安帝永初元年の朝貢国(中)
ー隋書ー
概要
『隋書』東夷伝倭国の後漢時代に関する記述は、『後漢書』東夷列伝倭の記述に、少数の語彙を除いて忠実に従いながら、安帝永初元年の朝貢国名を、建武中元二年の朝貢国名と同じとしている。なぜこの部分だけ内容が異なるのかを考察した。このようなことが起こったのは、安帝永初元年の朝貢国(上)において指摘した、安帝永初元年の朝貢国名の不一致のため、『隋書』撰述者が確認のため『後漢書』原史料を参照した際に、その記事の解釈が范曄とは異なったことによるものと推察した。具体的には内藤虎次郎氏の立てた、古本『後漢書』説の倭面土国
が、実際には『翰苑』に見える倭面上国
が原型であるとし、それが『東観漢記』の委面上国に遡ると考えた。成語委面
の使用例である、委面覇朝
の委面が覇朝すなわち魏武(曹操)に臣従する意味であることから、委面上国は上国
に対する臣従を意味すると解釈可能になり、漢籍における上国
が中国を意味する用例があることから、『隋書』撰述者はこれを中国に対する臣従と理解したと考える。この結果『後漢書』東夷列伝の倭朝貢文相当の原史料における、安帝永初元年以下には朝貢国名はなくなり、先行する建武中元二年の倭奴国
の朝貢とみなされることになったと考える。両書の解釈の是非およびその歴史的考察については、安帝永初元年の朝貢国(下)において行う。
目次
1.はじめに^
中国史書には、日本国はかっての倭奴国であるとの記事がみられる。
倭国者,古倭奴国也。
(倭国は昔の倭奴国である。)
945年成立の『旧唐書』巻百九十九,列伝東夷,倭国より
日本,古倭奴也。
(日本、昔の倭奴である。)
1060年成立の『新唐書』巻二百二十,列伝東夷,日本より
日本国者,本倭奴国也。
(日本国は本倭奴国である。)
1344年成立の『宋史』巻四百九十一,列伝外国七,日本国より
古稱倭奴国
(昔倭奴国と称していた。)
1369年成立の『元史』巻二百八,列伝外夷一,日本より
このような日本の起源を倭奴国
とする記述は何をもとにしたものであろうか。その源流と思われる記事が『隋書』に見える。
漢光武時,遣使入朝,自称大夫。安帝時,又遣使朝貢,謂之倭奴国。
(漢の光武の時、使いを遣わして入朝せしめ、[使者は]自ら大夫と称す。安帝の時、また使いを遣わして朝貢せしめた。これを倭奴国と謂う。)
636年成立の『隋書』巻八十二,列伝東夷,倭国より
この内容は、安帝永初元年の倭の朝貢を倭奴国とするもので、『後漢書』ではこの時の朝貢国が倭国となっているところから、これ以降倭国は昔の倭奴国とする認識が定着したものと思われる。『北史』にも同様の記述があるが、成立年が後で内容も同じであり、『隋書』を下敷きにしたものであろう。
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴国。
644年成立の『北史』巻九十四,列伝四夷上,倭より
問題はこの時の『隋書』の記録である。倭国に関する記述の冒頭部分におかれた、漢の時代の倭国の地理と歴史を述べた部分を抜粋すると、次のようになっている。
古云去楽浪郡境及帯方郡並一万二千里,在会稽之東,與憺耳(*憺耳の憺は人偏)相近。漢光武時,遣使入朝,自称大夫。安帝時,又遣使朝貢,謂之倭奴国。桓、霊之間,其国大乱,遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑弥呼,能以鬼道惑衆,於是国人共立為王。有男弟,佐卑弥理国。其王有侍婢千人,罕有見其面者,唯有男子二人給王飲食,通伝言語。其王有宮室楼観,城柵皆持兵守衞,為法甚厳。
(古の伝えでは、楽浪郡境及び帯方郡を去ること一万二千里、会稽の東に在り、憺耳と相近し。漢の光武の時、使いを遣わして入朝せしめ、[使者は]自ら大夫と称す。安帝の時、また使いを遣わして朝貢せしめた。これを倭奴国と謂う。桓・霊の間、その国大いに乱れ、たがいに相攻伐し、年を経て主なし。女子に卑弥呼という者あり、鬼道をもって衆を惑わすこと能う。ここに於いて国人共に立てて王と為す。男弟あり、卑弥呼を佐けて国を理む。その王に侍婢千人あり、その顔を見る者稀なり。ただ男子二人ありて王に飲食を給し、言語を通伝す。その王に宮室楼観あり、城柵は皆兵を持して守衛し、法を為すこと甚だ厳なり。)
『隋書』巻八十二,列伝東夷,倭国より
この記録を、『後漢書』の該当する部分と比較してみよう。
楽浪郡徼,去其国万二千里,去其西北界拘邪韓国七千余里。其地大較在会稽東冶之東,與朱崖、憺耳相近,故其法俗多同。
(楽浪郡の境界から、その国までは1万2千里、その西北の境である拘邪韓国までは7千余里である。その土地はだいたい会稽東冶の東にあり、朱崖、憺耳と近く、故にその法俗は多く同じである。)
建武中元二年,倭奴国奉貢朝賀,使人自称大夫,倭国之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭国王帥升等献生口百六十人,願請見。桓、霊閒,倭国大乱,更相攻伐,歴年無主。有一女子名曰卑弥呼,年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑衆,於是共立為王。侍婢千人,少有見者,唯有男子一人給飲食,伝辭語。居所宮室楼観城柵,皆持兵守衞。法俗厳峻。
(建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、印綬を賜う。安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更に相攻伐し、歴年主なし。一女子有り、名づけて卑弥呼と曰う。年長けて嫁せず、鬼神道に事え、能く妖を以て衆を惑わす。ここに於いて共に立てて王と為す。侍婢千人、[その顔を]見る者少なし。唯だ男子一人有りて飲食を給し、辞語を伝う。居処の宮室・楼観・城柵、皆兵を持して守衛す。法俗厳峻なり。)
『後漢書』列伝巻七十五東夷倭より
全体に簡略化されており、年長不嫁
など一部の記述は『三国志』に拠っているものの、内容的には『後漢書』の内容を下敷きにしていることがわかる。(1)ただ一か所安帝時の朝貢に対する評価のみが大きく異なる。『後漢書』では安帝永初元年,倭国王帥升等献生口百六十人,願請見。
と朝貢国が倭国
であるのに、隋書では安帝時,又遣使朝貢,謂之倭奴国。
となっており、倭奴国
の再度の朝貢となっているのである。
筆者は帝永初元年の朝貢国(上)に示したように、『後漢書』東夷列伝の倭国王
は、本来倭面土国王
ないし倭面上国王
であったと考える。したがってこの文面は、建武中元二年に倭奴国
、安帝永初元年に倭面土国
ないし倭面上国
と続いて、明らかに異なる国の朝貢であると読めたはずである。『隋書』の内容が、『後漢書』の内容を、『三国志』によって多少表現を変えた部分はあっても、ほかは丁寧に追従しているだけに、この部分だけこのように大きく誤読するとは考え難い。『三国志』によって変えた部分同様、おそらく何らかの別史料を見たのであろう。
前回の拙論では、安帝永初元年の倭の朝貢において、古本『後漢書』の帝紀と列伝で国名が異なったことで、写本に混乱が起こったことを述べた。『隋書』撰述者もこの問題に困惑したであろう。内容を確認するために、『後漢書』の原史料となる書物を開いたと考えられれる。では『隋書』の撰述者はなにをみたのであろうか。本稿の目的は、『隋書』撰述者が何を見て、このように内容を変更したのかを推論することである。
2.『隋書』の参照した史料^
まずは候補に挙がる書物を調べてみる。隋の時代の図書目録といわれる、『隋書』経籍によると、後漢時代史に関連する書物は以下になる。
漢献帝起居注五巻
東観漢記一百四十三巻起光武記注至霊帝,長水校尉劉珍等撰
後漢書一百三十巻無帝紀,呉武陵太守謝承撰
後漢記六十五巻本一百巻,梁有,今残欠。晋散騎常侍薛瑩撰
続漢書八十三巻晋秘書監司馬彪撰
後漢書十七巻本九十七巻,今残欠。晋少府卿華喬撰(*華喬の喬は山偏)
後漢書八十五巻本一百二十二巻,晋祠部郎謝沈撰
後漢南記四十五巻本五十五巻,今残欠。晋江州従事張瑩撰
後漢書九十五巻本一百巻,晋秘書監袁山松撰
後漢書九十七巻宋太子詹事范曄撰
後漢書一百二十五巻范曄本,梁炎令劉昭注(*梁炎の炎は立刀)
漢紀三十巻漢秘書監荀悦撰
後漢紀三十巻袁彦伯撰
後漢紀三十巻張番撰(*張番の番は王偏)
『隋書』巻三十三志経籍二より抜粋
今残欠とする書がいくつか見えるように、すでに散逸が始まっている。後漢時代の皇帝の実録的記録である、起居中は最後の皇帝献帝のものしか残っていない。戦乱に巻き込まれたり、虫食いなどで劣化したりで、書物は参照され写本されなければ、急速に滅んでいく。『献帝起居中』が残っていたのは、同時代史として何度か撰述された『東観漢記』の、最後の撰述が献帝の時代であり、献帝の前の霊帝までは『東観漢記』で足りていたということだろう。その結果その後も需要のあった『献帝起居中』だけが残ったのだろう。 『旧唐書』経籍によると、関連する書物は下記になる。 これは唐の八世紀前半の玄宗皇帝の時代の書物目録と考えられている(2)、
東観漢記一百二十七巻劉珍撰
後漢書一百三十三巻謝承撰
後漢記一百巻薛瑩作
後漢書八十三巻司馬彪撰
又五十八巻劉義慶撰
後漢書三十一巻華喬作
又一百二巻謝沈撰
後漢書外伝十巻謝沈撰
漢南紀五十八巻張瑩撰
後漢書一百二巻袁山松作
又九十二巻范曄撰
後漢紀三十巻張番撰
又三十巻袁宏撰
『旧唐書』巻四十六経籍上より抜粋
史料の散逸のありようから考えて、他の無名の後漢時代の史料が残されていた可能性は、考えなくてよいであろう。 これらの史料から『隋書』撰述時に、後漢時代を確認するために参照できた書物が知られる。 『隋書』の成立した636年は、『後漢書』を撰述した范曄の亡くなった446年から190年が経っているが、107年の安帝永初元年との関係でみれば、『後漢書』の329年後に対して519年後であって、実際の出来事の起こった時からは、大きく下るという点で大差がない。 両書とも実際後漢以降の中国史の大きな屈折点の一つと言える、五胡十六国時代の異民族侵入による東晋の南遷の後の成立である。 劉宋以降の出来事で大きなものは、南朝の滅亡と隋末の大乱であるが、『後漢書』の原史料もかなりの部分が残されている。 『隋書』の判断のもとになったのは、これら史料のどれであり、どのような内容が書かれていて、どうして『後漢書』の判断と異なるものになったのか、次節では『漢書』如淳注を手掛かりとして考察する。
3.『漢書』如淳注如墨委面について^
顔師古編纂をもとにした、現存『漢書』の地理志には、下記の倭人の記事が見え、如淳,臣賛(*臣賛の賛は王偏),顔師古の註がついていることが知られている。
楽浪海中有倭人,分為百余国,以歲時來献見云。
如淳曰:如墨委面,在帯方東南万里。
臣賛曰:倭是国名,不謂用墨,故謂之委也。
師古曰:如淳云『如墨委面』,蓋音委字耳,此音非也。倭音一戈反,今猶有倭国。魏略云倭在帯方東南大海中,依山島為国,度海千里,復有国,皆倭種。
『漢書』巻二十八地理志下燕地条より
ここで如淳注を取り上げる理由は、内藤虎次郎氏がこの如淳注に現れる委面
を、倭面土国
という論文(3)において、同氏が古本『後漢書』に記録されていたとする、倭面土国
を指すものであろうとされたことによる。内藤説が正しければ、問題の『後漢書』東夷列伝の安帝永初元年記事の原史料に対する手掛かりが得られることになる。如淳は魏の時代の人物で(4)、その時代に参照できた後漢時代史は、前節で上げた『隋書』経籍に見える書名のうち、『東観漢記』だけである。謝承『後漢書』も成立していた可能性はあるが、謝承は敵対する三国呉の人物で、魏の如淳は見ていないであろう。
増村宏氏の著作によると(5)(6)、内藤説を皮切りに以後多くの説が現れたという。如墨
が『三国志』巻三十東夷伝倭条に見える、黥面文身との関係あるとするもの、如墨委面
を万葉仮名とし大和あるいは邪馬台国の別表記であるとするものもの、また委面
を漢籍に見える熟語であるとするものなどである。増村宏氏はこのような各種の解釈に対して、どれも臣賛注を解釈することができていないとして、次のように述べて臣賛以下の注は、如淳注を理解するうえで欠くことができないものであるとした。
如淳注を理解するには、続く臣賛注・師古注を否定するのではなく、両注を問題解明の鍵として活用して考究しなければならないはずである。それが注釈に臨む態度である。
この難解な注について考察するには、まずこれら漢籍に関する広範な知識を持った諸先学の、解釈や評価について理解しておくべきである。 以下順次それらの論説の概略を見てゆくことにするが、煩雑を避けるため増村宏氏以降の有力解釈のみを見ていく。
・増村宏説
如淳注の委面
について次のように考察された。
『文選』所収の東晋の袁宏の「三国名臣序賛」に、魏の名臣荀或(字は文若)について(*荀或の或は彡部)
文若懷獨見之明,而有救世之心,論時則民方(まさに)塗炭,計能則莫出魏武。故委面霸朝,豫(あずかる)議世事。
とある。この文章の「委面」について、唐の張銑は「委質北面、以事魏朝」と注している。(7)如淳注に見える「委面」は、このような成語と理解すべきである。
如墨
については、何らかの脱字があり本来の意味は不明とする。臣賛注については次のように解釈された。
倭は是国名、墨を用(も)って謂はず。故(ことさら)にこれを委と謂うなり。
(意訳。倭は国名である、その倭字の音を如淳は墨字をもって解説したのではなく、委字によって解説したのである。)
師古注についてはこのように考察された。
如淳・臣賛の注を受けて、その考説をまた簡単に注記しているのである。(中略)もし臣賛の注が不分明で必要がなかったとすれば、顔師古は臣賛注を採録しなかったであろうし、または採録はしても先人の考説に欠陥があれば、「臣説非也」または「如臣之説、皆非也」と注記したはずである。現に顔師古は如淳の倭字の音を非としている。従ってもし、注釈のうちに不分明なところがあれば、その読解に問題があるか、または注解の文言に欠陥があるか、について考究しなければならないはずである。
・西嶋定生説
倭面土国
の存在を否定されたうえで(8)、如淳注については次のように解釈された。(9)
墨モテ面二委スルガゴトシ
(『漢書』地理志の「倭人」倭という意味は)墨をもって人面に委する(=積む)ということであろう。
臣賛注の倭是国名
については西嶋氏と同じ、後半部分については断句を変えて故
を上句につけて不謂用墨故,謂之委也。
として、次ように解釈された。
(用墨ノ故二之ヲ委ト謂ウハ謂(アタ)ラザルナリ。)
師古注の蓋音委字耳,此音非也。倭音一戈反,今猶有倭国。
については次のように解釈された。
これは「委」字の音を「倭」字の音と同じだとして解釈したものにすぎない。ところがこの如淳の否定はあやまりである。「倭」字の音は一戈反(iwa)であって「委」の字の音とは相違する。「倭」字の音が「ワ」であることは、現在「倭国」の「倭」字が「ワ」と呼ばれていることでも明らかである。
・山尾幸久説(10)
如淳注の委面
に関しては増村説に同じ、如墨
についての見解は次のようなものである。
「如墨」の「墨」とは「墨刑」である。(中略)「墨」とはその顔面(額)に黥辟する刑罰であることを注記している。西嶋氏が「墨をもって人面に委する(=積む)」とされるのは不審ではあるまいか。
そして如墨委面
を次のように解釈された。
入れ墨の刑に処せられた人のようにして敬々しく礼物を奉献し臣従している。
臣賛については次のようになる。
西晋の臣賛は(中略)如淳注を収録し、自らの所見加えた。曰く、「倭は是れ国名なり。墨を用いるをにはあらず。故にこれをば委と謂えるなり」。如淳は「倭人」の「倭」の由来を「如墨委面」としたけれども、「如墨」とした墨刑の如き黥面の習俗は、国名の「倭」とは関係がない。だから如淳注の主旨は国名の「倭」を「委面」の「委」の字義と関連付けたものである。
師古注の蓋音委字耳,此音非也。倭音一戈反,今猶有倭国。
については次のように解釈された。
如淳による「倭人」の称謂の起源説「如墨委面」の主旨を、臣賛の解説(「委面」の「委」の字義)のように見るならば、「倭」の音は「委」(wi)のはずであろう。しかし国名の「倭」の音は「一戈の反(かえし)」(wa)である。(11)
以上如淳注をめぐる代表的な解釈を見てきたが、これらの説はいずれも如墨委面
と、内藤説の倭面土国
との関係を否定している。
次節ではこれに対して、私見を述べる。
4.委面
の源流^
前節では三つの説を取り上げたが、いずれも如墨委面
と内藤説の倭面土国
との関係を否定している。
しかしもうすこし如淳の立場に立って、なぜ倭人
にたいして委面
の注を付けたかを考察すべきである。
倭人の位置を示す帯方東南万里
からすると、如淳は魏の景初年間以降の倭との通行に関する知識を知っていたと思われる。
如淳の注は魏の時代のものとされ、この時点ではいまだ『三国志』も『魏略』も王沈の『魏書』も成ってはいない。
おそらく知る人ぞ知る情報であったのであろう。
一般論として文章はすべてを説明できるわけではなく、読み手としてある程度の前提知識を想定する。
特に注のように短いものであれば、その要求は厳しくなる。
如淳注のように、かならずしも多くの人に知られていない知識をもって注する場合、背景のない比較的わかりやすい内容が必要である。「帯方東南万里」は問題がない。
墨
字については、やはり三世紀情報の男子無大小、皆黥面文身
をもとにした表現であろう。
西嶋説では委
を積むと読んで、如墨委面
で面(顔)に墨を積むとするが、依藤勝彦氏は次のように述べる。(12)
黥面文身と委(積)とはまったく別の概念である。ある対象に加彩したり文様を描きたいとき、その対象の面上に色彩の層を加(積)えて、色彩や文様を得るのと、その内部に色彩を浸透させ対象そのものを色変さすことで、色彩や文様を得るのとでは、両者はその方法も根本的に違うし、概念上も厳密に区別される。
周礼注に墨,黥也,先刻其面,以墨窒之
とあるように、本来黥面というのは入れ墨であって、先に顔を刻み墨でこれをふさぐというもの、委
は積む・捨てるなどの意味で、如墨委面
ではなく以墨窒之
となるという。また委面
に成語としての意味があるならば、これを面に積むという別理解を差し入れることも不自然であるという。
一方で山尾説および増山説では、委面
を成語としてとらえている。
しかし委面
という表記を、漢籍中に探してみると、確認できた範囲で如淳注と袁宏の「三国名臣序賛」およびそれを引用したものしか見えない。
同様の成語として委質
や委身
などは多く見ることができるが、委面
は清の『康熙字典』にもそのような成語は見えないのである。
委質
の質は貝部に属し、貸貨買財贄などの文字から想像できるように、宝物など重要物を表し、それを委ねることで臣従を意味する。
委身
の場合現代日本人的にも理解できる。
しかし委面
はどうであろうか。
なぜ委面
などという珍しい表現を用いて、倭人
の注にしたのだろうか。
如淳の見た史料のいずこかに、委面
と倭人
を結びつけるような史料があったのではないだろうか。
この時代に存在した倭人に関連する、広く普及した書物となると、現存するものでは『漢書』・『論衡』があげられるが、委面のような記述はない。如淳の時代の広く読まれた史書として、『史記』・『漢書』・『東観漢記』が三史とされるが、現存する史料に委面は見えない以上、散逸している後漢時代史の『東観漢記』にあった可能性が高いであろう。
倭
と委
については、北部九州でみつかった金印の印面が、漢委奴国王
となっていて、これが『後漢書』本紀巻一光武帝紀下の倭奴国王
を表したものであれば、倭
の異表記の一つとみなせる。実際中国史書での異民族表記の漢字は、音符となる旁を同じくし、偏のみを変えた異表記が用いられることが多い。例えば『後漢書』巻一光帝紀下では異民族名として高句麗
が用いられているが、本紀巻四和帝紀以降の本紀では高句驪
が用いられている。列伝でも巻によって使用される文字が違う。『漢書』では同じ民族名ワイとして、草冠・禾偏・さんずいの文字が混用されている。音符としての旁を固定して、偏を代えたり外したりの異表記が行われているのである。民族名ではないが『三国志』魏書巻三十東夷伝で、卑弥呼
と表記された倭王の名は、『三国志』巻四三少帝紀では俾弥呼
と人偏を付けられている。このような状況をみると、『後漢書』で倭
となっているところが、その原史料で委
となっていたことは、十分にあり得ることなのである。臣賛が故にこれ(倭)を委と謂えるなりというには、このような背景があったのではないだろうか。
ここにおいて私見である、古本『後漢書』東夷列伝には安帝永初元年の朝貢国として、倭面上国
ないし倭面土国
の名があったと言う説に立つならば、その原史料である『東観漢記』にも同年の朝貢国として、委面土国ないし委面上国の名があったと考えるのである。
『東観漢記』には東夷列伝はなかったとされるが、安帝永初元年の朝貢国(上)で述べたように、高句麗王遂成とのやり取りなど、遼東に公孫氏が割拠する前の、東夷諸族との交渉記録はあったと思われ、『後漢書』東夷列伝の『三国志』に見えない後漢時代の記事は、『東観漢記』に拠ったとみるのが妥当である。繰り返しになるが、『三国志』東夷伝冒頭の、前史に見えない部分を補うとは、決して『東観漢記』に東夷記事が全くなかったという意味ではないのである。
5.『隋書』による『東観漢記』記事の解釈^
いま『後漢書』東夷列伝の、倭人の朝貢記事をもとに、もし『東観漢記』で倭
字が委
字になっていた場合、どのような記事になっていたかを推定してみる。
倭面土国
については、内藤氏以来その存在の是非を含めて、多くの議論がなされてきた。
実在説では文献上残された倭面上国
を倭面土国
の誤りとするものがほとんどであった。
しかしここでは仮に倭面上国
を採用し、『東観漢記』でこれが委面上国であったと想定して、現行『後漢書』の文面を書き換えてみよう。
建武中元二年,委奴国奉貢朝賀,使人自稱大夫,委国之極南界也光武賜以印綬。安帝永初元年,委面上国王帥升等献生口百六十人,願請見。(13)
薄字の部分は『後漢書』では倭国之極南界也
となっているが范曄の作文との説がある。この部分が元々なかったとしても、また本来奴国に関する何らかの別の説明があったとしても、結論に変わりはない。
『東観漢記』は『隋書』撰述時点でいまだ『後漢書』にとってかわられず、後漢時代史としてもっとも権威のある書物である。
『隋書』撰述者はこの文面を見て、判断したことになる。
委面
の文例としてあげられる委面覇朝
は、覇朝
すなわち魏武
曹操に臣従するという意味である。
であれば委面上国は上国に臣従するという意味になる。
上国
は西嶋氏によると(14)、尊称として都城・都城周辺の国、さらには中国を意味することがあるという。
それからすれば委面上国を中国に臣従した意にとることができる。
そうすると上記推定文の後半には朝貢国名がなくなる。
『後漢書』が原史料の委面上国の委
を倭
の異表記として固有名詞と考え、安帝永初元年の朝貢国を倭面上国
としたのに対して、『隋書』は中国への臣従の意味にとり、先に書かれている建武中元二年の朝貢国の、倭奴国
の再朝貢としたことになる。
このように考えると委面上国ではあっても、委面土国はないことになる。
対応して古本『後漢書』でも、倭面土国
ではなく倭面上国
であったことになる。
王仲氏は残された記録で現存する最古のものは『翰苑』の倭面上国
であることから、書誌学的には倭面上国
であるとしていた。
安帝永初元年の朝貢国(上)で見たように、『日本書紀纂疏』に見える日本に伝えられた『後漢書』古写本でも倭面上国
となっていたことに合致する。
では『後漢書』の解釈と『隋書』の解釈はいずれが正しいのであろうか。 安帝永初元年の朝貢国(下)で朝貢記事を再検証する。
参考文献
- [戻る](1)先行して626年、『梁書』が完成しているが、倭国乱の記述などは影響を受けていない。
- [戻る](2)内藤虎次郎「支那の書目に就いて」1970 筑摩書房
- [戻る](3)内藤虎次郎「倭面土国」『読史叢録』1929,弘文堂書房 p65
- [戻る](4)『漢書』敘例
- [戻る](5)増村宏「漢書地理志注の如墨委面」『遣唐使の研究』1988年,同朋舎出版 p709
- [戻る](6)増村宏「続・漢書地理志注の如墨委面」『遣唐使の研究』1988年,同朋舎出版 p728
- [戻る](7)『文選』卷四十七 全釈漢文大系 31 1976 集英社 p481-p482
- [戻る](8)西嶋定生「「倭面土国」出典続考」『倭国の出現』第三章1999年, 東京大学出版会 p89
- [戻る](9)西嶋定生「『漢書』地理志倭人条注の「如墨委面」について」『倭国の出現』第四章1999,東京大学出版会 p115
- [戻る](10)山尾幸久「『倭国』と『倭王』との出現.-西嶋定生氏の『倭面土国』説批判」『青丘学術論集』25,2005,韓国文化研究振興財団 p5
- [戻る](11)顔師古は国名の「倭」の発音は、「委」と異なるとしているが、さらに古い上古音の仮説では「委」と「倭」は同じグループに入っている。この古い漢字音は日本にも伝わり、藤原京木簡にはイワシを「伊委之」と書いたと思われるものがある。
- [戻る](12)依藤勝彦「倭面土国論--特に西嶋定生説の批判的検討から」『東アジアの古代文化』2006.春,古代学研究所編 (127)
- [戻る](13)『東観漢記』のすべての表記が「委」になっていたというわけではない。『後漢書』において「高句麗」の表記が帝紀の中でさえ「高句驪」と混合していたところからすると、帝紀では「倭奴国」列伝では「委奴国」のように混ざっていたかもしれない。『三国志』において帝紀では「俾弥呼」、東夷伝では「卑弥呼」となっていた例もある。
- [戻る](14)西嶋定生「倭面土国」出典続考」『倭国の出現』第三章1999.05,東京大学出版会 p103
変更履歴 安帝永初元年の朝貢国(中) −隋書−
- 2025年10月25日 ドラフト版
変更履歴 倭面上國王帥升 −生口百六十人は海を渡ったか−
- 2019年02月11日 ドラフト版
- 2024年07月23日 改訂版の報告
- 2024年07月31日 各史書の倭国朝貢記事の関連記述の表を修正
白石南花の随想