Blog 白いしゃくなげ

韓伝謎の一文

濆臣離兒不例 古辞の語る辰王ー

三国志東夷伝韓の条の謎の一文

中国の史書である三国志には、三世紀の日本列島に関するまとまった記録があることで有名です。 所謂魏志倭人伝(以下倭人伝)として有名な三国志魏書東夷伝倭人の条です。 この史書は三世紀後半の中国の王朝である、西晋(265年から316年)の太康年間(280年から289年)に成立したと言われていますが、その一部である東夷伝には、倭人伝以外にも中国東方の多くの民族の記録があります。

中国の王朝は前漢(紀元前206年から8年)武帝の時代、紀元前128年に蒼海郡を置いたのを始まりとして、紀元前108年には朝鮮半島北部にあった古朝鮮を滅ぼし、漢の四郡と呼ばれる四つの統治機構を置いて支配しました。 中国の王朝による支配は次第に後退しながらも、四郡の内の一つ楽浪郡は王莽の新(8年から23年)を挟んで、後漢(25年から220年)まで朝鮮半島北部の支配を続けました。 しかし後漢の終わりごろには政治は混乱し、中国東方の遼東半島付近で、公孫氏(189年から238年)が半独立状態となると、楽浪郡もその支配下に入り、南部を帯方郡に分離され二郡となりました。 中国人(以下漢人)による朝鮮半島北部の支配は、その後四世紀まで続きましたが、公孫氏時代には中国東方の情報は、黄河中流域の古代中国中枢部の漢人には入りづらくなりました。 三国志東夷伝の記録はそれが書かれた西晋の時代に先立って、黄河中流域に都を置いた魏(220年から265年)が、景初二年(238年)公孫氏を滅ぼしたことがきっかけとなって、多くの漢人に中国東方の情勢が明らかになったことで生まれました。 その三国志魏書東夷伝の韓の条(以下韓伝)には、三世紀の朝鮮半島南部、おおよそ現在の韓国の領域に住んでいた古代の人びとである、韓族(以下韓人あるいは韓)の記録があります。 表題の謎の一文とは私の造語ですが、この韓伝に含まれる未解明の一文を指します。 この随想ではこの文を巡って考察し、三世紀韓の韓の政治に関して新しい視点を得たいと思います。

さて問題の韓伝ですが、韓伝の冒頭では韓は三種あるといい、一つが馬韓、一つが辰韓、もう一つが弁韓としています。

  韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。
  拙訳:韓は帯方の南にあり、東西を海によって限り、南は倭に繋がり、およそ四千里四方の大きさで、一つが馬韓、二つ目が辰韓、三つ目が弁韓である。辰韓は昔の辰國である。

弁韓は韓伝の上記冒頭部分以外では、何故か弁辰となっていて辰韓と弁辰の記述は混然としています。 韓伝には馬韓の全部で五十余国の小国の国名の一覧と、それとは別に辰韓と弁辰が混在した合計二十四ヶ国の国名の一覧が記載されています。 辰韓と弁辰が混在した国名の一覧でどちらに属するかは、国名に弁辰の注を入れることで示されています。 謎の一文とは月支國を含む、馬韓の国名一覧に続いて書かれている、下記の文の赤下線部分を指します。

  辰王治月支國。臣智或加優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。其官有魏率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。
  拙訳:辰王月支國に居て治める、臣智は優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉の号を加う。その官に、魏率善邑君・歸義侯中郎將都尉伯長あり。

引用した部分の冒頭に現れる辰王もまた謎めいた存在で、表題の文を解明するには、考察する必要のある存在です。 謎の一文を考える前に、先ず辰王に関する記事を見ておきましょう。 辰韓と弁辰の国名一覧に続き、下記のような記述があります。

  其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立爲王。

  拙訳:その十二国は辰王に属している。辰王には常に馬韓人を用いる事が、世々相い継いでいる。辰王は自ら立って王とはなれない。

辰王には辰韓弁辰の内十二ヵ国が属するにもかかわらず、馬韓人が王になると解釈できます。 しかも前の文で見たように、その辰王が居るのは、馬韓の国なのです。

韓伝の辰韓に関する説明文には、そのような不思議な状況になった理由と思われることが書いてあります。

  辰韓在馬韓之東。其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。

  拙訳:辰韓は馬韓の東にあり、その耆老が自ら世に伝えるところによれば、昔亡命者として秦の役務を避けて韓の国にやってたとき、馬韓にその東界の地を割いて与えられたと言う。

つまり韓にやってきた時に馬韓によって救われたことが、その王にはその属する国々の人ではなく馬韓人がなり、馬韓の国にいて治める理由なのでしょう。 その時代は秦の時代(紀元前221年から紀元前206年)となっています。 辰王はその名からして本来は辰國の王であったはずです。 韓伝冒頭の、韓を三つに分けた上で、辰韓を指して昔の辰國であると言う記述から、弁韓すなはち国名一覧で弁辰の注の付く国は、辰王に属していないことが分かります。 それにしても辰王は自ら立つことはできないとは、どういう意味なのでしょう。

問題の謎の一文は、この謎めいた辰王月支國にいたという記述に続くものです。 赤下線部の文の冒頭の臣智は、韓の国でも比較的大きな国の首長の称号(以下号)であるとされています。 韓伝の馬韓の条と辰韓弁辰の条にはそれぞれの首長の号に関する記述があります。

  馬韓条
  各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借
  拙訳:それぞれ首長が居て、大きなものは自ら名を臣智と為し、それに次ぐものは邑借と為す。

  辰韓弁辰条
  各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借
  拙訳:それぞれ首長が居て、大きなものの名は臣智、その次に險側が有り、次に樊濊が有り、次に殺奚が有り、次に邑借が有る。

最も素直な読み方をすれば、拙訳として挙げたように、臣智には長い長い別の号があったと考えることになります。 これは長い間三世紀の韓族に関して、重要な情報が書かれているのではないかと疑われてきた文ですが、何が書かれているのか未だに誰も解明していません。 この中には臣雲安邪拘邪などの韓の国名の一覧に見える表記がみえます。 この長い長い別号には、それら殆ど名前だけしかわからない国々の、関係が秘められているのかもしれません。 それら三世紀の朝鮮半島南部の小国は、倭人伝に見える多くの小国と何かの関係があるかもしれません。 直接韓の歴史に関心がなくとも、三世紀の倭国、人気の邪馬台国に関心のある人にとっては、大いに気になるところです。

この文に関する私の興味は、だいたい下記の二点にまとめられます。

  1.此の文(赤線部の文)はいったい何に関して書かれたものだろうか。韓全体か辰王が居て辰韓を治めたという月支國に関するものか。
  2.この文中に現れる濆臣は、国名の一覧に含まれる臣濆沽國の事なのか。

1番目の疑問点に関しては、日本の歴史学者武田幸男氏の朝鮮史などを見ると、この文は月支國臣智に関するものとしています。 同書によるとこの号の中に見える臣雲は、馬韓の国名一覧に見える、朝鮮半島西南部と想像される臣雲新國であるとして、朝鮮半島東南部と想像される安邪國拘邪國から、朝鮮半島をぐるりと回って、一般に京畿道南部と想像されている月支國までの通商ルートの存在した根拠としています。 もしそうなら辰王の居た月支國は、韓全体の盟主的存在という事になります。 三国志をもとに後の五世紀の劉宋時代に書かれた後漢書では、辰王を三韓の王としています。 しかし上に挙げた文は、韓伝の中でも馬韓の国名の一覧と、韓全体の歴史に関して書かれた部分の中間にあって、この文がどちらに付いて書かれたかはっきりしないのです。 確かに韓の国名が幾つか現れていますが、もしもこの文が韓全体に付いて書かれたものとすると、この臣智についての長い長い号は、実はいくつかの国々の臣智の別号を合わせたものであると理解可能です。 つまり臣雲新國の遣支報安邪國の踧支拘邪國の秦支廉という具合です。

ここで2番目の疑問点が登場します。 間に挟まった濆臣離兒不例について、臣濆離兒不例の誤写ないし誤刻とし、韓伝の国名一覧に見える臣濆沽國の離兒不例とする説があるのです。 この説は韓国の歴史学者李丙燾氏が提唱し、古くから有力な説とされてきました。 ただこれに関しては、そもそも濆臣になっているものを、わざわざひっくり返してまで国名として読む理由が無く、様々な異論があります。 日本の歴史学者末松保和氏の説では濆臣をひっくり返したりせず、安邪國の号を踧支濆とし、臣離國の兒不例とするものなどです。 この説では遣支報踧支濆兒不例秦支廉と、号が揃ってくるのですが、問題は韓の国名の一覧には臣離國などと言う国は無いことです。 また拙訳では優呼を号の一部としていますが、これをどうするのかも問題です。 優呼を号から外して、優れた呼び名とする説もあります。

さて上で挙げた二つの疑問点に関しては、韓国の歴史学者の尹龍九氏は國史館論叢 第85輯 三韓の對中交涉とその性格と言う論文の中で、この一文が韓全体に関するものである可能性を否定できないとし、臣濆の倒置に関しても疑問を呈しています。 少なくともそれを前提とした歴史議論には否定的です。 本当にこの文は韓全体に対するものでしょうか、それとも月支國に対するものなのでしょうか。 濆臣離兒不例は本当に臣濆離兒不例の誤りなのでしょうか。

なぜ歸義侯なのか

この文が何に付いて書かれたものか、この文と後に出て来る韓全体の歴史に関する記述の間にある、官名に関する記述が、それを検討する材料になると思います。 ここに実は予想外なことが書いてあるのです。 書いてある官名は魏率善邑君歸義侯中郎將都尉伯長の順になっています。 しかし魏率善邑君は銅印レベル、歸義侯は金印レベルの官になります。 それ以降は記述順と官のレベルは一致しています。 なぜ魏率善邑君が最初に来ているかですが、これは魏の時代の記録であるからではないでしょうか。 韓伝には下記の様な記録があります。

  諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。
  拙訳:諸韓の国の臣智邑君の印綬を加賜し、それに次ぐものを邑長とした。

韓の大国の首長である臣智には邑君を与え、それ以下には邑長を与えたと言うのです。 しかし問題の官名記述には邑長は見えません。 つまりこの官名は、韓全体に関する記述ではなく、臣智のいる、ある大国に関する記述であることになります。 そうすると此処の記述は、やはり月支國に関するものであると思われます。 この官名記述が月支國に関するものであるならば、その前にある謎の一文も月支國に関するものだということになります。

それにしても魏の与えた魏率善邑君を上回る、歸義侯中郎將は一体誰が与えたものでしょうか。 魏はそれを継承しなかった事になります。 魏の時代の前の中国の王朝である、後漢王朝に付いて書かれた後漢書には下記の記録があります。

  建武二十年、韓人廉斯人蘇馬諟等詣樂浪貢獻。光武封蘇馬諟為漢廉斯邑君,使屬樂浪郡,四時朝謁。
  拙訳:建武二十年(44年)に韓人の廉斯の人蘇馬諟らが、樂浪に詣て貢物を献上した。光武帝は蘇馬諟を廉斯邑君として封じ、樂浪郡に所属させ、四季をもって朝謁させた。

後漢王朝もまた、韓の国には邑君しか与えていないようなのです。 魏は後漢の処置を継承していると言えます。 そうするとこれから言えることは、邑君を上回る歸義侯中郎將を与えたのは、中央の王朝ではないと言うことです。 恐らく遼東に割拠した、公孫氏政権ではないでしょうか。 この文に対応する節略文が、三国志より早く魏の時代の末年頃に著されたと思われる歴史書である、魏略の引用文にあることから、この文の原史料は魏略であると思われます。 魏に滅ぼされた公孫氏政権の与えた官が一応記録されているのは、魏略のこの部分の原史料が地方文献であったことが原因だろうと思います。 この点は私の論稿倭人伝の到と至を御参照下さい。

号を文字化したのは誰か

謎の一文が月支國のものであるであるとすると、含まれる長い長い号は月支國臣智に対するものであるということになります。 優呼を号に含めず下記のように区切って、韓のそれぞれの国に関する複数の号があったとする説には既に触れました。

  臣雲遣支報
  安邪踧支濆
  臣離兒不例
  拘邪秦支廉

この号に付いて考えるとき、考えておくべき重要な点があります。 この号には韓伝の国名一覧にある国名が現れるわけですが、もしもこの号が韓語によって発音されたものを、 漢人が聞き取り文字化したとするなら、漢人は号の中の国名を聞き取り、国名一覧の国名の文字を割り当てたことになります。 普通は同じ発音を聞いても音写する人物によって、割り当てる漢字は変わってくるものだと思われます。 もちろん可能性としては国名一覧が成立する前に、一部の国名は文字化されていた事は考えられるでしょう。 しかし漢人がこの号の意味を理解したのでなければ、発音された長い号の中で国名を聞き取って、既存の国名の漢字を割り当てることは難しかったでしょう。

この号は韓人が文字化したものではないでしょうか。 韓伝の国名一覧の中にも、大石索國小石索國大小の様に、単純に音写とは思えないものがあり、韓伝の国名一覧の文字の一定の割合が、音写によらない可能性があります。 そのような漢語を含んだ国名は、意味を知らなければそのような表記をできませんから、そもそも韓人が文字化した可能性があります。 韓人への漢字の浸透度ですが、既に紀元前に漢の四郡が置かれ、その中でも真番郡は茂陵書と言う書物の記述から見て、朝鮮半島南部に至るものであった可能性が指摘されています。 実際朝鮮半島東南岸の茶戸里遺跡では、紀元前に遡る筆の出土があり、半島への漢字文化の浸透はかなり進んでいたと考えられます。 つまり韓伝の国名一覧の国名は、少なくとも一部は韓人が文字化し漢人に伝えたもので、この号も文字化したのは、韓人であった可能性を否定できないと思うのです。

日本語学者の森博達氏は日本の古代1 倭人の登場/第5章 倭人伝の地名と人名の中で、三世紀の倭人語と韓語を比較する際に、韓の首長号である臣智邑借などを、韓語の音写に含めませんでした。 その理由は、文中に言語の異なるとされる、馬韓、辰韓、弁辰に対して、これら首長名が共通しているからです。 実際韓伝には、大国の首長は自ら名を臣智と為す、と書かれています。 これは臣智が中国の官でない以上、通訳が中国の臣智と言う官ですよと伝えたとは考えられず、文字によって示したということではないかと思います。 馬韓の長帥臣智は智慧のある臣、邑借は邑の正式な支配者でなく、預かっている意味でしょうか。 また辰韓の渠帥、險側樊濊殺奚、なども漢語として意味が通りそうなものがあります。 例えば樊濊は籠の意味があり、を捕らえる様な意味でしょうか。 險側殺奚なども剣呑な印象がありますが、渠帥の号であればありそうに思います。 私達は中国史書を読む場合、無条件にそこに書かれた文字は、漢人によって選択されたものだと考えてしまいがちですが、三世紀朝鮮半島を考える場合に、上にあげたさまざまな点から、もっと慎重に取り扱うべきなのではないでしょうか。

この号は韓語の詩か

一行目、ニ行目、四行目が、韓伝の国名一覧に見える国名に続いて「〇支〇」の形になっています。 これを有力な説では臣雲新國安邪國拘邪國に関する号と見ます。 しかしすでに述べたように、文脈からするとこれらの号は全て、月支國臣智に関するものと考えられます。 そうすると月支國臣智は、一人で五つの号を持っていたことになります。 本当にそのように多くの号を持っていたのでしょうか。 元の文を見る限り、一つの号として扱っているようにも見えます。

韓国語のサイトでは、これを長い号であるとして、詩になっていると言っているところがあります。 どなたか専門家がそのような発言をしているのかもしれません。 しかしもしこれが韓人の書いた詩であるとしたら、これはこの号を理解するにあたって、大変に大きなポイントになりえます。

これは韓語の詩を万葉仮名の様に、漢字の音であらわしたものでしょうか。 ここのサイトに古代朝鮮語に関する解説があり、新羅時代の『処容歌』 という郷歌と呼ばれる詩に関しての解説があります。 以下引用です。

東京明期月良 夜入伊遊行如可(東京の明るき月に 夜更けまで遊びて)


東京 ―― 地名なので、おそらく「東京」をそのまま朝鮮語読みしたと思われる。
明期(明るき) ―― 「b@rg-yi パグィ」か?「明」は形容詞「b@rg- (明るい)」と読んだか? ただし「b@rg-」という形は中期朝鮮語の形なので、古代朝鮮語は音が少し異なっていたかもしれない。あるいは「b@rg-」とは全然別の単語だったかも知れないが、「明」の部分は意味を表した部分であり音を表した部分でないため、どう読んだか全く分からない。2字めの「期」はおそらくこの漢字をそのまま音読みしたと思われる。この漢字を中期朝鮮語では「gyi グィ」と読んだので、とりあえずそう読んでおく。おそらく、「b@rg-」の末音「g」と語尾の「yi」が組み合わさった「gyi」を表記したものであろう。 ところで、この語尾と思われる「yi」が何者なのか、はっきりしない。意味的にはここは連体形「明るき」になるのだが、朝鮮語の連体形は「-n」である。ところが、ここは「-n」と読まれた形跡が見当たらない。古代朝鮮語の連体形は「-yi」だったのだろうか? だいいち、ここは本当に「gyi」と言ったのかどうかも分からない。あるいは母音調和のことを考えれば「g@i ガイ」と読んだ可能性もある。不明である。
月良(月に) ―― 「d@r-a タラ」か? 「月」は中期朝鮮語で「d@r タ」だが、この「月」の部分は表意部分なので、上の「明」同様に、本当に「d@r」と読んだかは定かでない。「良」は「…に」を表す部分と考えられる。吏読(りとう)という表記法では、「…に」という意味で「良中」という表記が用いられ、「a-@i アアイ」と読まれる。これに従って「a ア」と読んでおくが、吏読の読みと郷歌の読みが同一だった確証はない。
(夜) ―― 「bam パ」か? 表意部分なので、どう読んだか不明。
入伊(ふけまで) ―― 「dyr-i トゥリ」か? 「入る」は中期朝鮮語で「dyr- トゥ」だが、ここは表意部分なので、どう呼んだか不明。「夜入る」という表現は現代語では「夜がふける」という意味だが、古代語でも同じような表現方法だったようだ。「伊」はこの漢字を「i イ」とそのまま朝鮮語読みした部分と考えられる。「i」は副詞を作る語尾であろう。
遊行如可(遊びて) ―― 「no-ni-daga ノニダガ」か?「no-ni-」は現代語では「no-nir-」というが、中期朝鮮語では「no-ni- (遊び歩く)」といった。この単語は「nor- (遊ぶ)」と「ni- (行く)」の合成語である。「nor-」は現代語にもあるが「ni-」は現代語にない単語である。「遊行」という表記から、おそらくこの「no-ni-」であろうと推測される。ただし、中期語は「nor-」のr音が脱落しているが、古代語は脱落していなかったかも知れない。そうならば「nor-ni-daga ノニダガ」と読んだかもしれない。「如可」は吏読で「daga ダガ」と読むことになっている。「…している途中で」という意味の語尾である。「可」の部分はこの漢字を「ga」とそのまま朝鮮語読みした部分であるが、「如」は漢字の朝鮮語読みでない。

ここで引用終わりです。

日本語に対して、一字一音の仮名が発達したのは、古代中国語の発音が、声母(子音)+介母音+主母音+韻尾(子音/半母音)の複雑な形式を持つ一方、日本語の発音が子音+母音の単純な形式になっている為です。 古代中国語の子音は、日本語の子音よりも多様で、主母音は基本的にニ種類しかないとは言うものの、介母音との組み合わせで、ほぼ日本語の音節をカバーできます。 ところが朝鮮語の構造は、初声(子音)+ 中声(母音)+ 終声(子音/半母音)の構造で、終声には中国語の韻尾にない音があるなど、漢字による一音一字が難しいのです。 この結果韓語の詩を漢字表記した場合、上記のように多くが韓訓を利用し、文法要素のみ漢字音を利用する形にならざるをえなかったと思われます。 日本の万葉集が、固有名詞や動詞に音仮名を多く使用するのとは状況が全く異なってきます。 下記は中公文庫/日本の古代14/4古代朝鮮の言語と文字文化に藤本幸夫氏が取り上げられた祭亡妹歌と言う郷歌の例です。


  生死路隠 此矣有阿米次肹伊遣          (生死の道は ここにありて恐ろしく)
  吾隠去内如辝叱都 毛如伝遺去内尼叱古  (吾は行くなる言葉も 言い切らずに行くのか)
  於内秋察早隠風未 此矣彼矣浮良落尸葉如(何れの秋の早い風に ここかしこに落ちる葉のごとく)
  一等隠枝良出古 去奴隠処毛冬乎丁      (ひとつの枝に出て 行く所を知らざるとても)
  阿也弥陁刹良逢乎吾 道修良待是古如    (ああ弥陀の寺に逢う吾は 道を修めて待たん)

万葉集でも、訓仮名の使用例は大変多いとは言うものの、郷歌は万葉集よりずっと訓読部分が多いのは確かです。 下記は万葉集の一例です。

  烏梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 和我覇能曽能尓 阿利己世奴加毛
  うめのはな いまさけるごと ちりすぎず わがへのそのに ありこせぬかも

実際上に挙げた号の分割を見ていると、五文字で分割した場合に形式が揃っています。 韓人の発音を漢字を用いて表現したのであれば、こんなにきれいには行かないのではないかと思うのです。 もしかしたら、この号は韓人が漢詩をまねて書いたものではないでしょうか。

ある種の漢詩か

もしもこれが漢詩なら、偶数句の句末は押韻します。 押韻とは詩の句末に同じ韻の文字を使用することです。 漢字の音は頭の子音とそれ以降に分て呼ばれ、頭の子音を声母、それ以降の発音部分を韻と言います。 押韻は漢字の発音に関係することですから、押韻に付いて説明する前に、古代における漢字の発音に関して説明しておく必要があります。

漢字の発音は、時代と共に変わってきたと考えられています。 最も古いまとまった古代の漢字の発音体系に付いての史料は、北宋時代の1008年に編纂された、広韻と呼ばれる発音の辞書で、現存するものは南宋時代(1127年から1279年)の刊本です。 この辞書はそれ以前の隋(581年から618年)の時代に完成された、切韻をもとに増補改訂されたものです。 唐(618年から907年)の時代には近体詩と呼ばれる、厳密な詩の形式が生まれますが、近体詩では偶数句末は広韻で同じ韻を踏みます。 このように句末を揃えるのを一般には脚韻と呼びます。 漢詩はニ句が対になっているので、押韻は脚韻の一種です。 詩の韻としては他に、頭を揃える頭韻、中間で揃える腰韻などがありますが、漢詩では脚韻が一般的です。

中国には古体詩と言って唐時代より古い詩も伝わっています。 その代表が孔子(紀元前552年から紀元前479年)が編纂したと言う詩経です。 詩経には概ね紀元前五世紀以前の詩が集められていますが、広韻では詩経の詩の押韻は理解できません。 そのため多くの学者が広韻の分類を参考にしながら、詩経の押韻関係をもとに、上古音と言う漢字音の分類を推定しました。 この節では詩経の様な古い詩を考察する場合には、中国の言語学者の王力の説による、上古音の韻の分類である上古韻部を採用し、それ以降の詩の考察には広韻の韻類を使用します。

さて問題の号ですが、五言切れにした偶数句末は、で陽類と言って子音終わりではありますが、それぞれnm終わりで押韻しているとは言えません。 はたして漢詩と言えるのでしょうか。 この号は近体詩完成前の詩ですから、比較するとすれば古体詩が妥当でしょう。

先ず古体詩の典型的な例を挙げます。 下記は詩経に載る桃夭と言う詩の一節です。 この詩は同じような内容を三回繰り返すので、最初の部分だけを見てみます。

  桃夭:花嫁の歌(詩経国風:周南)

  桃之夭夭    (桃の夭夭たる)
  宵之宵宵
  灼灼其華    (灼灼たり其の華)
  藥藥之
  之子于歸    (この子ここに歸がば)
  之之魚微
  宜其室家    (其の室家に宜しからん)
  歌之質

詩文の下に青字で示したのは上古韻部です。 各句が四字で揃っている、このような形式を四言詩と言います。 2句と4句の末の、赤下線で示した部分が脚韻を踏んでいて押韻が確認できます。

次に少々変わった形式の例を挙げます。 下記は詩経の木瓜の一節です。 桃夭同様三回繰り返す内の、最初の部分だけを見てみます。

  木瓜:贈答の歌(詩経国風:衛風)

  投我以木瓜  (我に投ずるに木瓜を以てす)
  侯歌屋魚
  報之以瓊玉  (之に報ゆるに瓊玉を以てす)
  幽之耕屋
  匪報也      (報ゆるに匪ざる也)
  微幽
  永以為好也  (永く以て好みを為さんとする也)
  陽之幽歌

この詩の偶数句は押韻しているようには見えません。 その代わり、各句の句頭から三言目の、赤下線で示した以以也為が類似した韻部に成っている様に見えます。 またこれらの文字は全て、広韻では同じ声母です。 つまり頭子音がそろっています。 句の途中である種の韻を含んでいるように思えます。 この詩は腰韻を構成している様に見えます。 この詩の場合各句の言数も揃っていません。 このような形式を雑言と言います。 詩経の詩は殆どが四言で揃え、偶数句末で押韻しますから、この詩は例外中の例外です。 しかしこのような例もあるという事は押さえておくべきです。 古体詩の場合形式は自由で、全体としてリズムがあれば韻文として成立するようです。 そもそも詩の形式は、自然なリズムを形式として固定したものです。

はたして謎の一文に含まれる号は韻文かどうか、確かめるためにこの号の漢字の平仄を調べてみました。 平仄とは近体詩に置いて重視された文字の種類で、平声と仄声のニ種類があり、アクセントもしくは発音の長さに特徴があったとされます。 平仄の基になるのは四声と呼ばれる、広韻における漢字の発音型です。 四声とは平声、上声、去声、入声の四種類の発音型の総称で、このような発音の種類を声調と言います。 このうち上声、去声、入声が仄声と呼ばれるものです。 四声の分類は6世紀の南朝梁の時代に始まったとされ、三国時代にはまだその存在は知られていませんでした。 しかし詩の形式は本来自然のリズムを基にしたものですから、形式以前にそのリズムは存在したはずです。

  号の構成
  臣雲遣支報
  眞文
  安邪踧支濆
  寒麻支䰟
  臣離兒不例
  眞支支尤
  拘邪秦支廉
  虞麻眞支鹽

ここで詩文の下につけた青字は広韻による平声、赤字は仄声の韻です。 (注意:別読みとして離不には仄声の読みがあります。 は古い読みは平声と思われること、はここでは一般的な読みを取りました。) 奇数句の末に仄声の文字が来ているのが分かります。 近体詩の五言絶句の平仄は複雑なものですが、奇数句末に仄声の文字が来るのは同様です。 参考までに下記に五言絶句の平仄と押韻をまとめておきます。 赤下線が押韻位置です。

五言絶句平起式
  起句平平平仄仄
  承句仄仄仄
  転句仄仄平平
  結句平平仄仄

五言絶句仄起式
  起句仄仄平平
  承句平平仄仄
  転句平平平仄仄
  結句仄仄仄

三世紀にはどうだったのでしょうか。 一例として曹操の詩の一節を引用します。

  却東西門行

  鴻雁出塞北  (鴻雁塞北に出でて)
  東諫術德德
  乃在無人郷  (乃ち無人の郷に在り)
  海海虞眞
  挙翅萬餘里  (翅を挙ぐること萬餘里)
  腫寘願
  行止自成行  (行止自ら行を成す)
  庚止至淸

ここでは奇数句末は仄声の韻になっており、偶数句末の赤下線で示した郷行が平声で押韻している事がわかります。(韻は陽と唐で異なりますが、両者とも末尾ng終わりの音です。この詩は近体詩以前の詩ですので、押韻は厳密ではありません。) おそらく奇数句末の仄声で偶数句への継続を意識し、偶数句末の平声の押韻に繋げるのでしょう。 紹介した部分はほんの一部ですが、全編を通してこの傾向が続きます。 平仄がその形式を完成する前でも、ある種の韻を含んでいたことが分かります。 私が韓伝の謎の一文に含まれる号が漢詩ではないかと考えたのも、実は奇数句末が去声という特徴的な声調であったことがきっかけでした。

なぜ意味不明なのか

さてもし漢詩であるとすると、各句は互いに韻を構成しているのですから、それらを切り離すことはできなくなり、謎の一文に含まれる号は一つの号であることになります。 そして漢詩としてみた場合、この形式は唐代の五言絶句と同じ、五言四行の詩であることになります。 内容について見ると、1、2、4句は国名で始まり、良く似た形式をしており、3句のみが異なる形式になっていることに気づきます。 四行詩である五言絶句では、四行を起承転結で表現します。 1句で起し、2句で承け、3句で動きを作り、4句で締める形式です。 この号はおそらく3句がさびに当たるのではないでしょうか。 起承転結は唐代の五言絶句の形式で、魏代にはそのような詩作法が確立されていませんが、発想としては自然なものではないでしょうか。

しかし漢詩とみなすに際しては、大きな問題があります。 漢詩であればそれは漢文として読めるはずです。 ところがこの謎の一文に含まれる号は、今迄に意味を取れたことがないのです。 幾多の先人がこの文を評価したことを考えると、この文は意味が取れないと考えるのが正しいでしょう。 なぜ漢文として意味が取れないのでしょうか。

私は下記のような複合要因があるのではないかと思います。

  1.何らかの詩文を号として唱えるため、極端な省略をおこなった。
  2.韓人が書いたため、文法や語法語義において誤用がある。
  3.詩的な倒叙や、比喩表現が使われている。

1.については、これが詩であれば、口誦を前提にしていたと考えられます。 事あるごとに口誦されたとすると、あまり長いと支障があったと思われ、無理な省略が成されて、意味が不明になった可能性があります。

2.については、漢字は浸透していたとしても、中国語に関しては未だに心許無い状況だったと思われます。 韓伝には次のような記述もあります。

  吏譯轉有異同、臣智激韓忿
  拙訳:官吏の訳が転じて異同が有り、臣智は激昂し韓は怒った。

ここで新羅時代に書かれた、漢文様の文について紹介しておきたいと思います。 壬申誓記と言って、石に刻まれた誓いの文です。 下記は壬申誓記の冒頭の部分です。(出典は祭亡妹歌に同じ)

  壬申年六月十六日 二人并誓記 天前誓(壬申年六月十六日に 二人が共に誓って記す 天の前に誓う)

漢字を韓語の語順に並べたことがわかります。 もしも漢詩を真似ながら、その語順が正しくなければ、漢文としては読めない可能性があります。

3.は普通でも詩の解釈は、難しい要素があります。 韻を重んじたり強調のために、語順が入れ替えられている可能性があります。 詩文ですから言葉はそのままの意味ではなく、比喩によって文意をなしている可能性があるのです。

謎の一文を読む

謎の一文は文意が取れないとされてきましたが、そこに含まれる号の1句目は、実は漢文として読み始めることができます。

  臣雲遣支報


臣雲わしてじる。」という意味でしょうか。 その場合じる対象が2句目の安邪じた内容が踧支濆となります。 踧踖で恭順な様子を表すことになりますが、「わしてに恭順であることをじる。」では意味が通りません。 そもそもはこの解釈では人物らしいですが、全文に三度も出てきて何を行っているのでしょうか。 またこの号は月支國臣智の号だということですが、とどのような関係にあるのでしょうか。

臣雲新國臣雲に省略されています。 月支國の省略形ではないでしょうか。 しかしそうなると、月支國が遣わされたと言う変な文章になってしまいます。

この文章は遣わされた人物など、重要な語を省略することで意味不明になっているのではないでしょうか。 そこで下記のように文字を補ってみます。

  臣雲新國使至月報安邪踖月

  臣雲新國使者をわして、安邪に恭順であることをじる。

これで一応文意は通りました。 しかし2句目最後のの処置に困ります。 これは水が吹き出す意味にしかとれませんが、明らかに場違いです。 そこでこれを3句に送り、昔からある濆臣臣濆に引っくり返す説を採用してみましょうか。 しかしこれは尹龍九氏の指摘するとおり、そのような順になっている刊本は一つもなく、あまりにも節操の無いやり方に思えます。 またそもそも本説は、この号が五言四行にきれいにまとまることを論拠に、これを漢詩ではないかと見なしてきたわけですから、論拠を根底から覆すことになってしまいます。 はたして2句目最後のを3句目の冒頭に繰り入れた場合、もはや漢詩と見なすことは不可能なのでしょうか。

はたして謎の一文に含まれる号は韻を含んだ一つの号なのか、確認のためもう一度構成を見てみましょう。

  号の構成(その2)
  臣雲遣支報
  眞文
  安邪踧支
  寒麻
  濆臣離兒不例
  䰟眞
  拘邪秦支廉
  虞麻眞

これを見ると、(注意:ここでは離の読みとして、去るの意味の去声の読みを採用した。)赤下線で示したように、第四言に同じ韻が続く事がわかります。 これは「木瓜:贈答の歌」で見た腰韻になっています。 五言のリズムは崩れましたが、「木瓜」同様雑言形式ではあるものの韻文の可能性は残ります。 さらに奇数句末だけではなく、4句を除く各句の三言目が、仄声になっています。 韻文であるという前提は捨てなくてすみそうです。

問題は3句の意味です。 濆臣臣濆の倒置であることをどのように説明したら良いでしょうか。 馬韓には、臣濆沽國臣釁國臣蘇塗國臣雲新國などので始まる国々があり、おそらくこの語頭のは単語として抽出できると思われます。 つまり臣濆沽濆沽であろうと思われます。 しかし二つの単語に分解したとしても、それを逆転させるには何かの理由が必要です。 京の都を都の京、山形を形山、東京を京東にするようなものです。 そこで以下を見てみます。 最後の不例は普通ではないの意味になります。 もしも、臣不例離兒であれば、「臣は普通は兒を離す事がない。」と言う程の意味になるでしょう。 不例が倒置され句末に置かれたのは、第四言にを持って来て、腰韻を通したいためと、句末に仄声の文字を持っていきたいためと思われます。 詩文であるからこその倒置でしょう。 ではなぜは逆転されたのでしょうか。

下記は漢の時代(前漢から後漢にかけての総称)の民間歌謡とされる、楽府古辞の江南です。

  江南可採蓮  (江南にては蓮を取るべし)
  蓮葉何田田  (蓮の葉は何ゆえかくも田田たる)
  魚戲蓮葉閒  (魚は蓮の葉の閒に戲れる)
  魚戲蓮葉東  (魚は蓮の葉の北に戲れる)
  魚戲蓮葉西  (魚は蓮の葉の西に戲れる)
  魚戲蓮葉南  (魚は蓮の葉の南に戲れる)
  魚戲蓮葉北  (魚は蓮の葉の北に戲れる)

この詩ではが発音の似たに、が発音の似たにかけられています。 しい人の回りで戯れている様を歌っているとも言われます。 件の号の3句目も、発音の似た単語がかけられているのではないでしょうか。 おそらくは頭子音のみ異なるがかけられていて、親不例離兒で「親と兒が離れることは普通はない」と言っているのではないでしょうか。 臣離兒の三言を続けないと、にかけられているのが分からなくなります。 不例濆臣を倒置したのはそのためでしょう。 ではは何にかかっているのでしょうか。 これは詩の中で、四言目にそろっている、同じく子音のみ異なるにかかっているのでしょう。 を四言目に揃えた効果がここで現れています。 この3句は意訳すれば次のような意味ではないでしょうか。

  臣濆沽國は、親がすことが普通は無いように、月支國を去ることは無い。

この解釈は一見して違和感を感じるものになっています。 この号は月支國臣智の優呼です。 恐らく何かの折に口誦されたものでしょう。 にもかかわらず、臣濆沽國を親に例えるということは、月支國臣濆沽國の属国のようではありませんか。 この違和感は臣濆沽國が、韓伝中で国名一覧の中に一度でてくるだけの、影の薄い存在であることにあります。

実は韓伝の中には、もう一箇所臣濆沽國が出てきている可能性のある場所があります。 下記の文の赤下線の部分です。

  部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。
  拙訳:部従事の呉林は楽浪が本来は韓の國を統属していたので、辰韓の八国を分割して楽浪の所属としたところ、官吏の訳が転じて異同が有り、臣智が激して韓人が忿り、帯方郡の崎離営を攻めた。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂は兵を興してこれを伐ち、弓遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅ぼした。

この部分は現存最古の三国志刊本である、南宋の紹興年間(1131年から1162年)に作成されたという紹興本では臣幘沾韓忿、また史書としての成立年代が紹興31年(1161年)と近い通志には臣濆沽韓忿となっています。 このため尹龍九氏は前述の國史館論叢 第85輯 三韓の對中交涉とその性格の中で、この部分は臣濆沽韓忿が正しいとされています。 するとこの文章は下記の様になります。

  拙訳:部従事の呉林は楽浪が本来は韓の國を統属していたので、辰韓の八国を分割して楽浪の所属としたところ、官吏の訳が転じて異同が有り、臣濆沽韓が忿り、帯方郡の崎離営を攻めた。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂は兵を興してこれを伐ち、弓遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅ぼした。

臣濆沽韓は尹龍九氏によれば、三国志東夷伝に見える小水、不耐、狗邪同様民族を示していると考えられるそうです。 そうすると臣濆沽韓臣濆沽國のことで、この国は単独で帶方郡の長である太守の弓遵、樂浪の長である太守の劉茂に戦いを挑み、弓遵を戦死させるような存在であったことになります。 このように見れば、先に述べた違和感も解消するのではないでしょうか。

ここで部従事の呉林の言っている事も大変興味深いものです。 楽浪が本来は韓の國を統属していたとは、後漢の時代の廉斯邑のことを言っているのでしょうが、魏が月支國歸義侯より格下の、後漢時代の廉斯邑に与えたのと同じ邑君しか与えなかった事と整合的です。 魏の方針は一貫しているようです。

さて3句までの内容を振り返ると、1句2句の内容は臣雲新國安邪國月支國の盟約に際して、その仲介を行ったような内容になります。 3句によれば盟約成立の主役が臣濆沽國であるようです。

ここまでの推論が正しければ、韓伝のこの号は韓人が漢詩を真似て作った、韓の諸国の盟約に関する叙事詩的な内容で、それを号としてまとめたものと言うことになります。 韓人が省略を行う際に、漢文として構造的に省略してはいけないような文字を省略し、そこに詩的な比喩や倒叙が加わったことで、漢文として本来の意味が不明になったのでしょう。 これは古体詩の一種でしょうから、号として口誦されたものでしょう。 元の文にある優呼の意味するところも、これが口誦詩であったことを言っている可能性があります。 しかし漢人はこの号をどのように知ったのでしょうか。 口誦を音写したのでは、このように文字化される事はなかったと思われますので、文字化されたものを見たのでしょう。 想像ですが、月支國臣智が接見を行うような部屋の壁などに書いてあったのではないでしょうか。 漢字も漢語も理解しない大多数の韓人にとって、それは呪術的な模様の様に見えたかもしれません。

結句の意味

最後に4句目、結句の意味を考えてみます。 この句には他の句に無い特徴があります。 ここまでの三句は冒頭二文字が国名を表し、三言目に遣離踧のような述語が来ていました。 ところが4句目は三言目がになっていて読めそうに有りません。 またここまでの三句は、三言目が仄声になっていましたが、4句目は平声になっています。 私はこの4句目の三言目は誤字ではないかと考えるのです。 現在存在する刊本は全てですから、この間違いは非常に古い時代に起こったものであると思われます。

私はもともと韓人の書いた文字が、非常に紛らわしい形をしており、漢人がそれを間違った可能性があると思っています。 漢人にとって書かれた文言は、まったく意味不明であったと思われますから、何が正しいのか判断できなかったと思います。

もしも良く似た形の文字で候補を探すとすれば、またはでしょうか。 両方共術語になりえると同時に仄声です。 ここでを採用して下記のように文字を補ってみます。

  狗邪
  狗邪
じてと為す。

を採用した場合は下記の様になります。

  狗邪
  狗邪
奏上する。

ここでの意味が問題になります。 狗邪國月支國を奉じて、いったい何をしようとしたのでしょうか。 または何を奏上しようとしたのでしょうか。 と言う文字で思い起こすのが廉斯邑です。 すでに見たように後漢書には建武二十年(44年)に、光武帝が韓人の廉斯の人蘇馬諟が楽浪郡に朝貢してきたので、廉斯邑君の地位を与えたとあります。 魏略によれば、王莽の新地皇年間(20年から23年)に辰韓の廉斯邑が楽浪郡に投降し、後漢代には至安帝延光四年(125年)まで、後漢の保護を受けていたとあり、後漢代に於ける韓の盟主的存在と思われます。 しかし三国志には廉斯邑の名は見えません。 魏略の記述によれば、楽浪郡の兵が船で行っており、廉斯邑は辰韓と言うことですから、朝鮮半島東南部の海に近いところにあったと思われます。 もしもこの号の読みが正しく、かつ廉斯邑を意味するならば、洛東江河口の金海周辺と想定される狗邪國廉斯邑には、何らかの関係があった可能性があります。 狗邪國廉斯邑に関する何らかの権利を、月支國に与えたのではないでしょうか。 もしもを取るとすれば、一例として下記のように文字を補いうると思います。

  狗邪國臣智為斯右渠帥
  狗邪國の臣智を奉じて、廉斯の長と為した。

を取るとすれば、号の後ろにつく之号優呼の内に含めて、下記のような補足もあり得るのではないでしょうか。

  狗邪之號
  狗邪國に之號を奏上した。

ここで謎の一文に関する、私の考えをまとめておきたいと思います。

  原文:辰王治月支國。臣智或加優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。

号の構成(その3)秦を奉とした場合。
  臣雲遣支報    (臣雲新國は月支國に使者を遣わし伝えた)
  眞文
  安邪踧支      (安邪國は月支國に恭順であると)
  寒麻
  濆臣離兒不例  (臣濆沽國は親が兒を離す事がないように、月支國を去ることは無く)
  䰟眞
  拘邪奏支廉    (拘邪國は月支國を奉じて廉斯の長と為す)
  虞麻

  拙訳:辰王月支國に治し、その臣智は時に優呼として臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉の号を加える。


  号の構成(その4)秦を奏とした場合。
  臣雲遣支報    (臣雲新國は月支國に使者を遣わし伝えた)
  眞文
  安邪踧支      (安邪國は月支國に恭順であると)
  寒麻
  濆臣離兒不例  (臣濆沽國は親が兒を離す事がないように、月支國を去ることは無く)
  䰟眞
  拘邪奏支      (拘邪國は月支國に奏上する)
  虞麻
  廉之號        (廉斯の号を)
  鹽之

  拙訳:辰王月支國に治し、その臣智は時に優れて臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號と呼び加えられる。

二番目の構成は少々強引ですが、五行に区切ることで、偶数句押韻、奇数句仄声となっています。 両構成とも平仄も押韻も単調で、リズミカルというよりは、重厚な韻を求めた様な印象です。

漢詩はニ句が対になっているので、4句は3句に継続するものと考えられます。 つまり臣濆沽國月支國の後ろ盾になっていることが、狗邪國がこの盟約に参加した理由なのでしょう。 1句2句の意味するところが、臣雲新國安邪國月支國の盟約を仲介したと思えることを考えると、月支國を中心とする盟約は、1句3句の馬韓ので始まる国々が主導し、2句4句の安邪國狗邪國を巻き込むものだった可能性を感じさせます。 そしてその中でも臣濆沽國がこの盟約を成立させた中心だったのでしょう。

この盟約を実際に動かしたのがの付く国であることから、国名の頭のに付いて盟約との関係が疑われます。 つまり盟約において特定の地位を表すのが、の意味なのではないでしょうか。 するとこの月支國臣智の別称の中で、臣濆濆臣に逆転されていることも、実は韓人にとってはそれ程違和感の無いことだったのではないかと思われます。 日本書記の雄略即位前紀では、正式名として平群臣眞鳥と書かれる人名が、他の場所では眞鳥臣などと書かれている事と似た現象なのではないでしょうか。 詩文としての構成上の問題が直接の理由であるとはしても、日本語と韓語の語順には共通性があり、同じような感覚で逆転させている可能性があります。

古辞の語る辰王

後漢書には、辰王は三韓の王と言う扱いになっていますが、三国志では弁辰の注の付かない十二国の王という以上の解釈はできません。 一方この謎の一文の呼び名の中に出てくるのは、臣雲新國臣濆沽國そして月支國などの馬韓の国々と、狗邪國安邪國などの弁辰の国々です。 つまり盟約の中には辰王に属する十二国は含まれません。 辰王はこの盟約の中に、そこに属する十二国を取り込むために必須の存在だったのでしょう。 辰王自体は歴史的経緯のある月支國にずっと存在したものでしょう。 しかしこの三世紀の盟約に於ける辰王の実体は、臣濆沽國を中心とした馬韓の大国が、馬韓人から選出するものだったのではないでしょうか。 韓伝ではそれを辰王は代々馬韓人を用い、自ら立つことが出来無いと言っているのではないでしょうか。 月支國は単に辰王の治所であるがゆえに、名目的に盟約の中心にいたのでしょう。 辰王月支國臣智との関係ははっきりしませんが、馬韓人を用いると言う韓伝の文脈を見る限り、別人の様な気がします。 それでもその臣智の呼び名として、盟約成立の経緯が謳われているのは、臣濆沽國の力で名目上とはいえ韓の盟主となったことで、海陸に渡る通商路の焦点となり、形骸化していた辰王に従う十二国に対する影響力も、回復することができた為ではないかと思います。

韓伝によれば、十二国が馬韓人の辰王に属することになったのは、それらの人々が韓に来着した古い時代のことでした。 王莽の新の末年近い地皇年間(20年から23年)に、廉斯邑が投降したのをきっかけに、楽浪郡の兵が朝鮮半島東南部に到り、それ以降郡は廉斯邑を通じ影響力を行使するようになりました。 前漢の歴史を記した史書である漢書の地理志には、王莽の時代の楽浪郡が戸六萬二千八百一十二の人口を持っていたと書いてあります。 王莽政権の末期であっても、郡単独で武威を示せる事実があったのでしょう。 それ以降後漢王朝による影響力は、魏略によれば少なくとも125年までは継続しました。 韓伝には下記のような記述があります。

  國出鐵、韓濊倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。

  拙訳:国は鉄を産出し、韓濊倭は皆なこれより取っている。中国で銭を用いる様に諸々の市買には皆な鉄を用い、又た二郡にも供給している。

朝鮮半島東南部は鉄資源に恵まれ、韓のみならず朝鮮半島の日本海側に居た濊や、南方海上の倭がこれに依存していたため、ここを押えることは、これら諸族を郡に属させるためには重要な意味があったと思われます。 朝鮮半島東南部にいつ頃から鉄精錬の技術があったかはわかりませんが、鉄鉱石が交易品としても重要であったことは、紀元前の茶戸里遺跡の墳墓から、鉄鉱石が見つかることでも分かります。 また三世紀には、楽浪郡帯方郡はこの鉄資源の供給を受けていたことがわかります。 後漢の実力を背景とした廉斯邑が、韓の盟主的立場になることにより、辰王による伝統的な影響力は形骸化したと思われます。 しかし後漢末の混乱で、この統制は崩れます。

  桓、靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。

  拙訳:桓帝、靈帝之末、韓濊の勢いが盛んとなり、郡県は多くの民が韓の国に流れ込むのを、制することができなくなった。

代わってやってきた公孫氏時代には、すでに廉斯邑はなく、地方政権の公孫氏には後漢時代の秩序を完全には回復する力はなかったでしょう。 実際魏に引き続く晋の時代の歴史を記した晋書の地理志によれば、楽浪郡、帯方郡あわせてもその人口は八千六百戸、韓伝の馬韓の条には大國萬餘家とあり、その一ヵ国にも及びません。 臣濆沽國がこれに該当したとすると、その攻撃により帯方太守弓遵が戦死するような事態も起こりうることが分かります。 後漢書の郡国志によれば、後漢代の楽浪郡の戸数は戸六萬一千四百九十二ですから、おおよそ公孫氏支配下にあったと思われる、平州の人口戸一萬八千一百を持ってしても、後漢時代の楽浪郡一郡にも及ばなかったのです。

  建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡、遣公孫模、張敞等、收集遺民、興兵伐韓濊。舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。

  拙訳:建安中(196年から220年)、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模、張敞らを遣って遺民を収集させ、兵を興して韓濊を伐ち、舊民は少しづつ戻った。この後は倭韓は帯方に属すようになった。

韓濊を征伐したとありますが、軍事力だけで制圧することはできなかったと思われます。 実際兵を挙げて討ったのは韓濊、属したのは倭韓と差があります。 何らかの懐柔策で韓を制し、半島東南部の鉄資源を抑えることで、日本海側を北部からの鉄流通のある濊とは異り、半島東南部の鉄資源に対する依存度の高かった倭をも帰順せしめたのでしょう。 その懐柔方法は、韓に隣接し韓社会に詳しかったと思われる地域を帯方郡として分離し、そこを拠点により現実的に韓社会を統制することだったのではないでしょうか。

「なぜ歸義侯なのか」の節で述べたように、おそらく公孫氏は月支國歸義侯のような、韓に対しては破格な官位を与えて懐柔しています。 三世紀の鉄器生産中心地は慶州の隍城洞遺跡で、後の新羅にあたる韓伝の斯盧國の領域です。 この国には弁辰の注が付かないことから、辰王に属し古くからの権威を有していたと思われます。 公孫氏は辰王歸義侯の地位を与え、半島東南部に対しての影響力を確保しようとし、一方臣濆沽國辰王を中心に韓全体の盟約を成立させ、これに応えたのでしょう。 後漢王朝は楽浪郡に隣接する馬韓には官位を与えず、離れた半島東南偶にあったと思われる廉斯邑には邑君を与え、海を渡った倭国にはを認めています。 これは後漢王朝による分断支配とも言え、馬韓諸国はこれに不満を持っていたはずです。 公孫氏による懐柔策は、馬韓諸国にとって歓迎すべきものだったのでしょう。

再び代わった魏王朝が、238年以降月支國に対して邑君の地位しか与えない一方で、他の韓の大国に対しても邑君を与えたのは、公孫氏時代に作られたこの体制の否定を意味するのでしょう。 部従事の呉林の言を見てもわかるように、魏は後漢時代の秩序に戻そうとしていたと考えられます。 この秩序を実質的に成立させ、おそらく帯方郡と韓の交易の利権を独占していたであろう臣濆沽國は、内心穏やかではなかったでしょう。 既に景初年間(237年から239年)から、のちの正始年間(240年から249年)の魏韓の紛争の種は蒔かれていたと考えられるのです。

終わり
二郡遂滅韓 ー魏韓戦争の実態と北部馬韓の情勢ー へ続く

変更履歴

白いしゃくなげの随想




連絡先