安帝永初元年の朝貢国(下)
ー委面をめぐってー
概要
安帝永初元年の朝貢国(中)において、『隋書』東夷伝倭国と、『後漢書』東夷列伝倭の安帝永初元年の朝貢国に対する記録異なるものになった原因が、『東観漢記』の文面の解釈の違いであるとした。本稿ではこの年の朝貢の実態について、委面
という語の解釈の変遷と、朝貢記事の内容から考察する。
目次
1.はじめに^
現行『後漢書』東夷列伝(#1)倭条には安帝永初元年,倭国王帥升等献生口百六十人,願請見。
の記事が見える。
安帝永初元年の朝貢国(上)安帝永初元年の朝貢国(中)において、この記事の原史料が『東観漢記』の安帝永初元年,委面上国王師升等献生口百六十人,願請見という記事であると推定した。
范曄は文中の委面上国を固有名詞として、朝貢国を倭面上国
として、内藤虎次郎氏の言う古本『後漢書』に記載したとした。
一方の『隋書』では委面上国を中国への臣従の意として、倭奴国
の再朝貢と見なしたとした。
本稿の目的は、この仮説のもとに安帝永初元年の朝貢国について考察することである。
まず両者の解釈の違いのもとになったと思われる、委面
という語の解釈の歴史的変遷を、この仮説を前提として検討する。
前稿で検討した『漢書』如淳注に対する解釈をはじめ、『後漢書』『文選』『隋書』などを、時系列で見てゆくことで、なぜ『後漢書』と『隋書』解釈が変わったのかを考察する。
さらに委面上国を倭面上国
という固有名詞としてとらえた場合に、倭国の地名を指すと考えることになる、面上
が倭語の地名を表す漢字表記とした場合、それが妥当であるかどうかを検討する。
続いて同記述の委面上国の後に続く文章、王師升等献生口百六十人,願請見。
の内容について分析する。
この部分にはいくつか疑問が持たれている。
もっとも大きな疑問は、東夷列伝では王が、しかも複数やってきたように書かれているが、本紀では倭国が使者を遣わしたとなっていることである。
本稿ではこの問題に対して私見を述べるが、実はそれ以前にそもそも王と書かれていることが重大な問題であり、本稿の課題に対しても直接的なかかわりがあることを指摘する。
以上これらの考察を行っても、なお残る疑問に対して、誤写誤刻の可能性を検討する。
最後に安帝永初元年に朝貢した師升についての考察を述べる。
2.漢籍中の委面
について^
『後漢書』と『隋書』の記述に違いができた事情について考察する。
委面
の原点が『東観漢記』の委面上国であるという仮説を前提として、もう一度委面
がどのように理解されてきたか、整理して時間順に見ていく。
1・『東観漢記』(後漢の時代)
委面上国を含む記事が現れる。
これ以前の文献では委面
の用例は見当たらず、委面
が成語としてあった根拠はみあたらない。
なぜこのような難解な記述を行ったかは不明である。
2・『漢書』如淳注(魏の時代)
この時代には、王沈の『魏書』も『魏略』も成立しておらず、三世紀に入ってからの倭国の朝貢は、広く知られていないと思われる。
しかし注には倭が帯方郡の万里にあるとの記述があり、明らかに三世紀の交流による知識が用いられている。
如墨委面
は倭人が黥面とする知識の影響を受けたものと考えるのが妥当であり、それを倭人に対する注としたということは、委面
と倭面
を掛けたものとみるべきであろう。
委面
を成語として理解したとは考え難い。
おそらくこの難解な記事に対して、あまり広くは知られていない知識をもとに、倭の語源として解釈を試みたものであろう。
3・『漢書』臣賛注(西晋の時代)
臣賛の注は、如淳の注を受けたもので、倭の起源は黥面とは関係せず、倭という国名を委という文字で表したものという主張と理解できる。
この場合委面上国は固有名詞と考えられ、倭面上国
という国名と見なされていたのであろう。
4・「三国名臣序賛」袁宏(東晋の時代)
『文選』の文面が正しければ、袁宏の理解では委面を委質
とほぼ同義の、従属を意味する語と考えたことになる。
袁宏は『後漢紀』を撰述しており、後漢時代史に詳しいと思われるが、ここで初めて委面上国を、倭の中国への臣属を意味すると理解したことになる。
これはそれまでの常識を覆すものになっている。
5・『後漢書』范曄(劉宋の時代)
范曄は難解な委面上国を、従来通り固有名詞と理解し『後漢書』を撰述した。
6・『文選』撰述(梁の時代)
『文選』が撰述され「三国名臣序賛」が収録される。
7・『隋書』(唐の太宗の時代)
委面上国を中国への臣属を意味すると理解した。 『隋書』は最初、顔師古が撰述にあたった。 その後も『隋書』撰述の監修を行った。
8・『漢書』顔師古注(唐の太宗の時代)
臣賛の注に対して、委面の倭は委とは通音でないとした。 顔師古は『漢書』の別の注で(注1)、倭は委と同音としているので、国名として用いる場合には通音ではないという意味である。
9・「晋宣帝賛」睿宗(唐の睿宗の時代)
唐の睿宗皇帝は、晋の宣帝となる司馬仲達が、三国魏の曹操に臣従したとする内容の、「晋宣帝賛」を書いた。
両者とも賛であり、内容は三国魏の文若が曹操に臣従したとする内容の、「三国名臣序賛」と関連が深い。
その中で臣従の意味で委質北面
と書いている。
同じ意味で北面委質
という表現は、古くから用いられているが、倒置した委質北面
はそれ以前には見えない。
「三国名臣序賛」の委面覇朝
の委面
に相当する位置に、委質北面
とあるので、委面
に対する睿宗皇帝の解釈と思われる。
10・『文選』「三国名臣序賛」張銑注(唐の玄宗の時代)
『文選』収録の「三国名臣序賛」に対する注で、委面覇朝
の委面
に対して、委質北面
と注する。
以上のように見てゆくと、委面上国という難解な記述に対して、各時代ごとに様々な解釈を試みてきた様子が見えてくる。 特に4の袁宏の解釈が異質なものであった可能性が見える。 本来文献中に意味の分からない文言があった場合、固有名詞を疑うのが自然であり、続く文脈からも国名と理解されるのが当然であると思われる。 『後漢書』が撰述される劉宋の時代までは、そのような解釈が主流であったのであろう。 6の『文選』への採録が転機になっているのではないかと思う。
『文選』は隋唐時代以降、詩文の手本となったものであり、杜甫なども精読したと言う(注2)。
以後委面
を委質
と同類の成語として理解されるようになり、『隋書』の撰述、顔師古の『漢書』注へと繋がってゆく。
唐の睿宗皇帝によって、委面
は委質北面
と理解され、張銑の『文選』注がなされる。
このような議論は唐代までは続くが、北宋時代以降には見えない。 これはすでに『東観漢記』が『旧唐書』経籍に見える一百二十七巻の内残巻二十六となっていて、委面上国を含む巻は散逸していたためではないかと思う。
このように見てゆくと、なぜ『東観漢記』においてまず委面の表記が現れたのかが問題になる。
委面が成語ではないとすると、やはり委面上国は倭面上国
という固有名詞だったのだろうか。
3.借音文字の検証^
もしも委面上国が本来倭面上国
とゆう固有名詞の異表記であるとしたら、倭奴国
が倭の奴国を表したように、倭の面上国
と読むべきであろう。
この場合面上
は、倭人の国名を、漢字音で写したものということになるが、この用字は妥当なものであろうか。
まず考察すべきは、面という文字でである。
面は奈良朝の万葉仮名では、「メ」の甲にあてられている。
このように漢字の本来の発音の最後の子音を無視する使い方を、略音仮名という。
有名な例が万葉仮名で安を「ア」にあてているケースである。
安が崩されて、平仮名の「あ」になったとされている。
このような例の古いものとして、稲荷山鉄剣の銘文に見える、半弖比があげられる。 半の文字は日本漢字音で/ハン/となることから想像できるように、唐代以前の中国語で、最後に/n/のような発音が来る文字でである。 弖は中国にはない文字だが、好太王碑文にも見えることから、高句麗起源と考えられ、日本では「テ」にあてられる。 比を「ヒ」と読んで「ハテヒ」とするならば、音が「ハン」である半を「ハ」と読ぶことになり、略音仮名的用法の例となる。 日本語学者の沖森卓也氏(注3)は、略音仮名が使用されたのは時代的に下るものとして、この用例を連合仮名的に解釈して、「ハデヒ」と読まれた。 連合仮名というのは、「ハン」のように日本語の音にあてると余る音を、次の音にかけて聞こえなくする方法である。 同じく稲荷山鉄剣の銘文にある、獲加多支鹵の獲の例などがそれである。 獲の音は呉音「ワク」だから、本来中古音では、最後にkのような子音が来ていた。 それを次の文字の加の頭の子音のkに重ねて聞こえなくする方法がとられてる。 沖森卓也氏は「ハン」の最後のnは、次の文字の弖にかけていると考えておられるようである。 弖を「テ」にあてるとすると、最初の子音はtになるのですが、tとnは舌を上あごにつける発音で、中古音で歯茎音と呼ばれ比較的近い。 森博達氏は『三国志』の倭語の音訳文字について、濁音の前に鼻濁音的子音を末尾に持つ文字を用いていると指摘している。(注4) 鼻濁音をngであらわすと、「ハテヒ」は/pa//ngde//pi/のようになるが、沖森卓也氏はこの鼻濁音的響きをとるために、あえて半のような文字を使ったとされる。 ただし木下礼仁氏によると、稲荷山鉄剣銘文の仮名は、『日本書紀』に引く百済史料の仮名との関連が深いとされる。(注5) 百済なまりの漢字音による音写の可能性が高いうえに、銘文には上代東国方言の特徴があるため、中国人による西日本方面と推定される方言の音写と、簡単に比較はできない。
『日本書紀』と『古事記』の万葉仮名の多くは、日本人の造ったものとされるが、森博達氏は『日本書紀』の特定の巻の歌謡の仮名は、唐代の都から来た中国人の手によるものとされ、この巻をα群と呼んだ。(注6) その時代の唐の都の漢字音については、中古音として比較的よく史料が残っているため、そこから当時の日本語の発音についても議論されている。 α群では面や半のような、子音のnで終わる字は使用されていない。(注7) 「幡」という文字は使用されているが、これは古写本との比較により後世の誤写であることがわかっている。
『日本書紀』は八世紀成立の書物であり、問題となる『後漢書』の成立年代である五世紀、および問題の文字の記録された二世紀初頭とはとは大きな差がある。 そこでもう少しさかのぼり、七世紀成立の『隋書』の倭に関する音写文字をみると、軍尼という表記があり、軍という日本漢字音が「グン」になる文字が使われている。 この場合は後の文字尼の読み「ニ」の頭子音がnであり、連合仮名的用法として用いられていることがわかる。
更にさかのぼること三世紀には、『三国志』東夷伝の記録に、難升米という人名の記録がある。
難升米の最初の文字難は日本漢字音「ナン」で、中古音では発音の最後がnになっている。
『三国志』東夷伝にはほかに臣という文字も使われていて、これは日本漢字音「シン」ですが、傍二十一国の国名に、一度だけ現れたものなので、誤写の可能性を疑える。(注8)。
しかし難は卑弥呼の正使の名前で、引用された詔書を含め何度も現れていて、誤写というのは無理がある。
おそらく難升米は詔書作成時に用いられ、東夷伝の記録ではそれに従って用いられたものだろう。
しかも次の升字の最初の子音はnではない。
なぜこの文字が使われたのか、大きな問題だが、難に人偏を足した儺は「ナ」の読みがあり、『日本書紀』α群でも「ナ」の音に対して「那」とともに多用された文字である。
漢籍において、異民族にあてられた文字の、偏を省略することはよく行われる。
北部九州で発見された金印において、倭が省画されて委となっていることはよく知られた例である。
説文解字には、委には倭と同じ読みとされている。
このため印面に置くために、省画してあえて古風な読みの文字を使ったと考えられる。
実は難にも古くは、「ナ」の読みがあったと思われる。
『詩経』という戦国時代にかかるような古い詩集にある隰桑という詩の一節では、難と何が押韻しています。
隰桑有阿(低く湿った土地では桑の木が美しく)
其葉有難(そしてその葉は生い茂っている)
既見君子(貴公子たちを見るとき)
其樂如何(なんと素晴らしい喜びでしょう)
何の呉音は「ガ」ですが、古くから「ハ」に近い音で最後は母音の「ア」となり、この字と押韻しているということは、難にも「ナ」に近い発音があったことを伺わせる。 また『周礼』の夏官司馬には悪霊を払う儀式を難としている。 この儀式にはのちの時代儺があてられている。 非常にまれな用例だが、難升米が魏の都についたのは、十二月とされていて、この儀式の季節になる。 おそらく詔書において難升米の文字を当てた人物は、このような儀礼に関与する人物で、「ナ」という音を聞いたときに、まず儺が思い浮かび、古礼式や経典に精通した人物だったので、あえて珍しい当て字を行ったのではないか。
さてこう見てゆくと、後漢の永初元年二世紀初頭の記録に、倭の国名の記録として面で始まる単語が出てくることをどう評価できるだろうか。 続く文字がnで始まる音ならば、連合仮名的用法になる。 しかし続く文字の上はnで始まらない。 上述したように面を使ったのが連合仮名的用法だとすると、二番目の文字はnやtに近い子音の濁音ということになる。 上の子音は調音点が歯茎硬口蓋音とされるもので、nやtの調音点が歯茎音となっているのと比べてずれている。 かろうじて連合仮名的な用法といえる範囲かもしれないが、漢籍にも『日本書紀』α群にも類例はない。
それに続く上はどうであろうか。 上には終わりに鼻濁音がついていて、やはり日本語には不適である。 このような文字はα群では乙類の「ソ」に対してよく用いられていて、森博達氏によると、頭子音と主母音の組み合わせで、ほかに妥当なものがなかったためであるとされている。 『三国志』東夷伝の場合には、難升米の升がこれに該当し、難升米は乙類のソによる「ナソメ」を音写したものと思われる。 その点で行くと上は主母音が「ア」類でほかにも候補字があり、日本語音写文字として、あえてこの字を用いることは妥当性がない。(注9)
本稿では元の表記を、諸史料からの検討により委面上であるとしてきた。 ただ内藤虎次郎の古本『後漢書』論では、本来の形は倭面土であるとしている。 一応このケースについても検討してみよう。 土は分類上次声音と呼ばれる有気子音をもつ。 『日本書紀』α群では、例外的に「ヒ」に一点現れるほかは、次声音の字はカ行音にしか現れない。 また『隋書』東夷伝でも『三国志』東夷伝でも現れない。(注10) 音写文字のこの特徴は、当時の日本語に有気子音が耳だたず、音写を行った人物が有気子音を聞き分ける、中国人であった根拠の一つとなっている。 稲荷山鉄剣銘文では、有気子音字が現れるが、前述したようにこの銘文は、百済系の人物が東国方言を音写した可能性が高く、そのままには受け取ることができない。
以上面上も面土も古代中国人の日本語音写文字として不審な点があるのである。
4.王師升等
の解釈^
はじめにで述べたように、現行『後漢書』の安帝永初元年の朝貢記事には、いくつか疑問が持たれている。
もっとも大きな疑問は、東夷列伝では王がやってきたように書かれているが、本紀では倭国が使者を遣わしたとなっていることである。
この問題を考えるにあたって、安帝永初元年の朝貢国(上)で述べたように、そもそもこの両者が全く異なる原史料に基づくことを考慮すべきである。
東夷列伝では願請見
となっており、朝見を行っていない段階の記録である。
おそらく起居中に類似するような、皇帝周辺で記録された原史料をもとにした本紀とは(注11)、場面が全く異なる可能性がある。
例えばすでに挙げた『三国志』の文面を見ると、大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献
とあるが、この部分を王師升等献生口百六十人,願請見。
と見比べると、構造的によく似ていることがわかる。
『三国志』ではこの後太守劉夏遣吏將送詣京都
と続き、朝見の場での詔書に移っていくのであるが、『後漢書』東夷列伝の安帝永初元年では、途中までしか記録されていないようにも見えるのである。
しかしその後卑弥呼
は、親魏倭王として冊立されるのであるが、『後漢書』では冊立の話題はなく、本紀では倭国
の使者による朝貢と記録されていて矛盾があり、その間何があったのかがわからない。
次に王師升等
の等は複数形と考えられ、王が複数やってきたように見えるという問題がある。
王仲氏は師升等
をひとまとめに、人名と考えられたが、西嶋定生氏(注12)は漢籍の用例を理由に反対し、王の連盟であるとしている。
また三木太郎氏(注13)は、王師
ではなく主帥
と考えたが、安帝永初元年の朝貢国(上)で述べたように、王師
が正しい。
この文面では国王が複数来たように見えるが、朝貢に関して詳細を残している『三国志』を見ると、そもそも問題にするようなことではないことがわかる。
下記のように卑弥呼
の景初の朝貢では、大夫難升米
と次使都市牛利
の朝貢に対して大夫難升米等
となっていることから、必ずしも王が複数いたとは言えない。
代表者の地位のみが書かれていると考えられるのである。
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所献男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。
『三国志』魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭条より
みっつめは師升
は、そもそもなぜ王とされているのかという問題である。
願請見
とあることからして、この文が記録しているのは朝見する前の段階であり、そこですでに王とされているのである。
つまり後漢王朝に関係しない自称の王であるか、すでに王と呼ばれる資格を持っていたかのいずれかであろう。
東夷列伝のような異民族に関する記事では、王は必ずしも中国の冊立したものを指すとは限らないようである。
例えば夫餘や高句麗の、伝説的な祖先に関する記事に見える王は、中国によって冊立された王とは認めがたい。
倭条を含む『三国志』東夷伝に見える王の大部分も同じである。
しかし王朝への朝貢を記録したような漢籍の記事は、王朝側と異民族の接触を王朝側が記録したものである以上、称号の使用には厳格さがあるはずである。
卑弥呼
の朝貢記事に見える、親魏倭王
などはこれに当たる。
特に本紀は皇帝周辺の実録記事をもとにしている可能性が高いだけに、そこに現れる王号は、王朝により与えられたものであると思われる。 東夷列伝で朝貢記事の王号、例えば王が遣使した献上した、または王が来朝したとあるのは、倭条以外では夫餘条と高句麗条である。 高句麗の王号には本紀に以下のような記事が見える。
十二月,高句麗王遣使奉貢。
『後漢書』本紀巻一光武帝紀下建武八年条より
この本紀の記事に対して、『後漢書』や『三国志』の列伝記事では次のように語る。
建武八年,高句驪遣使朝貢,光武復其王号。
(建武八年、高句麗は使者を遣わして朝貢し、光武は再びその王号を認めた。)
『後漢書』列伝巻七十五東夷列伝高句麗条より
莽大悦,布告天下,更名高句麗為下句麗。当此時為侯国,漢光武帝八年,高句麗王遣使朝貢,始見称王。
(莽は大いに喜び、天下に布告し、高句麗を改めて下句麗と称した。この時、侯国であったが、漢の光武帝八年、高句麗王が使者を遣わして朝貢し、初めて王と称されるようになった。)
『三国志』魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝高句麗条より
夫餘については『後漢書』東夷列伝で、後漢王朝との戦いや朝貢などの交渉の記事が見え、そこでは夫餘王と書かれている。 『後漢書』本紀での初見は下記のようになっている。
夫餘王遣使奉獻
『後漢書』本紀巻一光武帝紀下建武二十五年条より
高句麗同様この時に王号を得ていたのであろう。 ただし夫餘には次のような記事がある。
今夫餘庫有玉璧、珪、瓉数代之物,伝世以為宝,耆老言先代之所賜也。其印文言「濊王之印」,国有故城名濊城,蓋本濊貊之地,而夫餘王其中,自謂「亡人」,抑有似也。
今、夫餘の宝庫には、幾世代にもわたって宝物として受け継がれてきた玉璧、珪、瓉が収められている。長老たちは、これらが先代が授けられたものだと語る。その印文は「濊王之印」である。この国には濊城という名の古城があり、元々は濊貊の土地であったようだ。夫餘王はその地にあって、自らを「亡人」と呼んでいるが、ふさわしい呼称である。
濊王之印
はその印文の形式からすると、前漢時代の漢の印である。
おそらく下記に見える南閭の授けられたものであろう。
東夷薉 君南閭等口二十八万人降,為蒼海郡。
『漢書』本紀巻六光帝紀元朔元年条より
つまり夫餘は漢の王位を継承していたのかもしれない。
以下『後漢書』の列伝巻七十六南蛮西南夷列伝、列伝巻七十七西羌伝、列伝巻七十八西域伝、列伝巻七十九南匈奴列伝、列伝巻八十烏桓鮮卑列伝などを見ても、朝貢記事に自称王と思われる称号が現れるものはみつからない。 建武中元二年の倭奴国の使者は、朝貢記事に大夫と言う称号で現れているが、記事中に自称であると断わっている。 このことからすると、安帝永初元年の朝貢記事の王は、すでに王として冊立されていたとみてよい。 つまり『隋書』の見解のように、委面上国は固有名詞ではないとみるべきであろう。 委面上国が国名だとすると、安帝永初元年に新たな国の朝貢があり、朝見する前に王と呼ばれていたことになるからである。
5.再び委面
について^
2節では委面という成語の成立は、袁宏の「三国名臣序賛」の成立とその『文選』への採録によるものである可能性が指摘でき、そうであれば『東観漢記』の時代には、臣従の意味で使われなかったと思われる。 つまり『後漢書』の委面上国という、国名としての解釈が妥当であると思われる。 一方3節にみたように漢字表記としての面上には疑問があり、4節にみたように、朝貢の状況からするとあらたな朝貢国が現れたとは考え難く、相互に矛盾した結論になる。 また何故列伝では王がやってきて、本紀では使者を遣わしたとなっているのかも不明である。 依然としてなんらかの解釈上の齟齬がある可能性がある。
まず委面という表記の解釈の転機となったと思われる、袁宏の「三国名臣序賛」の委面覇朝
をもう一度考察してみよう。
これは『晋書』巻九十二袁宏伝にも「三国名臣頌」として取り上げられており、そこでは委圖覇朝
となっている。
圖
は意味的には図で、委図もまた難解な用例となる。
面
字には𡇢𠚑靣𫩑など多くの異体字があり、図の異体字圖圗と概形が似たものがあるため、誤写の可能性がある。
『晋書』成立は唐代で、梁代成立の『文選』にかなり遅れ、8世紀初頭の張銑の注からみても、常識的には委面
が本来の形とすべきかもしれない。
しかし圖
は面
字に比べて、ずっと複雑な文字であり、このような誤写誤刻には疑問もある。
文字が入れ替わる原因としては、単純な取り違えのほか、避諱や文意に基づくものなど意図的な改変があるが、面
と圖
の場合には該当しそうにない。
また文字の汚損などによる場合、画数の多い圖
から面
への変化は考えにくい。
単純な取り違えとするには、文字の全体の印象に違いがあり考えにくい。
委圖
という用例はほかに見えないが、あえて解釈すれば、図(はかる)を委ねるとも読める。
『晋書』の三國名臣頌の委圖霸朝
を含む一節の大意は下記のようになる。
文若懐独見之照,而有救世之心,論時則人方塗炭,計能則莫出魏武,故委圖霸朝,豫謀世事。
(文若は独自の明察を抱き、世を救う心を持っていた。時勢を論じれば民は塗炭の苦しみにあり、能力を計れば魏武に勝る者はいなかった。ゆえに魏武に図を委ね、世事について討議した。)
2節でみたように、委面
は魏の如淳や西晋の臣賛など、三世紀中の評価は委
を倭
の通字として評価していると思われる野に対し、四世紀の東晋の袁宏にいたって、突然委面
を臣従とする解釈が生まれてくる。
圖
が汚損などの理由により、文字の一部が失われたことにより、面
と読み取られたことで、臣従を表す委面
という表現が生まれたとすれば、このような事態を理解することができる。
こうしてみると、そもそも『東観漢記』に突然委面
という難解な表現が生まれたことも、何らかの錯誤の可能性が疑われる。
誤写を当てにするのは最後の手段であるが、一つの面白い可能性が指摘されている。
これはネット上で在野と思われる人物、ハンドネーム大和川湖南氏の提唱であるが、面
の異体字たとえば靣を白の誤写とする。
委白上
を倭白上
と読み替えると、想定される原記録の文面は下記のようになる。
安帝永初元年,委白上国王師升等献生口百六十人,願請見。(安帝永初元年、倭(の使者)は「国王の師升たちは、生口百六十人を献じて謁見することを請い願っている。」と申しあげた。)
ここで白上は史記、漢書、東観漢記にもみられる表記で、上白、奏上と同じように使用される。 つまり白上以下は倭の使者の述べた内容だということになる。
このように解釈すると、国王の師升は実際に渡海して洛陽に行ったわけではなく、使者の口上に過ぎないことになり、本紀における使者を遣わしたという内容と一致する。
ただこの説でも朝貢国名が本紀で倭国
、列伝で倭奴国
の違いが残り、記録に何らかの問題があるように思われる。
ただし一つの可能性であって、靣と白が似ているかどうかにも問題がある。 面の異体字にはより似た文字として回がある。 この面を回の誤写とする説は、古く白鳥庫吉が提唱したものである。(注14) 回と面の異体字靣はよく似ている。 また回の異体字には囬があり、これは面とよく似ている。
もしも白ではなく回なら、文面は委回上国となる。
委回や回上という成語は見つからない。
回上国
という表記は、『西遊記』や『三国志演戯』にみえるもので、それぞれ唐へ戻る、故国に戻るの意味に解釈される。
現代中国語でも回家は家に帰るとなる。
『西遊記』や『三国志演戯』は明代の口語文学なので、さすがに時代的に合わないが、康煕字典には回塗要至,俛仰取容
と書いて、(戻って頭を垂れ受け入れられる)の意味で使用した例が、『後漢書』列伝巻五十下蔡邕伝にあるとする。
委回上国で委を倭の通字とすると、倭回上国となり、倭が中国に戻ってきたという表記だったことになる。
この場合はやはり列伝では王がやってきたことになり、本紀の内容と不一致が残る様にも見えるが、王師升
が生口を献上したとの記述が、王自身がやってきたことを意味するのか、使者を通して献上を奏上し、請見を願ったのかのどちらかを断定できないのではないか。
一応この記事の原記録の行われたのが、安帝永初元年(107)とすると、蔡倫による元興元年の蔡侯紙の献上の翌翌年であり、記録媒体はいまだ竹簡で、書体は隷書の可能性が高い。
後漢の後半には、紙が記録メディアになり、楷書と草書が成立し、記録環境の変化があったことも、錯誤の原因として考慮すべきかもしれない。
もちろん誤字を想定する場合決め手はないが、3節4節の考察からは安帝永初元年の朝貢国は倭面上国という別の国ではなく、建武中元二年の倭奴国
の再来と考えるべきではないだろうか。
6.最後に師升
について^
安帝永初元年の朝貢国が、倭奴国
の再来であるという前提で、その王師升
について考察してみたい。
するとこの人物は『後漢書』に見える倭奴国王
、発見された「漢委奴国王」の印を授けられた人物の後継者であることになる。
倭奴国王
であるとすると、定説に従えばその支配地域は現在の福岡県春日市を中心とする地域と考えられる。
名前もしくは職掌の可能性もある、師升
については茫漠として手掛かりがないが、3節で述べたように、ここで用いられた升
字は『三国志』にも二度現れる文字であり、森博達氏によれば、この文字はソの乙類に用いられているという。(注15)
この升
という文字はほかに倭人伝の難升米
や弥馬升
にも用いられている。
弥馬升
は邪馬台国の第二位の官名であるが、第三位の弥馬獲支
に注目すると、獲
字は稲荷山鉄剣銘文に、獲居
獲加多支鹵
で用いられているように、古音でカ行音に先行して用いられる場合にワを表している。
支
は一支
で壱岐をあらわすことで分かるように、古音でキを表す。弥馬獲支
は中世日本語のワキからするに、弥馬
の脇、弥馬升
はその上位の官を表すと思われる。
日本語でソ乙は、記紀に葛城長江曾都毘古・日向襲津彦・熊曽建のように、ソ乙の前に地名が来る。
弥馬升
についてミマソ(乙)なら、ミマは地名の可能性があり、御真木入日子印恵命、『日本書紀』巻五雄略紀の御馬皇子、そのほか御真津日子訶恵志泥命、御真津比売命など、古代人名に多くあらわれ、人名が地名によることが多いことを考えると、ミマという地名があったと思われる。
実際に地名として比較的多く、『日本書紀』雄略紀の御馬瀬なども挙げることができる。
難升米
もナソ(乙)メと読んで、難を儺という地名とみなす説もある。(注16)
ソ(乙)はセの母音交代形であり、このような関係の語には意味上のつながりがある場合が多い。 セは万葉集などで夫の意味に使われることからすると、地名と結びつくソ(乙)は地域の男性首長を表すのかもしれない。
そこで「師升」をシソ(乙)とするならば、シという地名にかかわりのある人物となる。
一音節のシでは地名比定できないが、同じ一音節の奴
(ナ)が和名抄の那珂郡(ナカ)に対応するように、後世において地名接尾のカが接続したとすると、シカという地名に関連する可能性が出てくる。
シカないしシガは日本全国にありふれた地名であり特定できないが、奴国
の中心とされる春日市に近いとするならば、倭名抄の筑前糟屋郡志珂郷、現在の志賀島が有力となる。
もしかしたら百済武寧王が加唐島で生まれたため、シマ王と呼ばれたように、志賀島にゆかりの人物だったのかもしれない。
師升
が志賀島に何らかのかかわりのある人物であるとすると、それが金印がそこに埋納された理由なのかもしれない。
ほんらい印は授かった本人がなくなった場合は返却すべきものであるが、多くの漢・新・魏・晋の印が見つかっていることを考えると、建前通りにはいっていないことがわかる。
建武中元二年に金印を受けた倭奴国王
の後継者の師升
は、安帝永初元年に金印を返納しなかったのか、返納して倭国王印を願ってかなえられなかったのか、今となっては想像するしかない。
ただ『後漢書』帝紀や『後漢紀』を見る限り、倭国の使者としてみなされ、倭国王として冊立されているようには見えない。
参考文献
- [戻る](注1)『漢書』巻二十一下世經
- [戻る](注2)『全唐詩』巻二百三十一宗武生日
- [戻る](注3)沖森卓也 2017.4 「音仮名の用法」『日本語全史』 筑摩書房 p30
- [戻る](注4)森博達 1985.11 「子音韻尾字の用法」 森浩一編 『日本の古代1』 中央公論社 p194
- [戻る](注5)木下礼仁 1993.10 「稲荷山鉄剣銘文にみる朝鮮との関係」 『日本書紀と古代朝鮮』 縞書房 p135
- [戻る](注6)森博達 1991.7 『古代の音韻と日本書紀の成立』 大修館書店
- [戻る](注7)前掲6「三・ニ 有韻尾字の使用状況」 p28
- [戻る](注8)前掲4「難升米は奴国の人ではなかったか」 p194
- [戻る](注9)前掲6「三・ニ 有韻尾字の使用状況」p28
- [戻る](注10)前掲6「ニ・一 清音仮名」 p99
- [戻る](注11)安部総一郎 2000.06 「後漢時代關係史料の再検討--先行研究の検討を中心に」 『史料批判研究 / 史料批判研究会 [編] (通号 4)』 p.1~43
- [戻る](注12)西嶋定生 1997.夏 「「倭面土国」論の問題点」 東アジアの古代文化092号 p21
- [戻る](注13)三木太郎 1984.1 「「倭国王帥升等」について」 『倭人伝の用語の研究』 多賀出版 p124
- [戻る](注14)白鳥庫吉 1981.12 「卑弥呼問題の解決」 佐伯有清編 『邪馬台国基本論文集Ⅱ』 創元社 p67
- [戻る](注15)前掲6「三・ニ 有韻尾字の使用状況」p28
- [戻る](注16)前掲4「難升米は奴国の人ではなかったか」 p194