」+「奴」と分解可能である。すなわち大阪府の「爲吾」をはさんで、二つの「キ」乙類単音節地名が想定される。日本書紀、欽明天皇即位前紀には、山城の国に紀郡の地名が現れる。もうひとつの「キ」乙がまさに期待したところに現れてくるのである。「巴百支」が「ハハキ(甲)」を表すとすれば、其餘旁國二十一ヶ国の用字において、キの甲乙は区別されているようである。引き続く十六番目は「邪馬」(ヤマ)であるが、山城に「鬼奴」を比定した上で近隣の地名を探せば当然大和が挙がるであろう。其餘旁國二十一ヶ国は、三世紀よりずっと古い時代の史料であり、「奴」が重出しているように、この「邪馬」は三世紀の「邪馬臺」ではないか。「ヤマト」は「ヤマ」+「ト」と分解できるであろう。其餘旁國二十一ヶ国の記録された時代には極めてプリミティブな地名が用いられていたが、三世紀には他の地名要素と複合し新たな地名を派生させていたとも考えられる。

このように四国から大阪湾方面へ国名の連なりが明らかになってくると、引き続く国々はその先にあると考えられるであろう。十九番「支惟」の吉備への比定はあまり有力とは言えなかったが、こうなると現実的になってくる。十八番「巴利」(ハリ)もいくつかの候補のうち播磨という目安がついてくるからである。「ハリマ」もまた「ハリ」に他の地名要素「マ」が接尾したものであろう。しかも二十番「烏奴」(アナ)にも、古事記日本書紀に現れる吉備穴が有力候補として現れるのである。こうなると四国の四ヶ国も配置が見えてくる。十番目「蘇奴」(サナ)は土佐と南部阿波の中間であるが、地域的に空いている四国の瀬戸内沿岸だろう。地理的配置から考えて讃岐であろう。讃岐には和名抄那珂郡があり、万葉集にも「中乃水門」と歌われている。地名学では讃岐は「サ」+「ヌキ」と分解して理解されることが多いようであるが、「サ」の起源は定説がない。「蘇奴」国(サナ)は「サ」の「ナ」国ではなかろうか。(補足15)

四国、山陽、大阪湾岸の地名がほとんど明らかになったところで、誤字を含む可能性が高いとした二国の比定を行おう。

まず十一番「呼邑」であるが、「邑」は誤字とみてまず間違いない。そこでよく似た字形の「巴」を当ててみよう。これは十八番「巴利」に使用されている、自然な用字である。訂正後には「呼巴」となるが、これは「カハ」と読むであろう。すなはち「河」であり、其餘旁國二十一ヶ国に数多く見られる単純な自然地形をそのまま国名にしたケースである。では四国で「カハ」にもっともふさわしい地域はどこか。四国最大の大河、四国太郎吉野川に他なるまい。すなはち阿波南部の「華奴蘇奴」に対し、阿波北部の「呼巴」である。日本語においてしばしば「カ」行音は頭子音を脱落させることが有る。(30)「カハ」はのちにk音を脱落させて「アハ」となったのではないだろうか。阿波国阿波郡はまさに吉野川中流域にある。

もうひとつの誤字を疑う地名十七番目「躬臣」に関してみてみよう。この国名は二文字とも誤字候補である。しかし一ヶ国に二つの誤字が集中するのも不自然である。このうちいずれかが正しいのではないだろうか。「躬」は「卑彌弓呼」に用いられた「弓」と同音である。森博達氏によると「躬」は子音終わりといっても、鼻濁音ngで終わるためその子音は耳につかないそうである。(3)実際万葉仮名でもそのような例があるとする。では「臣」はどうか。同じく森博達氏によると強い閉音節性を持つとされる。このことから考えて「臣」の方が誤字の可能性が高い。さらに森博達氏によると倭人伝の鼻濁音終わりの文字には、引き続く文字の濁音を強める用例が見られると言う。すなはち「柄渠觚」、「伊聲耆」の例である。鼻濁音終わりは「躬」を除いて四例あるが、そのうち二例が濁音の強めに使われているのである。もしも「躬」もまた後ろの文字の濁音を強めているとしたらどうであろうか。「臣」はngないしg始まりの漢字の誤写誤刻ということになる。そのような文字の中から、母音終わりで小韻の首字のものを洗い出し、虫食いなどの条件下で「臣」に間違えられそうな文字をさがすと「吾」が浮かび上がる。これは「爲吾」(ヱガ)に使用された文字である。「躬臣」は「躬吾」を誤ったもので、読みは「クガ」であろう。これは上代日本語の「陸」を意味する語で、再び単純な地形を国名にした例になる。では「クガ」はどこになるだろうか。古事記には「玖賀耳之御笠」という人物が丹波にいたとある。しかし古代の丹波は非常に広い地域である。丹波のいずれであろうか。太田亮氏によれば、(31)日本書紀の仁徳紀の「桑田玖賀媛」などから丹波国桑田郡(現亀岡市)とする。丹波国桑田郡の地名は、同じく日本書紀継体紀にも見える地名である。山城の国風土記逸文にも「久我(コガ)の国」と現れ、畑井弘氏によれば(32)「玖賀耳」は、丹波路の入口にあたる乙訓郡あたりから丹波国東南部にあたる地域の土着勢力であるとする。

ここまでの比定地をまとめてみる。

日本地図

(図9)其餘旁國二十一ヶ国比定地(瀬戸内周辺を補間)

13.国名リストの推定プラン

国々の配置が明らかになった瀬戸内四国方面の状況をみると、国名がどのようなプランに沿って配置されているかが分かる。国々は一筆書き的に配列されているのではなく、四国、大阪湾奥、山陽と地域別に配置され、各地域で地理的に一つながりのリストになっている。各地域は四ヶ国で構成されている。其餘旁國二十一ヶ国は嚮導国の「奴」を別格として、四ヶ国ずつ五地域に分かれているのであろう。このようなリストプランを見たとき、手がかりのない残りの国々についてその概略の地域を推察できるのではないか。もはや地名比定の範疇を超えていくが、残りの地域を見て行こう。

まず最初の四ヶ国であるが、有力な比定地を持つ「巴百支」を含むものの他に手がかりはない。他の地域グループの配置と見比べてみるに、おそらく日本海側に並んでいるのであろう。問題は順に東に向かうか西に向かうかも分からないところである。しかし其餘旁國二十一ヶ国が弥生中期末に北部九州とは異俗の地域であり、銅鐸を主な祭器とする地域であるとするとおのずと制約が出てくる。弥生中期末には出雲西部は北部九州の影響を強く受けているからである。もしも二番目「巴百支」を伯耆として、西へ向かうとどうしても出雲西部にかかるのである。リストは順に東に向かっているに違いない。すると「巴百支」の前にある「斯馬」(シマ)は、伯耆の西にあり、かつ出雲西部にかからない地域であることが分かる。「斯馬」は出雲の国風土記に現れる島根郡であろう。「巴百支」に続く「伊邪」(イヤ)は伯耆の東にある。リスト全体の国々の間隔から考えて、おそらく因幡であろう。遺存地名としては八上が挙げられよう。奈良朝の伊夜彦は、後の弥彦であり、語頭の「イ」が脱落する。「イヤ」+「カミ」で千代川上流域を示し、本来の「イヤ」はその下流域ではないか。

リストを次に辿ると、但馬、丹後の地域に差し掛かる。おそらくこのあたりが「都支」(タキ)であろう。七世紀には但馬、丹後は丹波の一部であった。但馬と丹後の中心地域はともに竹野川流域である。記紀に丹波竹野媛、多遅麻之竹別等が現れる。これら重要地名がすべて「タ」始まりであることには意味があるのではないか。丹後国丹波郡丹波郷は本来丹波国丹波郡丹波郷であり、ここが丹波発祥の地ではないか。ここに式内社多久神社がある。丹波(タニワ)とはタ+ニワなのであろう。「鬼」「鬼奴」の比定のときに見たように、其餘旁國二十一ヶ国の用字では、「キ」の甲乙を区別しているようである。「都支」、「巴百支」そして「一支」と日本海側に「支」(キ甲)終わりの国名が現れるのは、この地域に固有の現象であったかもしれない。ちなみに時代的に甲乙は区別できないが、和名抄で「キ」終わりの郷名の分布をみると九州北部から、中国、近畿、濃尾に中心があり四国など太平洋岸に少ない。「ナカ」/「ナガ」同様に中部にギャップがあって、関東東北に別の分布があるのは後世の展開であろう。

つぎに五番目以降の四ヶ国についてみてみよう。これらの国々のいずれも当てになる比定地がないので、比定はさらに困難である。今其餘旁國二十一ヶ国の国々の分布の東端の地域を推測してみよう。これまでの比定地の密度とのこりの国々が四ヶ国しかないことを考慮すると、東の端は濃尾平野にかかるかかからないかではないか。もしも其餘旁國二十一ヶ国が弥生中期末のある種の同俗の地域であるならば、濃尾平野西端のあたりに線引きされるようなものでなければならない。佐原真氏によれば、(33)弥生後期の突線鈕式の時代に現れる三遠式銅鐸に先立って、弥生中期末葉と思われる扁平鈕式の時代にはすでに銅鐸祭祀を中心とする地域の東方に分化の兆しがあるとする。三遠式と近畿式の境界は明瞭ではないが、概ね三河遠江以東ははずしてよいであろう。これらの地域は「ナ」終わり地名の地域でも有る。また最初のグループが日本海側でありこのグループにも越の「好古都」を含むことも考慮すると、日本海側から太平洋側に南北に並んでいるのではないか。このような推理からこのグループ最初の「彌奴」(ミナ)に関しては、地域性を表す「彌」(ミ)を手がかりに三国ないし美濃。「好古都」(コカタ)をそこからの距離感を手がかりに敦賀方面と考えた。

「不呼」(フカ)に関しては、全体のバランスから近江の野洲が相応しいが地名的には該当するものがない。野洲川上流に日本書紀に現れる「鹿深」がある。現在の甲賀である。(補足16)吉田東伍氏はこの語源を「カワフカ」とされた。(14)私は「カミフカ」が語源ではないかと考える。「ミ」の母音は狭く脱落しやすい。「ミ」と「フ」の子音は古くはいずれも唇を合わせる音で融合しやすいであろう。ちなみに延喜式では、野洲川を甲賀川とする。

すでに触れたが「姐奴」は読み自体が難しい。誤字の可能性を感じる。長田夏樹氏は倭人伝にs系の「斯」などとともにts系の「姐」があることを問題視されたが、全体に字形の似ているもので且つ母音終わりに限ると「且」を旁に持つ限り頭子音の変わったものは見えない。日本書紀α郡においては同じ音節に対してs系とts系が混在し、森博達氏はアクセントの違いを表現するためとされた。(4)しかし必ずしもアクセントを区別しない巻にも区別があるようで、アクセントの違いだけでなくアクセントの違いによる子音の変化も有ったかもしれない。「姐奴」はおそらく「祖奴」の誤字で、ハイアクセントから始まる「サナ」ではないか。比定地は定かではないが、日本書紀伊勢狹長田としたい。

日本地図

(図10)其餘旁國二十一ヶ国比定地

14.その他の国々

其餘旁國二十一ヶ国以外の国名に関しても考えてみたい。そのほかの国々はいずれも地理情報を伴っており、比定の手がかりは多いはずであるが簡単にはいかない。

定説のない「不彌」国に関しては、地名比定の範疇では記紀や風土記に見える「ウミ」(日本書紀「宇瀰」、古事記「宇美」、釈日本紀に引く筑紫風土記「芋野」)をあてるのが順当であろう。「不彌」は「フミ」と読んで発音の軟化を考えるか。「奴」国との距離関係に難があるが里呈はかなり複雑な成立プロセスをたどった可能性が高く、地理的記述をどう解釈するか見直す必要もあるのではないか。和名抄地名から見ると弥生後期の「奴」国はむしろ内陸側に長く伸びているようであり、「宇美」地域の小国を「不彌」としても幾何学的には成立すると思われる。「不彌」を「ホミ」と読んで「穂浪」に当てる説もあるが、「ナ」が解決できない。

次の「投馬」国も問題がある。その位置が決着した「邪馬臺」国との関係で見ると吉備、出雲が候補地になるが、地名上の決め手は見つからない。ただこの国は「奴」や「邪馬臺」のように、其餘旁國二十一ヶ国に重出しているようには見えない。其餘旁國二十一ヶ国の覆う範囲が、「投馬」の想定される地域にかかっているだけに興味深い。「投馬」の想定される地域のうち、其餘旁國二十一ヶ国に含まれないのは出雲西部のみである。

残る「狗奴」国であるが、これは本稿で中心的に議論した「奴」字終わりの国名である。ただ「狗奴」は倭人伝文面から三世紀をそう遠く離れない時代の国名であり、其餘旁國二十一ヶ国の「奴」字終わりの国名と同一には議論できない。しかし「狗奴」の音韻だけが三世紀的で「クノ」とするのは自然さに欠ける。同じく三世紀情報と思われる「邪馬臺」に関して官名の「彌馬獲支」から分かることは、「獲」の終わりの子音kが上古音的に評価した「支」の頭子音と連合仮名的な連結を示していて、これから見る限り三世紀記述に関しても少なくとも一部上古音的音価が入ってきていることは確実であろう。(5)「狗奴」もまた「クナ」と読むのが自然である。すでに触れたが「クナ」は「ク」+「ナ」である可能性がある。つまり古代「ナ」地名の分布域にあって、一音節の「ク」で地域性を現される地域である。「投馬」と同じく其餘旁國二十一ヶ国に重出の気配がない。つまり「狗奴」国もまた其餘旁國二十一ヶ国の範囲外にあり、もっとも遠い国と指定されているところからするにその東にあったと考えられる。すなはち濃尾平野以東である。しかし濃尾平野に、「ク」を地域性として残す地名は明瞭にはみつからない。もしもその地域がさらに東方の「ナ」終わり地名の地域にあった場合、「ク」+「ナ」は直接「クナ」のごとき地名を派生させる可能性がある。すなはち遠江以東を考えるならば、「クナ」から直接に変化する地名を探すことになる。山尾幸久氏は造本紀の久努国造をもって「狗奴」の遺称とされる。(34)久努は和名抄の遠江国山名郡久努郷で「クノ」「クド」等と読まれるが、日本歴史地名大系は現「久能」からするに「クノ」であろうとする。(12)「浜名」「山名」などが「ナ」を保っているにもかかわらず、「クノ」のみが「ナ」→「ノ」の変化を伴ったとするのは無理があろう。しかしながら私は、まさに「浜名」「山名」に囲まれるようにして「久努」があることに注目したい。

日本地図

(図11)倭人伝国名比定地

15.おわりに代えて

本稿においては其餘旁國二十一ヶ国を中心にすえて比定を行ったが、残念ながら完全な比定にはたどり着けなかった。服部 英雄氏の研究をもとにすれば、地名の変化は概ね千年で50%である。(2)対象の地名が紀元2年〜3年の地名であり、それを受けるのが七八世紀の奈良朝文献でしかも地方の情報をほとんど欠き、それを補うのが九世紀地名とされる和名抄では限界があるのは致し方ないと考える。多くの地名比定を万葉集や、残されたわずかな風土記の情報によるしかなかったのである。

其餘旁國二十一ヶ国の国名は、自然地形そのままを国名にした短くプリミティブなものが多いことが分かった。後世地名との対応を考えるとき、多くは他の地名要素との結合により地名を派生させている。地名の成立と発展に関しても興味深いものが有る。

本節では終わりに代えて、残されたいくつかの疑問に答えてゆきたい。本稿では其餘旁國二十一ヶ国を前漢末の紀元2年〜3年に、「奴」国に嚮導されて朝貢した北部九州とは異俗の国々であるとした。残された疑問とは

1.なぜ嚮導する国が「奴」国であって「伊都」国ではないのか。

2.その朝貢は銅鐸を主な祭器とする社会にとっては、一大事件であったはずであるが、それはどのような考古学的兆候を見せているのか。

3.東人として認識された人々は、いつ倭人であるとみなされるようになったのか。

弥生中期後半紀元前一世紀には、北部九州の倭人は楽浪との交流を持っていたであろう。考古学的には伊都国、奴国を中心に、複数の国々が楽浪に出向いていたようである。岡村秀典氏によれば分かれて百余国の時代である。しかしその後の状況は、しだいに国々の役割分担、集約が進んでいったように思える。伝統的な甕棺墓の地域は縮小し、中国鏡を墓に大量に入れるのは伊都国の領域だけになる。伊都国の領域には楽浪漢人が住んだと思われる遺跡まで現れ、楽浪との交流は伊都国に一本化されていくようである。一方で青銅器生産地は奴国の領域に集約される。倭人伝の記載に見るように郡使のとどまるところ伊都国は楽浪郡との交易に特化し、奴国は福田式銅鐸に見られるように主に青銅器生産に関連して東方の青銅器祭祀の諸国とのかかわりを深めていったのではなかろうか。(35)すなはち中期末に東方の倭人諸国を嚮導しうるのは「奴」国でしかなかったのではないだろうか。

東部瀬戸内以東の地域にとって、漢との関係をもてたことは国家形成の上で画期となったのではないか。まさに弥生後期の始まりを示す出来事であり銅鐸は聞く銅鐸から見る銅鐸に変わり、地域によっては銅鐸祭祀自体が下火になってゆく。依然として北部九州の嚮導による朝貢で威信財の入手には制約があったかもしれないが、貨泉の増加など状況の変化が見られる。岡村秀典氏によれば一世紀中ごろの漢鏡5期の時代には、北部九州以外でも中国鏡が見られるようになるという。(24)

多様な種族多様な言語を知る中国人にとって、東人と倭人は異俗、異方言ではあってもすぐに同種であるとみなされる事になったであろう。前漢末から新の王奔政権が続く限り公式の記録上は区別され漢書地理志の記録となったのであろが、後漢の人である漢書の著者班固にとっては、東人と倭人が同種であることはすでに常識であったのではないか。漢書における対称的な記載がそれを暗示していると思われる。

紀元57年奴国が後漢に朝貢して金印を受けたが、それに先立って紀元44年には韓廉斯邑の朝貢があった。魏略によれば新の地皇年間に廉斯邑からの投降があったとされる。後漢への廉斯邑の朝貢は新末の大乱以来の混乱から抜け出し、ようやく半島経営も安定したことの表れであった。紀元57年は後漢を開いた光武帝の最後の年で、このときの奴国の朝貢も前王朝時代の東夷王による朝貢の再開として、後漢側で政治的セレモニーとして企画し呼び出したものではなかろうか。(補足17)このときもはや後漢は倭人と東人を別種とは考えず、倭のはるか南方にいる人々であると考えていたと思われる。なぜなら王奔伝元始五年の条に記載された朝貢の際に記録された国名リストの末尾にある「奴」国を、南方の異種を嚮導してくる倭人の国としてではなく、南方の倭種と一括したうえでその極南界としているからである。52年前の国名リストについて後漢側に何らかの誤認識があったか、あるいは遠方からの朝貢を演出する意図があったか分からないが、すくなくとも嚮導してきた倭人と南界からやって来た人々を同種と考えたからこその扱いであろう。

ここで倭人伝の一節を見てみよう。

「計其道里、當在會稽、東冶之東。」

この文は倭人の風俗と南方越地の風俗を比較し、それが極めて似ているがゆえにその道のりから見た位置がまさに越地に相当すると言っていると解釈されて来た。しかしなぜ風俗だけでこれほど確信に満ちた表現をとるのであろうか。ここでは「まさに」といっているのである。しかも會稽、東冶の東と限定しているのである。風俗の比較といってもはほとんど漢書地理志からの引き抜きにすぎず、しかも比較しているのは漢書地理志越地条であり南海島など會稽、東冶よりもずっと南なのにである。

倭人伝の里呈を作成した人物は、その当時まだ残されていた王奔の時代に北部九州のはるか南、會稽東冶の東からやって来た人々の朝貢記録を見て、それらの国々と北部九州からはるか二ヶ月南方の「邪馬臺」を地域的に比較したであろう。そして朝鮮北部の植民地から万里の彼方という北部九州に、さらに二ヶ月の行程を里数として換算し加えて得られた「邪馬臺」までの南万二千余里を見て、「その道のりを計れば、まさにちょうど(前漢の昔の東人、そして後漢の時代にやって来た倭奴国のある)會稽、東冶の東にあたるではないか。」と指摘しているのである。

補足

補足1

倭人伝の漢字音に関しては、長田夏樹氏がその方言性に言及されている。(29)しかし氏の用いられたサ行子音は、倭人伝においても精母、心母で表されておりこの状況は日本書紀α群の仮名と同様である。したがってサ行子音を用いて倭人伝の方言性を議論することはできないと考える。長田説に関しては森博達の反論もあり、不成立であると考える。(36)また長田氏のように、方言性をもって邪馬臺国の位置論争に絡めるのはそもそも無理がある。

補足2

これらの表記は二文字目が「禺知」を除いて「氏」、一文字目が中古音の尤韻(主母音の口開度が小さく最後がuで終わる。)、虞韻(主母音がuに近い)ないし合口(主母音の前にuが入る)の文字で、しかも「和」を除いていずれも三等韻(拗音)で母音の響きに通ずるところがあり、「和」を除いて中古疑母(頭子音が「ng」)を取ることから、上古音に遡っても同じ音を音訳したと想像される。

補足3

唐初の顔師古は漢書注として「氏讀曰支」と言い「氏」と「支」は同音の読みがあるとしているように、中古音では「氏」と「支」に同音の読みがある。三国志蜀書三の注に引く諸葛亮集に「涼州諸國王各遣月支、康居胡侯支富、康植等二十餘人詣受節度」とあり、西晋の陳寿が「月支」としていることが分かる。さらに遡って禮記王制の孔疏には後漢末の李巡注爾雅に「月支」とあるとする。また後漢の紀元147年に洛陽にやってきた「支婁迦讖」の「支」が、「月支」の「支」を表したことはよく知られている。このような姓が普通に現れる状況は、すでに「月支」の表記が定着していることを示すのであろう。前漢以前に遡る山海経や王恢傳にも「月支」の表記が見えるようであるが、山海経の場合直後に西晋の郭璞の注が続いており内容はともかく表記の出自は怪しい。また王恢傳の場合は同様の内容が漢書韓安國伝には「月氏」となっていて、本来「月氏」だったのでは有るまいか。

補足4

晋書・仏図澄伝にある羯語(匈奴の一派)の音訳「秀支:軍也 、替戻岡:出也 、僕谷:劉曜胡位也、劬禿當:捉也」と、突厥碑文を用いて「支」の音価を決められるとの指摘も有るが、突厥文字資料は三世紀まで遡らず言語的にもどのような関係にあるか不明な羯語の資料を用いて漢字音まで決するのはむりであろう。この資料で言えることは、せいぜい羯語がトルコ系であるということまでであろうと考える。後漢三国の仏典による音訳資料も中央アジアの諸族を介しているために、純粋にサンスクリットの音訳とは言えないものも多く、その時代の漢字音を決するには慎重を要するとされる。この分野で多くの業績を残された水谷真成氏は、竺法護の音訳仏典から三世紀の正歯音が中古音にほぼ一致するであろうとされている。(5)

補足5

中古音的な「支」の音価がどこまで時代を遡るかについて、はっきりとは分からない。王莽の新の時代に「令支県」を「令氏亭」に改名したとの記述が漢書地理志に残るが、王莽の改名がしばしば字義によっている以上音価に関してはなんとも言えない。

史記の「条枝」国や漢書の「條支」国に関して検討してみよう。この地名に関しては、宮崎市定氏による比定が参考になる。(37)氏は地理的記述より「條支」をシリア地域としていて、これはまず動かしがたいと思われる。「條支」が知られたのは、紀元前120年代の張騫の時代である。この時代のシリアはセレウコス朝の末期の時代で、かっては現トルコの一部からシリア、イラク、イランにかけての広大な領土を誇った帝国も、その領域は首都アンティオキアを中心とした地域に限られていた。「條支」の音訳の対象となりそうなのはまずは首都アンティオキアついで宮崎氏の言うセレウキアであろう。いずれの場合も、「支」の頭子音は「k」となる。しかし西域諸国はおそらくなんらかの仲介民族がインフォーマントになっていたであろうと考えられ確実性は低い。実際宮崎説に従えば「条」はレウのような音を表したことになるが、これは中古音ではデウのような音価であり上古音に遡っても当てはまらない。宮崎氏は「d」→「l」のような訛りを考えておられるが、そのような可能性があるならば、「k」に関しても変化が起こったとしてもおかしくないわけである。西域伝の音訳はインフォーマントの問題だけでなく、複雑な音価を持ったギリシャ語などの発音を音訳して漢字表記が長くなるのを避け、アンティオキアをデウキエにしたように二文字程度に縮約している気配もあり取り扱いが非常に難しい。

他に考慮を要するのは、漢書に現れる「黄支」国であろう。漢武帝の時代紀元前二世紀の終わりごろ漢に朝貢した国である。これは定説では南インドのカンチープラにあてられている。もしもこれが正しければ、紀元前二世紀に遡って「支」の音価が中古音化していたことになる。しかしカンチープラは三世紀サンスクリット刻文に初出し、全盛は七世紀以降であろう。紀元前の地名として妥当であるかまず吟味する必要がある。また「黄支」一字目の「黄」は、頭子音に関しては上古音では「g」に近いものであろうとされていて、カンチープラの「カン」に当てた場合不適とは言えないが(これに関連して「黄」と同じ中古音の声母(頭子音)をもつ「和」が、韓非子では「和氏」として現れて、おそらく「月氏」を表している可能性がある。)、韻は中古合口音であることからカンチープラの音訳としては不自然である。ちなみに唐代は「建志」宋代には「香至」と音訳されており、一字目は合口ではない。

「黄支」の候補地としては文献初出の時代性はカンチープラとあまり変わらないが、ヴェンギーが挙げられるのではないか。中世以降の都市としての重要性はカンチープラにまさるとも劣らず、七世紀以降チャールキア朝の首都となった南インドの戦略上の重要拠点である。

ヴェンギーは玄奘三蔵の音訳では「文耆」となっている。「文」の頭子音は玄奘三蔵の後期中古音の時代には軽唇音「v」となっていて、ヴェンギーの頭子音「v」をあらわすのに適していたのであろう。ところがこのような音価が現れるのは、唐代に入ってのことであることが分かっている。一方でヴェトナムの漢字表記は「越南」となっている。ヴェトナム漢字音は十世紀以降に中国より伝わったとされているが、それよりも古い古越漢字音からきていると思われるものもある。ヴェトナムを「越南」と書くのは、すなはちヴェト=「越」であって軽唇音ではない「越」の頭子音でv音をあらわしている。これは恐らく前漢時代武帝に滅ぼされた、南方漢人政権の南越あたりから伝わってきたものではないだろうか。「越」の頭子音は南北朝期以前には「黄」と同じものであったろうとする有力な仮説があり、これからすると「黄」によってヴェングのような音を表すことも不自然ではなかった可能性がある。つまり「支」の頭子音が上古音のままで「黄」の頭子音が比較的早くに中古音化したとすると、「黄支」の発音はヴェンギーに近似してくるのである。漢書地理志によれば「黄支」から漢への朝貢は武帝の時代とされており、武帝による南越の征服と「黄支」の朝貢が関連していた蓋然性が高い。「黄支」との交流に南越人の関与した可能性もあり、「黄支」の音訳にもその影響があるのかもしれない。こう考えると「黄」と「越」の関係もさらに興味深いものとなる。ヴェンギー説をとるならば、「黄」や「和」の頭子音は戦国には上古音的音価をとり前漢には中古音的に変化した事になる。

遠隔地の音訳はインフォーマントの問題まで考えれば、漢字音の音価を決めるまでにはなかなか難しい問題が多い。「黄支」の場合には直接朝貢しているのであるが、それでもどのような通訳を使ったか、音訳の状況はどのようなものであったかなどの問題が残っていることは言うまでも無い。

補足6

倭人伝の「奴」を後世の地名に当てはめる際に、後世の地名には「ノ」終わりの地名が多いため数の比較で「ノ」に当てはめる説がある。大きく分けて倭人伝の「奴」を中古音的に読む説と、上古音的に「ナ」と読んで「ナ」→「ノ」の変化を考える二つの説がある。中古音的に読む説の根拠には魏の時代の中央音がすでに中古音的であったことが挙げられるが、本稿で詳しく述べたように文献中の漢字音の評価としては余りにナイーブである。倭人伝の「奴」を出現頻度のみを根拠に、後世の「ノ」に当てるのも実際的ではない。下記に和名抄の郷名に関して筆者の数えた、終わり音節の出現数のベスト10を記載する。

  1. 「ベ」終わり:361例
  2. 「タ」終わり:321例
  3. 「ミ」終わり:259例
  4. 「ラ」終わり:236例
  5. 「マ」終わり:235例
  6. 「キ」終わり:186例
  7. 「ノ」終わり:184例
  8. 「イ」終わり:170例
  9. 「リ」終わり:168例
  10. 「ヤ」終わり:162例

「ノ」終わりは格別に多いわけではなく、出現頻度のみをもとに「奴」と「ノ」を対応させることにはそもそも無理がある。

倭人伝の国名末尾の漢字をあげると。

  1. 「奴」終わり:9例(「奴」一字2例を含む)
  2. 「馬」終わり:4例
  3. 「支」終わり:3例
  4. 「都」終わり:2例
  5. 他:1例づつ

となっている。「馬」が「マ」を表すとすると和名抄郷名五位、「支」が「キ」を表すとすると和名抄郷名六位である。和名抄郷名一位の「べ」は「へ」とともに「部」「戸」から来ていると思われ後世の地名であろう。和名抄郷名二位の「タ」は「ダ」とともに「田」から来ているが、意外なことに倭人伝ではあまり目立たない。和名抄郷名三位の「ミ」は内88例が「山上」など「カミ」「ガミ」から来ていて、それを除くと「マ」「キ」よりも順位は下になる。「ラ」は「大原」など「ハラ」から111例「中村」など「ムラ」から48例で、これを除けば「マ」「キ」よりも順位は下になる。つまり「部」「戸」「田」「原」「村」などの接尾が後世のものであるとすると、倭人伝の国名末尾は和名抄とそう違和感がないところに落ち着く。和名抄の「マ」「キ」より順位の下がる「ノ」を、その数のみを根拠に倭人伝国名の三割を占め圧倒的な「奴」に当てはめることは出来ない。「奴」は先史古代における特殊な地名の流行であり、それほどに圧倒的な地名は後世にはないと考えられる。「奴」が後世の何にマッピングされるかは、数のみではなく歴史的な地名の変遷を可能な限り考慮に入れた考察が必要であろう。ちなみに「ノ」終わりは瀬戸内東部に中心があり、後にその地域を中心に周囲に移流していったものであろう。本稿の国名比定図10と11において「彌奴」の比定に「美濃」を当てない理由もそこにある。「美濃」は古く「三野」と書くが、同様の地名が瀬戸内東部に見えるからである。

補足7

古事記伝は地名の「吉備穴」について、「穴」を嫌い「安那」と書いて「ヤスナ」と読ませたとする。真偽は分からないが、和名抄の安那郡には「夜須奈」と仮名が振られている。

補足8

「華」に関しては、中古曉母の読みをとり「クワ」の可能性もあるが、やはり日本語的ではない。「華」「和」いずれも中古匣母の読みがある。「華」を「ワ」を表したものとするには主母音に若干の問題があるが、「馬」「邪」など「華」と同じ主母音の文字が倭人伝では「ア」列音を表していると思われる点が考慮できる。「華」字は合口かつ主母音の開口が大きいことで、「ワ」行音的響きを伴うことは間違いなかろう。現代音でも比較的よく似た音価を示し、Washingtonを表して「華信頓」のように用いられる。「華」は中古音で「和」や「黄」と同じ頭子音を持つ。補足5を参照。

補足9

単独の「ナカ」郡/「ナガ」郡の地名に関しては律令期に、行政地名として中央の為政者によって与えられたものであるとする説もある。(38)しかし「ナカ」/「ナガ」地名は川の名などにも浸透し、阿波では長氏のように氏族名にもなっている。これらのすべてが氏の言うように行政地名としての「中」から派生したとは思いがたい。確かに「賀美(カミ)」「那珂(ナカ)」「資母(シモ)」のように三つが組になっているものもあるが、そうでないものもある。また必ずしも郡の郷名リストの筆頭にも来ず、中央といわれても納得できないものもある。そもそも「ナカ」/「ナガ」地名は文献的には、最初に「長」字が当てられるケースが目に付くことに反するように思う。一部が該当するとしてもすべてが該当するとは思われない。

補足10

「奴」単独の国名に対して「那珂郡」「那賀郡」を比定するアイデアに関しては、日向国那珂郡を二番目の「奴」国にあてた石川恒太郎氏(39)の名を上げることができる。しかし「華奴蘇奴」を「和那散」と比定し「奴」で終わる国名を各地の「那珂郡」と対比するアイデアを最初に提示したのは、私の知る限りかってネット上に存在した「大論争」掲示板における投稿者名マルセ氏である。本稿の個別国名の比定における「爲吾」の比定も、マルセ氏によるものである。本稿はマルセ氏のアイデアに全面的に依存するものである。

補足11

「ナ」終わり郷名と「シナ」終わり郷名においてそれに先行する部分をリストしてみると、「シナ」に先行する部分は「ナ」に先行する部分と山科の一例を除いて共通するものがない。山科は「シナ」地名の分布の中心地からひとつだけ離れておりそもそも異なる由来を持つのかもしれない。

「ナ」終わりの郷名

「シナ」終わりの郷名

また「シナ」に先行する語には13例中9例が「ア」列音で終わっており、いわゆる状態言をとっている可能性がある。一方で「ナ」に先行する語では38例中18例であり、その中には「たちばな」や「あな」「しおあな」のようにそもそも語末の「な」を分離することに疑問を感じる地名が8例も含まれている。ちなみにその8例のうち5例までもが西日本であり、「ナ」から派生したとは考えにくいものである。東国の「シナ」終わりは形容詞的な状態言に続くものであり、「ナ」終わりとは異なる言語感覚による地名の派生方法であったのかもしれない。

補足12

王莽伝に

[莽既致太平,北化匈奴,東致海外,南懷黄支 ,唯西方未有加。乃遣中郎將平憲等多持金幣誘塞外羌,使獻地,願内屬。憲等奏言:「羌豪良願等種,人口可萬二千人,願為内臣,獻鮮水海、允谷鹽池,平地美草皆予漢民,自居險阻處為藩蔽。問良願降意,對曰:『太皇太后聖明,安漢公至仁,天下太平,五穀成孰,或禾長丈餘,或一粟三米,或不種自生,或蛮不蠶自成,甘露從天下,醴泉自地出,鳳皇來儀,神爵降集。從四歳以來,羌人無所疾苦,故思樂内屬。』宜以時處業,置屬國領護。」事下莽,莽復奏曰:「太后秉統數年,恩澤洋溢,和氣四塞,絶域殊俗,靡不慕義。越裳氏重譯獻白雉, 黄支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍,匈奴單于順制作,去二名,今西域良願等復舉地為臣妾,昔唐堯被四表,亦亡以加之。今謹案已有東海、南海、北海郡,未有西海郡,請受良願等所獻地為西海郡。臣又聞聖王序天文,定地理,因山川民俗以制州界。漢家地廣二帝三王, 凡十(三)〔二〕州, 州名及界多不應經。堯典十有二州界,後定為九州。漢家廓地遼遠,州牧行部,遠者三萬餘里,不可為九。謹以經義正十二州名分界,以應正始。」奏可。又摶@五十條,犯者徙之西海。徙者以千萬數,民始怨矣。]

とある。以下小竹武夫氏訳(40)

奔は国内を太平にした後、北方に匈奴を教化し、東方に海外の民を招致し、南方に黄支国を手なずけたが、ただ西方にはまだ何ら手を差し伸べていなかった。そこで中郎将平憲らをつかわし金幣を多くもたらして塞外の羌族を誘い、土地を献じて属国となることを願わせた。憲らが奏言した。「羌の豪族良願らの種族、その人口一万二千人ばかりが、内属して臣となり、鮮水海・允谷の塩池を献じ、美草の平地をすべて漢の民に与え、みずからは険阻な処にいて漢の藩蔽となりたいと願うております。良願らが帰順を願う意を問うたところ、対えて申しますには、『太皇太后は聖明の君であり、安漢公はこの上ない仁者であり、天下は太平で、五穀は成熟し、あるいは禾本の長さ丈余、あるいは一粟三米、あるいは植えずして自生し、あるいは繭は蚕せずして自生し、甘露が転から下り、醴泉が地からわき出で、鳳凰が来て儀容を正し、神爵が降りて集まりました。四年来、羌人には病苦がなくなり、それゆえ内属を思い楽うているのです。』と。時期をみて事業に対処し、属国都尉を置いて護るべきであるとぞんじます。」事の処理が奔に下げ渡された。奔はまた奏上して言った。「太后が大統を掌握されてから数年でありますのに、恩沢はひろくあふれ、和気は四方に満ちて、絶域の風俗を異にする人たちも、わが正義を慕わないものがおらなくなりました。越裳氏は通訳を重ねて来たって白雉を献上し、黄支の民は三万里の遠方から活きている犀を貢物としてもたらし、東夷の王は大海を渡って国の珍宝をたてまつり、匈奴の単于は礼楽の制定作興に順い、二字名を忌んでやめました。いま西域の良願らもまた土地もろとも臣属しました、昔、堯の国は四方の外にひろくゆきわたっていて、それ以上広がりようがありませんでした。いま謹んで考えてみますに、すでに東海・南海・北海の三郡がありますのに、まだ西海郡がありません。なにとぞ良願らの献じた土地を受け入れて西海郡となさいますように。臣はまた、『聖王は天文を序で、地理を定し、山川・民俗に因って州界を制定する』と聞いております。漢家の地は二帝・三王の地よりも広く、およそ十三州ありますが、州名と境界はその多くが経典に相応していません。『書』堯典の十二州は後これを九州に定めました。漢家が土地を遼遠の彼方まで廓げたため、州牧がその部を巡視しましても、遠いものは三万里にも及んで、九つに分けることができません。謹んで経典の意にそうて十二州の名を正し、境界を分けて、始めの正しさに相応させたいものとぞんじます。」奏が裁可された。また法五十条を増し、犯す者はこれを西海郡に流すことにした。流されたものが千・万をもって数えられ、民は始めて怨んだ。

王奔伝ではこれに先立って、越裳氏に関しては

「始,風益州令塞外蠻夷獻白雉, 元始元年正月,莽白太后下詔,以白雉薦宗廟。」

また続いて

「太后乃下詔曰:「大司馬新都侯莽三世為三公,典周公之職,建萬世策,功(能)〔コ〕為忠臣宗, 化流海内,遠人慕義,越裳氏 重譯獻白雉。其以召陵、新息二縣戸二萬八千益封莽,復其後嗣,疇其爵邑, 封功如蕭相國。以莽為太傅,幹四輔之事,號曰安漢公。以故蕭相國甲第為安漢公第,定著於令,傳之無窮。」」

匈奴に関しては

「莽念中國已平,唯四夷未有異,乃遣使者齎黄金幣帛,重賂匈奴單于,使上書言:「聞中國譏二名,故名嚢知牙斯今更名知,慕從聖制。」又遣王昭君女須卜居次入侍。所以誑耀媚事太后,下至旁側長御,方故萬端。」

平帝紀では、越裳氏に関しては

「元始元年春正月,越裳氏重譯獻白雉一,K雉二,詔使三公以薦宗廟。」

黄支に関しては

「二年春,黄支 國獻犀牛。」

西海郡関連では元始四年の項に

「置西海郡,徙天下犯禁者處之。」

とある。匈奴と東夷の王に関する記事は王奔伝に限られる。匈奴は元始三年と思われるが、東夷の王の朝貢に関しては実は王奔伝を信じたとしても元始中という以上には分からない。ただ王奔伝の順化に関する記載の順、越裳氏、黄支、東夷王、匈奴が東夷王を除いて帝紀などから分かる年次順になっていることからするなら、元始二年から元始三年の間と思われる。

地理志では、黄支に関しては越地の条に

「平帝元始中 王莽輔政 欲燿威コ 厚遺黄支王 令遣使獻生犀牛」

とある。地理志には郡や県の改名等、王奔に関した記載が多い。人口統計に関しては、王奔政権下の元始二年のものと思われる。これらのことから

「會稽海外有東人、分為二十餘國、以歳時來獻見云。」

が、前漢末の王奔政権下での

「東致海外」

に関連する可能性は十分にあると考える。

元始年中の蠻夷記事
民族王奔伝元始五年その他王奔伝平帝紀地理志
帰順王奔の策
越裳氏風益州令塞外元始元年春正月
黄支南懷黄支元始二年春越地:自日南障塞
東夷王東致海外呉地:會稽海外
匈奴北化匈奴皇帝三年皇后記事の前元始三年春に皇后記事
誘塞外羌元始四年夏西海郡置

補足13

森博達氏は、漢字音の考察から其餘旁國二十一ヶ国(森氏は遠絶二十一ヶ国とする。)を前漢時代の東二十餘國とし、九州の有明海川から博多湾側へ並ぶ国々である可能性を示唆した。(3)

古田武彦氏はかって、まったく別の観点から東人を銅鐸祭祀の人々であるとの説を唱えられたことがあるようだが、現在は否定されているとのことである。

補足14

伯耆は「母来」の発音「papaki」ないし「phaphaki」から語頭でのp→phの変化と語中でのph→wの変化を経て「phawaki」、さらに二重母音の長母音化と語頭でのph→hをへて「hooki」となった。語頭語中のハ行子音の変化、および二重母音の長母音化は定説による。(30)

補足15

「サ」が何を意味したかは分からないが、接頭辞としての「サ」は有名である。早苗、五月、早乙女など稲に関連すると言う説も有るが定かでない。地名に関しても、「佐渡」(サワタリ)など、「サ」が接頭すると思われるものは多くある。「サ」は本来接頭辞ではなく固有の意味を持っていたのではないか。決して音義説を採るわけではないが日本語には事実として一音節語が存在し、倭人伝にも「鬼」「奴」など一音節語と思われる語が登場するのである。実は「彌奴」の「彌」(ミ)、「狗奴」の「狗」(ク)等も一音節語であろう。「サヌキ」の起源に関してはよくある地名要素である「浮き」の接尾により、「サナ」+「ウキ」の可能性もあるか。この場合は「サナ」で一語地名となる。

補足16

鹿深に関しては百済系の鹿深臣の名をとったとする説があるが、同時に佐伯連の名も出ており鹿深が百済語である根拠はない。むしろ書記に見られる百済系の語とは異なり、深の語は日本語の地名要素の典型でもある。甲賀は「鹿深」の発音「kapuka」ないし「kaphuka」から語中でのph→wの変化を経て「kawka」、さらに二重母音の長母音化で「kooka」となった。語中のハ行子音の変化、および二重母音の長母音化は定説による。(30)

補足17

四夷の朝貢の理由が朝貢する側だけでなく朝貢される側にもその理由があり、王朝側が演出した可能性に関しては大論争掲示板での投稿者アレックス氏の投稿内容に大きなヒントを得ている。氏は57年の倭奴国朝貢も107年の倭国王帥升の朝貢も、漢王朝側の仕掛けによるセレモニーの一環であるとされた。

参考文献と参照リンク1

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    和名類聚抄郷名考證 吉川弘文館 所収
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    日本の古代(1)倭人の登場 中公文庫 所収
  4. 『古代の音韻と日本書紀の成立』 森 博達著 大修館書店
  5. 卑弥呼はなんと呼ばれたか −漢字音からみた倭人伝−
  6. 『沖縄文化はどこから来たか―グスク時代という画期』 (叢書・文化学の越境)
  7. 『琉球語のφ>pの可能性をかんがえる
    --中本謙「琉球方言のハ行子音p音」への問い』
    かりまた しげひさ著沖縄文化 43 沖縄文化協会 / 沖縄文化協会 編
  8. 『奄美・沖縄方言におけるカ行子音体系の変遷』 内間 早俊著
    言語科学論集 14 東北大学大学院文学研究科言語科学専攻
  9. 『上中古の間における音韻史上の諸問題 』水谷 真成著
    中国文化叢書 1 言語 大修館書店 所収
  10. 瀚典全文檢索系統 2.0 版
  11. 中國哲學書電子化計劃
  12. 『日本歴史地名大系』平凡社
  13. 『古代地名大辞典』角川文化振興財団
  14. 『大日本地名辞書』吉田 東伍著 冨山房書店
  15. 水の女 折口信夫
  16. 『列島縦断 地名逍遙』-102- 和那散 谷川 健一著 冨山房インターナショナル
  17. 阿波学会研究紀要 郷土研究発表会紀要第33号 史学班 岡島 隆夫著
  18. 『日本の古代遺跡(37)徳島』 菅原 康夫著 保育社
  19. 『群馬史再発見』
    近藤 義雄,吉永 哲郎,峰岸 純夫,高階 勇輔,梅沢 重昭,熊倉 浩靖,阿久津 宗二 著
    あさを社
  20. 『石田川式土器の再検討(1)〜(3)高杯・器台・鉢形土器を中心として』
    小泉 範明,井上 昌美,飯島 義雄 著
    群馬県立歴史博物館紀要 群馬県立歴史博物館
  21. 『南関東の弥生土器2 〜後期土器を考える〜』関東弥生時代研究会
    埼玉弥生土器観会 八千代栗谷遺跡研究会編 六一書房 刊
  22. 『日本の歴史02、王権誕生』 寺沢 薫著、講談社
  23. 商店街における銀座地名の伝播に関する研究 田代英久著 東京工業大学大学院修士論文
  24. 『三角縁神獣鏡の時代 』 岡村 秀典著 歴史文化ライブラリー 吉川弘文館
  25. 蛇鈕の金印 −中国史書に見る漢時の倭国−
  26. 国名でみる三韓の地域性について −区分法による三国志魏書東夷伝韓条国名リスト分析の試み−
  27. 漢書地理志にみる楽浪郡の改革 −楽浪郡初元四年戸口統計木簡による考察−
  28. 『去声専韻発生の要因について』 矢沢 秀昭著 漢學研究 日本大學中國文學會 / 日本大學中國文學會 編 通号32
  29. 『邪馬台国の言語』 長田 夏樹著 学生社
  30. 『日本語の系譜』中本 正智 青土社
  31. 『日本国誌資料叢書. 第4巻 丹波・丹後』 太田 亮 著 臨川書店
  32. 『天皇と鍛冶王の伝承 ― 「大和朝廷」の虚構』 畑井 弘著 現代思潮新社
  33. 『銅鐸の考古学』 佐原 真著 東京大学出版会
  34. 『新版・魏志倭人伝』 山尾 幸久 講談社
  35. 『福田型銅鐸の型式学的研究--その成立と変遷・年代そして製作背景』
    北島 大輔著 考古学研究会 / 考古学研究会編集委員会 編
  36. 『三世紀倭人語の音韻』 森博 達著
    倭人伝を読む 中公新書 所収
  37. 『条支と大秦と西海』 宮崎 市定著
    宮崎市定全集 20 菩薩蛮記 所収
  38. 『古代地名「那珂」の謎--古代の物流拠点と流域論』 長瀬 一男著
    環太平洋文化 23 日本環太平洋学会 / 日本環太平洋学会 編 所収
  39. 『邪馬台国と日向』 石川 恒太郎著 日向文化研究所
  40. 『漢書8 列伝V』 班 固著 小竹 武夫訳 筑摩書房


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