安帝永初元年の朝貢国(上)
ー古本『後漢書』についてー
概要
安帝永初元年の倭の朝貢国名に関して、内藤虎次郎氏は『後漢書』の古写本には倭面土国
となっていたと指摘した。
しかし西嶋定生氏は広汎な書誌学的分析によって否定され、現行刊本同様倭国
であったとした。
本稿では西嶋氏が俎上に挙げた史料のうち、『通典』『翰苑』『釈日本紀』『日本書紀纂疏』『後漢紀』の5点に対して検討を行った。
その結果これら史料の現況を理解するには、范曄『後漢書』の古本の安帝永初元年の倭の朝貢国として、安帝紀に倭国
、東夷列伝に倭面上国
とあり、両者の記事に矛盾があったとすべきである事がわかった。
このような記述の矛盾は、一般に史書の撰述において、本紀と列伝の原史料として異なるものが用いられたことによると考えられる。
『後漢書』原史料については、さらに『隋書』を通して考察をおこなったが、内容は安帝永初元年の朝貢国(中)に述べる。
目次
1.はじめに^
『後漢書』(1)には後漢の安帝永初元年(107年)に、倭国王が朝貢してきたとの記述がある。内藤虎次郎氏は「倭面土国」という論文(2)において、北宋刊本『通典』(3)に同年の倭の朝貢国名を倭面土国
とすることや、『日本書紀纂疏』(4)に『東漢書』に曰くとして倭面上国
、『釈日本紀』(5)に『後漢書』に曰くとして、『後漢書』(6)安帝紀の倭国
相当の朝貢国名が、倭面国
となっていることを論拠に、今に伝わらない『後漢書』古本では、その朝貢国名を倭面土国
としていたと主張した。
内藤氏は『日本書紀纂疏』の倭面上国
は倭面土国
からの誤写、『釈日本紀』の倭面国
を同じく脱字と考えられたのである。その後大宰府『翰苑』(7)が発見され、そこに後漢書曰
として『後漢書』東夷列伝倭条相当の記事を引き、朝貢国を倭面上国
と表記されていたことで、この仮説は多くの支持を受けることになった。
西嶋定生氏は(8)丁寧に、その論拠となった諸史料に検討を加え、指摘されるような古写本の存在を否定し、『後漢書』は当初より同年の倭の朝貢を、倭国
からのものとしていたとし、倭面土国
は他の史料から引かれたものであるとした。
しかし西嶋氏は倭面土国
の出典について具体的な指摘はできず、当初は『魏略』を疑われていたが、倭面土国
が実在しない架空の国であるとの王仲殊氏の説をうけて、1994年に「「倭面土国」出典続考」(9)を発表し、唐代において倭国
の表記が揺れた際に、ヤマトの音を写して成立した表記とした。
倭面土国
という国名が、『後漢書』には書かれていなかったとする西嶋氏の論には、表立った反論は現れなかったが、2005年になって山尾幸久氏が反論をおこなった。(10)その論旨は主に出典に関するもので、西嶋氏の音韻に基づく表記の揺れ説に対して、唐代漢字音に基づき成立しないとしたうえで、唐代に存在した『後漢書』と呼ばれうる、複数の後漢時代史のいずれかが出典だろうとした。
そして『東観漢記』をはじめ、八家後漢書などの『後漢書』に先行する後漢時代史の中には、安帝永初元年の朝貢国名として、倭国
とするものと倭面土国
とするものの二通りがあったのであろうとした。
2006年依藤勝彦氏(11)は、新たに『日本書紀』講書記録を提示し、西嶋氏が俗本とした『釈日本紀』の依拠した『後漢書』が、『日本書紀』講書という公の場で用いられた写本であることを示した。
依藤氏もまた、西嶋氏の示した倭国
表記の揺れ説に対して、各種の表記の例を挙げて批判した。山尾氏が范曄『後漢書』の文面そのものを論じなかったのに対して、依藤氏は范曄『後漢書』古本の文面について、『後漢書』安帝紀永初元年十月条の朝貢国名を倭面国
、東夷列伝倭条の同年の朝貢国名を倭面土国
とする写本があったとして、その源流を後漢同時代史である『東観漢記』にさかのぼって論じられた。
本稿は倭面土国
や倭面上国
のような異表記が、どのようにして各種史料中に現れるに至ったかを、もういちど各氏の取り上げた史料によって検討するものである。
倭面土国
および倭面上国
の出典を検討するための主な史料は、下記の五点となる。
- A.『通典』巻百八十五辺防一東夷上倭条の、現存最古の北宋刊本
- B.『翰苑』巻三十蕃夷部倭国の大宰府残巻
- C.『釈日本紀』開題
- D.『日本書紀纂疏』巻一
- E.『後漢紀』巻十六
これらを『後漢書』現行本や、『後漢紀』現行本などと比較しながら論じてゆく。
2.『通典』と『翰苑』^
まずAに関して、西嶋氏の指摘をもとに考えてゆく。
西嶋氏にはAの関連する文面が、現行『後漢書』の文面と異なる点を指摘し、その多くが『三国志』(12)の記述と一致していることを指摘した。
また倭国が中国と通じた時期を、後漢以来とした部分は、他のどの史書にも見えない、独自の内容であるとして、『通典』は『後漢書』だけでなく、『三国志』など他の史書も引いているはずであるとした。そのように考えると、倭面土国
が『後漢書』から引用したものか、他の史書からの引用であるか、確定できないとして、『後漢書』の文面に倭面土国
があったとは言えないとしたのである。
まことにもっともな話ではあるが、そもそも『通典』は分類的には類書と呼ばれる、辞典的な書物であり、多岐にわたる史料を参照して書かれるもので、引用元の文面を正確に引くとは限らない。 そのうえ『通典』では引用書名が書かれていない場合が多い。 『通典』を出典を限定するために利用することはできないが、内容的に多くの史家の信頼を受けている書であるので、いいかげんな出典ではないであろう。 西嶋氏が最初に『魏略』を疑ったのも、無名の書物などではないと考えたからではないだろうか。
一方Bの『翰苑』の場合は、事情が少々異なる。倭面上国
という現行『後漢書』の表記とは異なる朝貢国名が、後漢書曰
として引かれているのである。
本文:卑弥妖惑,翻叶群情,台与幼歯,方諧衆望
注文:後漢書曰,安帝永初元年,有倭面上国王師升至,桓遷之間,倭国大乱,更相攻伐,暦年無主,有一女子,名曰卑弥呼,死,更立男王,国中不服,更相誅殺,復立卑弥呼宗女台与,年十三,為王,国中遂定,其国官有伊支馬,次曰弥馬升,次曰弥馬獲,次曰奴佳鞮之也。
『翰苑』巻三十蕃夷部倭国より
現存『翰苑』は誤字の非常に多い史料で、現行『後漢書』との文字の異動については、一部『後漢書』に合わせた。
西嶋氏はこの引用文の卑弥呼
の後に、范曄『後漢書』に全く該当しない記述があり、この引用文が范曄『後漢書』によるものではないとした。さらにその時代が後漢の時代をはずれ、魏の時代の記述に及んでいることから、後漢時代史ですらないと指摘した。
これに対して山尾氏は、注文の後半が魏の時代にかかっていたとしても、後漢時代史として不自然ではないとして、范曄『後漢書』ではなくとも、『後漢書』以前に数多く編纂された、後漢時代史の可能性は消えないとした。
湯浅幸孫氏(13)によれば、この文には欠文がある可能性があるという。本文に見える卑弥妖惑,翻叶群情
に相当する部分が、注文にはないのである。『後漢書』には関連する記事が下記のようになっている。
建武中元二年,倭奴国奉貢朝賀,使人自称大夫,倭国之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭国王帥升等献生口百六十人,願請見。桓、霊間,倭国大乱,更相攻伐,歴年無主。有一女子名曰卑弥呼,年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑衆,於是共立為王。
『後漢書』列伝巻七十五東夷列伝倭条より
つまり卑弥妖惑,翻叶群情
に相当する部分が、本来名曰卑弥呼
の後に続いていたはずなのである。これがないのは注としておかしいので、本来の『翰苑』にはあった文が、現存本までのどこかの書写の段階で書き落とされたと思われる。注文において卑弥呼
という単語は、名曰卑弥呼
として『後漢書』に見える文との関連が疑われる、前半の最後であるとともに、卑弥呼死
とつながって、後半部分に共有された形になっている。憶測になるが、これは書写元の文を卑弥呼
まで読み取って、書写先の紙面に目を移し、そこまで書き写したあとで、もう一度書写元に目を戻したときに、文の後方にあった卑弥呼
に目線が飛んで、中間を飛ばしてしまった可能性がある。
ところがこの欠文の位置が微妙なのである。注文後半の内容は、記載順は異なるものの、同様の記事が『三国志』東夷伝倭条にあるのである。
官有伊支馬,次曰弥馬升,次曰弥馬獲支,次曰奴佳鞮 更立男王,国中不服,更相誅殺,当時殺千余人。復立卑弥呼宗女壱与,年十三為王,国中遂定。
『三国志』魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭条より
もしもこの書き落とされた文の中に、魏志曰
のような引用書名の記述があったとしたら、後漢書曰
は誤りではないことになる。たしかに欠文のなかに魏志曰
のような、引用書名があったことは証明できない。しかし後漢書曰
は誤りという断定もまたできないのである。
西嶋氏はさらに次の引用文をもとに、こちらが范曄『後漢書』であり、そこでは倭面土国王
ではなく倭王
となっているとした。
本文:中元之際,紫綬之栄
注文:漢書地志曰,夫楽浪海中,有倭人,分為百余国,以歳時献見,後漢書,光武中元二,倭国奉貢朝賀,使人自称大夫,光武賜以印綬,安帝初元年,倭王師升等献主口百六十
『翰苑』巻三十蕃夷部倭国より
引用は前半を漢書地(理)志曰
、後半は後漢書(曰)
となってる。これは先の注文で指摘した、二つの書物からの引用が、同じ注のなかにあったという例になるものである。この後半部分が、『後漢書』に対応しているとのことなので、該当する『後漢書』の文面を下記に示す。
建武中元二年,倭奴国奉貢朝賀,使人自称大夫,倭国之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭国王帥升等献生口百六十人,願請見。
『後漢書』列伝巻七十五東夷列伝倭条より
赤字の部分は、『翰苑』では対応する文字が抜けているものである。『翰苑』は極めて写本の品質が悪く、複数文字の脱落もしばしば見受けられる。倭王
が倭国王
からの脱字によるものか、倭面上国王
からの脱字によるものかは判断できない。ちなみに上記『翰苑』引用では王名が師升
になっているが、王名師升
が国名倭国
と対になっているのは、『冊府元亀』(14)に一例見えるだけである。逆に王名が帥升
の文面では、国名は常に倭国
である。
以上『通典』と『翰苑』についての考察では、范曄『後漢書』に倭面土国王
や倭面上国王
の記載があったかどうかは断定できない。なかったとは言えないのである。先行する類書からまた引している場合もあり、これらの書面からもとの書面を知るのは難しいのである。倭面土国
や倭面上国
は、常に師升
と対になって現れ、決してほかの場面には現れず、西嶋説のように表記の揺れとは考え難い。
『通典』のような有力な書に記載された倭面土国
は、元をたどれば何らかの有力な史料にあったと考えるのが妥当であり、また『翰苑』に『後漢書』という書名を挙げて倭面上国
とあることは、たとえまた引きであったとしても、遡って元引きの史書が『後漢書』と称されうるものであったことを物語るものなのである。
3.『釈日本紀』と『日本書紀纂疏』^
Cの『釈日本紀』は卜部兼方により十二世紀終わりごろに成立し、十三世紀初頭のものが現存する。開題には日本の国名として下記のような記述が見える。
後漢書伝,孝安帝永初元年,倭面国遣使奉献,注曰,倭国去楽浪万二千里,男子点面文身,以其文左右大小別尊卑之差
『釈日本紀』開題より
ここには章懐太子李賢注の范曄『後漢書』の安帝紀永初元年十月条の文面が引かれている。西嶋氏はここで、注が倭国
に対するものであって、倭面国
に対するものでないと指摘し、李賢の見た唐代の『後漢書』の文面では、朝貢国名は倭国
となっていたはずであるとした。また『釈日本紀』編纂時の、諸刊本や類書には、すべて倭国
となっているとし、卜部兼方の引いたものは、『後漢書』の俗本であるとした。
しかし依藤氏は新たに『釈日本紀』の記述が基にした、承平六年(936)の『日本書紀』講書記録と推定される、『日本書紀私注』丁本の記述に、冒頭を欠損した面国遣使奉献
以下『後漢書』安帝永初元年十月条の李賢注とほぼ同じ記述があることを指摘し、この写本が十世紀にさかのぼり、『日本書紀』講書という公の場で用いられたものであるとした。『続日本紀』巻三十神護景雲三年(769)条によると、この年大宰府が『後漢書』を含む史書各一部を賜わった話が出てくる。つまり日本には、唐代にさかのぼる『後漢書』写本が伝来していたことがわかり、このような古い写本が代々日本で伝写されていたとみるべきであろう。中国では刊本普及とともに、写本の伝統はすたれていくが、日本では江戸期に至るまで写本が行われている。これら史料の語るところは、鎌倉期に至るまでのかなりの期間、『後漢書』安帝紀永初元年十月条の朝貢国名を倭面国
とする、写本が行われていたことを示すものである。
Dの『日本書紀纂疏』は一条兼良により十五世紀成立し、十六世紀のものが現存する。巻一には日本の国名に関するやり取りがあり、そこに倭面国
なる国名が漢籍にあるとしている。
二伝倭面国,此方男女,皆點面文身,故加面字呼之,東漢書曰,安帝永初元年,倭面上国王師升等,献生口百六十人
『日本書紀纂疏』巻一より
ここで東漢書曰
として、范曄『後漢書』東夷列伝倭条の安帝永初元年の記事と同様の文面が引かれるが、そこには朝貢国名として倭面上国
とある。説明として国名を倭面国
と伝えるのは、男女が顔や体に入れ墨をし、そのため面の字を加えて呼ぶのだという。この解説は、同書の安帝紀永初元年十月条につけられた、章懐太子李賢注を想起させるもので、東漢
はしばしば後漢
の別称として用いられ、東漢書
とは范曄『後漢書』を意味することがわかる。
西嶋氏は一条兼良が『日本書紀纂疏』を書いたとき、戦乱のさなかで手元に『後漢書』は無かったとし、日本に伝わっていた『翰苑』などを注した際の、手抄本などから誤って引用したとする。ここでも引用元書名を誤っているとしていることになるが、明快な根拠が示されているわけではない。むしろCの引用元になったものと同じ、日本に古く伝写した范曄『後漢書』の写本をもとにしたとするのが妥当であろう。
Eの『後漢紀』は『後漢書』のおよそ五十年前に成立したとされる史書で、『後漢書』とは独立の記事も含む、編年体の書物である。『後漢紀』(15)に下記のようにある。
十月,倭国遣使奉献。
『後漢紀』巻十六孝安皇帝紀より
これは『後漢書』安帝紀永初元年十月条の下記記事とほぼ同じである。
冬十月,倭国遣使奉献。
『後漢書』本紀巻五孝安帝紀永初元年十月条より
このことから朝貢国名の倭国
は、両者の原史料に遡るものと考えられる。唐代につけられた李賢注が、倭国
に対する注であることもこれを補強する。
4. まとめと考察^
安帝永初元年の倭の朝貢に関して、各史料から言えることをまとめると下記のようになる。
A『通典』
なんらかの有力な史料に、倭面土国王師升
が朝貢してきたとあった。
B『翰苑』
『後漢書』と呼びうる史料、もしくはまた引きしてきた史料が『後漢書』と呼んだ史料に、倭面上国王師升
が朝貢してきたとあった。
C『釈日本紀』
日本に伝写した范曄『後漢書』の安帝紀永初元年十月条、倭面国
が使者を遣わして朝貢したとあった。
D『日本書紀纂疏』
日本に伝写した范曄『後漢書』の東夷列伝に、倭面上国王師升
が朝貢してきたとあった。また李賢注をもとにした注文のありようから、本紀に倭面国
が使者を遣わして朝貢したとあったことが推察される。
E『後漢紀』
本紀の原史料に遡って、倭国
が使者を遣わして朝貢したとあった。本紀の李賢注により、唐代の本紀にも同様であったことがわかる。
ここでCやDに対して、Eとの間に明白な矛盾が生じている。西嶋氏のCとDの原史料に対して、俗本や手抄本などと断定したのは、Eを根拠にしたものであろう。日本に伝わり伝写されてきた『後漢書』において、なぜ国名が倭面国
になったのかについて、西嶋氏は『漢書』地理志燕地に見える如淳の注の影響であるとする。
如墨委面,在帶方東南萬里
『漢書』巻二十八下地理志燕地より
しかし『釈日本紀』と『日本書紀纂疏』ともに『漢書』には全く触れていない。『釈日本紀』では李賢注を伴っており、李賢注の末尾には見本伝
として東夷列伝倭条を指している。『日本書紀纂疏』ではまさに東夷列伝倭条を引いている。一条兼良は倭面上国
を国名ととらえすに、上国を国名に対する形容ととらえ、倭面国
を国名としていることがわかる。
これから考えるに、両史料の倭面国
の源流は、東夷列伝の倭面上国
であると考えられる。おそらく日本に伝わった『後漢書』は、伝写されるうちに同じ年の朝貢国名に違いがあることが疑念を生んだものと思われる。
それが上古の日本の国名であるとすれば、関心は非常に強いものであり、本紀の国名倭国
を倭面国
からの脱字であるとして、修正してしまったのであろう。
以上から范曄『後漢書』の古本では、安帝永初元年の倭の朝貢国として、本紀に倭国
、列伝に倭面上国
とあったと考えられるのである。つまり両者の記事に矛盾があったということである。
史書の本紀と列伝の記事にはしばしば差がある。『三国志』東夷伝には、景初年間から倭国の朝貢が複数回記録され、朝貢をおこなった卑弥呼
は魏王朝から、親魏倭王
の称号と金印を受けているが、本紀には(16)には、倭国王俾弥呼
の朝貢のみが記され、王名も称号も異なっている。『宋書』(17)文帝紀元嘉七年正月条には、倭国王の朝貢記録があるが、『宋書』(18)夷蛮伝東夷倭条にはこの年の朝貢記録がなく、逆に夷蛮伝東夷倭に記録された元嘉ニ年の朝貢は、本紀には見えない。
現行『後漢書』でも本紀と、列伝では矛盾がある。本紀では倭国
が使者を遣わしたとなっているが、列伝では倭国王
がやってきたとなっているのである。想定される古本『後漢書』では、朝貢国名も倭国
ではなく倭面上国
ないし倭面土国
で、異なっていたことになる。このような矛盾は両者の原史料に遡るものであろう。
南北朝以降の多くの史書では、本紀は皇帝周辺の時系列記録である、起居中をもとに撰述された。(19)『後漢書』本紀の記録も後世の起居中に相当する史料を源流に持つものであろう。起居中は『隋書』(20)経籍に、漢献帝起居中五巻と見えるので、後漢最後の皇帝のものは確認できる。おそらく安帝の時代にも、相当する皇帝周辺の時系列記録はあったであろう。それが後漢同時代史である『東観漢記』本紀の記述に流れ込み、そこから『後漢書』本紀や『後漢紀』が編纂されたのであろう。
一方『後漢書』列伝はその他の史料によって撰述されたと考えられる。しかし『後漢書』の原史料の一つとされている『東観漢記』には、東夷伝は立てられていないとされている。それは『三国志』東夷伝の書稱末尾に、故撰次其国,列其同異,以接前史之所未備為
(故にその国を撰次し、その同異を列ね、以て前史の未だ備えざる所に接するを為す)とあり、『三国志』以前の有力史書である『東観漢記』に、東夷に関するまとまった記述があったとは考え難いためである。
『三国志』東夷伝は、漢末に遼東に割拠していた公孫氏を、司馬懿が滅ぼして後、魏人が東夷の奥深くに至ったことで、その地の実情が伝わり成立したと考えられている。
そのため『後漢書』東夷列伝は、『三国志』東夷伝をもとに書かれたとされることが多い。
しかし公孫氏が独立するまでの間は、後漢王朝は東夷諸族と接触していたはずで、その記録は何らかの形で残っていたはずである。
実際『後漢書』東夷列伝高句麗条には、安帝時代に高句麗王宮
および嗣子遂成
と、後漢との間に起った争いと交渉の記録がある。ところが『三国志』には遂成
は登場せず、『後漢書』には独自の原史料が用いられていることがわかる。宮
や遂成
とのやり取りには、『三国志』にみえない安帝の詔も用いられており、何らかの形で、後漢の政府系史料に遡る記事が利用できたことがわかる。(21)
つまり同じく『三国志』にみえない、『後漢書』東夷列伝の倭面土国
ないし倭面上国
の朝貢記録は、『東観漢記』を経由したかどうかはともかく、このような後漢王朝の東夷諸国との交渉記録を源流に持つものと考えられる。
朝貢記事において、朝貢国名は最も重要なものであり、中国では皇帝周辺の実録をもとにした本紀の内容を正として、列伝の国名が倭国
に統一されたのであろう。北宋時代の『後漢書』刊本化から、成立がやや遅れる『冊府元亀』では、内容は王名が師升
となっている以外、現行『後漢書』とほぼ同一である。中国で『後漢書』の刊本化がなされる北宋代までのどこかの時点で、この校勘が行われたはずである。王名の帥升
はその後の誤刻の可能性があるが、内容は南宋刊本で固定され、諸本へも波及していったのであろう。
逆に日本では上国
を形容的にとらえうるという固有の理由により、本紀の国名が校勘を受け、倭面国
となったと思われるのである。
このように朝貢国という重要な情報に矛盾を引き起こしていた可能性のある、原史料の状況はどうなっていいたのか。
また朝貢国名は倭面土国
が正しいのか、倭面上国
が正しいのか、その探求は後半の安帝永初元年の朝貢国(中)にゆずる。
参考文献
- [戻る](1)『後漢書』列伝巻七十五東夷列伝倭条
- [戻る](2)内藤虎次郎 1929 「倭面土国」 『読史叢録』弘文堂書房 p63
- [戻る](3)『通典:北宋版』第八巻 長沢規矩也, 尾崎康 編 汲古書院, 1981.6 p92
- [戻る](4)『日本書紀纂疏』 : 6巻 (国民精神文化文献 ; 第4) 藤兼良 述 国民精神文化研究所, 1935 p7
- [戻る](5)『国史大系』 第9巻 新訂増補 黒板勝美 編 国史大系刊行会, 昭和7 p10
- [戻る](6)『後漢書』本紀巻五安帝紀永初元年条
- [戻る](7)『翰苑』竹内理三校訂・解説、太宰府天満宮文化研究所、1977年2月 p62
- [戻る](8)西嶋定生 1999.05 「「倭面土国」出典考」 『倭国の出現』第二章 東京大学出版会 p23
- [戻る](9)西嶋定生 1999.05 「「倭面土国」出典続考」 『倭国の出現』第三章 東京大学出版会 p89
- [戻る](10)山尾幸久 2005/03 「倭国」と「倭王」との出現.-西嶋定生氏の「倭面土国」説批判 『青丘学術論集』 25 韓国文化研究振興財団 p5
- [戻る](11)依藤勝彦 2006.春 「倭面土国論--特に西嶋定生説の批判的検討から」『東アジアの古代文化』 古代学研究所 編 (157)
- [戻る](12)『三国志』(12)巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人条
- [戻る](13)湯浅幸孫 1983.2 『翰苑校釈』 張楚金 [著] 国書刊行会 p115
- [戻る](14)『冊府元亀』巻九百六十八外臣部朝貢第一
- [戻る](15)『後漢紀』巻十六孝安皇帝紀永初元年条
- [戻る](16)『三国志』巻四斉王紀正始四年条
- [戻る](17)『宋書』巻五文帝紀元嘉七年正月条
- [戻る](18)『宋書』巻九十七夷蛮伝東夷倭条
- [戻る](19)安部総一郎 2000.06 「後漢時代關係史料の再検討--先行研究の検討を中心に」 『史料批判研究 / 史料批判研究会 [編] (通号 4)』 p.1~43
- [戻る](20)『隋書』巻三十志経籍二史起居中
- [戻る](21)『三国志』巻三十東夷伝には高句麗条倭条のほか、夫余条にも独自記載がある。参照
変更履歴 安帝永初元年の朝貢国(上) ー古本『後漢書』についてー
- 2025年10月25日 ドラフト版
変更履歴 倭面上国考(上) ー永初元年の朝貢主体ー
- 2024年07月23日 ドラフト版
- 2024年07月26日 初版
- 2024年07月29日 二版 万葉仮名に関する情報追加と漢字音に対する誤解の訂正、歴史的評価の追加
- 2024年07月31日 三版 各史書の倭国朝貢記事の関連記述の表を修正
- 2024年08月04日 四版 図版追加と文面考証を追加、参考文献を追加
- 2024年10月14日 五版 西嶋説批判を追加
- 2025年07月14日 六版 文献的検討と地名比定を分離、各史書の倭国朝貢記事の関連記述の表を更新
- 2025年07月27日 七版 『後漢書』倭国に関する考察追加
- 2025年08月03日 八版 『後漢書』写本に関する考察追加
白石南花の随想